第十三回 アブラムの召し



第 十 二 章


 聖書全体を通覧すれば、創世記の第一章より第十一章までは神が万国民を取り扱いたもうことを記し、その第十二章より使徒行伝の第二章までは神が如何にユダヤ人を取り扱いたもうかを記し、そしてペンテコステ後は再び神が万国民を取り扱いたもうことを記している。
 ヘブル書第十一章一節より二十二節までに神の完全なる恵みを表す七人の代表的人物が記されている。すなわち
 一、アベルは罪を自覚する霊
 二、エノクは神と交わる霊
 三、ノアは更生の霊
 四、アブラハムは信仰の霊
 五、イサクは神の子たる霊
 六、ヤコブは奉仕の霊
 七、ヨセフは苦しみと栄えの霊
を表す。これらの人物によりて神の円満なる霊の働きを見ることができる。しかしてその中で最も肝要なるはアブラハムである。されば創世記中にも彼について最も多く記されている。すなわち十二章より二十五章までは彼に関して記し、二十六章より三十五章まではイサク、三十七章より五十章まではヨセフのことに関している。
 アブラハムは信仰の模範である。
 『されば知れ、信仰に由る者は、是アブラハムの子なるを』(ガラテヤ三章七節)
 神がアブラハムに対して『汝の子孫は天の星のごとくなるべし』(創世記十五章五節)と仰せたまいしは彼の信仰に倣う霊的子孫を指し、『濱のいさごの如くならしむべし』(二十二章十七節)と仰せられしは地に属せる子孫を指すのである。
 また『アブラム、ヱホバを信ず。ヱホバこれを彼の義となしたまへり』(十五章六節)の言葉は聖書中に七度記されている。すなわちこことロマ書四章三節、五節、九節、二十二節、ガラテヤ書三章六節、ヤコブ書二章二十三節である。
 既に言えるごとく創世記十二章より二十五章まではアブラハムに関する記事で、本章は彼の召しについての記事であるが、これよりして彼の信仰を学ぼう。

一 彼が神の命令と約束を受けること

 神の命令は『汝の国を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さん其地に至れ』(一節)である。およそ真の信仰の始めは分離である。ここの『出で』『別れ』『離れ』なる文字を見よ。『国』は肉に属ける保護であり、『親族』と『父の家』は肉に属ける愛情である。肉のともづなを断ち切って離れることをせぬ者は再び妥協に至る。救われし時に親しき友にも離れて神に従うや否やは、その人の信仰生涯に進むや否やを決する問題である。
 されども『出で、別れ、離れよ』とも困難なる御命令と偕に『我……ならしめん』との幸いなる約束が与えられるのである。
 主は『恩恵めぐみ真理まこととに満てり』(ヨハネ一章十四節)である。それゆえに真理よりして命令が与えられ、恩恵によって約束が与えられた。例えばマタイ十一章二十八節に『われに来れ』の命令と偕に『われ汝らを休ません』との恩寵の約束が与えられている。
 さてアブラハムに与えられた約束は七箇条である。
 一、大いなる国民となされること、
 二、大いなる祝福を受けること、
 三、大いなる名を与えられること、
 四、祉福さいはひの基とせられること、すなわち他に祝福を施す者となること、
 五、彼を祝する者は祝せられること、
 六、彼を詛う者の詛われること、
 七、天下の諸族、彼によりて祝福せられること、すなわち彼の子孫よりキリスト出でたまい、キリストによりて万民の祝福を蒙ること。
 神はアブラハムを忠実なる者と見そなわして彼を召し出し、この驚くべき約束を与えたもうた(ネヘミヤ記九章六〜八節)のである。

二 アブラムの従順

 アブラムは御命令の如くに
  一、国より出で      (十一章三十一節)
  二、父の家に別れ     (十二章四、五節)
ついにまた
  三、親族とも離れた    (十三章十一節)
 今その次第を考えてみよう。彼は国を出でたが父の故をもって暫くハランに留まっていた。これは信者が『ふるき人』(ロマ書六章六節)の死ぬるまで約束の祝福を受けざると同様である。しかして彼はその父の死ぬるに及びて断然父の家に別れてカナンに向かった。かくのごとく信者が信仰の勝利を得、神の約束を獲得するためには、必ず舊き人とこれに関する一切のものより断然と絶縁せねばならぬのである。

三 アブラムの従順の結果

 彼の従順の結果として彼は安全にカナンに到着した。しかしてそこにて神は彼に顕れたもうた。『茲にヱホバ、アブラムに顕現あらはれて』(七節)。これまでに神は彼に『言ひ』たもうたが、今は彼の従順の結果として主の顕現を拝した。これは信仰の報賞である。
 この時に約束は堅められた。すなわち一節に『示さん』と言いたまいしその地を今は『与へん』と仰せたもうた。的確なる約束の保証である(七節)。
 しかして彼は『ヱホバに壇を築』き、また『天幕を張』った(十二章七、八節)のである。壇と天幕とは彼の生涯の特徴である。すなわち祭壇は彼の奉仕の生涯を表し、天幕は賓旅の生涯を示している(ヘブル十一章九節)。しかして彼が約束の地にありてなお賓旅の生涯を送ったその秘訣は、ヘブル書十一章十節にあるごとく『神の営み造りたまふ基礎もとゐある都を望』んだからである。目に見えざる天の御国を望む生涯はすなわち信仰の生涯である。

四 信仰の試練

 さてアブラハムがカナンの地に入るやそこに二つの敵に出会った。すなわち
  一、カナン人(六節)
  二、飢饉(十節)
 神は信仰を試みるためにしばしばこの二つの敵を用いたもう。かのイスラエルの人々がエジプトを出でた時にも、レピデムで水の無きに苦しんでいた時にアマレク人が来て戦った(出エジプト記十七章)。また列王紀下三章における戦いの時にも、一方には水なく、一方には敵あることが見えている。さらにまたマタイ四章一、二節においてキリストの野の試みの時にも『飢ゑ』と『悪魔』を見る次第である。信仰の生涯にも同様の試練がある。一方において喜び無く満足なき有様にある時にサタンの攻撃が来る。警戒を要することである。当時アブラムは未だ信仰の生涯に熟しておらなかったためにここで失敗した。かく飢饉の激しい時に四方みな敵である。ああ如何せん、われエジプトに行かん!
 かく彼は一度約束の地を去ってエジプトに下ったが、そこにては神も彼に顕れたまわず、彼も祭壇を建てることをなさなかった。その地にて彼の産業は大いに増加したけれども霊的生涯には何の得るところもなかった。顕現なく奉仕なき生涯は禍なるかな。そこにて彼はまたほとんどサラをして罪を犯さしめんとした。神はサラの胎より約束の子を挙げしめんと定めたまえる故に特にこれに干渉したもうた。けれどもこれは実に悲しむべきことである。
 師傅アンブロシウスは、人の子の生まれるや父より意志を受け母より愛情を受けるとの説に拠り、これを秘儀的に解して、アブラムは霊的子孫の生まれるべき父なるに、母たるべきサラを奪われんとしたるは、あたかも意志にては神に従い愛情をこの世に奪われる信者の型であると説いている。
 エジプトの字義は英語の straiten にて『行き詰まる』の義である。約束のカナンを棄てこの世のエジプトに下り信仰の生涯に『行き詰まる』ことなき者、果たして幾人ぞ。されば主イエスの野の試みにおける御態度を学び、断然とエジプトを拒絶せよ。
 罪人は一方にては憐れむべき者(ルカ四章十八節を見よ)なれども、一方においては責むべき者である(ロマ書一章二十八、二十九を見よ)。罪に沈めるこの世に対する我等の態度につきても心すべきことである。



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