第 九 章
八・五十九のごとく、主イエスはこの時ユダヤ人の迫害を逃れたもう危険き場合です。けれども心が慌てたのではありません。その危険き場合にも心の中には平安がありました。静かに行きたもうて生来なる瞽をご覧なさいました。そうして自分の危険を忘れて、この瞽を癒したまいとうございます。これは福祉ではありませんか。主はいま殿より逃れたまいます。けれども救いを願う者のために留まりたまいます。
『生まれつき目の見えない人』。主はこの人をもって八章の教えを説明したまいます。ユダヤ人は生来なる瞽でありました。心の眼が開かれませなんだ。そうですから、耳で神の教えを聞くことはできましたが、眼にて明らかに見ることはできません。また何人でも生来は瞽です。心の眼が開かれませんならば、主の栄光を見ることはできません。私共は見ることに由りて物を弁別します。自分の心の中に弁別することができます。他人の意見に従うことは要りません。心の瞽は他人の意見を貰わねばなりません。また光と闇を区別することはできません。神の言を弁別することはできません。却って悪魔の言を信じます。けれども主はその瞽の眼を開きたまいます。
神の作為はユダヤ人に由りて顕れる筈でした。けれども八章に見ましたように、ユダヤ人は神の権能を拒みました。そうですからユダヤ人に由りて神の作為は顕れません。今この瞽によって神の作為が顕れます。兄弟よ、私共はたびたび自分の喜楽のために神の恩恵を求めます。けれどもこれは実に卑しき懇求です。主は私共によって神の作為の顕れんがために、私共に恩恵を与えたまいとうございます。私共に由りて神の栄光の顕れんがために、光を与えたまいとうございます。私共はただ自分の喜楽のために、恩恵を求めますならば受け入れられんかも知れません。けれども十字架を負うために、神の栄光を顕すために、罪人を導くために、それを求めまするならば、神は私共に由りてご自分の栄光の顕れんがために、それを与えたまいます。
昼はすなわちこの世におる間です。夜はすなわち死後のことです。主イエスは神より昼を与えられたまいました。すなわち働く折を与えられたまいました。また働きのために光を与えられたまいました。私共各自にも働く折とそのために光が与えられました。そうですから昼の中に怠りなく主の作為を行わねばなりません。十一・九にも『昼間は十二時間あるではないか』と言いたまいます。この一日とは一生涯のことです。そうして十二時とは充分なる折という意です。人間の生涯には必ず十二時があります。主の生涯にも途中で屠られたまいました。けれども十二時があって充分なる折を与えられたまいましたに相違がありません。
そうですから世におるうちに必ず光を放ちたまわねばなりません。
この瞽はその恩を求めません。けれども主は溢るるほどの慈愛をもって、この恩を与えたまいます。主はまたその瞽の信仰を試みたまいます。『シロアムの池に行って洗いなさい』と命令をもって信仰を試みたまいます。主はこの瞽をご自分より遠ざからしめたまいます。この瞽は形あるキリストを見ましたならば、たぶん肉に属ける信仰があったかも知れません。けれども独り静かにシロアムの池に行く途中において、真正の信仰が起こりました。シロアムの池にて眼が開かれました時には、霊に属ける信仰がありました。けれども六節における主の働きの最初の結果は何でありますか。その瞽は塗られた泥に由りて、眼がなおなお暗くなりました。三十九節をご覧なさい。主がこの世に来りたまいたる結果も同じようであります。『見える者は見えないようになる』。瞽は主の来りたまいしことに由りて、なおなお暗くなりました。けれども七節をご覧なさい。『シロアム──「遣わされた者」という意味』。そうですからここには深い霊の意味があります。主はヨハネ伝の中に四十一度遣わされし者なることを言いたまいました。そうですからこのシロアムの池は主の型であることを見ます。主は四章において飲むための水を与え、本章においては洗うための水を与えたまいます。その水の中で洗いまするならば、眼が開かれて光を得ます。このシロアムについてイザヤ書八・六をご覧なさい。やはり同じことです。主は静かに流れる川のようなものでありました。けれどもユダヤ人はそれを捨てて、却って眼の前に輝くものを求いました。この瞽は静かに流れる川のような主を慕いました。主を信じました。またシロアムの義を覚えて、主は遣わされし者なることを信じました。そうですから光を得ました。その時何人でも主は遣わされし者であることを信じて、真実のシロアムの池すなわち主の足下に往きましたならば、必ず眼見ることを得て帰ることができましたでしょう。『目が見えるようになって』。これは実に喜ばしいことではありませんか。今までこの瞽は眼見ることを得るは、神の第一の恩であると信じました。今それを得ましたから、必ず感謝と喜楽に充たされました。いま初めて美しいことを見ることができました。初めて遠いところまで見ることができました。神はこの人に心の懇求を与えたまいました。けれども三十七節になおなお大いなる恩を与えたまいました。この人は眼見ることを得ただけでは、真実の満足を得たのではありません。けれども三十七節の心の眼見ることを得ましたことに由りて、真実の満足を得ました。神はその人の祈りよりも優りたる恩を与えたまいました。ただ身体の眼ばかりではなく、心の眼にも光を与えたまいました。
けれども主は何故すぐに三十七節の恵みを与えたまいませんか。この瞽が視力を得て帰りし時に、主は何故すぐにご自分の神の子なることを顕したまいませんか。その時にはたぶんそんな大いなる真理を受け入れる心の支度ができませなんだでしょう。その支度として迫害を受けねばなりません。人間に捨てられ追い出されまするならば、必ず和らかになりましてなおなお大いなる真理を受け入れます。主は私共の善き牧者です。私共は主に養われますならば、必ず好き機会に新しき光を得ましょう。このことによって神学を学ぶこと、或いは神学校の危険いことが解ると思います。たびたび好き機会でありません時に、深い真理を学びます。未だ心の支度ができません中に、深い真理を学びますから、却って信仰の害となります。
この人々は何故神に感謝しませんか。そうせずに却ってこの瞽なりし者に問いを起し、それについて批評致しとうございました。ルカ十八・四十三をご覧なさい。『これを見た民衆は、こぞって神を讃美した』。その時には大いなる感謝会が起こりました。けれども今はただこのことを批評致しました。
たぶん悪しき思想をもって、パリサイ人の足下に携詣りました。パリサイ人はいま神の子の事跡を審きます。これは恐ろしきことではありませんか。この事跡を見れば明らかに神の権能の徴証であることを認めて感謝する筈でした。けれどもこのパリサイ人はそうしませずして、却って台前に坐りて、神の聖子と神の聖子の事跡を審きます。今でもそれを見ませんか。人間は高慢まして、主と主の事跡を審くものはありませんか。己を高くして自分は主の事跡を批評する価値のある者と思いまして、主を審くものはありませんか。一・五のように光は暗の中に輝きました。けれども暗はそれを認めませなんだ。このパリサイ人は実に瞽でありました。この癒されたる人のもとの瞽たりし時よりも、なおなお闇に迷える瞽でありました。神は明らかに休徴を与えたまいました。けれども偏頗なる心のために、この人々はそれを見ることはできません。主は八章においてこの人々の前に、明らかなる言を言いたまいました。またそのことを確かめるために本章において明らかなる作為を為したまいました。けれども偏頗なる者は瞽でありますから、それを見ることはできません。却って自分の闇に従いてそれを審判しようと思います。私共はパリサイ人を責めますとも、何の利益もありません。却って自分の高慢を起します。けれどもこの人々の手本に従うて、誡めを受けとうございます。私共の心中にこの人々のような精神がありまするならば、同じように神と神の事跡を見ることはできません。この人々は外面では神に従うておりました。私共のように神の真理を得たる者でありました。けれども心中に偏頗がありましたから、活ける神の活ける事跡を見ることができませなんだ。兄弟よ、どうぞこれによって誡めを受けとうございます。私共はただ神の真理を得まするならば得まするほど、パリサイ人のようになります。どうぞ真理よりも活ける者を受け入れとうございます。私共はただ真理を慕い神学を慕いまするならば、パリサイ人のようになります。けれども真理の源なる活ける神を慕いまするならば、主の真正の弟子となります。
そうですからこのパリサイ人は主の事跡を審きます。この瞽なりし人は自分の両親に捨てられました。両親でもこの人を救けません。ちょうどこの人は『わが父母われをすつるともヱホバわれを迎へたまはん』(詩二十七・十)の真理を経験しました。彼の父母は彼を捨てました。けれども主イエスは彼を迎えたまいました。
これはただ会堂より追い出されるのみならず、そのために名誉を全く失います。そのためにユダヤ人の社会より追い出され、何人よりも藐視ぜられます。実に恐ろしきことです。会堂より追い出されるならば、税吏のようなものとなります。けれどもヘブル十三・十三をご覧なさい。『だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか』。この人は愛する両親に捨てられ、宗教の首領に捨てられましたが、主を信ずる信仰を抱きました。
『榮を神に歸せよ』。これについてヨシュア七・十九をご覧なさい。『イスラエルの神ヱホバに稱讃を歸し 之にむかひて懺悔し汝の爲たる事を我に告よ 其事を我に隱すなかれ』。ヨシュアはアカンの誑が解りましたから、かく申しました。パリサイ人が瞽に向かいて『榮を神に歸せよ』と申しました意味はちょうど同じことです。汝は誑れる者ゆえに懺悔せよ、隠さずしていま事実を吐けよという意です。けれどもこの瞽は勇気をもって証します。
真実の証です。いま自分の身に頂戴せる恩恵を明らかに証します。
三十節の意味はこうです。『此は奇き事なり』。神が恩をもってわたしの眼を開きたもうたとは、あまり怪しむべきことではありません。神が私共の真中に在したもうことの休徵を与えたもうことは、あまり怪しむべきではありません。けれども怪しむべきことは神がこの明らかなる休徵を与えたまいますのに、人間はそれを信じませんことです。あなたがたの信じませんことは実に怪しむべきことです。
視力のような神につける恩賜を与えたもう御方は、神より来りたまえる者に相違ありません。
このパリサイ人は恩の折を失いました。この瞽に由りて神に属ける光を得られました。けれども却ってそれを拒みました。このパリサイ人の眼前に、キリストの奇しき力の証がありました。またその耳の中にキリストの明らかなる証がありました。この瞽は喜びで一切を捨てて主に従いました。会堂より追い出されましても、主に従う決心がありました。パリサイ人はその証を聞きましたのに、なお信じません。神はこのパリサイ人に、ご自分の使者を遣わしたまいました。けれども却ってそれを賤しめ、会堂より追い出しました。かくて神の恩をも追い出しました。パリサイ人はこの人を会堂より追い出すと同時に、自分の心中より神の恩をも追い出しました。
エゼキエル三十四・四はイスラエルの牧者に向かいて言われたる言です。ゼカリヤ十一・五もご覧なさい。いまパリサイ人はちょうどこのように神の羊を取り扱います。けれどもこの人が追い出されました時に、主がこの人を尋ねたまいます。
人間に追い出されました。けれども神の子に追い求められました。主はこの羊に耐え難き重荷を負わせたまいません。主はその迫害があまり強くなる時に、御自分を顕すことによってその人を慰めたまいます。主は迫害を治めたまいません。けれども迫害の中に溢れる安慰と恩を与えたまいます。
この人は弟子の心がありました。喜んで教えを受ける心がありました。パリサイ人の心とちょうど反対でした。
七節において主は身体の眼を開きたまいました。三十七節において心の眼を開きたまいました。七節においてこの人は神の大いなる恩賜を得ました。三十七節においてその恩賜を与える御方を得ました。前には恩賜(gift)を受けました。後には恩賜を与える与え主(giver)を受けました。
私共は神の恩賜だけで満足を得まするならば、神を知ることはできません。このパリサイ人をご覧なさい。種々なる神の恩賜を得ました。神の真理、旧約における神の導きなどの恩賜を得ました。けれどもそれに満足して、神自身を断りました。いま教会の中にもかくのごときパリサイ人を多く見ると思います。神の恩賜なる真理礼拝等にて満足を得ます。そうしてその恩賜の与え主を断ります。どうぞ心中に恩賜だけではなく、その与え主をも受け入れとうございます。
『拜せり』。主はそれを拒みたまいません。使徒十・二十六にコルネリオがペテロを拝しました時に、ペテロはそれを拒みました。黙示録二十二・八、九を見まするならば、ヨハネが天使を拝しました時に、天使はそれを拒みました。けれどもいま主はそれを受け入れたまいました。それに由りて主は真実に神たることが解ります。出エジプト記三十四・十四をご覧なさい、『汝は他の神を拜むべからず 其はヱホバはその名を嫉妒と言て嫉妒神なればなり』。けれども主はその拝することを受け入れたまいました。それによって主イエスは真実に神なることを見ます。
人間を分つために来りたまいました。未来において主が審判きたもう時に、人々を或いは左の方、或いは右の方へ分けたまいます。今でも『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』。黙示録二章・三章において、主は教会を審きたまいます。黙示録三・十七において瞽は自分の瞽なることが解りません。同十八の終わりに『見ることを得んが爲に眼藥を買て目にぬれ』とあります。これは九・六と似ております。そうですからキリストの光に由りて或いは光を得ます。或いはなおなお瞽となります。主の光は或る人には照らします。また或る人には暗くします。エレミヤ十三・十五、十六をご覧なさい。ヱホバが語りたもう時に、私共はそれを聞きませんならば、『ヱホバ之を死の蔭に變へ之を昏黑となしたまふにいたらん』。神は信ずる者には光を与えたまいます。信ぜざる者には闇を与えたまいます。戦慄るべきことです。神は自分は知ると思う者に闇を与えたまいます。神は自分はいまだ知らずと思う者に光を与えたまいます。或る人は神学の光があるゆえに、または世に属ける智慧があるゆえに、自分は見えると思います。けれども大いなる過失です。己を欺くことです。或る人は自分の瞽たることを知りまして、天の光を慕います。主は人間の心を判断するために世に臨りたまいました。人間を審くために臨りたまいました。光を慕う者には光を与え、光を拒む者には闇を与えたまいます。世に属ける土をその拒む者の眼に塗って、なおなお暗くなしたまいます。神は私共の心をも探りたまいます。兄弟よ、あなたがたは自分は見えると思いますか。自分は知ると思いますか。他の人々を教える価値があると思いますか。或いはまた自分の瞽なることを知りまして、神の光を慕いますか。喜んで神の聖声を聞き、謙遜して主の恩恵を俟ち望みますか。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
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