第 四 章 



 第四章の説話はなししゅと共に一時間を送る事であります。またその一時間の結果です。私共わたくしどもは主と共に一時間ばかりを費しまするならば、このおんなのように大いなる結果を受けられます。またほかの方面より見ますれば、個人伝道によって市中に大いなるリバイバルが起こります。それによって個人伝道の大切なることをご覧なさい。私共は市中に大いなるリバイバルを起しとうございまするならば、数千人の人々を集めて大説教会を開かなければならぬと思います。けれども主はここで一個人によって、大いなるリバイバルを起こしたまいました。

一〜三節

 そうですから主の弟子はヨハネよりも多数の人々にバプテスマを施しました。これは実に大いなる働きでありました。その時にヨハネは多数の人々を悔い改めさせましたが、主はそれよりもなおなお大いなる働きをなしたまいました。主の伝道は成功ある伝道でありました。けれどもただいま主はユダヤを去りたまいます。ユダヤは何処どこでありますか。ユダヤは神の撰びたもうたるところにして、その真中には神の住まいたもう宮殿みやがあります。けれども主はただいま自分の国から追い出されたまいました。自分の宮殿みやから追い出されたまいました。そうですから主はけがれたるサマリアに行きまして一人の罪人つみびとを導きたまいます。救い主がきたりたまいますれば、ユダヤびとは皆々よろこんでこれを迎えるはずでした。けれどもかえってこれを謝絶ことわりました。主はユダヤ人の王となることができませんから、退きて静かにサマリアの最もいやしき者を救いたまいました。その溢れる恩寵めぐみはここで拒まれまするならば、ぜひ他処ほかに溢れなければなりません。ユダヤ人は神の選民と称せられる者でしたが、そのユダヤ人が主の恩寵めぐみ謝絶ことわりまするならば、神に棄てられたと賤しめられしサマリアびとを追い求めたまいます。またただにそれのみではありません。このおんなはサマリア人の中でも一番けがれたる者でした。ちょうど五章のベテスダの池に伏している一番望みのなき重病人を癒したまいましたように、ここで一番賤しき最も汚れたる罪人を撰んで大いなる恩寵めぐみを与えたまいます。

 本章とルカ伝十五章比較くらべてみますれば、この二つの事柄の上に同じ霊の意味と光を見ます。かの十五章の第一の話に、牧者は失われたる一匹の羊を追い求めます。ただいま同じように主は失われたる一人のサマリアびとを追い求めたまいます。十五章の第二の話におんなが失いたる金銭きんす一枚を尋ねまするように、ただいま主イエスは人々に棄てられた婦の価値ねうちたもうて、その価値ねうちある魂をねんごろに尋ねたまいます。それから第三の話にある放蕩息子は、自分の故郷ふるさとを捨てて遠国に漂泊さまよいついに再び父の家に帰りますように、今けがれたる婦は悔い改めまして父のもとに参ることを見ます。またそれによって父の喜楽よろこびを見まするごとく(ルカ十五・三十二)、いま救い主の喜楽よろこびを見ます(四・三十六)。彼処かしこに父は喜んで放蕩息子を受け入れ、もう一度饗筵ふるまいを設けて皆一処いっしょに楽しみます。ここにおいてただいま救い主も神もサマリア人もみな一処いっしょに喜んで救いの饗筵にあずかります。何卒なにとぞこの両章の事柄を比較くらべて、よくよくこれを味わいとうございます。

四  節

 サマリアはけがれたるところです。けれども主は罪人つみびとを救うために、その汚れたる処に参らなければなりません。それを経ずして行くことをできません。これは実に大いなる幸福さいわいでした。

五、六節

 主は疲労つかれを覚えたまいました。渇きを覚えたまいました。ここに霊なる意味もあります。主はけがれたる罪人つみびとを救わんがために渇きをも疲労つかれをも堪え忍びたまわねばなりません。ここに疲れたる救い主と、疲れたる罪人とを見ます。疲れたる救い主は疲れたる罪人に安息やすみを与えたまいます。時は主がユダヤを去りたもうたる日でした。主がユダヤを去りたまわねばならぬ日でした。主はこの時イザヤ四十九・四を叫びたまいましたかも知れません。けれども神の答えは何でありますか。イザヤ四十九・六にあるごとく『異邦人ことくにびとの光となし』、すなわち今サマリアびとの光となして人間を癒すことであったと思います。

七、八節

 いま主はつかれたる者を救いたまいます。主は実にこの疲れたるおんなけがれたる罪人つみびとにもの言うことができました(イザヤ五十・四)。『イエスは、「水を飲ませてください」と言われた』()。これによって王の王たる主イエスの謙遜をご覧なさい。おのれいやしくしたもうたことをご覧なさい。ユダヤびとはサマリアびと談話はなしを致しません。サマリア人にもの言うことは厭うて少しも致しません。ましてかくのごとく汚れたる婦にもの言うことはなおさらこれを嫌いました。ユダヤ人は自分おのれの聖なること、自分じぶんのユダヤ人たることを覚えまして、必ずそういうことは致しません。ましてその者にめぐみを求めるようなことは決して致しません。けれどもただいま主イエスの謙遜を見ます。主はこの汚れたる婦を救わんがために喜んでその恩を願いたまいます。およそ人が恩を他人に求めますならば、必ずその人より卑賤いやしき者であることを示します。主はこの婦よりもご自分を卑賤いやしい地位まで降したまいました。この罪人の魂を救わんがために、卑賤いやしい地位まで降りたまいました。万物の主、王の王たる主イエスはただいま何物をもちたまいません。かえって汚れたるサマリアの婦、人々に棄てられた者に恩をねがいたまわねばなりません。

九〜十一節

 世人よのひと十節に示されてあることを知りませんからそのために亡びます。神はただいま恩恵めぐみを与えたまいます。人々はそれを知りません。神は真実に大いなる恩恵を与えたまいとうございます。幸福さいわいなる賜物を与えたまいとうございます。『イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」』。いま神はご自分をひくくして、あなたがたのごとくなりたもうことと悟りませんか。我に飲ませよとあなたにねがいたもうまで、ご自分をひくくしてあなたがたのごとくなりたもうことを知りませんか。世の罪人つみびとはそれを認めることはできません。かえって神は高いところいますものと思います。神はただ遠く在したもうものと思い、ご自分をひくくして彼らのごとくなりたもうことを知りません。そうですからそのために亡びます。

 私共は伝道いたしまする時に、この二つのことを罪人つみびとに悟らせなければなりません。すなわち第一は神の与えたもう賜物です。第二は神がご自分をひくくしたもうことです。この二つを罪人に悟らせなければなりません。何人なんぴとでもこの二つのことを知りまするならば救われます。この二つのことは救拯すくいたねです。この二つのことを知りますならば、罪人は必ず神に恩恵めぐみを求めます。また神よりける水を頂戴することができます。私共は罪人にこの二つのことを示しまするならば、罪人は私共に注意かまわずして、直接ただちに神に近づきて只管ひたすら神にび求め、活ける水を頂戴します。これは真正ほんとうの伝道です。この二つのことをことばを換えて申しますならば、聖霊とキリストです。活ける水は聖霊です。『だれであるかを知っていたならば』、誰とはキリストです。すなわち聖霊とキリストです。けれどもそれのみではありません。ここに父なる神をも見ます。聖霊は父なる神の賜物ですから、父なる神子なる神聖霊なる神を知ることができます。神学的に罪人を教えまするならば無益です。けれども主イエスは十節のごとく経験的に三位一体の真理を教えたまいました。何卒なにとぞ私共もかくのごとく神学的に教えずに、経験的に教えとうございます。十節のごとく三位一体の神を罪人に示しますならば、罪人は大いなる利益です。主はこのように罪人と語ることを好みたまいます。主はこの罪人がいまだ知らざることを示したまいとうございます(エレミヤ三十三・三)。ただいま主はこのけがれたる罪人に『知らざるおほいなる事と秘密かくれたる事』を示したまいとうございます。主はちょうどそのように私共にもひそかに近づきたまいまして、私共がいまだ知らざる大いなることと、秘密かくれたることを示したまいとうございます。けれども私共は十一節のような愚かなるいやしい考えをもって、主の高い教旨おしえを受け入れません。主はいまだ知らざることを示したまいとうございます。けれどもこのおんなはいままでに知り得たる物質の卑しい考えをもってそれを聞きます。私共はしばしば主の霊なる教旨おしえを受ける時に、この婦と同じ過失あやまちに陥ることがあると思います。主は私共にいまだ知らざることを教えたまいとうございます。けれども私共は心のうちに幾分かそれを知ると思って答えます。そうですから未だ知らざる霊なる教旨おしえを受け入れることができません。光より光に進むことができません。この婦は主の言葉の意味がわかりません。けれども幾分か主が水について言いたまいましたから、井戸のことを憶いいだして十一節のように答えます。これは実に愚かなることです。私共はかくのごとき時にゼカリヤ四・五のように、『わが主よ 知らず』と答えとうございます。私共はたびたびわが主よく知ると申しませんか。けれども知らずと答えまするならば、主は私共に未だ知らざる大いなることを示したまいます。

 この時に主は物質的の水によって、なおなお深いことを教えたまいとうございます。おんなはただ眼に見ゆる水を見ました。神はたびたび野の花によって、吹く風によって、太陽、光などのさまざまなる物によって、深遠なる真理を教えたまいとうございます。それによって大いなる恩恵めぐみを与えたまいとうございます。どうぞこの婦のようにただ眼に見ゆることのみならず、神より賜わる新しき恩恵を受け入れとうございます。本章において今日こんにち格別に教えられましたことはおのれひくくすることです。三章の終わりにヨハネは喜んで己を卑くいたしました。本章の始めに神は喜んでご自分を卑くしたもうことを見ます。この二つの例証によって、神の栄光をあらわすために己を卑くすることを学びとうございます。また神はご自分を卑くして私共のごとくなりたもうことを見とうございます。神はたびたびけがれたる罪人つみびと足下あしもとに座って、その汚れたる罪人に恩賜めぐみねがいたまいます。何卒なにとぞそれによって主の大いなる栄光をご覧なさい。

 おんなは深遠なる主の奥義を聞きました。けれどもただ理屈をもってこれを判断いたしました。『女は言った、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」』(十一)。これは理屈にかなうことです。けれども理屈と信仰とはたびたび反対です。自然の理法と神の祐助たすけとはたびたび反対であります。神は自然の上に超越すぐれたもうものですから、理屈をもって神の約束、神の黙示を判断致しませずして、どうぞそのまま真理を受け入れとうございます。主が何処いずくより汲んでその水をくださるかをわかりませんでも、どうぞそのまま真理を受け入れとうございます。

十二〜十四節

 このおんなは水を汲むために毎日井戸に参らなければなりません。毎日働いてただその日のために些少すこしの水を汲みます。ちょうど信者のうちにもそのような者があると思います。毎日その日のためにただ些少の水を汲まんがために主のもとに参ります。けれども真正ほんとうの救い、真正ほんとうの主の恩恵めぐみは何でありますかならば、主が人々の心の中に井戸を造りたもうことです。これが真正ほんとうの救いであります。そうですから真正ほんとうの主の救いはひとたび井戸を頂戴することであります。そのときから泉となりて湧きいでます。十三節を見ますれば、ちょうどかの放蕩息子のようではありませんか。遠国へ旅行たびだちまして世にける水を充分飲みました。けれども現世このよの水は満足を与えません、すぐに渇きました。その時家庭いえに帰りまして、恩恵めぐみの泉を受けました。それから永く父とともにおりましてから、十四節のごとく絶えず絶えず恩恵の泉が湧き出まして、少しも渇かないようになりました。神は私共にこれと同じ約束を与えたまいます。イザヤ書五十八・十一、エレミヤ記十七・八をご覧なさい。この二つは同じ例ではありませんが、同じ霊の意味であります。自分の心のうち恩恵めぐみの泉をっておりますから、恩恵の源まで根をいだしておりますから、絶えず恩恵に充たされております。

 またこの十三、十四両節は肉にける信者と霊に属ける信者との区別を見ます。肉に属ける信者は絶えず外部ほかより恩恵めぐみを受けます。そういう信者は救われました。神の子供となりました。けれども真正ほんとうの恩恵を受け入れたのではありません。これに反して、霊に属ける信者は心のうちに恩恵の泉があります。これが真正ほんとうの神の恩恵です。ひでりの年にも豊年にも、絶えず潤いたる園のように、心のうちに恩恵の泉があります。これが真正ほんとうの神の恩恵であります。創世記二十六・十九をご覧なさい。『イサクのしもべ 谷にほり其處そこに泉の湧出わきいづいどを得たり』。兄弟よ、私共はその井戸を得ましたか。どうぞそれを得たいものであると思います。

十五、十六節

 このおんなは自分の苦労を深く感じました。また自分の欠乏を深く感じました。けれども未だ自分の罪を感じません。私共はたびたび自分の苦労を感じます。自分の欠乏を感じます。けれども自分の罪を感じません。いま婦は『その水をください』と祈りました。主はその祈禱いのりこたえたまいました。けれども最初はじめその婦に罪を感じさせなければなりません。そうですから婦の祈禱に対する主の答えは何でありますかならば、婦の少しも心付かないことです。十六節の主の答えは十五節に少しも関係がありませんと思います。けれども実は密接なる関係があります。主は婦の祈禱に応えんがために、かくのごとく命じたまいます。まず婦に罪を感ぜしめんがためにかくのごとく命じたまいます。主はたびたび私共の祈禱によりて直ちに恩恵めぐみを与えたもうことができません。けれどもそれを与えんがために十六節のごとき命令を与えたまいます。罪を感ぜしめたまいます。

十七〜十九節

 もはや神の言葉は心を刺しました。神の光は心の底まで照らしました。神はことごとくその罪とけがれを知りたもうことをわかりました。主はここにこのおんなにその罪を示したまいました。どうぞ次の主の救いの順序をご覧なさい。

 第一 ご自分が与える恩恵めぐみを示したまいます(一〜十五
 第二 罪人つみびと自己おのれ汚れを示したまいます(十六〜十八
 第三 ご自分を示したまいます(二十六

 そうですからこのおんなは神の恩恵めぐみを頂戴するため、自己おのれの罪を承知しなければなりません。神の聖前みまえにはいかなることをも隠すことはできません(ヘブル四・十三)。けれども同時に大いなる恩恵を見ます。神は一切すべての不義を示したまいます。けれどもける水を与えたまいます。私共は神の聖前に自己の罪を隠しとうございます。けれども神はそれを示したまいます。またそれにかかわらずして、私共に活ける水を与えたまいました。そのとき主は宗教心あるユダヤびとに活ける水を与えたまわずして、かえっていやしき者のうちの、最も賤しき者に与えたまいました。これは真正ほんとうの恩恵であります。私共はこの婦よりも却って活ける水を受ける価値ねうちがありません。それを教えんがために一番賤しい者にこの恩恵を与えたまいました。かくのごとく神の言葉はもはや罪人つみびとの心を刺しました。この婦は自己の隠れたる罪も神の聖前にあらわれましたから、いま神を拝しとうございます(コリント前書十四・二十五)。そうですから直ちに二十節において、拝することについて申します。

二十、二十一節

 おんなは今まで拝することについて曖昧でした。けれども主はそれについて明らかなる光を与えたまいます。私共は未だ罪を感じませんならば、父を拝することについて曖昧でしょう。けれども主の恩恵めぐみを受け入れまするならば、明白あきらかになります。主は私共の心を教えます。

二十二〜二十四節

 今まで萬殊さまざまなる表号しるしをもって神を拝しておりました。たとえばほふられたる羊をもって神を拝しておりました。それはまことをもって神を拝することではありません。ただ雛形をもって神を拝しておりました。ただ影をもって神を拝しておりました。けれどもただいま真をもって神を拝する時がきたりました。今までは壇の上に供え物を献げて神を拝しておりました。けれどもただいま真実に自分を捧げて神を拝する時が来りました。今までは宮のうちともせる燈火ともしびによって、或いはパンをもって、或いは香をもって父を拝しておりました。けれどもただいま霊と真とをもって父を拝する時が来りました。私共は子供の時には雛形をもって父を拝することもよろしいでしょう。けれどもただいま光を受けましたから、真をもって事実をもって父を拝さなければなりません。私共は未だそれを学んでおらんと思います。私共は外面のことをもって父を拝しとうございます。或いは表面の集会あつまりにおいて、或いは表面の教会のうちで父を拝しとうございます。けれども父は真をもって拝することをもとめたまいます。霊をもって拝することを要めたまいます。

 そもそも礼拝は祈禱よりも深遠なることであります。神を拝することは、神と交わることよりも深いことです。天の使つかいの拝することをご覧なさい。神の宝座みくらいの前に俯伏ひれふして、冠を投げ捨てて神を拝します。これは真正ほんとうの礼拝です。自己おのれを捨てて神の大いなることを感じまして神を讃美することは、真正ほんとうに神を拝することです。真正の礼拝は、神のすべての凡て(all in all)なること、人間はなきが如き者(nothing)なることを感じまして神を拝することです。兄弟よ、私共はかくのごとき心をちますか。この二十三節を見ますならば、父はかくのごとく拝する者をもとめたまいます。ヘブル書の大意は真正ほんとうの礼拝です。このふみは実に深遠なる真理であります。私共はこの書にりて天国に行なわれるごとき真正の礼拝を学びます。この書に由りて霊と真とをもって父を拝することを学びます。牧者ひつじかい多数おおくの羊を求めます。父なる神はかくのごとく拝する者を多く見出したまいとうございます。そうですからかくのごとく人々が心を一つにしてたくさん集まりますならば、真正の礼拝が行なわれます。みな神を仰いで神は凡ての凡てなり、人間は無が如き者なるを覚えまして、身も霊も捧げて神を讃美することは真正の礼拝であります。現代いま集会あつまりにおいてかく拝することはたぶん好機会ではありませんと思います。現代は静かなるところにおいてただ一人、神を拝する方が好機会であるかも知れません。

 また私共は神の子たる心をもって神を拝せねばなりません。神の聖旨みこころかな真正ほんとうの礼拝は、いつでも神の子供たる心をもって拝することです。サマリアのおんなは父ということを聞きました時に驚いたでありましょう。はじめて父なりと聞きました時にはわからなかったでありましょう。けれどもかく拝しますならば父を拝することができる筈です。私共は心のうち十四節の泉を持っておりますならば、二十三節の真正の礼拝をすることができる筈です。

二十五節

 私共はたびたびかくのごとき愚かなる答えをいたします。主は明らかに光を与えたまいます。けれどもただいまそういうことをわからんと思います。未来においてそのことが解るでしょうと思います。これは不信仰です。神はただいま全き光を与えたまいとうございます。今は恩恵めぐみの時です。私共はたびたび未来において光を得ようと思います。けれどもこれは不信仰です。信仰は現在です。今願うところのものを得たりと言うことが信仰です。

 けれども主は忍耐をもっておんなの鈍き心を漸次だんだん導きたまいます。善き牧者ひつじかいむれを離れて迷える羊を求めたまいます。

二十六節

 主はご自分を示したまいます。『このわたしである』と仰せたまいます。ヱホバの名の意味はわたしはという意味です。原語を見まするならば二十六節に『わたしは有る』と言いたまいます。すなわち我はヱホバという意味です。ユダヤ人はその名を言うことを畏れます。わたしは有るという名を畏れて申しません。けれども主はここで自らその尊貴とうとき名を仰せたまいます。わたしは有るといいたまいます。原語を見まするならば、たびたびかくのごときことを見ます。すなわち『爾曹なんぢらもし我の彼なるを信ぜずば』(八・二十四)とは、『あなたがたがもしわたしが有ることを信じなければ』の意味です。また『我の彼なるを知り』(八・二十八)とは『わたしのわたしは有るを知り』の意味です。それによって主はご自分のヱホバなることを示したまいます。ただいまサマリアのおんなも霊とまことをもって主を拝したかも知れません。二十五節を見ますれば曖昧なる望みを見ます。二十六節を見まするならば、現在の事実を見ます。主はかくのごとくたびたび私共に同じ恩恵めぐみを与えたまいます。私共は心のうちに曖昧なる望みがあります。聖霊を受けることについて曖昧なる望みがあります。けれどもそれは完全まったき信仰ではありません。主はご自分を示したもうことによって真と事実を与えたまいます。本節において主は、ルカ十五章の放蕩息子の父がその子を受け入れる喜楽よろこびと同じ喜楽よろこびを持って接吻したもうことを見ます。

二十七節

 婦は九節においてあやしみました。今また弟子も奇しみました。主が罪人つみびと物語ものいいたもうことは奇しむべきことです。主が私共のごとくご自分をひくくして語りたもうことは実に奇しむべきことです。『「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった』。ここに一種の不思議なることを見たと思います。主の容貌にりて幾分かその栄光を見たと思います。そのとき問える者はありませなんだ。問うことを畏れました。マルコ十・三十二をご覧なさい。その時にも主の容貌に一種の栄光を見ましたから、畏れて従いました。今ここに同じ事実を見ます。

 神の栄光を見ました時に、『なんぢなんぞしかするや』と言うことはできません(ダニエル書四・三十五)。いま弟子たちは幾分か主の神たる栄光を見ましたから、『イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった』。すなわち幾分か主の栄光がわかりました。

二十八節

 いまおんな水瓶みずがめを忘れました。今までその水瓶は婦の第一の大切なる所有ものでした。ただそれにのみ気を付けておりました。けれどもいま主の栄光があらわれましたから、全く水瓶を忘れました。おお私共も主の栄光を見まするならば、今まで大切にしておりました水瓶を忘れます。兄弟よ、私共にほかの偶像がありますか。心のうちに水瓶のようないやしき偶像がありますか。もしひとたび主の栄光を見ますならば、かえってそれが重荷となりますから、喜んでこれを捨ててしまいます。パウロは往年、種々の偶像がありました。名誉の偶像、宗教の偶像、高位の偶像がありました。この婦のように毎日この偶像のために力を尽くしておりました。けれどもピリピ三・七、八のごとく、主の栄光を見ました時にその水瓶を忘れました。喜んでそれを捨てました。今まで水瓶は役に立ちました。毎日その水瓶をもって水を貰いました。正義によって宗教によって満足を得んと致しました。けれどもいま主の栄光を見まして、心のうちより湧き出る泉を貰いましたから、その水瓶をわすれます。いま水瓶が却って重荷となります。今まで無くてならぬ水瓶、無くてならぬ宗教、ユダヤびとの儀式、一切すべてこれらのものは重荷となって、糞土ふんどのごとくおもいました。おお兄弟よ、私共もそれほどの恩恵めぐみを頂戴しましたか。今までの無くてならぬ水瓶を捨てるほどに恩恵を受け入れましたか。それほどまでに主の栄光を見ましたか。真正ほんとうの献身はそこです。真正の献身は、自己を苦しめて、無くてならぬものを捨てることではありません。真正の献身は、主の栄光を見まして役に立たん水瓶を捨てることです。真正の献身は主の栄光を見て満足し、他のことを一切いっさい重荷とおもうことです。肉にける財宝たから、肉に属ける喜悦よろこび、肉に属ける名誉などは、神の光を覆いますから、却ってかくのごときものをにくみ、喜んでそのにくましきことを捨てるのが、すなわち真正しんせいの献身です。

 私共の身体からだはこのように地上にありますから、つねに地球の引力にき付けられております。けれども漸次だんだん太陽に近づきまするならば、太陽の引力に曳かれまして地球の方を遠ざかり、自然にただ太陽の方に参るようになります。私共は最初はじめは世の引力に曳かれまして世を捨つることは困難です。けれども漸次だんだん昇りまして、ついに主の引力のうちまいりまするならば、自然に世を離れて主に近づいて参ります。自然に世のことを捨てて、ただ主を得んがために進みます。ピリピ三章を見まするならば、パウロにそのとき少しも世の引力を感じません。ただ主の引力に曳かれまして、主を得んがために『後ろのものを忘れ』『目標を目指して走り』ました(十三、十四節)。

 三章に三位一体なる神の働きを見ました。ここにまた主は三位一体なる神を教えたまいます。

 第一、十〜十五節聖霊なる神を指します。ける水を溢れるほど心のうちに受け入れることを教えたまいます。
 第二、十九〜二十四節父なる神を指します。父なる神を拝することについて教えたまいます。
 第三、二十五、二十六節子なる神を指します。ご自分を示したまいます。

 主は神学的に三位一体なる神を教えたまいません。けれどもかく容易なる方法をもって三位一体なる神の働きとその恩恵めぐみを教えたまいます。

二十九、三十節

 このおんなむらを出ました時には、いやしき罪人つみびとでした。けれども一時間ほどって帰りました時には、みたまに導かれたる伝道婦でありました。実に大いなる変化がありました。その変化は何処いずくより来ましたか。それは一時間ほど静かに主と語り合いましたからです。それにりてこの大いなる変化が生じました。またこの婦は心のうちに溢れるほどける水を頂きましたから、何処どこにでも主をあかししなければなりません。真正ほんとう十四節の経験を受けました。そのとき十二人の使徒はサマリアの邑に行きまして僅少わずかの食物をって参りました。けれども人々より賤しめられたこのサマリアの婦は邑に行きまして、その住民のほとんど半分なかばほどを主のもときたりました。その時にこの婦は十二人の使徒よりも遙かにすぐれたる伝道士でありました。この婦は何を深く感じましたか。『さあ、見に来てください。わたしがおこなったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません』と申しました。主のキリストなることがわかりました。一・四十九を見まするならば、ナタナエルも同じく自分のしし一切のことが主に知られしことに由りて、主の神の子たることをさとりました。すなわちそのことを知る者は必ず肉身なる者ではなく神なることをさとりました。ダニエル書二・十一(『肉身なる者と共にをらざる神々を除きては……これを示すことを得る者なかるべし』)、アモス書四・十三(『彼は……人の思想おもひ如何いかなるかをその人に示し』)のごとく、主はこのときに婦にその思想おもいの如何なるかを示したまいましたから、婦はそれによって主の神ヱホバなることを知りました。

三十一、三十二節

 善き牧者ひつじかいは失われたる羊をつれて帰りましたから、大いなる喜楽よろこびがあります。それは主の心に満足を与えました。放蕩息子は自分の家に帰りました時に、何人なんぴと饗筵ふるまいあずかりました。主は今その饗筵に与りたまいましたから、身体しんたいの食物を要しません。

 私共の受けまする霊の食物は何でありますか。霊の食物は三つあります。

 第一、父なる神のむねを成就すること(三十四
 第二、子なる神の肉をくらうこと(六・五十五
 第三、聖霊なる神に与えられたることばくらうこと(エレミヤ十五・十六)

 この三つは私共の食事です。何卒なにとぞつねに豊かにこれを食しとうございます。

三十三節

 弟子たちおんなのごとく主の意味を誤解あやまりました。ただ物質の意味のみがわかりました。

三十四節

 主はこの世にきたりたまえる時には、ヘブル十・七のごとく『御心みこころを行うために』とて来りたまいました。そうして世を去りたもう時には、『わたしは、行うようにとあなたが与えてくださったわざを成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました』(ヨハネ十七・四)と祈りたまいました。

三十五〜三十八節

 私共はたびたび『刈り入れまでまだ四か月もある』と言います。伝道の穫時かりいれどきもただいまではないと言います。けれども主が伝道のはたを見たまいますれば、はやいろづきて穫時かりいれどきです。これは何処どこでありますかならば、サマリアです。大いなる特権を受けましたユダヤではなくかえってけがれたるサマリアです。けれどもそこにでもただ今は種蒔たねまきの時ではなく穫時かりいれどきであります。私共はたびたび種蒔たねまきの時であると思います。ゆえに眼を挙げてご覧なさい。今は恩恵めぐみの時であります。今は穫時かりいれどきであります。主はサマリアびとについてこの言葉を言いたまいました。マタイ九・三十六〜三十八とこの節を対照くらべなさい。当時そのとき主はユダヤにおりたまいました。ユダヤにも本節と同じことを言いたまいました。それによりて幾分か主の心をさとられると思います。主はユダヤにも罪人つみびとの重荷を負いたまいました。サマリアにも同じく罪人の重荷を負いたまいました。どうぞそれを深く味わいとうございます。また収穫かりいれの多きためにいかなることを仰せたまいますか。マタイ九・三十八には祈ることを求めたまいます。九・三十七には働きを求めたまいます。

 どうぞかく眼を挙げて罪人つみびとの模様をご覧なさい。また今は収穫時かりいれどきなるを信じて、望みをもってそれをご覧なさい。また同時にそのために祈ることと働くことをお勉めなさい。

三十九〜四十二節

 これはサマリアに起これる最初の大いなるリバイバルでした。使徒八章に第二の大いなるリバイバルを見ます。主はここにて異能ことなるわざをなしたまわず、ただことばのみを用いたまいました。これによってサマリアびとの信仰の進みていることをご覧なさい。ユダヤびとはたいてい異能ことなるわざのために信じました(四十五)。けれどもサマリア人は言によって信じました。

 ことばによって信ずることは完全なる信仰です。十四・十一をご覧なさい。主はかくのごとき言にりて信ずる信仰を最も願わしく思いたまいます。けれどもかくのごとき信仰ができませんならば、主の行いによって信ずる信仰を願いたまいます。二十・二十九にも同じ真理を見ます。見て信ずることは肉にける信仰です。見ずして信ずることは真正しんせいの信仰です。私共はたびたび肉に属ける信仰をつと思います。神はいかなる信仰をねがいたまいますか。ただ言をそのままに信ずることを求いたまいます。そうですからサマリアびとの信仰とガリラヤびとの信仰は大いなる差があります。それをなお説明するために四十七節以下の話があります。この話の大意は同じことです。すなわち行いを信ずることでなくただ言のみを信ずることです。どうぞ四十八節五十節を比べとうございます。

 もう一度四十二節をご覧なさい。『この方が本当に世の救い主であると分かったからです』とは実に深い悟りです。今までそれを信じたる者は一人もありません。ナタナエルは主を信じました。けれども『あなたはイスラエルの王です』(一・四十九)と申しました。今サマリアびとはなおなお深い悟りを得ました。イエスを世の救い主と知りました。私共はたびたびかくのごときことを見ます。罪人つみびとが悔い改めますならば、ただしき人にてもかえって深い悟りを得ます。サタンはたびたび虚言うそいて、あなたは過去の生涯においてたくさん罪を犯しましたからただいま神より深い恩恵めぐみを受けることができんと欺きます。けれども真理はちょうど反対です。私共は罪を悔い改めますれば、神の家庭いえに帰りました放蕩息子のごとくに、大いなる饗筵ふるまいを設けたまいます。そうですから罪が赦されましたならば、どうぞ神の子たる特権をことごとく受け入れとうございます。

四十三〜四十五節

 主は格別にユダヤの救い主でありました。そのために世にきたりたまいました。今サマリアにおいて実に収稼かりいれ喜楽よろこびあずかりました。サマリアの収稼を見ますならば、主の心は実に喜ばしいです。けれども主はユダヤを救わんがために世に遣わされたまいました。そうですからほかに成功ある伝道地がありましても、そこを去りて神の聖旨せいししたがうて、ご自分の受け持つ伝道地に参りたまわねばなりません。またそれのみならず主は世にある間に恥辱はじを受けたもうことは定まれることでした。ご自分の国にも恥辱を受けたまいましたが、それに拘わらずしてそのところに行きたまわねばなりません。主は収稼の喜楽を捨てて、神の聖旨みこころに順いガリラヤに赴きたまいました。主の十字架にけられたまいましたも同じ精神です。すなわち容易なる道を捨てて、苦痛くるしみ恥辱はじの道を歩みたまいました。人間の眼から見ますならば愚かなることのようです。けれどもそれが成功のみちであります。

四十六、四十七節

 そうですから勢力のある弟子を受け入れるには好機会でありました。今まで主の弟子はただ卑賤いやしき漁夫りょうしでした。いま王の大臣は主の足下あしもとに参りて恩恵めぐみを乞いました。そうですから主がもし肉の考えをちたまいしならば、丁寧に王の大臣を待遇あしらいたもうたでありましょう。その人に格別なるめぐみを施したもうたでありましょう。私共はたびたびこういう過失あやまちに陥り易うございます。けれども主は全くそのような考えを捨てたまいました。全くそのような考えを離れて、その人をけたもう仕方は、むしろ冷淡でありました。

四十八節

 四十五節のようにこれがガリラヤびとの特質です。

四十九、五十節

 『その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った』。かくのごとき場合には、祈るならば不信仰のしるしです。この人は信じましたから、祈禱いのりめてちました。私共はたびたび熱心なる祈禱は不信仰にれることがあります。もし信じましたならば祈禱を止めてすぐに起つはずです。『ヱホバ、ヨシュアにいひたまひけるは たてよ なんぢなにとてかく俯伏ひれふすや』(ヨシュア七・十)。時によって主の言葉を信じ罪を捨てて起つことは、祈ることよりもかえっていことです。けれども私共は何時いつ祈禱を止めて、約束を信じて断然すぐ蹶起たちましょうか。これは実に難しいことです。けれども聖霊に導かれて祈りまするなれば、聖霊は私共に教えたまいます。

 今この人は主の言いたまいし言葉を信じて去りました。自ら心を安めました(歴代誌下三十二・八『たみはユダの王ヒゼキヤのことばやすんず』)。これは真正ほんとうの信仰です。主のことばを信じて安心して主の足下あしもとを去りました。

五十一〜五十四節

 ここにて信仰の三段階を学びとうございます。

 第一、この人は信仰にりて主のその家にきたりたまわんことを願いました(四十七)。この人の信仰のうちには、望みも恐れも二つながらにありました。これは完全まったき信仰ではありません。この人は信仰がありましたから主を依り頼みました。けれども未だ肉にける信仰でありました。主ご自身が自分の家に来りたまいませぬならば、癒されることはできぬと思いました。幾分か眼に見ゆることに由りて信じました。これは完全まったき信仰ではありません。主はその信仰を見たもうて、肉に属ける思いをりたまいました。そうですから少しも家に行きたまわずして癒されました。

 第二はただ約束を信ずることです。そのままに主の約束を信ずることです(五十)。

 第三、信仰は確知しることに成って参りました。この人は主が『なんぢの子はいけるなり』と言いたまいしことば信じて主の足下あしもとを去りましたが、果たしてその言のように、今その子が生きていること、癒されたることを見るに至りました。第二の、言を信ずることは、裸なる信仰です。そののちに信仰が進んで知ることに成って参ります。かくのごとく真正ほんとうの信仰は順次だんだん成長いたします。



|| 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 結論 | 目次 |