第二十九回 ヤコブの新生



第 二 十 八 章


 この第二十八章はヤコブの真の悔改と更生の章である。今までヤコブには真の霊的経験がなかった。すなわち未だ救われておらなかったということは、前章にある悲惨なる話についての唯一の申し訳である。彼は未だこの世の人で、更生していなかった、未だ真の救いの経験を有たない者であったが、この章で初めて新生するのである。今この救いについて七つの注意すべきことがある。

一 彼の救いの場合 (一〜九節)

 既に学んだごとく、ヤコブが父の家を出てハランに行くのは、妻を娶るためとは表面のことで、実はエサウを避けて遁れたのである。これから彼は孤独の生涯に入るのである。しかしこれまで彼は父母より神について教えられていたけれども、直接に神の顕現に接したことはなかったが、その寄る辺なき孤独を感ずるとともに神を求める心が起こったのである。ちょうど信者の子供等がこの世に出て初めて救いの必要を感ずることと同じことである。これは彼が救いを受けた場合である。
 ここに今一つの味わうべきことがある。一〜五節を見れば、ヤコブは神に導かれ、父母に祝せられ、親族のうちより妻を娶らんとて遠国に出て行くのであるが、六〜八節にはエサウがこれを見て、これに真似て同じく親族のうちから更に妻を娶ることが書いてある。同じく親族から妻を娶るのであるけれども、彼とこれとは動機が同じでない。一人は神の御旨によりて、一人は他に真似て歩む。或る人は信者に真似て行いをなすけれども、それは真の救いに関係がないのである。

二 ヤコブの状態 (十、十一節)

 ベエルシバから出で立ってハランに向かうヤコブを見れば、ちょうど救われるべき罪人の状態の写真である。(一)彼は罪人であった。(二)彼は棄てられた者であった。(三)彼は無宿の者であった。(四)彼は枕して休む所もない者であった。(五)彼は友もなき孤独の淋しき者であった。(六)彼は恐怖に充たされ、生命を助けんために急ぎつつあった。(七)神なき者であった。或る有名な人が『罪は我等に救い主を紹介する』と言っているが、真にその通りである。ヤコブは今しみじみ自己の罪の恐ろしさを感じ、神の救いを切に求めたのである。途に迷った羊はただ帰る途を知らないばかりでなく、実は帰りたくないのである。しかるにどうして檻に帰りたい心が起こるかと言えば、或いは飢え、或いは渇き、或いは痛みを、覚え寒さを感じ、淋しさに堪えずなるからである。同じように罪人が神に立ち帰りたい願いを起すのは、ちょうどヤコブのような状態においてである。これらは誠に救いを求める動機である。罪と悲と苦と失望は神の手にある牧羊者の杖であって、失われたる羊を檻に立ち帰らせる器となるのである。

三 ヤコブの夢 (十二節)

 『時に彼ゆめみはしだての地にたちゐて其いたゞきの天にいたれるを見、又神の使者つかひの其にのぼりくだりするを見たり』。ヨハネ一章四十七〜五十一節を見よ。主はナタナエルを指して『真にイスラエル人』であると仰せられた。昔の嘘偽り多きヤコブと違って真のイスラエル、衷に嘘偽りなき者であるとの意味であった。しかしてまた汝は我を神の子、イスラエルの王として見るばかりでなく、人の子として見るであろうと仰せられたのである。ヤコブが夢に見た、地より天に届く梯子、すなわち人が天に至るみちは、人の子たるイエス・キリストである。しかして神の使者はヘブル一章十四節にあるごとく、救いを嗣がんとする者に事える者である。すなわち聖霊が我等の霊を守りたもうと共に、神の使者等は我等の身体を護るのである。それゆえに『道』なる人の子の上に昇り降りして人に事えるのである。『其巓の天に達れるを見』、人間の如何なる手段も天に達するものはないが、人の子たる主イエスのみ天に達したもうのである。しかして人の子とは真の人という意味である。

四 神の顕現 (十三〜十五節)

 ヤコブはただ梯子を見たばかりでなく、神御自身を見奉った。ここに七つのことがある。すなわち
 (一)神の顕現『ヱホバ其上にたちて』(十三節)
 (二)神の宣告『……いひたまはく』(十三節)
 (三)神の賜与『汝が偃臥ふすところの地は我之を……与へん』(十三節)
 (四)神の臨在『我汝とともにあり』(十五節)
 (五)神の保護『汝をまもり』(十五節)
 (六)神の嚮導『此地にひき返るべし』(十五節)
 (七)神の約束『我はわが汝にかたりし事を行ふまで汝をなはれざるなり』(十五節)
 神の真の救いには必ずこの七つのことがある。これはヤコブには初めての霊的経験であった。これまでも父母より神について教えられていたが、今初めて現実にこの経験に達したのである。今日でも真に救われたる人には必ずこの経験があるべきである。

五 ヤコブの信仰 (十六、十七節)

 ヤコブは目を覚ましてこれが夢であることを悟ったけれども、彼は信仰によってこれを捉えて信じたのである。列王紀上三章五〜十五節を見よ。ソロモンは夢に、その求めるところをもはや与えられたと見た(十二節)。しかしこれは夢であったから、これは夢のみだと思ってしまえばそれだけなれども、彼はこれを神の示しであると信じ受けた。本章の場合においてもその通りである。ヨブ記三十三章十四〜十八節を見よ。『神は……夢あるひは夜の間の異象まぼろしの中にてかれ人の耳をひらきその教ふるところを印して堅うし……たまふ』のである。しかして十四節には『一度ひとたび二度ふたゝび』とあり、二十九節には『二度三度』(英改正訳参照)とある。神はかく懇ろに警戒しまた教えたもうけれども、信仰をもってこれを捉えて実覚せぬ者には益とならぬのである。リーダー・ハリス氏は神は少なくとも三度彼に罪を示したもうたと言っている。すなわち十四歳の時に自分を罪人として救い主を示され、二十一歳の時に聖霊によって再び示されたが、拒んだ。三度目に三十歳の時に示された時についに服従したと言っている。もし彼がこの三度目に従わなかったならば、もはや救われなかったかも知れぬ。厳かなる警戒である。このヨブ記三十三章に神の三種の示し方が録されている。第一は十四節にあるごとく、夢や異象のうちに示したもう。夢に見るうちは現実であるが、信仰をもってこれを捉える時のほか、目覚めると共に失われる。第二は十九節にあるごとく苦痛をもって教えたもう。第三は二十三節にある仲保者で、すなわちキリストによって示したもうのである。第一の示しに悟らざれば第二の苦痛によって教えたまわねばならぬが、ヤコブは幸いにして夢による示現をば神の声なりと確信して受け入れ、これによって恵まれたのである。

六 救の記念物 (十八、十九節)

 ヤコブは朝起きて、夢に見た梯子は天の門であり(十七節)、この地はこれ神の殿いへであり(十七節)、顕れたもうた神はヱホバである(二十一節)と悟った。彼はその夜、枕すべきものがなかったので堅い石を枕として眠って、その堅い石の上でキリストを見たのであるから、その救いの記念としてこの堅い石をば建てたのである。彼は後日に至り、ここに来りこの石の下に頭を下げて神を礼拝した。この石はすなわち彼にとって天の門であり、神の殿であった。聖書を見れば多くの記念物がある。ヨシュアはヨルダン川の川底から石をとって記念の碑を建てた。税吏マタイは救われた喜びを記念するために多くの人を招いて饗筵を設けた。我等も救を蒙りしその恵みを忘れざるよう記念すべきである。

七 ヤコブの誓い (二十〜二十三節)

 およそ信仰のあるところに真の決心が起こる。ヤコブも今は信ずることができたから、真の決心をもって三箇条の誓いをたてた。
 一、『ヱホバをわが神となさん』。神はわが神であるから神に服従すると言うのである。もはや救われたから従うことができる。マルコ十章四十六〜五十二節にある救われた盲人を見よ。その当時キリストに従う者は迫害を受けたが、彼は如何にして従うことができたかと言うに、見ることを得たからである。ヤコブもその通り、今は和らぎを得、安きを得、安息を得たから、神に従い奉ることができたのである。
 二、『此石を神の家となさん』。枕としたこの石はただ自分の記念物であるばかりでなく神の殿とすると言うのである(コリント前書六章十九、二十節)。
 ヨハネ一章四十九〜五十一節を見よ。そこにイエスは『神の子』『イスラエルの王』『人の子』と称えられている。されば彼は神の子として神殿を要し、イスラエルの王として王位を要し、人の子としてはホームを要したもうはずである。すなわち礼拝し奉るべき神殿、統治したもうべき王位、親しく交わりたもうべきホームを要したもう。しかして我等の心がかかるものであることができるとは実に幸いである。キリストがわが心にて拝せられ、わが心に坐して治め、わが心の衷に住み、親しく交わらせたもうとは!
 三、『汝がわれにたまふ者は皆必ず其十分の一を汝にさゝげん』。神はわが神となりたまい、わが身は神の殿となれば、わが所有をも聖別してその十分の一を献げるのである。ユダヤ人は十分の一を献げたるほかに随意の献げ物をした。彼らにとりて十分の一は律法の命ずるところであるから、別に心よりの献げ物をすることによって神を悦ばせたいと思ったのである。我らも大いに励まされねばならぬ。ピアソン博士は、はじめに十分の一を献げて十分の九をもって生計を立てたが、後には十分の一をもって生計を立て十分の九を献げるようになったと言っている。ジョン・ウェスレーは一年三十ポンドの収入の時二十八ポンドで生計を立てたが、後に七十ポンドになってもやはり二十八ポンドを生計費として、その他はみな献げ、次第に収入が増加して千ポンドになったけれども、やはり二十八ポンドで生計を立てていたということである。
 かくヱホバをわが神とし、その身を神の殿とし、十分の一を献げるに至るは完全な救い、模範的な救いである。
 さて私はここに献金のことにつけるウェスレー氏の説を附記したいと思う。それは以下のごとくである。
 『ごく少数の人を除いては、富の増し加わるに従って宗教の心髄たる「キリストにある心」がだんだんと衰えていくことを私は恐れる。考えてみると、真の宗教のリバイバルを如何にして続けていくことができるかは、そのことの性質上困難なる問題である。何故なれば、真の宗教は必ず人々をして勤勉ならしめ質素ならしめる。人が勤勉質素ならば必ず富む。富が増し加わると必ず傲慢や怒りやこの世を愛する心が様々の方面に現れてくる。されば、心の宗教がいま緑の木のように栄えていても、この有様をいつまでも続けていくことができようか。
 メソジストの徒は何処でも勤勉となり質素となっている。その結果として彼らの富も増し加わってくる。従って彼らのたかぶりと怒りと肉体の慾、眼目の慾、所有の誇りなども増し加わってくることを恐れる。かくして宗教の形だけは残っても、その精神は直ちに消え失せてしまうのである。きよい宗教に伴う悪の道を防ぐ道はないであろうか。
 我等は、人々が勤勉に働き節約することを禁ずるわけには行かぬ。否、出来得るだけ儲け、出来得るだけ貯えることを勧めねばならぬ。さすれば事実富の増し加わるは当然である。さらば重ねて問う、如何にして我らの金が我等を地獄の底に沈めないようにしつつ金を儲けることが出来ようか。そこに唯一の道がある。このほかには天下に道がない。すなわち出来得るだけ多く儲け、出来得るだけ多く貯えると共に、出来得るだけ多く与えることである。かくすれば彼らは儲ければ儲けるほど恵みに進み、しかしていよいよ多くの財を天に積むことが出来るであろう』と。

×  ×  ×  ×  ×  ×

 さてこの第二十八章のヤコブの救いの話において、はなはだ大切な、はなはだ徹底した、ほとんど模範的な救いの本質が含まれている。すなわち十六、十七節にヤコブが目覚めて三つの特別なることを悟った。すなわち第一、梯子は天の門に至るためであったということ、第二、この場所はすなわち神の家であるということ、第三に、神御自身が顕れたもうたということである。この三つのことは救いの本質である。ただその場所が神の家であることを悟り、天の門に至る梯子を見るばかりでなく、その上に神御自身の聖臨在を覚えるのは真の救いである。さてこの黙示を、キリストがナタナエルに授けんと仰せられた黙示に比べてみれば、非常な相違がある。ヤコブはまだ詐りから潔められておらなかったから、微かな譬えのような救いの管を見たのであるが、ナタナエルはその心に偽りなき者、心の清き者であったから、主イエス御自身を見奉ることができた。ただ神の子なるキリスト、イスラエルの王なるキリストのみならず、人の子たるキリスト、すなわち温かい愛と同情をもって人として我等に近づき、我等の友となってくださるキリストを見奉ることができた。これは実に幸いである。我等はもはやナタナエルであろうか。その心に偽りなき真のイスラエル人であろうか。



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