第三回 人類の始め



第 二 章


 既に言えるごとく第二章四節より第四章の二十六節までは『天地の創造つくられたる其由来』(二章四節)であるが、これらの各章の研究は極めて大切である。第二章は創造および人間の完全なる境遇につきて語り、第三章は人間の堕落および罪悪の入り来れることにつきて語り、第四章は人間の救いのことにつき、真の宗教と偽りの宗教の道につきて語っている。
 この章につきて多くの議論があった。高等批評家はこの章においてただ稚拙なる補綴の跡を見る。すなわち彼らは第一章と第二章の内容は相異なれる記者によって書かれたもので、第二章の記事は第一章と矛盾しているという。しかしてその証拠として第一章には神は『エロヒム』の名をもって録され、第二章には『ヱホバ』の名が用いられていることを指摘する。しかしながら事実はこれら二つの章は決して矛盾も衝突もしてはおらぬ。第一章は創造の次第をば一般的に記し、第二章はこれを細説しているのである。ここにヱホバの御名を用いていることは決して第一章と記者を異にする証拠ではなく、却って深い霊的真理を含んでいる。すなわち第二章に神の御名が神(エロヒム)の代わりに『ヱホバ神』となっているのは注意すべきことである。エロヒムは創造の神の名にて格別に力と勢いとを示している。またヱホバ(『有りて在る者』すなわちその有るままにて在す御方との義)は黙示と贖いとの神の名で、特に人生と神の契約の関係を示す御名である。この二つの名を併用することによって創造の神と黙示の神との関係が明らかに現れている。二章四節より四章二十六節までにこの二つの御名の用い方は大いに味わうべきことである。高等批評家がただ別々の記者が記せる証拠と思うその所に、神は深き霊的意味を示し、細かに区別して御言を用いたもうのである。聖書のうちにヱホバの御名に七つの附加したる御名の称えがある。これもまた注意すべきことである。すなわち、
  一、ヱホバヱレ(主備えたもう)創世記二十二章十三〜十四節
  二、ヱホバラファー(主癒したもう)出エジプト記十五章二十五〜二十六節
  三、ヱホバニシ(主はわが旗なり)出エジプト記十七章八〜十五節
  四、ヱホバシャロン(主はわが平和なり)士師記六章二十四節
  五、ヱホバラーア(主はわが牧者なり)詩篇二十三篇一節
  六、エホバチズケヌ(主はわが義なり)エレミヤ二十三章六節
  七、ヱホバシャンマ(主臨在したもう)エゼキエル四十八章三十五節
 このことに関して多くの語るべきことあれど、ここにはこれを省略する。
 さてここにこの第二章をば詳しく説くことはできないけれども、人間の造られた境遇と位置と状態について学ぶべき七つの点を挙げて考えてみたいと思う。
 この研究に当たり殊に記憶すべきことは、サタンが人間の初めに神より与えられた幸福と完全と無罪の状態を奪い去ったにかかわらず、キリストはただその失えるものを回復するにとどまらず、一層広く深く高き有様に至らしめたもうことである。これは何たる幸いぞや。されば恵みに感ずる心をもってこれを学ばしめよ。

一 神は人を造りこれに生命を与えたもうた (二章七節)

 一章二十六、二十七節を見れば『神は人を創造し(create)』『人を造り(make)給ふ』たとあり、このところには『神人を形造り(form)給へり』と録されている。かくこの三つの語は人間の霊的、理性的および物質的なる三重の性質に相応じて用いられているように見える。この七節にも人間の体と霊魂と霊の三つのものが示されている。しかしてそこに『生気いのちのいき嘘入ふきいれたまへり』とある。このいのちなる語は原語では複数である。それから見るとやはり三重の生命が与えられたということを意味しているように思われる。しかしながらこの生命の秘儀はやはり秘儀であって、世界の最も優れたる科学者、哲学者も何の説明もなし得ず、やはり秘儀として残されてあるのみである。されば我らはこの点につきては、神が我ら人間の体と霊魂と霊の生命の本源であり、創造者であるということをば、議論なく承諾するのほかはない。
 かく生命は神の驚くべき賜物である。悪魔はこれに反して死というものを持ち来した。しかるにキリストは啻に生命を回復したもうばかりでなく、さらに豊かなる生命をさえ与えたもう(ヨハネ十章十節)。

二 神は人間にパラダイスを与えたもうた (二章八〜十四節)

 これは完全なる境遇である。すなわち人が正義を行うに易くして不義をなすに適せざる境遇である。この第一のアダムの試みられし時に置かれていた境遇と、第二のアダムなる主イエスの試みられたもうた時の境遇とを比較してみれば、驚くべき相違である。第一のアダムは神のすべての仁慈と愛をもって囲繞されていた。すなわち豊かなる食物として多くの果物が与えられ、見るに美しきすべての植物の茂れる中に、爽快なる泉の湧き流るる辺り、すべての獣は彼に馴れ服しており、彼に合える伴侶なる助け手と偕におったのである。しかるに第二のアダムは恐るべき荒涼たる砂漠の中に饑え渇きつつ、野獣と偕におりたもうたのである。
 神の賜物はパラダイスである。サタンはこれを荒野と変わらしめ、茨とあざみとを生ずるところとならしめた。けれどもキリストはこれを回復して、新天新地に入らしめたもう(ペテロ後書三章十三節)。

三 神は人間に働きを与えたもうた (二章十五節)

 ここには労苦でなく楽しき働きがあった。しかるに悪魔は労苦と困憊する働きをこの世に持ち来した。されどもキリストはこれを回復して幸いなる奉仕をなさしめたもうのである(ロマ書十四章十七、十八節)。先に言えるごとく、キリストが回復したもう時には常に悪魔が取り去りたるところのものより更に勝れたるものを与えたもうことを注意するは、何たる幸福ぞや。

四 神は人間に自由を与えたもうた (二章十六、十七節)

 すなわち神はアダムに意のままに園のすべての樹の果を食らう自由を与えたもうた。彼には自由の意志が与えられたのである。「園の多くの果物は肉体のために善きものであり、かの二つの樹の果は心霊的の用のためであった」とホール監督は言った。彼はまた「ここに神の前に二つの聖奠の生じおるを見ることができる」と言っている。
 意志の自由すなわち選択の自由の存在は必ず禁ぜられたる区域に制限されねばならぬ。しからざれば自己の意志をもって服従を撰ぶという機会もないのである。真の自由というものは意のままに何事でもするという点でなくして、二つのもののうちいずれかを撰ぶことができるという点にある。
 しかし神は恵み深くも、禁ぜられたる区域をばできるだけ小さくなしたもうた。たぶん神は人間をしばらく試みたもうた後に、まず生命の樹、次に善悪を知るの樹の果をも食せしめるお考えであったであろうと思われる。けれども人は神のこの法を破って、試験を経ずしてただちに、生命の樹よりも智慧の樹の果を撰んだ。それ以来今日に至るまでこのことが人間の常習の罪となった。すなわち人はみな生命の樹に来らずして常にまず智慧の実を求めるのである。
 神は人に自由を与えたもうたが、悪魔は人に放縦を与えた。しかしてキリストはこれを回復して真の自由を与えたもうのである(ヨハネ八章三十六節)。

五 神は人に驚くべき直覚力を与えたもうた (二章十九節)

 すなわちアダムがすべての動物を見た時に直ちにその性質を洞察して、一つ一つこれに名を付けることができた。この直覚力は今は人間のほとんど失いおるところである。
 今すべての知識は帰納または演繹の方法によって考え知るのであるが、疑いもなく堕落以前の人間の知識は大部分直覚的であったのである。
 神は人に直覚的知識の力を与えたもうたのに、悪魔はこれを奪うてその代わりに悪の経験的知識を与えた。されどキリストは我等に真の智慧を回復したもうのである(ヤコブ書一章五節、三章十七、十八節)。

六 神は人間に生産力とすべての生物を治める権威とを与えたもうた
(一章二十八節)

 この賜物は先に述べたる自由意志の賜物と共に神の二つの最大なる賜物である。これは神御自身の特性の分与である。ちょうどルカ伝十五章の比喩における父がその子にその業を分け与えたごとくである。しかるにかの放蕩息子がこれを悪用したように、人間もサタンに誘われてこれを悪用するのである。神は生命を生ずる力を与えたもうたのに、悪魔はこの驚くべき力を濫用するように誘い、人を情欲の奴隷とならしめた。しかしキリストは我等にこれを回復したもうのみならず、その生まれる子をば永生に入らしめる約束を与え、また驚くべき賜物を与えて、死せる霊魂に生命を与える権威と権能をも持たしめたもうのである。かつまたすべての敵に打ち勝つ能力をも与えたもうのである(ルカ十章十七〜十九節、ダニエル七章二十七節)。

七 神はアダムに完全なる伴侶、彼に適う助け人を与えたもうた
(二章二十一〜二十四節)

 女は男の脇より取って作られた。彼の肉よりの肉、骨よりの骨であった。これはキリストとその教会の美しき型である。教会は彼の脇より流したもうた宝血によって作られた彼の新婦である。しかしここにも驚くべき対照がある。アダムは苦痛なき甘き眠りより目覚めてその傍に新婦を見出したのであるけれども、キリストはそのために苦痛を嘗め、涙を流して死にたもうた。
 さて神はアダムにその伴侶、その助け人を与えたもうたが、悪魔は彼女を誘惑する者、また破滅を来らす者とならしめた。されど今キリストは女を我等に回復して真の伴侶、助け人とならしめたもう。またキリストに在りては男も女もなく、天においては天の使いたちのごとく娶ることも嫁ぐこともないのである(ガラテヤ三章二十八節、マタイ二十二章三十節)。
 「女は悪くなれば最悪の男よりも悪くなり、善くなれば最善の男よりも善くなる」という諺がある。そのごとくかつて世にあった最も聖なる人は女であったのである。女を通じて詛いは来り、女を通じて救い主が来りたもうた。
 かく我らはここで神の御業を全く破壊する恐るべき力を見たけれども、これと同時に今一度前の状態にまさる幸福に回復するキリストの御力と御恩寵を悟ることができる。
 さてまたこの第二章に人生の根本的要素が示されている。これによりて我等人類は自己に対する神の御目的を悟ることができるのである。すなわち、
  一、人間の神との親族的関係 (二章七節)
  二、人間の神に対する礼拝 (二章三節)
  三、人間の神との交通 (二章十六節)
  四、人間の神に対する奉仕 (二章十五節)
  五、人間の神に対する忠信 (二章十七節)
  六、人間の神より受けたる権威 (二章十九節)
  七、人間の神より与えられ、神のためにする社会的生涯 (二章二十四節)
 これらは人生の要素であり、大いなる原則である。我等がこれを実現する時に完全なる生涯を歩むことができる。しかしてこれらはすべて創世記のこの初めの章において示されていることを見る。



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