第 十 六 章
弟子はこの言を心に記めておりましたならば、主の十字架の時に堕落しませなんだでしょう。私共もこの言を心に懐きまして、世の闇黒なることを覚え、迫害を待ち望んでおりますならば、礙くことはありません。
悪しき人間の迫害は、堪え忍び難きことではありません。却りてそれによって、幾分か霊の誇りが出るかも分かりません。けれども、迫害する者が、宗教心のありまする者ならば、教会で地位のある者でありまするならば、人間の中で最も善き者でありまするならば、実に堪え忍び難うございます。そういう人々より、世の悪魔と思われまするならば、実に堪え忍び難うございます。悪人は私共を憎んでも構いません。けれども、善き人々が私共を憎みて黜けまするならば、実に堪え難き迫害です。
そうですから、そういう迫害をいたしまする者は、神とイエス・キリストとを識らぬことを示します。信者と言われる者でも、たびたびこのような迫害をすることによりて、自ら神とキリストを識らぬ者であることを示します。今でも英国にも、日本にも、霊に属ける者が、迫害を堪え忍んでおります。教会政治等を堅く守りておる人々より、迫害せられるのを堪え忍んでおります。けれども、それは迫害せられる者の損ではありません。迫害する者が、それによりて自分は神と、キリストを識らぬ者であることを示すと思います。
そうですから、主はたびたび未来のために、私共に教訓を与えたまいます。私共はその時に分かりませんかも知れません。けれども、未来のために、それを教えたまいます。たとえばいま聖書の或る部分が解りませんかも知れません。そういう時に、それを研究しません方が宜しいでしょうか。そうではありません。たといいま解りませんでも、それを研究しまするならば、神は未来のために、それによりて教えたまいます。そうですからそれによりて準備をいたしとうございます。主はその時に、弟子の心を準備するために、この教訓を与えたまいました。どうぞ同じように、心の準備をいたしとうございます。私共はただ今日のために、恵みを求めるのみではなく、未来のためにそれを求めとうございます。私共は今この弟子等のように、平安に主と共におることができます。けれども、未来にいかなる迫害があるかも分かりません。俄に迫害が起こりて来るかも分かりません。どうぞそれを待ち望みまして、いつまでも、兵士らしき心を懐きとうございます。
弟子等は、主のことを思わずして、ただ自分のことを思っておりました。主の栄光を喜ばずして、ただ自分の憂いばかりを考えておりました。私共も同じ精神があるかも分かりません。私共の愛する主は、いま天の栄光に在したまいますから、私共はそのために始終喜ぶべき筈です。自分はいかなる迫害に遇いましても、主の栄光のために、喜ぶべき筈です。自分はいかなる窘迫に遇いましても、主の喜びのために、喜ぶべき筈であります。
『わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる』。わが往くはただわが利益のみではありません。あなたがたの利益です。これは何故ですかならば、聖霊をもらうことは、主イエスをもらうことよりも大切であるからです。聖霊と共におることは、主と共におることよりは大切です。それは肉を有っていたもう主とは、親しき交わりができないからです。聖霊を受けまするならば、はじめて主と親しき交わりができます。必ず主の去りたもうことは、弟子の大いなる損であります。けれども、そのためになおなお大いなる利益を頂戴いたします。
主は肉を有っていたもう時に、弟子に種々の恵みを与えたまいました。或いは教え、或いは慰め、或いは守りたまいました。けれども、いま聖霊が私共と偕にいたまいまするならば、私共はなおなお大いなる特権、大いなる恵みがあります。肉を有っていたもう主が、去りたまいましても、そのように聖霊を頂戴することは、大いなる利益であります。
『罪についてとは、彼らがわたしを信じないことである』。これは罪の中の最も大いなる罪です。すべての罪の根元であります。
『義についてとは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなることである』。主は父に往きたもうて、罪人のために義となりたまいます。ロマ書四・二十五をご覧なさい。『イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです』。コリント後書五・二十一をご覧なさい。『罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです』。主が父へ往きたもうたことによりて、私共は義とせられます。そうですから、聖霊はそれを証したまいます。すべての罪のために、全き義があることを示したまいます。
『裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである』。聖霊は審判がもはや終わりたることを証したまいます。悪魔と罪はもはや十字架に審かれたことを証します。そうですから、『イエス・キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません』(ロマ書八・一)。私共のために、もはや審判がありません。審判は已に終わりました。
何人の心の中にも、二つの証があります。一つは良心の証です。一つは聖霊の証です。その示すところは、
第一 良心も、聖霊も、人間は神の前に、罪を犯したることを示します。
第二 良心は、正義は人間の衷にあらざることを示します。けれども、聖霊は、ちょうど反対です。正義が私共に帰せられたることを証します。
例えば哲学に従いまするならば、人間は義となることができんと思います。けれども、福音は、人間が義となることができると示します。
第三 世に属ける良心は、未来において審判に遇わねばならぬと示します。けれども、聖霊は私共信者は、已に十字架に審かれたること、すなわち審判が既に過ぎ去りたることを示します。
かつこれは、キリストの性質に適います。キリストは、預言者として、私共に罪を教えたまいます。祭司として、神の前に私共を義としたまいます。王として審判をなしたまいます。罪は過去に属き、義は現在に属き、審判は未来に属きます。
主はたびたび私共にそれを話したまわねばなりません。私共に神の深い真理を教えたまいとうございます。けれども、私共はそれを悟ることができませんから、話したもうことができません。他の子供のような心を有っておりまする者は、悟ることを得ましたから、主はそのような兄弟に、多くのことを語りたまいます。コリント前書三・一をご覧なさい、『兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました』。ヘブル五・十一をご覧なさい。『このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません』。またこの十二節を見まするならば、この十四、十五、十六の三章の真理は、ただキリストにおる赤子が、受くべき真理であります。どうかこの章より進みて、いよいよ深く神の真理を学びとうございます。
『今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』。今あなたは暁ることができません。けれども、聖霊の来りたもう時に、悟ることを得ます。この十三節は、ただ使徒二章のペンテコステの日のみではありません。いつでものペンテコステを指します。私共に聖霊の来りたまいまする時に、神の深いことを悟ることを得ます。
『その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである』。そうですから、聖霊はただ神の管です。聖霊によりて、主は私共に語りたまいます。聖霊は己に由りて語りたまいません。ただ主の語を私共に取り次ぎたまいます。
聖霊は三つのことを示したまいます。
第一、『これから起こることをあなたがたに告げるからである』。
聖霊は、私共に天国の栄光を示したまいます。私共に地獄の苦しみを示したまいます。私共に神の国の富と、罪の価の亡びなることを示したまいます。私共はこの来らんとすることを、自ら心に感じませんならば、必ず他の人々をして、感ぜしめることはできません。従うて人々を導くことは難しうございます。
『ヱホバ言ひ給けるは 我爲んとする事をアブラハムに隱すべけんや』(創世記十八・十七)。『ヤコブその子等を呼ていひけるは 汝らあつまれ 我後の日に汝らが遇んところの事を汝等につげん』(創世記四十九・一)。『これを持來りてわれらに後ならんとする事をしめせ そのいやさきに成るべきことを示せ われら心をとめてその終をしらん 或はきたらんとする事をわれらに聞すべし なんぢら後ならんとすることをしめせ 我儕なんぢらが神なることを知らん なんぢら或はさいはひし或はわざはひせよ 我儕ともに見ておどろかん』(イザヤ四十一・二十二、二十三)。来らんとすることを示すは、神の働きであります。いま聖霊は、私共にそれを示したまいとうございます。
第二、『その方はわたしに栄光を与える』。
聖霊は、私共にキリストを示したまいます。今までは弟子等は、幾分か肉体を有っていたもうキリストを見ました。幾分か肉体を有っていたもうキリストの慈愛と、恩と、力とを見ました。聖霊は、天に昇りたもうたる主の栄光を顕したまいます。キリストの今の栄光、今の生命、今の活けることを示したまいます。私共は聖霊を受けまするならば、天に昇りたもうたる主イエスを識ることができます。また聖霊は、キリストの栄光を知りたまいます。聖霊は、幾分か預言者等にも、使徒等にも、キリストの栄光を示したまいました。そうですから、その人々は、私共のために、聖霊について録しました。聖霊は、同じように、私共にもキリストの栄光を示したもうことができます。十四節の終わりをご覧なさい。『わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである』。私共にご自分の悟りを与えたまいます。聖霊は、ただ管であります。ご自分が見ること、また聞くことを私共に伝えたまいます。
聖霊はキリストの栄光について、暁りたもうところを私共に伝えたまいます。
この約束を見まするならば、私共の特権は言い難く、かつ栄光あります。私共はこの悟りを求めましたか。
またキリストの栄光は、いかなる栄光でありますか。聖霊は私共にこれを悟らせることのできる栄光であります。
聖霊を受け入れまするならば、必ずキリストに充たされます。必ずキリストの栄光を見まして、キリストに充たされます。
第三は、『父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、「その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と言ったのである』。
そうですから、聖霊は、私共に父の属を示したまいます。すなわち父の権威、父の栄光、父の愛を私共に示したまいます。
聖霊に充たされたる者は、以上三つのことを悟ることができます。また聖霊に充たされたる者は、聖霊の働きに従うて、この三つのことを他の人々に示します。聖霊の働きは、この奥義を明らかに示すことです。聖霊に充たされたる者の働きは同様です。
主はなお明らかに弟子等にご自分を示したまいとうございます。またなおなお親しき交わりを与えたまいとうございます。如何してこの恵みを与えることができますか。ただ暫く弟子等を去ることによりて、新しき悟りを与えたもうことができます。ただ弟子等に苦しみを与えることによりて、新しき交わりを与えたもうことができます。今まで弟子等は、肉によりて主を知りました。それは幸いでした。けれども、主は一歩を進めて、霊によりてご自分を知ることを得させたまいとうございます。その時に、弟子等は婦が子を産まんとするほどの苦しみがあります。けれども、その結果は限りなき、溢れるほどの喜びであります。
このことは、ただ最初の弟子等のみを指しますか。いいえ、私共をも指します。どうぞただいまこの言に心を留めとうございます。神はあなたがたの中にも、同じ苦しみと、同じ喜びとを与えたまいとうございます。コリント後書五・十六をご覧なさい。『わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません』。今まであなたがたの中に、ただ肉によりて、キリストを識りし兄弟がありますか。主は霊によりて、ご自分を悟らせたまいとうございます。肉によりてキリストを識ることは幸いです。すなわち外部の教理によりて、書籍を読むによりて、聖徒の交わり、また聖典によりて、キリストを識ることは幸いです。弟子等は、肉体を有っていたもう主と、交わりたることは、実に幸いでした。主の言を聞き、主の行いを見、主の愛を感じたる者は、実に幸いでした。今そのように肉によりて、キリストを識る者は、同じ幸いがあります。けれども、主はそういう悟りを取りたもうて、新しき霊なる悟りを与えたまいとうございます。霊に属ける悟りを受けるために、私共は弟子等と同じく、主の苦しみを堪え忍ばねばなりません。原語では、この十六節の『しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』の、見なくなる('theoreo" = to behold)と、見るようになる('horao' = to perceive)の意味が違います。『わたしを見なくなる』。これは肉眼をもって見ることです。『私を見るようになる』。これは霊によりて見ることです。
今まで弟子は、主を見ることを得ました。けれども、暫くの間はこのように、主を見ることはできません。私共は霊によりて、主を悟ることを得るために、暫く今までのように、主を見ることができんかも分かりません。今まで受けたる恵みを失うかも分かりません。暫く闇を堪え忍ばなければならぬかも分かりません。けれども十六節の終りの『またしばらくすると、わたしを見るようになる』の約束があります。こういう約束を堅く握りまするならば、暫時の闇黒を堪え忍ぶことができます。
弟子はそれを悟りません。少しもそれが分かりません。また『是われ父へ往なり』(十六節末)をも、少しも分りません。それによりて、新しき主を見ることを、少しも悟ることができません。今でも多くの人は、この新しき生命、新しき悟りを聞きましても、はじめは少しも分かりません。却りて議論をもって、それに反対するかも知れません。また相互に尋ね合うても分かりません。私共はそれを経験しませんならば、悟ることができません。主は明らかに言葉をもって、それを示したもうても、私共は経験せぬうちは、それを悟ることができません。
『イエスは、彼らが尋ねたがっていることを知って』。兄弟よ、それを知りませんならば、どうぞ主の聖声を聞きとうございます。主は私共が問わんとするところを知りたまいまするから、また談したまいます。
そうですから、暫く心の憂いがあります。暫くキリストを失ったと思いましょう。けれども、その時にも、弟子等がキリストの言を、心に留めておりましたならば、来るべき恵みを待ち望みましたろう。私共はキリストの約束を堅く握りまするならば、必ずそのような時にも望みがあります。ヨブ二十三・八〜十をご覧なさい。それは同じ苦しみの体験です。『しかるに我東に往くも彼いまさず 西に往くも亦見たてまつらず 北に工作きたまへども遇まつらず南に隱れ居たまへば望むべからず わが平生の道は彼知りたまふ 彼われを試みたまはゞ我は金のごとくして出きたらん』。今までヨブは、神を知りましたが、暫く光を失いました。今ただ主の苦しみがあります。けれども、その後の結果がよく分かります。ヨブはそのために、後から限りなき喜楽を得ました。詩篇六十九・一〜三に、同じ経験が記してあります。『神よねがはくは我をすくひたまへ 大水ながれきたりて我がたましひにまでおよべり われ立止なきふかき泥の中にしづめり われ深水におちいる おほみづわが上をあふれすぐ われ歎息によりてつかれたり わが喉はかわき わが目はわが神をまちわびておとろへぬ』。またエレミヤ哀歌三・一〜十九をご覧なさい。同二十よりは、闇が光に変わりたることを見ます。けれども同一〜十九は、同じ苦しみの経験であります。
そうですから、暫くの苦しみがあります。けれども、後に大いなる喜びが出来て参ります。弟子等は、この言を覚えておりましたならば、最も闇い日にも、主の十字架の時にも、望みがありましたでしょう。
またその喜びが生じたる時に、いかなる結果がありましょうか。ここで主と偕に死ぬることを見ます。主と共に苦しみを得まして、それから光と、喜びを得ることを見ます。主はご自分の栄光に入りたもうために、十字架の苦しみを堪え忍びたまわねばなりません。私共も、その栄光を受けるため、主を識るため、同じように主と偕に苦しみを得なければなりません。この死ぬることと、ヨハネ十二・二十四の死ぬることを比べとうございます。この二十二節の死ぬることは、何のためですかならば、主を識るためです。ヨハネ十二・二十四の死ぬることは、人間を導くためです。
死は同じことです。けれども、二つの結果があります。私共は主と偕に死にまするならば、人を導くことと、主を識ることができます。
これは二十二節の死ぬることの三つの結果を見ます。主を識ることの三つの結果を見ます。
第一は、『その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない』。明らかなる光を得ますから、悟りと智慧を得ますから、その霊の光によりて、何でも分ることができます。
第二は、『あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる』。すなわち祈りの力です。父に近づきて祈り、その応えを受けることです。
第三は、『あなたがたは喜びで満たされる』。すなわち喜びです。
或る信者は、喜びを全く構いません、軽率に考えます。けれども、キリストは喜びを大切に思いたまいます。最も貴き恵みと思いたまいます。私共は心の喜びが薄くございますならば、悔い改めて、主にそれを求めねばなりません。
第一の結果を説明したまいます。
第二の結果を説明したまいます。
第三の結果を説明したまいます。
本節において、第一、永遠に神の子であること、第二、肉体を取りたもうたること、第三、死にたもうたること、第四、復生たもうたること、第五、昇天したもうたることの五つの大切なることを見ます。また本節を見まするならば、世と神とは、離れております。これは恐ろしきことです。この世は神に遠ざかりて参りました。けれども、他に一つのことを見ることができます。すなわち世と神との間に、通行の途が開かれることです。
弟子等は、自分は信ずと思いました。けれども、自ら心を欺きておりました。まだ真正に信じません。まだ主の言の深き意味を悟りません。今でも私共は、心の中に偏見がありまして、自分の心を欺き易うございますから、時によりて、この弟子等と同じく、今われは信ず、今われは分かると申しませんか。けれども、たぶん主は答えたもうて、『今なんぢら信ずる乎』と言いたまいます。これは真正に信仰ではありません。
主の言を心に留めますならば、如何なる苦しみに遇いましても、平安があります。主は始めからこのことをよく知りたまいました。またただこの苦しみによりてなおなお大いなる幸いを与えたもうことが分かります。『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』。そうですから、主と一つになりたる者は、不断世に勝つことを得ます。ヨハネ一書五・四をご覧なさい。『神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です』。パウロは、世に勝つことを得ました。その苦しみを去りませずして、不断世に勝つことを得ました。そうして不断喜楽と平安とをもって、この世を過ごしました。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
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