第二回 創造の始め



第 一 章


 創世記は始めの書であるが、殊にその第一章より十一章までを見れば、各章或る一つのことの始めを記している。すなわち第一章は創造の始め、第二章は人類の始め、第三章は罪の始め、第四章は宗教の始め、第五章は携挙の始め、第六章は審判の始め、第七章は救いの始め、第八章は回復の始め、第九章は契約の始め、第十章は国民の始め、第十一章は選択の始めである。
 さて、この第一章は聖書全体の緒言として録されてあるがゆえに、非常に肝要でまた意味深い章である。前に言えるごとく、聖書には歴史的、心霊的、および預言的なる三重の意味を含んでいるが、殊にこの第一章においてそうであるが、歴史的方面の研究は附録として巻末に載せたれば、ここには心霊的研究について述べよう。そもそも霊魂の創造と改造には、世界の創造と改造に要したると同様の力の活動を要する次第にして、このところに霊魂の更生の驚くべき絵画を見ることができる。さればこれより簡単にこれを研究しよう。神は始めに完全なる天地を創造したもうたごとくに、人の霊魂も完全なるものとして創造したもうたのである(伝道之書七章二十九節)が、その完全なる世界がひとたび破壊されたごとくに、人の霊魂も堕落したのである。しかしこのところに世界が始めに如何にして破壊されたかを録さざるは、あたかも信仰の秘訣を録せるヘブル書の第十一章にアダムとエバの失敗につき何をも録さざるごとく、この第一章の目的が世界改造を叙述し、これによりて霊魂の改造される次第を学ばしめるにあるからである。
 さてここに霊魂の堕落したる四つの状態が録され、進んでこれが改造の七つの階段が示されている。

 地は定形かたちなく曠空むなしくして黒暗やみわだおもてにあり

とある。これはちょうど未だ生まれ変わらない人の心の絵画である。
 一、その安定なく安息なきこと、海の水の常に波立つごとくである。すなわち『悪者あしきものはなみだつ海のごとし。静かなることあたはずしてその水つねににごりひじとをいだせり。わが神いひたまはく、あしきものには平安やすきあることなしと』(イザヤ書五十七章二十、二十一節)。
 二、暗黒なる有様である。すなわち『彼らはおもひ暗くなりて其の内なる無知により、心の頑固かたくなによりて神の生命いのちに遠ざかり』(エペソ四章十八節)とあるとおりである。
 三、空しきことは『我はわがうち、すなはち我が肉のうちに善の宿らぬを知る』(ロマ書七章十八節)とあるごとくである。
 四、形なき有様は『ヱホバ、人の悪の地におほいなると其心の思念おもひすべ図維はかる所のつねたゞあしきのみなるを見たまへり』(創世記六章五節)とあるとおりである。
 かかる様なる霊魂の改造される七つの階段が、また絵画のごとくに示されている。すなわち、
 第一段は『光』の入り来ることである。すなわち混沌たる暗黒の霊魂の中に、信仰によって神の言葉の光が入り来る。すなわち信仰の光である。救いの体験ある人々のみな等しく経験するところで、『神のかたちなるキリストの栄光の福音の光』に照らされるのである(コリント後書四章四節)。
 第二段は『望み』なる『穹蒼おほぞら』のできることである。まず第一段の光によって霊魂の『定形かたちなく曠空むなしき』有様が知られ、少しも休むことあたわざる大洋の怒濤逆巻くごとき有様がありありと顕されてくる。すなわち光によって覚罪が起こる。そのとき霊魂はかかる罪深き者は救わるべきものにあらずと考える。かかる有様のところに穹蒼おほぞらができる。この恐ろしき絶望の中に青い空、すなわち希望が起こる。これが第二段である(ペテロ前書一章を見よ)。
 第三段は堅い陸地が現れるごとく、霊魂の立場として神のが顕されるのである。水は審判を指す。世界を掩っている水が分かれて堅い陸地が現れるごとく、恐るべき神の審判を自覚している霊魂の中に神の愛が顕されて、ようやく救いの基礎ができてくるのである(ロマ書五章五節)。しかして土地は自然に植物を生じ、実を結んだように、神の愛が霊魂に注がれると直ちに霊の結ぶ果が出てくるのである(ガラテア五章二十二節)。
 第四段、今までにもちろん光があったけれども、はなはだ漠然たるものであったが、今それが明瞭となるのである。あたかもこのとき太陽と月とが明らかになったごとくに、人の心に二つの光が明らかに見えるようになる。すなわち主イエスが自ら『われは世の光なり』(ヨハネ八章十二節)と言い、また『汝らは世の光なり』(マタイ五章十四節)と仰せられしごとく、主ご自身は義の太陽にて在し、我ら信者すなわちキリストの新婦たる者もまたちょうど月が太陽の光を反照して光を放つごとくに、この世を照らす光である。しかして星は、或いは既に栄光に入りし聖徒を指すか、或いは天使を指すのであろう。ともかくかくのごとく光が明瞭になるのである。
 第五段、次に生物の造られるごとくに、霊魂に活動が起こってくる。創造の五日目に種々活動する動物が現れるごとく、霊魂にもだんだんと活動が起こってくる。すなわち信者がキリストのため、人のため、世界のために活動するに至るのである(エペソ二章十節を見よ)。
 第六段、かくして終わりに万物の霊長たる人間が造られるごとく、人間の霊魂を改造したもう御工においても主イエスご自身の形が心の中に作られること、すなわち内住のキリストの形の成ることが救いの絶頂である。内住のキリストの形が霊魂のうちに見えるまでは、救いは未だ完成されておらぬのである(ガラテア四章十九節)。
 第七段、しかして終わりの段は全き安息である。神が六日間にこの世界の改造の御工を成就してのち安息したもうたごとくに、人の霊魂の改造の御工が成就し、内住のキリストの形がそのうちに成れば、我らも神も満足して絶対的安息ができるのである(ヘブル書四章九節、ゼパニヤ書三章十七節)。
 霊魂の改造につきこの順序は注意すべきことである。すなわち第一に信仰の光、第二に望みの穹蒼、第三に愛の立場ができ、第四に品性の果を結び、第五に霊的知識すなわちキリストと教会についての重大なる事どもを悟るに至り、第六に霊魂の活動が始まる。しかして第七に内住のキリストの形成りて後に、真の安息が来る。これが理想的順序である。けれども或る人はこの順序をはずれて進歩し活動せんとして失敗に陥る。たとえば未だ果を結ばざる前に自己の力を出して活動し始めるがごときことをなす。これは無論不自然なことであるから、その自ら助け導かんとするところの人を束縛し、己自らをも傷つけるに至る。さればこの理想的順序に従うことは肝要である。

安息日の目的および霊的意義

 安息日は神の尊い幸福なる賜物である。ここにこれが霊的意義と目的とを学ぼう。
 一、安息日は言うまでもなく我等人間の衛生のために与えられた。七日の中に一日の休息がなければ人間も動物も永く続くことができぬ。但しキリスト教の時代において第七日の安息日が第一日に変更したことには深い理由がある。旧約時代は律法の時代で、六日間働いた報賞として七日目に安息を与えられたのであるが、新約時代はちょうどその反対に、第一日をよく休息して心身を回復し、その結果として六日間働くことを得るのである。この深い霊的意味を解せざるために、セブンズデイ・アドヴェンティストの人々は信者を惑わし、律法の奴隷とならしめるのである。
 二、安息日は我等をしてエジプトより、すなわち悪魔の奴隷たる境遇から贖われているということを記憶せしめるものである(申命記五章十五節)。
 三、我等は自ら潔めること能わざるものなれども、神御自身こそ我等を潔める御方であるということの徴である(出エジプト記三十一章十三節)。
 四、安息日は神の特別の賜物、すなわち神の愛のしるしである(エゼキエル書二十章十二節)。
 五、安息日は永遠の契約の徴である(出エジプト記三十一章十六節)。
 六、安息日は自己のわざをやめ、自己の放恣すなわち自己の好むところの道を行わず、好む業をなさず、好む言葉を語らずして神を楽しむ、真の楽しみの日である(イザヤ書五十八章十三、十四節)。
 実際において主イエス御自身がわが内心に現れたもうことを発見すれば、深くこの幸いなる安息に入ることができるのである。

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 今この第一章につきて霊的意味はほぼ研究したことであるが、聖書すべてにあるごとく、ここにも預言的意味を含みおれど、あまりに長くなりたれば今はこれを省略する。



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