緒 論 第 一 



 神は大いなる恩寵めぐみをもって私共に四福音書を与えたまいました。一つの福音書のみでは主イエスの栄光を全くあらわすことはできません。主は四福音書をもって私共にご自身の生涯を示したまいました。この四福音書は各々おのおのことなる方面をもっておりますから、私共はこれによってはじめて主の完全まったき栄光を見ることができます。例えばナポレオンの人物ひととなりを知ろうといたしますれば、その戦争の模様によって大将としての彼を見ます。その立法行政の如何いかん研究しらべまして、王としての彼の栄えを見ます。また個人としてのナポレオンを知りとうございますならば、彼が家庭の模様を探らなければなりません。かくのごとくイエスはご自分の完全まったき栄光を示さんがために、私共に四つの方面を残したまいました。四福音書の目的は何でありますか。或る人は以上のことを考えませずして、四つを一つに入れ合わして主の一生涯を漏らさずあらわしたと思います。これは益あることもありましょうが、また大いに損することがあると思います。聖霊はこれを四つにしるさしめたまいました。同一の行為おこないを繰り返して彼にもこれにも録されてありますのは、単に重複せしめたのではありません。各々殊なる方面を示さんがためであります。たとえば主の死について見ますに、レビ記の初めに四つの祭があります。これは四つの方面より主を顕してあります。すなわち主の死は香ばしき燔祭はんさいにおいであります。神を喜ばす犠牲いけにえであります。神の前にのろわれたる犠牲、また神より追い放たれたる犠牲であることを見ます。主の死を全く味わいとうございますならば、このように種々の方面より研究しらべなければなりません。かく主の四つの生涯は殊なる四つの意味を教えます。

 最も大いなる幸福は主をることであります。人は無学文盲を恥ずかしく思います。けれども天にける財宝たからを識りませんことほど、実際恥ずかしきことはありません。学問の最も大いなることは何でありまするかならば、主を識ることであります。天に属ける学問の要素は主イエスであります。

 聖書のうちで最もうるわしき部分は何処どこであるかは知りません。旧約にも新約にも、福音書にも書簡にも黙示録にも、何処にても主が示されてあります。けれどもそのうち最も明らかなるは四福音書でありますが、聖霊を受けまするならば、聖書のうち何処にでも主イエスを見ることができます。けれども聖書の骨髄は四福音書で、四福音書の骨髄はヨハネ伝であるかも知れません。

 そうして四つながら各自おのおの主の特別なる使命を帯びております。黙示録四・七はこの四福音を示してあると第二世紀頃より申されましたが、これは誤りでないと思います。四福音を研究しらべまするにはこれは真実ほんとうのように思われます。黙示録四・七元来もとケルビムの四つの形であります。ケルビムは目に見ゆる形をもって、神の勢力ちからを示したのであります。そうですから時として天使はケルビムであります。人もまたケルビムであります。そうして神の子もまたケルビムであります。ここに第一の活物いきものは獅子のごとしとありますが、マタイ伝において主イエスは獅子としてあらわされてあります。黙示録五・五に、主はユダの支族わかれより出でたる獅子ダビデの根とあります。そのように獅子はつねに王をしめします。すなわちマタイ伝に獅子を見まするのは、王を示すのであります。ヨハネ十九・十四に、ピラトがユダヤびと爾曹なんじらの王を見よと申しましたが、私共はマタイ伝によって主イエスなる王を見とうございます。マタイ二・二に、博士は王を尋ねて参りました。マタイは主は彼らの求める王であるとして記しました。マタイ五章には、主は王のごとく命令を与えたまいました。これは天国の憲法であります。モーセの律法おきてに換えて我爾曹なんじらに告げんとて、主は王の権威をもって号令したまいました。また、マタイ十一・二十八には我にきたれと命じたまいました。かくて天国を示し、これを明らかにし、終局おわりに至って『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民に洗礼を授けなさい』『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』(二十八・十八〜二十)と、いとも権威ある全き王の言葉をもってこれを結びました。

 マルコ伝において、主は第二の活物いきものたる牛のごとくであります。牛は忍耐をもって人のために働く動物であります。イザヤ四十二・一に、わがしもべを見よとあります。牛は僕を示します。かくのごとく、マタイ伝には王を見よ、マルコ伝には僕(すなわち牛)を見よとあります。主は神の僕となり、また人の僕となり、神と人とのために力を尽くしたまいました。私共はマルコ伝において、命を惜しまずして労したもうた僕としての主イエスを見ます。

 ルカ伝にあらわされた主は、第三の活物いきものなる人のごとくであります。すなわち人の子たる主イエスを見ます。ヨハネ十九・五に、ピラトは人々に向かって、この人を見よと申しましたが、ルカ伝においてこれを見ます。マタイ伝の始めには王たる系図があります。ルカ伝の三章においては人としての系図を見ます。旧約において、多くの預言者は人たる神に交わることができませんでした。けれどもルカ伝において、人となりたまえる主を見ます。いかなる人も、人となりたまえる主と交わることができます。

 ヨハネ伝には鷲のごとく主が顕されてあります。天にけるもの、神の子たる主イエスがあらわされてあります。そうですから、ヨハネ伝には主の地に属ける系図がありません。その発端はじめに示したる系図は、王ならず人ならず、父母なき祖先なき、永遠の元始はじめより存在いましたもうことばなる主、神の系図であります。主はいかなるかたでありますか。三・十三において、鷲であります。すなわち天よりくだりたまいました。けれどもつねに天にいましたもう飛鷲とぶわしであります。そうですから主はまた天使のごとくであります。ご自分を常に父より遣わされたるものとおおせられました。ヨハネ伝は最も深遠であるという人もあります。けれども私共がなお大いなる悟りをひらかれますならば、他の福音書においても同じ深い奥義が示されてあることを見るかも知れません。ヨハネ伝には黄金おうごんが明らかに顕されてあります。他の三福音書には幾分かこれを隠されてあります。

 さて、主は誰々に向かいてこれをしるさしめたまいましたか。主は各自おのおのの性質に応じてこれを命じたまいました。すなわちマタイは王の税吏みつぎとりであります。彼は幾分か王に関して生活しておりますから、主は彼をして王の福音を録さしめたまいました。マルコはペテロのしもべであります。彼は僕なる主を示しました。ルカは異邦人でありまして、広く人類という思想かんがえを持っていると思われます。そうですから彼は人の子としての主を示しました。また、天の父のふところにあるものを書くには、主イエスの懐にありましたヨハネが適当であります。神はこのように四種よっつの福音書を与えたまいましたのは、主の栄光を四方より見せしむるためでありました。私共をしてこの主にならわしめんためでありました。

 四福音書を研究しらべることは実に大切であります。四福音の四つの方面は、また私共の経験であります。主はかくのごとく顕れたまいました。私共もまたかくのごとく顕れねばなりません。

 マタイ伝における主のように、私共は主によりて王とせられました。サタンの上にちからある者であらねばなりません。黙示録一・六に、王とせられたる約束があります。また、王となってサタンの上に権ある者となりましたときには、どうして神と人とに仕うべきかを学びますることは大切です。マルコ伝に示されたる主のように、しもべとならねばなりません。また、ルカ伝に示されたる主に従って、人の内にあって完全まったき人たるべきはずです。主は深く罪人つみびとと交わりたまいましたが、絶えず父の恩寵めぐみ沐浴よくしてきよくありました。けがれたるうちにありましてもけがされませんでした。私共もかくのごとく完全まったむすこむすめでありとうございます。そして、すでに完全まったき人ですならば、またヨハネ伝に示されてありまするように、神の子また天使であらねばなりません。神より遣わされたる使者つかい、天にる者、イザヤ四十・三十一のごとく、翼を拡げてのぼる鷲のごとくならねばなりません。また、この順序も偶然ではありません。進む路筋みちすじであります。第一より第二に進むことは、恩寵めぐみより恩寵めぐみに進むのであります。王を見よ、これは第一であります。僕を見よ、これは第二であります。進んでたる全きイエスを見、また進んで神のことばたる主を見ます。私共の立場は何処にありますか。私共は主を見て誰としますか。マタイ十六・十五の問題は大切であります。その答えによって、その人の信仰の度合いを知ることができます。或る人は王の王、主の主としてのイエスを見ます。或る人は、人のため神のためおのれを献げたる僕としての主を見ます。或る人は人の子として、また神の子と致します。けれども、私共は四方より見まして完全まったき主を知らねばなりません。



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