「キリストと我を別々に二人として考える瞬間、我は消え去る。」
──マルティン・ルター
「神の見たもうごとく事物を見得るために、信仰の力強き種粒をして、心に残る不信仰の山を移さしめよ。……さらば君はパウロと偕に『ああ深いかな』と叫び出すであろう。……かくて君はキリストを取りて己が生命となし、その肉を食し血を飲むことによって彼の肢となり、彼の肉を己が肉、彼の骨を己が骨、彼の義を己が義、彼の十字架を己が十字架、彼の冠(それは茨の冠にしても栄えの冠にしても)を己が冠と考え、この愛する贖い主を通して、自ら罪につきては死にたる者、神につきては活きたる者と思うに至るであろう。おおわが友よ、我らをして信ぜしめよ。そして我らは生命の言葉を見、味わい、また手にさわるであろう。」
──マデレーのジョン・フレッチャー
信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 (ヘブル書十一章四節)
我らがヘブル国民のこの大画廊に入るや否や、まず目に着くところの二つの肖像は、或る人々には有史以前の人物と思われるアベルとエノクのそれである。この二人よりして我らは人生の大動力、すなわち活ける神に対する信仰を学ぶ。続いて見るところの諸人物も、信仰が聖き生涯を送るための動力であることを教えるけれども、この画廊の入り口において見るこの二人、歴史の真の曙におけるこの二人は、霊魂の新生という不思議な奥義の秘訣を教える次第である。
私が第一章において注意したように、聖霊はこの所に掲げる肖像をば二つずつ一組にし、各々の真理を二つの異なった方面から見せしめたもうのである。すなわちアベルの物語は贖罪の犠牲を信ずる信仰を語り、エノクのそれは活ける臨在を信ずる信仰を語る。すなわち十字架に釘けられた主と、復活の主に対する信仰である。
使徒ヨハネもまた、主イエスの御伝道の初めを叙述するにあたって、この二重の肖像を描いている。すなわちその福音書の第三章においては霊魂に生命を与える御霊の働き、十字架に挙げられたもうべき御子の働き、その生みたまえる独り子を世に与えたもうた父なる神の働きを我らに示し、第四章においては霊魂に満足と喜びを与える御霊の働き、活ける救い主として罪人の門に立ちたもう御子の働き、贖われた霊魂の崇敬礼拝を求めたもう父なる神の働きを顕している。この両方面の互いに相補いおるは如何に幸いなることぞ! かくてこそこれは完き救いの充分なる満足すべき秘訣である。
さて我らはまずアベルの物語から、贖罪の犠牲を信ずる生ける力ある信仰の結果を学ぶのである。さてこの所にヘブル書の記者はこの大動力の三重の効果を我らに語っている。
人類歴史の真の曙に起こったこの悲劇をば、創世記第四章に叙述されおるところに随って想い起さんため、想像を働かせて考えることは差し支えないと思う。さて、我らは想像する。エデンの悲劇を十分承知しているカインとアベルが、その父の神に捧げ物を奉らんと出で行きたる時、弟アベルはその兄の礼拝をば極めて熱心に見守っていたのである。カインの献げたものはその勤労の最善の果で、誰の目にも完全な供え物と見ゆるものであった。けれどもアベルがこれを眺め見守る間に、その供え物が神に受け納れられたという何の証拠も見えず、したがってカインの顔に何の喜びも輝かず、確信の証拠も見えなかった。すなわちその目に光なく、その唇に讃美の歌なく、その舌にハレルヤなく、すべてがただ機械的形式一遍であった。一切がみな人間的で、神よりと認める何の証拠もなく、そこには天の空気が漂わず、光なく、火なく、上よりの焔がなかった。
疑いもなくアベルはこれらのことを見て深く感ずるところがあった。さりながらアベルがその兄の失敗の理由、或いは彼自身の勝利ある満足なる信仰の理由を何処から学んだかということは、我らには示されておらぬ。ただ我らは『信仰は聞くことによる』(ローマ十・十七)ことを知っているのみである。その時アベルがその両親に行き、彼らはどうして無花果の葉の衣を殺された獣の皮衣に更えたかを聞いたかどうか、我らはそれを知る由がない。我らはただその時に起こった事実と、それによってアベルの霊魂に受けた感じと動きとを学ぶだけである。
とにかくアベルは、神の求めたもうものは供え物、すなわち我らの所有物、『自分の手の働き』(申命記八・十七)の供え物でないということを学んだ、すなわち悟るに至ったのである。実に我らの神の欲したもうところ、要求したもうところは我ら自身である。『あなたの心をわたしに与えよ』(箴言二十三・二十六)とは神の恵み深き御招きである。神はご自身のために我らを造りたもうた。神は我らの交わりと我らの愛を切望したもう。カインが失敗したのはこの点である。彼は自己を全く神に献げようという意向を持たなかった。彼はただその所有物の中から献げ物を奉った。彼は自分の目的のために神の恵みを得ることを求めるのみであった。彼は神よりして自己の便宜を得たいと思う
。神が自分の従者となりたもうことを求めるので、自ら主の僕たらんとする意向はなかった。彼の唯一の神は彼自身である。彼の顧慮する一切は自己という肝要なる人物を中心としてめぐる。アベルは今、かくのごとき礼拝の空虚なこと、悪く愚かなことを見抜いた。彼は、何故にそこに神に受け納れられたという証拠もなく、喜びの天的兆候もないかということを怪しまない。さればアベルは今、その創造主なるその神に己が心と愛情の全部を献げまつろうと決心したのである。
されども、ああ、哀しいかな! 彼がこの問題を一段と考え進む前に、早くも二つの打ち勝ちがたき困難に出会った。それは(一)自ら罪ありと感ずる良心、(二)罪深き自分の性質であった。
さて彼の罪は何であったであろうか。我らはアベルに普通人以上の特別な罪があったと想像すべき何の理由も持たぬ。彼が放蕩児のごとく淫逸な生活をしておったという何の証拠もない。否々、彼の罪はかかることではない。ただ、我らの神を忘れ、我らの造り主を無視し、我らの父を見棄て、我らの王を拒み、我らの生命の根源たる主を侮り、我らの救い主を蔑し、天地の主を認めず、すべての善きものの与え主を敬わずまた感謝せず、世を愛したもう大いなる主の御愛を軽んじ、これに酬いることをせぬならば、これらのことは世の最も無疵な道徳家でも、神の御前に有罪ならしめるに充分である。神の宇宙の法則により、天の陪審官たる宝座の前の天使や天使長の一致せる判決は、かかる人間を永久に罪に定めるは当然である。
アベルは自らの罪あることを知った。ここに彼の信仰の初めがある。彼は信じた、その失われた零落した有様を十分に信じた。かくして彼の心の供え物は造り主に受け入れられぬということを知った。
されどもなお一層深く自己を探り、その内的生活のすべてを省みれば、神の御前に受け納れられる献身に、なお一層深い不足と一層大きい妨げのあることが顕れるのであった。
さても! 自分のうちに彼は自己所有の主張を全く投げ出して神に降服することを好まぬ心のあることを見出したのである。彼はその心に、神の善なる御方であるということに対する不思議な疑懼、厭うべき疑念、すなわち神は自分の悦んでささげ得る以上のことを求めたもうかも知れぬという恐れが、その心にあることを発見したのである。しかも彼には、神が人の心よりの献げ物でない何物も受けたまわぬことを知るだけの霊的理解があった。嫌々ながらの承諾、圧迫されての降服は、神の求めたもうところでない。かく彼は、その有罪なることに加えて、その性質の中に叛逆の本城、すなわち頑固剛腹な精神のあることを悟った。この精神は地獄で生まれ育ったもので、エデンの悲劇から来た、その良心より嗣いだ恐るべき遺産である。神の御霊によって自覚させられ、光を与えられた正直な霊魂は、いずれもみなこの診断の謬らぬことを認める。かつて世に在ったすべての聖徒の信仰はみなここから出発したのである。されど感謝すべきことには、かく自己に罪深い心のあることを信ずるこの信仰は、我らをそこに棄ておかず、我らの神の善意と忠信と能力に対する一層進んだ一層深い信仰にと我らを指示し、導き、また促進するのである。
『信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ』。いまアベルの霊魂の中に、彼に迫り、止むに止まざらしめる一種の力があって、彼をして啻にこれらのことを悟りまた考える(すなわち正統派の神学者たる)のみにとどまらず、むしろ義しき聖き神に悦ばれる一つの供え物をささげ、これが受け入れられんことを訴えかつ推し迫ることの絶対の必要を彼に勧めるのであった。さて、かく彼に迫り勧めたその力がすなわち信仰である。
彼がその造り主の恵み、その義、その愛を思いめぐらす時にますます深く心に感ずるは、かかる神には必ず救済の道があり、かかる神にまでは必ず至るべき道があり、かかる神からはまた必ず不可能のことをも成し遂げしめる力が出ずべきであるということで、彼はますますこれを確信するに至ったのであった。彼は、必ずその母よりして、女から産まれる贖い主の来り、蛇の頭を砕き、その業をことごとく打ち毀ちたもう日のあること聴き、その父よりして、彼らの裸体を掩うその皮衣は祭壇の上に殺された獣の皮であることを聞いたであろう。そして彼はその聞くところをすべて信ずるほどに充分単純であり、今はすぐにその信仰を実地に試すほどに充分に悩み抜いている場合であった。そして彼はその霊魂の中に、その兄カインのそれよりも勝れる犠牲を献げるよう、彼に逼り来る力強い一種の力のあることを見出したのである。我らは今、彼が垂れたる頭と謙れる心をもって祭壇の傍に立つを見、彼がまさに殺されんとする小羊の頭に手を按きて、この無罪の犠牲の上にその罪を付すを見、彼がその砕けた罪の言い顕しに唇を震わすを見る。そしてその小羊の血の流れ、生命の注ぎ出された時に、彼はその罪の取り去られたことを敢えて信じたのである。そこには軽率な気楽な信心主義、単なる自己満足の正統信仰はなく、かのズールーの回心者をして『キリストの十字架は聖徒となるべく我を罪に定める』と言わしめたその精神があるのである。
されど犠牲はなおそれで充分ではなかった。一層大いなる要求はまだ満たされぬ。そこになお内住の悪、すなわち彼をしてかくも不自然に恐れ惑い疑わしめるところの、不思議な恐るべき傾向が残っている。理性はそれを愚であり悪であると責めるけれども、なお依然として心に在る。彼の心の猜疑はその理解力の軽蔑にもかかわらずこれに降服することを拒む。彼はこれを彼の存在そのものの繊維に絡まりついているところの悪、その砦から逐い払わんとするあらゆる企ての裏をかく曲者であることを見出すのである。
されど神に感謝す。彼の信仰は失敗せぬ。彼は、信仰の明瞭な誤らぬ光をもってこの悪よりの救済、実地の救いを見た。彼はその震える手をもって、今は死骸となっている犠牲を挙げて、祭壇の上に置く。そして今一度彼はこの小羊の上に両手を按き、今一度彼は天を見上げる。そして火が降ってこの供え物を焼き尽くした時、彼は彼の衷にあって神を悦ばせ奉らぬ一切のものを、聖霊の火が焼き滅ぼしたもうと、今一度敢えて信じたのである。しかり、『律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のために(罪の供え物のために as an offering for sin =英改正訳)つかわし、肉において罪を罰せられたのである』(ローマ八・三)。アベルは信仰を通して、模型によってその実体なる救い主の真理を学んだ。すなわち小羊の血によって赦され義とせられるのみならず、『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである』こと(ヘブル十・十)。神は『その十字架の血によって平和をつくり』たもう(コロサイ一・二十)のみならず、『御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである』ということ(コロサイ一・二十二)、我らは『キリストのからだをとおして……死んだのである』こと(ローマ七・四)、キリストの殺され裂かれたもうた御体によりて、我らの衷なる『この罪のからだが滅び』ること(ローマ六・六)。また我らはイエスの血によりて、憚らずして至聖所に入ることを得るけれども、我らがそこに入る力をもつのは、その肉体すなわち裂かれたまえる御体によってである。何となればその御体こそ、実に『新しい生きた道』(ヘブル十・二十)、すなわち我らがその中に動かずして安息しおるままに、その肉体それ自身と共に我らを動かすところの道であるということを学んだのである。
ヘブル書の記者は、進んでアベルの信仰の第二の効果を語る。
『信仰に由りてアベルは……正しと證せられたり。神その供物(gifts, 複数)につきて證し給へばなり』(=文語訳)
アベルが慕い求めて持たんことを願ったのはこの証であり、彼がその兄の礼拝に欠けおるを見たのもこれであった。この証なしには心の平和も讃美も感謝もあり得ない。これが欠けていては何の喜びもない。確かに他人に向けての証言もできるはずがない。神が自己に証したまわぬことをどうして人に証することができようか。これがないのはキリスト教会の大いなる欠陥である。ジョン・ウェスレーの父は、その臨終の床辺にその子を呼び、『内心の証、ジョンよ、内心の証こそキリスト教の証拠である』と言った。
聖霊はこの証に関してここに二つのことを語り、かつその働きとその性質を示したもう。
ヨハネもまた『信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている』(ヨハネ一書五・十)と言っている。しかし注意せよ、『この証をもつ者は信ずる』ではない。哀しいかな、多くの人は間違った方面にこの内心の証を求める。彼らは自分で神を信ずるよりも先に御霊の何らかの確証の内心に与えられることを待ち望むが、かかる望みは無益である。元来、我らの信仰の根拠、確信の基礎は、実際具体的に行われた歴史上の事実なるカルバリの犠牲である。これは実に世界の歴史における最も驚くべき大事実である。そして我らがこの驚くべき供え物を信じ、その信仰を口をもって告白し、目をこれに留め、手をこれに按き、心をその上に安んずるまでは、聖霊は内心の証も確信も与えることを絶対に否みたもうのである。アベルの場合には、それは神が人の罪のために犠牲を要求し、またこれを備えたもうことを信ずる信仰であった。彼をして神の定めたもうた仕方で犠牲を献げることを得せしめたのもこの信仰であり、神をして彼は正しと証することを得せしめ奉ったのもこの信仰であった。そして彼が正しと証しせられたその義は、彼に帰せられた義と彼に与えられた義と両方共に含んでいる。これはキリスト・イエスにあって神の賜わる二つのいと幸いなる賜物である。
次に聖霊がここで我らに語りたもうところはこの証しの性質である。
この内心の証は感情的のことではない。人の心の感動によって造られる何物でもない。したがって心理学の法則によって説明される一種の経験でない。これは神の賦与、神の与えたもうところのものなる超自然の賜物である。神ご自身が実際に彼の供え物につきて証し、彼は義しと証したもうたのである。かくてアベルは現実に『神に対して平和を得ている』(ローマ五・一)ことを意識し、この世とこの世のいかなる人も与えることを得ず、また奪うこともなし得ざる『神の平安』(ピリピ四・七)を自覚したのである。
創世記第四章の物語を読めば、一見、アベルはただ一つの犠牲、すなわち血の犠牲を献げたように見える。しかるにヘブル書の記者はこの『供え物』という語に複数を用い、その供え物がただ一つでなかったことを示している。そしてさらに創世記の記事を顧みれば、『主はアベルとその供え物とを顧みられた』(四・四)と書いてある。我らが既に学んだごとく、アベルはその兄の失敗とその原因を観察したのち、神の要求したもうところは供え物、すなわち一種の贈り物ではなく、彼自身を献げること、すなわちその肉体と霊魂と霊との一切の機能を挙げて献げることであるということを悟ったのである。
かく彼自らを献げることは彼の供え物の一つであったが、今一つはその羊の初子であった。一つはローマ書十二・一〜三で読むところの『生きた供え物』、今一つは血の犠牲である。神の前に義なりとの確信をアベルに齎したのはこの二つの供え物につきて与えられた証であった。すなわち彼は小羊の血を通して義と勘定され、また天よりの潔めの火を通して、実際に義しき者となされたのである。
されば今、御霊の証したもうこの二つのことを今一層詳細に研究したい。
我らが既に注意したように、御霊は第一にカルバリの犠牲について証をなしたもう。彼は我らをして目をこれに集中し、信仰をその上に置かしめたもう。かくてキリストの真理は、もはや単なる神学上の教理や信仰箇条でなく、霊魂にとって現実な、死活的なこととなる。十字架は避け所であり、また患難、恐怖、疑惑の襲い来る時のいと近き助けである。そして聖霊は我らが神に対しての平和、すなわちキリストの十字架の血による平和をもつことを、我らに確証したもうのである。使徒五・三十一、三十二に明らかに示されているごとく、聖霊の証したもうところは、キリストが悔い改めと罪の赦しとを与えるために十字架に釘けられ、また神の右に挙げられたもうたという『これらの事』である。第二に聖霊はまた、我らが自身を献げるその供え物につきて証したもう。すなわち我らが神の愛子に在って神に受け納れられていることを知らしめたもうのである。ただ単に自己を神に献げたということだけで満足している者に霊魂の平安はない。真に平安が我らの霊に透徹しこれを満たすのは、我らが自ら献げたものを神に受け納れられたと知るその時である。この点についても聖霊は我らが神の子たること、すなわちキリスト・イエスに在って受け納れられていることを、我らの霊魂と共に証したもうと聖言に明示されている(ローマ八・十六)。
そして我らが自己を献げるその供え物を神が受け入れたもうたという確信は、ただ既に信じおる霊魂にのみ与えられる。我らは信ぜねばならぬのである。信仰の根拠基礎はガラテヤ書二・二十に示されている。すなわちただ我らの罪ばかりでなく、我ら自身もまたキリストと偕に十字架に釘けられているのである。パウロはまたほかの所で『わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。(わたしは)この十字架につけられ(もちろん、真実に罪赦されおるのみならず)』(ガラテヤ六・十四)と言っている。すなわち献げ物を聖め、聖なる神の受け納れたもうところとならしめるものは、この十字架の祭壇である。神に感謝せよ。経験的に、死と救いが霊魂に来るのは、我らの苦しみ、もがき、決心、或いは献身によるのでなく、神の御子の裂かれたもうた御体を通してである。これによって我らは聖められ、キリストに在りて受け納れられるのである。我らが信ずる時に、信ずるごとくに、信じおる間に、聖霊は証を与えたもう。そして聖霊のこの証はまた録されたる聖言を通してであることが明示されている(ヘブル十・十五、十六)。さればまたそれが信仰によって受けるものであるのは必然である。
古のある記者はこのことを次のごとく言い表している。
「我らをすべての罪から潔めるは、ただイエスの御血である。それは罪の罰として受ける苦しみでもなく、いかなる種類の禁欲でもなく、我らの持つ何物でもなく、既に受けた何の恩恵によるのでもなく、我らがいかにありまたあり得るからでもなく、死または死後の煉獄によるのでもない。否、我らの行為、受苦、努力の一切を合わせた煉獄でもない。否、否!すべての我らの救いを我らに得せしめる功ある原因はキリストである。ただ彼のみ罪を赦したもう。そしてまた彼のみすべての不義より潔めたもう。そしてこれを受ける唯一の条件であり、敢えて依り頼み奉る全能力に与るものは、信仰である」。
次に、ヘブル書の記者が示すところの、アベルの信仰の第三の効果を学ぼう。
さて、語るものは彼の殉教でなく彼の信仰であり、彼自身の血でなく小羊の血を信ずる信仰であるということは、いかにも感謝すべきことである。我らはみな殉教者となることはできぬ。そればかりでなく、彼自身の血は神に向かってその復讐を語りまた叫んだけれども、彼が屠って献げた小羊の血はそれよりもまさったことを語る。しかり、彼は憂え疲れおる罪ある霊魂に、その信仰によって今なおこれを語るのである。その供え物が受け入れられたというこの一大事件の後のアベルの生涯ははなはだ短く、それは数時間、或いは長くて数日で、ほとんど投げ棄てられた生涯のごとくである。彼はその受けた恩寵の果をその生活に表す機会を持たなかった。けれども殉教をもってその冠とした彼の短い生涯は、代々を通じて幾千万の人霊に語り来った。そして我らも、神のいと恵み深い道のために生命を献げたこの世界最初の殉教者と交わり、その証を受けるのである。
ところで、アベルは喜びに溢れる心、深く平安を宿せるその霊、歌の破れ出るその唇、光に輝くその顔をもって、この喜びの音信をその兄に告げんと急いだ。『カインは弟アベルに言った』(創世記四・八)と書いてあるが、言うまでもなくそれが畑の作物のことや天候のことについてでなかったのは確かである。その日、彼らの間に語るべき話題は唯一であった。しかし当時のパリサイ人なるカインには、かかる霊の充溢、かかる歓喜、また幸福の証は大嫌いのことであった。されば彼の後裔である代々の多くの人のごとく、カインはその心に殺意を起し、アベルを野に誘い出しただ一撃に彼を黙せしめた。かくて贖いの血に対する証をば、永遠に黙せしめたとカインは考えた。されど神に感謝す、それは間違いであった。アベルの信仰は今なお語る。贖いの血を信ずる信仰は霊魂に平和と喜びをもたらすということを、今も我らに語っているのである。しかり、ただそれのみでなく、今もなお敵対するこの世に向かって、これを証しする勇気をもたらし、神の極端まで救いたもう全き救いの栄えある真理を擁護するためには我ら自身の生命をも惜しまぬ能力を与える。
これはただ過去の一つの物語ではない。私は今ここに今一人の東洋人の物語を紹介しよう。神の御霊は六千年前のごとく今もなお働いていたもう。そしてその御道筋はなお同一である。その道、その救済、その能力は、ただ信ずる何人に対しても今なお有効である。私が今ここにその証を引かんとするその人は、私がほとんど三十五年間親しく交わって熟知する我らの友人である。
彼は彼の友人たちの間に、神の御霊の著しいお働きのあったことを証した後に、次のごとく言う。
「……私はその夜は黙して退き床に就いたが、朝の四時に目が覚めて見るに、一人の友人(日本人)が私の床の傍らで祈っていた。彼は終夜祈っていたようであるが、あたかも聖霊の息を呼吸しているように見えた。私は部屋を出て、祈りのために城山に登り、全く砕かれ溶かされて泣いた。その所で私は自分の心がいかなるものであるかを見て恵みを求めたが、涙も告白も実際の恩恵でないことを知った。砕けた心も救いではない。何ら本質的なものがとどまらぬ。数時間熱心に謙って祈ったのち、再び失望した。けれどもなお神ご自身から確実な恵みを得ることを期待し、献身と断食をもってこれを得んと思い、いかなる値を払うともそれを得るまでは山を下るまじと決心した。私は山を登り、靴を脱ぎ、面を伏せて神の聖前に一切を差し出した。私は永久に神に受け納れられるために何らかの確かなお答えを得るを望みつつ、午後の二時から夜の十一時まで待ち望んだ。私が一切を祭壇に献げたと思えば、次の瞬間にはまたそれが自分に返ってくる。私はついにこれらのものと離れ得ず、自分に何の変化も来らず、なお幾たびもこれを繰り返したが、ただ無益に試みるのみであった。私は疲れ果て精力尽き、もはや山を降るようにと誘われた。けれども、その時に、
「さればこそ、キリストはご自身を献げ、汝のために死にたもうたのである」
という明らかな確かな答えを得た!! 汝が自己を献げ得ぬから、キリストが、完全に神に受け納れられる身代わりとなりたもうたのである、と仰せられるのである。彼に在りて、彼に由りて、私は受け納れらるべきである。そして私は受け納れられているのである。それははなはだ単純で、私にとってはかくも長い間の期待に対する答えとしてこれを捕らえまたこれに満足するには、あまりに単純すぎると思われた。されどこれは天よりの親しき御告げそのもので、はなはだ明瞭であった。その上さらに進んだ光を得ることができなかったので、裸の信仰でそれをしかと握ったまま何の感情もなしに山を下って家に帰った。しかし、それは実に驚くべき恩寵であった。私がその翌朝目覚めた時、輝く日光は部屋を満たし、心は天の光をもって満たされた。……神は私にわが罪の一切を告白する能力を与えたもうたので、これに順い、秘密の心を開いて神と人との前にわが罪を言い顕したその時、聖霊は驚くべき能力をもって入り来りたもうた。その夜、神の臨在は私を圧倒し、私のこの体は砕け、骨々節々は外れたように思われた。そして神の驚くべき愛は漲り来り、神の慰めは私の存在の奥の奥まで徹した。しかり、私はかくも長い年月の間、わが背反の心をもって神を憂えしめ奉ったのである。しかるに神はついに打ち勝ちたもうた。その時より以後、私は神に在りてその聖きの中に保たれている。」
かく、紀元前の四千年のごとく、紀元後二千年の今日もなお、信仰は真実に人生の動力である。神を頌めよ!
| 序 | 緒言 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 目次 |