第四十二回 ヨセフの夢の成就せられること



第 四 十 二 章


 既に説明したごとく、ヨセフがエジプトの総理大臣となることはキリストがこの世を統治したもうことの予表である。すなわち御再臨の時にこの世は全くキリストの御支配を受けるのであるが、これとともに今一つ驚くべきことが起こる。すなわちキリストの兄弟たるユダヤ人が国民として今一度立ち帰り救われることである。このことは旧約の預言の書に明らかに預言され、新約のロマ書九章から十一章までにも明らかに預言され証明されている。ユダヤ人はほとんど二千年の間、詛われ苦しめられ迫害され、この世に晒し者となっているが、キリストの御再臨の時に悔い改めて主イエスを信じ、自分の国に立ち帰って大いなる国民となるのである。このことが創世記四十二章から四十五章までにはなはだ美しい絵のごとき型をもって詳らかに示されている。この話は聖書においても最も美わしい、しかも極めて感動すべき物語である。

一 ヤコブの災難 (一、二節)

 さてこの飢饉はカナンの国まで及んだので、ヤコブとその子等も困難を感ずるに至った。これがために彼らは今暫く苦しまねばならなかったが、ついにはなはだ大いなる幸福を受ける因となった。さて困難がはなはだしく切迫するに及んで、ヤコブは穀物を買いにエジプトに行くべきことをその子等に言い出した。彼らは互いに顔を見合わせた(一節)。必ずこの時彼らの良心が鋭く働き出したであろう。彼らはさきにヨセフを売ってそこに送ったのであるから、必ず行きたくないと思ったであろう。しかし既に必要が切迫しているから、止むを得ず父の申し出を承知してエジプトへ下った。真の悔改に導く第一階はいつでも災難である。四十二章は真の悔改の由来である。

二 ヨセフの夢の成就すること (三〜六節)

 十人の兄弟等はエジプトに着くや否や直ちにその国の総理大臣に紹介された。すなわちヨセフの前に出た。しかし彼らはこれが弟であるとは知らず、十人みな等しく至極謙遜にヨセフの前に身をかがめて拝した。かくヨセフの夢は文字通りに成就した。その夢は、兄弟等の禾束たばがヨセフの禾束を拝するということであった。ただヨセフの前でなく、彼の麦の禾束を拝したというこの点もまた不思議に成就せられた。麦すなわち生命を養う食物を買うために彼らはヨセフの前に身をかがめた。これはまた主イエスのはなはだ明らかな型である。生命のパンにて在す主イエスの前にユダヤ人全体が平伏し拝する日が遠からずして来るに相違ない。

三 ヨセフの愛 (七〜二十節)

 ヨセフは兄弟たちを見るや、直ちにこれは兄弟であると覚ったけれども、兄弟たちはこれがヨセフであるとは少しも覚らなかった。ヨセフも年長けており、かつ服装などすべてエジプトの風俗にしたがって装い、言語もエジプト語を用い、彼らとは通弁によって語り合ったから、兄弟たちはこれを知る由もなかった。ヨセフは兄弟たちを思い出したばかりでなく、さきに見た夢を明らかに思い出したから、漸く復讐の機会が来たということを知った。但しこれは愛の復讐で、彼らをして真に罪を自覚せしめ、悔い改めしめ、自分の心に結びつけようとする驚くべき深い考えであった。ここは聖書中のはなはだ貴い美しい部分で、これによって主イエスが我らの霊魂を取り扱い、罪を自覚せしめ、悔い改めしめ、愛をもって心を砕き熔かし、永久の平和を作りたもう方法を見ることができる。されば少しく詳細にわたってこれを研究しよう。
 一、ヨセフはその兄弟たちを憶え、またその昔の罪をも明らかに憶えた。二度ヨセフは彼らを知れりと録されている(七、八節)。これは第一段である。詩篇百三十九篇十六節にある通り、主は我等のすべてを悉く探り知りたもう。主がサマリヤの女に会いたもうた時にも彼女を詳しく知りたもうことが顕された。
 二、ヨセフは荒々しく語り、難しい顔をして、不親切な風に彼等を取り扱った。けれどもその外部の不親切の裏には驚くべき内部の憐憫と慈悲とが隠されている。我らも初めに良心の呵責を受け、罪を自覚するに当たっては、神の怒りを覚え、神の我らを離れいたもうことを感じ、その愛と憐憫とは我等の目にいよいよ隠されてしまう。これは罪を自覚する第二の階段である(七節)。
 三、ヨセフは自らヨセフであることを全く隠した。その通りにしばしば主イエスも御自身を隠して人々に接したもう。主がサマリヤの女を取り扱いたもうた時にも、まずその救い主なることを隠して普通の旅人のごとくして語り出し、エマオの途で出会いたもうた二人の弟子にも御自身の主にて在すことを隠したもうた。このように今でも我等にごく近くいて懇ろに語りたもうけれども、我等にはこれが主イエスの御声であると悟られぬ次第である(七、八節)。
 四、ヨセフは綿密に彼らを取り調べた。その来歴、その名前、その国、またその親たちのことなどをよく取り調べた。もちろん彼はその父のことを非常に聞きたく、またベニヤミンのことを聞かずしてはおられなかったに違いないが、これとともに、兄弟たちが自分をエジプトに売ったことについて何と言うかを聞きたく思ったのである。彼らが幾分その罪を懺悔するかどうかと調べた。しかして懺悔する機会を作ったのである。主イエスもその通り、我等の良心を通して綿密に我等を探りたもう。直接に我らの罪を暴き、曝しもののように公然に引き出して人々の前に辱めることをせず、ただ罪を懺悔する機会をよき程にして作り与えたもうのである。例えばサマリヤの女の罪を知りながら直接にその罪を暴かず、彼女が自ら進んでその罪を言い顕すように機会を与えたもうた。ああ、何たる恩寵、何たる懇切なる取り扱いぞ(九節)。
 五、ヨセフは彼らの心の底まで探り、深く刳るために、実際彼らの犯しておらぬことを訴えて彼らは間者であると言った。その目的の一つは、愛する弟ベニヤミンをカナンより呼び下し、自分の所へ呼び寄せる理由を作るためであった。これによって実に鋭く以前の罪を思い出さしめたに相違ない。前に残酷な風にしてヨセフをエジプトの国に奴隷として送ったごとく、もう一度一番若い兄弟をエジプトの方へ無理に引き下すように命令されたのである。これによって必ず非常な罪の自覚が起こったに相違ない。主イエスも我等の覚罪を起すために同じように取り扱いたもうことである。ヨセフの目的は無論兄弟たちに復讐する考えではなかった。彼らをして罪を自覚せしめ悔い改めしめるためであった。そうでなければ、浅薄な和らぎはできてもそれは一時的であるから、彼らを深く探らんためにかくなしたのである(十四節)。
 六、ヨセフは三日間その兄弟たちを監獄の中に入れた。この三日間に兄弟たちはみな良心によって苦しめられ、互いに語り合い前の罪を思い廻らし、今の難儀は昔の罪の結果であると覚えたに相違ない。この手荒い取り扱いの目的は愛である。彼が兄弟たちに穴に入れられた経験とはよほど違う。兄弟たちが彼を穴に入れたのは苦しめるため、殺すため、亡ぼすためであったが、彼が兄弟たちを監獄に入れたのは、少時苦を受けさせて最後に驚くべき愛と救いに導くためであった(十七節)。
 七、終わりにベニヤミンすなわち最も若い弟をエジプトに連れ来ることを断然と要求した。これは彼らにとって実に試みであった。これは最も困難なことであったに相違ない。しかし今一度愛する父に会い、また家族全体を一つとならしめるため初めから彼らの罪に与らなかった愛する弟(ヨセフが売られた時にベニヤミンは未だ幼くしてその悪事に与らなかった)に逢うためであったのである。
 我等はこの模型的教訓によって、主イエスの人の霊魂を取り扱いたもう仕方をよく暁ることができる。その仕方は、はなはだ智慧のあるまた恵み深い仕方である。ヨセフの試みは苦しいことであったけれども、決して復讐のためでなく、ただ真の悔改という基礎の上に真の永久的の救いを立てる目的であった。しかして彼らが悔い改むべき罪というはただ一つ、すなわちヨセフを取り扱った罪である。同じようにペテロがペンテコステの日に三千人を悔い改めしめた説教の要点は、他のことでなくただ彼らが主イエスを十字架につけたその罪を自覚せしめることであった。

四 罪の自覚 (二十一〜二十三節)

 この驚くべき取り扱いによって兄弟等のうちに深い覚罪が起こってきた。すなわち他のことでなく唯一の罪、すなわちヨセフに対する遙か以前の残酷な仕方についての覚罪であった。すなわちヨセフに対する態度がこの上もない大問題であった。彼らは互いにヘブル語で話し合い、互いに罪を認めて、今の難儀はあの時の罪の結果であると明らかに言った。その目つきにおいても顔つきにおいても挙動においてもそのことが明らかに見えた。ヨセフは直接には少しもその罪を言わなかったが、彼らの良心を働かせ、極力彼らの心を攪き動かした。この覚罪は無論まだ完全でない。何故ならばこの人はヨセフであるということを知らなかったから、後からそれがヨセフであると判って直接に懺悔したけれども、今はただ互いに罪を認め、今の難儀は昔の罪の結果だと互いに悲しみながら承知したのである。これは、遠からずしてユダヤ人がその国民の詛われた所以を憶え、二千年間の艱難苦悶は主イエスに対して犯した罪の結果であると認めるに至ることの、絵のような模型である。我々にとりても真の覚罪は、ただ様々な不品行を悲しむばかりでなく、主イエスに対する自己の態度、すなわち自分の罪によって主を十字架にけたこと、また主イエスが御自身を十字架に釘けた罪の赦しをさえ差し出して、御自身を信ずるように長い間勧めたもうのに、これをも退けたということを罪深しと覚えて悲しむことである。

五 ヨセフの憐憫 (二十四節)

 ヨセフは兄弟たちの良心の苦痛とその悲しみを見ながら今まで知らぬ者のごとくに装い、通弁を通して話していたけれども、その心は非常に動かされてその場におるに堪えずなり、立って密室に入り涙を流して哭いた。ちょうどその通り、主イエスもエルサレムを眺めて『あゝエルサレム、エルサレム、……牝鶏の己が雛を翼のうちに集むるごとく、我なんぢの子どもを集めんとせしこと幾たびぞや』(ルカ十三章三十四節、十九章四十一節、エレミヤ三十一章二十一節)と哭きたもうた。これは主イエスの御心である。外部から見れば荒い取り扱いであろう。知らぬごとく装いたもうこともあろう。けれども主イエスのご心中には罪人たる我等に対して何たる驚くべき愛と悲しみのあることぞ!

六 ヨセフの仁慈 (二十五〜二十八節)

 ヨセフはシメオンを取って、綱をもって兄弟等の前に縛った。彼はこれによって自分のむかし繋がれたことを思い出させようとしたに相違ない。そして残りの九人をすぐに国に帰らせた。その時に彼はその心の憐憫に実際的親切を加えて、麦を与えまた途中の食物を備え、またその麦の代金をば密かに麦の袋の中に入れておいたのである。その代金を返した目的は、たぶん自分が銀二十枚で売られたことを思い出させるためであったろう。彼のなしたこと一つ一つは驚くべき風にして兄弟等を覚罪せしめたであろう。さて兄弟等九人は麦を驢馬に積んで帰る途中、旅邸に着いて袋を開けて金を見つけ、非常に懼れたのである。良心というものは不思議なもので、何でもみな呵責のために用いる。ヨセフの荒い取り扱いによって良心の非常な呵責を受けたが、ヨセフの親切によってもまた良心が呵責する。主イエスが我等に罪を自覚せしめたまいつつ御恩寵を加えたもうならば、このご親切もまた我等の心を苦しめるのである。ヨセフが兄弟等に麦を売らずして無代償で与えたように、価なしに生命のパンが与えられる。『噫なんぢら渇ける者ことごとく水にきたれ。金なき者もきたるべし。汝等きたりてかひ求めてくらへ。きたれ、金なく価なくして葡萄酒と乳とをかへ』(イザヤ書五十五章一節)とある通りである。

七 恐怖、悲哀、及び不信仰 (二十九〜三十八節)

 兄弟等は漸くカナンに到着し、自分等の見聞し経験し来ったことをヤコブに語ったが、その時兄弟等の心にも父ヤコブの心にも懼れと悲しみと不信仰が現れて来た。ちょうど同じように、我等が甚だしく罪を自覚する時には、神の恩寵があらわれていてもこれを了解することができないものである。ついに主イエスの恵みと救いが判然とわかるまでは、その心が動揺し、躊躇し、寄る辺なく感じ、恐れ、悲しみ、不信仰に充たされるのが常である。この物語は大昔のことであるけれども、今日もやはり同じことである。現在の人生の経験そのままである。この美しい絵を通して主イエスの我等に対する御取扱が目に見えるように顕されている。それのみならず預言的に見れば、ユダヤ人が回復され、国民全体としてその刺したメシヤを仰ぎ見て、ゼカリヤ書十二章十〜十四節に書いてある通りに哀哭なげく。その日に主イエスが突然とユダヤに現れて真のメシヤとして受け入れられたもうことを予表しているのである。



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