第 十 六 章 



一  節

 弟子はこのことばを心にめておりましたならば、しゅの十字架の時に堕落しませなんだでしょう。私共わたくしどももこの言を心にいだきまして、世の闇黒あんこくなることを覚え、迫害を待ち望んでおりますならば、つまずくことはありません。

二  節

 しき人間の迫害は、堪え忍び難きことではありません。かえりてそれによって、幾分か霊の誇りが出るかも分かりません。けれども、迫害する者が、宗教心のありまする者ならば、教会で地位のある者でありまするならば、人間の中で最も善き者でありまするならば、実に堪え忍び難うございます。そういう人々より、世の悪魔と思われまするならば、実に堪え忍び難うございます。悪人は私共を憎んでも構いません。けれども、き人々が私共を憎みてしりぞけまするならば、実に堪え難き迫害です。

三  節

 そうですから、そういう迫害をいたしまする者は、神とイエス・キリストとをらぬことを示します。信者と言われる者でも、たびたびこのような迫害をすることによりて、自ら神とキリストを識らぬ者であることを示します。今でも英国にも、日本にも、霊にける者が、迫害を堪え忍んでおります。教会政治等を堅く守りておる人々より、迫害せられるのを堪え忍んでおります。けれども、それは迫害せられる者の損ではありません。迫害する者が、それによりて自分は神と、キリストを識らぬ者であることを示すと思います。

四  節

 そうですから、主はたびたび未来のために、私共に教訓おしえを与えたまいます。私共はその時に分かりませんかも知れません。けれども、未来のために、それを教えたまいます。たとえばいま聖書の或る部分がわかりませんかも知れません。そういう時に、それを研究しません方がよろしいでしょうか。そうではありません。たといいま解りませんでも、それを研究しまするならば、神は未来のために、それによりて教えたまいます。そうですからそれによりて準備したくをいたしとうございます。主はその時に、弟子の心を準備したくするために、この教訓おしえを与えたまいました。どうぞ同じように、心の準備したくをいたしとうございます。私共はただ今日こんにちのために、恵みを求めるのみではなく、未来のためにそれを求めとうございます。私共は今この弟子たちのように、平安やすらかに主と共におることができます。けれども、未来にいかなる迫害があるかも分かりません。にわかに迫害が起こりて来るかも分かりません。どうぞそれを待ち望みまして、いつまでも、兵士らしき心を懐きとうございます。

五、六節

 弟子たちは、主のことを思わずして、ただ自分のことを思っておりました。主の栄光を喜ばずして、ただ自分の憂いばかりを考えておりました。私共も同じ精神があるかも分かりません。私共の愛する主は、いま天の栄光にいましたまいますから、私共はそのために始終喜ぶべきはずです。自分はいかなる迫害にいましても、主の栄光のために、喜ぶべき筈です。自分はいかなる窘迫くるしみに遇いましても、主の喜びのために、喜ぶべき筈であります。

七  節

 『わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる』。わがくはただわが利益のみではありません。あなたがたの利益です。これは何故なにゆえですかならば、聖霊をもらうことは、主イエスをもらうことよりも大切であるからです。聖霊と共におることは、主と共におることよりは大切です。それは肉をっていたもう主とは、親しき交わりができないからです。聖霊を受けまするならば、はじめて主と親しき交わりができます。必ず主の去りたもうことは、弟子の大いなる損であります。けれども、そのためになおなお大いなる利益を頂戴いたします。

 主は肉をっていたもう時に、弟子に種々いろいろの恵みを与えたまいました。或いは教え、或いは慰め、或いは守りたまいました。けれども、いま聖霊が私共とともにいたまいまするならば、私共はなおなお大いなる特権、大いなる恵みがあります。肉を有っていたもう主が、去りたまいましても、そのように聖霊を頂戴することは、大いなる利益であります。

八〜十一節

 『罪についてとは、彼らがわたしを信じないことである』。これは罪の中の最も大いなる罪です。すべての罪の根元もとであります。

 『義についてとは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなることである』。主は父にきたもうて、罪人つみびとのために義となりたまいます。ロマ書四・二十五をご覧なさい。『イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです』。コリント後書五・二十一をご覧なさい。『罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです』。主が父へ往きたもうたことによりて、私共は義とせられます。そうですから、聖霊はそれをあかしたまいます。すべての罪のために、全き義があることを示したまいます。

 『裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである』。聖霊は審判さばきがもはや終わりたることを証したまいます。悪魔と罪はもはや十字架にさばかれたことを証します。そうですから、『イエス・キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません』(ロマ書八・一)。私共のために、もはや審判さばきがありません。審判はすでに終わりました。

 何人だれの心の中にも、二つのあかしがあります。一つは良心の証です。一つは聖霊の証です。その示すところは、

 第一 良心も、聖霊も、人間は神の前に、罪を犯したることを示します。
 第二 良心は、正義は人間のうちにあらざることを示します。けれども、聖霊は、ちょうど反対です。正義が私共にせられたることを証します。
 例えば哲学に従いまするならば、人間は義となることができんと思います。けれども、福音は、人間が義となることができると示します。
 第三 世にける良心は、未来において審判さばきに遇わねばならぬと示します。けれども、聖霊は私共信者は、すでに十字架に審かれたること、すなわち審判さばきが既に過ぎ去りたることを示します。

 かつこれは、キリストの性質に適います。キリストは、預言者として、私共に罪を教えたまいます。祭司として、神の前に私共を義としたまいます。王として審判さばきをなしたまいます。罪は過去にき、義は現在にき、審判さばきは未来にきます。

十二〜十五節

 主はたびたび私共にそれを話したまわねばなりません。私共に神の深い真理を教えたまいとうございます。けれども、私共はそれを悟ることができませんから、話したもうことができません。ほかの子供のような心をっておりまする者は、悟ることを得ましたから、主はそのような兄弟に、多くのことを語りたまいます。コリント前書三・一をご覧なさい、『兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました』。ヘブル五・十一をご覧なさい。『このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません』。またこの十二節を見まするならば、この十四十五十六の三章の真理は、ただキリストにおる赤子が、受くべき真理であります。どうかこの章より進みて、いよいよ深く神の真理を学びとうございます。

 『今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』。今あなたはさとることができません。けれども、聖霊のきたりたもう時に、悟ることを得ます。この十三節は、ただ使徒二章のペンテコステの日のみではありません。いつでものペンテコステを指します。私共に聖霊の来りたまいまする時に、神の深いことを悟ることを得ます。

 『その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである』。そうですから、聖霊はただ神のくだです。聖霊によりて、主は私共に語りたまいます。聖霊はおのれりて語りたまいません。ただ主のはなしを私共に取り次ぎたまいます。

 聖霊は三つのことを示したまいます。

 第一、『これから起こることをあなたがたに告げるからである』。

 聖霊は、私共に天国の栄光を示したまいます。私共に地獄の苦しみを示したまいます。私共に神の国の富と、罪の価の亡びなることを示したまいます。私共はこのきたらんとすることを、自ら心に感じませんならば、必ずほかの人々をして、感ぜしめることはできません。従うて人々を導くことは難しうございます。

 『ヱホバ言ひたまひけるは わがなさんとする事をアブラハムに隱すべけんや』(創世記十八・十七)。『ヤコブその子等こどもよびていひけるは なんぢらあつまれ われのちの日になんぢらがあはんところの事を汝等なんぢらにつげん』(創世記四十九・一)。『これを持來もちきたりてわれらにのちならんとする事をしめせ そのいやさきに成るべきことを示せ われら心をとめてそのをはりをしらん あるひはきたらんとする事をわれらにきかすべし なんぢらのちならんとすることをしめせ 我儕われらなんぢらが神なることを知らん なんぢらあるひはさいはひしあるひはわざはひせよ 我儕われらともに見ておどろかん』(イザヤ四十一・二十二、二十三)。きたらんとすることを示すは、神の働きであります。いま聖霊は、私共にそれを示したまいとうございます。

 第二、『その方はわたしに栄光を与える』。

 聖霊は、私共にキリストを示したまいます。今までは弟子等は、幾分か肉体をっていたもうキリストを見ました。幾分か肉体を有っていたもうキリストの慈愛と、めぐみと、力とを見ました。聖霊は、天に昇りたもうたる主の栄光をあらわしたまいます。キリストの今の栄光、今の生命いのち、今のけることを示したまいます。私共は聖霊を受けまするならば、天に昇りたもうたる主イエスを識ることができます。また聖霊は、キリストの栄光さかえを知りたまいます。聖霊は、幾分か預言者たちにも、使徒たちにも、キリストの栄光を示したまいました。そうですから、その人々は、私共のために、聖霊についてしるしました。聖霊は、同じように、私共にもキリストの栄光さかえを示したもうことができます。十四節の終わりをご覧なさい。『わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである』。私共にご自分の悟りを与えたまいます。聖霊は、ただくだであります。ご自分が見ること、また聞くことを私共に伝えたまいます。

 聖霊はキリストの栄光さかえについて、さとりたもうところを私共に伝えたまいます。

 この約束を見まするならば、私共の特権は言い難く、かつ栄光さかえあります。私共はこの悟りを求めましたか。

 またキリストの栄光さかえは、いかなる栄光でありますか。聖霊は私共にこれを悟らせることのできる栄光であります。

 聖霊を受け入れまするならば、必ずキリストに充たされます。必ずキリストの栄光さかえを見まして、キリストに充たされます。

 第三は、『父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、「その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と言ったのである』。

 そうですから、聖霊は、私共に父のものを示したまいます。すなわち父の権威、父の栄光えいこう、父の愛を私共に示したまいます。

 聖霊に充たされたる者は、以上三つのことを悟ることができます。また聖霊に充たされたる者は、聖霊の働きに従うて、この三つのことをほかの人々に示します。聖霊の働きは、この奥義を明らかに示すことです。聖霊に充たされたる者の働きは同様です。

十 六 節

 主はなお明らかに弟子たちにご自分を示したまいとうございます。またなおなお親しき交わりを与えたまいとうございます。如何どうしてこの恵みを与えることができますか。ただ暫く弟子等を去ることによりて、新しき悟りを与えたもうことができます。ただ弟子等に苦しみを与えることによりて、新しき交わりを与えたもうことができます。今まで弟子等は、肉によりて主を知りました。それは幸いでした。けれども、主は一歩を進めて、霊によりてご自分を知ることを得させたまいとうございます。その時に、弟子等はおんなが子を産まんとするほどの苦しみがあります。けれども、その結果は限りなき、溢れるほどの喜びであります。

 このことは、ただ最初の弟子等のみを指しますか。いいえ、私共をも指します。どうぞただいまこのことばに心を留めとうございます。神はあなたがたの中にも、同じ苦しみと、同じ喜びとを与えたまいとうございます。コリント後書五・十六をご覧なさい。『わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません』。今まであなたがたの中に、ただ肉によりて、キリストを識りし兄弟がありますか。主は霊によりて、ご自分を悟らせたまいとうございます。肉によりてキリストを識ることは幸いです。すなわち外部うわべの教理によりて、書籍しょもつを読むによりて、聖徒の交わり、また聖典によりて、キリストを識ることは幸いです。弟子等は、肉体をっていたもう主と、交わりたることは、実に幸いでした。主の言を聞き、主の行いを見、主の愛を感じたる者は、実に幸いでした。今そのように肉によりて、キリストを識る者は、同じ幸いがあります。けれども、主はそういう悟りを取りたもうて、新しき霊なる悟りを与えたまいとうございます。霊にける悟りを受けるために、私共は弟子等と同じく、主の苦しみを堪え忍ばねばなりません。原語では、この十六節の『しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』の、見なくなる('theoreo" = to behold)と、見るようになる('horao' = to perceive)の意味が違います。『わたしを見なくなる』。これは肉眼をもって見ることです。『私を見るようになる』。これは霊によりて見ることです。

 今まで弟子は、主を見ることを得ました。けれども、暫くの間はこのように、主を見ることはできません。私共は霊によりて、主を悟ることを得るために、暫く今までのように、主を見ることができんかも分かりません。今まで受けたる恵みを失うかも分かりません。暫く闇を堪え忍ばなければならぬかも分かりません。けれども十六節の終りの『またしばらくすると、わたしを見るようになる』の約束があります。こういう約束を堅く握りまするならば、暫時の闇黒あんこくを堪え忍ぶことができます。

十七、十八節

 弟子はそれを悟りません。少しもそれが分かりません。また『これわれ父へゆくなり』(十六節末)をも、少しも分りません。それによりて、新しき主を見ることを、少しも悟ることができません。今でも多くの人は、この新しき生命いのち、新しき悟りを聞きましても、はじめは少しも分かりません。かえりて議論をもって、それに反対するかも知れません。また相互あいたがいに尋ね合うても分かりません。私共はそれを経験しませんならば、悟ることができません。主は明らかに言葉をもって、それを示したもうても、私共は経験せぬうちは、それを悟ることができません。

十 九 節

 『イエスは、彼らが尋ねたがっていることを知って』。兄弟よ、それを知りませんならば、どうぞ主の聖声みこえを聞きとうございます。主は私共が問わんとするところを知りたまいまするから、またはなしたまいます。

二十、二十一節

 そうですから、暫く心の憂いがあります。暫くキリストを失ったと思いましょう。けれども、その時にも、弟子等がキリストのことばを、心に留めておりましたならば、きたるべき恵みを待ち望みましたろう。私共はキリストの約束を堅く握りまするならば、必ずそのような時にも望みがあります。ヨブ二十三・八〜十をご覧なさい。それは同じ苦しみの体験です。『しかるにわれ東にくも彼いまさず 西に往くもまた見たてまつらず 北に工作はたらきたまへどもあひまつらず南に隱れ居たまへば望むべからず わが平生つねの道はかれ知りたまふ 彼われを試みたまはゞ我は金のごとくしていできたらん』。今までヨブは、神を知りましたが、暫く光を失いました。今ただ主の苦しみがあります。けれども、そののちの結果がよく分かります。ヨブはそのために、後から限りなき喜楽よろこびを得ました。詩篇六十九・一〜三に、同じ経験が記してあります。『神よねがはくは我をすくひたまへ 大水おほみづながれきたりてがたましひにまでおよべり われ立止たちどなきふかきひぢなかにしづめり われ深水ふかきみづにおちいる おほみづわが上をあふれすぐ われ歎息なげきによりてつかれたり わがのどはかわき わが目はわが神をまちわびておとろへぬ』。またエレミヤ哀歌三・一〜十九をご覧なさい。同二十よりは、闇が光に変わりたることを見ます。けれども同一〜十九は、同じ苦しみの経験であります。

二十二節

 そうですから、暫くの苦しみがあります。けれども、のちに大いなる喜びが出来て参ります。弟子等は、このことばを覚えておりましたならば、最もくらい日にも、主の十字架の時にも、望みがありましたでしょう。

 またその喜びが生じたる時に、いかなる結果がありましょうか。ここで主とともに死ぬることを見ます。主と共に苦しみを得まして、それから光と、喜びを得ることを見ます。主はご自分の栄光にりたもうために、十字架の苦しみを堪え忍びたまわねばなりません。私共も、その栄光を受けるため、主を識るため、同じように主と偕に苦しみを得なければなりません。この死ぬることと、ヨハネ十二・二十四の死ぬることを比べとうございます。この二十二節の死ぬることは、何のためですかならば、主を識るためです。ヨハネ十二・二十四の死ぬることは、人間を導くためです。

 死は同じことです。けれども、二つの結果があります。私共は主とともに死にまするならば、人を導くことと、主を識ることができます。

二十三、二十四節

 これは二十二節の死ぬることの三つの結果を見ます。主を識ることの三つの結果を見ます。

 第一は、『その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない』。明らかなる光を得ますから、悟りと智慧を得ますから、その霊の光によりて、何でも分ることができます。

 第二は、『あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる』。すなわち祈りの力です。父に近づきて祈り、そのこたえを受けることです。

 第三は、『あなたがたは喜びで満たされる』。すなわち喜びです。

 或る信者は、喜びを全く構いません、軽率に考えます。けれども、キリストは喜びを大切に思いたまいます。最も貴き恵みと思いたまいます。私共は心の喜びが薄くございますならば、悔い改めて、主にそれを求めねばなりません。

二十五節

 第一の結果を説明したまいます。

二十六節

 第二の結果を説明したまいます。

二十七節

 第三の結果を説明したまいます。

二十八節

 本節において、第一、永遠に神の子であること、第二、肉体を取りたもうたること、第三、死にたもうたること、第四、復生よみがえりたもうたること、第五、昇天したもうたることの五つの大切なることを見ます。また本節を見まするならば、世と神とは、離れております。これは恐ろしきことです。この世は神に遠ざかりて参りました。けれども、ほかに一つのことを見ることができます。すなわち世と神との間に、通行のみちが開かれることです。

二十九〜三十一節

 弟子等は、自分は信ずと思いました。けれども、自ら心を欺きておりました。まだ真正ほんとうに信じません。まだ主のことばの深き意味を悟りません。今でも私共は、心の中に偏見ひいきがありまして、自分の心を欺き易うございますから、時によりて、この弟子等と同じく、今われは信ず、今われは分かると申しませんか。けれども、たぶん主は答えたもうて、『今なんぢら信ずる』と言いたまいます。これは真正ほんとうに信仰ではありません。

三十二、三十三節

 主のことばを心に留めますならば、如何いかなる苦しみに遇いましても、平安があります。主は始めからこのことをよく知りたまいました。またただこの苦しみによりてなおなお大いなる幸いを与えたもうことが分かります。『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』。そうですから、主と一つになりたる者は、不断たえず世に勝つことを得ます。ヨハネ一書五・四をご覧なさい。『神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です』。パウロは、世に勝つことを得ました。その苦しみを去りませずして、不断たえず世に勝つことを得ました。そうして不断たえず喜楽よろこびと平安とをもって、この世を過ごしました。



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