第四章、第五章 分離の動力


「キリストの世を救いたもうは、栄光の中で禱告することによってではない。否、主はご自身を与えたもうた。もし我らが自分にとっても価値なきものを献げるのみで、自己犠牲を厭うならば、世界教化のための祈禱はむしろ痛烈な皮肉である。」
                           ──フランシス・コイラード

「善き主よ、願わくば汝に相応しく仕えまつることを教えたまえ。ただ汝の聖旨をなすことのほか、献げてその値を計らず、戦って傷つくことを意とせず、労して休息を求めず、勤めて報いを求めざる奉仕を教えたまえ。おお、主よ、汝はかかる奉仕を受けるに相応しき御方にて在す!! アーメン」



第四章 ノ ア (神の怒)


 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱船を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 (ヘブル書十一・七)

 既に本書の緒言である第一章において指摘したように、聖霊はその筆者を通じて、キリスト者の霊的経験における種々の局面、転機、時期を例証するために、ヘブルの多くの勇者の中から注意深く人を選びたもうたばかりでなく、一つの真理の両方面を描き出すよう、その肖像を二個ずつ一対にして排列したもうた。そして我らは既に初めの二肖像においてその実例を見た。
 第二の一対であるノアとアブラハムの肖像も、やはりこの方法で排列されている。第一対(アベルとエノク)は救いの恩寵の描写、これに次ぐもの(ノアとアブラハム)は離れる力の描写である。彼らの一人は世より離れて世を滅亡に至らしめ、今一人は世より離れて新しき一大民族の基礎をおいた。真の信者には世よりの分離がある。またあるべきである。されどもその分離は聖霊の能力によって、一方には定罪、一方には生命を来らすものでなければならぬ。ただ単に分離するだけならば、これはパリサイ主義よりほかではない。パリサイという語は分離を意味している。しかし修道僧や儀式派の人々だけがこのパリサイ主義とは限られぬ。我ら福音主義と称しながら、結局パリサイ人のほかでないこともあり得る。心すべきである。
 我ら既にアベルのごとく義とせられ、エノクのごとく神と偕に歩むことを学んだ者が、いかなる戦いに召されているかについて学ぶべく、暫時義の大宣伝者ノアの肖像に近づき、彼の強剛なる風貌を熟視したい。さてこのただ一節に録されている簡単な描写には、無論ほかの所で学ぶところの多くのことは省かれているが、我らがこの肖像の壮大さを解し、これを鑑賞するためには、これと共にこれに属する背景をも共に見る必要がある。さればまずここに録されておらぬ諸点を見ることにしよう。
 ノアは祈禱の人であった。預言者エゼキエルは四度までも、大禱告者ダニエル、ヨブと共にノアの名を連ね記している。
 ノアは預言者であった。使徒ペテロはノアが義の宣伝者であったことを我らに語っている。
 ノアは聖徒であった。創世記第六章を見れば、ノアはアベルのごとく、神の前に義なる者であり、エノクのごとくに神と偕に歩んでいたと示してある。
 ノアは選ばれた器であった。ノアについて録されたることのうちで『ノアは主の前に恵みを得た』(創世記六・八)ということほど重要な意味を持つ語はない。彼が主の前に得たというその恵みが尋常一様のことでなかったことは明らかである。我らに救いを得しめるキリストの知識を持つほどの者はみな、『主イエス・キリストの恵み』が我らと偕にあると言うことができる。そして我らはみな主イエスにあって、聖なる神の御目の前に恵みを得ているのである。されどもノアに与えられた神の恵みは、これよりもさらに勝って豊かな種類のものであったのである。これについてはやがてさらに十分に論ずる。
 ノアは孤独であった。何となれば、彼の時代はすべて想像も及ばぬほどに悪に陥っていたからである。創世記第六章の六つの節(五〜七、十一〜十三)には、当時の社会が一般に、少しの除外例もなく、いかなる階級にもいかなる所にも、人の心にも思いにも意向にも行為にも、明けても暮れても善の少しの閃光だに見えざるほどに堕落した、その邪悪、腐敗、凶暴の驚くべき有様が極めて簡単に録されている。
 この背景をもってノアの肖像の特色を見たい。かくて我らはこれにより、また続けて示されるところによって、人を動かすところの偉大なる勢力としての信仰を見んとしている。実に信仰は活動し促進し建設するところの素因である。行為なき信仰、すなわち何らかの行動をなすように人を推し動かさぬ信仰は、死んだ信仰、或いは最も善く見ても感情的宗教心とでも言うべきものである。何となれば、信仰は単に歴史上の事実、霊的の真理、ないし来るべき世界の啓示に対する知的承認のみではない。もちろん信仰は受動的、受容的の機能であるが、単にこれだけではない。否、遙かにより以上のことである。これは我らの衷に聖霊により生まれたる神賦の能力で、我らを愛し、我らのために己を棄てたもうた主の御為に事を行い、苦を忍び、必要にあたっては生命をも投げ出すべく、我らに迫り、余儀なくし、促進するところの生涯の動力である。
 我らはノアもアベルのごとく神の前に義しき者であった(創世記六・九)ということを知っている。けれどもアベルについて学んだ時のように、ここにはノア自身の救い、すなわち彼が義とせられた信仰については何も言っていない。またノアはエノクのごとくに神と偕に歩む秘訣を学んでいたということもまた我らに知られているけれども、ここにはそれについて何も言っていない。我らが考えさせられるのは、ノアの生涯のその方面でなく、彼が義とせられた後、神と偕に歩むことを学んだ後、奉仕と犠牲、しかも実に不思議な、ほとんど狂気じみた企てと思われるような奉仕のために、彼に力を与えたところの信仰についてである。
 ノアの物語が描かれているヘブル書十一章の第七節の原語は、ただ二十七語で綴られているが、この極めて小範囲に約められた記事のうちに、歴史、哲学また道徳的心霊的真理の驚くべき分量が盛られている。されど我らが考察するところはただ彼の畢生の事業の動力、すなわち信仰についてである。この信仰について(一)信仰の表現、(二)信仰の果実、(三)信仰の源泉が示されている。

第一、ノアの信仰の表現

 信仰によって、ノアは‥‥‥箱船を造り

 真の活ける信仰は必ず何らかの具体的の形をもって自らを表すものである。そしてノアの場合には、彼の信仰は、当時の人々には全く狂気の沙汰としか見えぬ、実に不思議な形をもって表れたのである。
 元来、我らの信仰がそれ自身を表す特殊な形は、たいがい信ぜざる者を怒らせ、彼らの罪を定め、また我らの上に迫害を来らせることである。されど悲しむべきことには、救いの信仰をもつと自ら想像する人で、それによりて何人も怒らず、何人も恵まれぬというような軽い軟弱な形をもってこれをもつ者が多い。されば使徒パウロの『あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい』(コリント後書十三・五)という警告にしたがって心すべきである。
 私は既に創世記の物語中にある『ノアは主の前に恵みを得た』(六・八)とある節に注意し、彼に与えられたこの『恵み』は、すべての信者に与えられる救いの恵みよりは遙かに勝ったものであることを指摘しておいた。この『恵み』はむしろ方舟を備える工事を引き受ける特権、責任、および名誉を指すのである。この方舟はいつの代にもキリストの成し遂げたもうた御業を示す、おそらく最大の型であった。さてまた神の住所を建てるために特に選ばれた器となるというこの恵みは、またほかの人々にも与えられたのである。
 我らはモーセについても『主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得」』(出エジプト三十三・十七)とあるを読む。そして幕屋の雛型や設計を委ねられ、荒野で聖なる神の御住所を建造したるは彼であった。
 ダビデについても、『ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った』(使徒七・四十六)と録されあるを読む。彼はついに神殿を建造するに至らなかったけれども、その計画をなし、設計を立てることを委ねられたのは彼であり、また民の中に神の御住所を造るために、すべての材料を備えたのも彼ダビデであった。
 マリヤついても『御使が言った、「……マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」』(ルカ一・三十、三十一)と録されてある。父なる神の地上の住処である聖子が人の子らの間に肉体を取って宿りたもうために、聖霊が彼のために肉体を備えたもうその器となるべく選ばれたのはマリヤであった。
 使徒パウロについても、彼に神の恵みが与えられ、これに由って大いなる奥義の知らされたことが書いてある。この奥義とは、この配時において神の住所なるキリストの教会のことである(エペソ三・二〜九)。この教会によって、聖霊ご自身、肉体を取って世に宿りたもうのである。
 そして末の世においても、ほかの人々についても、各その狭い範囲、小さい量においても、やはり同じことを書くことができる。彼らもまた神の前に恵みすなわち特別の恩寵を得、神の仁慈と憐憫の記念碑また住所を建てるように召されたのである。我らの時代におけるジョージ・ミュラー、ハドソン・テーラー、ブース大将などは、昔のノアやアブラハムのように、全く神に聖別された人として、たやすく我らの記憶に上る人々である。
 我らはここで暫く立ち止まり、自ら心を探り、はたして信仰が、我らを世から離れしめてどんな結果に至ったか、キリストとその救いに対する我らの信仰が、かくのごとく何らかの明確な形をもって表れているか、未だ見ざる事共、不信のこの世に臨むべき審判を信ずる信仰が、我らをして人の救いのために祈り、宣べ伝え、また備えざるを得ざらしめるほどに、己が心を動かしているかと反省すべきである。
 信仰というものは、ただ事実がそうであると信ずることとは違い、常に行動を余儀なくせしめるものであることを承知しておらねばならぬ。何となれば、信仰は道徳的領域、すなわち生命の領域で働くものであるが、そこでは悪と苦と死の諸勢力が圧倒的に働くので、信仰は、活動するか萎縮するか、事をなすか死するか、勝つか亡びるか、いずれかを択ばねばならぬからである。
 信仰というものは、生命のごとく、何らかの仕方で自らを現さずしては止まないものである。しかもそれがこの悪しき不敬虔の世に生き、動き、また存在するのであるから、それ自らを現すところに必ず衝突、苦痛、損失を来すを免れぬが、ついに勝利と報賞を得るに至るのである。

第二、ノアの信仰の果実

 我らはこれよりノアの信仰の効果について学ぶ。彼はいかなる目的で、またいかなる意向をもってその神を信ずる信仰を働かせたか、彼の従順な信仰は何を成し遂げたか、これらのことの研究は我らを励まして『行って同じように』なさしめるのである(ルカ十・三十七)。さてその信仰の効果は(一)彼は己が家族を救い、(二)世の罪を定め、(三)信仰による義の世嗣となった、というこの三つである。

【一】彼は己の家族を救った

 私が既に指摘したように、ここにはノア自身の救い、すなわち彼がそれによって神の前に義とせられたところの信仰については、何も言っておらぬ。ここで学ぶところは、彼がその家の者を救ったのは、方舟を備えることによって表したその信仰によってであるということである。我らは必ずしもノアの家族が『信仰の家族』のはなはだ優れた人々であったと仮定する必要はない。少なくともその家族のうちの一人の生涯について録されている出来事は読むさえも悲しいことである。我らはロトの家族がアブラハムの信仰と禱告を通して同様に救出されたことを思い起す。さてノアがその家の者を救ったというは、彼の子たちまた娘たちがその父の不動の信仰に深く感銘したということであろうか。ノアが洪水の来ることを確実に前言し、これを宣伝し、人々に警戒し、その上に方舟を造ったことなどは、必ず彼らには愚かなことと見えたであろうが、それでも彼が当時の不敬虔な人々のために祈禱懇求しつつ神と交わる生涯によって証明するその信仰は、結局、そこに何物かがあるということを彼らに確信せしめるに至ったのであろう。
 これは無論その通りであるが、そこにはより以上のことがある。すなわち神が我らに与えたもうた権能、すなわち他人のために禱告するばかりでなく、彼らに代わって信じ、代わって悔い改め、代わってその罪を告白し、かくして信仰によって彼らを安全の場所に引き上げる不思議な権能をば、この神の人が働かせて、その家の者を救ったでなければならぬ。我らの主イエスによって委ねられた任務(ヨハネ二十・二十三)に従い、我らにも信仰によって他人の罪を赦す権能があるということは、我らの容易に学ばない学課である。これは実に驚くべき任務であるが、悲しいことにはなはだ誤解されている。
 昔の或る偉大な神の人について、その伝記を書いた人は次のごとく言っている。
 「彼は、罪は誰かによって必ず悔い改められねばならぬ、もし罪人がそれを悔い改めぬならば、神の民が彼らのためにそれを悔い改むべきであるということを確信していた。……彼はこの主義を信仰のことにも当て嵌め、「悔い改める者に代わって信ずることは可能である」と言っている。そしてこの節を確かめるために実例を語り、彼がこの同情の信仰を働かせている間に、これを通じて罪人の心に信仰が起こった、そして共にキリストの贖罪を自分のものと受けた時、双方の心に神の能力と救いの喜びが破れ出たと語った。
 彼は言う、「我らは人々に働きかけることのできる者である。すべてのキリスト者には一種の神的勢力が連結されているから、神とキリストはそれを我らが用いることを要求したもうのである。我らは人々のために神を動かす力を持つ。さればかくするためには、でき得る限り詳細に彼らの状態を注視し、彼らのために贖罪を信じ、聖霊の恵みの約束も彼らのために握り、また祈り求めねばならぬ。かくすれば彼らの頑固、褻瀆、傲慢、無頓着などは打ち破られる」と。」
 使徒パウロはその友人ピレモンに書き送った書簡のうちに『信仰の伝達(communication of thy faith)がキリスト・イエスに在って実効的(effectual)となることを』(六節=欽定訳)と祈っている。我らの信仰もその通りであろうか。我ら自身のために信ずるは、そのこと自体実に幸いなことであるが、他人のためにも信じ、それによって彼らの霊魂に神の恵みの富を伝達し得るは、なお一層幸いなことである。そしてこの伝達の力は、我らの衷なるすべての善きものが主イエスより分かち与えられたる義に基づくことを認め、また知る結果であると言われている。
 私がノアの信仰をこの種のものと推断するは、誤りであろうか。否、確かに誤りでない。おお、我らも行ってそのごとく行わんことを。

【二】彼は世の罪を定めた

 これは信仰の結ぶ果としては不思議な果であるが、やはりその通りである。これに関するギリシャ語の言い表しは少し不明瞭で、『之によりて世の罪を定め』(七節=文語訳)の『之』は方舟を指すとも、この節のはじめにある『信仰』を指すともいずれにも解せられる。方舟も信仰もいずれも女性である。されど我らは文法上、またその他種々の理由で、それは『信仰』を指すと見る。すなわち彼はその信仰によって世の罪を定めたのである。何のために世は罪に定められたのかと言えば、不信仰のためである。不信仰によってこの世は永久の亡びに至るのである。
 『信じない者は、すでにさばかれている』(ヨハネ三・十八)と聖書に録されている。元来、人が地獄に堕ちるのはその罪のゆえでなく、むしろ人のために神の備えたもうた救いを拒むからであると言っても、それは過言でない、されば人間の最も憎むべき罪はその不信仰である。
 ノアの時代の人々は日毎に活ける信仰の記念標(方舟)の建造を見、日々信仰ある人の証言と警告を聞いたのであるから、言い遁れる術はないのである。彼らはただその罪深い道のために責められたばかりでなく、その迷える足のために安全の道が指示せられ、避難の場所がすでに備えられてあったのである。
 我らはキリストが当時の不信の世に語りたもうた最後の言葉を思い起す。すなわち

わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。……わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終わりの日にその人をさばくであろう。 (ヨハネ十二・四十六、四十八)

がそれである。さればその日に臨み、キリストはさらに進んで審判の言葉を宣べたもう必要はない。この恵みの日に御憐憫の使言である御言が、そのままその日に死刑の宣告となり、斥けられたその御憐憫、蔑まれ無視された和らぎの御使言そのものが、その日、人の死刑執行命令となるのである。人は自己の不信仰によって自ら己を罪に定め、憐憫を蒙らずして亡ぶのである。
 ノアの時代においても共通であった。かくノアはその信仰によって世の罪を定めた。

【三】信仰による義の世嗣となった

 彼はその信仰によってその家の者を救い、また世の罪を定めた。彼自身は如何、彼は神を信ずることによって何を得たであろうか。我らはここに彼が信仰による義の世嗣(義を受け継ぐ者)となったと録されおるを見る。それは彼が方舟を造る前、その避難所の中で大洪水から救われる前には、まだ義とせられておらなかったという意味であろうか。確かにそうではない。彼が方舟を造り、また未だ見ざる事共を警告すべき神の命を受けるより前に、彼は既に神の御前に義しき者であり、神と偕に歩んでおったのである。
 さらば彼が受けたその嗣業とは何であろうか。彼が神より受けたこの大いなる報賞である『信仰による義』とは何を言うのであろうか。
 使徒パウロがこの『義』という問題について書いているうちに、二つの顕著な句がある。すなわち『その信仰を義と認められたり』(ローマ四・三=文語訳)、『信仰に基きて神より賜はる義』(ピリピ三・九=文語訳)である。
 第一の句の『義』は我らに帰せられたる義に関係して用いられている。その初めはアブラハムについて録された言葉で、聖書には七度『アブラハム神を信ず、その信仰を義と認められたり』と録してある(創世記に一度、ロマ書に四度、ガラテア書に一度、ヤコブ書に一度)。主イエスとその我らのためになしたもうた一切を信ずる信仰は(もちろん信ずることそれ自身は義ではないが)神的に植え付けられたもので、そのうちにすべての善、すべての義、すべての聖の胎芽を持つがゆえに、神によってすべてかかるものと認められるのである。そしてキリストの贖罪の血により過去の罪が我らに帰せられぬことと、活ける救い主なる主イエスを信ずる信仰により義の帰せられることをもって、神の称義は構成されるのである。
 第二の句に『信仰に基きて神より賜はる義』とあるは、第一の『義』とは全く異なったことである。それは賦与される義である。この句は使徒パウロが彼自身について言っているところで、彼はキリストの顕れたもう時に、この幸いなる嗣業を保ちながらキリストに在ることを認められんことを慕い求めていると言っている。パウロが自己の称義について、その心に何らかの疑いを持つことがあり得るとは思われぬ。この点が彼の心に永久に決定していたことは確かである。彼が既にキリストの恩寵により功なく義とせられておりながらも、なお心にかけたのは、主の御再臨の日、主の内住によって日毎に賦与したもう主ご自身の義によって生きず、かえって自分の元気、自分の能力によって生活していることを見出されることもあらんかということであったのである。
 ノアにとってもその通り、彼がそれによって義とせられ、神と偕に歩むよう導かれた信仰は、また神の御警戒の声に聞き従い、謹み順いて方舟を造り、かくして幸いなる能力に自ら領有されていることを見出すように導いたのである。その幸いなる能力は、すなわち聖霊の内住したもうご臨在で、彼はそれによって日毎に「赦罪と聖潔と天国」の救いの井戸からその力を汲み取るのであった。

第三、ノアの信仰の源泉──『畏みて』

 信仰は時として妙に熱狂に近い表現をなすことがあるけれども、その実、信仰と熱狂とは地球の両極のごとく非常に相隔たっている。熱狂は錯覚の産物で、全く不当な自尊心と相伴い、平衡を失った判断から出ずる。
 古の勇者たちの肖像を考察するにあたって、容易に気付くことは、神が彼らを動かしてその行動を取らしめたもうそのお取り扱い、その御摂理が、各特殊の性質を持っているということである。神の義しき聖き愛は、アベルに対して彼自らのはなはだ罪深いことを示し、創造者がその受造物と偕に歩み交わることを欲したもうことは、エノクを神と交わる聖き生涯に導いたが、ノアに至っては、未だ見ざるものが示され、来るべき審判を信ずる信仰が彼の霊魂を畏れをもって動かした。彼は見えざる永遠の領域に生きまた動いていたから、その霊魂の中に響く神の声ははなはだ強く、来るべき洪水の自覚は圧倒するほどに確実であった。彼が当時の世界から蒙る誹謗嘲笑侮辱の下にも、屈せず撓まずして進んで勝利を得たのはそのためである。彼は今もなお、来るべき審判、遁るべからざる地獄、避くべからざる小羊の怒りを信ずる者、世人から「愚者」と呼ばれる人々に語るのである。
 現代のいわゆる神学者のうちには、録されたるところに過ぎて賢からんことを求め、優超を衒う、愚かな俗向きの型の神学者がある。彼らは畏れが人の心に信仰を起こし、道徳的行為にまで動かす動機であることを信ぜず、それは無知の時代の残物か、単なる迷信に過ぎないと思う。されども日常生活の事共による経験は、人を動かして事をなさしめる四つの動機(畏れ、望み、信仰、愛)のうち、心理学的順序においても道徳的の力においても第一におるは畏れであることを教える。『主を恐れることは知恵のはじめである』(詩篇百十一・十)。聖書の頁ごとにそれが書いてある。しかもそれは旧約聖書に限ったことではない。主イエスはほかの動機よりもこの畏れを一層自由に用いたもうた。四福音書のうちに、比喩にも物語にも、教訓にもそれが用いられていることは隠されぬ事実である。使徒パウロも『キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである』(コリント後書五・十四)と言ったその文中に、『このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める』(同十一節)と言って、畏れに動かされていることを表している。彼の書簡を通じて断えず厳粛に警告しているところは、ついに神の恵みに及ばざること、キリストの審判の座に立ちて棄てられること、主の御再臨の時に戸の閉まりおるを見出すこと、その顕現の前に恥じることなどの、畏れをその背景としている。
 聖書に『神とともに歩んだ』と現に録してあるはエノクとノアのただ二人であるが、この二人はほかの何人にも勝って、来るべき審判の宣伝者であった。この恐ろしい奥義の宣伝を委ねられるためには、非常に勇気ある信仰を要するとともに、最も親しく神と偕に歩むことを要したのである。
 かつまた現代においても最も密接なる神との交わりに歩む人々には、尋常の信者に与えられるよりも一層恐るべく、来らんとする怒りの幻象が示されているということは著しい事実である。
 ウィリアム・ブラムウェルについて、彼の葬式の説教者が、数千の涙の会葬者のうちに、「私は、堕落したアブラハムの子孫にこの人ほどにその道徳的回復の完全なる人を見たことなく、彼ほどに天使のごとく聖徒らしき人を見たことがない。彼は何事においても、主がかくあるべしと企図したもうたところを実現しているように見えた」と語っているが、そのウィリアム・ブラムウェルは或る人に書き送って、「君のご存じのごとく、私はほとんど三ヶ月間試錬の中におった。神の奥義は私の知るところではない。されど神が私と偕に在したことだけは知っている。私は自ら語り得る一切に超越した栄光を経験した。私は憐憫をもって満たされており、断えず憐憫を叫び続けることができた。されどその時ほど罪に定められた者の苦悩を明瞭に見たことはない」と言い、また他の友人に、「私は試錬の中におったけれども、天の栄光と罪に定められた者の苦悩を極めて鮮やかに見せられ、もしそんな力があるならばかつてなきほどに祝福と詛いを注ぎ出すであろうと思うほどであった」と書き送っている。
 またはなはだ多くの人を悔い改めと信仰に導いたジョナサン・エドワード、ウェスレー、ホイットフィールド、フィニー、その他多くの人々も同じことを証しているが、おそらく最も顕著な証人はかの霊的巨人、マデレーのジョン・フレッチャーであろう。彼は彼自身の代にも後の代にも、主が現代において持ちたもう最も聖徒らしき僕の一人と認められる愛の使徒である。彼の説教、また人々に対する彼の忠実なる取り扱い、彼の著書、彼の書翰などはみな、来るべき審判の恐るべき事実を信ずる信仰が、どのくらいその生涯と奉仕に影響しているかを証ししている。
 異教団における御奉仕からいわゆるキリスト教団に帰ってきて痛感することは、この時代に新教国における必要な使言はノアの説教であるということである。主イエスご自身もキリスト御再臨前の社会状態をノアの時代のそれに比して教えたもうたが、今日既に背教は実に恐るべき有様である。ローマ主義の勢力はますます加わり、教会は空虚になりつつあり、そのキリスト教会と称えられるものの中にも中世期の偶像崇拝は帰り来り、現代主義の荒廃、心霊術の悪行、不敬虔の俗化奢侈、また異端と形式が侵入し来り、堕胎を罪としながら産児制限を道徳とする罪なる偽善、過激主義の危害、その他の恐るべき悪事は、他方面の異常なる時徴を別にしても、心を用いて聖書を学ぶ者にノアの時代が今一度我らの上に臨んでいることを信ぜしめるはずである。
 おお、来るべき怒り、しかももはや近づいているその怒りを遁れるべく人々を警戒するエノクやノアの現れんこともがな。
 今この文を読み、神と偕に歩むことを慕い求め、しかもかかる神との交通のために払うべき価の軽少ならぬことを自覚せる人々、すなわちノアがそのために孤独の道を行き、汚辱嘲笑失望を忍んだごとく、今日もなお同じ犠牲を要することを悟れる人々に私の言わんとすることは、「痛切なる信仰の幻」が神の憐憫とともに神の怒りの現実を示すまでは、エノクやノアのごとき宣教の力を持つことは不可能だということである。
 そしてなお私はこのところに我らの時代のすべての説教者のために一つの模範として、マデレーの聖徒的牧師の講壇から響く声の微かな反響を附加する。すなわち彼は言った。
 「私は、天使たちのその聖前に戦きをもって喜ぶその神のご威光によって、いま直ちに諸君の耳に宣告を電轟し、即刻諸君の霊魂を取ることを得たもう主の畏ろしさによって、しかもまたかくも甚だしき忘恩にもかかわらず、なお諸君のために同情に動かされたもう天父の慈悲憐憫によりて、諸君に懇願する!! 諸君のよってもって造られたる永遠の御言の受肉により、我らの大いなる神また救い主なるイエス・キリストの御謙卑、御苦痛、御試誘、御涙、血の御汗、またその御苦悩によって諸君に懇願する!! 主の御就縛、侮辱、鞭打ち、嘲弄の衣、棘の冠、重き十字架、御手足を貫きたる釘、裂かれたる御体を刺したる死の武器、その毒が主の霊を飲みたる全能者の矢、主をして『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばしめた不思議な神の怒りの打撃によって諸君に懇願する!! 私はまた諸君の不死の霊魂のために、諸君を永久に突き落とすべき未だ見えざる出来事のゆえに、間もなく諸君の横たわるべき死の床のゆえに、もし神と和らぎおらねば空しかるべきその嘆息のゆえに、諸君に懇願する!! 神の正義の剣と恩寵の王笏によって、終わりのラッパの響きによって、主イエス・キリストの千万の聖き天使とともに突然顕れたもうことによって、やがて我らと共に出でて永遠の運命を決せられるべきその厳かな審判の座のゆえに、頑なな罪人の絶望、更生せる霊魂の知られざる歓喜のゆえに、諸君に懇願する!! 私は懇願する、今この時より畏れ戦きて己が救いを全うせよ!! 門よりして羊の檻に入れよ。一切のものを売りて大いなる値の真珠を買え。キリスト・イエスを知ることの優れたるためにすべてのものを塵芥のごとくなせ。神が義とする信仰をもって祝し、またそれなくしては主にまみえ得ざる聖めをもって諸君を祝したもうまでは、主を去らしめまつるな。されば諸君がやがてこの涙の谷より引き上げられて、全うされたる義人の住まいに移される時、御座に坐したもう御方とその血をもって我らを贖いたもうた小羊の前に、不死の栄光の冠を投げ出すであろう。願わくは讃美と尊貴と栄光と権力、世々限りなく彼にあらんことを!! アーメン」と。
 この未だ見ざることの警告、我らの霊魂の切なる畏れは、今一人の義の大宣伝者ホイットフィールドをして以下のごとく言わしめた。「私が出会う何事もみな、それとともに「汝往きて福音を宣べ伝えよ、地に在りては旅人たれ、そこに何の定まれる住処を持つな」という声のするように感ずる。そしてわが心はこれに応え、「主よ、我を助けて御旨を行い、またそのために苦を忍ばしめたまえ。己が安逸を求めて巣籠もりせんとする危険にあるを見そなわさば、憐れみて、しかり、優しき御憐憫をもって、我がかく巣籠もることを得ざるよう、わが巣に棘を置きたまえ」と申し上げる」と。
 おお、願わくは我らにもかく言うことを得しめられんことを!



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