第 三 章 



 二章の始めにおいては、しゅが天国の喜楽よろこびを与えたもうことがしるされ、十五節以下、主の権能ちからあらわされました。今このところにおいて天国にる道を示されます。

一〜三節

 如何いかにすれば人間は天国に入ることができますか、如何どうすれば人間は神の子となることができますかについて、考えてみとうございます。ニコデモは『議員』とありますから貴族です()。『パリサイ派』とありますから熱心家です()。また主は『あなたはイスラエルの教師でありながら』と仰せたまいましたから学者です()。彼は肉にける者のうちで最も優れたる人でした。もしも人間が肉によりて天国に入ることができましたならば、ニコデモは必ず入ることができたでしょう。もしも学問によって、熱心によって、道徳によって天国に入ることができましたならば、ニコデモは第一に入ることができたでしょう。肉によりて天国に入ることができるのに、ニコデモが入ることができませんならば、ほかの肉に属ける人々は入ることができません。そはニコデモは肉に属ける人のうちで最も優れたる人であるからです。今このニコデモになくてならぬものは教訓おしえではなく生命いのちです。そうですから主は彼のことばにあらずして精神に答えたまいました。もしも主が世人よのひとの見るごとくこの人を見たまいましたならば、かく立派なる人を弟子とすることは、自分の事業に祐助たすけになると思いたもうたでしょう。けれども主は外貌を見ずして心を見たまいましたから(サムエル前書十六・七)、少しもその人に諂媚へつらわずして直ちに真実のことを言いたまいました。私共わたくしどもはそれによって伝道の方法を学びたいと思います。

 三節のごとく、人は新たに生まれませねば、神の国を見ることができません。神の国を見ることは如何なることですかならば、一・五十一の天開けて神の異象を見ることです。私共は天国に住むことをねがいまするならば、天国にける生命いのちたなければなりません。これは道理にかなうことです。水中みずに住む者はそれにかなう生命がなければなりません。地上ちのうえに住む者はそれにかなう生命がなければなりません。私共は天国に住むことを望みまするならば、それにかなう生命がなければなりません。すなわちおのれに死にてキリストに生きなければなりません。今、同じ現世このよ消光くらしている人のうちでも、二つの異なる世界に住んでおります。一つは地獄であります。一つは天国であります。地獄に住んでいる人は、悪魔がその人のしゅとなっております。光明ひかりを見ずして暗黒くらきに迷うております。神を知りません。望みがありません。また或る人は天国に住んで自由に神と交わりております。創世記三章までは人間は天に属ける者でしたが、ひとたび罪に陥ってより以来、長く地に属ける者となりました。けれども本章の福音によりまして地獄に属ける者も天国に属ける者となることができます。これは幸福さいわいではありませんか。悪魔はまた一度天国のものとなることができぬかもわかりません。けれども私共人間はもう一度天国に属ける者となることができます。

四  節

 ニコデモはこれを悟りませんでした(コリント前書二・十四)。

五  節

 生来うまれつきの人には神の霊のことが解りません。誠にまことに再度にど言いたまいたることは、ヨハネ伝のみにてほかの福音書にはありません。主が格別に大切なる真理を言いたもう時はいつでもこの重語を用いたまいます。主は二十五度これを言いたまいました。格別に私共の注意を要したもう時に、かく重ねて言いたまいます。私共は新たに生まれることを望みまするならば、のバプテスマを受けなければなりません(一・三十三)。水はを指します。霊は生命いのちを指します。私共は地獄にける生命が死にまして、天国に属ける生命を受けなければなりません。今までの肉に属ける生命を殺して、新しき霊の生命を受けなければなりません。かく天に属ける生命を得てはじめて天のところに生涯を消光くらすことができます。この水はぜひ文字通りの意味にとらねばならぬというわけではなく、その深い意味は悔い改めることにあると思います。かの十字架の上の盗人ぬすびとはバプテスマを受けませなんだ。けれども本節の精神によって新たに生まれることができました。

六  節

 肉にける者と霊に属ける者の区別を言いたまいます(ロマ八・五〜九)。

七、八節

 『霊から生まれる』とは、たとい如何いかなることかわかりませんでも、その結果を受けることができます。風は何処いずくよりきたり何処へくかをわかりません。けれども風の結果を見ることができます。ちょうど霊によりて生まれる者も同じことです。人々は神の恵みを受ける前に神学を知悉しりつくしとうございます。けれども本節はそのようなことをいましめます。私共はそれを知り尽くすことができませんでも、そのめぐみの結果を受けることができます。これは第一大切なることであります。

九  節

 『どうして、そんなことがありえましょうか』。四・十一六・五十二にも同じことばがあります。主がご自分の肉と血をくらうことについておおせたまいました時に、ユダヤ人もいかでこのことあらんやと申しました。けれども私共は真心をもって尋ねまするならば、主は喜んで光を与えたまいます。

十  節

 旧約時代の聖徒も新たに生まれました。エゼキエル三十六・二十五、二十六にこのことを約束なしたまいました。そうですからニコデモはそれを悟るはずでした。けれども彼はただ旧約聖書の儀文のみを知りて、未だこの真正ほんとうの霊の意味を悟りませなんだ。

十一〜十三節

 地の事は何でありまするかならば、新たに生まれることです。現世このよに行なわれて人間が見ることのできることです。今存在中に行なわれることです。天の事は何でありまするかならば、十四節にあるように十字架のことであります。ニコデモは如何いかでこの事あらんやと言いました。いま主はその理由わけを解きたまいます。どなたでも新たに生まれることは解る筈です。けれども主の贖罪あがないはなおなお深遠なる真理です。地の上に行なわれる新たに生まれることはどなたでも信ずることはできますが、天に関係ある主イエスの贖罪を悟る者は少のうございます。今でもこの事実を見ます。どなたでも新たに生まれることは信じますと思います。けれども十字架のこと、贖罪のことを信ずる者は少のうございます。どなたでも人間の心のけがれたることをわかります。人間の心は汚れておって、新しくならなければならぬことを了ります。けれどもいかにして新しくなることができますか。何によりて汚穢けがれきよめられることができますか。ただ十字架によりてのみ新しくなり得ることを悟る者は少のうございます。これは天にける真理です。なにゆえ天に属ける真理ですかならば、神の聖前みまえに行なわれる事績わざゆえです。神に捧げられたる贖罪であるからです。神を愎和やわらがせることであるからです。けれども主は柔和にニコデモに教えたまいました。主は柔和にこのことを私共に教えたまいます。主はなぜ人間の眼前めのまえに贖罪をなしたまいましたか。主は神の聖前に贖罪をなしたもう筈ではありませんか。なぜ十字架にけられて人間の眼前めのまえに贖罪をなしたまいましたか。これは人間にこの贖罪の成就できましたことを明らかに見せたまいたいからであります。またその贖罪の価値ねうちを明らかに示したまいたいからであります。主イエスは天のうちで御自分を捧げたまいまするならば、私共はその贖罪の価値ねうちわかりません。主が天にておのれを捧げたまいまするならば、私共はその犠牲いけにえを悟ることができません。したがって私共は主の御慈愛を了りませなんだ。そうですから地の上にて神と愎和やわらがすために贖罪をなしたまいました。けれどもどなたが十字架を説明することができますか。どなたが果たして十字架の深遠なる真理を説明することができますか。十三節のごとくただその人ばかりこの天に属けることを私共に説明することができます。

十四、十五節

 そうですからこれを説明するために主は旧約時代の談話はなしをなしたまいます。さきに一・五十一にほかの旧約時代の話をりて、我はヤコブの梯子はしごなりと言いたまいました。今またここに同じように、我は真鍮の蛇なりと言いたまいます。どうぞ旧約聖書に就いて主の教訓おしえを受けとうございます。主はかくのごとくさとりを啓いて私共に聖書を悟らしめたまいまするならば、旧約聖書は主イエスのことばかりです。我はヤコブのいどなり(四章)。我はまこと節筵いわいなり(五章)。かく旧約聖書は主イエスご自身のことを示します。福音書を読みまするならば、格別にヨハネ伝を見まするならば、旧約聖書の註解であると思います。毎章おのおの旧約聖書を説明してあると思います。そうですから天にける真理は新しきことではなく旧約時代の真理です。私共はエゼキエル書を読みて新たに生まれることを悟ることができます。民数記略を読みて主の贖罪しょくざいを悟ることができます。ヨハネ伝三章は新約聖書の中で最も大切なる真理中の一つです。けれどもただ旧約聖書の真理を説明したるだけであります。

 『モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない』。神の子は位を求めんがためにくだりたまいました。人間は如何いかなる位に主を挙げましたか。ただ十字架ばかりでした。けれども神の子はそれを受けて、順次だんだん万物をおのれに従わせたまいます。

 十四、十五両節にはただ罪の赦免ゆるしのみならず新しき性質を受ける道を見ます。これは新たに生まれることの真理です。ユダヤ人は蛇にまれました。蛇の毒を受けました。その毒が漸次だんだん身体に巡環まわりまして疼痛いたみが烈しくなり、まさに死なんとしております。ユダヤ人は罪の赦免ゆるしを得なければなりません。またそれのみならず、同時に身体からだからその毒をられなければなりません。当時、真鍮の蛇を仰ぎしために身体から蛇の毒をられました。私共も十字架によって罪の赦免ゆるしを得、神とやわらぐことができました。けれどもただにそれのみではありません。この十四、十五節はなおなお深遠なる真理を示します。私共は何によりてきよき心を頂戴することができますか、何によりて新しき性質を受けることができますか、いかにして生命いのちを得ることができますか。これ主がこの両節において私共に教えたもう真理です。私共は十字架によりてのみその恩寵めぐみを受けることができます。十字架に挙げられたまいたるものを仰ぐことによって、私共は心中の蛇の毒をられることができます。心の汚穢けがれ高慢たかぶり、我意、私欲などがすべてきよめられることができます。『ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。そうですからニコデモは自分は望みなき瀕死しぬるばかりの一箇の罪人つみびとなることを承諾しなければなりません。二節を見ますならば、彼はただ少しの教訓おしえを聴かんがために参りました。自分は神のものであると思っておりました。けれどもただいま主の教えたまいしことによって、おのれひくくして自分の真正ほんとうの模様を承諾しなければなりません。ニコデモは蛇に咬まれたる者であります。熱心なる学者パリサイびとは自分が憐れむべき罪人であることを白状いいあらわさなければなりません。何人どなたでも新たに生まれとうありまするならば、十字架の前に俯伏ひれふして、自己おのれの望みのなき憐れむべき模様を承知しなければなりません。如何なる学者でも如何なる熱心家でもこのことを承知いたしませねば、決して救いにることはできません。

 どうかここで主の伝道の方法しかたをご覧なさい。主はニコデモの心を刺したまいました。ただ彼がねがいたる教訓おしえのみならず、彼自身の真正ほんとうの模様を言いたまいました。ニコデモをして自己おのれは死ぬるべき罪人つみびとたる模様を悟らしめたまいました。どうかこの大いなる伝道者の方法しかたに従いとうございます。私共は罪人に、自分の罪人たる模様のみならず、望みのなき模様、蛇にまれて瀕死しぬるばかりなる模様を悟らせなければなりません。またそれがわかりますならば、罪人は喜んで十字架にけられたまいたる救い主を仰ぎます。

十 六 節

 ほかに救いの道はありません。人間ひと眼前めのまえに真鍮の蛇が挙げられなければなりません。人間ひと眼前めのまえ真正ほんとうの蛇が挙げられませんならば、他に人間ひとの癒される道はありません。けれども何人どなたが神の前に真正ほんとう贖罪あがないをなしたもうことができますか。何人どなたがそれほどの価値ねうちがありますか。ただ神のひとり子のみです。主イエスは私共わたくしどもを救わんがためにご自分を与えたまいました。けれどもただに独り子の犠牲いけにえのみではありません。なお驚くべきことは、神ご自身が独り子を賜うほどに私共を愛したもうことであります。子なる神はご自分を与えたまいました。けれども父なる神はなおなお価値ねうちある賜物を与えたまいました。ご自分ではありません。独り子でありました。ご自分を与えたもうことよりは独り子を与えたもうことは大いなる犠牲いけにえであると思います。神はただいま人間にんげんにどういう犠牲いけにえを求めたまいますか。神はご自分の愛したもう者を犠牲いけにえとして、天国の第一の宝を私共に供えたまいました。罪人つみびと自己おのれひくくして神の聖前みまえ俯伏ひれふして大いなる犠牲いけにえを供えるはずでした。けれども事実はちょうど反対でした。神は人間の前にご自分を卑くなしたもうて、独り子を犠牲いけにえとして復和やわらぎを成したまいました(コリント後書五・十九)。それによりて神の愛を見ませんか。人間は神の前に自己おのれを卑くする筈ですのに、反対に神は人間の前にご自分を卑くして、人間に祈りたもうことを見ます。神は独り子を十字架に挙げたまいました。罪をらざる者を私共の代わりに罪人となしたまいました。その時にユダヤびと眼前めのまえに如何なる形がありましたか。羔羊こひつじきよい供え物の形ではなく、自分の敵たる蛇の形を見ました。今それを説明します。神は罪を識らざる者を私共の代わりに罪人となしたまいました。私共は一方から十字架を見まするならば、神の聖き壇の上に神の聖き羔羊が献げられることを見ます。けれどもほかの方面より見まするならば、罪人の形を見ます。私共の敵たる蛇の形を見ます。これは深遠なる奥義です。神の独り子は罪人となりたまいました。神の独り子は蛇となって私共の心より蛇の毒を全くりたまいます。ユダヤ人は真鍮の蛇を仰ぐことにりて蛇の毒を全くられました。私共もユダヤ人のごとく十字架にけられたる罪人の形を見まするならば、私共の心より罪の毒は全くられます。十字架に釘けられたるおのれの形を見まするならば、己に死ぬることができます。信仰によって十字架に釘けられたるサタンの形を見まするならば、サタンの毒はみなられます。これは新たに生まれることの教旨おしえです。そうですからコリント後書五・十七のように古きは去ってみな新しくなります。これは福音ではありませんか。私共はかく新しくなることは福音ではありませんか。私共は哲学者によりて道徳を教えられます。けれども神の救いによって新たになることができます。

 ヨハネ伝三章十六節は神の与え得るすべてのものにして、かつ罪人つみびともとめ得るすべてのものです。神はそれよりも以上のものを与えたもうことはできません。罪人はそれよりも以上のものを要めることはできません。

十 七 節

 世をさばきたもうことは理にかなうことです。当然のことです。けれども神は審かんがためではなく、救わんがためにひとり子をくだしたまいました。これは怪しむべきことです。驚くべきことです。天の使つかいもそれほどのことはわからんと思います。神がこの世に独り子を遣わしたもうのは世を審くためと思いましょう。けれどもかえって世を救わんがために、独り子を遣わしたまいました。

十八、十九節

 いま何のために罪人つみびとが亡ぼされますかならば、ただ不信仰に由ってであります。ほかの罪はことごとく主イエスがあがないたまいました。けれどもそれを信じませんならば、これは罪のうちに最も大いなる罪です。人間は神に謀反しました。神はそれを赦すために愛をもってひとり子を遣わしたまいました。けれども人間はその独り子を断りまするならば、最早仕方がありません。そのためにその不信仰のためにさばかれなければなりません。ほかのことは赦されます。この不信仰は赦されません。罪人はなぜこれを信じませんか。ユダヤびとは真鍮の蛇の話を聞きました時に、喜んでそれを仰いで癒されました。神は今この世の中に真正ほんとうの蛇を挙げたまいますれば、人間は喜んでそれを仰ぐはずではありませんか。もし人間がこれを仰いでなお癒されませんようならば、これは真正ほんとうの癒しの道ではありませんでしょう。けれどもそういうことはありません。いま何人なんぴとでも癒されることができます。神は私共のために十字架の上に真鍮の蛇を挙げたまいました。これはすべて信ずる者に永生かぎりなきいのちを与えんがためです。けれども十九節をご覧なさい。人間はかえって蛇の毒を愛して癒されることを嫌い、神の大いなる恩恵めぐみを拒みますから、そのために罪に定められます。神はこの世の中に十字架を立てたまいました。神はけがれたる世の中に大いなる壇を築きたまいました。また壇の上に載せたるものは世の罪を全く除く犠牲いけにえであります。神と和らぐ犠牲であります。けれども人間はそれを信じませずして、却って神より遠ざかることを愛します。これは不信仰の根本こんぽんです。

二十、二十一節

 おお兄弟よ、この両節のうちいずれが私共を指しますか。私共は光を愛しますか、或いは暗きを愛しますか。時によってキリスト信者でも光を愛しません、まったき光を愛しません。私共は救われました。神の憐憫あわれみによって天国にることを得ました。けれども生涯の過失あやまちを照らし、自己の愛する罪悪つみの憎むべきことを知らしめる光をかえって憎みます。その光にきたりません。これをことわります。却って闇を愛します。おお私共はたびたびこの二十節のごとく光を愛せざることがありませんか。あなたは完き神の光を迎えますか。喜んでそれを受け入れますか。たとえば日々を送ることについては如何ですか。朝は何時に起きますか。金銭の使用はどうですか。如何いかなる働きを致しますか。そのほか何事においても喜んで神の愛を受け入れますか。神の光に照らされますか。どうか喜んで全くその光を受け入れたいものであります。その行為おこないことごとく神にれることを確信するに至りとうございます。

 主はさきに、人間の生来うまれつきは全く役に立ちませんから新たなる性質を受けなければならぬことを言いたまいましたが、本章一節より八節までは、新たに生まれることのために聖霊なる神の働きを見ます。九節より十五節まで子なる神の働きを見ます。十六、十七両節父なる神の働きを見ます。そうですから三位一体なる神はともに働きたもうて、私共は新たに生まれることができます。また十八節より二十一節までは、人間はいかにしてこの神の働きを受け入れるかを示してあります。

 新たに生まれることについて三位一体なる神が働きたもううちに、格別に父なる神の働きをご覧なさい。私共はたびたび十字架にりてひとり子の愛を見ます。けれどもどうぞ父なる神の愛を見とうございます。この二つのことを比べまするならば、比べることができますれば、かえって父なる神の愛が深いと思います。比べることは危険あぶないことです。けれども比べることができまするならば、独り子を与えたもうことはご自分を与えたもうことよりも難しいことであります。難船がありまして救船たすけぶねを出しまするときに、人々は亡びんとする者を救うために喜んで危険を冒し命を捨てて救船に乗り込みます。けれどもしばしばその人々の父母は、その子の乗り込むことを拒絶こばみます。これは自ら死ぬるよりも息子を死なせる方が堪え難いからであります。そうですから愛に充ちたる親がそれを許しまするならば、乗り込む息子よりはその親の方が大いなる犠牲いけにえを致しましたのです。神は私共を救わんがために生みたまえる独り子を賜いました。おおその愛を見ませんか。有名なるナイアガラ瀑布の近辺ほとりに、かつて米国の土人が多く住まいました。そのころ土人はこの瀑布たきを祭りて、毎年大いなる犠牲いけにえを献げます。その犠牲は土人のうちで最もうるわしき処女むすめ瀑布たきに献げることでありました。犠牲に当たりました時は、その処女を充分綺麗に飾って、小さい船に乗せて瀑布たきの上流の川に出します。その処女は川の流れにしたがうて順次だんだん瀑布に近づいて、ついに恐ろしき滝壺に落ちて死にました。毎年土人はくじを引いてその人を定めました。その鬮に当たりたる者は、如何なる人でも謝絶ことわることはできません。或る年その部落の酋長かしらの娘にその鬮が当たりました。その父は沈黙だまってそれを承知ききました。仕方がありませんから、一言をも言わずしてそれに従い、犠牲いけにえ準備よういを致しました。その時が参りますると娘に最も美わしい衣装を着せ、船をも立派に飾らせ、盛大さかんなる儀式をもってその船を川の流れに出しました。その時に父は娘の死ぬることを妨げることができません。けれども自分の愛する者とともに死ぬることはできますから、自己おのれほかの船に乗ってその娘のそばまで漕ぎ寄せ、ついに娘と共に瀑布たきに落ちて死んだことがありました。それによってその父の愛を見ることができます。またそれによって十六節の意味を幾分か悟ることができます。主イエスがご自分を与えたまいました時に、父なる神は独り子の傍でご自分をも与えたまいました。これはただ主イエスの犠牲のみならず、父なる神もその時にご自分を与えたまいました。どうぞそれによって神ご自身の愛を悟りとうございます。それを深く味わいまして神の私共各自めいめいに対する愛を知りとうございます。

二十二節

 そうですから主はヨハネとともに働きをなしたまいました。ヨハネは主の前にみちを備えんがために悔い改めのバプテスマを施しました。けれども未だ途が備わってありませんから、未だユダヤびとは主を受け入れませんから、主はなおなお続いて同じ準備そなえのバプテスマを施したまわねばなりません。

二十三〜二十八節

 三章の始めには主が如何いかにして罪人つみびとを導きたもうかを見ます。本節よりは伝道士たる者の性質と精神を見ます。私共には天より賜わる霊のみが価値ねうちがあります。ほかの事は少しも価値ねうちはありません。今ヨハネが弟子に答えましたことによって、真正ほんとうの伝道士の精神をご覧なさい。ヨハネは主の成功を見まして、これによって主は天より賜物を得たるものと思いました。少しも嫉忌ねたみはありませなんだ。私共は他の働き人の成功を見まするならば、同じように少しも嫉忌ねたみを抱かずして、かえってその人は必ず天より賜物を得ましたと考えまして感謝致しとうございます。

二十九、三十節

 ヨハネの申したる意味は何でありますか。新婦はなよめとはユダヤびとです。人間です。新郎はなむこ誰方どなたでありますかなればヨハネではなく主イエスです。ヨハネはただ新郎の朋友ともだちです。彼は新郎たるべき価値ねうちがありません。彼は人間の心に満足を与える力はありません。彼は人間の生命いのち、人間の能力ちからとなることはできません。彼は、ただ新郎の朋友です。新郎と新婦の間に立つ媒介者です。新婦を新郎に導く者です。それが成就できますのならば、新郎の朋友は退かなければなりません。私共の進退はこのヨハネのごとくあらねばなりません。私共は人々を満足あかしめることはできません。私共はただ新婦を新郎に導く者です。罪人つみびとを主イエスに照会する者です。もしそれを越えて自己おのれを高くしまするならば、かえって主の働きを妨げます。主を崇めて新婦を主に導かなければなりません。そうですから真正しんせいの牧師は自分の務めによって、漸次だんだん新婦を新郎に照会して、ついに自分の務めが要りませんようにならなければなりません。私共の務めは、人々をキリストのところへ携行つれゆきて、その人々がただキリストのみに仕えるようにすることです。真正の牧師の務めは、信者が独立してキリストに仕えるようになって、ついに自分を要さないようにすることです。もし私共が続いて必要でありますならば、私共の働きは完全まったきものではありません。

三十一節

 今ヨハネは弟子に主イエスと自己おのれの差を言います。その差は天地の差です。人々はヨハネは大いなる預言者であることをわかりました。けれどもヨハネは今、わたくしはただ地にける者、主イエスは天に属ける者にして、実に天地の差があることを申しました。ヨハネの弟子はヨハネの言葉を聴きてヨハネを崇めました。けれども主イエスの盛んになり、ヨハネの衰えることを見て、幾分か悪しき感情を抱いてねたむ心が起こりましたでしょう。けれどもヨハネにとっては主イエスの盛んなることは大いなる喜楽よろこびでした。

三十二〜三十六節

 ヨハネは主を崇めて、主は私のように地のことを語りたまわないと申しました。

 以上は大いなる証詞あかしでした。ヨハネは主を崇めて、
  第一 天よりきたる者(三十一
  第二 自ら天にて見たることを地上ちのうえに語る者(三十二
  第三 みたまを限りなく与えられたる者(三十四
  第四 万物をその手に授けられたる者(三十五
と申しました。これは大いなるあかしでした。

 また真正ほんとうの信仰は三十三節のごとく自分のいんをもって神は真なりと証することです。神のまことに対して自分のアーメンを言うことです。これは真正の信仰です。



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