第四回 罪の始め



第 三 章


 この章は聖書の枢軸と言われている。もしこの第三章の記事が事実でないならば、全聖書は破壊されねばならぬ。しかしながら哀しいかな、人類の堕落は人間の経験における一大事実である。しかしてこの事実がこの第三章に描写されているのである。
 もちろん第三章につきて種々の説がある。或る人はこれを一種の神話の如きものとし、或る人はこれは事実でなくただ人類堕落の次第を比喩的に書いた寓話であると言っている。けれども最も理解しやすきは、この章の記事を歴史上の事実とすることである。すなわち一語一語聖霊によって黙示されたる堅実なる事実と承認することである。何となれば、罪に関する全聖書の教理は、その基礎をこの第三章に置いているが故に、この教理はこの章と共に或いは立ち或いは倒れるからである。
 さてこの章は種々なる教訓に充ちているが、我等は今ただ僅かの点に触れることを得るのみである。すなわち第一に罪の起源、第二に罪の仕方、第三に罪の結果、第四に罪に対する神の取扱方についてである。

一 罪の起源

 罪そのものが如何にして生じたか、その起源は常に秘儀として残されてある。この章においてはただ罪がこの世に入って来たその起源を見るのみで、これより遡ることはできぬ。悪魔とかサタンとかいうような語はこの章には録されておらぬ。罪の源は蛇の形に隠されているけれども、新約全書に対照すれば蛇はサタンの型であるに相違ない(コリント後書十一章三節、黙示録十二章九節)。さればこの章の『蛇』をサタン即ち悪魔とすべきは明瞭である。この蛇が人を誘惑して罪に陥らしめたのであるが、その誘い方につき、ここに四つのことがある。
 一、誘惑の着眼点、すなわち目的は、不従順を起すことであった。元来、人と神との正しき関係は全き従順によるものであるが故に、従順は人の幸福と安全と正しい完全な生涯の枢軸である。この従順を破壊せねば罪は入り来ることができぬ。されば悪魔の誘惑の第一は人をして神に背かしめることであった。神に背くことは何の危険なく、却って利益であると暗示したのである。
これが悪魔の攻撃の主要なる点であった。
 二、誘惑の方法、悪魔が人を誘惑するために採りたる方法は、まず彼自身を蛇の形に偽装することであった。これは彼の常套手段である。パウロも『サタンも己を光の御使によそほふ』ことを言っている(コリント後書十一章十四節)。彼は蛇の形を取ることによってエデンの園にも忍び込むことができたのである。
 三、誘惑の道は、神の真理を枉げて結局これが真理を否定することである。これは悪魔の特性である。彼は虚偽の父で、格別に神の御言を疑わせ、またこれによって神御自身を疑うように誘うのである。神を信ずることの基礎は神の言である。神の御言を取り去れば神を信ずる信仰が自然に破壊されるゆえ、彼の誘惑はこの途を取るのである。
 ここに今一つ注意すべきことは、この会話にヱホバという御名が用いられておらぬことである。サタンもエバもヱホバの御名を言わない。これは自然である。なぜなればヱホバは神の人と契約を立てたもう御名であるから、悪魔は神の真理を破壊するためにヱホバの御名を避けたのである。
 四、誘惑の手段は、神の愛を疑わしめることであった。彼は神が或る善き賜物を差し控えおりたもうということを暗示した。同時に彼は彼らが神のごとくになり得べきことを暗示して、たかぶるように誘った。
 神は人を御自身の御像みかたちに似せて造り、これを神の子となしたもうたのであるけれども、悪魔は人間がそれよりも善きもの、すなわち神御自身のごとくになることができると言った。これは彼が自ら犯したところの罪であるが、また人間をもその同じ罪をもって破壊しようと企てたのである。
 我等はここに罪の起源と誘惑の道につき基礎的主義を見た。それは傲慢と不信仰と不従順とである。

二 罪の道

 我等は既に誘惑の道、すなわち誘惑者の仕方を見たことであるが、いま我等は罪の道、すなわち誘惑された人間の堕落の道を考えてみたいと思う。
 一、エバは蛇の言うことに耳を傾けた。我等は神が悪魔につきて彼らを警戒したもうたことを見ない。たぶんエバは彼女と語った蛇の中に悪魔が偽装しているということを知らなかったであろう。されども元来神は彼らに動物を治める絶対の権威を与えたもうたから、人間は彼らの主人であり、動物は人間の僕であったのである。しかるにエバが動物の支配のもとに入ったのは間違いである。彼女はこれを支配すべきであった。彼女の罪は、神の御声の代わりに蛇の声にその耳を貸したところから始まっている。
 二、かく悪魔の言に耳を傾けると、その次には彼女の目がこれに随った。しかして目の慾は彼女の滅亡となった。すなわち神の御言によって導かれることの代わりに、彼女は目の慾に負けたのである。
 三、耳を通して、また目を通して、肉体の慾が彼女を裏切った。すなわち彼女は『くらふに善し』と見た。かくして彼女は堕落したのである。
 四、エバはなお深くは入り込んだ。すなわちその勢いより起こる傲慢に陥った。すなわち賢くなり神のごとくなるという誘惑が来た。善のごとくに悪をも知りたいという慾が誘惑に付け加えられた。ただ果物を食らうことの楽しみは速やかに過ぎ去る。けれども食らうことの結果はいつまでもとどまる、すなわち善悪を知って神のごとくなるということが永続すると知って、彼女はこの誘惑に陥ったのである。
 これらは罪の道の四つの主義である。今の時代においても昔時のエバの当時と同じである。

三 罪の結果

 これから罪の結果を考えてみよう。
 一、罪の第一の結果は、恥と有罪の感覚であった。初めアダムとエバは彼らが裸体でいることに気がつかなかったが、今はこれを恥じるようになった。或る人々は、彼らはもと美わしき光輝に掩われていたからその裸体を見られなかったのであるが、罪を犯したと同時に栄光の光輝が取り去られて、裸体が見えるようになったのであると言っている。
 これはそうであるかも知れない。しかしもしそうでないにしても、ともかく罪を犯したと同時に恥と有罪の感が起こったのである。
 二、罪の第二の結果は、彼らが自ら自己を義とせんと企てるに至ったことである。彼らはその裸体を蔽わんと努めた。彼らはこれがために大いなる艶々しき無花果の青葉を集めた。これらは朝早く採る時には美しく見えたに相違ないが、夕方までには枯れて萎んでしまったのである。
 これはあたかも人間の『己が義』の絵画である。人間は皆その恥と有罪の感を蔽う或る物を求める。けれどもこの蔽い物は今は充分美わしく見ゆるも、神の審判の前に立つ時、生涯の夕には必ず萎み枯れてしまうのである。
 三、第三の結果は神を懼れて自身を隠すに至ることである。今までは神との楽しき交わりがあったが、今はすべてが変化した。彼は神を懼れ、神を逃れ去る。神が人をして楽しませるために造りたもうた樹木は、彼らの隠れ場となった。
 四、第四の結果は申し訳を言うことである。アダムは自身の申し訳としてエバを咎め、エバもまた自身の申し訳をなして蛇を咎めた。これは常に堕落したる人の仕方で、いつでも自己の申し訳をして自ら義とせんとするのである。されどもなお悪しきことには、間接に神にその罪を負わしめるに至ったことである。三章十二節に『汝が与て我とともならしめたまひしをんな、彼其樹の果実を我にあたへたれば我食えり』とあるごとく、彼は婦を与えたもうた神をば間接に咎めた。
 これらは不従順と罪との恐るべき結果である。これはその時も今も決して異なることなく常に同じことである。この驚くべき、しかも悲しむべき物語に、罪の性質、罪の道とその結果を見ることができるが、哀しいかな、いずれの国にても、いずれの時代にても、すべての民の中にこの同じ事実が毎日繰り返されている。

四 罪に対する神の取り扱い

 さて神はこの罪をば如何に取り扱いたもうかと言うに、
 一、神は罪人を求めたもう。彼はアダムを呼びて『汝は何処いづこにをるや』と言いたもうた。これは慥かに愛のしるしである。神はその造りたもうた人を罰し、またこれを亡ぼしたもうことができたのであるが、彼はこれをなしたまわなかった。『汝は何処にをるや』との御言の中にはなんら厳酷なることはない。神は愛をもってかく語りたもうた。この御言のうちに優しき同情が籠もっている。彼はアダム、エバを求め、これを赦し、また回復したもう。
 二、神が罪人を見出したもうた時に、必ず罪を自覚せしめ、また告白することを求めたもうことである。これは赦罪の基礎である。『もし己の罪を言ひあらはさば、神は真実まことにして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らをきよめ給はん』(ヨハネ一書一章九節)。『なんぢその是なるをあらはさんがために己が事をのべて我に記念せしめよ』(イザヤ四十三章二十六節)。我らは神を説服して罪を許さしめ奉る必要もなく、また自覚せざる罪に関してのほかは赦罪を懇願する必要もない。神は我らの罪を告白すべきことを条件となしたもう。しかして直ちにこれを赦したもうことができる。罪を告白することによって、我らは罪を負いたもうキリストの上にその罪を置くのである。
 三、神は罪を罰したもう。人はその播くところを刈り取る。たとえ神はその子どもたちを赦したもうとも、人はこの世においてその犯した罪の結果を刈り取らねばならぬ。エバには産みの苦しみが与えられ、アダムには働きの苦痛と悲しみが与えられ、しかして二人ともに肉体の死が与えられ、その取りて造られたる塵に帰らしめられた。今一つ神が彼らに与えたもうたことは、生命の樹から離れることであった。何故なれば、既に罪を犯した彼らが生命の樹の果実を食したならば、罪人の状態のままで永遠に生きたであろう。これは実に恐るべきことである。我らは、罪深き者がそのままで永遠に生き存えるということほど恐るべきことは考えることさえできぬ。
 四、神は罪の掩い物を備え、救い主を約束したもうた。アダム、エバはその罪の裸体をば無花果の樹の葉をもって掩わんとした。されども神は獣の皮を備えて、これを掩いたもうた。これは確かに犠牲によれる真の贖罪を示している。疑いもなく神は獣の犠牲を定めて、罪の贖いとすることを定めたもうたのである。しかしてその犠牲の結果は皮衣であった。されば彼らはその皮衣を見るごとに神の恩と罪の贖いを憶えたに相違ない。それと同時に神は救い主を遣わすことを約束したもうたが、その救い主は堕落した女の子孫であるということは驚くべきことである(三章十五節)。すなわち悪魔の頭を砕く者は、神に背き神の愛を疑って、一般の人類を亡ぼすところの罪をこの世に入らしめたその女の裔であるとは、ああ何たる驚くべき愛、何たる驚くべき智慧、何たる驚くべき力ぞ!



| 総目次 | 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 |
| 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 附録1 | 附録2 |