第四十四回 ヨセフと兄弟等の悔改



第 四 十 四 章


 兄弟等はさきの恐怖や憂慮や邪推などを漸く取り去られて心も落ちつき、エジプトの司の親切なる取り扱いを喜びつつ、麦を驢馬に載せて帰りかけた。ところが彼らの悔い改めもまだ完全でなく、ヨセフの愛もまだ十分に表されておらぬから、ヨセフはこれで満足することができぬ。そればかりでなく、もしこのままで彼らを国に帰らしめたならば再び会うことも叶わぬであろう。ましてその父や兄弟等を自分の許に引き寄せることもできないであろうから、もう一度彼らを引き返したのである。我々はヨセフの幸いなる目的を深く心に留めておかねばならぬ。されば繰り返して言う。ヨセフの目的は、一家族を自分の許に引き寄せて、治め、養い、祝し、しかして自分の栄えと貴きに共に与らしめようということであった。されば兄弟等が帰ろうとする時に、今一度妙な計画をして彼らを試みたのである。すなわちベニヤミンの麦の袋の中に密かに自分の銀の杯を入れておいた。そして彼らが出発するや、後からすぐに家宰を遣わして、杯を盗んだ者があると訴えさせた。これは、前に言った通り、今一度彼らを引き返すための謀であったに相違ないが、その上にもっと深い目的があった。すなわち兄弟たちの悔改を更に深くならしめ、また自分の愛を更に明瞭に表すためであった。これよりこの物語について三つの点を学ぼう。

一 無罪の人の罰せられる苦痛を味わうこと (一〜十三節)

 兄弟等はもはやよほど悔改の実を結んでいる。すなわち古い罪を憶え、その罪を告白し、ヨセフの前に頭を下げて服従し、またヨセフの命令に従ってベニヤミンを連れてきたのである。彼らは砕かれ、遜り、悔い改め、恐れ戦いている。彼らの心の態度は大いに変わっている。けれどもなお学ぶべきところがある。すなわちまず第一に、無罪の人が故なくして罰せされるはいかに苦しいことであるかを味わわねばならなかった。ヨセフはかくのごとくして苦しめられた。かかる苦痛を兄弟等は彼に与えたのである。さればいま同じ風にして彼らも苦しみを経験せねばならぬ。ベニヤミンは無論罪を犯さぬ。兄弟等もこのことにつきては無論無罪であった。けれどもこれによって彼らの霊魂がますます砕かれてきたのである。一〜十三節を見れば、彼らはこのことにつきて少しも自らを義とせぬばかりでなく、よしやベニヤミンが密かに杯を盗んだことが事実と認められるにしても、少しも彼を責めず、かえって何も言わずに従順にヨセフの許に帰って来たのである。兄弟等が自分の義を立てず、つぶやかず、またベニヤミンを責めないのは、自分等の過去の罪、すなわち無罪の人に苦痛を与えたことを思い起して、今の困難は当然の報いであると思ったからであろう。ヨセフは彼らの心のかくも変化していることに気づき、その無理な取り扱いは的確にその目的を果たしたことを認めたであろう。かく兄弟等の悔改はだんだんと熟してくるのである。

二 悔改の試みられること (十四〜十七節)

 兄弟等はヨセフの許に立ち帰って一同ひれ伏し、何ら口実を設けて言い逃れようとせず、全く服罪して自己をヨセフの奴隷として差し出した。けれどもヨセフはこれを受けず、ただ銀の杯の発見された袋を持っていた者だけ留まって奴隷となり、他の兄弟等は早くその父の許に帰れと言った。これによってもヨセフの彼らをして前の罪を憶えさせるつもりであったことがわかる。愛せられるベニヤミンがエジプトの地に残ってエジプトの司の奴隷となるならば、必ず昔ヨセフが売られたことを思い出さずにはおられなかったであろう。またそのために良心の呵責を喚び起したに相違ない。特にヨセフは自分を売ったユダの悔改を試みたかったのである。しかしてちょうどヨセフが自ら飲んだその苦い杯を兄弟等に飲ませたのである。この話を静かに読んでみれば、何もかもただ一つの罪を思い出させ、ただ一つの罪を悔い改めさせ、ただ一つの罪を悲しんでこれを片付けるようにと導いているのである。その一つの罪とは、彼らがヨセフに対して犯した罪であった。ちょうどそのように、ペテロがペンテコステの日にユダヤ人に向かって説教した時にも、他の罪のことは一つも言わなかった。ただ一つの罪を指摘したのである。すなわち彼らがキリストを十字架につけたことを指摘して、悔改を勧めたのである(使徒行伝二章)。

三 悔改の成就 (十八〜三十四節)

 ユダのこれまでの生涯をよくよく見れば、はなはだ面白からぬ罪ある生涯であった。ヨセフを売ったり、カナン人すなわち神を信ぜぬ者を妻としたり、また三十八章に録されてあるような恥ずべき不品行をさえ行ったのであるが、今のユダは以前のユダとは全然異なっている。殊にこの十八節から三十四節までの記事を見れば、ユダの性質が実に美わしく現れている。これがどうして変わったのかわからぬが、ともかくも彼が根本的に生まれ更わっているということを知らねばならぬ。ユダがベニヤミンのために執り成したこの言葉は実に立派なものである。或る学者は、これは恐らく世界の文学中に見出される最も感動すべき美わしい優しい言葉であると言っている。ここで詳細の説明はできないけれども、ユダのこの執り成しのうちに彼の十分なる悔改の証拠と見るべき三つの点がある。
 一、第一はヨセフに対する降参的服従の態度である。すなわちこの執り成しのうちに七度『わが主』と言っていることでこれがわかる。誠にヨセフの昔の夢の文字通りの成就である。三十七章十九節を見れば、ヨセフの来るを見て嘲り笑って『夢を見る奴が来た』というような卑しい言葉をもって彼を迎えたのであるが、今はヨセフをその人と知らぬとは言いながら、非常の謙りをもって『わが主、わが主』と言ったことによって如何にユダの心の態度が変わったかが見られる。
 二、次に彼の父に対する態度である。父に心配をかけ思い煩わしめるは実に恐るべきことである。この点につきてユダの態度が以前とは全く変わっている。かつてヨセフをイシマエル人に売った時には、父の憂いと悲嘆とを考えずしてただ自分等の利益のみを求めたのであるが、今もしベニヤミンが取られるならば、父は憂いと悲しみに沈んでそのために生命を失うであろうとそのことを深く恐れた。この点においても如何ほどにユダの心が変わっているかがわかる。
 三、ユダはベニヤミンのためならば喜んで自分を捧げてヨセフの奴隷となり、甘んじて彼に代わりいつまでも奴隷の生涯を送ろうと申し出た。かつてヨセフを取り扱ったその態度とは非常な相違である。これは明らかに悔改の証拠であった。かくユダの悔改は理屈的でなく、感情的でなく、無論口ばかりでなく実際的であった。しかしこれによって以前の罪を償うことができるというわけではないけれども、できることならばこの犠牲によって喜んで以前の罪を償いたいという意思を表している。
 ユダもその他の兄弟等もその悔改の杯をばその澱まで飲み干した。今は心が柔らかになり、想いが変わり、過去の罪に対する記憶が鋭敏になり、高ぶれる心が全く卑くせられた。もはやヨセフがその愛を現すために彼らの心に充分の備えができたのである。
 ここに至るまでヨセフの兄弟等を取り扱った仕方を見れば、彼の驚くべき智慧を感ぜざるを得ぬ。ヨセフは兄弟等を恋い慕い、自分の愛を表したい切なる心があったけれども、ぜひとも兄弟等の心の中に悔改の霊を充分に働かせねばならぬと思って隠忍自重した。無論その間にも種々の恵みを施したけれども、最上の恵み、すなわち恵み主なる彼自身を現すことを長く差し控えたのである。同じようにして、主イエスも我等の心の中に充分に悔改の霊を働かせ、真に遜らせ、罪を覚えしめ、徹底的に悔い改めさせたもうまでは、御自身を顕したもうことができないのである。マタイ十三章二十、二十一節を見よ。そこに磽地いしぢの土は速やかに喜びをもって御言を受け入れることが書いてある。しかしこれに根がないために太陽の熱に灼かれて枯れるのである。実際、罪人は喜びをもって直ちに御言を受け入れるはずではない。かえって御言を聞いて悲しみを生ずべきである。喜びの来るは後のことで、まず悔改の霊が働くはずである。そのとき嘆きと憂いと悲しみとのあるは当然である。ヨセフがその兄弟等を取り扱ったのも、この智慧の標準に随って聖霊に由れる嘆きを彼らの衷に起すためであった。主イエスも我等をば同じ仕方をもって取り扱いたもうのであるが、我々はどうであろうか。既にこの経験があったであろうか。ことに主イエスに対する不従順、不信仰、軽蔑侮辱、冷淡の罪について衷心より嘆き悲しんで悔い改めたであろうか。もしそうでなければ早晩恩寵より離れて失敗を免れぬことであろう。



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