第七章 ア ブ ラ ハ ム (豊かなる生命)


 『信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。』(ヘブル十一・十七〜十九)

 我らは信仰の大女傑の第一人者サラの肖像を学んだが、今それを去って、これを補充するところのアブラハムの第二の肖像を学ばんとしている。そしてこの二つの肖像の間(十三〜十六節)に金文字の記念碑のごときものの掲げられてあるを見る。それに、『これらの人はみな』、すなわちアブラハムとサラ、イサクとヤコブなどこの驚くべき家族の人々は皆、『信仰をいだいて死んだ』と録してある。彼らの信仰生涯は栄えある信仰の死をもってその冠とした。彼らは、神の彼らのために備えたもう勝れる国は自分のものであると信じつつ死んだ。さらにまた、彼らは神がいつまでもアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と称えられるを恥としたまわぬということをも信じつつ死んだのである。ああ、誰か、神がご自身の名と自分の名を永遠に結びつけるを喜びたもうということをいかに光栄なるかを知り得るであろうか。
 願わくは我らの墓石にもかかる語の銘刻されることもがな。そしてこれは我らにはあまりに高きに過ぐる大望であろうか。私はそうは思はぬ。否、私は万軍の主がウェスレーの神、ミュラーの神、ハドソン・テイラーの神と称えられることを恥としたまわぬことを疑わぬ。しかり、なお多くの人々に対しても神は彼らの神と称えられることを恥じたまわぬのである。
 さて、我らはこの記念碑を一瞥したままにして、進んで今一度この最大族長アブラハムの前に立って学びたいと思う。この地上において、ヘブル人のほか、その祖先に遡りてただ一人より出でたことを明らかになし得る民族はいない。しかもその大祖先によりて地の諸族はこれまでも祝され、今も祝されつつあり、後も祝さるべきことを思えば、彼の肖像がここに再び掲げられおるは決して不適当ではない。
 既に一度ならず注意したように、これらの肖像はすべて、一つの真理を例証するように一対ずつ排列してあるのである。かくアブラハムのこの肖像は、信仰の結実を例証するサラの像を補充するもので、『豊かなる生命』の秘訣を我らに示している。
 アブラハムがその子を犠牲にするというこの物語は、いわゆる現代思想の多くの人々の不快に感ずるところである。彼らは神、少なくとも新約の神がかかる命令をその僕に与えたもうとは信ぜられぬと考える。
 無論、本書はかかることの弁解のために書くものでもなく、また本書の読者の中にはこの驚くべき物語の真実と道徳に関して疑いを抱く人は極めて少ないと思う。されども今アブラハムをして我らの心に語らしめる前に、このことについて数言を費やすは必ずしも不適当ではなかろう。言うまでもなく、アブラハムの時代に、異教徒の間では両親がその神々に対してその子を犠牲として献げるは珍しいことでなかった。それゆえに、アブラハムに与えられた命令そのものは、当時東方の人々の心の中には二十世紀の今日西洋の我々におけるごとき衝動を与えなかったであろう。さりながら、人身犠牲の愚かな、また凶悪な行為なることをば教え示すことは、また主なる神が必然になしたもうべきことではなかったであろうか。さればこそ神は『わが魂の罪のためにわが身の子をささぐ』(ミカ六・七)ことによって自ら贖罪をなし得ぬこと、かえって『わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている……天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い』(イザヤ五十五・九)ことを明らかにせんと欲したもうのである。神は、ご自身の公義が犠牲を要求するならば、ご自身の愛はその犠牲を備えたもうことを、すべての人に知らせたまわねばならぬ。すなわち、破られた律法に対してこれを償うべき犠牲を要求するところの義の神は、また愛の神にて在し、ご自身の備えたもうところによって必ず『いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互いに口づけ』せずしてはやまぬのである(詩篇八十五・十)。しかり、神は犠牲を備えたもうのである。
 いま我らは立ち帰って本文を見るに、前掲の四つの節に録されているごとく、この顕著なる物語に特に目立つ点は、アブラハムの信仰の試み、信仰の働き、信仰の基礎、及び信仰の秘訣の四つである。

第一、アブラハムの信仰の試み

 『アブラハムは、試錬を受けたとき』

 創世記においてこの物語が録されている章は、『これらの事の後、神はアブラハムを試みて』という語をもって始まっている(二十二・一)。神がその僕を試み、また験したもうに、その道があり、その目的のあるごとくに、またその時がある。さて、アブラハムの生涯は試錬の連続であった。彼はその家族とその国に関係して試みられ(十二・一〜五)、その所有物に関係して試みられ(十三・五〜十六)、その親族に関係して試みられ(十四・十二〜十四)、その成功に関係して試みられ(十四・十七〜二十四)、その忍耐に関係して試みられ(二十一・五)、その自然の愛情に関係して試みられた(二十一・十一)。そして彼はこれら一切の試練を経て、金の精錬されるがごとくに精錬された。すなわちいかなるときにも彼の生涯は「神第一」であったのである。かくしていま彼を最上の試錬に会わしめたもうべき神の時が来たのである。
 アブラハムは既に神の愛と忠実と権能とを充分に試し見た。されば、サラの懐胎に関するかの非常な超自然の約束に対して躊躇しなかったごとく、今この命令、すなわち懐疑論者には乱暴であり不自然であると思われるこの命令に対しても躊躇しなかった。それによって神は、その僕に信頼されたもうごとく、ご自身もまたその僕を信頼し得ることを知りたもうたのである。
 聖書の記事によって我らの知るごとく、この試みにおける神の御目的は、ヨブの場合におけるごとく、その僕が世界のすべての者にまさって神を畏れ、神を愛し、神に仕えることを、天使と人と悪魔に証拠立てたもうためであった。なおその上に我らは、神が世の救いのために与えたもう、その生みたまえる独り子の犠牲を表す最も完全なる型(型としてでき得るだけの完全なる型)を、その僕を通してすべての時代に伝えしめることをその心のうちに持ちたもうたと推論する。
 されどもそれよりもなお進んだ御目的を見ることはできないであろうか。主イエスは、アブラハムがご自身の日を見て喜んだ由を語りたもうた(ヨハネ八・五十六)。彼がこの幻像を与えられたのはモリヤの山でではなかったであろうか。この不思議な恐ろしい経験を通るべく召されたものにまさって、この亡びる世のためにその独り子を与えて死なしめたもう聖父の御心の苦痛をよく理解しうる者があり得ようか。彼自身の心における苦の退潮その極みに達し、神の御苦しみと御愛の測るべからざる深さを真に悟り得たのは、その日のことではなかったであろうか。換言すれば、このことについて神がその僕でありまた友である彼に対して持ちたもう御目的は、経験を通してご自身の心を彼に啓示したもうためであったのである。その最愛の子の犠牲を思って張り裂けたアブラハムの心は、神の恵み深くも備えたもうた小羊を見てすぐに癒された。かく神はアブラハムの苦しみを緩めたもうたが、ご自身をば助けたまわなかった。神はその仇を報いるつるぎをして、ご自身の独り子を撃たしめて容赦したまわなかった。アブラハムはその子、その最愛のひとり子と別れることを考えて苦痛に堪えなかった時、神がこの亡び行く世のために憐憫に動かされて、讒謗、恥辱、苦痛の死に渡すべく、その独り子を遣わしたもう時の御心の憂い悩みを、幾分か悟り得たことであろう。おお、神の智慧と知識の富は深いかな。その審判は測りがたく、その途は尋ねがたしである。

二、アブラハムの信仰の働き

 『信仰によって、アブラハムは……イサクをささげた。……そのひとり子をささげたのである。』

 我らは既に信仰の試みられる或る目的を見たが、いま我らはその試錬においてアブラハムが実地に何をなすべく命ぜられたかを見たい。アブラハムがいま神に降服し、引き渡すべきものは何であったであろうか。彼がいま手放して神に献ぐべきものは、罪でもなく、悪しき習慣でもなく、またそのこと自ずから悪でもなく、また天の馳場を走るに妨げとなるところのことでもなかった。それはまた、永遠の幸福のために、今は取り去るを善しと見たもう過去の祝福でもなく、神がその僕から差し押さえたもうべき或る霊的経験でもなかった。
 以上述べたごとき事共によって信仰が試みられたならば、理性はこれに対して強い故障を起さなかったであろう。されどアブラハムが献げるべく召されたのは遙かに異なったもの、すなわちその愛子イサクであった。神の与えたもうた子、奇蹟的に生まれた子、神のすべての約束の帰属するところの者、それなしには神の誓いたもうたことの成就せざるもの、その人を通して約束の子孫の来るべき者、彼がその誕生を長く待ち望んだもの、サラでさえもその約束を信じ得せしめられたもの、一切の希望のかかるところ、その人なしには彼の名が大いになり、世界の福祉となることもできない者、しかり、そのためにアブラハムはイシマエルを逐い出したところの者、彼のすべてのすべて、その眼の瞳、喜びをもって彼の心を満たし、神我を笑わせたもうと言って『笑』と名づけた、その子イサクである。これを献げることができようか。さてもこれが神の命じたもうところであり得ようか。彼をしてこれが神の声であると考えるその声を聞かしめたものは、狂信か、恐怖か、錯覚か、迷想ではなかったであろうか。
 さらにまた、神がかかる異常な法外な要求をなしたもうということは、これまで顕された主のご性質とは全然反対してはおらぬか。異教徒はこれを聞いて何と言うであろうか。世の誹謗に対して何と答えるべきであろうか。主は畢竟、異教徒の神の一つのごときものではなかろうか。かかる無数の困惑すべき問題がアブラハムの心を捉えたことであろう。
 その上にイサクの母の苦しみ、イサク自身の、死に至るまで父の命に服さんとするいじらしい服従を思えば、どんな強い心も堪え得ざらしめるに充分であった。
 アブラハムの信仰の働きはかかることをなし、かかる苦痛、心労、試練に堪えるところのものであった。そしてこれが我らといかなる関係を持つであろうか。どんな意味で、このアブラハムの物語が我らの心に活きた教訓を与えるであろうか。我らもそんな犠牲をなすべく召されることがあるであろうか。それはまた今日の我らの霊的経験にとって何を意味するであろうか。
 我らが既に学んだごとく、イサクの奇蹟的誕生は、我らにとりてはキリストの内住という死活的大経験の型である。キリストの内住とは、キリストが我らの内心に啓示され、形作られ、その所に生き、住み、喜び、力づけ、霊魂の隠れたる泉に霊感を与えたもう、かかる経験である。これなくしては我らは神と偕に歩むことも、救霊の生涯も不可能となる。
 アブラハムがイサクを献げたごとく我らも犠牲すべしとすれば、かかる経験もまた捧ぐべしという推論に至るべきか。しかり、我らの最も深い霊的経験、キリストの臨在を自覚して喜ぶことすらも、それ自身を目的とするならば、それは偶像となる恐れがある。我らがキリストご自身よりも自己の主観的霊的経験をその満足とし、喜びとする時に、主が我らの上に置きたもう美は腐敗に変わる。
 神はアブラハムをしてその信仰と希望とを神に由らしめんために、少なくとも一時、自然より来る一切の慰めを奪い去り、裸の信仰によって歩ましめたもうたのである。神は、神による我らの生命がなお豊かなるために、我らの希望や信仰と共に、我らの喜びも神に、しかり、神のみに由らしめんとて、我らをもそのごとく取り扱いたもうのである。神は我らの最も幸福なる気分や主観的の経験さえも献げることを求めたもうが、それは永久にこれを我らから取り去るためでなく、かえって一層充分に、一層深く、一層潔くなしてそれを我らに返し与えたもうためである。アブラハムの場合において、神は実際に犠牲を献げしめず、彼が従順にして犠牲を甘んずるを見て満足したもうた。その日、父子相携えてモリヤの山を下った時に、彼らの心はいかに安息と安堵の思いに満たされたかは、言語のよく表し得ないところである。さればこれらは『さらに豊かなる生命』の秘訣である。私はこのことに関連して、ジョン・ウェスレーの顕著な言葉(それは本文とは相異なれる問題、『活ける信仰の果実としての善きわざ』について言った言葉ではあるが)をここに引照せずしてはやまれぬ。
 『善きわざは、それ自身を神の中に見失うまでは、その最後の完全に至り得るものでない。かくそれ自身を神の中に見失うことは、善きわざにとっては死のごときことで、我らの肉体の死に似ている。我らの肉体も、神の栄光のうちに自らを失い、その栄光をもって満たされるまでは、その最高の生命、すなわち不死の状態には達し得ぬ。ちょうどそのごとくである。……このことは、善き業をして深い満足をもって霊的に神の中に死なしめるほかにはなされ得ぬところである。深い満足というものは、深淵に投げ込むごとくに、その霊魂を、そのある一切と神に負うところの恩寵との業の一切を挙げて、神の中に投げ込み終わる。ちょうどそれは河々が、それ自身とその水とを海に注ぎ込んで、自己を虚しくすることを悦ぶごとく見ゆる、そのごとくに、霊魂がその一切を本源に返して自己を虚しくすることを喜ぶところの満足である。
 我らが神よりの恵みを受けた時には、よし密室にでなくとも、幾分自己の心中に退きて、かく言うべきである。
 「おお主よ、私はあなたの与えたもうたものをあなたに返しまつるために、あなたに参りました。そして私の本来の無になるために、無条件でこれを放棄します。天にあり地にあって最も完全なものは、あなたをもって、またあなたによって満たされることのできる空虚のほかはありません。ちょうど大気が空しく、また暗くして、よく太陽の光をもって満たされ得るごとくであります。太陽は日毎にその光を引き上げ、また翌日にこれを与えますが、空気にはこれを領有し、或いは回復する何もありません。願わくは私にもあなたの恩寵と善き業を受け、また回復する、この同じ敏活さを与えたまえ。わたしはそれをあなたの恩寵、また善き業と申し上げます。何故なれば、これらのものの発生する根はあなたに在って、私にはないからであります」と。』
 かくのごとく『さらに豊かなる生命』を求めることにおいても、神は我々のすべてのすべてとなりたもうのである。
   神は、わが宝、ご契約の恵みさえ
       みな取り去りてわが手を空しくなしたもう
   されど御息をもて癒したまえば
       いたむ心に傷は残らじ。
   求めたまえる霊魂のただ神に依り頼み
       地上の何物にも頼らぬまで
   知恵もて教え試みます
       その懲らしめこそやさしくまた真なる。

第三、アブラハムの信仰の根拠

 『彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。』

 我らは今、かくも偉大なる信仰を保証し、アブラハムをして死に至るまで従順なることを得せしめたものは何であるかを見出したい。いずれにしても、アブラハムがイサクを犠牲にすべきことを実際に信じていたことに疑いなく、またこれをその愛子イサクに語り、イサクも心よりこれに服して犠牲となることを甘んじたことも確かである。
 さらば彼をしてその日、かくも躊躇なき歩みをもってその山に登らしめたものは何であったか、その子を屠るために堅くその手を挙げしめたものは何であったかというに、これに対する聖書の答えは『彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていた』ことである。彼は明日、第一の復活日の朝を迎えるか、或いはその日のうちに神はその子を復活させたもうと堅く信じたのである。我らは知る、彼が山の麓に若者たちを留めて、『わたしとわらべは向こうへ行って……(わたしたちは)あなたがたの所に帰ってきます』(創世記二十二・五)と言った時、このことが彼の心にあったのである。さてアブラハムはかかる奇蹟を期待するに、経験より何らかの保証を得たであろうか。これまでこの方面に死人の甦った者があったであろうか。我らはかかることのあったことを聞かされておらぬか。アブラハムには他の証拠がなかったか。彼の信仰にはほかの保証がなかったかというに、それがあったのである。すなわちかくも奇蹟的に生まれたイサクがある。神がサラの胎のごとき不妊の胎に生命を生ずることを得しめたもうならば、『なお豊かなる生命』、すなわち死よりの復活さえも与え得たもうことはまた確かである。
 彼が待ち望んだ久しい日の間、アブラハムは何故に神がその約束の成就を遅延したもうかを怪しみ、呟きまた失望するよう、いたく試みられたことであろう。されど後に至っては、イサクの誕生の遅延したこと、また人間自然の生産する可能性の休止するまで子供の与えられなかったことのために、いかに神を頌めたことであろうか。彼は日毎にその子イサクを眺めて神の奇蹟を行う御力を思い起し、疑う余地のなきほどに、神の約束は必ず成就すべきことを知ったであろう。もしイサクの誕生が尋常の自然法によってであったならば、彼が未然にこれを期待したのは畢竟ある錯覚か、漫然たる自分の楽観からであったと、後に至っても考えたであろう。けれどもイサクは真に奇蹟的に生まれた。これがアブラハムの信仰の根拠であった。『彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである』、かかる勘考はイサクの誕生によって彼に保証されたのである。
 その日、アブラハムの手に執った刀をば、外科医の執刀のごときものであったと言っても、あまりに不敬な比喩とはならぬであろう。熟練な外科医はその患者を前にして、これを傷つけ、しかも深く傷つけることの必要を知るのである。患者は死ねる者のごとく無自覚にその手の下に横たわっているが、彼はその長い間の種々の経験から、これによって患者が再び生命を得、立って歩むに至ることを知っているから、大胆に刀を下すのである。
 アブラハムの場合、彼は自己の熟練にも、また奇蹟を行う能力にも何らの自信はないが、大いなる医者なるその神に確信を置いた。彼は『神の復活の力』を信じ、『神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていた』。かくこの大いなる医者の御言に順って、致命傷の傷を与えんとその手を挙げたのである。されど偉大なる医者にて在す神はかくすることを許したまわなかった。否、死より甦らせる神の御力は後日まで保留されねばならなかった。すなわち生命の君、栄光の主が来りたもうて、彼のみ『よみがえりであり、命である』(ヨハネ十一・二十五)ことと、『彼を死人の中より甦らせてこれに栄光を与えたまいし神を、彼に由りて信ずる我らが、神によるすべての信仰と希望を持つこと』(ペテロ前書一・二十一)を神の大宇宙に顕彰する日まで保ち置かれねばならなかったのである。復活の奇蹟は、神の子の受肉の奇蹟にその根拠をもつ。もし前者が真ならば、後者も必ずこれに随って真でなければならぬ。

第四、アブラハムの信仰の秘訣

 『信仰に由りて彼は約束を喜び受けたり。』(ヘブル十一・十七=英改正訳)

 我らは今一度、信仰の王者なるこの人の特質を見、この信仰の隠れたる源泉はどこから発するかを尋ねたい。サムソンの力よりさらに偉大なる彼の力の秘密はどこにあるであろうか。ここに掲げたその聖語はこれを明らかにしている。すなわちアブラハムは『約束を喜び受けた』である。また『信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る』(ローマ十・十七)である。さてここに『喜び受けた』と訳されている原語『anadexamenos (anadechomai)』は『歓迎する』『親切に受け入れる』『引き受ける』『敢えて責任をとる』など、種々の意味を持つ語で、第十三節にある、アブラハムが神の約束を『遙かに望み見』たという一層珍しい語を連想せしめる次第である。ちょうど彼が立って天幕の入口に出で、天の客人を歓迎したように、またラハブが『探りにきた者たちをおだやかに迎えた』(三十一節)ように、彼は神の約束を『喜び受け』、その霊魂の聖所にそれを歓迎したのである。かくて彼の信仰を支持し、焔のごとく断えず彼の衷に燃え続ける格別の約束は『イサクに生まれる者が、あなたの子孫と唱えられるからです』(創世記二十一・十二)というそれであった。彼をしてヨブのごとくに『彼われを殺すともわれは彼に依り頼まん』(ヨブ記十三・十五=文語訳)(アブラハムの場合は『我が子を殺すとも』)と叫ばしめたものはこの約束であった。彼は叫び言う、『神が既にわが裔はイサクによりて呼ばるべしと誓いたまえる以上、一時何が起こり来るともそれは問うところではない。イサクは必ず神の都の礎石の一つであるべきである。「神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事柄によって、前におかれている望みを捕らえようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるため」(ヘブル六・十七、十八)ではなかったか』と。かくアブラハムの信仰の隠れたる源泉は、遙かに早く既に彼の衷に据えられていた。彼は既に主の言葉と約束を受けて抜くべからざるものがあった。それは彼の霊魂に深く沈み、動かすべからざる岩、熄すべからざる光、夜も昼も彼を養う糧であった。それははなはだ『尊く、大いなる』(ペテロ後書一・四)ものであったのである。
 主イエスがヨハネ伝十七章に記されあるその大祭司的ご禱告において、弟子等を賞めて仰せられた一つの言葉は『彼らはそれ(言葉)を受け』(八節)であった。彼らが一切を棄てて主に従ったことについて何も仰せられず、彼らの献身、彼らの熱心、彼らの愛、彼らの信心深いことなどにつき何の讃辞も与えたまわぬ。主が神の無限のご恩寵に対して彼らを薦めたもう唯一事は、彼らが救い主の御言を受けたという点であった。幾千万の人がこれらの同じ御言を聴いた。幾千の人が御言を驚き、また嘆美賞賛した。なお幾千の人がこれを理解した。幾百かの人はその癒す御言によって益を得た。されどその霊魂のうちに深くこれを受けた者は、ただこの小さき群れのみであった。『彼らはそれを受け』、これが救い主のお喜びであった。おお、約束の力よ! さても人間の愚かさよ。人の言葉は彼らをして或いは恐れまた笑わしめ、或いは来りまた往かしめ、或いは随従せしめまた去らしめ、或いは喜びまた失望せしめる。かく人は人間の言葉を重んずるけれども、活ける神の御言には何らの注意も払わず、その御子の最大なる貴き約束を足下に踏み躙らんとは!
 神はなお人に語りたもう。これはヘブル書の大主題である。神は昔なしたもうたよりもさらに明瞭な仕方をもって語りたもう。それは『御子によって、わたしたちに語られ』るからである(一・二)。
 信仰はただ、神のすべての約束のうちに然りとなりアーメンとなるところの、神の御子イエスなるこの神の言葉、この永遠の言葉を『聞くこと』によってのみ来り得るのである(ローマ十・十七)。
 かく神は今なお人に語りたもう。今わたしが語り出そうとする物語は、多くの点においてアブラハムのそれとは比較にならぬけれども、ただ一つの点についてはなはだ良い例証となるので、ここに掲げるに何の申し訳も要せぬと思う。
 N氏は哀れな大酒呑みの放蕩者で、その妻にも見棄てられたほどであった。だが彼には一人の娘があって、それを非常に愛しておった。彼は自分の不身持ちの惨めなことをよく承知しているので、娘は何とかして堕落せぬように護り、出来得る限り善い婦人として成長させたいと願っていたのである。
 彼はキリスト教につき何も知らず、また無頓着であったが、人に勧められてその子を日曜学校に送った。娘は日曜学校で聞いたことに深く感じ、熱心に父を導き、福音を聞くべく神戸伝道館に来らしめた。そこで彼は福音を聞き、救いの道を知り、また面白く思ったが、なかなか断然悔い改めて天国の道に進むことをなさなかった。その後まもなくいわゆる米騒動が起こったが、彼はその群集の中に巻き込まれ、実はこの騒ぎを起こす計画には全く無関係であったけれども、警察官は他の者と共に彼をも捕らえた。彼は三年の刑に処せられて刑務所に入ったが、そこでは飲酒にも放蕩にも誘われぬので、満足以上に有難く思い、看守に向かっていつもそっと、長くここにおらせて頂きたいと申し出たほどであった。
 刑務所の方でも、彼がこの騒動の発起者でないことが分かったので、彼を信じて大いに自由を与え、結局刑期を半減するに至った。
 彼が刑務所におるうち、我らの伝道者の一人M氏が彼を訪問した。一般に、囚人に面会する場合は一人二人の看守の前で話すことが許されるのであるが、M氏は許されて親しく彼に語ることができた。しかもM氏自身も神の恩寵によって救われた経験のあることとて、彼をそこでキリストに導いた。
 刑務所から出て、彼はバプテスマを受け、直ちに主が彼に為したもうたところをば路傍で証し始めた。しかるに、間もなく彼は舌に癌腫を患い出した。彼は種々の病院に診察を求めたが、医師たちはいずれも治癒の望みはないと言い、病はますます進んでもはや牛乳の少量さえ飲めぬようになった。しかるについに奇蹟が行われた。彼は毎週の祈禱会に特別の祈禱を求め、信仰の祈禱が献げられた。その時から比較的容易に飲み下すことの出来るようになった。それが癒しのはじめで、数週のうちに腫れ物が全部取り去られたので、彼は新しい喜びと熱心をもって、ただ神の救いの力のみでなく、神癒の力をも証し始めた。
 しかるにその後、久しからずして、その独り子、その眼の球のごとく愛する娘が重き病に罹り、長い頑固な病患に苦しんだ後に永眠したのである。この娘は、その願いにより、人々の再臨の歌を歌う間に驚くべき勝利をもって御国に移された。しかし、この娘の死はほとんど彼の心を張り裂いた。彼の生涯から喜びがみな去ってしまったので、彼は何の慰めも得ず、ついに自らその生命を絶たんと決心するに至った。そこで彼はその地上の所有物をみな隣人たちに与える旨を書き置きして、ある暗黒の夜、海岸へと忍び出た。しかしいよいよ死の海に身を投げる前に、彼は『さて、まず祈らねばならぬ』と考えたのである。自殺の考えは日本人には極めて普通で、また深く浸み込んでいるので、無知でまだ極めて幼稚な信仰の彼には、それが罪であるということが弁えられなかったのである。彼は今、風と打ち寄せる波が自分のために弔鐘のごとく響くその海岸に跪いて、『私はもはや生きる甲斐はありません。あなたはわが眼の喜ぶ者、わが唯一の喜び楽しみ、わが独り子を取り去りたもうた。どうぞ娘と共にこの身をも取り去りたまえ』というような意味の言葉をもって神に叫んだのである。その時、神は雷の閃光のごとく彼に語りたもうた。然り、『御子によって』彼の衷に語りたもうた。すなわち彼がかつて夢にも知らなかった仕方で、『主イエスを我らに与え死なしめたもうた神の愛』が彼の衷に聖霊によって顕された。
 ちょうど神が彼に向かって『あなたはわたしがあなたの独り子を取り去ったことを呟き訴えるが、あなたと彼女のためにわたしが惜しまずして与えたわが愛子について何と思うか』と仰せられるがごとくに思われたのであった。
 神は古のアブラハムになしたもうたごとく、今一度、経験を通して、苦しい悲しい胸裂けるばかりの経験を通して、かつては哀れな大酒呑みの異教徒であった彼に対し、神が亡び行く人のためにその生みたまえる独り子を与えたもう、その恩寵と愛の測るべからざる富を顕したもうたのである。
 そのとき彼は立ち上がり、自殺の考えは全く棄てて急ぎ帰り、遺言書を破ってしまった。その夜から、彼は神の救い癒す御力ばかりでなく、彼を聖めまた満足せしめたもうご臨在を証しすべく、真に新生涯に入ったのである。彼はその日から多くの人を導いてキリストに来らしめた。かく一人、しかも死ねるがごとき一人の彼より、霊の子女が生まれてアブラハムの神の讃美となった。
 ちょうど昨夜、私は彼と彼自身よりも一層著しい話の持ち主なるその友人なる信者とが証をした後、いま刑務所から出たばかりの放蕩者を救い主の足下に導くを見た。それは実に感動すべき光景であった。

 神は今なお語りたもう。そしてその御声は始めよりのごとく、やはりその御子を通してである。



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