第二十五回 アブラハムの信仰の完成



第 二 十 四 章


 この章はアブラハムの信仰の完成、すなわちその子イサクの結婚のことである。この一事のために長い一章が費やされているのは、これに深い心霊的意義が含まれているからである。二十二章はイサクの犠牲、二十三章はサラの死で、今この二十四章はイサクの婚姻であるが、これを予表としてみれば、二十二章はキリストの十字架、二十三章はユダヤ人の棄てられることの型で、二十四章は教会すなわちキリストの新婦の成ることである(エペソ五章二十三〜二十七節、コリント後書十一章一、二節)。されば本章はキリストの教会の問題である。教会とは『選び出された者』との義で、すべての国々のうちより選び出された者である。ペンテコステの日からキリストの再臨までは、この教会が諸国民のうちより選び出され集められる時代である。教会は『キリストの体』である。キリストは頭で我等信者はそのえだである。教会はまた『キリストの新婦はなよめ』である。これはキリストと真の信者の一つなることの譬えである。聖書中にキリストと信者との関係を表す譬えが五つある。すなわち
 一、鉱物界よる取れる譬え=神殿の隅の首石おやいしとその他の石(ペテロ前書二章五節)
 二、植物界より取れる譬え=葡萄樹とその枝(ヨハネ十五章)
 三、動物界より取れる譬え=頭と肢(コリント前書十二章十四〜二十七節)
 四、理性界より取れる譬え=霊と体(コリント前書六章十五〜二十節)
 五、道徳界より取れる譬え=夫とつま(エペソ五章二十三〜三十三節)
で、キリストと教会の関係を夫婦として見るは最高の比喩である。しかして既に言ったとおりイサクはキリストの型で、その婦を求めるために一人のしもべが遣わされることである。この僕は或る人の説では聖霊の型であると言っているが、私はこれは聖霊に満たされた伝道者であると思う。キリストのために新婦を呼び集め、これをキリストに来らしめるは我等の務めであるから、この僕のことよりして深く教えられることができる。今この章を三つに区別すれば、一、僕の委任、二、僕の奉仕、三、僕の成功である。

一 僕の委任 (一〜十)

 この僕は何人であったかここにその名が録されておらぬが、たぶん十五章に録されているエリエゼルであろう。前に述べたごとくこれを我等の奉仕の模範として学びたいと思う。
 一、僕に対する訓示 (一〜四)
 『吾子わがこイサクのために妻を娶れ』。アブラハムは今その愛子イサクのために妻を娶らねばならぬことをその僕に語っている。マタイ二十二章一〜十四節には『己が子のために婚筵を設くる王』の譬えがあるが、これは未来におけるキリストと教会の婚姻(黙示録十九章六〜九節)を指している。いま神はアブラハムがその僕に言ったように、我々をしてキリストの花嫁となるべき者を召させたもう。人々は一人ひとり恐るべき地獄より救われ天国に入るべきものならんと、それのみを願うかも知れぬけれども、我等にはキリストの新婦のこと、すなわち信者が聖められ全うせられ一つとなりて新婦の形成せらるべきことが示されている。この全うせられたる新婦こそ、キリストが来りて王としてこの世を統御したもう時その栄光に与るべき者である。これは一人ひとりが滅亡より救われるということより遙かに深い神の恵みの御目的である。
 二、僕の信任 (二)
 『其すべて所有もちものつかさどる其家の年邁としよりなる僕』(二節)。ルカ十二章四十二〜四十四節を見よ『僕どもにさだめの糧を与えさする為に、その僕どもの上に立つる忠実まめやかにしてさとき支配人』とある。エリエゼルはちょうどそのような支配人であったのである。『忠実』なることと『凡の所有を宰る』ことは相関係している。忠実でなければ信任されることはできぬ。これも我等のための模範である。
 三、僕の誓い (三)
 アブラハムは僕に『汝わが偕にむカナン人のむすめの中より吾子に妻を娶るなかれ』と言って誓わしめた。そのごとく不信者からキリストの新婦を娶ることはできぬ。ヨハネ十四章十六、十七節にあるとおり、『世』すなわち不信者は神の霊を受けることはできぬ。であるからまず信者でなければキリストの新婦となることはできぬ。
 四、僕の警戒 (六)
 『汝慎みて吾子を彼処にたづさへかへるなかれ』(六節)。しかり、新婦は信仰によって来らねばならぬ。イサクを見て来るのではない。今キリストが昔のごとくに我等に顕れたまわぬのは、我等をして見ずして信じ愛し奉らしむるためである。『汝らイエスを見しことなけれど、之を愛し、今見ざれども、之を信じて、言ひがたく、かつ光栄ある喜悦よろこびをもて喜ぶ』(ペテロ前書一章八節)とあるごとく、見ずして信じ、見ずして喜び、見ずして愛するのでなければならぬ。人は見ずして敬い、見ずして感服することはできるが、見ずして愛することは困難である。キリスト教の妙処は、未だ見ざるに啻に敬うばかりでなく、感服するばかりでなく、服従するばかりでなく、愛し奉ると言うところにある。すなわちイサクの婦となるべき者は、僕の言葉を聞きその贈り物を見て、イサクを見ずして決心せねばならなかったごとく、人々も説教を聞き信者の生涯に顕れる果を見て信ぜねばならぬのである。
 五、僕の特権 (四)
 新婦は新郎によってにあらずして僕によって招かれるのである。これは僕の大いなる特権である。ヨハネ三章二十五〜三十節を見よ。バプテスマのヨハネは大いなる説教者で多くの人が彼に随従したが、イエスの来りたもうに及んで人々はみな彼を去ってイエスに従ったから、弟子等は気の毒がりて『視よ……人みなその許に往くなり』と言ったのに、ヨハネは、新婦の新郎に往くは当然である、我は新郎の友である、『彼は必ず盛になり、我は衰ふべし』、すなわち彼は盛んにならねばならぬ、我は衰えねばならぬと喜びをもって答えた。新郎の声を聞かねば自ら甘んじて衰えることができぬ。喜んで自ら衰えるを甘んずることのできるは僕の幸いである。
 六、僕の奨励 (七)
 『天の神ヱホバ、我を導きて吾父の家とわが親族の地を離れしめ、我に語り我に誓ひて汝の子孫に此地を与へんと言たまひし者、其使を遣して汝にさきだたしめたまはん』(七節)。これは僕の大いなる励ましであった。僕が心配したのは、如何にイサクを賞めてもその富を語り聞かせても婦が来らねばイサクを連れて行くより仕方はあるまいということであったが、アブラハムは神が偕に往きたもうから大丈夫だと言ったのである。そのごとく我等としてはとてもキリストの御美しさ、またそのすべての人の要求を満足したもう恵みの富を、充分に人に示すことができぬけれども、神が偕に在して祝したもうことによって人々を信ぜしめることができる。これは我等にとっても大いなる奨励である。
 七、僕の支度 (十)
 『其主人のもろもろ佳物よきものを手にとりて』(十節)。僕の手の中に主人の諸々の佳き物があった。彼はイサクを伴い行くことはできなかったが、その佳き所有物を携え行き、これをもって婦を勧めることができた。そのごとく我等もキリストを天より引き下ろすことはできないけれども、我等が受けた恵みをもって人々を勧めることができる。もし我らが実験した神の恵みを有たないならば人を導くことはできぬ。実際受けた恵みを示さねば、如何に巧みに語るとも人々を勧めて信ぜしめることはできぬ。

二 僕の奉仕 (十〜四十九)

 これより進んで僕の使命を果たす道程を学ぼう。
 一、信仰による的確なる祈りとその答え (十一〜十六)
 彼は祈って『吾主人アブラハムの神ヱホバよ、ねがはくは今日我にその者をあはしめ、わが主人アブラハムに恩恵めぐみを施し給へ』と言い、『我にのましめよといはんに……といはば彼は汝が僕イサクの為に定め給ひし者なるべし云々』と言っている。如何にその祈禱の的確なるかを見よ。しかしてまた『彼ものいふことををふるまへに視よリベカ……いできたる云々』(十五〜二十節)。如何にその祈りの答えの迅速なるかを見よ。これは信仰による祈禱の良き実例である。成功ある奉仕の第一着手は信仰による的確な祈禱である。
 二、彼がリベカに近づきし方法 (十七〜二十五)
 『請ふ我をして汝のかめより少許すこしの水を飲しめよ』(十七節)。これは僕がこの婦人に近づいた方法である。ヨハネ四章七節を比べ見よ。この婦人に近づく仕方は彼女の世話になることによってであった。主イエスもサマリヤの女に近づきたもう時、この謙遜の態度を取りたもうた。これによって我等も導かんとする人に近づく途を学ぶべきである。ここに二つの賜物がある。サマリヤの婦よりの水、キリストの与えたもう賜物、エリエゼルがリベカに飲ませて貰った水とエリエゼルが彼女に与えた金銀の賜物(十七〜二十二)である。そのごとく聖霊は近づき来たる霊魂を励ます為にまず救いのしるしとして賜物を与えたもうのである。
 三、祈禱の答えに対する感謝と礼拝 (二十六、二十七)
 『是に於て其人伏してヱホバを拝み云々』。祈禱が答えられると直ちに礼拝と感謝讃美が起こる。この礼拝の自然に起こる場合が三つある。
 (一)主が御自身を顕したもう時 (ヨシュア記五章十五節)
 (二)祈禱が的確に答えられた時 (こことヨハネ十六章二十四節)
 (三)犠牲が受け納れられた時  (レビ記九章二十四節)
 これらはみな神が我と偕に在すことの明らかな証拠で、自然に礼拝の精神が起こるのである。
 四、僕の証言 (三十四〜四十二)
 『彼言ふ、われはアブラハムの僕なり。ヱホバ大にわが主人をめぐみたまひて大なる者とならしめ……主人其所有もちものを悉く之(其子)に与ふ』。これはこの僕の二つの証言である。すなわち一つは僕自身について、一つはその主人についてである。僕自身については自己の信認を語らずその功績を言わず、ただアブラハムの僕と言った。恰もバプテスマのヨハネが『我は荒野に呼はる者の声なり』と証したのと同じことである。魚釣りの秘訣は自己を隠すことにあるということであるが、人を漁るにもまず自己を隠すことが大切である。使徒行伝を見れば、ペンテコステの後ペテロ、ヤコブ、ヨハネのほかの九人の使徒等の名が一度も書き記されておらぬ。これは彼らが働かなかったためでなく、聖霊のみ崇められたもうて彼らが隠れていたためである。ナホム書一章十四節に『汝の名を負ふ者再びまかるゝことあらじ』ということがある。自己の名を播きて自己の栄誉を刈り取ることをせず、主イエスの名をのみ播きて主のために刈り入れをなすべきである。九人の使徒等のことは実に良き漁人の手本である。さてまたこのアブラハムの僕は主人については大いに誇っている。(一)主人の大いなる富と(二)そのすべての所有を皆その子に与えたことを語った。我等が伝道するにも(一)神の愛と富と力とを信ずべきこと、愛すべきことを示し、(二)そのすべてのものがみなキリストに与えられていることを示さねばならぬ。
 五、神の導きと摂理とを示すこと (四十二〜四十八)
 『ヱホバ我をたゞしみちに導きてわが主人の兄弟のむすめを其子のためにめとらしめんとしたまへばなり』と僕は簡単に神の御導きと摂理を語って彼らをすすめた。これは誠に神より出ずることであると自己も信じ他にも信ぜしめる途である。
 六、即座の決心を促すこと (四十九)
 『されば汝等もしわが主人にむかひて慈恵めぐみ真誠まことをもて事をなさんと思はば我に告げよ、然ざるも亦我に告げよ』と彼は即座の決心を促した。これはまた霊魂を取り扱うに極めて大切なことである。我等も神の恵みを示し、神の導きと召しを示し、即座の決心を迫り勧めねばならぬ。
 七、賜物を与えること (五十三)
 『是に於て僕、銀の飾品かざり金の飾品および衣服ころもをとりいだしてリベカに与へ……彼および其従者ともびと食飲くひのみして宿りしが云々』。決心を聞くや僕は主人の宝物と衣服を出して与え、かつ飲食して交わった。黙示録三章十七〜二十節を見よ。ここに金と白衣を与えられることと饗筵とがある。ルカ十五章二十二、二十三節には衣と飾りと饗筵とがある。これらは救いの喜びを表している。リベカが決心したとき直ちにこれらの賜物が与えられたように、我等がキリストの新婦として決心すれば必ず喜びと確信と愛とを与えたもうのである。

三 僕の成功すなわち新婦の応答 (五十〜六十七)

 アブラハムの僕の成功はリベカが彼の招きに応えて新婦となることである。伝道者の真の成功もキリストの新婦が招きに応ずることであるが、ここに人の救われる七つの階段が顕れている。
 一、新婦が無意識的に導かれること (十五、十六)
 『彼語うことを終るまへに、視よ、リベカ瓶を肩にのせて出きたる……』。リベカは全く何も知らず無意識的に神の摂理の手に引かれて来た。ちょうどそのごとく人々は初めに無意識的に導かれて来る。それは救われた多くの人の実験である。
 二、新婦が喜びをもって僕を迎えること (二十〜二十五)
 『急ぎて其瓶を水鉢みづばちにあけ又くまんとていどにはせゆき其すべての駱駝のために汲みたり……又彼にいひけるは家には藁も飼草かひばも多くあり且宿る隙地ところもあり』。彼女は僕をば歓迎した。ザアカイがまず同情の友として主イエスを迎えたことに比べ見よ。ヨハネ一章十二節に『之を受けし者云々』とあるごとくこれは救いの最初の徴である。
 三、新婦の証詞 (二十八〜三十一)
 『童女むすめはせ行て其母の家に此等の事をつげたり……彼(ラバン)鼻環はなわおよび其妹の手の手釧うでわを見云々』。ちょうどサマリヤの女が直ちにその邑に帰って証をしたように、リベカはその母の家と兄ラバンに証した。これはまた霊魂が主を受け入れた最初の結果である。
 四、新婦の決心 (五十八)
 『即ちリベカを呼て之に言けるは、汝此人と共に往くや。彼言ふ、ゆかん』。彼女は今断然母の家を離れて従い行くことを決心した。ちょうど信者がただ信ずるばかりでなく、断然世を離れて主に従い奉ることを決心するがごとくである。信ずることと従うこととは違う。
 五、新婦の信仰 (六十一)
 『是に於てリベカたちて其童女等めのわらはどもとともに駱駝にのりて其人にしたがひ往く。僕乃ちリベカを導きてさりぬ』。これは新婦の美しい信仰である。未だ見ざる新郎につきてエリエゼルの言うところを全く信じ、自己と自己の将来をば全く打ち任せて導かれて行ったのである。
 六、新婦の謙遜 (六十三〜六十五)
 『リベカ目をあげてイサクを見、駱駝をおりて僕にいひけるは、野をあゆみて我等にむかひ来る者は何人なるぞ。僕、わが主人なりといひければ、リベカ覆衣かつぎをとりて身をおほえり』。リベカがイサクを見やるや駱駝を下り、覆衣をもってその身を蔽い隠した。これは謙遜である。
 七、幸福なる結局、新婦の婚姻 (六十六、六十七)
 『イサク、リベカを其母サラの天幕につれ至り、リベカを娶りて其妻となして之を愛したり』。この幸福なる結局は言うまでもなくキリストと新婦の婚姻の型である。幸いなる携挙の後に起こる主との結合である。



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