第 二 十 章 



 二十章において、イザヤ四十五・一、二が成就せられました。あかがねの門がこぼたれ、くろがね関木かんのきが断たれました。しゅイエスの前に死と地獄の門は砕かれました。ここで主は永眠ねむりたる者の復活よみがえりの始めとなりたまいました。その始めの者がよみがえりたまいましたから、私共わたくしどもは皆復活よみがえりあずかることができます。

一、二節

 ただマリヤの不信仰が主を取り去りましたのです。マリヤは主のことばを信じましたならば、主の復活よみがえりたもうことを悟りまして、今かく悲歎に沈みませなんだでしょう。ただマリヤの不信仰が主を取り去りました。私共ももし主を失いまするならば、それはただ私共の不信仰によりてであります。これに反する言はローマ八・三十五〜三十九であります。私共はその凱歌をうたうことができますか。マリヤは現在の苦しみのために主を離れました。

三〜七節

 そうですから、必ず人間がしかばねを盗んだのではありません。

八〜十節

 ペテロもヨハネもそれがわかりません。この二人は主と最も親密なる交際をしておりました。かの変貌山すがたかわりのやまにおいても主の栄光を見ました。けれどもいまだ主のことばを信じませんから、復活よみがえりたもうたることを知ることができません。

十 一 節

 マリヤはそれだけにて満足ができません。彼女は主を見とうございます。ただ裸なる信仰だけにては満足ができません。いま熱心に求めますならば与えられます。

 主は復活よみがえりたまいました時に、最初に何人なんぴとにご自分を現したまいましたか。人間の思想かんがえではたぶん祭司のおさに現れて、ご自分の神たることを公然あらわしたもうと思いましょう。或いはピラト、或いはユダヤの有司つかさたちに、初めてご自分を現したもうと思いましょう。けれども主はかかることをなしたまいません。主は悲しみておるいやしきおんなえらびて、これにご自分を現したまいます。主は祭司のおさ等に現れたまわずして、かえってご自分を求むる者に現れたまいました。

十 二 節

 このしかばねは神の尊貴とうと殿みやでした。神の契約のはこでした。そうですから二人の天使はこれを守っております(出エジプト記二十五・十八)。

十 三 節

 『天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと』。詩篇四十二・五をご覧なさい。そうですから、マリヤは天使てんのつかいのために驚きません。悲しみておりましたから、かかることには冷淡でありました。マリヤの悲哀かなしみはそれほど強くありました。ペテロとヨハネはこの場所を退きましたが、マリヤは退くことができません。かの二人は幾分か安慰なぐさめを得ました。けれどもマリヤはすこし安慰なぐさめを得ません。いま天使てんのつかいが現れましても、マリヤに安慰なぐさめを与えることができません。マリヤは主イエスご自身を受け入れとうございます。ほかのことでは満足ができません。私共も主を失いまするならば、かくのごとく主ご自身を受け入れるまでは、決して満足せずして熱心に求めたきものでございます。

 『わが主をとりし者あり』。マリヤは他人を譏誚つぶやきます。けれども実はマリヤの不信仰のために主が取り去られました。私共は恩寵めぐみを失いますならば、他の兄弟を譏誚そしるかも知れません。けれども実は自分の不信仰のためです。

十 四 節

 マリヤは不信仰によりてめしいとなりました。自分の愛する主を知りません。

十 五 節

 『婦人よ、なぜ泣いているのか』。これは天使てんのつかいの尋ねでした。主はたびたび私共の心のうちに他人がはなしましたことを、再び静かに語りたまいます。私共の憂いと苦しみについて静かに尋ねたまいます。

十 六 節

 『マリヤ』。愛の名前でした。親しき交際の名前でした。十・三をご覧なさい。主はいま静かなる細微ほそき声にて、マリヤよと愛の名前を呼びたまいます。そのためにマリヤは今までの苦痛くるしみ悲哀かなしみ、失望、不信仰が急にくなりまして、喜悦よろこび希望のぞみ、信仰、愛が生きて参りました。主はたびたび私共の心のうちにもかくのごとく急に働きたまいます。漸次恩寵めぐみに生長することのみが、必ずしも主の尊旨みむねではありません。主は私共にマリヤよと呼びたもうこと(主が我らを愛し自ら我らに親密なる者なるを感ぜしめたもうをいう)によりて、私共の悲哀かなしみ、不信仰、失望を全く取り除きて、その代わりに愛と信仰と望みをもって充たさせたまいます。

 『彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である』。ただ肉にける思想かんがえです。マリヤは主の復活よみがえりの栄光を知りません。以前のごとく先生であると思いました。けれども主はそれを拒みたまいます。マリヤはラザロがよみがえりました時のごとく、主イエスも以前と同じような生涯を送りたもうと思いました。けれども主はいま天に昇ることを教えたまいます。以前の生涯と全く異なる生涯なることを教えたまいます。

十 七 節

 『我にさはることなかれ』。マリヤはいま主をいだきとうございます。愛する者を全く受け入れとうございます。けれども主は我にさわるなかれと命じたまいます。私共は昇天の主を全く受け入れることができます。けれどもただいまマリヤの肉にける思想かんがえを拒むために、我にさわることなかれと命じたまいます。主は今マリヤにさわることを許したまいません。けれども二十七節においてトマスにさわることを命じたまいます。主は各様いろいろの方法をもって私共を導きたまいます。主が昇天なしたまいました時に、マリヤは霊によりて真正ほんとうに主にさわることができました。ヨハネ一書一・一をご覧なさい。それは必ず肉の手ではありません。これは霊によりて主をいだくことを指します。今マリヤは肉の手をもって主にさわることはできません。けれども後になおなお大いなる栄光を見られますから、それを待ち望まなければなりません。

 マリヤは今までのごとく肉にける親しき交際を望みました。けれども今は敬虔の念をもって主に近づかなければなりません。モーセがくつを脱ぎて燃ゆるしばに近づきましたごとく、いま主の栄光を悟るために、敬虔の念をもって主に近づかなければなりません。マリヤは主が復活よみがえりたまいましたから、永遠に人間とともにおりたまいましょうと思いました。けれどもこれは大いなる誤謬あやまりでした。主の復活よみがえりは人間とともにおるためではありません。神と偕におるためです。また神と偕におりたまいますから、それによりて人間と親しき交際をすることができます。

 『兄弟』。今まで或いは弟子、或いはしもべ、或いは朋友ともだちわれました。けれども今から兄弟とわれます。マリヤは主が昇天なしたもうならば、弟子との交際を断ちたもうと思いましたかも知れません。けれどもそうではありません、今までは弟子とわれ朋友ともだちわれましたが、今からは兄弟とわれます。

 『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方』。主はご自分が神に対してちたもうと同じ関係を私共に与えたまいまして、私共にも神を我らの父といいまた我らの神と呼びたてまつることを得させたまいます。

 今まで弟子は主が神と交わりたもうたことを見ました。また主が神たる力をもって、したもうたる行いを見ました。また神たる力をもってはなしたもうたることばを聞きました。いま主はご自分と同じ地位に私共を挙げたまいます。

十 八 節

 マリヤは十七節に主を見ました。けれども主とともとどまることはできません。かえって不信仰なる弟子に遣わされました。主の異象を見ることは私共にとり実に大いなる幸いであります。けれども永久とこしえにそれを見ることはできません。主の異象を見るならば去りて不信仰なる弟子、或いは罪人つみびとあかしなければなりません。私共は天の使つかいのごとく主を見ていることはできません。いまだ肉体をっておりますから、たびたびその異象を見るならば直ちに出掛けて、ほかの人々にその見聞きしたることをあかしなければなりません。

 本章一節を見まするならばマリヤは死にたもうたる救い主を信じました。けれどももはや主が死にたもうてマリヤを離れたるものと思いました。今でもそういう信仰をつ信者があります。十六節を見まするならば復活よみがえりたもうたる救い主を信ずる信仰を得ました。永久ともにおることができるものと信じました。十七節を見まするならば天に昇りたまいました主を信ずる信仰を得ました。主の栄光がわかりました。主は私共の兄弟であることが解りました。また主は力を与えたもう者なることも解りました。私共を神の子供とならしめたもうことも解りました。また十一節空虚からの墓は私共の救いがすでに成就せられたることを示します。私共は空虚からの墓を見ることによりて、主は私共のために救いを成全まっとうなしたもうたることが解ります。十六節において復活よみがえりの主を見まするならば、主のきて永久とこしえに私共とともにおりたもうことが解ります。また十七節を見まするならば天国は私共の嗣業よつぎであることが解ります。何卒なにとぞその空虚からの墓を見て救いを得たと信じなさい。昇天の主を見まして主の栄光を望みて喜びなさい。この二十二十一両章を大別すれば五つの話となります。この五つの話において心の迷うたる者が、主イエスに癒されたることを見ます。

 第一 マリヤは主を失いました。けれども復活よみがえりの主は急にその失望と悲歎かなしみを取り除きたまいました。何によりてですかならば、ただご自分を現したもうことによりてであります。

 第二 弟子は恐怖おそれの中に恐怖おそれを抱きて集まりましたことを見ます。その時に主イエスはその恐怖おそれを全く取り除きて、平安と力を与えたまいました。急にご自分を現したもうことによりて、その弟子の心を全く替えたまいました。そうですから喜びと感謝をもってその集会あつまりを終わりました。

 第三 不信仰の弟子は主の現れたまいましたことによりて、完全まったき信仰を抱くことができました。不信仰の闇黒やみが全く消え失せまして真正ほんとうの光が輝きました。

 第四 弟子は永きあいだ労して働きました。けれども何のる所もありませなんだ。彼等の働きはことごとく失敗でありました。その時に復活よみがえりの主は、ご自分を現しまたご自分の力を現したもうことによりて、大いなる成功を与えたまいました。

 第五 堕落したるペテロは、復活よみがえりの主イエスより再び権威を頂戴いたしました。またその堕落が真実ほんとうに癒されて、再び主イエスの使徒となりました。

 私共の心が迷いました時に、なくてはならぬものはなにですかならば、復活よみがえりの主を見ることと復活よみがえりの主の力にあずかることです。心の中に不信仰が起こりまするならば、恐怖おそれ悲歎かなしみ、失敗、堕落等が生じまするならば、私共は或いは働き、或いは儀式、或いは各種いろいろの他のことを求めます。けれども、その時に私共のなくてはならぬものは一つのほかはありません。すなわち復活よみがえりの主を求むることです。もし復活よみがえりの主が現れたまいますならば、その不信仰、その恐怖おそれ、その悲歎かなしみ、その失敗、その堕落が全く急に消滅きえうせまして、私共は溢れるほどの恩寵めぐみを頂戴することができます。

 これはこの両章の大意です。どうぞ深くこれを味わいとうございます。今朝こんちょうこの集会あつまりに出席されたる兄弟のうちで、幾分か心の迷える方がありますか。願わくは復活よみがえりの主をお求めなさい。主が私共にその復活よみがえりの力を示したまいまするならば、必ず心の病が癒されて完全まったき信仰にかえることができます。

十九、二十節

 十九節十八節とは密接なる関係があります。十八節においてマリヤは主のめいしたがうて、主の復活よみがえりあかししました。十九節において主は急いでご自分の使者つかいと共に往き、その使者つかいことばのごとくご自分を現したまいました。私共はおおやけに主をあかしとうございまするならば、マリヤが説教しましたごとくに、説教しなければなりません。マリヤはひそかに主を求めました。またひそかに主を見ました。私共もひそかに主を見ましたならば、私共の説教する時に主ご自身が現れたまいます。自分の部屋においてただ一人で見聞けんぶんしたる恩寵めぐみあかしまするならば、全会衆も同じ恩寵めぐみあずかることができます。私共はただ頭脳あたまばかりの準備したくをいたしまするならば、説教する時にもただ頭脳あたまばかりの利益を伝えるのみであります。けれども自分一人で主を見ましたならば、それをあかしまする時に、全会衆も必ず主と主の復活よみがえりの力を見ます。

 『イエスが来て真ん中に立ち』。今まで主は肉をっていたまいましたから、マタイ十八・二十の約束を成就することはできませなんだ。けれども復活よみがえりの時からこの約束を必ず成就したまいます。主はこの時にその約束を成就して、弟子の真中まんなかに立ちたまいました。これは復活よみがえりの後、弟子たちが主の名によりて集まりたる最初の集会あつまりでした。弟子を教えるために肉眼で見ゆる形をもって立ちたまいました。そうしてその時より今に至るまで、主は私共の肉眼には見えませんけれども、常に集会あつまり真中まんなかに立ちたまいます。主はその約束をつねに成就することを教えんがために、第一の集会あつまりにご自分を現したまいました。私共はこの話によりて、主がつねにその約束を成就したもうことを信じとうございます。

 『あなたがたに平和があるように』。ゼカリヤ十三・六をご覧なさい。これは主の預言です。その時に主の意味は何でありますか。ただローマの兵士よりこの傷を受けたるのみではありません。ただ自分を憎む祭司のおさやユダヤびとよりこの傷を受けたるのみではありません。あなたのためにこの傷を得ました。あなたの罪のために、あなたの家においてこの傷を得ました。主はかくのごとき意味をもって弟子たちに向かい『平和があるように』と言いたまいました。主は私共のあがないのしるしを示したまいまする時に、同じように私共の罪のために、その傷を受けたることを示したまいます。そうですからその傷のために『平和があるように』と言いたもうことができます。

 私共は主の傷によりて平安やすきを得ました。神と和らぐことを得ました。主はその手とあばらを示したまいまする時に、霊によりてそれを教えたまいます。また二十節の終わりにおいて弟子は主を見て喜びました。そうですから私共は十字架にけられたもうたる主によりて平安を得ます。復活よみがえりの主によりて喜びを得ます。

二十一節

 『あなたがたに平和があるように』。これは第二平安やすきです。マタイ十一・二十八、二十九を見まするならば、二つの平安があります。『休ませてあげよう』(二十八)、『安らぎが得られる』(二十九)。私共は主にきたる時にやすみを得ます。くびきを負うて主に学ぶ時に平安やすきを得ます。十九二十一節の二つの平安やすきことなる経験があると思います。十九節の平安は神と和らぐことです。二十一節平安やすきは働きのうちに得る所の平安やすきです。二十一節の終わりに『わたしもまたあなたがたを遣わす』という聖言みことばがあります。狼のうちに羊を遣わさん。荒き浪風の中に小舟を遣わさん。けれどもその戦争たたかいうちにありて、爾曹なんじら安かれと言いたまいます。これはマルコ四・三十九平安やすきです。かようにこの二十一節において大いなる平安やすきを経験して、浪風の上を歩むことができます。戦場に進むことができます。

 『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす』。私共は神と和らぐことを得た者ですならば、私共の生涯の目的は主の生涯の目的と同じことです。主は何故なにゆえこの世にくだりて生涯を送りたまいましたかならば、ただ神より遣わされたるからであります。私共もただその目的のみを抱いて、生涯を送ることは私共の特権です。

 十七節を見まするならば、私共は神の聖前みまえに主と同じ地位(position)があります。主が父の子ですならば私共も父の子です。神が主の神ですならばまた私共の神です。二十一節を見まするならば、私共は世に対しても主と同じ地位(position)におります。これは実に尊貴とうとき特権です。

二十二節

 聖霊がありませんならば二十一節の遣わされたる使命を成就することができません。そうですから主はその使命と共に聖霊をきたまいます。もはや主の小さき教会の表面の身体からだができました。けれども未だ聖霊がそのうちにありません。エゼキエル三十七・八はちょうどその時における弟子の有様でした。けれども同じく九、十をご覧なさい。今それが成就せられました。この人の子は主イエスです。主はただいまこの表面の教会にけるみたまきたまいました。『聖霊を受けなさい』。けれどもこれはペンテコステの日に頂戴しました聖霊ではありません。ペンテコステの日にも、主は天国の位より再び聖霊をきたまいました。また弟子は再び聖霊を受けました。本節において復活よみがえりの主は、ご自分が復活よみがえりを得たまいましたから、復活よみがえり生命いのちを与えたまいました。弟子をして復活よみがえりの力にあずからしめたまいました。使徒二章において主はもはや昇天したまいましたから、昇天のみたま、天国のみたまきたまいました。そうですからなおなお尊貴とうと恩寵めぐみを頂戴いたしました。主が復活よみがえりによりて罪に勝ちを得たまいましたように、このところにおいて弟子はいま復活よみがえりれいを得て罪に勝ち得る力を頂戴いたしました。新しき生命いのちを得ました。けれどものちにはほかの人々に生命いのちを与える力を頂戴いたしました。これはなおなお尊貴とうと恩寵めぐみです。私共はいずれを得ましょうか。何卒なにとぞ自分の心を判断しとうございます。

 『聖霊を受けなさい』。その時に弟子は必ず大いなる恩寵めぐみを頂戴いたしました。今まで争論あらそいがありました。けれども今からはその争論あらそいくなりまして、心を合わせて祈禱会を開くことができました。今までこの弟子は祈ることができませなんだ。けれども祈禱いのりみたまを得ましたから、心を合わせて十日間の祈禱会を開くことができました。たびたび二時間の祈禱会は、基督信者の倦怠をきたします。けれどもこの時の信者は、祈禱いのりみたまを得ましたから、喜びて十日間の祈禱会を続けました。もしこの時聖霊を受けませなんだならば、祈禱会を開く力も大胆もありませなんだでしょう。けれども祈禱いのりみたまを得ましたから、一致和合のみたまを得ましたから、喜びてその集会あつまりを開くに至りました。

 『息を吹きかけて』。それにより明らかにご自分の神たることを示したまいました。息を吹くことによりて聖霊を施したもうことができまするならば必ず神であります。創世記二・七をご覧なさい。造物主なる神はその時に息を吹きて人をけるものとならしめたまいました。いま造物主なる主は同じように息を吹きて、この弟子をけるものとならしめたまいました。

二十三節

 実に大いなる力を与えたまいます。聖霊を得たる者は神と等しき者となります。また神の力を得ました者です。神のごとく罪を赦し罪を定めることができます。私はこのことばの深き意味を知りません。けれどもその言のままに信じとうございます。神は私共にこれほどの権威と力を委ねたまいとうございます。

二十四、二十五節

 『わたしたちは主を見た』。この弟子はトマスにあかしとうございます。トマスの不信仰を取り除きとうございます。私共は主の恩寵めぐみあずかりますならば、未だこれを知らない兄弟をぜひ導きとうございます。

二十六節

 そうですから弟子はトマスに勝ちを得ました。トマスを導くことを得ました。実にその時に喜悦よろこびがありましたでしょう。主はこの弟子の熱心にそむかないで弟子と共に働きてトマスにご自分を現したまいます。私共は兄弟と共に祈りまする時に、主はご自分を現したまいましょう。主は迷える羊を追い求めたまいます。主は今に至るまで不信仰なる兄弟を追い求めたまいます。十七・十二をご覧なさい。今トマスが闇黒やみの道を歩みましたから、善き牧者ひつじかいはご自分のことばのごとくその迷える羊を追い求めたまいます。

二十七節

 『わたしのわき腹に入れなさい』。そうですから主はトマスの不信仰の談話はなしを聞いていたまいました。トマスの不信仰を深く知りたまいました。一・四十八において主はナタナエルの一切を知りていたまいました。四・二十九において主はサマリヤのおんなの一切を知っていたまいました。今ここにトマスの万事を知りたまいましたことが解ります。

二十八節

 私共は理屈をもって兄弟の不信仰に勝つことはできません。ただ主に導きまするならば、その不信仰はみな溶かれまして主を礼拝します。『わたしの主、わたしの神よ』。これは真正ほんとうの礼拝です。

二十九〜三十一節

 これはただヨハネ伝を指すことばであります。しかれどもまた聖書全体を指す言です。このほか多くの休徴しるしもあります。多くの証拠もあります。けれども私共は聖書にしるされたるものをもって、信ずることができませんならば、もう仕方がありません。外にいかような証拠がありましても、信ずることはできません。またこの書は何のために録されましたかならば、私共に生命いのちを得させんがためです。私共はこの書を読むことによりて生命いのちを得ます。ヨハネ伝の言は生命いのちです。ただにヨハネ伝のみではありません、聖書全体の言もまた生命いのちです。私共はヨハネ伝によりて生命いのちを得ます。また聖書全体によりて生命いのちを得ます。私共は聖書を読みまする時に、どうぞ心をむなしくしてほかのことを求めませずして、ただ神の生命いのちばかりを求めとうございます。



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