第十七章 天よりの声


 『あなたがたが近づいているのは……言葉がひびいてきた山ではない。……しかしあなたがたが近づいているのは……力強く語るそそがれた血である。あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。』(ヘブル十二・十八、十九、二十二、二十四、二十五)

 ヘブル書はその始めのごとく、語りたもう神をもって終わるのである。
 さて使徒パウロがその回心の時に受けた大使命は、彼が神の御意を知り、かの義人を、その御口の声を聞き、彼の証人とならんためであった(使徒二十二・十四、十五)。
 我らは既に信仰の勇者たちの研究において幾分か神の最も驚くべき御心を知り、前章において見えざる御方を見ること、すなわち我らの信仰の導き手また完成者なる御方を仰ぎ見ることの必要を見た。そして彼の証人として再び世に出で行かんとする前に、彼の御口の声を聞くためにいと高き御方の謁見室に伴われる次第である。
 御子によりて我らに語りたもう神の御声を聞くことは、全体のことの結論である。再びヘブル書の始めの韻律が我らの耳に響く。『神は……御子によって、わたしたちに語られたのである』(一・一、二)。『こういうわけだから……いっそう強く心に留めなければならない』(二・一)。『神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることのないように、注意しようではないか』(四・一)。『御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって』(二・二、三)。
 ヘブル書の終わりの章において、我らは『言の声』(十二・十九=文語訳;申命記四・十二参照)すなわちシナイにて聞こえたる声、『力強く語るそそがれた血』(同二十四)すなわちカルバリより聞こえる声、そしてすべてに勝りて『天から告げ示す』(同二十五)者の声が思い出せられている。
 確かに、信仰の勇者たちが我らの心に吹き込んだところの学課は、彼らの神の御声に対する従順な応答のみならず、『信仰は聞くことによるのであり、聞くことは(我らの霊魂に語りたもう)キリストの言葉から来るのである』(ローマ十・十七)ということの不朽の証言であった。
 聖霊の特に選べたまえる肖像の一つ一つは『生涯の動力』の別々の局面を我らに示している。これら古の聖徒たち(少なくともヘブル書の記者によって強調されている彼ら)各人の信仰は、神のご性質の種々の属性、或いは神の神的御運営における種々の目的とも言うべきものをもって占められている。かくして人生の種々なる境遇また困難に際会して、神を信ずる信仰が、いかなる経験においても、すべての行為の唯一の動力であるという肝要なる学課を我らに教えんとしているのである。
 アベルの信仰は神の義、すなわち神の義の公平とその憐憫をもって占められている。
 エノクの神に対する愛情ある信任は、神が熱心にご自身を求める者に報いたもう豊かなるご快諾に鼓吹されている。
 ノアの信仰は神の御怒りの来るべき大洪水に対する聖き畏れに根ざし、また基している。
 アブラハムをしてその生涯を通して天幕生活をもって満足せしめた信仰は、神の営み造りたもう永遠の都の幻示によって吹き込まれた。
 サラの信仰は神の変わらざる御真実を中心としてこれに集中している。
 アブラハムの第二の肖像は神の復活せしめる全能の御能力を信ずる彼の信仰を我らに顕している。
 信ずるイサクは神の変わらざる永遠のご計画を確信せしめられた。
 その子ヤコブの信仰はその臨終の床を孫たちの恵みの座となし、彼自身のためには天の控え室のごとくならしめた。
 イスラエルの全民族に定められた彼らの運命を鼓吹したヨセフの信仰は、神の約束したまえる嗣業を信ずる信仰であった。
 モーセをしてその国人のため、彼らの救いに至るまで共に苦しむことを得せしめたその信仰は、神の民を信ずる信仰であった。
 モーセが過越の節筵とその儀式を立てた信仰は、すべての時代を通して、血の防壁の聖にして厳粛なる奥義の意義と能力を我らに教える。
 そして死の海を徒渉したことは第二の奥義、すなわち聖雲の防壁を啓示する。これは聖霊なる神の臨在と保護である。
 エリコの石垣を崩壊せしめた信仰は、最も大いなる勝利の獲られるは信仰によると共に忍耐によるということを我らに記憶せしめる。
 最後の、そして或る点において最も顕著なる、異教徒なる遊女ラハブの信仰、彼女が未だ知らざるその神に対する知り弁えたる、勇気ある、忍耐深い、不撓の、全き信仰は、最凶最悪の罪人を励まして、自己とその家族の救いを信ずるに至らしめる。
 すべてこれらの驚くべき信仰の勝利の実例は、常に我らの霊魂に聖い霊感の熱を与えるのみならず、彼らみな同じようにそこにもの言いたもう神の在すことを思い出さしめる。そして我らには、彼らの聴いたところより一層明瞭で、一層声高く、一層深奥に、一層甘美に、また一層驚くべきことを行う声が聞こえる。すなわち神はその御子によりて我らに語りたもうのである。
 けれどもヘブル書はその終わりの使言として、それが天よりの声であることを強調することに努めている。されば我らの注意を天空より語りたもう新約の仲保なるキリストに向けねばならぬ。主イエスの地上において語りたもうた教訓、警戒、慰撫、恩寵の御言は実に幸いであるが、彼の天よりの御声は一層驚くべく、一層偉大なる権能の使言をもって満ちている。ここに活ける、能力ある、救い聖める信仰の秘訣がある。聖霊はこの天よりの声を聞くことを奨めんとて、旧約と新約、シナイとカルバリ、言の声と生命の声、律法の環境と恵みに取り囲まれることとの間の、顕著なる活き活きした対照を示したもう。
 聖霊は天よりの使言の何であるか、その声の宣べるところは何であるかを述べる前に、非常な熱心をもって、その声の聞かれ得る地上の唯一の場所を強調したもう。

一、言 の 声

 『あなたがたが近づいているのは……聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない(言の声にあらず=文語訳)。』(ヘブル十二・十八、十九)

 しかり、我らの近づき来ったのはシナイ山に来るためではなかった。それは我らの目ざすところではない。シナイは霊魂の静まって天より語りたもう声を聞き得るところでない。けれども我らはその途を通って来た。我らは既にシナイ山を通った。我らは確かにシナイ山の雷轟を聞いたのである。そこシナイ山にて御声は地を震い、我らの衷の地に属けるすべてのものを震わせた。イザヤが『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』(イザヤ六・三)と呼ばわる声を聞いた時に、『その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き』(同四)たるごとくに、すべての神の聖徒たちにとってもその通りであった。血の声と天より語りたもう頌むべき仲保の御声を聞ける我らのすべては必ずまずこれを聞いた。そしてその声によって自己の義と心の高ぶりの根底から震われたので、モーセのごとく『わたしは恐ろしさのあまり、おののいている』(ヘブル十二・二十一)と言うほどに『その光景が恐ろしかった』(同)のである。この言葉の声を聴く経験が明瞭であり、強烈であればあるほど、主の宝血の声、またいま聖父の御顔の前にて我らの仲保にてありたもう主の御声も、いよいよ幸いであり慰めに満ちる次第である。
 我らの衷なる地に属ける一切のものが既に震われたであろうか。我らはシナイ山の雷轟を聞いたであろうか。幾千度となく破られたる律法がその報復の決意と共に、我らを助けることの無力を繰り返して示したであろうか。もしそうであれば、初めて、我らの霊魂に赦罪と純潔と天国を齎すところの他の声をも聞くべく、我らも備えられおるのである。

二、血 の 声

 『あなたがたが近づいているのは……力強く語るそそがれた血である。』(ヘブル十二・二十二、二十四)

 新約においてはこれに勝って幸いなる言はない。『あなたがたの近づいているのは』とあるこの言い表しをよく注意することは極めて大切である。すなわち『あなたがたは近づいた』で、ここには何の招きも、命令も、懇願もない。我らはそこに来るべく命ぜられているのでなく、既にそこにおると示されている。これは事実の陳述である。もし我らが真の信者であり、神の子供であるならば、我らはそれを実感するもせざるも、それより来る慰安を意識するもせざるも、『我らがそこに来ている』という事実は存するのである。その道は開かれ、その所は備えられている。カルバリにおける贖罪は歴史上の成し遂げられたる大いなる事実である。いわゆる『贖罪の地盤』は我らがそこに立って天の無線通信を聞くべく我らに定められたる場所である。
 我らは『力強く語るそそがれた血』に来た。されど哀しいかな、彼らがキリストの成就したまえる御業と称するところのことを神学的に信ずるところのいかに多くの人々が、その成就したる犠牲の宣べるところのことを聞くほどにその心を静めることをせざることぞ。我らいかにしばしば天の耳語、すなわち昇天したまえる救い主と常に臨在したもう聖霊によって語られ、我らの心に神を信ずることを吹き込むところの上より来たる力の声を聞かんことを求めることぞ! されど悲しいかな、我らは空しく耳を傾け、待ち望むのみで、天は我らのために封ぜられたる所、沈黙せる所と見えるので、我らは失敗と悲しみをもって立ち帰る。
 その原因は求め難きことでない。それはまずこの地において語るところの血の声を求めなかったからである。もし主の御血の使言が我らの耳に達しつつあるでないならば、我らいかにして天よりの主の御声の語調を聴き得ようか。
 しかり、我らはかつて久しき以前にそれを聞いた。それは我らの良心に安息をもたらした。それによって我らは神との平和を得た。されど悲しいかな、我らはそれを過去のことで、我らが自分の罪のゆえに失望していたその時には大切であったが、今日ではさほど価値あることでないと考えるようになった。我らはしばしばキリストの成就したまえる御業につき上手に語るかも知れぬけれども、その栄えある頌むべき御能力を受け尽くしたであろうか。ヘブル書には『キリストの血』について多くのことが言われているのである。
 門口の柱と鴨居に灑がれたる血(ヘブル十一・二十八)は贖い(ペテロ前書一・十八、十九)につき、赦罪につき(コロサイ一・二十)、挽回について(ローマ三・二十五)我らに語り、
 良心に灑がれる血(ヘブル九・十四)は我らの良心を死にたる行為より潔めて、活ける神に仕えしめることを語り、
 民に灑がれる血(ヘブル九・十九、出エジプト二十四・五〜八)は我らが罪につきて実に死んだ者でなければ、神の契約を守ることは絶対に不可能であることを思わしめる。
 書に灑がれたる血(ヘブル九・十九)は契約者の死を語る。すなわち生ける双方に取り交わしたる証書であるところの契約が今は遺言書になり、死せる契約者のすべての所有が無条件で遺産継承者の所有になるということを語る。
 幕屋とそのすべての器具に灑がれたる血(ヘブル九・二十一〜二十三)は空中の権を執る宰のいっさいの汚れが濯がれ、訴言に妨げられずして天に入る道について我らに語る。
 おおこの血の聖なる厳かなる防壁の堅固なることよ。仇討ちせんとするいかなる天使もこれを通過して来るを得ず、敵のいかに猛烈な執念深い罵声もこれを通して我らに達することはできぬのである。
 私がいま読者に、深く考えて、神の御前に答えることを求める問いは、今この時に、意識的に、経験的に、喜びつつ、戦きつつ、しかも信じつつ、この贖罪の地盤に立ちつつあるかということ、単にこのことである。
 私が問うところはこれがわが正統的信仰であるかということでない。むしろこの血の声がきょう、この時間にわが心に聞こえているかや、私はこの聖き場所に立っているか、そして私がここに立っているゆえに、ただそれゆえに、すなわち灑ぎの血がわが内心に殉教者の血よりも勝れることを語りつつあるがゆえに、ただそれゆえに天よりの声を聞くことを期待しているかということである。もしそうでなければ、何故に天よりの声のわが霊魂に聞こえることの稀なるかを怪しむべきでない。
 今も昔と同様に聖徒たちはその証を立てているが、フランセス・リドレー・ハヴァガルは彼女の心になされたる聖化の大いなる御業を我らに告げんとし、貴き主の血につき、その御血がいかに彼女の心に語ったかを次のごとく語った。
 『私共はヨハネ第一書一章七節の「すべての罪からわたしたちをきよめるのである」をそのはなはだ単純なる意味に取ることの代わりに、実際上ただ過去の犯罪にかかることとしてそれを限っておりはいたすまいか。「すべて」はやはりすべてであります。私共は過去の犯罪の汚れから浄めるよう彼に依り頼むことを得るごとく、すべての現在の汚れより浄めるよう彼に依り頼みまつることができるのであります。……私の生涯の最も緊張した時の一つは、私がこの「きよめる」という語の力を悟った瞬間でありました。ただ信ずることによってそのことが私に成就したという、予期せず全く想像もなさなかった感じは、何と記述の仕方もありませんでした。私が天国に行かぬうちにかかることがあり得るとは期待せぬところでありました。』
 彼女のこの話を確証する今一人の証人は、前世紀の大聖徒、大伝道者レジナルド・ラドクリフである。彼は次のごとく書いている。
 『私はサタンに咬まれ刺されていた。そして彼の有毒なる舌がその害ある毒素をわが霊魂の内部の隅々まで浸潤せしめおるように感じた。されば、奇蹟的な全能の潔め浄める、生けるしかも生命を与える主イエスの御血のほか、何物も私を浄めることをなし得るものはない。私はサタン来の注射を受けている。主イエスがその御血のうちに私を沈めたもうことのほか、何物が浄め得よう。されども感謝せよ、しかり、悪魔が力なく逃げたる時に地獄の諸洞窟もわが叫びの声を聞けよかし。主イエスの御血は百万倍も彼より強きぞ! 何たる安全! 何たる高きやぐら! 大浪もまたそれに打ち寄せることをやめこそせめ!』と。

三、天よりの声

 我らの心に響く主イエスの注ぎの血の声は実に幸いであったが、それは生ける、昇天し、栄光を受けたまえるキリストの御声を聞くことの準備である。『そこで、あなたに勧める。……わたしから(しかり、わがいと貴き血の価をもって)……金を買い、……白い衣を買い……目薬を買いなさい』(黙示録三・十八)というこのカルバリよりの勧めの声のあとには『わたしはその中にはいって彼と食を共にし』(同二十)という勝れる約束の声、復活の主の声が来り、そしてまたさらに『わたしと共にわたしの座につかせよう』(同二十一)という昇天の主の御声が来るのである。
 この天より語りたもう声は新約の仲保、信仰の導師、またこれを全うする御方、すなわち甦り、昇天し、栄光を受け、再び来りたもう栄光ある我らの主の御声である。
 されば我ら、血において語る血の声に満足して天より語りたもう御声を捉え損ずることなきよう心すべきである。何となれば、ここに勝利する信仰の秘訣があるからである。この勝利する信仰こそ、我らが恒に生きたもうキリストの語りたもうところを聴き、受け、注意する時に、我らの心に湧き出でて、我らに霊感を与え、我らを力づけて古の勇者たちの足跡を踏み得しめるところの生涯の動力である。これが全体の結論である。ヘブル書は多くの驚くべきことを我らに語ったが、今この終わりに、その使言の神秘的なる梗概がある。そしてその梗概は次のごとくである。
 『あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝しようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう』(ヘブル十二・二十五〜二十八)。
 さればこれが天よりの声である。これは第一に取り除かれることを我らに告げ、次に国を受けること我らに語り、そしてかく国を受けて王とせられた者に僕となるべきことを我らに命ずるのである。

第一、それは取り除かれることにつき我らに語る

 この聖語は、預言者ハガイの書に顕れているごとく(二・六以下)、主の御顕現にあたり、今あるところの天地が最後に過ぎ行くことにのみ関するものと捉え得る。けれどもここヘブル書に引用されている重要なる意義はそのことであるとは解されぬ。それは聖霊によって、今この地上にある一箇一箇の信者の生涯に当て嵌められている。シナイ山上における『言の声』は我らが聖き神の前に畏れ戦くまでに我らの衷なるすべての肉的なるもの、すなわち自己に頼る心、自己を義とする心、自己を尊重する心、自己に満足する心を震ったのであるが、いま天よりの幸いなる声は、それらのものの取り除かれることを我らに語る。さて信仰の生活において絶対必須なるはこの取り除くことである。『我取り除かん』は聖書における大いなる文字の一つである。神の約束したまえるところは、我らの衷に常に存在し、常に宿るところの悪の勢力をば圧迫することや、または反対作用をもって妨げるごときことではない。否、神の御子に対する勝利する栄光ある信仰を働かせること、かく我らを妨げるこれらのものを取り除くことである。
 (一)『主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。』(ゼパニヤ書三・十五)
  『今やキリスト・イエスのある者は罪に定められることがない。』(ローマ八・一)
  『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。』(ヨハネ八・十一)
 我らの懲罰と罪をすべて取り除くことによって御顔の前に我らを義としたもうた彼に永遠の讃美あれ。
  『それ(聖霊)がきたら……さばきについて、世の人の目を開くであろう。……この世の君がさばかれるからである。』(ヨハネ十六・八、十一)
 (二)『あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた。』(イザヤ六・七)
 イザヤが宝座の前における天使や天使の長の聖なる奉仕を見て、霊の苦痛の中に『わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに』(同四)と叫んだ時に、セラピムの一人が壇の上から取った燃えている炭をもって彼の唇に触れて、『見よ、これがあなたのくちびるに触れた』と言いつつ、彼の困難はその唇より遙かに深いその良心にあり、その性質にあることを思い起さしめ、そして叫ぶ、『なんじの罪はきよめられたり』(同七=文語訳)、すなわちあなたの犯罪はもはやあなたに帰せられぬ。しかり、そしてあなたの悪(不義=英訳)すなわちあなたの性質の罪、あなたの唇をして不潔ならしめるところのその恐るべき一物は『除かれ』たと叫んだのである。この不義とは『見よ、わたしは不義のなかに生まれました』(詩篇五十一・五)とあるその不義、『主によって不義を負わされず』(詩篇三十二・二)とあるその不義、『主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた』(イザヤ五十三・六)とあるその不義である。しかり、その不義が取り除かれたのである。
 (三)『ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」』。(ゼカリヤ三・三、四)
 前に見た預言者は唇が汚れていたのであるが、ここには一層恐ろしきものが見える。それは神の御前に立つ主の祭司がその定められた祭服を着ずして自負と傲慢の汚れたる襤褸を纏っているを見る。彼は黙然として立ち、その唇から何らの言葉も洩れぬ。そしてかの大敵は近く立ち、その凶悪なる恐るべき毒舌をもって彼を訴えている。されども聖父と偕に在す我らの助け主は、その兄弟を訴える者に『主はあなたを責めるのだ』(同二)と仰せたもうばかりでなく、汚れたる衣を脱がしめることを命じ、その悔い砕けたヨシュアに向かって『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう』(同四)と仰せたもう。すなわち小羊の血に洗って白くしたる衣(黙示録七・十四)、讃美の衣、謙遜の衣、聖と愛の衣を着せるべしと仰せたもうのである。
 (四)『あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。』(エゼキエル三十六・二十六)
 さて預言者の唇をして偽善的、批評的にならしめ、また汚れしめるより、はなはだしき悪があり得ようか。元来、主の前に立ち、定められたる謙遜讃美の衣を着て祈禱の奉仕をなすべき祭司が、傲慢とパリサイ主義の上着を着るほど醜きものがあり得ようか。そしてまたかつては神と偕に歩んだが、今は血をもってその手を汚し、姦淫をもってその心を満たし、しかもかくも虐遇殺害されたるそれらの人のために泣く涙なく、憐憫に動かされる心なき有様! 実にその心は固い冷たい死せる石の心である。我らはこれについて何も知らざるや、悲哀の人にて在す主の御憂いが我らにははなはだ僅かしか感ぜられぬということは事実ではあるまいか。そして初めより人殺しである彼、悪魔の残虐の下に呻きおる受造物の惨状がわが目の注意を惹かず、無数の人々の地獄の哀号が我らの耳に響かぬならば、誠に我らの心は石の心である。
 そして主はこの石の心を取り除くことを約したもう。これは天よりの声である。かつてシナイにおいて言の声によって顕示され、カルバリ山において『血の声』によって赦されたるこの一物が、今この預言的使言の『もう一度』において取り除かれることを示しているのである。
 (五)『実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで……その同じおおいが取り去られないままで残っている。……しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。』(コリント後書三・十四、十六)
 我らが既に預言者、祭司、王にて見てきた清からざる唇、汚れた衣、石の心よりもなお恐るべき何物があり得ようか。これらのものより一層悪い何物かがあり得ようか。しかり、確かにそれがある。それは不信仰の罪である。私は前章においてなお充分にこれについて書きたれば、ここにそれを敷衍することを要せぬ。マデレーのフレッチャーはそれにつき『不信仰は、地獄の悪魔も同様の罪を犯し得ざるほど深黒の罪である。我らの救い主は決して悪魔のために祈らず、泣かず、血を流し死にたまわなかった。主はまた決して悪魔にむかって「あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」と仰せたまわなかった。……この悪魔の罪以上のものがあなたのために保留されている。おお、無関心なる罪人よ』と言っている。ここにその不信仰が顔おおいにたとえられている。それはほとんど二千年の間、ユダヤ国民の心を蔽っている暗黒で、彼らをして、しかり、また我らをして、神たるご威光と言うべからざる御恩寵に対してあらゆる犯罪を敢えてせしめたところのものである。
 されど神に感謝せよ、『主に向く時には』この顔おおいさえ取り除かれるのである。
 (六)『それでわたしひとり残って、この大いなる幻を見たので、力が抜け去り、わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった。』(ダニエル十・八)
 我らがその心に義と平和と聖霊による喜びなる国を受け得る前、今一つの除かるべきものが残っている。預言者も祭司も王も人民も、彼らのうちに何の善きものが住まざるばかりでなく、不信仰の悪しき心、すなわちよろずのものよりも偽るものにしてはなはだ悪しき心、汚い衣を着たる心、石の心が、我らのうちに見出されるところの始祖アダムよりの遺伝性の一切であることを我らに告白している。
 ここにバビロンのすべての牧伯の上に立てられたる君たる人について記されている。彼は獅子の穴も王の怒りもものともせず、ただ神のみを恐れて世も死も悪魔も恐れなかった。されども栄光にいますキリストの示現に接した時に、彼は死にたる者のごとく倒れ伏した。主の御言によって彼が上よりの力、いと高きよりの権能、すなわち震われざる国を受けるためには、すべての力も能力も勢力も取り除かれたのである。
 真のキリスト者は自己の荏弱無力の者であることを知り、また認めている。しばしば信者の祈禱のうちにその弱いことを述べ、あたかもそれが謙遜の徴であり一種の徳であるかのごとく言い顕すを聞くことである。事実、その弱いことが聖き生活の絶頂で、神の御前にそれ以上さらに積極的の経験を持たないことにつき、充分の申し訳となると考えられる。
 されど神に感謝せよ、或る信者にはそれ以上のことがそこにあるのである。彼らはその荏弱を知り、認めるばかりでなく、深くそれを感じ、それが苦痛の種となり苦悶となるまでに至る。いかに多くの人々が、上よりの能力をもって着せられる前にこの経験をなせることを証することぞ。彼らが聖パウロと共に第三の経験にまで進み、『キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう』(コリント後書十二・九)と叫ぶのはその時である。
 我ら自身の力の除去、すなわち我らが積極的に誇り、かつ喜びをもって誇り得るところの聖霊による、我ら自身の力の除去は、半ば失望して自己満足的にその荏弱を認め、自分が『主にあって、その偉大な力によって、強く』(エペソ六・十)ならぬことの充分な申し訳と心得るごときこととは非常に相違したことである。
 我らは栄光の主がかく『もう一度』との幸いなる言葉を天より我らに語りたもうを聞いたであろうか。また主が再び我らの目に触れて、我らをして我らの信仰の導き手であるとともに、またそれを全うする御方にて在す主イエスを仰ぎ見せしめたであろうか。もし我らが自己の歩みを回顧し、再び昔の聖徒たちの声に耳傾けるならば、彼らはみな、我らの考察してきたかかる信仰の力ある業をなし得る前に、必ずその生活に『震われるものが……取り除かれること』のあったことを語るであろう。

第二、天よりの声は我らをして国を受けしめる

 神に感謝せよ。震われるものの『取り除き』はただ『震われざる国を受ける』ことの準備である。何となれば、我らに『御国を下さることは、あなたがたの父のみこころ』(ルカ十二・三十二)であるからである。しかり、我らの衷にある御国(ルカ十七・二十一)、義と平和と聖霊による喜び(ローマ十四・十七)なるその御国を賜うことは聖父の御心であるのである。
 十字架につけられたまえる救い主は、我らがご自身に来り、御自ら備えたまえるその御血の価をもって金と白き衣と目薬(黙示録三・十八)を買うことを命じたもう。すなわちそれは信仰と希望と愛であり、赦罪と潔きと天国である。
 復活したまえる救い主は、戸外に立ちて、その昔、死より甦りたまいし時に、恐れ戦きつつあったその弟子たちになしたまえるごとく、今も我らの許に入り来り、偕に食することを約したもう。
 されども昇天のキリストは我らに、上り来りて、あたかも主が聖父の宝座に坐したもうごとく、我らもご自身の御座、我らの大メルキゼデクにて在すキリストの御座、栄光の御座に座することを命じたもう。かくてそれは、我らが主の在すところに主と偕におり、その御栄光を見、栄光より栄光に進み、その御姿に化するためである。
 そして我らがかかる国を受ける目的は、恭敬と畏懼とをもって御意にかなう奉仕をなすためであると教えられている。国を受けた者なる王たちが奉仕をなすということが不思議と思われるであろうか、否、不思議ではない。王の王、主の主にて在す彼も、ご自身僕のかたちをとりたもうて、仕えることによって永遠に人の心を統御したもうのである。
 我らがその肖像を学び来った、古の聖徒たちは、神に対して王となされ祭司となされていたのであるが、彼らの生涯は奉仕の生涯、彼らの功業は犠牲献身の業であった。
 本章は少し長くなるけれども、ここに一つ、天よりの声に耳傾け『もう一度』という語の意義の重大性を体験し、震われざる国を得て、恭敬と畏懼とをもってその主に仕えたひとりの人の話を載せることにしよう。英国の一流の大学から新しく卒業して、この世の方面から考えれば素晴らしい前途の望みを持つ一青年なる友人は、熱心なキリスト者であった。
 私が彼と初めて会った時、彼は既に一層経験ある主の僕と親しく交わっていたのである。その主の僕というのは別に非凡な才能の人でもなく、風采人物の人を惹き付けるところもなかったが、彼はその人に一層豊かなる神の生命のあることを見たのである。言わば、彼は人生の荒れ野における燃ゆる柴、すなわち普通の卑しい柴でありながらその中に神の生命と能力の燃ゆるを見、この不思議な見物の秘訣を見また知りたいと振り向いた。かく彼は私に来り、熱心な、また考え深い質問を発したのである。
 さて、私が彼を助けんと努めた仕方を少し詳しく書くならば、たぶんわが読者諸君のうちの或る人々に助けとなると思うがゆえに、敢えて読者の忍耐を願う次第である。
 彼はその人の生涯を注意深く観察したが、自ら持たぬ或るものをその人が持つという事実を深く感ずると言った。私はまず彼に告げて、もしその人が全然主のものであったならば、事実は彼の考えるところと相違しているということから説き出した。私は、いかに卓越した聖徒でも、彼自身に潔きや能力や恩恵の貯えがあるというわけのものではない、一切のものは主イエスにあるのであると言って、また急いでそれに付け加えて言ったことは、もしその人と彼との間に相違の点がありとすれば、その生涯が彼を感動したというその人は、彼のまだ棄てない或るものを失っているということであった。その時、我らはダービーシアの美しい景色を眺めつつ鉄道で旅行しつつあったが、私は言った、もし窓ガラスが不透明な艶消しであったならば(そのガラスの模様はいかに美しくとも)我らの座席に光は透してもこの美しい景色は全く見えぬであろうと。そしてこの譬えを強調力説した。
 或る信者は、賜物を持ち優れた技倆もあるけれども、なおその不透明さを失っておらぬ。またある者は心的才幹においても肉体の外貌においてもこの世の地位からしても何ら非凡なところはないが、その人を通して主イエスとその恩寵が何人にも明らかに見られる。
 かく語って、私は彼の要しているものはちょうどそこにあるということを彼に確言した。彼は非常に感じて、その霊魂の不透明はそもそも何であるかを進んで質問したので、我らはエゼキエル書三十六章二十五節以下のところを開き、肉と霊の『汚れ』、また聖められざる心には美わしきものにて神の御目の前には汚穢のごとく憎むべきものなる『偶像』、およびすべてに勝りて、不信仰の『石の心』、すなわち感ずることのできないもの、聖霊なる神の指紋の付かぬもの、極端まで信じ抜くことの全然不可能なるその『石の心』を指示した時、彼は覚罪した。我らが共にこれらのことを語りいたる間に、彼はその内部的救いの必要を一層明瞭に、また透徹して実感し、『さらば我何をなすべきや』と問うたので、私は再び預言者エゼキエルの使言に帰り、神がご自身にこの悪の三位一体を取り除くことを約束したもうたことを指示し、そしてその御約束は繰り返して仰せられた『我なさん』『我なさん』で、我らの側で成し遂ぐべき条件はただ一つ、『わたしが次のことを彼らのためにするように、わたしに求めるべきである』(三十七節)であることを指し示した。かくしてまたこの求めることを説明するために、ともにヘブル書十一・六を開き、幾分か前出の他の章で示したごとく説明して、直ちに独り神に近づき、その聖語に示しあるごとく神の恵みを求むべきことを勧めた。すなわちそのなすべきことは、(1) そのありのままにて神に来るべきこと、(2) 神は彼を受け入れつつあり、今ここでエゼキエル書にある約束を成就しつつありたもうと敢えて信ずべきこと、他の言葉で言えば、私はほとんど霊感によると思われる、
    汝が十字架の御前にて
        わがすべてを投げ出しつつ
    それをばそこに
        我は敢えて残し置く
という句の示すままなすべきことを勧めた。
 彼は私の言葉を遮って、『私がなすべきことはただそれだけですか』と問うたので、私は極めて力をこめて『否』と答えた。まず神に来り、神は約束を成就しつつありたもうと信じ、そして第三になお取るべき一歩は、神の御顔を熱心に求め、天よりの声に耳傾けることである。それは業のなされることを求めるのでなく、既に業のなされたることを信じつつ、天の声に耳傾けるのである。すなわち言い換えれば贖罪の地盤に立ちつつ、『力強く語る血』に注意を払いつつ、我らがここに『近づいている』ことを実覚しつつ、我らがその聖なる場所に立っているゆえに、ただそのゆえに、神が御霊の証を与えたもうことを期待しつつ『信仰をもって』求めることである。私は言った、『君は神がそれをなすに充分な力を持ち、また充分忠実にありたもうごとく、また充分にそれを欲したもうと、必ず信ぜねばならぬ。このことは君をして、神が君の霊魂の中になしたもうたと信ずるところに経験的に入るまで求めるべく、君に霊感を与えるであろう』と。かく我らの旅の果てに達して相別れたが、十日の後、私は彼より、神の彼のためになしたまえることのために讃美と感謝に溢れる手紙を受け取った。彼は私と別れたその夜、私の言ったごとくなした。すなわち彼は敢えて神に近づき、そして一段と困難なことであったが、敢えて信じた。そしてその後十日間、信じつつ、期待しつつ神の御顔を求めたのである。十日目に、彼は神の御顔を見出し、天よりの声を聞いた。聖霊は主イエスをば、彼がこの世にては出来得べくも思わなかったほど、一種新しき、一層驚くべき様に顕しつつ、彼を釈き放ちつつ、信仰による平安と喜びをその霊魂に漲らしめて臨みたもうたのである。
 神は誠にその震いたまえるものを『取り除』きたもうた。そこに実際幸いなる『除去』があった。その時そこで彼は震われざる国、すなわち義と平和と聖霊における喜びなる国を受けることを得たのである。
 数年の間、彼はなお神と偕に歩んでいる。彼は昔のモーセのごとくすべて世に属する栄華の望みを棄て、キリストによる謗りをエジプトの財宝にまさる大いなる富みと思い、外国伝道に遣わされて忠実に働き、多くの霊魂をして救い主を求め、これを得るに至らしめ、また多くの人を乳と蜜の流れる地に導き入れつつある。
 我らはいよいよ終わりに達し、本書を手放さんとするにあたり、我ら自ら問わしめよ、我らは真に御霊の声を聞いたかと。この御霊の声は神の永遠の御言、すなわち書き録したる御声のレコードなる神の蓄音機の使言を確証するために、神の我らに耳傾けしめたもうところである。
 我らも古の聖アウグスティヌスのごとく『取りて読め』との声を聞く時、我らもまた取りて読ましめよ。さればそれはその教訓、その勧告、その警告、その約束が、すべて同じ幸いなる使言を言明している次第である。
 『あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。』(コリント後書十三・五)
 『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。』(ヘブル十一・六)
 『あなた方が救われたのは……信仰によるのである。』(エペソ二・八)
 『その信仰によって彼らの心をきよめ』(使徒十五・九)
 『約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。』(ガラテア三・十四)
 『わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。』(コリント後書五・七)
 『わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。』(ヨハネ一書五・四)
 『ただ信じなさい。』(マルコ五・三十六)
 『あなたの信仰があなたを救ったのです。』(ルカ七・五十)
 『あなたの信仰があなたを全く癒したのです。』(マタイ九・二十二=欽定訳)
 『あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心を抱く者があるかも知れない。』(ヘブル三・十二)
 『女よ、あなたの信仰は見あげたものである。』(マタイ十五・二十八)
 『イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。』(マタイ九・二)
 『見ないで信ずる者は、さいわいである。』(ヨハネ二十・二十九)
 『もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか。』(ヨハネ十一・四十)
 これら、さらになお多くの天の反響は我らの心に達し、天国は信ずるすべての人には自由の分捕り物たるべきことを我らに語り、我らをして後なるものを忘れて絶えず前進すべく勧め、我らのこの時代、この唯一の時代において、我らをして我らの神を信じ、信仰によって神の誠実と愛と能力とを体験し、顕れるべきご栄光に与り損なうことなからしめ、我らが神の賢き慈愛深き御旨に対する愛情ある信任によってその御心を満足せしめることを求めたもう神を、失望せしめまつることなからしめよ。我らもしかくせば聖パウロと共に『わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした』(テモテ後書四・七)と言うことができるのである。ハレルヤ! さらにまたハレルヤ!



基督者生涯の動力 下巻

  頒布価 160円



昭和二十九年十月十五日 印 刷
昭和二十九年十月二十日 発 行


    訳  者  大 江 邦 治

        東京都武蔵野市境一四一六
    発 行 人  落 田 健 二

        東京都千代田区神田鎌倉町一
    印 刷 人  西 村 徳 次

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      東京都武蔵野市境一四一六
   発行所 バックストン記念霊交会
           振替東京六六六四九番


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