第五十回 果を結ぶ枝としてのヨセフ



 いま私は創世記に関する単純なる思想を陳べ終わったことであるが、ヨセフに関して今少しの思想を附記したい。彼ははなはだ大いなる人物であり、イエス・キリストの最上の型であり、我等信者にとりて最も興味ある標本的人物であるから、特にこの二つの方面から彼を研究しよう。すなわち一つは理想的信者として、今一つはキリストの理想的型としてである。

一 理想的信者

 ヨセフの生涯をよく研究してみれば七つの美しい絵が見られる。
 一、家庭におけるヨセフ
 二、奴隷たるヨセフ
 三、獄中にあるヨセフ
 四、宮中におけるヨセフ
 五、権威の位にあるヨセフ
 六、兄弟の間にあるヨセフ
 七、老年におけるヨセフ
 もちろんこの書において詳しい研究はできぬから、ただ研究の材料として要点を指摘するにとどめる。ヨセフは何処を見ても完全なものである。すべての地上の事件において、幸福にも不幸にも、弱い時にも強い時にも、身分のない時にも身分の高くなった時にも、神に対しても自己に対しても、主人に対しても僕に対しても、王に対しても国に対しても、親に対しても兄弟に対しても、いつでもどこでも変わることなくして金剛石のごとく輝き、完全なる品性を顕している。今その品性の七つの美点を簡単に学ぼう。
 一、ヨセフには素朴な透き徹る性質、天真爛漫で少しも詐りのない心があった。人を邪推せず、間違った標準によって判断せず、自分の曇りなき心をもって人を推断した。彼が若い時にその見た夢をそのままに発表したのもやはりそのような単純な性質からであった。或る人は批評的の目をもって常識がないと言うかも知れぬが、彼のその後の生涯を見ればヨセフは決して常識のない者とは思われぬ。彼がそのねたみ深い兄弟等にあのような夢を発表したのは、たまたま彼の素朴な透き徹る性質のある証拠であった。
 二、ヨセフは清浄潔白で罪に対してははなはだ敏感な人であった。若い時にも自分の兄弟の悪しき行いを見て黙していることができず、必ず彼らの迫害を受けると承知しながら大胆にもこれを父に告げた。彼の義は偽善的でなく犠牲的の義であった。エジプトの国でポテパルの妻に誘惑された時にも、単にこれを拒んだばかりでなく、かかる行いは神の御前に如何に懼るべき罪であるかを深く感じてそのことを言い顕している。かく彼の心は潔く、その良心ははなはだ鋭敏であった。これは聖徒の潔い生涯の奥義である。
 三、ヨセフははなはだ勇気のある、忍耐深い、堅実不撓の精神をもっていた。普通の人は彼が受けた半分の試みにも堪え得ずして失墜してしまったであろう。兄弟等に迫害せられ、理由なくして裏切られ、罪なくして獄に入れられ、恩を施しても報いられず、つぶさに艱難を嘗めたるもなお決して希望を失わず、自暴自棄に陥らなかった。
 四、ヨセフは義務の念深く、忠義の心篤く、極めて忠実なる者であった。英国の古い金言に『第二のことをなせ』という語がある。人は最上の地位を得たる時に最上のことをなすべしと考えて徒に空想に耽ることなく、最上に達せざる現在の地位に在って目前の義務に忠実なるべきことを教えたものであるが、ヨセフは実にこれを実行した人である。すなわち家庭にあっても、奴隷に売られても、監獄に入っても、王の御殿においても、権利と責任ある地位にいても、いつでも、どこでも、僅かな義務であっても、非常に重大な義務であっても、差別なく一様に忠実を尽くした。この徳を具えた者は少ないが、これは真の成功の奥義である。
 五、ヨセフの性格には深い同情と勝れたる才能とを倶に備えていた。才能の勝れたる人はとかく人を容れることあたわず、近づきやすく親しみやすき人は多くは敏腕の人でない。この二つの性格は兼ね有しがたきものであるが、彼はこの二つのものを優に具備していた。彼は何処にいても人に愛せられた。ポテパルにも愛せられ、ポテパルの妻にも愛せられ、パロにもパロの臣下にも愛せられ、エジプト人全体にも愛せられた。それと同時に驚くべき才能を現した。すなわちポテパルの家を司り、監獄を司って統治の力を示し、夢を解きたることは言うに及ばず、飢饉の恐るべき結果を防ぐべき驚くべき智慧、殊にエジプト国民の感情を害することなくして国全体を王権のもとに統一した手腕は、彼が実に大政治家なりしことを示している。かく彼にはこの二つの特質が合致して美しき人格を形成している。これは真に得がたき性格である。
 六、ヨセフは人に対して極めて寛大な、人を赦しやすい、復讐することのできない性質があった。これはヨセフの性格中もっとも美しい麗しい徳であったと思う。詩篇にある通り、神は赦すことを好みたもう神であるから、この人を赦しやすい性格は最も神らしき徳である。ヨセフがその兄弟等の罪を赦したのは止むを得ずでなく、かえって真心から好んで赦した。ちょうど或る人は復讐を好み、その苦い心の恐ろしい目的を達することを悦ぶごとくに、ヨセフは愛と寛容なる心を表し、赦すことを悦んだのである。
 七、ヨセフには神を信ずる完全なる信仰があった。これはヨセフの立派な品性の基礎と言おうか冠と言おうか、とにかく彼の美しく輝く徳の秘訣であった。既に言った通り、彼はいつでも事物の第一原因すなわち神御自身に目をつけ、第二の原因すなわち人間の罪、残酷或いは失敗より起こる困難なる事情境遇に目をつけなかった。ヨセフにとって最も現実なものは神であった。彼の精神も心も念も神に囲まれ、神に包まれ、神の中に宿っていたから、前に数え上げたような品性の美しい聖霊の果が自然に結んだのである。既に繰り返して言ったとおり、彼は何処でも何時でも大胆に神を発表した。しかり、彼の信仰は実に驚くべきものであった。殊にアブラハム、イサク、ヤコブの信仰の生涯と彼のそれとを比べて非常に顕著なる区別のあることを注意せねばならぬ。
 すなわちこの三人の生涯において、神はしばしば異象により、夢により、或いは天使の形をもってその面前に顕れ、彼らを導きたもうたが、ヨセフの生涯には初めから終わりまで神は一度もそのようにして顕れたもうたことが録されておらぬ。これは極めて顕著なことである。これはヨセフが見るところによらず、全く信仰によって歩んだということの証拠である。今でも或る人は、感情的に何か著しい経験がなければ神と偕に歩んでいることを信ぜぬ。けれどもヨセフのような人は感じても感じなくても神御自身を知って神と偕に歩む。かく著しい経験の有無に関せず、全く感情によらずして静かに神と偕に歩む人ははなはだ稀である。ヤコブの生涯の物語が三十七章からヨセフの話に遮られて四十六章に至って今一度ヤコブのことが出て来るが、ヤコブの話に至ると直ちに神は異象のうちに顕れたもうたことが録されている(四十六章一、二節)。神は異象に顕れてヤコブを導きたもうた。彼はかかる目に見ゆる徴がなければ導かれなかった。しかるにヨセフは聖霊によって直接導かれて、驚くべく成功ある生涯、神と偕なる生涯を送ることができたのである。ヨセフの生涯と性行を見れば聖霊に満たされねばどうしてもできないところのものである。されば彼は恐らく聖霊に満たされた者の最も完全な実例であろう。この高い標準に照らして自ら顧み、我等の卑劣な、欠点多き有様を深く悟り、今一度ヨセフの神のわが神にて在すことを信じ、仰ぎ、謙りて全き愛に満たされるように求むべきではなかろうか。

二 キリストの型

 ヨセフについて第二に学ぶべきことは主イエスの驚くべき型たることである。ヨセフの生涯を学ぶ中にもはやこの問題が出たことであるけれども、今一度簡単にここに繰り返そう。
 一、ヨセフとその兄弟との関係
 既に学んだとおり、ヨセフは父よりその兄弟らに遣わされて彼らと偕におり、彼らに嫉まれるに拘わらず、忠実に彼らの罪を責め、また自己と兄弟たちに関する神よりの示現をば無邪気に言い顕した。ちょうどその通り、主イエスはユダヤ人すなわち肉につけるその兄弟たちに遣わされ、彼らがこれを受け入れずはなはだしく嫉み憎みたるに拘わらず、三年の間忠実に彼らの罪を責めて悔改を促し、また御自身とユダヤ人に関する示現を彼らに示したもうたのである。
 二、ヨセフの拒まれたこと
 ヨセフが父に遣わされて来るを見るや、兄弟等は無慈悲なる謀をめぐらし、僅かの金にてミデアン人に彼を売ったことであるが、主イエスに対してもユダヤ人の重立つ人々が無情残酷なる謀をめぐらしたること、弟子ユダが僅かの金にて敵に売り渡したことなど、一々型のごとくに成就していることを見る。
 三、ヨセフの辱められること
 ヨセフが故なくして僕の状となりてエジプトに下り、奴隷とせられたること、そこにて恐ろしく誘惑せられ、これに打ち勝ちたること、罪なくして監獄に入れられたること、獄中にて不思議にも典獄に信用せられたること、またともに囚われていた二人の囚人に対して一人を恵み一人を審きたることを見ると、これらのことが明細に型として主イエスの御自身の上に成就している。主イエスもこの世に下りて僕となり、恐ろしくサタンに試みられてこれに勝ち、罪なくして捕らえられ、十字架と墓なる獄に入れられたもうたが、そこで刑を執行したる百人の長が感嘆したること、二人の盗人の一人は恵まれ一人は審かれたることである。
 四、ヨセフの崇められること
 ヨセフが急に監獄より出されて王の位にまで挙げられ、最も身分の高いところ、すなわち救い主の地位を受けたのも、キリストの崇められたもうことを指している。キリストも墓から復活し、天に上り、神の右に坐し、この世の救い主に立てられたもうたことである。
 五、ヨセフの結婚
 ヨセフが崇められてから、その驚くべき知恵と力を現し救いを施した報賞として妻を与えられたが、その妻は自分の民からでなく、自分が救いを施したエジプト人すなわち異邦人の一人であった。これもちょうど絵のような型である。すなわちキリストが崇められたもうてから我等異邦人のうちから新婦を取りたもう。しかも御自身の贖いたもうたその教会をば、父の神の御手より新婦として与えられたもうのである。
 六、ヨセフの役事
 ヨセフの役事によってキリストの役事の型を見ることができる。すなわちこの役事の順序ははなはだ驚くべき型である。ヨセフが生命のパンの与え主として第一に異邦人すなわちエジプト人の生命を助け、次に自分の家族すなわち兄弟たちを助け、それより世界中の国々はパンを買わんとてエジプトに来り、彼は世界の救い主となったことであるが、キリストの役事もちょうどそのごとく同じ順序に従い、第一にキリストは今この時代に異邦人の生命を助けて生命のパンと称えられたもうことであるが、遠からずしてキリストの兄弟ユダヤ人が今一度故国に帰り、回復されて必ず救われる。しかして後、世界中の国々が服従してキリストを信ずるようになる。使徒行伝十五章にこの三つの階段が明らかに録されている。十五章十四節に異邦人の中から民が選び取られている。十五、十六節に倒れたるダビデの幕屋の再び建てられること、すなわちユダヤ人が今一度立てられることがあり、十七節に残余のこりの人々、すなわちすべての国民が神を求めて来り救われるに至るのである。
 七、ヨセフその兄弟等に現れること
 前に掲げた事どもにまさって最も明らかな型は、たぶんヨセフがその兄弟たちに自己を顕して平和を告げ、彼らを赦し、その生命を助け、慰め養いて全く回復することであろう。必ず主イエスもその御再臨の時に、かつて御自身を拒み、嫉み、憎み、謀をもって裏切り、敵にわたして殺したるユダヤ人に現れ、長い間飢饉のごとき災いに遭い、世界中に散らされ、詛われ苦しめられていた御自身の民に知られたもうことであろう。かくユダヤ人は長い間知らなかった弟すなわちイエス・キリストと面と面を合わせて真の和らぎを得、御前にひれ伏して服従し、豊かに赦され、回復され、恵まれることであろう。

結  論

 我々はこの驚くべき型を見てよくよく考えれば考えるほど、実に驚かざるを得ぬ。かくのごとき模型的歴史は決して偶然に暗合したのでなく、人の賢い想像によって作為したのでもない。聖書が必ず霊感によって書かれたる神の御言であるということを証明している。我等はこれを見て、驚いて感謝し、驚いて讃美し、驚いて御言に服従し奉る。かく我等は御言をば我等の導き、我等の光、我等の生涯の案内者として受け納れねばならぬ。神の我等に与えたもうた賜物は、その生みたまえる独子ばかりでなく、慰め主なる聖霊ばかりでなく、この御言をも与えたもうたことであるから、この三つの賜物は決して軽視し等閑にしてはならぬ。かえって謙遜なる心、従順の精神をもって、信仰によって御声を聞き、キリストの御姿を見、忠実に順い奉るべきである。


 創 世 記 講 演 終



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