第 十 八 章
十七章において、主イエスは、天の処において、私共のために、神に禱告したもうことを学びました。十八章においては、その天の処を降りて、十字架を負いたもうことを読みます。今まで父なる神と交わりて、親しく祈りたまいました。今からサタンと、サタンのような人間に対して、戦いたまわねばなりません。ちょうど変貌山から降りたまいました時に、悪魔と、悪魔に憑かれたる者に遇いたまいましたと同様です。
祭司の長が、ユダヤ人のために、贖罪をなす時に、まず至聖所に入りて、香を焚き、しかして後に民のために山羊を捧げました(レビ十六・十二、十五)。十七章において、私共の祭司の長は、至聖所に入りて、祈りの香を焚きたまいました。十八章において、民のために御自身を犠牲として献げたまいます。
私共は福音書の中には、主の経験と、その心状を見ることは少なくございます。けれども、詩篇を研究まするならば、主の経験と、その心状が充分に解ります。詩篇の言は、みな主によりて成就せられました。詩二十七篇は主の歌ではありませんか。殊に一〜六は、主の有様によく符合します。主はこのように主ヱホバに依り頼みて、敵に対いたまいました。多勢の敵が、四周に参りましても、恐怖がありません。この詩二十七・二は、ヨハネ十八・六と符合します。そうして同四節において主は昇天なしたもうことを俟ち望みたまいます。またその敵に勝利を得ることを確信して俟ち望みたまいます。これは実にこの時における、主の歌でした。私共は十字架を負うために参りまする時は、どうぞこの歌を謡うて、出とうございます。
主はこのケデロン川を再び渡りたもう筈ではありませんでした。主は王のごとく、エルサレムに上りたまいました。また人民は、大いなる表示をもってこれを歓迎いたしました。けれども、直ちに叛してこれを郤けましたから、今再び退いてケデロン川を渡りたまわねばなりません。サムエル後書十五・二十三を引照なさい。当時エルサレムは、叛して正統なる王を郤けましたから、王は退いてキデロン川を渡らなければなりませんでした。今そのように、エルサレムの正統なる王は、郤けられたまいましたから、退いて再びケデロン川を渡りたまわねばなりません。
そうですから、この処において、たびたび主の慈愛が顕れました。この処において、主はたびたびユダと、他の弟子を熱心に教訓したまいました。この処において、たびたび天国の談話がありました。この処において、ユダは他の弟子と共に、主の祈りたもうことを目撃いたしました。ここは実に聖別せられた処でありました。けれどもかのユダは、それをも懸念わず、この最も聖なる所に入りて、最も大いなる罪を犯しました。ユダは今まで大いなる特権がありました。すべての特権がありました。けれども、彼は主の慈愛と、主の言に自分を委ねませんから、心がやわらぎませずして、却りてなおなお頑固になりました。ユダはたびたび主の言を拒みました。彼の真正の性質は、今や漸く顕れて参りました。おお兄弟よ、私共はユダの躓きに警戒められまして、柔和なる心をもって、主の言を受け入れとうございます。必ずユダは、突然にこんな大罪を犯しませなんだ。平素主の言を受け入れませんから、漸次心が頑固になりまして、竟にはこの大いなる罪を犯すに到りました。
時は踰越の夜でしたから、満月でありました。けれども、主を罪人のごとく探すために、炬火と提灯を携えて参りました。黙示録十七・十四、十五をご覧なさい。サタンは諸国諸民を支配しましたから、羔と戦いました。その羔と戦うとは何でありますか。本節はその戦いでした。悪魔は悪魔に属ける武器をもって参りました。羔は何をも携たずして、彼らに対いたまいます。けれども、勝利を得たまいます。
『何もかも知っておられ』。十三・三の『悟り』と同じことです。主はこのことを悉く知りたまいました。そうですから、逃げとうありまするならば、逃げることができました。けれども、喜んでご自分の生命を捐てたまいます(十・十七、十八)。ロマの兵卒でも、ユダヤの祭司でも、主の生命を奪うことはできません。主は自らご自分の生命を捐てたまいました。
『わたしである』。これは実に尊貴き言でした。旧約のヱホバの名の意味は『我あり』です。いま主はここにおいて、その言をいいたまいました。(この『わたしである』とある原語にては、『我あり』、すなわちヱホバと同義なり)。彼らはこの厳かなる言を聞きましたる時に、退きて地に仆れました。ロマの兵卒でも、ただ主の一言を聞きました時に、退きて地に仆れました。そうですから、必ず主の生命を奪う者はありません。黙示録一・十六、十七を対照なさい。主イエスはこれより後、幾分かご自分の栄光を示したまいました時に同じことがありました。このようにただいま栄光の主は、幾分かその栄光を示したまいましたから、主を捕らえんと思うたる兵卒は、退きて地に仆れました。列王紀下一章にも同じ力を見ます。王はエリヤを捕らえんがために、兵卒を遣わしました。けれども、兵卒はエリヤを捕らうることはできませなんだ。エリヤを捕らえんとして、悉く火に焚かれました。けれども、エリヤは喜んで自分を兵卒の手に委ねました時に、初めて王の前に出ました(列王紀下一・十五)。いま主イエスも、ご自分を兵卒の手に委ねたまいませんならば、彼らは必ず主を捕らうることはできません。
『かれら退きて地に仆たり』(詩篇九・三、二十七・二、四十・十四)。
弟子を守るためにご自分を捐てたまいました。
主はただ一、二時間以前に、それを言いたまいました。けれども、主の言は聖書の言のごとく、成就せられなければなりません。主は善き牧者であります。いま狼が参りましたから、ご自分を捐てて、その羊を救いたまいます。私共はこのことによりて、主の犠牲を見ます。これは主が後に羊のために生命を捐てたもうことの小さき雛形です(エペソ書五・二十五、出エジプト記十四・十九)。いま主は弟子と、敵との間に立ちて、弟子を救うために、ご自分を捐てたまいます。
ペテロは剣をもって、神の子を護りとうございます。実に愚かなることです。神の使者なる主は、ペテロの剣を要しません。私共も度々かくのごとく、肉に属けるものをもって、主イエス、或いはこの教えを守ろうと思います。けれども、主はこんなことを求いたまいません。主は肉に属ける勇気を願いたまいません。主は自ら自分を守りたもうことができます。もしペテロのごとく、主のために肉に属ける勇気を出しまするならば、啻に無益なるのみではありません。却りて主イエスの働きを妨げます。
コリント後書十・三、四をご覧なさい。憶うにペテロは、真心をもってこんなことを致しました。またこれによりて、自分の忠実と、愛を示しました。自分は喜んで主イエスのために、生命を捐てる者なることを示しました。けれども、ペテロの心中の悟りは、未だ浅くございました。ペテロの愛と、献身は、誠に美しくありました。けれども、未だ真実に主の栄光を見ませなんだ。不信仰にも自分の勇気をもって、主のために戦わんと思いました。ここで主イエスと、ペテロとを比較なさい。主は祈りたまいました時に、ペテロは眠りておりました。主は自己を捐てたまいました時に、ペテロは戦いました。後に主は勇気をもって証したもうたる時に、ペテロは臆病にも主を識らずと申しました。主は霊において歩みたまいました。ペテロは肉によりて歩みました。
『父がお与えになった杯は、飲むべきではないか』。主は信仰をもって、これは神より与えられたる杯なることを知りたまいました。主は人間の手より、この迫害と、戦いを受けるのみではなく、父なる神がこれを許したまいましたから、父の手より賜うたものなることを信じたまいました。これは主が勝利の秘訣でした。私共は人間より迫害や、戦いを受けまするならば、これは人間の手より受けるにあらずして、父の手より賜うたるものなることを信じ、『父がお与えになった杯は、飲むべきではないか』という精神をもって、どうぞ柔和にそれを受け入れとうございます。
そうですから、兵卒は勝利を得ましたか、決してそうではありません。この十八、十九両章を見まするならば、主イエスが断えず勝利を得たまいましたことを知ります。ただいま主は兵卒に勝利を得たまいました。これより進みて、祭司長にも、ピラトにも、サタンにも、勝利を得たまいます。この両章において、勝利を得たる者は、何人ですかならば、主イエスです。またこの時に神の栄光が輝きました。主はこのとき火の消えたることは毫もありません。迫害の中にも、苦痛の際にも、断えず神なる栄光が輝きました。例えば、ただいま読みました主の言をご覧なさい。六節において、主の威厳(majesty)を見ます。八節において、主の平安(peace)を見ます。主はこの時にも、毫も心が慌ぎません。平安がありました。また同じ八節において、主の犠牲(sacrifice)を見ます。十一節において、主の服従(dependance)を見ます。実に神たる栄光が輝きておるではありませんか。ユダを比べてご覧なさい。ユダは頑固なる心をもって、憎悪と怨恨とをもって、主と戦いました。多勢の兵卒と、武器を携えて、一人の主に戦いました。けれども、彼は負けました。或いはペテロを比べてご覧なさい。彼は赤心をもって主を愛し、また主に従いとうございました。けれども、未だ主の栄光を見ませんから、無益なることを致しました。却りてそれによりて、自分の薄弱なることを示しました。けれども、主イエスは、この時にも断えず、威厳をもっていたまいました(ヘブル十二・三)。
『イエスを捕らえて縛り』。その手は嘗て風と浪を治めたもうたる手であります。嘗て死者を甦らせ、癩病を癒し悪鬼を追い出したもうたる手であります。今や敵の手に渡され、繋がれて曳き往かれたまいます。いま力のない有様にて、敵の手に売されたもうたと見えます。けれども、真実はそうではありません。いま主イエスの生命を奪う者はありません。ご自分が捐てたまいませんならば、他より奪うことはできません。この縛ることについて、士師記十五・十四を参照なさい。主はいま悪魔の手に売されて繋がれたまいました。けれども、これはただ暫しの間でした。三日の後に、綱と足枷を破りて復活たまいました。全く悪魔の鍵を火に焚くる麻のごとく破りて、復活たまいました。サムエル前書四・十一をご覧なさい。その時に神の櫃は、エリの家の罪のために、敵の手に渡されました。その櫃は神の在したもうことを表すものでした。そのとき誰もこれを護る者なく、力なきものの如くに、敵の手に渡りました。けれども、敵はそれを奈何ともすることはできませなんだ。敵の手に渡されたる神の櫃は、却りてイスラエル人に勝ちを与えました。いま主イエスも、弱きもののごとく、護られざるもののごとく、敵の手に売されたまいます。けれども、敵は神の聖子を亡ぼすことはできません。神の櫃なる主イエスは、漸く勝利を得たもうて、敵に亡ぼされずして、却りて敵を亡ぼしたまいました。
主は七度審判かれたまいました。
第一 アンナスの前において(ヨハネ十八・十三)
第二 カヤパの前において(ヨハネ十八・二十四、マルコ十四・五十三)
第三 ユダヤの長老の前において(マタイ二十七・一、マルコ十五・一、ルカ二十二・六十六)
この三つの審判はユダヤ人の審判でした。以下ロマ人の審判があります。
第四 ピラトの前において(ルカ二十三・一)。これは私なる審問でした。
第五 ヘロデの前において(ルカ二十三・七)
第六 ピラトの前において(ルカ二十三・十一)
第七 ピラトの前において(ヨハネ十九・十三)
これはピラトがガバタの審判の座に坐りて、鞫きたる、最も厳粛なる審判でした。
もう一度十二、十三をご覧なさい、いまイエスの苦しみが始まります。サタンの力が顕れます。今この世の主が近づきまして、主はその手に売されたまいます(十四・三十)。これは黒暗の勢いです(ルカ二十二・五十三)。昔よりサタンは、救い主に傷つけるように預言せられました(創世記三・十五)。今その預言が成就せられます。ヨブは暫くサタンの勢いの下にありました。サタンはヨブに種々の難苦を与えました。けれども、その時にサタンの力は、限られました(ヨブ一・十二、二・六)。神はヨブをサタンの手に委ねたまいました。けれども、サタンの力は限られました。いまサタンは、自分の心に従うて、主を取り扱うことができます。自分の心の儘に、主を試むることができます。けれども、主のこの杯はやはり父より与えられたる杯であります。神は預めこのことを計画なしたまいました。また悉く旧約においてそれを録さしめたまいました。
今までサタンは、主に種々の難苦や、誘惑を与えました。主は喜んでそれを堪え忍びたまいました。それは父の聖顔の栄光の中に、そのような戦いに会いたまいましたからであります。けれども、今から父に詛われて、サタンの戦いに会いたまわねばなりません。これは恐ろしきことです。父の恩の下に、その戦いに会うことは、或いは喜んで堪え忍ぶことができましょう。けれども、最も苦しきことは、父より捨てられて、単身敵に会うことであります。
そうですから、カヤパは不公平なる者でありました。彼は公平をもって審判きません。彼は最早審判を定めました。またこの十四節を見まするならば、カヤパは主の奇しき事跡を明らかに聞きておりました。彼はラザロの甦りについて、詳しく聞きておりました。けれども、なお信じません。主がラザロに生命を与えたるもうたることを知りつつ、なお主を殺そうと謀ります。彼はこのように頑固なる罪人であります。
『中庭に入った』。これは実に大胆のことであります。この二人は、大胆に主に従いました。ペテロはもはや十字架の道を歩み始めました。けれども、全くそれを歩み終わる力がありませなんだ。いったん主と共に歩みました。けれども、後に戦いのために退きました。
この二人は、遠く離れて、主に従いました。遠く離れて、主に従うことは、いつでも危険であります。私共は主と共におり、主と共に十字架を負いまするならば、大丈夫です。けれども、主と交わりませずして、遠く離れて従うことは、危険なることであります。またこの二人は、幾分か主に従いました。けれども、主の聖旨を解ることができませなんだ。主に同情を表することができませなんだ。主はゲツセマネの園の中に、その同情を願いたまいました。けれども、この二人は、その時にも同情することができませなんだ。また主はここで単身戦いに出でたまわねばなりません。一人も共に行く者はありません(イザヤ六十三・三、五;五十九・十六;詩篇六十九・二十)。この終わりの引照によりて、主は慰むる者を求めたまいましたことを悟ります。これは実に考うべきことであります。主は慰める者を求めたまいました。主は真正の人間であります。ご自分に憐憫を施す者を願いたまいました。けれども、一人だにありませなんだ。一人として慰める者はなく、極めて淋しく戦いに出でたまいました。
『ペテロは門の外に立っていた』。彼処に立つことは実に危うくございます。主と共に敵の中に立ちまするならば、いつも大胆に証せなければなりません。私共も初めから、主を証しませんならば、たぶんペテロのごとく、失敗しましょう。詩篇一・一を引照なさい。今ペテロは、危うき処に立ちました。もしこの時にペテロが勇気をもって、初めから、主の弟子であることを証しましたならば、別に仔細はありません。けれども、そのままで弟子たることを隠していることは、実に危うくございます。
主はその教えたまいしごとく、悪に敵したまいません(マタイ五・三十九、ペテロ前書二・十九〜二十五)。
ペテロは、前に佯りましたから、このたびは自ら警戒めそうなものでした。けれども、続いてその危うき処に立っております。
その鶏は、時刻を報ずるために、ローマの兵卒が、吹くラッパでありました。そのラッパの音を鶏鳴と申しました。
今までユダヤ人は、主を審判きました。今またこれを曳きて、ロマ人の前に往きます。ロマの権勢の下に、主を渡します。どうぞ深くこのことを考えとうございます。ユダヤ人は、長年救い主を待ち望みておりました。今その救い主が来りたまいました。自分の思いに過えたる救い主が来りたまいました。けれども、ユダヤ人の長老は、その救い主を繫りて異邦人の前に曳き往きます。そして如何なることを願いますかならば、その救い主の殺されることであります。これは実に怪しむべきことではありませんか。このユダヤ人は、何のためにかかることをしましたかならば、自分の頑固なる思想に相違せる救い主でありましたからです。このユダヤ人は、権勢をもって来る救い主は待ち望みました。けれども、謙遜をもって来る救い主を辞りました。ユダヤ人は、自分に権勢を与える救い主を願いました。けれども、自分の罪を認め、罪より救う救い主を辞りました。ユダヤ人は、救われるために、己を卑くせなければなりません。けれども、己を卑くすることはできませなんだ。神はユダヤ人を救わんがために、ご自分の聖旨の愛に従うて、救い主を降したまいました。神は独り子を与えたもうほどに、ユダヤ人を愛したまいました。けれども、ユダヤ人はこんな救い主を拒みます。おお私共も、同じ罪を犯したことはありませんか。私共は神の救い主を待ち望みました。ユダヤ人のごとく、神の救いの約束を待ち望みました。けれども、その救いが現れました時に、それを得るためには、己を卑くせなければなりませんからそれを辞りたることはありませんか。この救いによりて、大いなる感動を与えられ、大いなる栄光を得るならんと予期するに反して、却りて罪を感じ、己を卑くせなければなりませんために、ちょうどこのユダヤ人のごとく、そんな救いを辞りたることはありませんか。
またそのために、神の目的が妨げられましたかならば、決してそうではありません。これは実に奇しきことです。却りてこの罪によりて、神の恩寵は、なおなお明らかに顕れました。ユダヤ人は、神の救いを辞りました。けれども、却りてそれによりて、神の慈愛と、恩寵は、多くの人々に顕れました。ユダヤ人も、異邦人も、心を合わせて、主を審判きます。けれども、怪しむべきかな。この罪によりて、神はユダヤ人を、異邦人を、ご自分に連ねたまいます。またユダヤ人と、異邦人を一つに合わしたまいます。どうぞこれによりて、愛の勝利をご覧なさい。神がこの時に、罪人の最も大いなる罪に勝ちたもうたる、愛の勝利をご覧なさい。
二十八節から、人間の恐ろしい憎悪が顕れます。またそれに対する神の完全なる愛が顕れます。神に対する人間の憎悪が顕れますならば、それほど神の愛の深さ、高さ、長さ、濶さが顕れます。
『総督官邸に連れて行った』。その時にただ主御一人その公庁の中に入りたまいました。『彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである』。実に偽善でした。けれども、今までたびたび同じ偽善がありました。宗教の儀式に従うために、神の愛の律法を犯しましたことを、たびたび見ます。
主は十字架に釘けられることを預言したまいました。ユダヤ人は、たびたび石にて人々を殺しました。それはローマの法律に反することでしたが、彼らはたびたびこんな死罪を執行いました。主は十字架に釘けられることを預言したまいました。十字架に釘けられることは、第一に大いなる恥辱でした。十字架に釘けられる者は、神より詛われたる者でした。十字架に釘けられることは、神に詛われたる表号でした(申命記二十一・二十三)。そうですから、主は神の制定に従いたもうて、他の死よりも、この死を忍びたまわねばなりません。また他の理由もあります。すなわち啻にユダヤ人のみではなく、全世界の罪人の代理人が主を殺しました。ユダヤ人が石にて主を殺しましたならば、それはただユダヤ人の罪のみでした。けれども、その他にロマ人も、心を合わして、主を殺しました。ロマ人は全世界の異邦人の代理でした。そうですから、異邦人も、ユダヤ人も、心を合わして、主の死罪を執行いました。
主はピラトの心を見透したまいました。また幾分か彼が心の中に、真理を求むる冀望があることを見たまいましたと思います。主は何故ピラトに向かって、この言を仰せたまいましたかならば、ピラトをして、「自分はそれを解りたい」と言い顕さしめたまいとうありましたからです。けれどもピラトは三十五節のごとく、自分の本心を隠します。
『おまえの同胞や祭司長たちが、おまえをわたしに引き渡したのだ』。これは実に主の苦痛でした。ユダヤは主が愛したもうたる国でした。主は、その国のために天より降りたまいました。その国民が主を解したることは、実に主の苦痛でした。ご自分の民より捨てられたもうたることは、主の苦痛悲歎でした(一・十一)。
『いったい何をしたのか』。主のなしたもうたることは、使徒十・三十八において解ります。
主は続いてピラトの心を刺し透したまいとうございます。主は祭司の長の前に、沈黙していたまいました。けれども、ピラトに幾分か光を与えたまいました。今なおピラトを救いたまいとうございます。今なおピラトの良心を刺したまいとうございます。黙示録十七・十四を対照して、主の有様をご覧なさい。
主は極めて厳粛に、極めて静かに、『真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』と言いたまいました時に、ピラトは良心を刺される筈でした。けれども、彼はその良心を鈍くし、この言を聞きませずして、愚かにも『真理とは何か』と答えて、主を去りました。
『真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』について八・四十七、十・二十七、十四・六、十七・十七を参照なさい。
これは無罪の宣告でした。主はロマの厳重なる台前に立ちたまいましたが、罪なき者と審判かれたまいました(出エジプト記十二・五、三十九)。
ピラトの不公平を見ます。主が無罪ですならば、直ちに主を赦さなければなりません。
今でも人間の前に、主を宣べ伝えまする時に、衆人は主イエスにあらずして、バラバを受けとうございます。神よりも、却って悪魔を受けとうございます。主を捨てて喜んで盗賊を受けとうございます。
いま主とバラバを比べますれば、
主 第一 聖なる者(使徒三・十四)
第二 恩寵を与うる者(マタイ十一・二十八)
第三 平安を来す者(ルカ一・七十九、二・十四)
第四 生命を与うる者(ヨハネ十・十)
バラバ 第一 有名なる囚人(マタイ二十七・十六)
第二 盗賊(ヨハネ十八・四十)
第三 騒動を来す者(マルコ十五・七)
第四 殺す者(悪魔)(ヨハネ八・四十四、ルカ二十三・十九)
けれども、キリストを捨ててサタンを択びます。
またその日は、如何なる日でしたかならば、バラバと、他の二人の罪人は、十字架に釘けられなければならぬ日でした。またこの三人のために、三つの十字架が備えられてありました。けれども、ちょうど処刑の際に、急にバラバが赦されまして、主はその代わりに十字架に釘けられたまいました。バラバのために、備えられたる十字架は、いまやキリストのために、使用られます。そうですから、バラバは、その日に自由を得ました。バラバがその日に十字架に釘けられましたならば、真ん中の十字架に釘けられる筈でした。けれども、身代わりがありましたから、彼は全く自由を得ました。
私共は罪人でした。けれども、主は私共の受くべき報いを受けたまいました。私共は亡びの刑罰を受くべき者でした。けれども、主イエスは私共の身代わりとなりて、その刑罰を受けたまいました。主は私共のために備えられたる十字架に上りたまいました。そうですから、主は死と罰を受けたもうて、私共は生命と自由を得ます。
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