第 十 三 章
十二章は、主が公然ご自分を現したまいましたことの終わりです。十三章よりは、ただ愛する弟子等に語り合いたまいました。十三章において行いによりて、十四章より十六章までにおいて言によりて、十七章において祈りによりて、弟子等を教えたまいました。
その時主は始終天に昇ることを考えていたまいました。そうですから、十字架をあまり考えたまいませなんだ。ただその後の栄光を見付けて、天に昇ることを深く考えていたまいました。けれども、この一節を見まするならば、その意は何処に注がれてありましたか。今この世を去る時が来ましたから、たぶん父の家、父の栄光、また父の家において受くべき喜楽について、心を留めて考えていたまいましたか。いいえ、そうではありません。ただ弟子のことに意を注ぎたまいました。終わりに至るまで、この失敗と不信仰とに充たされたる、弟子等を顧みたまいました。十一節を見まするならば、『イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた』とあります。そうですから主はこの弟子の心をよく知りたまいました。己を売す者を知りたまいました。またご自分を知らずと言う者をも知りたまいました。十字架の時に、ご自分を捨てる弟子等をも知りたまいました。またはご自分の復生を信じません弟子をも知りたまいました。けれども、ご自分の受くべき栄光を考えたまわずして、却りてこの不信仰の弟子等を、いつまでも愛して顧みたまいました。それによりて、主の慈愛と、眷顧を分かりませんか。私共の心は、天国にある筈です。けれども、主はただいま天国にいたまいますが、そこにて満足をなしたまいません。主の心は地にあります。この地の上にある不信仰なる弟子等、たびたび過失に陥り易き私共を顧みて、私共を愛し、私共の徳を建てたまいとうございます。
この十三章において、主の慈愛は格別に輝きました。その時に格別に弟子を愛する愛に充たされたまいました。或いは言をもって、或いは行いによりて、慈愛を現したまいました。またその時に主はよく弟子等を悟りたまいました。この一節に知るという言を見ます。三節にも、知るの言があります。十一節にも十八節にも同じく知るという言があります。この四つの知るという言を味わいとうございます。それによりて、主はその時に明らかに弟子の心を悟りたまいました。またよくご自分の有様を觧りたまいました。この二つの理由、即ちいま申しました愛と、悟りのために、主は己を卑くなしたまいました。
どうぞ、一節の愛と、二節の憎とを比べとうございます。どうぞ、二節のユダの模様、即ち悪魔の下にあることと、三節の主の模様、即ちすべての権威を有ちたもうこととを比べとうございます。その時に、表面を見まするならば、ユダは自由の者にして、イエスは自由を奪われたる者と見えました。ユダは自分の勝手に従いてイエスを売し、イエスは人間の手に曳かれて、十字架に売されたまいました。そうですから、ユダは自由の者にして、イエスは自由を奪われたまえるように見えます。けれども、事実はちょうど反対です。ユダは悪魔の奴隷でした。イエスは、三節のごとく、すべての権威と、権力を有っていたまいました。この三節は、その時の主の経験を示します。主はその時に、ご自分が父と同一であることを覚えたまいました。また父のものは、すべてご自分のものであることを覚えたまいました。その時に経験によりて、ご自分の神たることを覚えたまいました。そうですから己を卑くすることができました。どうぞ、この絵をご覧なさい。万物の王、栄光の神は、ご自分を卑くしたもうて、不信仰なる弟子等の汚れたる足を洗いたまいます。主の奇跡の中に、これより高尚なることを見ませんと思います。ご自分の神たることを示す行いとしては、或いはラザロを復生らせたまいしよりも、この行いが高尚ですと思います。どうぞ、誠にこの説話によりて、主の栄光を見とうございます。現今でも、主は同じようにご自分を卑くしたまいます。現今でも、主は私共を洗い潔めたまいます。また私共の汚れたる心、私共の罪を洗い潔めたまいます。私共の罪を洗い潔めることは、弟子の足を洗うと同じように、己を卑くすることであります。卑賤なる者の、汚れたる足を洗い潔めることは、実に煩労ことです。ちょうどそのように王の王、栄光の主は、私共の汚れたる心を洗い潔めたもうことは、実にうるそうございます。けれども、主は厭いたまわずして、ご自分を卑くして、私共を洗いたまいます。そうですから四、五両節の七つの行いをなしたまいます。
第一、晩飯の席を起ちて、第二、上衣をぬぎ、第三、手巾を取りて、第四、手巾を腰に束い、第五、盤に水を入れ、第六、弟子の足を濯い、第七、その束いたる手巾にて拭きはじめ
神の子は同じ七つの行いをもって、私共を洗い潔めたまいます。
『夕食の席から起ち上がって』。主は天の位を出立たまいました。
『上衣を脱ぎ』。ご自分の栄光を脱ぎたまいました。
『手ぬぐいを取って腰に巻き』。この卑しき人間の身体を取りたまいました。
『水をたらいに入れ』。聖血を流したまいました。
『弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭き始められた』。いま私共にその贖罪の結果を告げたまいます。
そうですから、主は同じように、ただいま私共を潔めたまいます。今でも主は十字架を負いたまいます。今でも己を卑くしたまいます。今でも主は私共の奴隷となりたまいます。この足を洗う働きは、奴隷を働きです。けれども、主は喜びて私共のために、奴隷の働きを取りたまいます。
『ペテロが、「わたしの足など、決して洗わないで下さい」と言うと』(八節)。これは誠の謙遜ではありません。誠の謙遜は恵みを何程でも受け入れることです。ペテロは、偽りの謙遜を有ちておりました。誠の謙遜を見とうございますならば、その時の主の手本を深く調べなければなりません。たびたび私共の道徳でも、偽りの道徳であります。
この八節を見まするならば、ペテロは、自分の足のことを言います。主はペテロの霊魂に就きて答えたまいます。ペテロはただ表面のことを見ました。主はそれを顧みずして、内部のことを教えたまいました。主は毎日私共の身の上になくてならぬものを与えたまいます。その身の上のものにおいても、深き恵みを頂戴することができます。主はペテロの足を洗いたまいまするならば、その足を洗いたもうのみならず。それと同時にペテロ自身をも洗いたまいます。主はちょうどそのように、私共の身を顧みたまいまするならば、ただ身のことのみではなくして、霊なる恵みをも与えたまいます。
『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』(八節)。私共は始終主の洗いを追い求めますか。この足を洗われるは、初めの悔い改めの洗いの意味ではありません。この十節をご覧なさい。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけを洗えばよい』。この弟子はもはや洗われたる者でありました。けれども、日々の旅行のために、足が汚れましたから、もう一度洗わなければなりません。私共も生まれ替わりの洗いによりて、神の聖前に潔きものであります。けれども毎日この汚れたる世間を歩みますから、毎日主に潔めを求めなければなりません。私共は潔められませんならば、この八節のように、主と干渉はありません。
この七節を見まするならば、ここで深い意味があります。これは真正の聖典であります。その夜、主は二つの聖典を施したまいました。一つは葡萄酒と、パンの聖典です。一つは足を洗う聖典です。葡萄酒と、パンの聖典は、ご自分の死と、その死の力の聖典です。この足を洗う聖典は、生命の聖典です。即ちいま天において生き、天においてその生命の働きをなしたまいまして、その生涯の働き、その生命の力をここで示したまいます。パンと、葡萄酒との聖典は、カルバリ山の聖典です。足を洗う聖典は、昇天の聖典です。けれども、両つながら同じ主意あるを見ます。すなわち自己を卑くし、賤しき者となりたもうことです。主は栄光を捨ててこの世に降り、生命を捨てたまいました。パンと、葡萄酒の聖典で、それを記憶いたします。足を洗う聖典で同じことを見ます。ここでも、私共に日々の洗いを与えたまわんがために、己を卑くして、私共のために賤しき務めをなしたまいます。主は御在世中に、私共のために、奴隷を務めをなしたまいました。また十字架において、己を卑くして、私共のために、卑賤なる務めをなしたまいました。けれども、ただいま昇天の後でも、やはり己を卑くして、私共のために務めたまいます。主は如何して汚れたる信者に、霊の洗いを与えたまいますかならば、己を卑くして、この働きを務めたまいます。これは断えざる謙遜です。栄光の王は、私共のために不断この愛の働きを務めたまいます。母は子供のために、種々の卑賤なる務めをいたします。愛のために、子供の奴隷となります。いま栄光の王なる主は私共のために、日々この四、五両節のように卑賤なる務めをなしたまいます。ルカ十二・三十七をご覧なさい。『主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる』。これを見まするならば、私共の心は溶かされませんか。
『弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て』(十二節)。いま上着を取りて、その筵席の貴き処に坐して、この行いを説明かしたまいます。後にて主は同じように、その栄光をまた取りたもうて、天の高き処に坐して、弟子等にその十字架と、その苦しみを説明したまいました。弟子等はその教えによりて、主の十字架を解りました。その時まで弟子等は、全く十字架を解りませなんだ。けれども、その時から、即ち昇天の時から、主に教えられまして、その意味を解りました。いま同じように、主はこの行いを説明したまいます。
これは福祉ではありませんか。『わたしはそうである』。賤しき罪人の師は誰方ですかならば、天の王であります。賤しき罪人の師は、すべて智慧と、悟りに富みたもう神であります。その賤しき罪人を愛したもう神であります。今まで罪人の主は誰方でしたか。サタンが肉体上の主でありました。或いはこの世の生活がその主でありました。けれども、ただいまは『あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである』。わが師わが主は神の聖子です。実にこれはハレルヤです。実にこの十三節は福音です。どうぞそれを信じて、受け入れとうございます。
『互いに足を洗い合わなければならない』。私共はそういう心を有ちますか。私共は兄弟の足を濯うほどの愛と、謙遜がありますか。私共は兄弟よりも高く揚がりたき心がたびたびありませんか。自分を高くする心がありませんか。けれども、私共は主の恵みをよく悟りまするならば、却って兄弟の足を濯いたき心が起こります。兄弟を軽んぜずして、却って兄弟のために、何事でもいたします。いかなる賤しき務めでありましても、喜んでそれをなします。またそれをしませんでも、心の中にそういう精神があります。私共はたびたび兄弟のために、足を濯う務めをいたしますかも知れません。けれども、心の中にそういう精神がありますか。或いはただ目で見ゆるために、それをいたしますか。真正に主のために、兄弟を愛する心より、それをいたしますか。「兄弟の足を濯う」。その意味はいま説明しましたように、第一、兄弟のために、賤しき務めをいたすことです。けれども、それよりも深き意味もあります。兄弟につきて、悪しき評判を聞きまする時に、黙してそれを伝えませんのも、兄弟の足を洗うことです。或いはその兄弟のために、弁護するのもまたこれ兄弟の足を洗うことです。けれども、なおなお深き意味があります。キリストはただ表面の行いばかりでなく、魂を洗いたまいました。私共はキリストのごとく、兄弟の心を洗わねばなりません。そのために主は私共に活ける水を与えたまいました。それは格別に伝道士の務めであります。「兄弟の心を洗う」。私共は如何して兄弟の心を洗いましょうか。たびたび何か肉体に属けることによりて、兄弟を洗うと思います。肉に属ける知恵、肉に属ける経験によりて、或いは肉に属ける自分の職務上の位置から、兄弟を洗わんと思います。けれども、これは過誤です。兄弟を洗いとうございまするならば、主の手本に従うて、自分のことを全く捨て、己を卑くして兄弟の足下に近づかなければなりません。私共は今でも、他人より優れたる点から、その人を潔めようと思います。けれども、主のなされたることは、全く反対です。主は自己を卑くして、人の足下に来りて、その人を潔めたまいます。
私共は外の人々を潔めとうございまするならば、前に申しましたるように、己を卑くせなければなりません。けれども、如何して己を卑くすることができますか。謙遜は何処より起こりますか。この一節と、三節をご覧なさい。一節を見まするならば、愛から起こります。主はこの弟子を愛したまいますから、愛のために己を卑くすることができます。謙遜はいつでも、愛の果です。また三節を見まするならば、神が自分に与えたまいました恵みに感じまする時に、また己は神の属であることを感じまする時に、己を卑くすることができます。これは謙遜の二つの根本です。
主は何故かく厳粛にこのことを宣べたまいましたか。誰人でもよくこれを知っております。何故に『誠に實に』と神の聖声のごとく、これを言いたまいましたか。これは容易なることのように聞こえます。けれども、真正に一番難しきことであります。信者は最も終わりにこれを学びます。私共の心の中に、いつでも自分を高くする思想が起こります。主のごとく己を卑くすることは、学び難きことです。主はその大いなる位を全く捨てたまいました。私共は自分の小さき位を抱きましょうか。主は全く御自分の大いなることを抛げ棄てたまいました。そうして自ら謙遜して、私共を潔める役目を取りたまいました。私共は主に比べまするならば、小さきものであります。しかるにその小さきことによりて、高ぶりましょうか。僕は自分が大いなる者であると言うて、自ら誇りましょうか。
私共は現世に属ける栄誉栄華を捨てたる者であります。けれども教会の内に名誉を求めませんか。或いは他の信者の眼の前に高くなりとうございませんか。僕はその主より大いならず。他の弟子の足下に卑賤なる務めをいたしますることは、私共各自のおるべき地位です。
福の秘密はかくのごときことをなすことです。ただ心の中に思い、或いは深くそのことを思念らすことのみではありません。実行することです。またかくのごときことを実行しまするならば、たぶんその謙遜の行いによりて兄弟等をも潔めることができます。
主はこれを預言したまいました。ここには預言者なるキリストを見ます。十四章二十九節、十六章四節をご覧なさい。『事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく』。『これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである』。主は悉くその苦しみをも、そのほか万般のことをも、弟子等の遭うべき迫害をも預言したまいました。けれども、弟子等はそれを悟りませなんだ。そうですから、時がもはや来りました時に、悉く堕落しました。どうぞ主の預言を深く心に味わいとうございます。いま主の再臨は近づきますから、格別に主の預言を味わいまして、その時に至る用意を致さなければなりません。
そうですから、主はこの世を去りたまいました。けれどもご自分の代表者をこの世に置きたまいます。十六節の『はっきり言っておく』ということを見まするならば、人間の眼の前に己を謙遜せねばなりません。この二十節の『はっきり言っておく』を見まするならば、神の聖前に私共の大いなる位、大いなる栄光を見ます。主に遣わされたる者は、この十六節をも、二十節をも、共に味わわねばなりません。人間の眼の前に謙遜し、神より栄光を与えられましたることを、深く思わねばなりません。
十五節をご覧なさい。『わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするよう』。私共は主の行したまいしごとく、行さねばなりません。また三十四節をご覧なさい。『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』。私共は主が愛したもうごとく、相愛せねばなりません。その主の行いにも主の愛にも、従わねばなりません。私共は自分を卑くしまするならば、人より如何なる報いを得ましょうか。その謙遜が偽りの謙遜でありまするならば、そのために名誉を得ようという思想がありましょう。或いはいま謙遜しておけば、後にその人が必ず私を愛しましょうと思いましょう。けれども、真正の謙遜はそういう報酬を待ち望みません。主の謙遜をご覧なさい。いま十二弟子の足を洗いたまいました。そうして如何なる報いを得たまいますか。二十一節を見まするならば、その弟子の一人は主を売します。三十八節を見まするならば、他の一人は主を知らずと言います。残余十人は苦楚の時に、悉く主を捨てて逃げます。そうですから、謙遜と、愛はそういう報酬を耐え忍ばねばなりません。時々人を潔めるために、或いは人々に福音を宣べ伝えまするために、己を卑くします。またどういう報酬を得ますかならば、或いは憎悪或いは迫害或いは他の苦楚を得ます。私共はそれを耐え忍ぶことができますか。そういう時に、私共の愛と、謙遜は、真正であるか、否やを試すことができます。主の愛と、謙遜は、そういうことをも耐え忍ぶことができました。兄弟よ、これは真正の死です。私共は他の人々のために、己を卑くしまするならば、これは謙遜の初めです。けれども、それは真正の謙遜であるか否や、或いは真正の死であるか否やは、まだ分かりません。その謙遜と愛とは、試みられました時に、真正であるか否やが分かります。どうか主と共に終わりまで十字架を負うて、死ぬる道を取りとうございます。毫も愛の報酬を得ませんでも、却って他の兄弟より憎悪と、迫害を得ましても、どうぞ一節のごとく、終わりに至るまでこれを愛しとうございます。本章において、その事実を見ます。主は終わりに至るまでユダを愛し、ペテロを愛し、他の弟子等を愛したまいました。
『心を騒がせ』。主はそういう、苦痛を能く覚えたまいました。主はそういう苦痛を覚えたまわない者ではありません。深くそれを感じたまいました。『はっきり言っておく。あなたがたのうちのひとりが』。久しく私の愛したるなんじらの中に、久しく父なる神を示したる爾曹の中に、久しく起臥を偕にしたる爾曹の中に、久しく私の心と、性質を明らかに見たる爾曹の中に、一人われを売す者あり。またただいまこの筵席において格別の愛を現したる爾曹の中に、一人われを売す者あり。
それは主の心の憂い、心の悲しみでありました。必ずその時のみではありません。始めからその重荷を負いたまいました。けれども、それを隠していたまいましたが、ここに至りて始めて示したまいました。この時まで弟子等は、主の心の重荷を知らずして、大抵主の心を知りしと思いました。けれども、実にこの大いなる憂いを知りませなんだ。幾分か主の栄光を見ました。けれども、主の悲しみが解りませなんだ。弟子等は今まで鈍き心を有っておりましたから、主はこういう憂いを示すことができませなんだ。今まで肉に属ける者でしたから、こういう悲しみを弟子等に示すことはできませなんだ。兄弟よ、私共も幾分か主の栄光を認めました。けれども、憂いはどうですか。主が罪人のために憂い悲しみたもうことを解りますか。今まで鈍い心でありましたから、主はそれを私共に示したもうことができませなんだかも解りません。けれども、もはや主に潔められたる者は、そういうことを聞くことができます。
そうですから、ユダであることが解りません。ユダは今まで、巧みにその善を装いました。他の弟子は、ユダの堕落を知りません。ユダの熱心、智慧を見ました。ユダの会計に巧みなることを見ましたから、ユダであることは解りません。けれども、ユダは心の中に堕落したる者です。兄弟よ、私共は表面は熱心なる者でありましても、表面は美しく神のことを言いましても、心の中に堕落して主を売す者であることができます。外部のことは構いません。心の中はどうですか。外部を見まするならば、ユダはペテロやヨハネと同じように熱心なる弟子でした。けれども、心の中を見まするならば、ユダは全く堕落しておりました。
もう一度十八節をご覧なさい。主は、麦と稗子とを能く弁別したまいました。表面は同じように見えます。けれども、主は私共の心を見透したまいます。私共も自分の心を知ることができます。外の兄弟は、私共の心を見透すことができんかも知れません。けれども、或いは主、或いは自分は、自分の心を知ることができます。誠に水と水晶のごとく、清き心でありますか、ありませんか。誠に主に従いとうございますか、或いはただ表面ばかり主に従いますか。主は私共の有様を弁別したまいます。またユダは永き間、主に伴いました。主の言を聞きました。主の行いを見ました。主と共に食事を致しました。けれども、未だ身も、魂も、主に捧げませなんだ。そうですから、この恵みのためになおなお恐ろしき模様と変りました。私共は受けました恵みに、身も、魂も、捧げませんならば、その受けました恵みによりて、却って恐ろしい有様に堕ちます。そうですから、始めから主に従いません方が却って宜しうございます。光を受けまして、その光に従いませんならば、却って始めから光を受けません方が宜しいかも解りません。
主イエスは愛なり。ユダは三年間に全き愛の光線の中に、生涯を送りました。そのために心が溶かされましたか。その愛に曳かされましたか。そうではありません。今に至るまで、心が頑固でありました。それによりて、人間の生来の恐ろしきことが解りませんか。ユダは三年間神と交わることができました。けれども、神を慕いません。夜間は黒白を分かつことができません。黒いものも、白いものも、同じように見えます。けれども、昼間は太陽の全き光線の中に、よく物を分かつことができます。ユダは三年間輝ける太陽の中に、生涯を送りました。けれども、今に至るまで心が溶かされません。私共はそれによりて、警戒せねばならぬと思います。神は私共に各様の光を与えたまいます。私共のうち、或いは喜んでその光に従いまして、身も、魂も、捧げます。或いはその光を拒みます。例えば、或る信者は聖き心のこと、聖霊に充たされることを毫も聞きません。そうですから、こういう信者の恵みを受けないことは、あまり大いなる罪ではありません。けれども、そういうことを教えられましたる信者にして、却って心を頑固にして、それを受けませんならば、ユダの罪の萌芽ですと思います。光の中に在りて、頑固なる心をもつことは、ユダの罪の根本だと思います。またそういう人々は、漸次ユダの罪を犯すと思います。そういう人々は、やはり漸次主の教えを拒み、主の聖霊に属ける教えに反対し、ついには主を敵の手に売します。
主を売すとはどういうことですか。私共はこの罪を犯すことができますか。犯すことができます。いまユダは三年の間主と共におりました。けれども、心がまだ和らぎませんから、主につきて失望しました。肉に属ける考えがありましたから、主は種々の恵みを与えたまいとうございます。けれども、ユダはそういうことを願いませんで失望いたしました。そうですから、敵の手に売しました。またそのことによりて、ユダは敵の前に何を現しましたか。即ちイエスは実際自ら認わしたもうような方ではなくて、イエスの認わしたもうところは、全く佯りであるということを現します。敵の手に売すことは、それを現します。ユダは主が認わしたもうたることを信じましたならば、いつまでも主を売すことができませなんだ。けれども、主の言を佯りと思いましたから、敵の手に売しました。ユダは爾来主に従いとうございません。従来種々なる教訓を受けました。各様の経験を得ました。けれども、爾来主ご自身に従いとうございません。兄弟よ、どうぞ私共各自の心を判断致しとうございます。主は私共に各様の約束を与えたまいました。ご自分の能力と、恵みとを認わしたまいました。私共はその約束を受け入れませんならば、主が私共にその約束を成就したまいませんと思いまするならば、私共は多分失望致します。私共は主によりて、万殊なる恵みを得ようと思います。けれども、主の約束を拒みますから、心の中に失望が生じます。これはユダの罪の萌芽です。そうですから、艱苦に遭いました時に、その艱苦を厭いました。もし私共は主の約束を受け入れまするならば、他の兄弟が喜びと恵みを受けまして、自己一人艱苦に遭わなければなりませんでも、少しも構いません。けれども、主の約束を受け入れませんならば、そういう場合に、艱苦に遭うことを厭います。
ユダはいつまでも熱心でありました。この二十二節を見まするならば、他の弟子は主を売す者は、ユダであることを知りません。ユダは表面では、少しも怠りませなんだ。他の弟子と同じように熱心でありました。けれども、心の中にこの失望がありましたから、主の言を信じません。不信仰がありましたから、ついに敵の手に主を売しました。
私共は人間の眼の前に、どういうことを現しますか。主は誠実なる方であることを現しますか。主はご自分の約束を成就したもう方であることを現しますか。或いは顔の色や、行いによりて、心の中に幾分か主につきて失望があることを現しますか。もしそうでありまするならば、それは主を敵の手に売す罪の始めです。ユダは他の大いなる罪人と偕に主を十字架に釘けよとは叫びません。必ずそういう大いなる罪を恐れました。けれども、ユダの罪のために、敵は勢力を得ました。ユダの罪のために、主は十字架に釘きたまいました。そのために主は死にたまいました。兄弟よ、私共は主の約束を受け入れませんために、心の中に失望がありまするならば、それによりて主イエスを敵の手に売すかも分かりません。何故ですかなれば、主の敵は私共の失望するのを見て、これは誠実でない証拠であると思いましょう。このパリサイ人と祭司の長は、ユダの証を聞き、イエスは偽りであると思いました。他の人々がそういうことを申しましても信じません。けれども三年間主と共に親しく交わりました者が、こういうことを現しまするならば、敵はイエスの偽りであるということを信じましょう。兄弟よ、私共の品行によりて、主を信じません人々は、主についてどう思いましょうか。
もう一度十九節をご覧なさい。さきに申したように十四章二十九節、十六章四節にも同じことを見ます。主はご自分の苦楚を、悉く預言したまいました。弟子は主の言を受け入れましたならば、悉く主の苦楚と、十字架と、復生とを待ち望みましたでしょう。けれども、弟子はそれを受け入れません。二十節をご覧なさい。主はこの世に代表者を置きたまいます。ご自分はこの世を去りたまいますが、その代表者を置きたまいます。それによりて、弟子はその位の高きを悟りましょう。主が世を去りたまいまするならば、爾来主の代表人でありますから、自分の重き責任と、高き位とを解ります。これは、私共の重き責任です。
『心さわぎ』(二十一)。主は十二章二十七節のごとく、心に憂えたまいます。主は人間の心を有っていたまいましたから、朋友に傷つけられました時に、必ず痛みを覚えたまいました。主は人間の心がありますから、私共に同情を表することができます。主はその時に憂い悼みたまいました。けれども、十四章一節のごとく、『あなたがたは、心を騒がせないがよい』と命じたまいます。主は憂いを有っていたまいました。けれども、心の中に平安がありました。
『賣者あり』(二十一)。この売すことはただ今まで主と交わりたる者ばかり犯すことのできる罪です。主を信じません者は、この罪を犯すことはできません。主の敵は必ず主を売すことはできません。売すと申せば、必ず朋友、或いは知己のものです。この罪はまだ主を知りません者の罪ではありません。私共のように主を知り、主を信じ、主と交わりました者の罪です。
『イエスは答えられた』(二十六)。これはただささやきでした。主イエスとヨハネのみの問答でした。私共は主の秘密を知りとうございまするならば、主の胸に倚らなければなりません。他の弟子は主の談話を聞きました。けれども、主の心の秘密を知りました者は、ただヨハネ一人のみでありました。『パン切れを浸して取り』。これは愛と丁寧のしるしでした。創世記四十三・三十四、ルツ二・十四、サムエル後書十一・八(there followed him a mess of meat from the king: 欽定訳)をご覧なさい。そうですから、これは眷顧と、同情のしるしでした。格別に愛のしるしでした。主は一節のごとく、終わりに至るまでユダを愛したまいました。終わりに至るまでユダを救いたまいとうございました。終わりに至るまで格別に愛のしるしを与えたまいました。
この晩に、その筵席の時に、主の愛は格別に輝きました。主は始めにユダと、他の弟子等の足を洗いたまいました。格別に言をもって、行いをもって、愛を示したまいました。ユダはそれに負けませんか。ユダは終わりまで勝ちました。ユダは終始神の愛に勝利を得ました。これは恐ろしきことではありませんか。私共も神の円満なる愛を拒みまして、勝利を得ることができます。神の愛に負けませずして、終わりまで自分が勝つことができます。これは悪魔の勝利です。
『サタンが彼の中に入った』。神の愛を拒みましたから、サタンに処を与えました。神の愛に負けることは、私共の一番大いなる幸いです。二節を見まするならば、ユダはサタンの思想を心に受け入れました。今はそれから、漸次進みてサタン自身を心に受け入れました。私共は初めサタンの思想を受け入れまするならば、漸次進みてサタンを受け入れるかも解りません。ちょうど反対に神の思想を心に受け入れまするならば、漸次進みて神自身を受け入れますかも解りません。
『そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた』。戦慄しき命令です。もはや仕方がありません。もはやあなたを救う望みがありません。この罪を犯せよ、神を十字架に釘けよという命令です。実に戦慄しき命令です。マタイ二十五・四十一の我を離れ去れよの命令と同じことです。主は私共を罪より救いたまいとうございます。けれども、私共が主の導きに従いませんならば、主は私共をその罪に任せたまいます。『爾が爲んとする事は速かに爲せ』と命じたまいます。
『夜であった』(三十)。闇に出ました。その闇はなおなお暗き闇の雛形であります。もはやユダは暗闇に出ました。マタイ二十二・十三をご覧なさい。『外の暗闇にほうり出せ』。いま主はそれをユダに任せたまいました。この三十節は、喪いました魂です。主の聖貌の光を捨てて、主ご自身を捨てて、悪魔に導かれまして、罪を犯すために暗きに出ます。これはすべての罪の小さき例話ですと思います。すべての罪は、主の恵みを捨てます。主の慈愛を拒みます。悪魔に導かれて罪人は闇に出ます。
私共は表面から見まするならば、いま人の子は、耻を受くと思います。神また彼によりて、耻を受くると思います。けれども、信仰によりて、主の十字架の栄光を見ることができます。主は十字架の苦を耻と思い煩いたまいません。却ってその栄光を見付けたまいました。兄弟よ、私共は神に導かれて、耻と苦に会わねばなりませんならば、どうぞそれを念頭に掛けませずして、十字架の栄光ばかりを考えて進みとうございます。使徒五・四十一のごとく、『イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び』。どうぞその通りに十字架の栄光を見て、耻を厭いませずして進みとうございます。
私共は神に導かれまして、十字架を負い、耻を受けまするならば、神もそのために耻辱を受けたまいましょうか。たびたびサタンはそのような誘惑をもって、私共を誘います。私共は十字架を負いまするならば、人間に辱められまするならば、神も辱めを受けたまいましょうと誘います。けれども、却って神はそれによりて、栄を受けたまいます。どうぞそれを心に留めて思いとうございます。『神も亦みづからの榮の中に彼を榮しむ、直に彼を榮しめん』。またなおなおそれによりて、私共に栄を与えたまいます。そうですから、人間に辱められることを大切に思いましょうか。人間に辱めを受けまするならば、そのために神より栄を受けます。人間に軽蔑せられまするならば、そのために神より尊ばれます。私共は人間の辱めを避けましょうか。十字架を逃れましょうか。否、どうぞ勇気をもって、人間の辱めを厭いませずして、神の栄を得とうございます。神より尊ばれることを求めとうございます。
そうですから、主は弟子を慰めることを始めたまいます。ご自分の辱めを言いたまいました。またいつまでも、ご自分のことを思いたもうも、宜しいことでしょう。けれども主はご自分のことばかりを考えたまいません。今直ちに弟子を慰めたまいます。またここに『小子よ』と言いたまいます。実に親切なる言です。今までたびたび或いは兄弟、或いは弟子、或いは朋友と言いたまいました。けれども、今なおなお深き愛を現して、小子よと言いたまいます。『小子よ』。そうですから、弟子は悉く青年であったと思います。二十歳ぐらいの青年であったと思います。
今ままで弟子は、幾分か肉によりて主を知ることができました。けれども、今から霊によりて主を知ることを学ばねばなりません。いま主は弟子を去りたまわねばなりません。主が弟子を去りたまいまするならば、主に断えず忠実に仕える印は何でありますか。三十四節をご覧なさい。この意味は今私は汝らを去ります。汝らは常に忠実に私に仕えとうございましょう。どういう印をもって常に忠実であることを示すことができましょうか。相互に愛することによりてであります。私共はいま主の眼の前に忠実であると示しとうございまするならば、兄弟を愛することによりてであります。『善且忠なる僕ぞ』(マタイ二十五・二十一)。終わりにそういう声を聞きとうございまするならば、いま兄弟を愛する愛によって善かつ忠なることを示さねばなりません。
真正の教会の印は、何でありましょうか。私共の真正の教会は、どこであるかを尋ねまする時に、或る人は私共の教会は、かような政治上の印がありまするから、主の真正の教会であると申します。或る人はここにこういう聖典が行われてありまするから、主の真正の教会であると申します。或いはロマ教会は、使徒の時代から正統の按手式を受け続ぎましたから、真正の教会であると申します。けれども、真正の教会の証拠は政治上でありません。聖典でありません。表面上の形体ではありません。ただ愛です。『それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる』。愛によって真正の教会が解ります。どうぞわが国でこの印を見とうございます。ここで真正の教会を見とうございます。
『あなたのためなら命を捨てます』(三十七)。真正をもってそれを言いました。後にペテロは、単身にて多くのロマの兵卒と戦いました。喜びて生命を賭けて、主を救いとうございました。
『今ついて来ることはできない』(三十六)。ペテロは今は主に従うことはできません。けれども、できると思いました。またペテロの心は忠実でしたと思います。けれども、その時に十字架を負うことができません。『後でついてくることになる』。また二十一・十八に、後に十字架を負うことができると言いたまいます。けれども、いま十字架を負うことができません。
いま熱心もあります。忠実でもあります。けれども、そのために十字架を負うことができません。聖霊は死に至る道であります。何故に私共に聖霊が与えられまするかならば、主の十字架を負うためです。死に至るまで、主に従うことのできるためです。何故私共にペンテコステの聖霊が与えられますかならば、溢れるほどの喜悦を与えるためではありません。十字架を負うことのできるためです。死に至るまで主に従う力を与えるためです。教会の名誉を受くるために、聖霊を与えられますか。いいえ、そうではありません。耻を受くるためです。私共が喜んで耻を受くるために、聖霊を与えられます。
或る兄弟は、ペテロのごとく、今でも私は喜んで主イエスのために耻を受けますと申します。いま死に至るまで忠実であると申します。いま死に至るまで主に従うと言います。また真心をもって、それを言います。けれども、まだ自分の弱きことを知りません、たぶん同じ晩に賤しき婢の話のために、堕落するかも解りません。賤しき婢の話のために、ペテロは自分の弱きことを知りました。また死に至るまで主に従う力と、熱心がないことを知りました。罪に陥りしことによりて、始めてそれを知りました。兄弟よ、死に至るまで、主に従う勇気がありますか。心の中にあると思いますか、どうですか。必ずその力がありません。自分の熱心をもって、主に従いまするならば、ただ失敗となります。けれども、『後われに從はん』という約束があります。十字架を与える約束があります。あなたに耻を授ける約束があります。あなたに死を与える約束があります。『後われに從はん』。そうですから、あなたは主に従いとうございまするならば、『われ爾に聖霊を与へん』と仰せたまいます。またそれによって耻と、十字架と、死とを堪え忍ぶことができます。一度真心をもって、主に従いとうございました時に、ペテロのごとく失敗しました。けれども、そのために望みを失うてはなりません。却りて『後われに從はん』という主の約束を受け入れまして、失敗のために、自分の弱きことを知りまして、聖霊によりて、死のバプテスマを求めとうございます。また聖霊によりて、私共は耻にも、十字架にも、勝利を得まして、主に従うことができます。おお兄弟よ、主は『後われに從はん』と仰せたまいます。
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