第十五章 ラハブ──全き救い


 『信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。』(ヘブル書十一章三十一節)

 我らはいよいよこの画廊の末端に達した。この最後のものは婦人の像である。聖書にある女丈夫のうちただ二人だけ選ばれ、全身大に描かれている。サラがその一人であることは怪しむに足らぬ。けれども聖書にその生涯の記載されている貴き婦人の銀河のごとく輝きおる群の中からラハブのほか誰も選ばれておらぬということは、多くの人には驚異である。聖書の系図には一般には婦人の名は記されておらぬ。けれどもマタイ伝第一章に掲げられおる主イエスの系図には五人の婦人の名が見える。第一は娼婦タマル、第二は遊女でしかも異教徒なるラハブ、第三は異教徒の寡婦ルツ、第四は姦淫の女バテシバ、第五は幸いなる処女マリアである。さても驚くべく、罪の増す所に恵みのいや増すことぞ!
 かく主イエスの祖先のうちに数えるに足るとせられた者の像が、ヘブル民族の国立画廊に列せられるのは怪しむに足らない。されども我らはこの大いなる見物を見んと振り向き、何処に彼女の資格の証拠があるかを見たい。そもそも聖書にはたやすくは切れない三つよりの綱(伝道の書三・十二)がある。すなわち聖書の何処にも歴史的記録があり、思慮深き研究者は預言的解釈を探知する。そして聖書によりて教えられる者はまた霊的の適用を見出すことができる次第である。
 ここでもその通りで、エリコの滅亡は、その不義がほとんど爛熟して審判に近づいている世界の上に速やかに臨むべき神の御怒りの型であり、ラハブがその破滅から救い出されることは、かつては罪に汚れた者で、今は召され選ばれ、忠信なる者とせられ、聖められたる者なる活ける神の教会の救出される型である。さればこの物語がヨシュア記第二章の原記事にかくも詳細に掲げられおることは奇異とすべきでない。ここにヘブル書においては彼女の救いをその信仰に帰し、ヤコブ書においては彼女の行いに帰している。かく同じ出来事が両方の記者によって各その論点を証明するために引用されている。すなわち彼女が平和をもって間者を受けたことがヘブル書の記者によっては信仰の証拠として引かれ、ヤコブによってはそのいさおしとなる業の証拠として論ぜられているが、いずれも真理である。この物語を注意して精読することは、御言の思慮深い研究者をして、ラハブの信仰の話を聖書全体にわたって最も驚くべきことの一つとして認めざるを得ざらしめる。
 私は今、彼女の実物大の画像を充分に観察するために、八つの異なれる角度からこれを眺めたいと思うが、その背景を叙するために簡単な緒言を必要とする。
 およそ四十年前にイスラエルの軍勢が約束の地に近づき、カデシバルネアの境に至った時、モーセはその地を窺いて報告をもたらしめんとて十二人を遣わした。そのとき彼は各支族の中から最上の人を選抜した。彼らはみな牧伯たる人々で、その名も系図も記してあるのである。されど悲しいかな、我らは彼らがいかに惨憺たる失敗をなし、全軍を迷わしめ、惨めにも神の御手に亡んだことを知っている(民数記十三、十四章)。
 いま彼らは再び約束の地に達した。そしてこの度は往事の忠実なる間者の一人なるヨシュアが指導者である。彼もまたその地を窺わしめんとする。けれどもこの度は彼は試験的に窺うのではなかった。間者はただ二人で、しかも名もなき者であった。彼らは速やかに帰ってきたが、その手にエシコルの葡萄(民数記十三・二十三)も携えず、土地や住民の詳細の報告も齎さなかった。彼らの持ち帰った唯一のものは、貧しい異教の遊女の証言であった(ヨシュア二・二十四)。しかし間者は非常に深くそれを感じており、不思議にもヨシュアも大いに動かされ、待ちいたる全軍はいたく満足し確信づけられ、猶予なく征服し勝利すべく前進するに至ったのである。
 一人の貧しき女、しかも堕落の底にあるその女の単なる証言が、イスラエルの全国民をして約束の地に入らしめたのである。されば我らはしばし立ち止まり、この物語を熟読し、彼女をして世代を隔てたる今の我らの心に語らしめることは善いのである。何となれば、誠に神は世の賤しき者を選び、それをもって強き者を辱めることを喜びたもうからである。
 今あなたがヨシュア記第二章を開くならば、そこにかかる偉大なることをなせるラハブの信仰の物語を見るであろう。

第一、信仰の働き

 『彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、……女はすでにそのふたりの人を入れて彼らを隠していた。』(ヨシュア二・一〜四)

 真の信仰は常に働く。ラハブにとりて敵の間者を助けることは正に生命を賭けてのことであった。けれども彼女は神を信じた。彼女はそのためにその一切を賭することを覚悟しているほどに神の道を深く確信していたので、その信仰を行為に顕したのである。
 ここにまた信仰の始めを見る。神はまずその心を探る言葉を我らに遣わしたもう。我らはそれを受けるであろうか。この心を探る言葉は肉的なるすべてのもの、我等の衷なる神の仇なる一切のものにとって、決して和らぐことのできない敵である。我らは神の側につき『それを受け』るだろうか(ヨハネ十七・八)。我らの救い主はその最後の大祈禱において、その弟子につき、聖父に向かって『わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け』と仰せたもうた。神は我らの心を探るべくその御言を遣わしたもう。そしてただ義と愛の神を信ずる信仰のみがそれを受けて、その業をなさしめる。生来の性質にては我らはその火のごとき瞥見、鋭い探る言葉、そしてその我らの真相の診察解剖に耐え得ずして萎縮後退する。けれども真の信仰が神の偉大なるご権能ばかりでなくその御旨の幸いなること、またその救いの力を確信せしめるならば、我らは我らの窮乏せる心の裸体を窺わしめんとて遣わしたもう御言を歓迎するであろう。
 おお願わくは信仰の業をなす勇気もがな。そして神の御言を受けるこのことこそ、信仰の最初の働きである。近頃、霊魂に非常な悩みをもって私の許に来て、神を信ずることの第一歩はその心に神の言葉を受け入れるにあると悟るように導かれた一青年が、数日の後に次のような手紙を寄せた。曰く、
 『主イエスの驚くべき恩寵と愛と御力よ。私は「敢えて神を信ずる」という言葉を愛します。ハレルヤ。
 しかし(お別れに臨み)私は「たとえ彼われを殺したもうとも我は主により頼まん」と申しましたが、神は私を殺しつつありたまいます。私は「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル十二・六)と仰せられる御声を聞きました。かくて我はいずれにしてもハレルヤと申します。私は罪深い信者の生涯の惨めな失敗を続けるより、むしろ神に殺していただくことをこそ願います』と。
 彼も古のラハブのごとく平和をもって間者を受けたのである。

第二、信仰の悟り

 『そして彼らに言った、「主がこの地をあなたがたに賜わったこと……をわたしは知っています。」』(ヨシュア二・九)

 真の信仰は気分でもまた感情でもない。それは悟識することである。『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた……ことを、悟るのである』(ヘブル十一・三)。そのごとくラハブも信仰によって悟ったのである。そこに真の知識がある。しかしそれは単に推定によるでも、直覚によるでもないところの知識である。彼女がイスラエルの軍勢の勝利の進程を知っていたことには相違ないが、すべてその事実や人物の背後、彼らの立てたる勲功や救い出しの物語の背後に、彼女はそれがすべて神の御手のわざ、神たるご能力の結果なることを見、信じ、知ったのである。彼女は言った、あなたがたをここまで導いたばかりでなくこの地をあなたがたに与えた者は神、ただ神のみである。神の与えたもう時に誰がこれを取り去ることを得ようか。私は知る、しかり、それをあなたがたに与えし者は神のほか何ものでもないことを知ると。何たる信仰! 何たる悟識ぞ! 後の日に、主がほかの異教徒につき『イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない』(マタイ八・十)と仰せたまえる、その御言はまたラハブについても言われるべきである。
 愛する人々よ、我らが自分自身の過去の歴史における事実や人物、またほかの聖徒たちのそれらを読む時に、その文外の意味を解し、信仰をもってそれは『これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』(マルコ十二・十一)ところなることを知ると大胆に宣言し得ぬであろうか。
 また我らはすべてのことが矛盾するように見えても、『神は約束の地を我らに与えたまえり』と言い得るであろうか。聖化のわざは、我らが或る教理を堅持し通すためでもなく、キリストの十字架に対する或る強い心の態度によるでもなく、献身、或いは我らのなし得、把握し得、また努力して入り得るわざでもなく、それは神のわざ、ただ神のわざのみであること、あたかもキリストが十字架上にて或ることを我らのためになしたまえるごとく、神は実地に聖霊による或ることを我らの衷になしたもうということ、神、そしてただ神のみが衷にわざをなしたまわねばならぬ、しからざれば決して何事もなされぬということを、深く霊的に確信しているであろうか。
 実に信仰のかかる悟りを持つその人は幸いなるかな。

第三、信仰の聞くこと

 『あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと……を、わたしたちは聞いたからです。』(ヨシュア二・十)

 前に言ったその知識をラハブはどこから得たであろうか。信仰の悟りの本質は何であろうか。私は既にこれは単に論断推定でも、或いは直覚でもないと言った。
 使徒パウロは『信仰は聞くことによるのである』と言い、また『聞くことはキリストの言葉から来るのである』と付け加えている(ローマ十・十七)。そしてなおそこに今一つの聞くことがある。それは証を聞くことである。ラハブの聞いたのはそれである。すなわち彼女は言う、『主があなたがたの前で紅海の水を干されたことを聞いた』と。しかしながら単にかかる証を聞くことだけでは信仰は生ぜぬこともあり得る。ほかの人々も同じ話を聞いた。ほかのすべてのエリコ人もみなその救い出しを聞いたのであるが、その聞いたことは信仰を生ぜず、ただ恐怖と失望とを生ずるばかりであった。否、否、御言を聴くことが証を聞くことに伴わねばならぬ。ラハブはこの奇蹟と不思議なる業を超えて神を見たのである。されば言う、『あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです』と。
 彼女は聞いた。そして、悪魔が信じて戦くごときかかる信仰でなく、神に対する信任をもって敢えて信じたのである。
 かくラハブにおいては聞きし言葉に信仰を交えたのである。彼女の救い出し、その永遠の救い、限りなき尊貴と栄光に至る益を得たのである。
 おお願わくは我らも、人の唇より出ずる証の言葉を聞く時、時を取り、これを堅める、我らの霊魂に語られる神の御言葉を聞き得んことを!

第四、信仰の祈禱

 『それで、どうか、……わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、……わたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください。』(ヨシュア二・十二、十三)

 信仰が霊魂のうちに在って、真実で生きた信仰であるところでは、その霊魂は常に祈る。ただ願望の祈禱でなく、信仰の祈禱を祈る。かかる祈禱は大胆であり、的確であり、また大きい祈禱である。ラハブの祈禱もかかるものであった。
 ラハブは、神の軍勢は必ず勝利を得るゆえに、彼女は降服のほか安全の道のないことを確信し、神の能力を信ずる信仰とその理由を証したる後、大胆に自らも神の仁慈と恩恵に与ることを許されるよう求める。彼女の確信はかかるものであった。おお、しかり、人の中に住みたまわんために叛ける者にも賜物を与えたもう神に悦ばれる信仰はかかる信仰である。
 この順序を注意すべきである。初めに祈禱、次に信仰でなく、祈禱を生ずる信仰である。我らは祈るがゆえに信ずるのでなく、信ずるがゆえに祈るのである。
 真の祈禱は信ずる霊魂の表現である。ラハブにおいてもその通り、彼女は神を信じ、その偉大なる権能、その確実なる約束、その必然の勝利、その不変の聖旨を信じ、またある程度にはその豊かなる恩恵を信じた。それゆえに彼女は祈った。そしてその大いなる嘆願に答えを得たのである。
 おお、信仰は事物を動かしまた作成する何たるものぞ! 何たる推進力、高く支持し、鼓吹する何たる力ぞ!

第五、信仰の冒険

 『そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。』(ヨシュア二・十五)

 信仰というものは常に危険を冒すものである。ラハブがかくして間者を去らしめたのは、自らの生命を賭けてのことであった。けれども神の御旨を行う道は絶対に安全なることを充分確信していたので、彼女には懼れることなくこのことを敢行する心の準備があったのである。信仰なくして危険を冒すのは熱狂の沙汰である。けれども我らは神の御旨とそのご企図を確信すればするほどに、危険なる企てにおいてもいよいよ神の保護を確信する。かくてこそ、他人が同じ企てに失敗したり躓いたりする場合にも、知り弁えつつ大胆に岸辺を離れて沖へと乗り出ることができるのである。
 神と偕に歩まんと志す者は、その道は狭く、しばしば孤独であることを記憶すべきである。
 反抗は、かく我らを取り扱うべく、我らの最も期待せざる人々より起こり、『無罪完全説を唱える者』であるとの誤解や嘲笑に出会うであろう。主と偕に歩むことは犠牲を伴う。けれども信仰をもってなすべきである。我らが主の御旨に随っているという大胆なる確信をして原動力にてあらしめよ。さらば万事善からん。
 間者らはその地を探ると共に、確実な完全な極端までの救いの約束をラハブに齎した。かくのごとき人々に対してラハブは忠誠を尽くさねばならぬ次第である。彼らは神の御言そのもののごとく、彼女の憂慮する霊魂にいと大いなる貴き約束を伝達したのである。
 彼女はその間者らの保護のためにいかなる危険を冒すことをも辞さなかった。願わくは我らも同じことをなさんことを。もし信仰が、我らの救いは全然神の御約束の成就にかかわることを知って、お約束を我らの霊魂に貴重なりとするならば、我らもまたこれがために危険を冒すことを厭わぬであろう。

第六、信仰の忍耐

 『ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。……しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。』(ヨシュア二・十九)

 我らが或る的確な信仰の祈願をなし、またそれがために或る危険を冒した時に、我らは直ちに或る著しい変化が起こるか、或いは何か目覚ましい救い出しを経験するであろうと思う。そして直ちに何も起こらぬために失望することがありやすい。かかる時にとかく心に動揺を起こし、落ち着きを失う。けれどもラハブはそうでなかった。彼女は救い出しの日の来るまで、危険の場所にて待つことをもって充分満足していた。彼女はそのことを自分の手にとって計画し、工夫し、その家を棄て、町を出で、平野の方へ行き、イスラエルの陣営に近づくがごときことをなさなかった。否、彼女は周囲の人々のみな恐るべき滅亡と殺戮を蒙るその中から家族の救われる約束の時を静かに待ちつつ、その在るところに留まった。彼女は神を信じた。そして信仰に安息したのである。
 信仰の道において忍耐にまさる大切なものはない。ヘブル書六・十二には古の族長たちの『信仰と忍耐をもって約束のものを受け継』いだことが書いてあるを読む。しかしこれは気楽な無頓着な怠慢と同じでないことは無論である。
 神の子どもたちにして、神の約束を信じて踏み出してよりその成就を経験し始める前に『七日にわたって』待ち続けたことを証しする者はいかに多きことぞ。彼らはその潔める効果の見え初めるまでに七度身を沈めなければならなかった。けれども真の活ける信仰はいつでも固執し、忍耐し、そして勝利するのである。
 神が近頃いたって恵み深き経験に入らしめたもうた或る人からの手紙にかくのごとく書いてある。
 『集会は終わり、先生もお帰りになった後、私は何も変わったことを感じませんでしたが、ただ神を信じて縋りついていました。十日の後に聖霊の降りたもうたという確信を得ました。私の心は喜びに満たされましたが、今もなお満たされております。喜びより一層深い、私が何とも名づけることのできない或るものを感じております。』
 この婦人も見えざる御方を見るがごとく忍耐深く忍んだのである。

第七、信仰の証

 『ラハブは……赤いひもを窓に結んだ。』(ヨシュア二・二十一)

 『我信ずるがゆえに語れり』(詩篇百十六・十=欽定訳)と詩篇の作者は言っている。真の信仰者は常に主のなしたまえることを証し、また語り出でる。
 ラハブの場合もその例に洩れぬ。彼女はその救い主として主に依り頼み、その二人の代表者によって彼女に与えたまえるお約束により頼むことを、神にもヨシュアにもすべてのイスラエルの軍勢にも証しするのである。
 たしかに敬虔なる信ずる心は、その赤き紐にさらに深いものを見る。すなわちかかる心には、ラハブの窓口から垂れる赤き紐は贖いの血の頌むべき象徴であるのであろう。
 真の信仰は、信ずる霊魂の取る歩みを堅くし確実にするためには、そのなし得るすべてのことをなすのである。
 ラハブは後方の橋をみな焼き棄てた。疑いもなく、彼女は後の日のエステルのごとく
『わたしがもし死なねばならないのなら、死にます』(エステル四・十六)、ただしわたしは神を信じつつ死にますと言ったであろう。
 私は思う、数日の後、ヨシュアは町を測り見、攻撃の備えをなさんとて独り忍び出でて城外に立ち、石垣の窓に垂れ下がっている赤き紐を見て、『勇ましの婦人よ』と独語したことであろう。もし私の想像が行き過ぎでないならば、ラハブの信仰の無言の証は大将ヨシュアの心に大いなる確信を与えたという結論に達しても間違いないであろう。 
 証言の理論ははなはだ単純である。すなわち、
 (一)それは我ら自身の信仰を強め、後ろの橋をみな焼き棄てて我らをしてのっぴきならぬ地に立たしめる。そして我らのうちの或る者はちょうどそのことを必要とする。
 (二)それは我らを癒したまえる御方の幸いなる広告である。我らは彼の誉れを語り告げるべきはずである。そして証はキリストに対して、またキリストのなしたまえることに対してなすべきである。
 (三)それはほかの或る人に恵みをもたらす。すなわち他人を励まして、行って同じことをなさしめるか、或いは神の我らに与えたまえる祝福を渇き求めるに至らしめる。

第八、勝利の信仰

 『こうしてふたりの人は……ヨシュアに言った、「ほんとうに主はこの国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。」』(ヨシュア二・二十三、二十四)

 今は勝利について語ろう。信仰の報いられた話はこの後の旧新約聖書の記事に顕れている。すなわち彼女とその家族の救われたこと、彼女が王たるメシアの系図に入るべき人に嫁ぎたること、そしてここに天のウェストミンスター聖堂にその碑銘を見ることなど、すべて彼女の受けたる大いなる報いの一部である。されどもここにその勝利の物語がある。彼女の信仰は二人の間者を感ぜしめた。これによって彼らは急いでヨシュアに帰り、『ほんとうに主はこの国をことごとくわれわれの手にお与えになりました』と言ったほどに彼らの想像と彼らの心に焔が燃えた。彼らはそれ以上に証拠を要しなかった。この遊女の信仰はそれほどの圧倒的の確信を伴うほど聖霊の力と証を伴っていたのである。
 かく二人の間者の心に燃えた焔は直ちにヨシュアの霊魂をも燃やした。民は召集され、報告(もしかく呼んでよいならば)は民に伝えられ、それは燎原の火のごとく燃えて敵を通して進むべき道を示し、すべての者が一斉に、勝利は彼らのものであり、そのなすべきことはただ上り行きて約束の地を嗣ぐことのみであるとの確信に満たされるに至ったのである。
 すべてこれらの学課は我らの心にとって誠に幸いである。されば私はそれらのただ一層深い、一層肝要なる重要なる意義を見過ごすことのあらんことを恐れる次第である。
 ラハブはヘブルの国立画廊に列ねられることを許された唯一の異邦人である。彼女はほかの輝く宝石の中にも特殊の光輝をもって輝く。さればこれによって異教の国のこと、また異教国のうちからかの日に主の御冠を飾る栄光ある宝石の一団に、想到せざるを得ざる次第である。
 私がもし『日本のエリコ』とか『異教国のラハブたち』と題する書物を書かんとするならば、それは容易である。されど今、私の日記の略記より一、二の例証を摘記してこの章を終わろうと思う。ここ外国伝道地にて、もちろん、善きことの来るを見る目を持っていて単に量や数の幻惑によっては惑わされない人々でないすべての者には、些々たることと思われるほど、規模において小さくはあるけれども、我らは我らが再三再四考えつつあった話を実地に見る次第である。
 日本においてまだ福音の伝えられぬ田舎の小さい町村を開拓する時、そこで、我らはしばしラハブたちが救われることを見る。そして不信仰の傍観者には失敗失望とも見えようけれども神はかかる伝道によって栄光を取りたもうのである。ここに数個の単純な人物短評を掲げよう。
 およそ四年ほど前に、或る市の郊外の村が伝道者の小さい一隊によって『攻撃』された。天幕は毎晩満員で、多くの者が救い主に興味を感ずることを告白した。けれども数週間過ぎてみると、真に回心した者は若い寡婦一人だけのようであった。この婦人は後に我らの伝道者と結婚したが、二週間前に、その天の住み家へと帰った。彼女が最後の息を引き取る数時間前に、その床辺にある友人に『あなたはまだ天国を見ませんか。私は見ましたよ』と言い、人々が別れを告げる時に、或る人が『その朝に我らはまた会いましょう』と言えば彼女は笑顔して『そうです。ハレルヤ』と答えた。
 今日ではそこに信者の有望な群があるばかりでなく、その近くに姉妹教会もできている。
         ×         ×         ×
 まだこれまでキリストの福音を聞く機会を持たなかった一つの小さい田舎の町が、去年、伝道者によって開かれた。集会はその出席人員においても彼らの興味を惹く点においてもはなはだ振るわなかった。数日の働きの後、一人の青年がキリストを見出した。その結果、彼はその村の模範青年と思われるようになった。先日、私は彼と語って、彼が昔のラハブのごとく、信じて救われるべく彼の心中に予めいかに深く備えられているかを実感したことである。まだ一年と経たぬ今日、その町に十数名の熱心な信者の群がある。
         ×         ×         ×
 我らはかなり大きな田舎の町を開いて、その働きを保つために、昔の二人の間者のように、二人の婦人が遣わされた。女学生のための聖書の組が持たれていた時に、学生たちよりあまり年過ぎているとも見えぬ若い婦人が訪ねて来た。彼女はほかの娘たちの帰ったあとに残ってその身の上を語った。それによると、彼女は数日前に医者から、もう長くて半年しか生きられぬと死の宣告を受けた、恐るべき結核の犠牲となっているのである。けれどもさらに悲惨な事情がわかった。彼女はその町における遊郭の或る楼主の娘で、大阪に送られて女学校でも専門学校でも立派に教育を受けたのであるが、家に帰って父の家に来た客の一人によって誘惑されたということである。他人の子供の淫行を恥と思わぬ彼女の父母も、自己の蒔いた種を刈り取る時の来たのを非常に怒った。されど相手が或る身分のある人であったので、結局、結婚が成立して夫婦となった。一年のうちに子供が生まれ、その次の年にその夫は柩の中に入ってしまい、三年目であるこの年、彼女は夫の後を追って墓に行くべく宣告されたのである。
 或る時、悄然として街を行きつつあったこの今様ラハブは、友人から、近頃開かれた天幕集会のこと、また今その町にミスS、ミスSという二人の間者のいることを聞いた。彼女らは語りつつ歩み行き、ちょうどミスSたちの家の前に来たので、この不幸な霊魂をそこに案内するに面倒はなかった。その時ちょうど聖書の組が持たれていた。彼女は遙か昔のその姉妹ラハブのごとくに、平和をもって御言を受けた。そして彼女の心とともにその生涯が真に一変したので、その証を通して、一人の神官がその見たるところに感じ、主に帰依し、神社を去って聖書頒布者となった。
 彼女は一時はその肺の病気も止められたように見えたけれども、結局それに勝ち得ずして、神の恵みの戦利品として天に取られた。
 今日、その二人のS婦人たちはすでに他に転じたけれども、この小さい町には自給の教会があって、ラハブの神は今日もなお同じく奇蹟を行う神にて在すことを証ししている。
         ×         ×         ×
 若い聖書学校の生徒が、休暇の間、福音を伝えるために遠い島に行くよう導かれた。彼らはそこに渡る船の切符だけ供給されて、ほかには何も与えられなかった。彼らはそこに到着した時に一銭も持たなかった。彼らは本通りの街路に面した一室を借り受け、町を廻って集会の広告をしたが、定めの時に至っても一人も集まらぬので、一人を前面に坐せしめて聴衆となし、声の限り張り上げて福音を宣べ始めた。数分経つ間に、およそ二十五人ほどその声に引き付けられて来て、その言わんとするところに注意深く耳を傾け、四人の者が後に残り、なお進んで尋ね、数時間語った後に主に帰依するよう言い表した。青年たちは励まされ、夕食も取らずに臥床に入った。朝になって、財布は空なので、朝食も取らずに自己を祈禱に委ねた。暫くすると回心者四人のうちの一人が救い主についてもっと教えられたいために出掛けてきた。話しているうちに彼らの財布も胃の腑も共に空だということを知り、急いで善い食事を供えた。
 彼らは回心者たちによって支えられて、そこに一ヶ月続けた。そして彼らの帰る時間の来た時、とうとう二十五人の一群が彼らを船まで見送り、神が彼らの霊魂のためになしたまえることに対する感謝の献げ物として、彼らの船の切符を手渡した上に五十円を彼らに与えた。

 我らのこの故国の友人たちのもっと多くの人々がその目を挙げて、美しき日本の福音未伝の町々村々におけるこれらのラハブたちを見得んことを願う。しかり、町々村々、至るところに貴重なる宝石がここに一つ、かしこに一つと隠れており、もしただ主の御冠のためにそれ自身を献げる機会が与えられるならば、またただ昔のラハブのごとく、奴隷をエジプトから引き出し彼らに約束の地を与えたもう神について聞き得るならば、集められるべく備えているのである。
 わが読者の何人も、我らが諸国のキリスト教化せることについて語らず、全社会が変化したとか、異教国に改革が起こったとか、多数の人々が教会に群集するというようなことを彼らに告げ得ぬとて、失望することあらざれ。神の御なされ方は概してかかる仕方ではない。
 バプテスマのヨハネが主イエスの御行動を解しかねて、その弟子たちを遣わし、『もしあなたが約束のメシアにてありたもうならば、どうしてただ数人の盲目や跛者や癩病人を癒すだけで満足したもうことができましょうか』とお尋ねした時に、主は彼らをその師に送り返して、『行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、云々』(マタイ十一・四、五)と言い、その後『わたしにつまずかない者は、さいわいである』(同六)という厳粛なる言葉を附加して告げしめた。
 何故にラハブとその家族だけが、腐敗堕落したエリコの滅亡から救われたかは、神の恩寵と智慧の神秘的なる御なされ方に任せ、これを理解せんことを求めずして我ら言わん。『おお主よ、あなたが私をそれに適うとしたもうならば、これら選ばれし霊魂を救う仕事に成功せしめたまえ。これは天使も羨むべき仕事であるけれども、我らがもしただあなたを我らの神と信じまつるならば、あなたが我らの貧弱な、か弱い、拙劣なこの手、なまぬるいこの心にも委ねたもう仕事なれば』と。



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