附録(一) 創世記第一章の科学的研究



 創世記のこの第一頁は聖書の他のいずれの頁にもまさりて驚くべきものである。またこの第一章ほどに聖書の逐語的黙示の真理を信ぜしめるに有力なる箇所はない。歴史の真の曙、物理学のただ極めて浅薄なる概念のほか科学上何の知識もなかった時、しかも人はただ極めて単純なる言葉を用いて僅かに数行の文を録し得たるその時代において、現今の進歩したる科学の諸発見に照らして少しの誤謬も見出されぬ。かかる開闢説の録されたとは、これは世界に行われたる最も驚くべき奇蹟でなくて何であろう。
 一千九百五年に英国天文学協会の一会員は、英国博物館における講演中に、彼は七年間、創世記の第一章を細心研究したる由を語り、しかしてこの第一章に些少にても科学的誤謬を見出し得る者があるかと、世界に向けて公然と論戦を挑んだ。
 古昔のすべての神学哲学を査べ、また現時行われるものを査べ見よ。ギリシャのホメロス、ヘシオドスは如何、シャストラを見、プラーナを見、ヴェーダの四書を見よ。またギリシャ、ローマの哲学者たち──アリストテレス、セネカ、プリニウス、プルターク及びキケロを見、またマホメットのコーランを査べ、ビュフォンの開闢説を読め。更に飜ってルクレティウスの書きたるもの、クロトンのフィロラオス、シチリアのエンペドクレス、レウキッポス、ディオドロス、その他エジプトの博士たちを見よ。最も偉大なる思索力を持っていたアナクサゴラスやアリストテレスも、天というものは一定の星辰の付着している或る固定したる円体と想像していたのである。いずれを振り向くも、何を読むも、ただ極めて粗野なる荒唐無稽の説を見るのみである。
 もし人が未だ何ら科学的知識のなかった太古に、最も単純な数百の語をもって万物起源の物語を書き、それが如何なる科学者にも無稽の言葉、誤謬、または不真実なる点を見出されざるほどに精確にして、同時に小児にも解し得られるほど単純に書かれたりとせよ。しかしてかかることが神の霊の感動も祐助も受けずして成し遂げられたりと言うならば、それは世界無比の驚異でなくてはならぬ。我等としては容易にこれを信ずることはできぬ。それに比べては逐語的黙示を信ずるは如何に道理に合うことなるぞ。
 我らはこの第一章の物語をば大学者が幼児に与えた教訓に譬えることができる。彼の教える真理の言い顕しには虚偽もなくまた非科学的なるところもなく、しかして幼児の心にも入りやすい語句のうちに、教育ある成人に対しても意味深いものであるだろう。この驚くべき章もちょうどその通りである。
 却説、このモーセの記録をそのまま受け納れることを困難なりとして提出されたる三つの方面からの異説がある。すなわち天文学上よりの異説、生理学上よりの異説、及び地質学上よりの異説である。

(一)天文学上の異説

 天文学上から、モーセの録せる創造の物語に反対して立てられた主なる説は、ラプラスの唱えた、普通に星辰説として知られているところのものである。この説の起こりはサー・ウィリアム・ハーシェル氏の推測によって暗示されたのである。ハーシェル氏は星雲の研究中、これが発達の程度に随って多種多様な形状をなしていることを見出し、これらは種々の世界がその形成の道程にある有様であると考えた。それよりして今の太陽系の起源に関する仮説ができたのである。
 この説は巧妙にして真実らしく見ゆるけれども、物の起源の説明としては次の三つの点において考え深き人々を満足せしめることができぬ。
 (1) この説は物質の起源につき何の説明も与えぬ。
 (2) これは引力が如何にしてできたかを説明せず、変化を認めるけれども、またこれが起源を説明せぬ。
 (3) これはまたただ地球の自転と公転の存在を認めるのみにて、それが何によりて起こりしかを説明せぬ。

(二)生理学上の異説

 ここにモーセの記録に反対して立てられる説は進化論であるが、これはただ理論のみである。事実をもって証明することのできぬ理論である。すべての科学者によって認められたる、生物は必ず生物より発生するとの大原則は、進化論が全体として受け納れられる道を永久に塞ぐものである。比較的穏和な進化論、すなわち生物学的進化論は、地質学の証拠をその論拠としているけれども、これもまたいわゆる折れ易き蘆に倚るの類である。生物進化論を確かめる論拠と見ゆる地質学の推論が真実であるならば、変化の道程にある生物の化石が岩石中ここかしこに散在しており、いわゆる進化の失われた連鎖を発見するに何の困難もなかるべきはずである。ジェームズ・ギーキーはいわゆる「記録の不完全」について、これは「地質学のスケープゴート」であると言っている。サー・ジェームズ・ドウソンは「我等は化石となれる種属の老幼各種の標本を多く発見し、これを通してそれらの順序正しき胎内発育の跡をさえ尋ねることができるのに、何故これを人類と結びつけるところの連鎖の例を見出さぬであろうか」と言ってこれを突き放した(Modern Ideas of Evolution, p.35)。
 生物進化の説はその穏和なる形においても全く証明ができぬ。これは尤もらしき説ではあるが、やはり一箇の仮説に過ぎぬ。

(三)地質学上の異説

 我等はなお進んで研究するに当たりてこれに触れるがゆえに、ここにはこれを略す。

 却説、この章を細かに研究せんとする前に、まず記憶すべき二、三のことがある。
 (一)我らの知るごとくこの宇宙は「物質」と「勢力(エネルギー)」との二つが種々結合して成り立っている。されどもこの二者を別々に引き離してそれが如何なるものであるかを考えることはできぬ。未だかつて物質をば勢力との結合から引き離し得た者はない。
 (二)ハーバート・スペンサーは彼が「不可知の顕現」と呼ぶところのもの、及びその必要条件につき語っている。彼は「不可知の顕現」は数において五つ、すなわち時間、空間、物質、勢力および運動であると言っている。もし彼が科学的唯物論者でなく哲学者であったならば、必ず今三つ、すなわち生命、意識、心をも加えたであろう。それはともかく、この創世記の初めに彼が必要条件とする五つのものがみな現れている。すなわち
 時間 『元始はじめに』
 空間 『神創造つくりたまへり』
 物質 『神を創造たまへり』
 勢力 『神の
 運動 『おほひたりき』(英訳ではmoved)
 (三)創造すなわち物の原始の問題につき考察せんとするに当たりて、科学の語にて「勢力交互作用の法則」として知られるところのものを記憶せねばならぬ。光や熱やそのほか磁気、化学作用、重力などのごとき多くの現象はみな「勢力」或いは「エネルギー」と呼ばれる同一のものの種々の現れにほかならぬとは我等の既に久しく知っているところである。しかして今は適当なる手段と装置を用いることによって、多くの場合この現れの変換できることが知られた。これは科学の不思議の一つである。
 もしかかることについては全然無知であった太古の時代において、人が万物の起原のごとき複雑な主題につき筆を下すとせば、それがはなはだしき誤謬に陥り、または叙述の仕方を誤るは、むしろ当然でなければならぬ。しかるに既に言えるごとく、この創世記の物語中には科学的の記事こそあらざれ、科学の確定せる諸発見と衝突する何らの語句も言説も推理も用いられておらぬとは実に驚くべきことである。

 『元始に神天地を創造たまへり』(一節)

 これらの簡単なる数語は物質が永遠から存在していたということを否定している。しかして第二節において物質は既に存在しているものとして録されている。それは全能なる創造者の命令によって呼び出され存在するに至ったからである。しかしそれがいつであったか、我等はこれを知る由がない。暗黒と曠空むなしき有様として描写されている第二節は、かつて或る大激変が起こって元始の世界を破壊したことを(少なくとも或る学者に)暗示するごとく見ゆるより考えれば、元始の世界の創造は恐らくは数えがたきほど多くの年代の前のことであったであろう。この大激変の起こって元始の世界を破壊したことについては、聖書の所々にかく推論すべき句が見られると共に、かかることがあったのでなくては説明しがたき天文学上、地質学上の或る現象がこの推論を必要としているように見える。

 『地は定形かたちなく曠空くして黒暗やみわだおもてにあり、神の霊水の面を覆たりき』(二節)

 「勢力」が発動するまでは「運動」というものもなく、空気、光などもまたあり得ない道理である。しかし形なき流動物の有様でも物質が存在しているということは、等しく勢力と運動の存在をも暗示するのである。(ヘブル語には流動体を言い顕す語がないから『水』と訳せられた語が用いられているのである。)第三節に言うところの『光』なるものは世界が依ってもって支持されるところの運動とエネルギーの一つの形状である。しかして光の現象はエーテルと称えるものの存在を推論せしめる。エーテルは我らの知る限りでは勢力の依ってもって働くところの唯一の媒介物である。
 かくてこの第二節の言い方を考えてみれば、神の霊が覆いたもうたということは、エーテルの造られたことと何程か関係を持つという考えを暗示するように見える。何となればエーテルは光の現れることに極めて密接な関係があるから。またエーテルは神の霊が物質に対して働きたもうその接触点であり、媒介者であるかも知れぬと思われるのである。

 『神光あれと言たまひければ光ありき』(三節)

 これらの言葉が他の創造の御行為を録すために用いられた言葉と異なっていることは言うまでもないことである。しかしてこれは科学の教えるところとちょうど一致している。光は実質的のものでなく一つの運動の方法である。されば神がこれを創造したもうたと言うならば、それは精確な言い方でなかったであろう。
 勢力の交互作用ということの発見はこれらの言葉に一層広い意義を与えた。すなわちこれらの言葉がただ光のことのみに関係していると想像された間は、この二節がこの所にあるは不適当と見えたけれども、我等はいまこの光を呼び出したもうたとは、勢力をばそのすべての変化において自然界に呼び入れたもうたのであるということを知る。
 されば創世記第一章の初めの三節はラプラスの説に缼けているところを精確に補っている。すなわち前に指示したる三つのことの二つ、すなわち物質と重力の起源がここに録されている。
 モーセの記録において、第四日まで太陽が存在していなかったことを意味しているとの議論は、(第四日の研究において明らかになるごとく)既に地に墜ちた。しかし仮に第一日においてまだ太陽が存在しなかったとしても、光が顕れたということに何の差し支えもない。天文学の極めて初歩の研究者でも、望遠鏡を向けて比較的顕著なる星雲の一つ二つ、例えばオリオン座の大星雲或いはこと座の輪状星雲を見るならば、彼の目はいずれの太陽からも来らざる光を見るであろう。
 かく反対論者がモーセの物語に代わるべき説として導き出したる星雲の仮説は、たまたま彼等がモーセの陳述を不可能として排したるそのことを認めるを見れば、モーセの記録の反対者によってしばしば提出されたる異論はよくよく不運である。
 されどもいま実際にこの点を挙げる必要はない。何故なればこの時代において疑いもなく太陽は既に存在していたのであるから。

 『神光とやみを分ちたまへり。神光を昼となづけ、暗を夜と名けたまへり』(四、五節)

 これらの言葉において小児の心にもこれを摑み得るように科学的事実が陳べられている。光と暗とは我らの知るごとく地球がその軸を回って回転するによって生ずるのであるが、これをその原因によって録すは当時の人々には無意味に思えたであろうゆえに、モーセは結果によってわかりやすくこれを録し、その現象の原因を推論し理解することを後の時代の我等に残したのである。換言すれば、この単純なる記事は地球に自転の運動の与えられたることを意味する。ここに星雲説の説明し得ざる第三の点、すなわち地球自転の起原が説明されるのである。

 『神光を昼と名け、暗を夜と名けたまへり。夕あり朝あり是はじめの日なり』(五節)

 ここに我等は多くの議論の費やされたる一つの疑問に出会う。ここと、また八、十三、十九、二十三、三十一などの諸節に録される『日』は二十四時間の一日であるか、またはなお長い一時期のことであるか、この両方の説に関していずれも多くの書が書かれている。これが二十四時間の一日であるという最も強い議論は出エジプト記二十章十一節にある十誡のうちから出ている。すなわち『ヱホバ六日のうちに天と地と海と其等の中の一切すべての物を作りて第七日なぬかめやすみたればなり。こゝをもてヱホバ安息日あんそくにちを祝ひて聖日としたまふ』とあるがすなわちこれである。この二十四時間説を支持する論はここを離れては多く言われておらぬ。
 この一日は一つの長い一時期であるという説に対して、次のごとき反対論がある。我等にすぐ判るごとくあまり道理あることではないが、それはこうである。第五節に『日』は交互に来る暗と光に分かれるものであると書いてあるから、もしその日がたとえば一千万年であるとすれば、一日の間に五百万年の昼があると共に五百万年の夜があるということになる。かかる状態ではとても植物も動物もその生命を保つことができなかったであろうというのである。
 しかし聖書の本文を注意して読めば、非常に異なった意味の暗示がある。モーセは二十四時間の日を記すには明らかに『昼と夜』なる語を用いて、『光と暗』の時間を表す日であることを明確に示し、その同じ節において進んで創造の『日』を言う時には、全く異なれる語を用いて『夕あり朝ありき。是首の日なり』と言っている。しかしてこの書き方は創造の御工の一段落ごとに繰り返されている。
 古代のヘブル語は格別に明確なる意義を持つ語に乏しかった。既に言ったとおり『流動物』ということを表す語がないので『水』という語が用いられたと同じように、時の期間を表す語も多くなかったのである。日、週、月、年、代などの語が我等の発見するすべてである。それゆえに聖書中にもしばしば『日』という語が一時期を表すために用いられている。さてこの節のうちには特に注意すべきことが四つある。すなわち
 (1) モーセは創造の日を語る時に『昼』『夜』の語を用いず、ちょうど本節の初めに用いた『晝夜』の語と混用を避けるためであるかのごとく、全く別な『夕と朝』の語を用いていること。
 (2) 次に彼は前には『昼と夜』と言って自然の順序に従いながら、ここには『朝あり夕あり』と言わず、かえって『夕あり朝あり』と言っていること。
 (3) これらの語の用法に一層奇妙なことがある。慥かに夕あり朝ありと言えば『是……夜なり』と言うべきであるのに、かく言わずして『是……日なり』と言っている。これは慥かに彼が時の一時期を意味しているからに相違ない。すなわちその時期の始めを夕の仄暗きにたとえ、その終わりの発達と完成を朝の光明に比してかく言ったのであろう。されば光と暗と交代に来る昼夜のことには関係がない。一時期論にはこの他になお有力なる論拠がある。すなわち
 (4) 『夕あり朝ありき……』の句は第七日の場合には書かれておらぬ。神がその創造の御工みわざを息みたもうた神の安息日(この日の間、何物も新たに創造されぬのである。これは進化論に対する決定的の反論である)は、無論、神が新天新地の創造を始めたもうまで続く一時期を意味する。されば自然にその前に当たる創造の六日も六つの時期であると推論し得るのである。されば余は今この問題を注意深き読者の祈り深き考察に残し置いて研究を進めることにする。

 『神言ひたまひけるは水の中に穹蒼おほぞらありて水と水とを分つべし』(六節)

 この驚くべき第一章にはその語句の一つ一つに逐語的黙示の証拠を見ることであるが、この節は就中その顕著なるものである。ここに穹蒼とある語の原語は『展開』の意味である。然るにギリシャ語訳にはΣτερεωμα(ステレオーマ)と訳し、ラテン語訳にはfirmamentum(フィルマメントゥム)と訳し、英語訳にはfirmamentとなっているこれらの訳語は、みな何か固形体の意味を含む語である。聖霊の霊感によって書かれたるギリシャ語の新約聖書にはこのステレオーマなる語は決して『展開』の意味にては用いられておらぬ。
 比較的近代まですべての人は天すなわち穹蒼はその訳語の字義のごとくに固き円体と考えていたのである。然るにモーセは初めより聖霊の霊感によってそれを『展開』として描いた。もし彼がその見るところに随い彼自身の自然の智慧の教えるままに書いたならば、彼の当時の語をもって円き天井とそれを呼ぶことはいかにも容易くまた自然であったであろう。
 いま我等の前にある六、七、八の三節によって我等の心に起される二つの疑問がある。それは
 (1) この第二日における創造力の特別なる御工は何であるか
 (2) 上の水と下の水と分かれたとは何を意味するか
ということである。
 この第一の疑問に対しては、分光器の発明されるまでは、科学的方面から何ら満足なる解答はできなかったが、今は明白なる答えができるようになったのである。
 星雲の多くのものを分光器で見れば、ガスを表示する輝ける線が見える。しかしてそのガスの主なるものは水素と窒素である。なおこれらのガスは白熱の状態でなければならぬ。しからざれば見ることができぬはずである。しかし水素は酸素と接触すればそのままその状態に留まることができぬ。水素は酸素に触れるや否強烈なる熱を発してこれと化合し、結果として水を生ぜねばならぬ。されば酸素の入り来ることは発達の道程におけるはなはだ肝要なる一転機で、空気と水のできるには必ずまずこれを要したのである。されば第二日の格別なる御工は、酸素が発達し来るか、またはその沈静の状態から呼び起こされて活動し来ったことによって成り立つように見える。すなわち第二日はこの強烈なる元素の入り来れるより起されたる激烈な化学的活動の時期でなければならぬ。しかして地殻のほとんど半分の重さは酸素によると算せられ、それはまたすべての岩石、すべての金属鉱の一部分を形成しているがゆえに、第二日において酸素の働きの結果はただ空気と水を生じたのみではなかったであろう。
 されば第二の疑問を考えよう。
 (2) 穹蒼の上の水と穹蒼の下の水の分かれたとは何を意味するか。
 読者は一見してこの『水』という語が複数で書かれていることに気づき、またこの語が普通に用いるところの水の意味でなくして『流動物』と訳した方が正当であるということも思い出すであろう。ここで望遠鏡の観察、格別に木星の観察が我等の研究を助けるのである。
 木星の周囲にあって交互に光と陰とを表す雲状帯に対して数年前になされたる注意深き探求の結果、最も顕著なる事実が現れ、いま学びつつあるこの節の考察を助ける極めて有益なる材料を供給することとなった。(もちろんかくしてなされたる諸発見の詳細を述べることはここにその余裕もなく、よしこれを述べるも普通の読者には少しく難解のことと思う。)かく木星から学んだ教訓を適用して考えれば、当時地球上に存在した水(厳密なる意味の)はすべて蒸気の状態であったということ、またいわゆる『穹蒼の下の水』は後に巌石や礦石を形成した物質の材料であったということは最も信ずべきことである。その時期において地球の中心は鎔解した団塊で、はなはだ厚い濃密な大気をもって包まれていたであろう。その大気にはいま空気を組織している元素のみならず、現今種々の塩基と化合して存在する酸素や炭酸などは言うまでもなく、ほとんどすべての水や一層揮発性の金属をも包含していたであろう。
 空間に放散し大気の上層に浮流する多くの蒸気は雨の形となって降り、まだ地の表面に達せぬうちに再び蒸気となって昇り、かくして地球の冷却がその表面の流動物の或る物をして固形体とならしめるまではその有様を続けたであろう。かく地の表面に固形体ができてからは、水はこれを基礎として地上に流動体をもって存在することができたのである。
 かくして我等は第三日に至る。今は水がその語の厳密なる意味において地球の表面にその流動体の状態を保ち得る時期に達した。我等はそれを包囲するところの蒸気、すなわち御言に『穹蒼の上の水』と形容してあるところのものと分離して、文字通りに水が全地を掩うに至れることを想像することができる。

 『神言たまひけるは、天の下の水は一処ひとところに集りて土あらはるべしと。即ちかくなりぬ。神乾ける土を地となづけ、水の集合あつまれるを海と名けたまへり。神之をよしと観たまへり』(九、十節)

 我等はいま乾ける土の顕れるところに至った。我等は一読してここに『創造』、『造る』或いは『形成する』というような語の用いていないことに気付くであろう。用語は明瞭である。ただ既に創造され、形成され、或いは造られたるものを顕れしめよである。地質学上の用語で言えば隆起の作用である。第二日の終わりにおいて我等の見たるごとく、地球の内部は鎔解したる有様でありながら、堅き外郭をもち、一様に水の層をもって掩われ、大気をもって取り捲かれていたと信ぜられる。当時の大気は既にその元素の或るものと別れたとはいえども、現今のよりも一層複雑な、一層濃密な、一層広大なものであったであろう。
 この新しく凝縮した水は元始的の岩の上に留まったのである。
 さて地球の或る部分の沈下に伴って或る部分をして隆起せしめた力が何であったかは我らに知られている自然法によっては説明しがたきところである。これは必ず地球内部に引き続いて起こった変化の結果であったろう。しかし我等はこれについて何の知るところもない。ただここに再び『天の下の水は一処に集りて乾ける土顕るべし』という命令をもって示されるごとく、創造者の直接の御干渉があったのである。もし創造の一日が一時期であるという考えが正当であるならば、陸が大洋の表面に現れるまでの隆起作用の進むには長い時期を要したことであろうが、それはどのくらいの時であったかは確かめることができぬ。

 『神言たまひけるは、地は青草と實蓏たねを生ずる草蔬くさと其類に従ひ果を結びみづからたねをもつ所の果を結ぶ樹を地に発出いだすべしと。即ち斯なりぬ。地、青草と其類に従ひ實蓏を生ずる草蔬と其類に従ひ果を結てみづから核をもつ所の樹を発出せり。神これを善と観たまへり』(十一、十二節)

 我等はいま最大の秘儀の一つなる生命の起原に達した。モーセの記録が学説と衝突すると言われているのはここの数節である。しかし科学の確実なる発見と衝突するのでないことは勿論である。
 生命なるものは、その前に存在したる物理学的の何物をもっても説明し得られぬということを証拠立てるためには、現今科学界のすべての権威者の名を引用することができると言っても過言ではない。ハックスリーは『もし進化の仮説が真実であるならば、生物が無生物から起こったのでなければならぬ』と言った。しかして彼はまた英国科学協会(British Association)の総裁としての演説に『現在の知識の程度は生物と無生物の連鎖を我等に提供せぬ』と言っている。ダーウィン自身も『生物が無生物より発達したという何ら価値ある証拠は出て来ていない』と言っている。チンダルとハーバート・スペンサーも等しくこのことを力説している。すなわちスペンサーは『生命は物理化学の語としては考えられることができぬ』と言い、チンダルは『我等のこの時代において、既に存在したる生命より独立に生命が現出したということを証明するに足る何ら信憑すべき実験的証拠はない』と言っている。ハックスリーはまた『もしかかることが起こったならば聖餐化体説を信ずるなどは何でもないことである』と言っている。このことはまた現今の科学的不可知論者その他もまたすべて許容するところである。たとえばダーウィンと共に進化論を広めたウォーレスも宣べて言う、『有機界の発達には少なくとも三つの階段がある。しかしてその階段ごとに或る新しい原因或いは力が働いたのでなければならぬ。……最初の植物的細胞は全く新しい力を有する、世界における新しいものであった。……第二の階段というは植物と動物を区別するところの感覚と意識であるが、それは物質とその法則及び勢力によって説明することの可能をばなお一層超越している』と。
 かく現代の科学者がみなこれを許容するに拘わらず、この問題を化石の仮想的証拠にのみよって判断するところの生物進化論者は、創世記一章に録される生命の順序は石に書かれたる歴史の事実よりも真実であるとは一刻も許容することをせぬ。彼等は化石の記録を信ずるごとくにこの十一、十二節は真理に近いものとすらも信ずることをせぬ。余は知る、多くの神学者はモーセの記録と近代地質学の推論とを一致せしめるよう種々の企てをなした。されど余は恐る、彼らはかえって宗教的詭計を弄する者と認められ、自ら苦痛を受けるに至るを。余は信ず、モーセの記録と近代地質学の発見による推論とは全く相反しているが、誤謬はモーセの記録にあらずして、むしろこれら地質学の発見による推論にあるのである。さればここに数言の説明が必要である。近代の地質学は、岩石にある化石の発見によって代表される生命の種々の形のものが同時代に存在し得たということを絶対に否定している。『今日我等の時代における湖水、海、大洋などにおいて生物の種々の階級のものの標本が方々にて化石となるべく埋まりつつある。すなわち蠕虫類、軟体動物、甲殻類、昆虫、爬虫類、両生類、魚類、哺乳動物、および人間が同時に化石の候補者となりつつあるにも拘わらず、近代地質学の大勢はこれらの同じ種々なる形のものが太古の代に同時に生活していたということをば絶対的に否定するのである。』しかしハーバート・スペンサーはその論文『不条理なる地質学』においてこの不道理を論じている。
 近代地質学の全体がその上に建てられている演繹的学説は、生命連続説として知られているものである。しかして近代地質学は岩石中に発見する化石よりして生命の地球上に現出し発達したる順序を証明することができると公言するのである。
 さりながらもし動物地理区というものが、今日あるごとく太古より存していたということが証定され得たならば、しかして太古に英国におけるデボン紀の動植物区が北米のシルリア層の生命、またアフリカにおける石炭紀の動植物区と同時に存在していたということが証明し得られたならば、ほとんど一世紀の間生物科学の北斗であり、生物進化論の根拠とせられていた生命連続説は地に墜ちるのである。近代のいわゆる『鉱物的葱皮説』なるものは独、英、仏の「地質学の先輩」なるウェルナー、スミス、リビエらの研究調査によって受け入れられるようになったが、これははなはだ尤もらしく見えるけれども、実は当時提供されていたはなはだ限られた材料に従って立てられたるものである。しかし輓近の調査はその区域においてもその広大なる点においても共に圧倒的なる材料を出し、この説に衝突している。さればすべての地質学者はウェルナーのこの葱皮説を羞じ(実際は鉱物的葱皮説をば生物的葱皮説に代えたりと雖も)おそるおそる動物地理区の主義を容れるに至った。進んでは昔も現時のごとく生物の同じ群が同時に存在したかも知れぬと、少なくとも含蓄的に許容するに至った。
 我等はかくのごとく生命連続論者によって全く説明を与えられざることをば疑わずしてそのまま鵜呑みにせよと求められる時に、かかる軽信を敢えてすることの大いなる困難をば、ノアの時の大洪水やヨナとその大魚のごとき『ぶよを漉し出して駱駝を呑む』(マタイ二十三章二十四節)ことに比し得るのみである。
 しかしいまは地質学について細説すべき余裕がない。ここにてはただモーセの記録には疑いもなく、生命の種々の形は適当なる順序にとみに創造されてみな同時に存在したものとして取り扱っているということを言えば充分である。しかして現代の地質学の推論とは直接に相反しているのである。
 いま考究しつつあるこの諸節は、地球上における生命の起原に対する神たる創造者の御干渉につきて単純なる言葉をもって我らに語っているが、これが如何にして起こったか、如何に急であったか、如何に徐々であったかは語っておらぬ。しかし注意すべきことは、植物的生命は第三日に地球上に現出されたのであるけれども、その完全なる充分なる発達は第六日まで顕れなかったということが、第二章に至って示されていることである。

 『神いひたまひけるは天の穹蒼に光明ひかりありて昼と夜とを分ち、又天象しるしのため時節ときのため日のため年のためになるべし。又天の穹蒼にありて地を照す光となるべしと。即ちかくなりぬ。神ふたつおほいなる光を造り、大なる光に昼を司どらしめ、小き光に夜を司どらしめたまふ。また星を造りたまへり。神これを天の穹蒼におきて地をてらさしめ、昼と夜を司どらしめ光と暗を分たしめたまふ。神これを善と観たまへり。夕あり朝ありき、是四日なり』(十四〜十九節)

 第四日は太陽系のことを取り扱うのである。すなわち太陽、月、遊星(恒星にあらず)のことである。我等が直ちに気付くのは、ここに創造の文字が用いられておらぬということである。ここに用いられているのは『神言たまふ』『神造りたまふ』『神置きたまふ』という三句である。我等は既に第一日において光と暗とが別たれ、昼と夜とのできたのは、地球がその軸によって回転する自転が与えられた結果であるということを見たが、このことは光が一つの保持者に集中していて始めてでき得ることであるゆえに、我等は太陽が既に存在していたと論断せねばならぬ。ここには一層詳しく細説してあるのである。我等の読むごとくここで太陽と月とは『昼と夜を司るべく』『天象のためになるべく』『時節のためになるべく』『光を暗より分かつべく』『置かれた』のみである。
 これに関連してここに注意を要するは、セム族の原語には変化の力がはなはだ限られていたということである。古文学にて半過去、過去、大過去、不定過去などにて表すべきところの変化を表すに、彼等はただ一つの形を用いるのみである。
 されば十六節にあるとおり『神……造り』とあるは『神造りたまひたりし……』とでも訳すれば一層正確であろう。さすれば意味が明瞭になる。以前に太陽、月、遊星を造りおきたもうた神が、この第四日にこれらを地球との関係に『置き』たもうたのである。
 さればこの第四日に実際何事が起こったのであるか、二、三の説明を暗示することができる。
 (一)第一日において地球にその軸を廻って回転する自転の運動が与えられたのであるが、いま第四日において太陽を中心として回転する公転の運動が加えられた。それによって以前よりあった昼夜の区別と共に年と時期と天象とを生じたのである。このことを確証すべくそこに春分秋分と関係して或る顕著なる天文学上の事実がある。
 (二)木星の研究によって推論されるごとく、地球の大気はこの時まで諸天体より来る直接の光線の透徹し得ざるように蒸気をもって充たされていた。ゆえに太陽からの直接の光線の地球の表面に達するはただ放散されたる光のみであったが、今は大気が半透明となり、更に透明となって、太陽も月も星も地上より見えるようになったのである。
 (三)たぶん光と熱がこの時全く太陽に集中されたのであろう。さればこの節に用いられた語が『光をもつもの』となっている。これまで太陽系の諸星は光と熱をば他の資源より得ていたのを、いま太陽がその資源たる発光体となったのであろう。『昼と夜を司る』と繰り返して言われたる言葉は顕著でありまた意味深くある。これまでは漠然であり不明確であったものが今は明確になったのである。
 もし場所が許すならば、はなはだ高き緯度の地方にて発見されたる石炭鉱がここの記事に如何なる関係を有するかを考察するならば興味深いことであるであろう。
 我等は太陽系のすべての光が未だ全くは太陽に集中されておらぬということを知っている。太陽は今なお幾分か星雲的の星である。さればこの第四日において世界の大いなる発光体、光明の保持者である太陽に、突然と光の集中が起こったということを想像するも無道理のことではない。公転の運動が地球に与えられたこと、密重なる大気が消散したことと共に、太陽系の調整されたことを形容するモーセの記録のすべての言辞は驚くべく意味深くまた明瞭である。しかして科学的にもそれが正確であることが証明せられるのである。

 『神いひたまひけるは水には生物いきものさはに生じ鳥は天の穹蒼の面に地の上にとぶべしと。神おほいなる魚と水に饒に生じて動くすべての生物を其類に従ひて創造つくり、又羽翼つばさある諸の鳥を其類に従ひて創造りたまへり。神之を善と観たまへり。神之を祝して曰く、うめよ、繁息ふえよ、海の水に充牣みてよ、又禽鳥とりは地に蕃息ふえよと。夕あり朝ありき。是五日なり』(二十〜二十四節)

 ここに我等はこの創造の物語において二回目の創造の語に出会う。これは第一節に物質の原因が宣言された時に出たが、ここには動物的生命の起原を語るべく用いられている。それゆえにここに我等はサー・アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが「物質とその法則及び勢力の第二階級(なお一層説明の域を超越したるところの)は、感覚と意識、すなわち植物的生命と動物的生命の別れるところである」と言ったその第二階段に到達したのである。
 モーセの記録には極めて明瞭で決して誤解することのできざる三つの陳述がある。すなわち
 (一)神はその神的権能をもって鳥と魚の生命を創造したもうたということ
 (二)魚は魚、鳥は鳥と、二つながら種々の種属のものが創造されたので、決して一つのものが他のものに進化したり変化したのでないということ
 (三)魚も鳥も同日同時刻に創造されたということ
 そこには胎内的発育以上、何の進化をも容れる余地がない。ここには種属の変化を認めぬ。況んや魚から鳥に変化するというごときことの可能をほのめかす何らの暗示もないのである。我等は大胆に言う。地質学が如何に多くの推論をもってモーセの物語と闘うとも、地質学の調査によって現される事実と材料は創世記の記事の科学的正確を証明するのみであると。長い時代の記録が石に記載されると想像されるけれども、岩石の中の化石において種属の変質の一つの例も見出されず、かくして進化した種属というものがかつて存在したという結論に導くべき一つの事実も見出されぬ。今日、実際、種類の混合は雑種を生ずれども、かかるものは常に不妊的で継続せぬ。
 ダーウィンさえも『地球には二、三百万種の種属があるが、熟練なる観察者の一切の努力も、一つの種属より他の種属に変化した一つの例をも記録しておらぬ』ということを認めている。進化の仮説は地質学者の生命連続説に支持されている。しかし地質学者は、自ら種属の変化の実例は挙げることはできないけれども、そこに多くのかかる変化があったのでなければならぬ、何となれば階段をなす種々の時代の岩石が完全なる順序と連続をもって最下等より最高等に至るまで発達の種々なる道程にある生命の形を代表する化石を包含しているからである、と言っている。
 されども何者が、その岩石は果たして階段をなす種々なる時代のものであると、現代の地質学者に語ったであろうか。何処にその証拠があるであろうか。かく彼らは全体の疑問を仮定し了らんとしている。岩石が或る大激変によって崩壊され攪乱されたことがあるとしても、決して種々の時代を経てできたものでなく、その本来の有様においては同時的に形成されたものであるという証明が立ったならば、生物が種々なる階段を経て変化するという仮説は地に墜ちてしまうのである。
 他の言葉をもって言えば、地質学者は自ら証明すべきところのことをひそかに仮定してしまっているのである。彼等の論ずるところは
 (1) 岩石は、最下等より最高等に至る発達の次第次第の階段にある生命を代表する化石をば段々の岩層に包含しているがゆえに、種々の時代を経て(或る岩は他のものより古く)できたものであることが証明される
 (2) 化石は、種々の時代に分類される岩層に発見されるがゆえに、発達の次第次第の階段における生命を代表するものと証明される
と言うのである。もしこれが大いなる循環論法というものでなければ、私はそれを何と言うべきかを知らぬ。

 『神地の獣を其類に従て造り、地の諸の昆虫はふものを其類に従て造り給へり。神之を善と観給へり。
 神言給いひたまひけるは、我儕われらに象て我儕のかたちの如くに我儕人を造り、之に海の魚と天空そらの鳥と家畜と全地と地にふ所の諸の昆虫をおさめしめんと。神其像の如くに人を創造つくりたまへり。即ち神の像の如くに之を創造、之を男と女に創造たまへり』(二十五〜二十七節)

 創造の御工は今はその極点に達した。鳥と魚の出現に続いて陸上動物が顕れた。これが全うせられた時に、神は再びその御手を伸ばし御自身の像に象りて地上に人を創造したもうた。
 我等は三回目『創造』なる語に出会う。すなわち第一に物質の起原がこの語を要し、動物生命の感覚意識の起原にこれを要したのであるが、今は心意の起原に至ってまたこの特別なる創造の御工を要したのである。この創造の細説はこれを次章に譲って、ここにはただ特別なる確実なる御工の行われたことが録されるのみである。
 人類の御創造において神に関して複数の語が用いられているのは重要なる意義を有している。すなわち『我儕の像の如くに我儕人を造り』とある。されば神の御啓示の最初の章よりして神の三一にて在す明らかなる啓示を見るのである。人は肉体と心と霊とより成り立っている。しかして哲学者ヘーゲルが明らかに説けるごとく人の心意もまた三一である。されば我らは三位一体の神に象られて造られたものである。
 聖書は人類の創造に関して、既に存在していた生物よりでなく『ヱホバ神土の塵を以て人を造り』たもうたと明示している(二章七節)。すなわちこれは人は下等動物から進化したものでないとの聖書の明確なる宣言である。それはまた科学の事実(よしそれが学説でなくとも)とも一致している。私は今その科学の事実の二つをここに挙げる。
 (1) 生物の種属は根本的に相異なっている。それゆえに血液を他の種属のものに移入すれば、これをして死なしめるものである。人類は相異なれる人種の間にも血液の移入は実施され得れども、他の種属のものの血はその血球もこれが通過する血管も、その大きさも形状も異なっている──その相違は常にまた不変である──それゆえに動物の血を人間に移入するか、人間の血を動物に移入すれば、必ず死を来らす。
 (2) 人類に近似の動物は決して見出されぬ。獣類より人類に進化せんとする過渡の半人的猿猴の遺骸というものは何処にも存在しておらぬ。ヘッケルは「我等は仮説的なる原始人の化石的遺骸というものを未だ知らぬ」と言っている。
 主イエスの神性を信ずる我らは、ここに録されるごとく種属的創造の御工を信ずるに何の困難も感じないのである。
 現代の或る記者の指示するごとく、我等が新約を見る時に、人の形にて顕れたる全地の主なる造物者がその同じことを繰り返しつついますことを見る。『イエス五つのパン(植物性受造物)と二つの魚(動物性受造物)を取り天を仰ぎて祝し云々』(ルカ九章十六節)、ここに五つのパンと二つの魚の五千人を養うほどに増加したのは進化の方法によらず、創造に御工によったのである。その場所において種属的創造が行われて完全なる産出物が生じたのである。されば真の信者は信仰によりて『萬の物はこれに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし』(ヨハネ一章三節)と言い得るのである。

 『神彼等を祝し神彼等に言たまひけるは、うめよ、繁殖ふえよ、地に満盈みてよ、之を服従したがはせよ、又海の魚と天空そらの鳥と地に動く所のすべて生物いきものを治めよ』(二十八節)

 この章の終わりの二十六〜三十一節は神が新たに造りたもうた人類と結びたもうた最初の契約を録している。神の契約はこの後結ばれるところのものと共に七つあるが、之は第一の契約である。しかしてこの契約にはヱホバの七つの命令を含む七つの箇条をもっている。すなわち
 (1) 新しき秩序を以て地を充たすこと
 (2) 人の用のために地を服すること
 (3) 動物的受造物の上に権をもつこと
 (4) すべての草蔬と果実を食らうこと
 (5) 地を耕しまたこれを保つこと
 (6) 神の御声に順うこと
 (7) 神の律法に対する違背は永遠の死を意味するを憶うべきこと
 かくして創造の六日は終わり、神はその御工を止めて第七日に休みたもう。
 我等はここに大いなる科学的真理に含まれている驚くべき仕方を注意することなくしてこの章を終わることはできぬ。
 ヘブル書四章三節に『世のはじめより御業は既に成れるなり』と書いてある。これは神が直接に種別的に創造したもうたということの証印である。かくして物の創造および起原においてこれが作用に法則あり、勢力あり、道程があったが、それは創造の御業が終わると共に休止しているということが極めて明らかにされている。換言すれば、聖書は創造に当たって働いていたところの法則、勢力、道程は、その後の物質、勢力、および生物の種々の形のものの継続及び胎内発育において働くところのそれらとは種類において異なったものであるということを教えているのである。
 進化論は絶対にこれを否定する。進化論は公然と論じて、物の起源に当たっても、現時行われるところのもののほか、特別なる勢力、道程、或いは作用の力もなかったと主張するのである。
 もし進化論のこの説が真実ならば(現代の或る教授の言葉よりして言えば)物質が今でも再びつくられること、勢力が創造されまた量において増加され得ること、生物が無生物より生ぜしめられ得ること、及び生物の新しき格段の形のものが現在行われる自然の法則によって今でも発生され得ることが確実に実証されねばならぬ。しかして誰がこれらのことの一つでもでき得ると宣言する大胆を有するであろうか。

 『第七日なぬかめに神其造りたるわざをへたまへり。即ち其造りたる工を竣て七日に安息やすみたまへり』(二章二節)

 はなはだ簡単なれども頗る意味深きこの一句は、創造の業とその道程は完成されたもので、地が再び破壊されて使徒ペテロの言えるごとく『もろもろの天体は焼け崩れ、地とその中にある工とは焼け尽き』『神の約束によりて義の住むところの新しき天と新しき地と』を創造したもうまで(ペテロ後書三章十、十三節)は、再び新たにされまた始められるものでないということを、小児にても理解し得られる明白なる言葉をもって我らに語っているのである。



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