第十五回 アブラムの性質の試み



第 十 四 章


歴史的研究

 余はこの章の霊的研究に入る前にまず本章記事の歴史的証明につきて少しく述べねばならぬ。何故なれば本章の記事が歴史的事実であるかにつき高等批評論者の間に久しく論議せられたからである。1869年に当時最大のセム族研究者であったノルデック教授は、この第十四章が歴史的のものでないということにつき論文を公にした。しかして彼は高等批評家はこの十四章が歴史的事実でないことを永久に証明し終わったと断言し、この記事によって仮定される諸国の政治上の状態は信ずることができぬ、全体の話は遠き後代のアッシリアのパレスチナ征服に基づくものであると言っている。しかしながらノルデック教授に従ってこの議論を主張した人々も、今日は彼がかく大確信をもって宣言したこの結論につき慎んで沈黙を守っていることはここに言を要せぬことである。本章の時代におけるバビロンの記念碑は、エラムがバビロンを征服し、バビロン諸王は皆エラムに臣属していたということを我らに語っている。当時のバビロンは南北に分かれており、ハムラビ(この十四章にアムラペルと録されている人)はバビロン(すなわち北シナル)の王であり、エリアクは南方のラルサ(この十四章にエラサルと記されたる地)にて支配していたのである。これを見れば本章の初めに『シナルの王アムラペルの時』(英訳参照)とありながらエラムの王ゲダラオメルが主導者の地位にあるように記されている記事の事実に合うことが分かる。
 セイス教授はその著『高等批評と記念碑の証拠』のうちに全体の話を述べ、この第十四章の記事が最も細かい部分まで正確で、しかもこれが既に書き記されたバビロンの記録から写したものでなければならぬ、すなわちヘブルの記者はその前にバビロンの記録を持っていて、必要な点はそれから抜粋することを得たのでなければならぬということを示している。しかしてこの記事はまた他の非常に興味ある碑文によって確かめられたということの次第はこうである。エズラ書第四章九節十節にはアスルバニパル(聖書にはオスナパルとある。しかして旧約聖書中、この一ヶ所のほかに記していない)(邦語訳には『大臣オスナパル』とあれど英訳には『大いなる貴きオスナパル』とあり)のことに言及し、彼がバビロン、スサ、エラムなどに対してなした三度の遠征について語っているが、いま英国博物館のニネベ陳列場には1847年にヘンリー・レイヤード卿の発掘にかかる、アスルバニパルの図書館の中より見出されたる三つの書板があって、この三つの遠征のことを我等に物語っている。第二のスサ遠征の記事に、彼はスサを占領した時にナナの女神の像を回復したと言い、またこの像は彼の時代より1635年前に略奪されエラムに持ち行かれたものであると言っている。これによって我等は偶然にもエラム人のバビロン征服はおよそ紀元前2300年頃のことで、ほぼ第十四章の出来事のありしころに当たることが知られるわけである。
 こういう風に聖書の記事は考古学の研究によって証明され確認されるのである。今は進んで心霊的研究に移らん。

心霊的研究

 アブラムがその父の家と別れるという問題、すなわちその境遇に関する試みについては十二章においてその勝利を見、物質的財貨の問題についての試みに勝利を得たことは十三章に現れているが、今この十四章には彼の性質の試みられることが録されている。この第十四章からこの点につき七つの点を挙げて学ぼう。

一 彼がロトの忘恩的待遇を忘れること (一〜十二節)

 元来ロトはアブラムの甥であり、アブラムに従って故郷を出で、彼に従って神の祝福を受けて今に至ったのである。しかるに傲慢にも自ら豊饒の地を撰んで叔父と別れて東の地に移った。けれどもアブラムはかかる忘恩的処置をも咎めることをせずして、寛容と友情をもってこれを遇したのである。

二 生命を賭してロトを助けること (十三〜十六節)

 アブラムは常にロトの忘恩と傲慢なる処置をゆるしたばかりでなく、積極的に愛の実を現した。すなわちロトが住める邑ソドムの掠奪に遭遇して敵の手に虜にせられたことを聞くや、その家臣等を率いて救援に赴いた。当時向かうところ敵なき優勢の、しかも勝ち誇っているエラム、シナルの王等の軍勢を僅かの手勢をもって追い行くは実に危険極まることであったが、ここにその兄弟を愛するためにその生命をも惜しまざるアブラムの精神が現れている。これは実にヘブル六章十節に録されある愛の労である。元来ヘブル書の五章六章はアブラムとメルキゼデクに関する話であるから、ヘブル六章十節はアブラムがロトの生命を助けた愛の労のことにかかっていると思う。

三 メルキゼデクを歓迎すること (十七〜十八節)

 この第十四章と次の第十五章には深い関係がある。すなわち第十五章の一節に『是等の事の後』、異象まぼろしの中に神は一層明らかなる約束を与えてアブラムに子孫を与えることを示したもうたと録してある。すなわち彼が子孫を与えられる約束を受けたことは、メルキゼデクを受け入れたことに関している。もし彼が十四章においてこの点に失敗したならば、十五章の約束は与えられなかったであろう。
 メルキゼデクのことはこの時から千年ののち詩篇に録され(百十篇四節)、また二千年ののちパウロによってヘブル書に録されている。全体、ヘブル書の眼目はメルキゼデクである。もしヘブル書にこのことが出なかったならば、創世記第十四章の大切なることも明らかにならなかったであろう。さてアブラムはロトを助けたためにメルキゼデクに迎えられ、メルキゼデクを受け入れたためにイサクを産むことの約束を与えられたこの三つのことは互いに関係がある。ヘブル六章二節に『完全まったきに進むべし』とあるが、この『完全』は『実を結ぶ』ということである。ヘブル六章七節を見よ。地がその産を生ずることは『完全』の適例とせられている。また十三、十四節を見れば、これもアブラムに対する子孫を大いに殖やすとの約束である。ヘブル六章十、十一節の愛の労はアブラムのロトに対する態度である。しかして神はこれに報いてメルキゼデクを示したもうた。すなわち主イエスの型であるメルキゼデクを示され、これを受け納れることによって、子を産むことの約束を与えられたのである。果を結ぶことは大祭司に対する態度に関係あることを注意せねばならぬ。

四 メルキゼデクの言葉を受け納れ、十分の一を献げたること (十九〜二十節)

 前に言ったごとくメルキゼデクはキリストの型である。アブラムが勝利を得たる後、まずメルキゼデクに迎えられたように、我等の生涯においても戦いの後にまず迎えたもうはキリストである。
 一、アブラムが非常に疲れていた時、メルキゼデクはパンと葡萄酒を携出して彼を慰め、また祝福した。これはちょうどヨハネ伝二十章で主が弟子等に現れて、その手と脇とを示してこれを慰め、更に聖霊の約束を与えたもうたと同じである。その時主は息を吹きて『聖霊をうけよ。汝ら誰の罪を赦すとも其の罪ゆるされ云々』と仰せられたが、これは霊的の子を産むことを意味している。アブラムもここでパンと葡萄酒をもって慰められ、言葉をもって祝福せられ、十五章において子を産む力を受けたのである。
 二、メルキゼデクは『願くは天地のぬしなる至高神いとたかきかみアブラムを祝福めぐみたまへ、願はくは汝の敵を汝の手にわたしたまひし至高神に称誉ほまれあれ』と言った。この言葉を十五章の一節に比して考えてみれば、第一に『天地の主なる神』とはアブラムが願うところよりも思うところよりも以上のものを与えることのできる神が彼の報賞であることを示し、次に『汝の敵を汝の手に付したまひし神』とはすなわち神が彼を守る干櫓たてであることを示し、かくて神はアブラムに一切を献げるように要求したもう神にて在すということを意味している。この言葉はアブラムの心に徹底した。彼を祝したもう神は天地の主であるから一切の必要を満たしたもうことを信じ、彼をして敵に勝たしめるものもまたこの神にて在すことを信じて、栄えを神に帰したのである。
 三、かくて彼はメルキゼデクにそのすべての物の十分の一を贈った。これは彼がメルキゼデクの言葉を受け入れた第一の結果であった。我等も主イエスの祝福と讃美の御言を受け入れる時に十分の一を献げることができる。

五 ソドムの王の提供を拒絶すること (二十一〜二十三節)

 次に彼を迎えんと出で来れるはソドム王であった。ソドムの王は悪魔の型である。『人を我に与え、物を汝に取れ』とは悪魔の言葉である。幸いにもアブラムは第一にメルキゼデクに迎えられ、前に言ったように既に彼の言葉を受け納れたから、その言葉をもってソドム王を斥けた。『我天地のぬしなる至高いとたかき神ヱホバを指て言ふ云々』。これはアブラムが誘惑に勝った秘訣で、しかもこれを言い得たのはメルキゼデクの言葉が彼に徹底していたからである。
 このことにつきてヨハネ伝十二章を見よ。その四十四〜五十節は不信者に対する主イエスの最後の厳かなる御勧告である。『我を棄て(我を押し返して)、我が言を受けぬ者』(四十八節)、これはユダヤ人の最後の運命を決する極めて大切なることであった。しかしここではアブラムはメルキゼデクの言葉を受け納れたために誘惑に勝ち、一層祝福されたのである。戦の後、サタンに出会わざる前に、まず主イエスに迎えられ、その御言を受け入れることは、誘惑に勝つ秘訣である。

六 天地の主たる神を信ずる信仰を発表すること (二十二節)

 アブラムはソドムの王に向かって大胆にその信ずる天地の主たる神を発表し、これを指して断乎と彼の提供を斥けた。これもまた我々の大いに学ぶべきところである。ヘブル書十三章六節、またルカ十二章六〜九節を見よ。我等もまた主イエスの御言を受け入れて、如何なる場合にもこの神を信ずる信仰を発表すべきである。

アネル、エシコル、マムレにはその分捕り物を取らしめたること (二十四節)

 ここに今一つアブラムの性質の美わしい点が見える。彼は神を信じ、断然と分捕り物を取ることを拒んだのであるが、自ら判断すべき標準をもって他人を裁判することを避けて、彼らにはその取らんとするものを取るに任せた。彼はこの点においてもまた我等の手本である。我等も不信者は我等とその標準を異にすることを覚え、彼らに寛大であるべきである。



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