第 四 章
第四章の説話は主と共に一時間を送る事であります。またその一時間の結果です。私共は主と共に一時間ばかりを費しまするならば、この婦のように大いなる結果を受けられます。また他の方面より見ますれば、個人伝道によって市中に大いなるリバイバルが起こります。それによって個人伝道の大切なることをご覧なさい。私共は市中に大いなるリバイバルを起しとうございまするならば、数千人の人々を集めて大説教会を開かなければならぬと思います。けれども主はここで一個人によって、大いなるリバイバルを起こしたまいました。
そうですから主の弟子はヨハネよりも多数の人々にバプテスマを施しました。これは実に大いなる働きでありました。その時にヨハネは多数の人々を悔い改めさせましたが、主はそれよりもなおなお大いなる働きをなしたまいました。主の伝道は成功ある伝道でありました。けれどもただいま主はユダヤを去りたまいます。ユダヤは何処でありますか。ユダヤは神の撰びたもうたる処にして、その真中には神の住まいたもう宮殿があります。けれども主はただいま自分の国から追い出されたまいました。自分の宮殿から追い出されたまいました。そうですから主は汚れたるサマリアに行きまして一人の罪人を導きたまいます。救い主が来りたまいますれば、ユダヤ人は皆々歓んでこれを迎える筈でした。けれども却ってこれを謝絶りました。主はユダヤ人の王となることができませんから、退きて静かにサマリアの最も賤しき者を救いたまいました。その溢れる恩寵はここで拒まれまするならば、ぜひ他処に溢れなければなりません。ユダヤ人は神の選民と称せられる者でしたが、そのユダヤ人が主の恩寵を謝絶りまするならば、神に棄てられたと賤しめられしサマリア人を追い求めたまいます。また啻にそれのみではありません。この婦はサマリア人の中でも一番汚れたる者でした。ちょうど五章のベテスダの池に伏している一番望みのなき重病人を癒したまいましたように、ここで一番賤しき最も汚れたる罪人を撰んで大いなる恩寵を与えたまいます。
本章とルカ伝十五章を比較べてみますれば、この二つの事柄の上に同じ霊の意味と光を見ます。かの十五章の第一の話に、牧者は失われたる一匹の羊を追い求めます。ただいま同じように主は失われたる一人のサマリア人を追い求めたまいます。十五章の第二の話に婦が失いたる金銭一枚を尋ねまするように、ただいま主イエスは人々に棄てられた婦の価値を覧たもうて、その価値ある魂を切に尋ねたまいます。それから第三の話にある放蕩息子は、自分の故郷を捨てて遠国に漂泊いついに再び父の家に帰りますように、今汚れたる婦は悔い改めまして父の許に参ることを見ます。またそれによって父の喜楽を見まするごとく(ルカ十五・三十二)、いま救い主の喜楽を見ます(四・三十六)。彼処に父は喜んで放蕩息子を受け入れ、もう一度饗筵を設けて皆一処に楽しみます。ここにおいてただいま救い主も神もサマリア人もみな一処に喜んで救いの饗筵に与ります。何卒この両章の事柄を比較べて、よくよくこれを味わいとうございます。
サマリアは汚れたる処です。けれども主は罪人を救うために、その汚れたる処に参らなければなりません。それを経ずして行くことをできません。これは実に大いなる幸福でした。
主は疲労を覚えたまいました。渇きを覚えたまいました。ここに霊なる意味もあります。主は汚れたる罪人を救わんがために渇きをも疲労をも堪え忍びたまわねばなりません。ここに疲れたる救い主と、疲れたる罪人とを見ます。疲れたる救い主は疲れたる罪人に安息を与えたまいます。時は主がユダヤを去りたもうたる日でした。主がユダヤを去りたまわねばならぬ日でした。主はこの時イザヤ四十九・四を叫びたまいましたかも知れません。けれども神の答えは何でありますか。イザヤ四十九・六にあるごとく『異邦人の光となし』、すなわち今サマリア人の光となして人間を癒すことであったと思います。
いま主は労れたる者を救いたまいます。主は実にこの疲れたる婦、汚れたる罪人にもの言うことができました(イザヤ五十・四)。『イエスは、「水を飲ませてください」と言われた』(七)。これによって王の王たる主イエスの謙遜をご覧なさい。己を卑しくしたもうたことをご覧なさい。ユダヤ人はサマリア人と談話を致しません。サマリア人にもの言うことは厭うて少しも致しません。ましてかくのごとく汚れたる婦にもの言うことはなおさらこれを嫌いました。ユダヤ人は自分の聖なること、自分のユダヤ人たることを覚えまして、必ずそういうことは致しません。ましてその者に恩を求めるようなことは決して致しません。けれどもただいま主イエスの謙遜を見ます。主はこの汚れたる婦を救わんがために喜んでその恩を願いたまいます。およそ人が恩を他人に求めますならば、必ずその人より卑賤しき者であることを示します。主はこの婦よりもご自分を卑賤しい地位まで降したまいました。この罪人の魂を救わんがために、卑賤しい地位まで降りたまいました。万物の主、王の王たる主イエスはただいま何物をも有ちたまいません。却って汚れたるサマリアの婦、人々に棄てられた者に恩を求いたまわねばなりません。
世人は十節に示されてあることを知りませんからそのために亡びます。神はただいま恩恵を与えたまいます。人々はそれを知りません。神は真実に大いなる恩恵を与えたまいとうございます。幸福なる賜物を与えたまいとうございます。『イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」』。いま神はご自分を卑くして、あなたがたのごとくなりたもうことと悟りませんか。我に飲ませよとあなたに求いたもうまで、ご自分を卑くしてあなたがたのごとくなりたもうことを知りませんか。世の罪人はそれを認めることはできません。却って神は高い処に在すものと思います。神はただ遠く在したもうものと思い、ご自分を卑くして彼らのごとくなりたもうことを知りません。そうですからそのために亡びます。
私共は伝道いたしまする時に、この二つのことを罪人に悟らせなければなりません。すなわち第一は神の与えたもう賜物です。第二は神がご自分を卑くしたもうことです。この二つを罪人に悟らせなければなりません。何人でもこの二つのことを知りまするならば救われます。この二つのことは救拯の種です。この二つのことを知りますならば、罪人は必ず神に恩恵を求めます。また神より活ける水を頂戴することができます。私共は罪人にこの二つのことを示しまするならば、罪人は私共に注意わずして、直接に神に近づきて只管神に龥び求め、活ける水を頂戴します。これは真正の伝道です。この二つのことを語を換えて申しますならば、聖霊とキリストです。活ける水は聖霊です。『だれであるかを知っていたならば』、誰とはキリストです。すなわち聖霊とキリストです。けれどもそれのみではありません。ここに父なる神をも見ます。聖霊は父なる神の賜物ですから、父なる神、子なる神、聖霊なる神を知ることができます。神学的に罪人を教えまするならば無益です。けれども主イエスは十節のごとく経験的に三位一体の真理を教えたまいました。何卒私共もかくのごとく神学的に教えずに、経験的に教えとうございます。十節のごとく三位一体の神を罪人に示しますならば、罪人は大いなる利益です。主はこのように罪人と語ることを好みたまいます。主はこの罪人がいまだ知らざることを示したまいとうございます(エレミヤ三十三・三)。ただいま主はこの汚れたる罪人に『知らざる大なる事と秘密たる事』を示したまいとうございます。主はちょうどそのように私共にも竊かに近づきたまいまして、私共がいまだ知らざる大いなることと、秘密れたることを示したまいとうございます。けれども私共は十一節のような愚かなる卑しい考えをもって、主の高い教旨を受け入れません。主はいまだ知らざることを示したまいとうございます。けれどもこの婦はいままでに知り得たる物質の卑しい考えをもってそれを聞きます。私共はしばしば主の霊なる教旨を受ける時に、この婦と同じ過失に陥ることがあると思います。主は私共にいまだ知らざることを教えたまいとうございます。けれども私共は心の中に幾分かそれを知ると思って答えます。そうですから未だ知らざる霊なる教旨を受け入れることができません。光より光に進むことができません。この婦は主の言葉の意味が了りません。けれども幾分か主が水について言いたまいましたから、井戸のことを憶い起して十一節のように答えます。これは実に愚かなることです。私共はかくのごとき時にゼカリヤ四・五のように、『我主よ 知らず』と答えとうございます。私共はたびたびわが主よ能く知ると申しませんか。けれども知らずと答えまするならば、主は私共に未だ知らざる大いなることを示したまいます。
この時に主は物質的の水によって、なおなお深いことを教えたまいとうございます。婦はただ眼に見ゆる水を見ました。神はたびたび野の花によって、吹く風によって、太陽、光などのさまざまなる物によって、深遠なる真理を教えたまいとうございます。それによって大いなる恩恵を与えたまいとうございます。どうぞこの婦のようにただ眼に見ゆることのみならず、神より賜わる新しき恩恵を受け入れとうございます。本章において今日格別に教えられましたことは己を卑くすることです。三章の終わりにヨハネは喜んで己を卑くいたしました。本章の始めに神は喜んでご自分を卑くしたもうことを見ます。この二つの例証によって、神の栄光を顕すために己を卑くすることを学びとうございます。また神はご自分を卑くして私共のごとくなりたもうことを見とうございます。神はたびたび汚れたる罪人の足下に座って、その汚れたる罪人に恩賜を求いたまいます。何卒それによって主の大いなる栄光をご覧なさい。
婦は深遠なる主の奥義を聞きました。けれどもただ理屈をもってこれを判断いたしました。『女は言った、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」』(十一)。これは理屈に叶うことです。けれども理屈と信仰とはたびたび反対です。自然の理法と神の祐助とはたびたび反対であります。神は自然の上に超越れたもうものですから、理屈をもって神の約束、神の黙示を判断致しませずして、どうぞそのまま真理を受け入れとうございます。主が何処より汲んでその水をくださるかを解りませんでも、どうぞそのまま真理を受け入れとうございます。
この婦は水を汲むために毎日井戸に参らなければなりません。毎日働いてただその日のために些少の水を汲みます。ちょうど信者の中にもそのような者があると思います。毎日その日のためにただ些少の水を汲まんがために主の許に参ります。けれども真正の救い、真正の主の恩恵は何でありますかならば、主が人々の心の中に井戸を造りたもうことです。これが真正の救いであります。そうですから真正の主の救いはひとたび井戸を頂戴することであります。そのときから泉となりて湧き出ます。十三節を見ますれば、ちょうどかの放蕩息子のようではありませんか。遠国へ旅行まして世に属ける水を充分飲みました。けれども現世の水は満足を与えません、すぐに渇きました。その時家庭に帰りまして、恩恵の泉を受けました。それから永く父とともにおりましてから、十四節のごとく絶えず絶えず恩恵の泉が湧き出まして、少しも渇かないようになりました。神は私共にこれと同じ約束を与えたまいます。イザヤ書五十八・十一、エレミヤ記十七・八をご覧なさい。この二つは同じ例ではありませんが、同じ霊の意味であります。自分の心の中に恩恵の泉を有っておりますから、恩恵の源まで根を出しておりますから、絶えず恩恵に充たされております。
またこの十三、十四両節は肉に属ける信者と霊に属ける信者との区別を見ます。肉に属ける信者は絶えず外部より恩恵を受けます。そういう信者は救われました。神の子供となりました。けれども真正の恩恵を受け入れたのではありません。これに反して、霊に属ける信者は心の中に恩恵の泉があります。これが真正の神の恩恵です。旱の年にも豊年にも、絶えず潤いたる園のように、心の中に恩恵の泉があります。これが真正の神の恩恵であります。創世記二十六・十九をご覧なさい。『イサクの僕 谷に掘て其處に泉の湧出る井を得たり』。兄弟よ、私共はその井戸を得ましたか。どうぞそれを得たいものであると思います。
この婦は自分の苦労を深く感じました。また自分の欠乏を深く感じました。けれども未だ自分の罪を感じません。私共はたびたび自分の苦労を感じます。自分の欠乏を感じます。けれども自分の罪を感じません。いま婦は『その水をください』と祈りました。主はその祈禱に応えたまいました。けれども最初その婦に罪を感じさせなければなりません。そうですから婦の祈禱に対する主の答えは何でありますかならば、婦の少しも心付かないことです。十六節の主の答えは十五節に少しも関係がありませんと思います。けれども実は密接なる関係があります。主は婦の祈禱に応えんがために、かくのごとく命じたまいます。まず婦に罪を感ぜしめんがためにかくのごとく命じたまいます。主はたびたび私共の祈禱によりて直ちに恩恵を与えたもうことができません。けれどもそれを与えんがために十六節のごとき命令を与えたまいます。罪を感ぜしめたまいます。
もはや神の言葉は心を刺しました。神の光は心の底まで照らしました。神は悉くその罪と汚れを知りたもうことを解りました。主はここにこの婦にその罪を示したまいました。どうぞ次の主の救いの順序をご覧なさい。
第一 ご自分が与える恩恵を示したまいます(一〜十五)
第二 罪人に自己の汚れを示したまいます(十六〜十八)
第三 ご自分を示したまいます(二十六)
そうですからこの婦は神の恩恵を頂戴するため、自己の罪を承知しなければなりません。神の聖前にはいかなることをも隠すことはできません(ヘブル四・十三)。けれども同時に大いなる恩恵を見ます。神は一切の不義を示したまいます。けれども活ける水を与えたまいます。私共は神の聖前に自己の罪を隠しとうございます。けれども神はそれを示したまいます。またそれにかかわらずして、私共に活ける水を与えたまいました。そのとき主は宗教心あるユダヤ人に活ける水を与えたまわずして、却って賤しき者の中の、最も賤しき者に与えたまいました。これは真正の恩恵であります。私共はこの婦よりも却って活ける水を受ける価値がありません。それを教えんがために一番賤しい者にこの恩恵を与えたまいました。かくのごとく神の言葉はもはや罪人の心を刺しました。この婦は自己の隠れたる罪も神の聖前に露われましたから、いま神を拝しとうございます(コリント前書十四・二十五)。そうですから直ちに二十節において、拝することについて申します。
婦は今まで拝することについて曖昧でした。けれども主はそれについて明らかなる光を与えたまいます。私共は未だ罪を感じませんならば、父を拝することについて曖昧でしょう。けれども主の恩恵を受け入れまするならば、明白になります。主は私共の心を教えます。
今まで萬殊なる表号をもって神を拝しておりました。たとえば屠られたる羊をもって神を拝しておりました。それは真をもって神を拝することではありません。ただ雛形をもって神を拝しておりました。ただ影をもって神を拝しておりました。けれどもただいま真をもって神を拝する時が来りました。今までは壇の上に供え物を献げて神を拝しておりました。けれどもただいま真実に自分を捧げて神を拝する時が来りました。今までは宮の中に点せる燈火によって、或いはパンをもって、或いは香をもって父を拝しておりました。けれどもただいま霊と真とをもって父を拝する時が来りました。私共は子供の時には雛形をもって父を拝することもよろしいでしょう。けれどもただいま光を受けましたから、真をもって事実をもって父を拝さなければなりません。私共は未だそれを学んでおらんと思います。私共は外面のことをもって父を拝しとうございます。或いは表面の集会において、或いは表面の教会の中で父を拝しとうございます。けれども父は真をもって拝することを要めたまいます。霊をもって拝することを要めたまいます。
そもそも礼拝は祈禱よりも深遠なることであります。神を拝することは、神と交わることよりも深いことです。天の使の拝することをご覧なさい。神の宝座の前に俯伏して、冠を投げ捨てて神を拝します。これは真正の礼拝です。自己を捨てて神の大いなることを感じまして神を讃美することは、真正に神を拝することです。真正の礼拝は、神の凡ての凡て(all in all)なること、人間は無が如き者(nothing)なることを感じまして神を拝することです。兄弟よ、私共はかくのごとき心を有ちますか。この二十三節を見ますならば、父はかくのごとく拝する者を要めたまいます。ヘブル書の大意は真正の礼拝です。この書は実に深遠なる真理であります。私共はこの書に由りて天国に行なわれるごとき真正の礼拝を学びます。この書に由りて霊と真とをもって父を拝することを学びます。善き牧者は多数の羊を求めます。父なる神はかくのごとく拝する者を多く見出したまいとうございます。そうですからかくのごとく人々が心を一つにしてたくさん集まりますならば、真正の礼拝が行なわれます。みな神を仰いで神は凡ての凡てなり、人間は無が如き者なるを覚えまして、身も霊も捧げて神を讃美することは真正の礼拝であります。現代は集会においてかく拝することはたぶん好機会ではありませんと思います。現代は静かなる処においてただ一人、神を拝する方が好機会であるかも知れません。
また私共は神の子たる心をもって神を拝せねばなりません。神の聖旨に叶う真正の礼拝は、いつでも神の子供たる心をもって拝することです。サマリアの婦は父ということを聞きました時に驚いたでありましょう。はじめて父なりと聞きました時には解らなかったでありましょう。けれどもかく拝しますならば父を拝することができる筈です。私共は心の中に十四節の泉を持っておりますならば、二十三節の真正の礼拝をすることができる筈です。
私共はたびたびかくのごとき愚かなる答えをいたします。主は明らかに光を与えたまいます。けれどもただいまそういうことを解らんと思います。未来においてそのことが解るでしょうと思います。これは不信仰です。神はただいま全き光を与えたまいとうございます。今は恩恵の時です。私共はたびたび未来において光を得ようと思います。けれどもこれは不信仰です。信仰は現在です。今願うところのものを得たりと言うことが信仰です。
けれども主は忍耐をもって婦の鈍き心を漸次導きたまいます。善き牧者は群を離れて迷える羊を求めたまいます。
主はご自分を示したまいます。『このわたしである』と仰せたまいます。ヱホバの名の意味はわたしは有るという意味です。原語を見まするならば二十六節に『わたしは有る』と言いたまいます。すなわち我はヱホバという意味です。ユダヤ人はその名を言うことを畏れます。わたしは有るという名を畏れて申しません。けれども主はここで自らその尊貴き名を仰せたまいます。わたしは有るといいたまいます。原語を見まするならば、たびたびかくのごときことを見ます。すなわち『爾曹もし我の彼なるを信ぜずば』(八・二十四)とは、『あなたがたがもしわたしが有ることを信じなければ』の意味です。また『我の彼なるを知り』(八・二十八)とは『わたしのわたしは有るを知り』の意味です。それによって主はご自分のヱホバなることを示したまいます。ただいまサマリアの婦も霊と真をもって主を拝したかも知れません。二十五節を見ますれば曖昧なる望みを見ます。二十六節を見まするならば、現在の事実を見ます。主はかくのごとくたびたび私共に同じ恩恵を与えたまいます。私共は心の中に曖昧なる望みがあります。聖霊を受けることについて曖昧なる望みがあります。けれどもそれは完全き信仰ではありません。主はご自分を示したもうことによって真と事実を与えたまいます。本節において主は、ルカ十五章の放蕩息子の父がその子を受け入れる喜楽と同じ喜楽を持って接吻したもうことを見ます。
婦は九節において奇しみました。今また弟子も奇しみました。主が罪人と物語いたもうことは奇しむべきことです。主が私共のごとくご自分を卑くして語りたもうことは実に奇しむべきことです。『「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった』。ここに一種の不思議なることを見たと思います。主の容貌に由りて幾分かその栄光を見たと思います。そのとき問える者はありませなんだ。問うことを畏れました。マルコ十・三十二をご覧なさい。その時にも主の容貌に一種の栄光を見ましたから、畏れて従いました。今ここに同じ事実を見ます。
神の栄光を見ました時に、『汝なんぞ然するや』と言うことはできません(ダニエル書四・三十五)。いま弟子等は幾分か主の神たる栄光を見ましたから、『イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった』。すなわち幾分か主の栄光が解りました。
いま婦は水瓶を忘れました。今までその水瓶は婦の第一の大切なる所有でした。ただそれにのみ気を付けておりました。けれどもいま主の栄光が示われましたから、全く水瓶を忘れました。おお私共も主の栄光を見まするならば、今まで大切にしておりました水瓶を忘れます。兄弟よ、私共に他の偶像がありますか。心の中に水瓶のような賤しき偶像がありますか。もしひとたび主の栄光を見ますならば、却ってそれが重荷となりますから、喜んでこれを捨ててしまいます。パウロは往年、種々の偶像がありました。名誉の偶像、宗教の偶像、高位の偶像がありました。この婦のように毎日この偶像のために力を尽くしておりました。けれどもピリピ三・七、八のごとく、主の栄光を見ました時にその水瓶を忘れました。喜んでそれを捨てました。今まで水瓶は役に立ちました。毎日その水瓶をもって水を貰いました。正義によって宗教によって満足を得んと致しました。けれどもいま主の栄光を見まして、心の中より湧き出る泉を貰いましたから、その水瓶を遺れます。いま水瓶が却って重荷となります。今まで無くてならぬ水瓶、無くてならぬ宗教、ユダヤ人の儀式、一切これらのものは重荷となって、糞土のごとく意いました。おお兄弟よ、私共もそれほどの恩恵を頂戴しましたか。今までの無くてならぬ水瓶を捨てるほどに恩恵を受け入れましたか。それほどまでに主の栄光を見ましたか。真正の献身はそこです。真正の献身は、自己を苦しめて、無くてならぬものを捨てることではありません。真正の献身は、主の栄光を見まして役に立たん水瓶を捨てることです。真正の献身は主の栄光を見て満足し、他のことを一切重荷と意うことです。肉に属ける財宝、肉に属ける喜悦、肉に属ける名誉などは、神の光を覆いますから、却ってかくのごときものを悪み、喜んでその悪ましきことを捨てるのが、すなわち真正の献身です。
私共の身体はこのように地上にありますから、恒に地球の引力に曳き付けられております。けれども漸次太陽に近づきまするならば、太陽の引力に曳かれまして地球の方を遠ざかり、自然にただ太陽の方に参るようになります。私共は最初は世の引力に曳かれまして世を捨つることは困難です。けれども漸次昇りまして、ついに主の引力の中に来りまするならば、自然に世を離れて主に近づいて参ります。自然に世のことを捨てて、ただ主を得んがために進みます。ピリピ三章を見まするならば、パウロにそのとき少しも世の引力を感じません。ただ主の引力に曳かれまして、主を得んがために『後ろのものを忘れ』『目標を目指して走り』ました(十三、十四節)。
三章に三位一体なる神の働きを見ました。ここにまた主は三位一体なる神を教えたまいます。
第一、十〜十五節は聖霊なる神を指します。活ける水を溢れるほど心の中に受け入れることを教えたまいます。
第二、十九〜二十四節は父なる神を指します。父なる神を拝することについて教えたまいます。
第三、二十五、二十六節は子なる神を指します。ご自分を示したまいます。
主は神学的に三位一体なる神を教えたまいません。けれどもかく容易なる方法をもって三位一体なる神の働きとその恩恵を教えたまいます。
この婦は邑を出ました時には、賤しき罪人でした。けれども一時間ほど経って帰りました時には、霊に導かれたる伝道婦でありました。実に大いなる変化がありました。その変化は何処より来ましたか。それは一時間ほど静かに主と語り合いましたからです。それに由りてこの大いなる変化が生じました。またこの婦は心の中に溢れるほど活ける水を頂きましたから、何処にでも主を証ししなければなりません。真正に十四節の経験を受けました。そのとき十二人の使徒はサマリアの邑に行きまして僅少の食物を携って参りました。けれども人々より賤しめられたこのサマリアの婦は邑に行きまして、その住民のほとんど半分ほどを主の許に携れ来りました。その時にこの婦は十二人の使徒よりも遙かに優れたる伝道士でありました。この婦は何を深く感じましたか。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません』と申しました。主のキリストなることが解りました。一・四十九を見まするならば、ナタナエルも同じく自分の行しし一切のことが主に知られしことに由りて、主の神の子たることを解りました。すなわちそのことを知る者は必ず肉身なる者ではなく神なることを解りました。ダニエル書二・十一(『肉身なる者と共に居ざる神々を除きては……これを示すことを得る者無るべし』)、アモス書四・十三(『彼は……人の思想の如何なるかをその人に示し』)のごとく、主はこのときに婦にその思想の如何なるかを示したまいましたから、婦はそれによって主の神ヱホバなることを知りました。
善き牧者は失われたる羊を携て帰りましたから、大いなる喜楽があります。それは主の心に満足を与えました。放蕩息子は自分の家に帰りました時に、何人も饗筵に与りました。主は今その饗筵に与りたまいましたから、身体の食物を要しません。
私共の受けまする霊の食物は何でありますか。霊の食物は三つあります。
第一、父なる神の旨を成就すること(三十四)
第二、子なる神の肉を食うこと(六・五十五)
第三、聖霊なる神に与えられたる言を食うこと(エレミヤ十五・十六)
この三つは私共の食事です。何卒恒に豊かにこれを食しとうございます。
弟子等も婦のごとく主の意味を誤解りました。ただ物質の意味のみが了りました。
主はこの世に来りたまえる時には、ヘブル十・七のごとく『御心を行うために』とて来りたまいました。そうして世を去りたもう時には、『わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました』(ヨハネ十七・四)と祈りたまいました。
私共はたびたび『刈り入れまでまだ四か月もある』と言います。伝道の穫時もただいまではないと言います。けれども主が伝道の田を見たまいますれば、はや熟きて穫時です。これは何処でありますかならば、サマリアです。大いなる特権を受けましたユダヤではなく却って汚れたるサマリアです。けれどもそこにでもただ今は種蒔の時ではなく穫時であります。私共はたびたび種蒔の時であると思います。故に眼を挙げてご覧なさい。今は恩恵の時であります。今は穫時であります。主はサマリア人についてこの言葉を言いたまいました。マタイ九・三十六〜三十八とこの節を対照なさい。当時主はユダヤにおりたまいました。ユダヤにも本節と同じことを言いたまいました。それによりて幾分か主の心を曉られると思います。主はユダヤにも罪人の重荷を負いたまいました。サマリアにも同じく罪人の重荷を負いたまいました。どうぞそれを深く味わいとうございます。また収穫の多きためにいかなることを仰せたまいますか。マタイ九・三十八には祈ることを求めたまいます。九・三十七には働きを求めたまいます。
どうぞかく眼を挙げて罪人の模様をご覧なさい。また今は収穫時なるを信じて、望みをもってそれをご覧なさい。また同時にそのために祈ることと働くことをお勉めなさい。
これはサマリアに起これる最初の大いなるリバイバルでした。使徒八章に第二の大いなるリバイバルを見ます。主はここにて異能をなしたまわず、ただ言のみを用いたまいました。これによってサマリア人の信仰の進みていることをご覧なさい。ユダヤ人はたいてい異能のために信じました(四十五)。けれどもサマリア人は言によって信じました。
言によって信ずることは完全なる信仰です。十四・十一をご覧なさい。主はかくのごとき言に因りて信ずる信仰を最も願わしく思いたまいます。けれどもかくのごとき信仰ができませんならば、主の行いによって信ずる信仰を願いたまいます。二十・二十九にも同じ真理を見ます。見て信ずることは肉に属ける信仰です。見ずして信ずることは真正の信仰です。私共はたびたび肉に属ける信仰を有つと思います。神はいかなる信仰を求いたまいますか。ただ言をそのままに信ずることを求いたまいます。そうですからサマリア人の信仰とガリラヤ人の信仰は大いなる差があります。それをなお説明するために四十七節以下の話があります。この話の大意は同じことです。すなわち行いを信ずることでなくただ言のみを信ずることです。どうぞ四十八節と五十節を比べとうございます。
もう一度四十二節をご覧なさい。『この方が本当に世の救い主であると分かったからです』とは実に深い悟りです。今までそれを信じたる者は一人もありません。ナタナエルは主を信じました。けれども『あなたはイスラエルの王です』(一・四十九)と申しました。今サマリア人はなおなお深い悟りを得ました。イエスを世の救い主と知りました。私共はたびたびかくのごときことを見ます。罪人が悔い改めますならば、義しき人にても却って深い悟りを得ます。サタンはたびたび虚言を搆いて、あなたは過去の生涯においてたくさん罪を犯しましたからただいま神より深い恩恵を受けることができんと欺きます。けれども真理はちょうど反対です。私共は罪を悔い改めますれば、神の家庭に帰りました放蕩息子のごとくに、大いなる饗筵を設けたまいます。そうですから罪が赦されましたならば、どうぞ神の子たる特権を悉く受け入れとうございます。
主は格別にユダヤの救い主でありました。そのために世に来りたまいました。今サマリアにおいて実に収稼の喜楽に与りました。サマリアの収稼を見ますならば、主の心は実に喜ばしいです。けれども主はユダヤを救わんがために世に遣わされたまいました。そうですからほかに成功ある伝道地がありましても、そこを去りて神の聖旨に順うて、ご自分の受け持つ伝道地に参りたまわねばなりません。またそれのみならず主は世にある間に恥辱を受けたもうことは定まれることでした。ご自分の国にも恥辱を受けたまいましたが、それに拘わらずしてその処に行きたまわねばなりません。主は収稼の喜楽を捨てて、神の聖旨に順いガリラヤに赴きたまいました。主の十字架に釘けられたまいましたも同じ精神です。すなわち容易なる道を捨てて、苦痛と恥辱の道を歩みたまいました。人間の眼から見ますならば愚かなることのようです。けれどもそれが成功の途であります。
そうですから勢力のある弟子を受け入れるには好機会でありました。今まで主の弟子はただ卑賤しき漁夫でした。いま王の大臣は主の足下に参りて恩恵を乞いました。そうですから主がもし肉の考えを有ちたまいしならば、丁寧に王の大臣を待遇いたもうたでありましょう。その人に格別なる恩を施したもうたでありましょう。私共はたびたびこういう過失に陥り易うございます。けれども主は全くそのような考えを捨てたまいました。全くそのような考えを離れて、その人を接けたもう仕方は、むしろ冷淡でありました。
四十五節のようにこれがガリラヤ人の特質です。
『その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った』。かくのごとき場合には、祈るならば不信仰の験です。この人は信じましたから、祈禱を止めて起ちました。私共はたびたび熱心なる祈禱は不信仰に由れることがあります。もし信じましたならば祈禱を止めてすぐに起つ筈です。『ヱホバ、ヨシュアに言たまひけるは 立よ なんぢ何とて斯は俯伏すや』(ヨシュア七・十)。時によって主の言葉を信じ罪を捨てて起つことは、祈ることよりも却って善いことです。けれども私共は何時祈禱を止めて、約束を信じて断然蹶起ましょうか。これは実に難しいことです。けれども聖霊に導かれて祈りまするなれば、聖霊は私共に教えたまいます。
今この人は主の言いたまいし言葉を信じて去りました。自ら心を安めました(歴代誌下三十二・八『民はユダの王ヒゼキヤの言に安んず』)。これは真正の信仰です。主の言を信じて安心して主の足下を去りました。
ここにて信仰の三段階を学びとうございます。
第一、この人は信仰に由りて主のその家に来りたまわんことを願いました(四十七)。この人の信仰の中には、望みも恐れも二つながらにありました。これは完全き信仰ではありません。この人は信仰がありましたから主を依り頼みました。けれども未だ肉に属ける信仰でありました。主ご自身が自分の家に来りたまいませぬならば、癒されることはできぬと思いました。幾分か眼に見ゆることに由りて信じました。これは完全き信仰ではありません。主はその信仰を見たもうて、肉に属ける思いを除りたまいました。そうですから少しも家に行きたまわずして癒されました。
第二はただ約束を信ずることです。そのままに主の約束を信ずることです(五十)。
第三、信仰は確知ことに成って参りました。この人は主が『なんぢの子は生るなり』と言いたまいし言を信じて主の足下を去りましたが、果たしてその言のように、今その子が生きていること、癒されたることを見るに至りました。第二の、言を信ずることは、裸なる信仰です。その後に信仰が進んで知ることに成って参ります。かくのごとく真正の信仰は順次成長いたします。
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