第四十回 獄の中にあるヨセフ



第 四 十 章


 ロマ書八章二十八節には『神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る』とあるが、このことはヨセフの生涯において誠によく例証せられている。人間の眼から見ればヨセフの今までの生涯ははなはだ悲惨な憫然たる生涯であるが、今までのことはみな彼が最後の成功に達するためにぜひ通過せねばならぬ階段であった。ヨセフがその父に愛せられ、兄弟たちに悪まれなかったならば、エジプトの王の前に立つことも起こらなかったであろう。兄弟たちにエジプトの国に売られなかったならば、エジプトの総理大臣になることもなかったであろう。主人ポテパルに信用せられ、その妻に恐ろしく誘われなかったならば、後にエジプトの救い主となることもできなかったであろう。また監獄に入れられて二、三年の間罪人のように取り扱われ、感恩の念のない一人の囚人に忘れられなかったならば、その父と一族をその飢饉から救い、全世界を救う基となることもできなかったであろう。ヨセフはこの悲惨な苦しみに与りながら、かかる苦しい経験の意味と目的と、ぜひこれを通過せねばならぬ所以をば全く知らず、ただ盲目的信仰をもって神を信じて進んだのであるが、いま我らは彼の生涯をパノラマのように初めから終わりまでひと目に見ることができるから、この憫れな経験、悲惨な事柄は一々彼を最後の成功に導くためであり、みな彼がエジプトの総理大臣の地位に上る階段であったということがわかる。この階段を上り行くことははなはだつらいことであったに相違ないけれども、その絶頂は如何に栄えある場所であったか想像もできないほどである。今この四十章を七つに区分すれば、

一 ヨセフの救いの手段 (一〜四節)

 ヨセフが監獄にいる頃に、急に二人の新しい囚人がまたその監獄に入れられた。一人はパロの酒人さかびとかしら、一人はその膳夫かしはでの長であった。しかして四節を見れば前の主人ポテパルがこの二人の囚人をヨセフにまかして監督させたのである。この監獄はポテパルの家の隣にあったと見える。三十九章二節を見ればはじめにヨセフはポテパルの家の僕となったのであるが、同二十節を見れば彼はその家の隣にある監獄に入れられた。しかし監獄の囚人でなく、監獄の僕の一人であったようである。もちろんポテパルの家の僕たることは監獄の僕たることより遙かに善い地位であったのであるが、とにかく獄中においても囚人の待遇でなかったのである。これはポテパルがその妻の言葉を全くは信用しなかったということの証拠の一つである。今一つの証拠は、この二人の身分ある囚人が監獄に入れられると、典獄ひとやをさでなく前の主人なるポテパルがヨセフをして彼らに事えしめたことである。これは無論神の御摂理であった。何故ならばこの二人の囚人に接し交際することによってついに監獄から出るようになったからである。

二 ヨセフの同情 (五〜七節)

 元来、監獄というところは同情、愛、親切などの行われるところでない。かえって残酷、疑惑、恐怖、圧迫の行われるは当然のことである。ヨセフは今まで不正不義な取り扱いを蒙ったから、その心が全く苦くなり、自己のことのみを考え、自分の難儀煩悶などを思い出して他人に対する態度も冷酷になるのが普通である。けれども彼はそれと違って、常に人の憫れな有様を見る目が鋭敏であった。或る朝、彼が監房に入ると二人の囚人の様子を見て、直ちに『なにゆゑに今日は顔色あしきや』と尋ねた。普通の役人の目は悪いことを見るにはなはだ鋭いけれども、ヨセフの心は神を喜ぶ喜悦に満たされているから、その同情に満ちた目をもって自分の下にある囚人を見たのである。

三 ヨセフの神につける証 (八節)

 この二人の囚人はすぐその心を打ち明けて昨晩夢を見たことを語った。そしてその夢を解き明かす人がないから悲しんでいると言った。ヨセフはこれに答えて『解く事は神によるにあらずや。請ふ、我に述よ』と言った。ヨセフは必ず自分の経験を思い出し、夢を解く智慧のあることを信じたであろうが、自己の力を出さず、かえって謙遜にその能力を神に帰し、大胆に神について証した。ちょうどさきに主人の前に、自分の栄える理由は神によると証したそのごとく、今もまた智慧を与える者は神であると言い顕した。ヨセフはいずれの境遇にあっても、鋭い眼をもって、神の栄えを顕すべき良き機会を窺っていたのである。

四 ヨセフの智慧 (九〜十三節)

 神はヨセフに様々な恩寵、様々な賜物、様々な才能を与えたもうたが、その上に夢を解く智慧を与えたもうた。酒人はまずその心を打ち明けて詳しく夢を語った。すなわち一本の葡萄の樹を見た。その樹には三つの枝があって、芽が出て花が咲き立派な果を結んだので、その手に持っていたパロの杯の中に葡萄酒を搾り出して捧げたという夢であると言った。ヨセフはこれは三日目に酒人が監獄から救出されて今一度パロの前に立ち、以前の地位に立ち帰ることであると言った。
 この夢の中にはなはだ深い教訓が入っている。すなわち人生の真の成功と幸福の秘密を示している。この葡萄の樹は主イエス・キリストである(ヨハネ十五章一節以下)。我らはその御前におれば、忠実にその果を搾り出して、その葡萄酒すなわち救いの喜びを神と人とに差し出して、はなはだ有用にして幸福なる生活をなすことができるのである。ヨセフはこの意味を酒人に説明しなかったけれども、我ら信者にとりてはこれが真の説明である。とにかくヨセフは大胆に酒人の救いを預言したのである。

五 ヨセフの単純さ (十四、十五節)

 今までヨセフの人格は玉のように輝いていて、不平不足を言ったことは少しも見えぬ。されば或る人はヨセフが普通の人と違って自分の不幸苦痛をさほどに感じないように思うかも知れぬが、ヨセフはその不幸なる境遇に感化はされなかったが、その不幸を感じなかったと考えるは間違いである。ヨセフもやはり人間である。心の中に苦しんだに相違ない。詩篇百五篇十八節を見れば『かれら足械あしかせをもてヨセフの足をそこなひ、くろかねのくさりをもてその霊魂たましひをつなげり』とある。彼も霊魂に苦を感じたのである。いま酒人の長が近いうちに監獄から出るからぜひ自分を覚えてくれるようにと願った。しかしその時にもただ奴隷としてエジプトに売られ、また罪を犯さずしてこの監獄に入ったと言うのみで、ポテパルの妻のことも言わず、誰に対しても苦い言葉の一つもその口から出さなかった。ただこの願いをもってその心の真の状態を単純な質朴な風にして表した。ヨセフは決して超人間でなく、やはり感じやすい柔らかい心のある人間である。これによってヨセフの信仰が一段と美しく輝いて見えるではないか。

六 ヨセフの忠実 (十六〜十九節)

 膳夫の長は酒人の夢が立派に解かれ、その結局が幸福であると聞き、自分もその夢を語った。すなわち自分の頭の上に白い籠が三つあって、その一番上の籠にパロのために作った様々の食物が入っていた。ところが空の鳥が来てこれを食ってしまったというのである。ヨセフは諂うことをせず、忠実にこれを説明して実際のことを語り告げた。すなわち三日のうちに彼は刑場に曳かれ、死刑に処せられると言った。ヨセフは膳夫にこの意味をば説明しなかったが、我ら信者は聖霊によってその意味を悟ることができる。すなわちこれは無益な空しき生涯の比喩である。疑いもなくこの膳夫ははなはだ不正直な不義な者であった。もしこの膳夫が酒人のように罪のない助けられるべき者であったならば、全く別の夢、すなわち酒人のような夢を見るはずであった。キリストはただ葡萄の樹であるばかりでなく、生命のパンである(ヨハネ六章四十八節)から、彼はその面前に麦が生えて実を結んで熟するのを、手を出してこれを摘み、つぶして粉としパロのために立派なパンや菓子を作るというような夢を見るはずであった。ところが彼のはそれと異なって、もはや出来上がった食物を頭の上から鳥が啄んでしまったのである。だからその意味は膳夫が不注意或いは怠慢もしくは自分が盗んだためにパロのために供えられるべきものを失ってしまったということで、徒な無益な生涯の夢である。我らがこれによって教えられることは、神のために用いられるべき時間も財産も才能も能力も自己のために使い、神のために供え事えるべきものを失うならば、それは無益なる生涯だということである。この酒人と膳夫の対照はヘブル書九章十四節にある『活ける神に事へ』ることと『死にたる行為おこなひ』をなすことのそれである。

七 ヨセフの忍耐 (二十〜二十三節)

 三日経ってからヨセフの夢の解き明かしはその預言の通りになった。酒人の長は今一度自分の地位に帰りパロの前に立って奉仕することとなり、膳夫の長は罪せられて死刑に処せられた、ところが悲しいかな、二十三節にある通り『酒人の長ヨセフをおぼえずして之を忘れたり』。もちろん酒人の長は監獄から出る時に種々とお礼を言い、ヨセフの親切を覚えて早くヨセフの出られるように尽力すべく約束したに相違ない。しかしてヨセフは大いなる喜びと望みをもって待っていたであろう。今日であろうか、明日であろうか、とにかくすぐにパロから使が来て自分を監獄から出してくれるに相違ないと思ったであろう。しかるに六ヶ月となり、一年となり、一年半となったが救いは来ぬ。ついに二年となったこの二年間はヨセフにとっては最も苦しい時であったのである。如何に失望したか、如何に大いなる忍耐を要したことであろうか。しかしながらこれは神の御摂理であった。何故なれば、もし酒人の長が尽力してパロにヨセフのことを語り、彼を監獄から出してもらったならば、ヨセフは必ずパロの恩によって本国に帰ることを得たに相違ない。しかして神の定めたもうた御計画のごとくエジプトの総理大臣の位に上り、エジプトの何百万人を恐ろしい飢饉から救うことができなかったであろう。神はちょうど適当な時期において我らを救い出したもう御方である。ヨセフはこの二年間の獄中生活によって如何にその霊的経験を深められたか、如何に深く教えられたか、如何に神を信ずる心が完うされたか知れぬ。悪魔は初めに神の備えたもうたこの器、すなわち美しいヨセフを殺そうと願ったが、この恐ろしい工夫に失敗したから、今一度恐るべき罪を犯させて彼を亡ぼさんとした。けれどもこれもまたできなかった。そこで悪魔は彼を監獄の中に葬り、繋ぎ止めて、彼がそこより出でて神の定めたもうた運命に達することのできざるように働いた。しかし幸いなるかな、悪魔の謀は神の聖徒にとってはその信仰と品性を完うするために神の用いたもう手段となるのである。あたかも悪魔が主イエスをベツレヘムに殺さんとして果たさず、エジプトに送り、荒野で試みてまた失敗し、ついに十字架に釘けたごとくである。この点においてもヨセフのそれと酷似している。



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