第四十一回 位にあるヨセフ



第 四 十 一 章


 これからヨセフの生涯とその事情境遇が全く一変する。彼はいま監獄から出て公生涯の大いなる舞台に現れるがゆえに、キリストの型も一層鮮やかになって来る。既に見た通り、ヨセフがエジプトにおいてポテパルの家の僕としていたのは、キリストの三年間の御生涯の型であり、監獄に入ったのは十字架と墓と陰府に下りたもうたことの型である。しかして酒人さかびと膳夫かしはでの話は十字架上の二人の盗人の驚くべき型である。救われた酒人はキリストの血によって贖われたキリストの教会、すなわち真の信者を指し、刑せられた膳夫はこの時代における救われておらぬ者の型である。さてこの酒人が救われてからヨセフが公然の生涯の舞台に顕れるまで、ちょうど二年の間があった。この二年間は、キリストが十字架にかかり贖いを成就したもうてから、今一度栄光の中にこの世に顕れたもうまでの間を表している。しかして十字架より今日までほとんど二つの千年期を経過したことであるから、御再臨の近いことを知らねばならぬ。この型による教訓がわからぬならば、これよりのヨセフの生涯の意味もよくさとることができぬ。すなわちこれからのヨセフの生涯は、キリストが再び来りてこの世を占領し統御し、すべての人類を救い出したもう話であるからそのつもりで学びましょう。

一 ヨセフの必要 (一〜八節)

 酒人の長が監獄から救い出されてからちょうど二年後に、エジプトの王が夢を見、その解明を得ないために非常に苦しんだのである。その夢は第一は、エジプトの国の豊饒の源であるナイル河から立派に肥えた牝牛が七頭上ってきた。その後から七頭の痩せた牝牛が上ってきて、さきの肥えた牛をば食らい尽くしたという夢、第二は、七つの茎に七つの肥えたる佳き穂が出でた。その後からまた七つの萎びた穂が出て、さきの佳き穂をば呑み尽くしてしまったという夢であった。王はすぐにエジプト全国の智者と法術師を喚び集めてその夢の解明を求めたが、これは真に解明しがたい難問で、誰一人よく答える者がなかった。これは実に現代のこの世の有様である。だんだんと世が進むに随ってこの世の学者智者政治家などの如何にしても解明し得ない難問題が続々と起こってくる。政治の上にも、宗教の上にも、また社会の上にも難問題がある。広くすれば国際関係のことから、狭くすれば家庭個人の状態まで、難問題のあらざる所なく、社会は進退維きわまるというような状態である。啻に難問を解決する者がないばかりでなく、この混乱した難しい有様から救い出す者はないのである。しかして聖書はキリストの再臨の近づくにしたがってこの世がこのような有様になることを明らかに語っている。かかる場合にこの世が要するものは言うまでもなくキリストである。キリストなくしてはこの世を治めることができず、ただ混雑紛乱に満たされるのみである。

二 ヨセフの思い出されること (九〜十三節)

 漸くにして酒人の長の記憶力が鋭くなってきた。彼はヨセフの預言のごとく自由を得、二年の間、以前の地位にかえって、夢に見た通り王のために葡萄酒を搾り出して毎日王に捧げ、ヨセフの賢明な預言の成就せられたことを認めていたけれども、肝要なるその預言者ヨセフを忘れ、彼を救い主とし王として出さねばならぬという大いなる事実を等閑にしていた。しかしながら幸いに神の定めたもうた時に至って彼は今一度ヨセフを憶い出した。これは何たる驚くべき模型的絵画ぞ。既に見た通りこの酒人は我ら信者、すなわち教会を指している。今の時代においてキリストの教会は贖われて自由を得、葡萄酒を搾り出して人々に捧げている。すなわちキリストの贖いの結果をこの世に宣伝して、救いの喜びをこの世に頒け与えているけれども、キリストご自身今一度この世に出でて一般人類を救い出し、公義と平和をもってこの世を統べ治めたまわねばならぬということを憶えない。しかし幸いにして今日漸く目覚めてキリストの再臨を望む信者が何処にも多くなってきたのである。この世の難問題と苦悩混乱を思い、救済の道の尽き果てていることを知り、漸くにしてキリストの再臨のみがこの苦しみつつある世の望みであることが判ってくるのである。

三 ヨセフ監獄より召し出され信用されること (十四〜二十四節)

 ヨセフはいま酒人の勧めによりて監獄から召し出された。パロはその夢を見たことを語り、非常な望みをもってヨセフを歓迎する。しかしヨセフはいつもの通りまず自己を隠し、神を崇めた。すなわち彼は王に答えて『我によるにあらず、神パロの平安を告たまはん』と言った。これによって今一度ヨセフの単純な質朴な透徹した性質がわかる。自己の利害を考えず、自己が監獄から出たいと願わず、無私無我の態度をもってパロを助けたいと思う心が顕れている。もしこの時自己が夢を解くことを得ると言ったならば、すぐに監獄から救い出されることができようと思い、自己を差し出すような考えは、毛頭ヨセフの心に入っていなかった。前に学んだ通り彼はポテパルに向かって神を証し、ポテパルの妻に向かっても神を言い顕し、酒人に対しても神の力を言い、今また王の前にても神を崇めている。パロはこれを聞いて無論すぐにヨセフを信用するようになったに相違ない。そこで初めて自分の見た夢を詳しく語った。これは大いに注意すべきことである。パロはヨセフを喚び出してすぐに自分の夢を述べることをせず、まずヨセフの資格を尋ねた。聞くに汝は夢を解く事が出来るということであるが実際であるかと尋ねた。するとヨセフは率直に、自分は夢を解明する智慧はない、ただ神ばかりパロの平安を告げたもうと言ったので、パロは全く彼を信用してその心を打ち明けて、詳しくその夢を語った。ここにも我々にとって実に大切な教訓がある。我々も自己を差し出さず、自己には智慧がなくこの時代の難問題を解く資格のないことを承知して、大胆に神を崇め神を顕せば、必ず人々が我々を信用してその心を打ち明けて我々を頼むようになるに違いない。

四 預言者また勧告者たるヨセフ (二十五〜三十六節)

 ヨセフは第一に夢を解きて来らんとする艱難を預言し(二十五〜三十二節)、第二にその艱難を遁れる道を勧告した(三十三〜三十六節)が、その前に彼はパロに三つのことを感じさせた。すなわち第一にこの夢は神より出た夢であるということ(二十五節)、第二に夢の解明はやはり神によるということ(十六及び二十八節)、第三はこの夢は必ず成就さるべく神の定めによることで、必ず近く来るということ(三十二節)であった。
 この艱難は当時の世界一般にわたる飢饉であった。これは無論昔の歴史上の事実であるが、これはまたキリスト再臨の時に来るべき大いなる艱難の時の予表である(ルカ二十一章三十六節、黙示録三章三節)。多くの聖書学者はこの艱難時代は七年くらいであろうと言っている。しかし七という数は聖書において完全を指す数であるから、果たして艱難時代がちょうど七年であるか、或いはそのことの完成するある定まった期間を言うのであるか、いま私は言うことが出来ぬ。いずれにしても艱難の時代が来る。しかしてパロの夢においてこの艱難の時の前に七年の豊年が来るということであった。そこでヨセフはこの飢饉の七年の準備として豊年の七年間に十分に食物を貯えることを勧告した。この七年の豊年の預言的の意味はちょうど如何なることに当て嵌まるか充分明瞭でないが、或る人は大艱難時代の前に驚くべき世界的大リバイバルのあることを意味するのではないかと言っている。また或る人の考えでは今がその豊年であるというのである。すなわち今は神の言の飢饉でなく、かえって驚くべき豊かな恩寵が世界中に注がれつつある。されば来たらんとする艱難の時代における神の言の大飢饉に当たっても、いま注がれおるこの恵みと神の言の知識によって、その時の不足も充分に補うことのできるよう備えをなすべきであると言うのである。とにかく飢饉の前に豊年があり、艱難の前に祝福の時があることは、教会の歴史においてしばしば繰り返された経験であるが、なお最後の時に充分なる成就を見ることであろう。

五 崇められたるヨセフ (三十七〜四十五節)

 ヨセフは少しも自己のことを思わず、自己の利を求めず、自己の安全を考えず、純粋な利他的の精神をもってパロとエジプトの国の利害を重んじ、はなはだ賢明な方法を勧めたので、パロとすべての臣下は一人も残らず驚嘆してこれを受け納れた(三十七節)。しかしてすぐにパロとその臣下の者が一斉に、このヨセフはかかる難問を解き明かすばかりでなく、これより来らんとする困難と実際上の問題を取り扱うべき人であるということに真心から一致した。聖書に書いてないエジプト国の歴史を研究すれば、この時のほかにただ一度しか他国の人がエジプトの総理大臣となったことはない。かかることは実に容易に行われないことであった。驚くべき風にしてパロはヨセフの今までの履歴をも顧みず、監獄に入っていた囚人たることをも思わず、急に彼を挙げて総理大臣の地位に上らしめた。ここにヨセフの崇めを受けた事柄が七箇条挙げてある。
 一、パロはヨセフの徳と、彼の聖霊に満たされたる神の人であることを深く感じた(三十八、三十九節)。ヨセフの神に対する忠実は漸く報いられ、その蒔くところを立派に刈り入れることができた。
 二、パロは彼をエジプトの支配者、すなわち総理大臣に挙げ、エジプト国中を統轄する全権ともいうべき権利と権能を与えた(四十、四十一節)。
 三、パロはその指輪をとってその授けた権利のしるしのために与えたが、今ロンドンに保存されてある珍しい指輪はすなわちそれであると考古学者は考えている。このことに関し『碑文いしぶみの声』よりこれに関する記事を以下に抄出しよう。
 『もし古物家の説が正常であれば、これは恐らくは世界における最も価値あり興味ある飾り物の一つである。これは象形文字をもって美しく彫刻されたる黄金の輪の端における猿環の上に回転する一つの正方形の金塊でできている。しかしてその一方にはトスメス二世の肖像を刻み、他方には文字が彫ってある。その語は「秘密を顕す者、世界の保持者、エジプトの保護者」である。しかしてこのごく貴重なる宝物はロンドン、ハイドパークのアシュボルンハム公爵の蒐集せる古物中にあって、鑑定家の信ずるところではヨセフが授けられたその指輪であるということである。しかしてこれは前世紀の初めの頃、メンピスに近きサッカラというところで発見されたのである』。
 四、パロは彼に王の衣を着せた。すなわち白い布と金の鎖をもって装った(四十二節)。
 五、すぐに大臣の車に乗せ、エジプトの国を巡らしめ、すべての人に命じて彼の前に跪かしめた(四十三、四十四節)。
 六、新しい名を与えてザフナテパネアと称えしめた。その名の意味は『奥義を顕す者』或いは『奥義の顕現』である(四十五節)。
 七、ヨセフをして非常に身分ある人の娘を娶らしめた。
 この簡単な講義の中に詳しく説明することはできないけれども、この七つの点はみなキリストの型であって、御再臨の時に驚くべく成就せられることである。

六 ヨセフの果を結ぶこと (四十六〜五十二節)

 ヨセフがパロの前に立った時は彼の三十歳の時であったが、主イエスもちょうど同じ年齢で公生涯に入りたもうた。ヨセフはパロのところから出でてエジプト国中を巡回し、この七年の豊年の間に充分に穀物を集めて、来らんとする凶年のためにすべてのまちに供えた。四十九節にあるごとくヨセフは海辺の砂のごとくに数えることのできないほどに貯えた。しかしてこの七年の間に二人の子を与えられたが、長子はマナセ、次はエフライムである。マナセの名は『忘れる』という意味、エフライムの名は『実を結ぶ』という意味である。この長男の名によって今までの悲しみと苦難とを忘れるようになったこと、すなわち過去の生涯の記憶を全く打ち消してしまったということを表し、次子の名エフライムによって彼が実を結ぶことは神の祝福によると憶えて感謝するに至ったことを表している。さてここにもまたキリストの型が示されている。ヨセフが異邦人の妻を娶ったように、キリストも御自身の兄弟等すなわちユダヤ人に棄てられ、異邦人の中から新婦をとり、多くの子等を得、御自身の御艱難御苦痛は無益でなくかえって驚くべき結果を生じたることを見て、前の艱難すなわち国人に棄てられたことは忘れて喜びたもうことを表している。

七 ヨセフがこの世の救い主となること (五十三〜五十七節)

 パロの夢のごとくに、七年の豊年が終わってすぐに七年の凶年が来た。ただエジプトばかりでなく、その時代の世界のすべての国々がみな同じくこの飢饉のために苦しめられたので、すべての国々から人々がヨセフの許に来て生命を助かったのである。ヨセフはただエジプト国の救い主ばかりでなく、この世界全体の救い主となり、生命の源となった。彼はその知恵と力によってこの飢饉の年の間のために充分な命の糧を貯えていた。これもまたちょうどキリストの型である。幸いにしてキリストはただ我等信者の救い主であるばかりでなく、この世界の王にて在す。言うまでもなく主が今一度この世に出でたもう時、まず鉄の杖をもって悪人を審きたもうけれども、ついに平和と正義をもってこの世を治めたもう時には、イザヤ書十一章に録されるごとくこの世界は太古のエデンの園のようになるのである。この千年の時代ははなはだ幸福なる時代である。これはこの世界が挙って要望しているところである。無論未信者には何もわからぬ。この世の王、政治家、学者、智者の目から全く隠されている。彼らはこの驚くべき奥義について何も知らぬけれども、我らはよく知っているべきはずである。我らは真の救いの喜びを憐れなる人々に施しながら、ヨセフを忘れた酒人のように主イエスを忘れることなく、一日も早く主が来りてこの悪魔と罪に汚れたる世を救いたもうようにと、主を恋い慕いまた求むべきである。



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