第四十八回 ヤコブの子らの祝福せられること



第四十九章一節〜二十七節


 四十八章と四十九章とを比較してみれば大いなる相違がある。四十九章はヤコブの子等の祝福せられることとしたけれども、その実はそうではない。十二支派の祝福せられることは申命記三十三章である。この四十九章をその所と比べて学ぶべきはずである。本章の第一節にある通り、ヤコブは祝福を呼び下さんとせず、ただ後の日、彼らが遇わんとすることを預言したのである。されば四十八章の話は四十九章よりも遙かに幸いなる話である。このことを心に留めておいてこの章の一節より二十七節までを学ぼう。

一 ヤコブの子等の不信仰

 既に説明した通り、十一人の子等は、ヨセフのように信仰の目を開き、期待する態度をもって父の床に来り、その臨終の祝福を求めることをしなかった。かえってヤコブの方からこの十一人の子等を呼び寄せ、祝福を呼び下すことはできぬけれども、後の日に彼らが遇わんとすることを預言したのである。ヘブル書十一章二十一節にはただヤコブが信仰をもってヨセフの子等を祝したことが書いてあるが、十一人の子等につき預言したことは何も録しておらぬ。これによってその相違は明らかに証明されている。いまヤコブの子等の将来につける預言を六つに分けて学ぶことにする。すなわちはじめの三人の子等に関する預言、四男ユダに関する預言、今二人のレアの子等に関する預言、使女の子なるダン、ガド、アセル、ナフタリに関する預言、ラケルの子ヨセフに関する預言、同じくベニヤミンに関する預言である。

二 はじめの三人の子等に関する預言

 ヤコブは第一にルベンを呼び出し、その地位、勢力、威光、権威の栄光と尊貴を明らかに言い顕し、彼にその威厳の衣と飾りとを着せるかのごとくにして、直ちに衣と飾りとを剥ぎ、祝福にあらずしてかえって詛いを宣言して彼を辱めるごとく、その卓越すぐるゝを得ざることを預言するのである。西洋で、陸軍の士官が罪を犯し国旗を汚辱する者があれば、その人の属する全聯隊または師団の前で公然とその軍服とその飾り及び軍刀を取り上げてこれを破壊し、飾りも焼き棄てられるのであるが、ちょうどそのように今ルベンは辱められた。もちろんこの厳かな感動すべき臨終の時に当たって愛と憐れみの言葉を遺さず、かえってこの厳しい言葉を陳べたのは、もし聖霊の御導きでなければはなはだ理解しがたきことである。四節に『汝は水のわきあがるがごとき者なれば卓越を得ざるべし』とある。これはルベンに対する詛いである。ルベンの性質ははなはだ動きやすい無節操無主義なものであるから卓越を得ないというのであるが、この預言は文字通りに成就した。聖書を如何ほど調べてみてもルベンの支派わかれから出た大人物は一人もいない。ただ二人の名高い人があるが、それは民数記十六章にあるはなはだしい罪を犯したダタンとアビラムである。このような詛いの原因は、明らかに書いてある通り、父の床に上り、特別に不倫の姦淫罪を犯したためである。申命記二十七章二十節にこの極端なる姦淫罪を犯す者の詛いは明らかに宣言せられている。ルベンの罪と詛いは我等にとりても厳かな警戒と教訓である。次にシメオンとレビに関する預言も、ルベンのそれと同じく、祝福を呼び下すことでなく、かえって詛いの言葉である。彼らに対する言葉は過去の生涯と将来の生涯の二つに分かれている。過去の生涯について特に注意を惹くことは、他の子等は一人一人の名が呼ばれ別々に預言されたけれども、この二人は一緒になっていることである。過去の生涯について、或る人の考えではシメオンとレビはほかの兄弟よりもまさってヨセフを酷く取り扱って、エジプトに売ることを促したのであるという。これは真であるかどうか知らぬが、ヤコブは三十四章に録されてあるシケムにおける彼らの虚偽と残酷と暴虐を憶えずしてはおられなかったのである。後にレビは特別に神に選ばれて祭司の権を受けたが、その栄えは彼の過去の罪のために今ヤコブの目から隠されていたと見えて、この栄えについては何も言わず、ただ彼らの極端なる暴虐と不信を思いだし、これがために将来の不幸を預言したのである。将来の生涯は七節にある通り『我彼らをヤコブの中に分ちイスラエルの中に散さん』であったが、これもこの預言の文字通りに成就した。シメオンの支派は南の端に置かれたユダとベニヤミンの支派によって他の九支派から隔てられ、全く別になっている。レビは産業を受けず、すべての支派のうちに散らされていた。これも何たる厳かなる教訓ぞや。彼らはその不信と残酷と暴虐との自然的結果として兄弟等から別れ散らされてしまったのである。こういう結果はいつでも同じ罪より出て来るものである。

三 ユダに関する預言

 既に見た通りユダははなはだ卑劣な無責任な肉的な者で、その不自然な罪によって家督の権を失ったのであるが、後に彼はエジプトに下るに当たって自ら責任を負ってその兄弟を伴い行き、また父の心を傷めることを恐れてベニヤミンを庇護し、敢えて自ら代わらんとするなど、その言行を考え見れば、ユダはその失った力、徳、品性、地位、威厳などを取り返したことと見える。これはこの最後の父の預言によって明らかに証明せられている。ユダの預言には詛いのような言葉はない。彼は家督の権を受けることができなかったけれども、系譜の権があったから、その支派の栄えと貴さとは明らかに預言せられている。
 一、ユダの支派は勝利を得る支派である(八節)
 ユダの名の意味は『誉れ』であった。その名の通り兄弟等に誉められ、敵の首を踏みつけ、父の子等にひれ伏し拝せられる者となる。
 二、ユダの支派は勇気のある支派である(九節)
 彼は獅子のごとく強く、勇ましく、威勢のある者である。ヤコブは獣を譬えとして用いている。イッサカルは驢馬、ダンは蛇のごとく、ナフタリは鹿のごとく、ベニヤミンは狼のごとくであるが、まずユダは獅子のごとき者であると言っている。
 三、ユダの支派は王的支派である(十節)
 王の杖がユダから離れず、また立法者がその支派のうちから取り去られぬと言っている。主イエスはユダヤ人の王としてユダの支派から出でたもうた。
 四、ユダの支派はメシヤ的支派である(十節)
 ユダはメシヤ的支派であって、シロすなわちメシヤが必ず来り、すべての人が彼に従うのである。
 五、ユダの支派は果を結ぶ支派である(十一、十二節)
 彼らは葡萄の果を結び、葡萄酒を造り、葡萄酒をもって衣を洗い、葡萄の血をもって自分の服を染めることである。これらのことはみなキリストの驚くべき型である。キリストはユダの支派から出でたもうて、勇気と大胆に満ち、王たる権威を有し、メシヤとして万民を自己に引き来らせ、真の葡萄樹として喜びの葡萄酒を注ぎ出したもう御方である。

四 ゼブルンとイッサカルに関する預言

 彼らはユダのごとく本妻レアの子等である。
 一、ゼブルンに関する預言は、彼が『海辺にすみ舟の泊る海辺に住はん』ことであるが、この預言はその通りに全く成就した。パレスチナの唯一の港ハイファはゼブルンの支派に属している。海の港は出発所であり、輸出所であるから、他に恵みを施す機会を意味している。さればゼブルンに属する分は機会を用いることの祝福である。これはまた活動の大胆を出す機会の祝福である。
 二、イッサカルはゼブルンと共に置かれているが、その位置はちょうど反対で、ゼブルンは海の方に、イッサカルは陸の方に置かれたのである。ゼブルンは活動と冒険的企業を好めども、イッサカルは堅実なる務めを執る者である。その秘訣は十五節にある通り安泰(やすき)を善とし、その国を楽しとし、荷を負うために肩を下げているのである。これはまた真の働きの秘訣である。この預言はキリスト再臨の時になお詳しく成就されるのであろうが、我々は今でもこの預言によって霊的教訓を受けることができる。

五 ダン、ガド、アセル、ナフタリに関する預言

 彼ら四人は侍婢ビルハとジルパの子等であった。
 一、ダンに関する預言ははなはだ説明しがたいものであるが、よくよく考えてみると三つに分かれている。すなわち祝福と詛いと祈禱とである。
 (1) 祝福は、ダンもほかの支派のごとく権があるということである。その意味は十六節に書いてある通り、詛われたる状態であるにもかかわらず、その民を審く権利があるということであろう。
 黙示録七章を見れば、十二支派の各々から一万二千人ずつ、額に印せられる者があるということである。しかるにその中にダンの支派が除かれている。これについて種々の説明が試みられるけれども、深く考えれば、これはダンの支派から偽キリストが出て来るためであろうと思われる。このことの証拠として見るべき興味あることがレビ記に見えている。すなわちレビ記二十三章と二十五章にユダヤ人の七つの節会が録されているが、これはみな予表として見るべきもので、第一の過越のいはひ(二十三章五節)は十字架の贖罪、第二の初穂の束を献げること(同十節)はキリストの復活、第三の五旬節(同十六節)は聖霊降臨、第四のラッパを吹くこと(同二十四節)は主が聖徒を携挙せんために来りたもう日、第五の贖罪日(同二十七節)はユダヤ人の救われ回復せられる時、第六の結茅節かりほずまひのいはひ(同三十四節)は主がその聖徒と偕に降りたもう時の型である。しかして第七のヨベルの年(二十五章一節以下)は千年王国の型であるが、この二十三章と二十五章の間、すなわちユダヤ人の回復されることの型と千年王国の型との間に二十四章の十、十一節の不思議な話が出ている。これは前後の型と何の関係もないようであるが、深く考えてみればやはり関係がある。これは偽キリストの現れることの予表であろう。この神の名を汚した人の父はエジプト人、母はユダヤ人で、これがダンの支派の女であったが、この人が偽キリストの型であれば、偽キリストがダンの支派から出るであろうと考えるも理由のないことではない。たぶんそのわけで、黙示録七章の時にダンの支派が除かれるのであろう。
 (2) ダンの詛いは偽キリストのことである。偽キリストの現れる時に、彼は自らメシヤと称し、ユダヤ人と契約を立てて非常に助けるけれども、後にはこれを裏切って、恐ろしく破壊して彼らを倒すのである。ここに道の傍らの蛇や蝮のごとく馬の踵を噛んで騎者を後ろに落とすとあるはそのことであろう。
 (3) 祈禱。ヤコブはこの恐るべき詛いの意味を充分に悟らなかったに違いないけれども、後の日にダンを通して恐るべき災いの来ることを聖霊によって示され、無意識的に突然と祈り出して『ヱホバよわれ汝の拯救すくひまてり』と叫んだのであろう。
 二、ガドは初めに軍勢に迫られ、後に勝利を得るという預言である。ガドの支派の後の歴史を見れば、彼ははなはだ戦士的な人々であった。彼らはモアブ、アンモンの近辺に住んでいたからたびたび困難に遭ったが、歴代誌上五章十八節以下を見れば、幸いにして彼らはモアブ、アンモンに全く勝つことを得たことが録されている。我々はガドによって堅忍不屈なる者の必ず勝利をもって報いられることを教えられる。
 三、アセルはガドと対照をなしている。ちょうどゼブルンとイッサカルと対照をなしているように、相反したる性質を有っている。ガドは勇敢なる戦士的人民であるけれども、アセルは平和な農業を勤めて王にも美味を供えるのである(伝道の書五章九節を見よ)。人にはそれぞれ異なれる賜物がある。或る人は進撃的に働き、或る人はごく静かに農業のような仕事をして神の御旨に随う。このアセルの支派について申命記三十三章二十四節にもっと詳しく書いてある。
 四、『ナフタリははなたれたるめじかのごとし。彼美言よきことばをいだすなり』。箴言五章十九節を見れば鹿は愛らしく美しきものであり、詩篇十八篇三十三節を見れば鹿は滑らぬ足をもって絶壁を馳せ上るもの、詩篇四十二篇一節を見れば活ける水を喘ぎ慕うものであるが、ナフタリはその通りである。彼は釋たれたる麀、すなわち自由な美しい者で、危険な絶壁をも馳せ上り、活ける水を喘ぎ慕い、美しき言を出す。これはキリストの面白い型である。マタイ四章十五、十六節を見ればその地は主イエスの初めての伝道地であった。人間の考えではキリストの伝道開始はエルサレムであるはずと思われるであろうが、預言の成就されるためにキリストはまず辺鄙のナフタリから始めたもうた。主イエスは釋たれたる牝鹿のごとくそこから美わしき言葉を出したもうたことである。

六 ヨセフに関する預言

 ヤコブは今その最も愛した妻ラケルの子を祝して恵みの預言を語り出すのである。最も貴き者を最後に残している。既に見た通り、四十八章において家督の権にかかる祝福をもはや呼び下したのであるけれども、これはエフライムとマナセに与えたのであるが、今はヨセフ自身に対してその臨終の預言の祝福を呼び下すのである。この一段が二つに分かれている。一つは過去の履歴(二十二〜二十四節)、他は将来の預言である。
 一、ヨセフの過去の履歴
 (1) ヨセフの生涯は果を結ぶ生涯であった(二十二節)。『ヨセフは実を結ぶ樹の芽のごとし。即ち泉の傍にある実をむすぶ樹の芽のごとし。その枝つひに垣をゆ』。実を結ぶ秘訣はここに書いてある。すなわち『泉の傍にある』ことである(詩篇一篇三節、エレミヤ十七章八節)。樹につきて三つ四つの大切なものがある。根、果、葉、枝、すなわち人の思い、品性の徳、口の言、身の行いである。ロンドンのハンプトンコートに名高い葡萄の樹がある。非常に古い樹であるにもかかわらず、はなはだよく実を結ぶ。園丁はこれが何故であるか知ることができなかったが、或る時土工があってテームズ川の辺を掘り、近い所に樹はないのにその河底に樹の根のあるのを見て、これを調べてみて、遙か遠方のハンプトンコートの葡萄の樹の根であることを知って驚いた。かくこの葡萄はその根を河に延べて絶えず水を吸い込むゆえに常に実を結んだのである。その通りにヨセフがその心の思いなる根を神御自身のところに延ばして天来の水を吸っていたからよく実を結んだのである。
 (2) 彼の生涯は迫害せられた生涯であった(二十三節)。『射者いるもの彼をなやまし彼を射かれをにくめり』。ヨセフの生涯はその通りであった。兄弟等が非常に彼をねたみ悪み、しきりに彼をなやました。ポテパルの妻も非常に火箭ひやを放って彼をなやました。すべて最も成功ある生涯を送る信者は最も迫害せられる者である。
 (3) 強い信仰のある生涯であった(二十四節)。『然どかれの弓はなほつよくあり、彼の手のひぢは力あり。是ヤコブの全能者の手によりてなり』とある。聖書において弓は信仰にて、箭は祈禱を指す。列王紀略下十三章十四〜十九節を見ればこれは明らかである。ヨセフの弓すなわち信仰は弛むことなくいつでも強く鞏固であった。されば驚くべき力をもって祈禱の矢を射出すことを得た。しかしてその秘訣は神の御手が彼の手の上にあったためである。列王紀略下十三章十四節以下の話に、エリシャの手が王の手の上に按かれてある間ははなはだ強かったけれども、エリシャの手が離れたる時にすぐに弱くなって、矢を射出すに疲れて失敗した。その通りである。
 (4) 望みのある生涯であった(二十四節下半)。『其よりイスラエルの磐なる牧者いづ』とあるは言うまでもなくキリストを指している。キリストはユダの支派から出でたもうたが、これはメシヤとして、王としてであった。ここに言っているのはこれとは別のことで、磐として、牧者として出るというのである。ユダヤ人のみに関することでなく異邦人の全世界に関係し、キリスト教会すなわち贖われたる羊の群のためである。磐は首石おやいしとして置かれたる教会の基礎、牧者は贖われたる信者の監督である。この預言によって、ヨセフが十二始祖の中に含まれずして全異邦人の教会のかしらとしてキリストの全き型であることが見られる次第である。
 二、ヨセフの将来の生涯
 これからヤコブはヨセフの将来について預言を呼び下すのである。
 (1) 『上なる天の福』。これは言うまでもなく霊的の祝福である。雨のごとく降り、露のごとく静かに置く聖霊による祝福である。
 (2) 『下によこたはるわだの福』。これは物質的の祝福である。神は常に霊の祝福に物質のそれを付け加えたもう。神は天の父として我等の肉体の必要物をも豊かに供えたもうのである。
 (3) 『乳哺ちゝの福、はらの福』。これは蕃殖の祝福である。『汝らは朽つる種に由らで、朽つることなき種、すなはち神の活ける限りなく保つ言に由りて新に生れたればなり』(ペテロ前書一章二十三節)。これすなわち胎の福である。『いま生れし嬰児みどりごのごとく霊の真の乳を慕へ』(同二章二節)とあるは乳哺の福である。神の言によって生まれ、神の言によって養われることは真の祝福である。我々はまた霊の子供を産み、霊の子供を養い育てる胎の福、乳哺の福を与えられるのである。
 (4) 『わが父祖ちゝの祝したる所にまさり恒久とこしなへの山の限極かぎりにまでおよばん』。これは無制限の福である。アブラハム、イサクの祝福したるはユダヤ人ばかりに限られていたが、ヤコブのヨセフに対する祝福は限られておらぬ。世界の限りまで、すなわち永遠の山の限りにまで及ぶ。彼を通して全世界の人が祝福せられるのである。
 これらの預言に最後の言葉が付け加えられている。これらの祝福はヨセフの首に帰し、その兄弟等と別になりたる者の頭頂いたゞきに帰すべしと。

七 ベニヤミンに関する預言

 最後に最も愛せられるベニヤミンについて預言するが、もし人情によって預言し或いは祝福したならば、必ずその最も愛する子のために、最も親しい愛情のこもった言葉を残したに相違ないけれども、彼は忠実に神の御声に従い霊感によって預言したのであるから、人情に捕らわれず忠実に御命令のまま神の御言のみを述べた。すなわちベニヤミンにかかる預言は、将来ベニヤミンの支派に現れる軍人的性質を示したもので、『物を噛む狼』と言ったがこの預言の通りとなった。ベニヤミンは最も小さい支派であったが、最も軍人気質をもっていた。この支派から多くの人物が出ている。第二の士師となったエホデ、第一の王サウル、王后エステルとモルデカイもベニヤミン人であり、福音の大戦士パウロもまたこの支派から出た。
 さてこれらの預言は既にその後の歴史にその幾分を成就したが、なお後の日に一層完全に成就されるに相違ない。けれどもこの十二始祖の預言にはこれらの始祖等の個人的性格が表れているゆえに、我等自身にとって最も利益ある教訓を得ることができる。されば結論としてこれを約術すれば
 一、ルベンは品性不堅実の詛い
 二、シメオンとレビは不信と暴虐の恥辱
 三、ユダは王的勢力の幸福
 四、ゼブルンは機会を用いることの責任
 五、イッサカルは成功ある奉仕の秘訣
 六、ダンは詛われる者にも及ぶ祝福
 七、ガドは堅忍不屈の報賞
 八、アセルは果を結ぶところの幸福
 九、ナフタリは自由の幸福
 十、ヨセフは忠実なる生涯の栄光
 十一、ベニヤミンは将軍的精神の勢力
 我等はこれら十二の始祖等の成功により、また失敗によって、深く教えられまた警戒せられるならば、現今においても数千年の後においても聖霊によって恵まれることができる。



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