第 十 四 章
十四章より十七章までは、聖書の至聖所であると思います。どうぞ聖霊に導かれましてここで神の栄光を見、神の聖声を聞きとうございます。だいたいにこれらの章を見まするならば、十四章には、父なる神を見ます。十五章には、子なる神を見ます。十六章には、聖霊なる神を見ます。必ずその毎章に三位一体なる神を見ます。けれども、だいたいはいま申し上げましたとおりです。
十四章を見まするならば、父なる神は人間に顕れたまいます。一節より十三節までは父なる神は聖子によりて、人間に顕れたまいます。また十六節より二十六節までは、父なる神が聖霊によりて、人間に顕れたまいます。
『心を騒がせるな』。主はただそればかりを勧めたまいません。二十七節に平安を与えたまいます。本節には平安を勧めたまいます。二十七節には平安を与えたまいます。主はいつでも命令を与えたまいまする時に、それに適う恩寵を与えたまいます。
その時に心配すべき者は、主イエスご自身です。けれども、心中に少しも心配がありません。却りてその周囲にある人々を慰めたまいます。また何のために、心に憂えることなきことができますかならば、第一には、信仰のためです(一節)。第二には、望みのためです(二節)。第三には、愛のためです(三節)。この信仰と、望みと、愛のために、必ず心中に永遠安心を抱くことができます。
『神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい』。今まで見えざる神を信じました。けれども、今から見えざるキリストを信じなければなりません。今まで見えざる神に導かれ、その聖声を聞き、その恵みを受けましたごとく、今から見えざるキリストに導かれ、慰められ、誡められなければなりません。けれども、今まで眼でキリストを見ましたから、今から眼でキリストを見ませんでも、どういうものであるかをよく分かりますから、見えざるキリストを信ずることは、難しきことではありません。ペテロ前書一・八をご覧なさい。『あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています』。これはこの一節の命令を成就する結果であります。見えざるキリストを信ずることです。
またなおなおこの一節をご覧なさい。『神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい』。神を信じたるごとく、われを信ずべし。またわれを信じたるごとくに、神を信ずべしという意味も含みておると思います。『神を信じなさい』。すなわち神は私のごときものであります。神は親しき、柔和なる、愛に充たされているものです。神はちょうどキリストのようなものと信ぜよ。『そしてわたしをも信じなさい』。汝等は今まで父なる神を信じました。神の能力、神の栄光、神の権威と、権力とを信じました。キリストは同じ能力、栄光、権力を有つ者であると信ぜよ。父なる神はキリストのようなものであると信じ、またキリストは神のようなものであると信ずることは、全き信仰であります。私共はこの信仰の一方ばかりを信じましても、いけません。両方共に信じなければなりません。
『わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか』。この住居(monai)ということは、聖書中にただこの二節と、二十三節にのみ記されてあります。二十三節の終わりに『その人のところに行き、一緒に住む』。原語にしてただこの二箇所ばかり記されてあります。この住居は、未来の天国の住居ではありません。この住居は、いま父なる神の中に、住まうことを示します。今まで主は父なる神の中に住みたまいました。弟子等にはそれが分かりました。十節と、二十節とを見ますならば、弟子等はそれを悟っておりました。『われ父にをり』(十節)、『われ吾父に在」(二十節)。今まで父なる神の家に、キリストの住居がありました。しかしてこの二節の意味は、ただわがためのみではなく、汝等のために、父なる神の家に住居がある。私が今まで父におりましたごとく、今からあなたがたも、父なる神の家に住まうことができますというのです。この二ヶ所の大意は、父なる神に住まうことです。『汝ら我に在れ』。また『われ汝等に在る』。これはこの二ヶ所の大意です。
『わが父の家』。二章十六節を見ますならば、『わが父の室』という言があります。この言は眼で見ゆる宮殿を指しました。けれども、本節にわが父の家は、眼で見ゆる宮殿ではありません。眼には見えない霊なる宮殿を指します。詩篇二十七・四をご覧なさい。『ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを』。ダビデは眼で見ゆる宮殿につきてそれを言いました。けれども、私共は霊の宮殿として味わうことができます。また詩篇六十五・四をご覧なさい。『いかに幸いなことでしょう、あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように』。また詩篇九十一・一をご覧なさい。『いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ』。そうですから詩篇の中にも同じ霊の意味を見ます。『わが父の家には第宅おほし』。エルサレムの殿の庭に住居がありました。彼処には祭司等が住みていました(列王紀上六・五、十;エゼキエル書四十・四十四〜四十六)。そうですから、ユダヤ人には、この譬がよく解りましたと思います。『わたしの父の家には住む所がたくさんある』。旧約時代にも、神に近づく者は、殿の裡に住まうことができました。サムエルも殿の裡に住んでおりました。主の意味は、今の時代において誰人でも霊なる殿の裡に住むことができるというのです。誰人でも神に在り、また神はその人の中に在ることができます。これはこの二節の意味であります。この住居は天国を指すと思いましても、少しも差し支えはありません。けれども、第一の意味はいま申したとおりです。
『もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか』。ただ私のほか誰も父に住まうことができないなれば、預てそれを知らせましたろう。けれども、これから万人のために、住居を備えんと致します。『あなたがたのために場所を用意しに行く』。その備えのために、十字架を堪え忍ばなければなりません。その備えのために、復生りたまわねばなりません。その備えのために、昇天したまわねばなりません。私共は今ただ主の十字架の血のために、主の昇天のために、至聖所に入ることができます。ヘブル十・十九〜二十一をご覧なさい。『イエスの血によって』。これは十字架です。『偉大な祭司がおられるのですから』。これは昇天のキリストです。キリストの十字架と、昇天のために、私共は神の家の至聖所に這入ることができます。
『行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』。必ず幾分かこれは主が再びこの世に臨りたもうことを指します。けれども、十八節をご覧なさい。『わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る』。やはり聖霊を授けたもう時を指します。私共は聖霊を受けます時に、父の家に這入りまして、そこに住まうことができます。『戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』。これはいま私共を神の中に導きたもうことを指します。また二十三節の終わりに、『わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』とあります。これは未来における主の再臨ではありません。ただいま私共の心の中に臨りたもうことを指すのです。
『こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる』。ちょうど十二章二十六節と同じことです。『我に事ふる者は我がをる所に在ん』。十七章二十四節をご覧なさい。『我をる所に我と偕に在て』。主の在したもうところは何処ですか。主が御在世中に在したまいました処は、天国です。三章十三節をご覧なさい。『天より降り天にをる人の子』。そうですから、主はこの世におりたまいました。けれども天国に住まいたまいました。『我をる所に爾曹をも居しめんとて也』。現世におる間に天国におることを指します。いまヘブル書の語を借りまするならば、いま父の家の至聖所に入りて、そこに住まうことを指します。エペソ二・六に同じことを見ます。『又イエス・キリストに在われらを彼と偕に甦らせ共に天の處に坐せしめ給へり』。私共はいま共に天の処に座することができます。そうですから、主が何故これを言いたまいましたかが分かります。十三章三十六節において、主はペテロに向かいて『我往ところへは爾いま從ふこと能ず。後われに從はん』と答えたまいました。今わたしは父へ行きます。汝はただいま従うことができません。けれども、私は何のために往きますかならば、あなたのためにそこに住居を備えんためです。またペンテコステの日に、私は来りてあなたを慰めます。わがおる処へあなたを受けますと言いたまいました。そうですから、ペテロを慰めんがために、この三節の言葉を言いたまいました。兄弟よ、どうぞこの三節を深く味わいとうございます。これは実に幸いなる黙示です。主はいま私共を天国に入らせたまいます。主イエスご自身は死にたもうた後に、昇天したまいました。私共は死せずして天国に入られます。主がその途を備えたまいましたならば、私共はそれを歩まなければなりません。主が私共のために、天の門を開きたまいましたならば、私共はいま入らなければなりません。決して死ぬる時まで、待たなければならぬ訳はありません。ただいま天国に入ることができます。ただいまこの地、この世を捨てまして、天に昇ることができます。またただいま地の上に、天国の富と、天国の栄えを示すことができます。
『わが往所』について次の引照をご覧なさい。『われ我父へ往ばなり』(十二)。『父に往』(二十八)。『我を遣しし者に往んとす』(十六・五)。『われ父へ往なり』(十六・十六)。『父に往ん』(十六・二十八)。『我は爾に就る』(十七・十一)。『我いま爾に就る』(十七・十三)。主はこのようにたびたび父に往くことを言いたまいました。弟子はそれを知る筈です。けれども、それを知りませなんだ。
十四章において、弟子等は三度主に尋ねます(五、八、二十二)。この三つの問いは、深く考うべきことです。第一の問いは、父へ往く道は何処ぞや。第二の問いは、父を我に示せよ。第三の問いは、誰が父を悟ることができますか。この三つの問いは、深く考えまするならば、至って難しきことです。主はただいまこの三つの問いに答えたまいます。
途がありませんならば、旅行することができません。真がありませんならば、いずれの途が正しきかを知ることができません。生命がありませんならば、旅行することができません。この三つは父に行く者のために大切です。
もし汽車が途を外れて、機関車を損ねました時に、第一になすべきことは、軌道から外れましたる汽車を元の軌道の上に戻すことです。第二になすべきことは、損じた機械を修繕すことです。第三には火を燃やすことです。これは汽車の中のちょうど途と、真と、生命です。
いま道を外れました罪人は、途と、真と、生命とがなければなりません。主は私共の祭司ですから、私共に至聖所に往く途を示すことができます。また主は私共の預言者ですから、真を示すことができます。また主は私共の王ですから、生命を与えることができます。このように主は祭司、預言者、王でありますから、ちょうどこの三つのことに応います。
これは実に大いなる黙示であります。主を識りまするならば、父を識ります。主を見まするならば、父を見ます。十二章四十五節と同じことです。『われを見者は我を遣しゝ者を見なり』。神はたびたび旧約時代にご自分を顕したまいました。例えば燃ゆる棘の裡に、或いはシナイ山の頂上にご自分を顕したまいました。或いは出エジプト記三十四章のごとく、静かにモーセにご自分を示したまいました。或いはエリヤにもご自分を顕したまいました。或いはイザヤ書六章に、イザヤにご自分を示したまいました。或いはエゼキエルにも、ご自分を顕したまいました。けれども、主イエスをもってご自分を顕したまいましたことは最も明白なる、最も完全なる黙示であります。ピリポにそれが解りません。
『主よ、わたしたちに御父をお示しください』と願いました。どうぞ旧約時代の聖徒に神がご自分を示したまいましたように、我らに父を示したまえと願いました。これは出エジプト記三十三章十八節と同じ願いと思います。ピリポの願いは、善い願いでした。けれども、神はもはやピリポにも、その黙示を与えたまいました。しかるにピリポは他の弟子と共に、鈍き頑固なる心を有っておりましたから、神の顕現を見ません。
『そうすれば満足できます』。これは実に信仰の願いです。ピリポの前に、ただ人間たる主のみがありました。けれども、『我儕に父を示し給へ 然ば足り』と願いました。ピリポは主に頼るならば、父の許に行くことができると信じて、これを願いました。また然らば足れりと申しました。おお兄弟よ、それは私共の心を足らせましょうか。私共の願いは、その外にはありませんか。父を見るならば、さらば足れりと言われましょうか。ピリピ三・十三をご覧なさい。『惟この一事を務む』。パウロはさらば足れりと言うことができました。他のことを務めません。他のことを追い求めません。ただ父を知ることを追い求めることが、パウロの心を足らしめました。おお兄弟よ、それは私共の心を足らしめましょうか。私共もこのことを務めますか。神を見ますならば、ほかの願いがありませんか。
『イエスは言われた、「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」』。今まで主はただ父を顕したまいました。言においても、行いにおいても、ただ父を顕したまいました。これは主の教訓の主眼でした。主の生涯の第一の目的でした。けれども、ピリポはそれを外しました。ピリポはたぶん他のことにおいて教えられました。けれども、主の教訓の主眼を外しました。区々き道徳上のことや、その他のことは分かりました。けれども、この最も大切なる問題を分かりませなんだ。
私共もピリポより大いなる特権があります。父を示すことは、四福音書の主眼です。私共は四福音書によりて、それを受け入れましたか。必ず四福音書によりて、種々のことを学びました。けれども、主眼を見ましたか。或いはそれを外しましたか。啻に四福音書のみではありません。聖書全体の主なる目的は、父を示すことです。おお兄弟よ、久しく聖書を読みしに未だ我を知らざるかと主は問いたまいますと思います。
いまルカ二十四章十六節のごとく、ピリポは目迷わされて知ることを得ませなんだ。
これは主の話の最も大いなる黙示であります。明らかなる黙示であると思います。コロサイ書二・九と同じことです。『それ神の充足る德は悉く形體をなしてキリストに住り』。またこの九節十節を見まするならば、父におることはどういう意味であるかが解ります。主は今まで父におり、父は今まで主におりたまいました。そうですから、主の言も、行いも、父なる神の言と、行いであります。けれども、『わが父の家には第宅おほし』。今までただ主のみ住みたまいました。けれども、今から弟子等は、すべて父におり、父は彼らにおることができます。『我がをる所に爾曹をも居らしめん』。そうですから、今まで主ばかりこの世に父を顕したまいました。今から信者たる者は、誰人でもこの世に父を顕すことができます。世の中におりながらも、天国に住まいして人間の眼の前に、父を顕すことができます。これは私共の大いなる特権です。兄弟よ、どうぞ、心の中に静かにこの黙示を受け入れなさることを勧めます。静かにこの大いなる恵みを受け入れなさることを勧めます。そうして、聖霊を受けまして、今から不断父の家の至聖処に住まいとうございます。
この言は、私共の心を刺す筈です。私共は未だこれを信じませなんだ。この言を読みまする時に悔い改めまして、己を卑くして、今までの不信仰の赦しを願うことは、第一に必要であります。この十二節で、事を為す力の秘密を見ます。十三節で祈りをなす力を見ます。主はたびたびこのように、信仰の力を言い顕したまいました。マタイ十七・二十をご覧なさい。『もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたはできないことは何もない』。また同二十一・二十一、二十二をご覧なさい。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる』。この二つの約束は主の、御在世中の約束でした。当時弟子は、信仰がありましたならば、能わざるところのものはありません。ましてただいま主は父の許へ参りたまいましたから、私共に能わざるところのものがありません。六章二十八、二十九節をご覧なさい。『そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」』。またヘブル十一・三十三をご覧なさい。『信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ』。これは信仰の勝利です。信仰によりて、旧約時代にそういうことを行ましたならば、ましてただいま私共は信仰によりて、大いなることを行る筈です。
信ずることはどういう意味ですかならば、主と一つとなることです。信ずることによりて、主と一つとなります。また主は私共と一つとなりたまいます。そうですから、信ずる者によりて、この地の上に主の恵みと、力があらわれます。主は地に在したまいし時に、人間は各様の恵みを受けました。或いは恵みの約束を頂戴いたしました。或いは恵みのわざを頂戴しました。主は天に昇りたまいましたから、そういう恵みが止まりましたか。いいえ、止まりません。却ってそれを大きく溢れしめたまいとうございます。いま私共によりて、地の上にそれを溢れしめたまいます。その時までは、地の上にただ肉体を有って在たもうたるキリスト一人の外に、恵みを与える者はありませなんだ。けれどもいま信ずる者によりて、同じことをなし、同じ恵みを溢れしめたまいとうございます。そうですから、キリストというもの幾人もあります。それによりて、この地上の諸々方々に、神の恵みと、神の力を示したまいとうございます。そうですから、私共はただ信ずる者でありまするならば、罪悪に沈んでいるこの世に、神と、天国とを近づかしめることができます。
『また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである』。今までキリストの力は、肉体のために限られました。神たる栄光を捨てたもうたるために、その力と、恵みが限られました。けれども、今からキリストは、天に昇りたまいましたから、力を受けたまいました。そうですから、キリストを信ずる者は、キリストと一つになりました者は、前より大いなることをなすことができます。キリストが行いたまいましたことよりは、大いなることをなす筈です。そうですから、今キリストより大いなることをなすことができませんのは、この言によりて私共の不信仰を示すと思います。今まで自分の霊の力のありませんのは、キリストと一つになりませんことを示すと思います。
『わたしが父のもとに行くからである』。信ずる者は、キリストと一つでありますから、キリストと偕に天に昇ることができます。「蓋キリストと偕に力の源なる父なる神に往けばなり」と言うことができます。
そうですから、十二節の事は、私共の事ではありません。私共によりてキリストが行いたもう事であります。ただいまはキリストが肉体をもってこの世にいたもうた時よりも、大いなる事をなしたもうことができます。私共はキリストよりも、大いなる事をするの力をもつのではなく、今キリストはご自分が肉体をもって在したもうた時よりも、大いなる事をなしたもうのであります。そうして私共によりてそれをなしたまいます。そうですから、私共にとりてはこの十三節のごとく、祈りは必要であります。『願うところは、何でもかなえてあげよう』。そうですから、キリストの力はすべて信ずる者によりて顕れ、信ずる者はキリストの力ある工を皆することができます。何故ですかならば、キリストはその信ずる者によりて、働きたもうからです。『わたしの名によって』。そうですから、その名の価値まで、私共は大いなるものを願うことができます。キリストの名の価値を知りません者は、ただ小さきことを願いましょう。けれどもキリストの名の価値を知りまするならば、知りまするほど、大いなる事を願います。私共は信仰をもって大いなる願いを捧げることができますならば、神の聖前にそれほどキリストの名を重んずることを示します。
また祈りの応答は何でありますかならば、神の祈りに答えたもうことによりて、キリストの名の価値を示したまいます。キリストの栄光のためにその祈りを答えたまいます。例えば私が銀行為換を誰かに渡しまするならば、銀行はその為換に従うて、私の名の価値ほどは金銭を払います。けれども、もしも私の名よりも、たくさんなる金銭を請いまするならば、銀行はそれほどに出しません。けれども、銀行は私の名で預かりました金額ほど、その為換に従うて出します。今キリストは私共にご自分の名を委ねたまいます。その名の価値ほどに、私共の願いを受け入れたもうことができます。私共は今までたびたびその名の価値を限りましたことはありませんか。キリストはこの言によりて、私共にその名の価値を悉く委ねたまいます。エステル書八・八をご覧なさい。『王の名をもて書き王の指環をもて印したる書は誰もとりけすこと能はざればなり』。そういうところは、誰も取り消すことはできません。王の名によりて願うところは、能わざることはありません。爾曹の好むごとく、王の名を使うことができます。我これをなさんと仰せたまいます。主はいま天において、祈りに答うる力を有っていたまいます。マタイ九・六にこれを見ます。『それ人の子地にて罪を赦すの權あることを爾曹に知せんとて』。主は地にてそれほどの力がありました。いま天にて神の宝位に坐したもう神の聖子は、祈りに応えたもう力を有っていたまいます。
十四節より、主はこの言を説きたまいます。今まで主はこの行をなしたもうことを約束したまいました。また祈りに応えたもう約束をなしたまいました。十四節より、どうして、これをなしたまいますか。すなわち聖霊をもって、続いて地の上に働きたもう故であることを示したまいます。十四、十五両節に聖霊を受くる二つの有様を言いたまいます。第一には、信仰の祈りです。第二には、服従です。この二つのことによりて、聖霊を与えたまいます。十四節に『若なんぢら何事にても我名に託て求はゞ我これを行ん』、十五節にもしわれ何事にても命ずるならば、汝はこれをなしましょうと言いたまいます。主は私共の願いを成就したまいますならば、私共は主の誡めを成就する筈です。
そうですから、私共は聖霊を求めますならば、私共とともに今一人の祈者があります。主イエスは、そういう祈禱会に在したもうて、私共のためにご自分がそのことを求めたまいます。そうですから、父は必ず別に慰むる者を与えたまいます。父は聖子の祈りを拒みたもうことはできません。『別に慰る者』。そうですから、聖霊はキリストのようなものです。キリストは弟子のために、どういうものでありましたか。聖霊は私共に同じようなものであります。すなわち聖霊は私共の朋友、私共の聖き教師、私共の先導者、私共の主、私共の慰め主、私共の守護主、私共のための祈り主であります。聖霊の私共におけることは、ちょうどキリストの弟子等におけるごときものです。
私共は聖霊について、誤りたる思想があるかも分かりません。私共はキリストのごとくに、この慰め主を思う筈です。この『慰る者』は原語では、パラクレトスと申しますが、その言葉は訳することができませんほどに、深遠なる意味であります。いま申したる七つのことは悉くこの名前に含みてあります。或いは朋友、或いは教師、前に申しましたことは、皆含みております。慰め主という言は、実に深き言であります。聖霊は私共のすべてのすべてであります。
これは旧約時代と、新約時代の区別であります。旧約時代においては、聖霊は聖徒と共におりたまいました。新約時代においては、聖霊は聖徒の中におりたまいました。けれども、方今十九世紀にも、旧約時代の信者を見ます。すなわち聖霊はそういう信者と共におりたまいます。まだその中にいたまいません。私共はどうですか。まだこの時代の大いなる栄光を見ませなんだか。まだこの時代の大いなる特権を受くることはありませなんだか。ただ旧約時代の聖徒でありましたか。私共は幾分か聖霊を知りませんならば、それを受け入れることはできません。これは十七節です。そうですから、生まれ替わりませんならば、聖霊を受け入れることはできません。ペンテコステの聖霊は、誰人でも有つものではありません。ただ生まれ替わりました者のみが、それを求めますことによりて、得られます。私共は悔い改める時に、こういう聖霊を得ません。世はこれを受けることができません。けれども、已に生まれ替わりました者は、これを求むることによって得られます。この十七節に聖霊を識ることと、聖霊を見ることとを見ます。七節に父なる神を識ることと、父なる神を見ることを見ます。九節、或いは十九節に、子なる神を識ることと、子なる神を見ることとを見ます。そのように私共は、明らかに三位一体なる神を知ることを得る筈です。神学によりて、それを分かることのみではありません。明らかに見るがごとく、父と子と聖霊を分かる筈です。それによりて、各自の心を判断することができます。おお兄弟よ、これは私共の特権ですから、まだ神を識りませなんだならば、今それを求めて得ることができます。
この節よりペンテコステの聖霊を受けることの大いなる結果を見ます。その結果は何でありますか。十八節より二十一節において、キリストを識ることです。二十二節より二十六節において、父なる神を識ることです。また二十六節より十五章二十六節において、聖霊の感化を受けることです。どうぞ深くこれを味わいとうございます。ペンテコステは、私共にただ聖霊を与えません。ペンテコステは、私共に三位一体なる神を与える恵みです。ペンテコステによりて、三位一体なる神を別々に識ることを得ます。
十八節より二十一節までは、キリストを受けることです。『わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る』(十八)。ちょうど三節のごとく、『戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』。ペンテコステの時に、弟子等は霊に属けるキリストを受けました。コリント後書五章十六節をご覧なさい。『それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません』。そうですから、肉によりてキリストを識ることと、霊によりてキリストを識ることとは、大いなる相違です。弟子等はペンテコステまでは、肉によりてキリストを識りました。これも幸いです。今でもキリスト信者は、大抵肉によってキリストを受け入れます。或いは他の人より教えられ、或いは自ら聖書を読みまして、肉によりてキリストを受け入れます。これは幸いです。けれども、これよりも幸いなることは、ペンテコステの聖霊を得まして、霊によりて、キリストを識ることです。霊によりて心の中にキリストが現れることです。肉によりてキリストを識る者は、たびたび孤児です。たびたび心の中に淋しくあります。たびたび慰めがありません。たびたびキリストを見ることができません。けれども、霊によりてキリストを識る者は、孤子ではありません。心の中に不断キリストを有っております。
そうですから、聖霊によりてキリストを受け入れまするならば、この三つの結果があります。『あなたがたはわたしを見る』(十九)。『あなたがたも生きることになる』(十九)。『かの日には……あなたがたに分かる』(二十)。見ることと、生きることと、知ることを得ます。『見る』、それは途たるキリストを指します。『生きる』、それは生命たるキリストを指します。『知る』、それは真たるキリストを指します。『我は途なり 真なり 生命なり』(六節)。この三つのことを指します。
『あなたがたはわたしを見る』。おお聖霊を受けまするならば、私共はそのごとく、自然にいつでもキリストを見ることができます。キリストの栄光を見ることができます。世はキリストを見ることができません。また肉に属ける信者は、時としてキリストを見ます。けれども、時としてキリストを見ることができません。ただ聖霊を得ました信者は、いつでもキリストを見ることができます。『然ど爾曹は我を見』。主はかく言いたまいます。私共はそれによりて、自分の経験を判断しなければならんと思います。
『わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる』。主の生命に与ります。それは必ず復生の生命を指すことです。キリストは、この時に生きていたまいました。けれども、その時に、すなわち復生の生命を得る時に、『われ生れば』。これは朽ちざる生命(incorruptible life)を指します。これは十章十節のごとく、豊かなる生命を指す言です。或いはロマ書六・九、十のごとき生命です。私共はかくのごとき生命を得ることができます。すなわちもはや死にましたから、今から後に『復しなず』。また罪に陥りませずして、ただ神のために生涯を暮らすことができます。ちょうどロマ書六・四のごとく、『我儕も新き生命に行べき爲なり』。すなわち『かれの復生にも等かるべき』生命です(同五)。これは私共の特権です。いま彼と共に新しき生命、力ある生命、朽ちざる生命、豊かなる生命に与ります。六章五十七節をご覧なさい。『生る父われを遣す 父に由て我生る如く我を食ふ者も我に由て生べし』。そうですからこれは不断必要のことです。すなわちキリストを食らい、キリストを受け入れることによりて、キリストが生けるごとく、私共も生命を頂戴します。
『わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる』。そうですから、信者は主の復生の証拠であります。私共は世人の眼の前に、キリストが生きていたもう証拠であります。私共の生涯は、復生の生命によることは、明らかであります。すなわち朽ちざる、罪に勝つ、絶えざる生命であることは明らかであります。
『あなたがたに分かる』(二十)。十節を見ますならば、『信じないのか』。その時代には、ただそれを信仰するのみでした。けれども、聖霊の時代には、それを知ることができます。信ずることのみならず、明らかに知ることとなります。『われ吾が父に在』。キリストは在世中にも父におりたまいました。まして天に昇りたまいました時からは、誠に天にいたまわぬことがありましょうか。私共はそれを知ることができます。教えられることではありません。キリストはいま神におりたもうことができます。キリストはただいま天の中、地の上のすべての権威を有っていたもうことができます。聖霊の感化によってそれを知ることができます。またそれのみならず『なんぢら我に在』。そうですから私共も天の処に昇りました者であります。私共も復生の生命に与りまして、この世を捨てました者であります。また『われ爾曹に在こと』。そうですから、ただいま他の人々は、私共の中にキリストを見ることができます。また未来においてそれは明白となります。私共は天国に至る時に、キリスト我におることは、誰でも知ることができます。『なんぢら我に在われ爾曹に在』。今まで主は弟子等と同におりたまいました。そういう繋ぎをもって弟子等に繋がれたまいました。いま世を去りたまいまするならば、その関係が断たれましょうか。そうではありません、却ってなおなお親しくなります。なおなお強くなります。私共はまだこの二十節を悟りませんならば、聖霊を求め、これによりてこの確信を得なければなりません。
いま申しました十九、二十両節はキリストを知ることの三つの結果です。二十一節によってどうしてキリストを知ることを得ますかについて示されてあります。
『我誡を有ちて』。すなわちそれを知る者、また頭脳にそれを覚える者です。またそれのみならず、『之を守る者』。すなわちそれに従うて生涯を暮らす者です。この『有つ』ということについて、私共は聖書を調べなければなりません。また主の尊旨、主の誡めを深く研究致さねばなりません。愛は誡めを知ります。主を愛する愛がありまするならば、それほど主の誡めを知ることを得ます。また喜んで主の誡めを守ることを得ます。コロサイ三・十六をご覧なさい。『キリストの道をして爾曹の心に存て充足しめ』。キリストは私共に誡めを与えたまいます。これは喜ぶべきことであります。私共はただ平生に神の恵み、キリストの恵みを感じます。けれども、キリストはそれと同時に、私共に誡めを与えたまいます。私共はいま律法の下におる者ではありません。けれども、誡めを守らなければなりません。旧約時代のように、厳かに神の誡めを守らなければなりません。またそのために、恵みが与えられます。神の誡めを守るために、恵みを頂戴いたします。それによりて愛を顕します。またそれによりて、この二十一節の終わりをご覧なさい。『わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す』。このように主の言を有ちまするならば、父なる神の愛も、子なる神の愛をも感じます。父なる神と、子なる神が格別に愛したもう者となります。また子なる神は、私共にご自分を顕したまいます。これは霊によりてキリストを知ることを指します。頭脳によりてではなく、霊によりてキリストを知ることを指します。キリストの栄光、キリストの恵み、キリストの救いの力を知ることを指します。
『主よ如何して』。不信仰はいつでもいかにしてと尋ねます。信仰は神の約束を聞きまする時に、自分を卑くして、いかにしてかを分かりませんでも、信じます。神の言を信じませんならば、神の約束を受けることはできません。主はいかにしてかの問いに答えたまいません。ただ私共の信仰を要めたまいます。私共は信じまするならば、主は私共に智識を与えたまいます。けれども、信じませんうちに智識を与えたまいません。そうですから、以前の約束を繰り返したまいます。繰り返したまいし時に、ただ少しく約束を大いになしたまいました。けれども、ユダの懇求に従うて、いかにしてかを答えたまいません。
これは二十一節の約束よりは、進みたる約束であります。ただキリストは私共にご自分を顕したもうのみではありません。父をも、子をも顕したもうことです。兄弟よ、この大いなる約束を受け入れましたか。私共は今この約束を註解いたしとうございません。ただこの大いなる恵みに驚きまして、神の聖前に俯伏して、これを受け入れとうございます。
『父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』。聖霊によりて父なる神、子なる神はあなたと偕に住みたまいます。私共はこの約束の成就せられるために、今まで十分間ほどでも費やしたことはありましたか。私共はこの約束の成就せられることを求めるために、いつまでも力を尽くして祈る筈ですと思います。主は私共が在世中に、ただいま天国を与えたもうように約束したまいます。いま父なる神は、私共と偕に住みたまいます。私共はこの約束を怠りまして、この恵みを受けませずして、未来の天国を待ち望みます。或いは未来の天国につきて、讃美を歌います。キリストはいま天より降りたもうて、私共と偕に住みたまいとうございます。私共は否と答えます。「主よどうぞあなたは天において俟ちたまえ、私共はこの世を去りました後に、天国においてあなたと父と偕に住むことを得ますから、ただいまは構いたまいますな」。私共はこういう答えをいたしませんか。『わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』。主はいま天国を与えたまいとうございます。この二十三節においてどうか次の階段をご覧なさい。
第一に、キリストを愛することです。
第二に、言を守ることです。
第三に、父なる神の愛を感ずることです。
第四に、父なる神、子なる神の在したもうことを感ずることです。
第五に、父なる神、子なる神と偕に住むことを感ずることです。
私共はこの五つの階段によりて、自分の信仰の立脚地を判断することができます。私共はこの五つの階段を何程経験いたしましたか。この二十三節は経験の話です。私共は何程経験いたしましたでしょうか。
この『住む』ことについてイザヤ書五十七・十五、ヨハネ一書四・十五、十六を引照なさい。『至高く至上なる永遠にすめるもの 聖者となづくるもの 如此いひ給ふ 我はたかき所 きよき所にすみ 亦こゝろ碎けてへりくだる者とともにすみ 謙だるものの靈をいかし 碎けたるものの心をいかす』『凡そイエスを神の子なりと認はす者は神かれに居かれ神に居。我儕の爲に神の有る愛を我儕すでに知て信ず。神は卽ち愛なり。凡そ愛にをる者は神にをり神また彼に居』。
『わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない』。これによりて偽善の信者が分かります。『あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである』。そうですから、キリストの言を守ることは、愛の印であります。またそれによりて、キリストを宿すことができます。またこれは父なる神の言でありますから、神を尊ぶことであります。キリストの言を守る者は、すなわち父なる神を敬うことであります。そうですから神の言の大切なることが分かります。神の言によりて、神を知ることができます。また神を宿すことができます。また十五章において同じことを見ます。神の言は、恵みを受ける方法であります。弟子はこの言を聞きました時に、深くこれを感じました。そうですから、なおなおキリストの言を聞きとうございます。また今まで聞きましたことを忘れましたならば、たいそう残念であると思いました。主は今この二つの心の願いに応えたまいます。キリストは、今から永い間話したまいません。けれども、聖霊は続いて言を与えたまいます。今まで弟子等は、キリストの言を忘れましても、今から聖霊はそれを憶い起さしめたまいます。そうですから、聖霊は必要であります。或いは新しきことを聞くために、或いは今まで聞きましたことを憶い起すために、聖霊を求めなければなりません。
これから、聖霊は天国において、続いて語りたまいます。
コリント前書二・十をご覧なさい。『〝霊〟は一切のことを、神の深みさえも究めます』。ヨハネ一書二・二十七をご覧なさい。『いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい』。
今までわたしは平安がありました。例えば種々の困難や、貧窮に遭いました。各様の迫害や悪口に遭いました。けれども、不断心に平安がありました。また爾曹はそれを見ました。その平安をいま与えます。
『わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない』。世もたびたび平安を与えます。財宝によりて、成功によりて、その他万殊のことによりて、平安を与えます。けれども、その平安はたびたび消失します。たびたび砕かれます。わたしの与える平安は、そのようなものではありません。わたしの与える平安は、限りなき平安です。汝等の心を守る平安です。
風がありませんならば、湖水は至って静穏であります。けれども、少しく風が吹きまするならば、また波が起こります。或いは何人か石を投げまするならば、穏やかなる水面は、これがために乱され、波が直ちに起こって参ります。世の与える平安は、そのようなものであります。
けれども、冬になります時に、その湖水に氷が張ります。静かに氷が張って参りまするならば、風が如何ほど吹きましても、誰が石を投げましても、氷は破壊いたしません。わたしの与える平安は、そのような平安であります。
キリストは私共にそういう平安を与えたまいます。ピリピ四・七をご覧なさい。『あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心を考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう』。この『守る』という言は、兵士らしき言です。兵士が国を守るごとく、キリストの平安は、あなたの心を守ります。これは強き平安です。逆遇にありて、なくなる平安ではありません。世の与える敗れ易き平安でなく、心を守るほどの強き平安です。
『心を騒がせるな。おびえるな』。私共は心を静めますならば、静めまするほど、平安が深く強くなります。水が流れまするならば、そこに氷が張りません。けれども、静かにとどまりまするならば、そこに氷が張ります。また寒さが強ければ、強きほど、氷が厚く、かつ堅固に張ります。私共の心が静かにありまするならば、その上にキリストの平安が参ります。平安の氷が張ります。またキリストの愛の熱がありますから、その熱ほどに、平安が強くなります。
『わたしの平和を与える』。キリストの平安の基礎は、何処にありましたか。第一に、キリストの喜ばしき望みを見ます(二十八)。第二に、キリストは悪魔に処を与えたまいませんことを見ます(三十)。第三に、キリストは父を愛し、父に服従したまいましたことを見ます(三十一)。キリストの平安の基礎は、この三つであります。私共はキリストの平安を得とうございまするならば、この三つのことを心に存めねばなりません。
主は私共に深き同情を表したまいます。そうして、私共も主に同情を表することを待ち望みたまいます。主は私共の同情を願いたまいます。その時に、主は喜びを待ち望みたまいました。弟子に喜びの同情を願いたまいました。おお兄弟よ、私共は主に同情を表しますか。いま主は天国において喜びを得たまいます。私共は主に喜びの同情を表しますか。罪人が救われまするならば、喜びを覚えたまいます。私共は主に同情を表しますか。主は罪人のために歎き悲しみたまいます。私共はそれに同情を表しますか。
『この世の主』。十二・三十一にも『斯世の主』を見ます。十六・十一にも『斯世の主』を見ます。それによりて、世の恐ろしき模様を見ます。世の主は、神ではありません、悪魔です。ヨハネ一書五・十九をご覧なさい。『この世全体が悪い者の支配下にあるのです』。私共はいま罪人の模様を知りとうございまするならば、いま罪人の重荷を負いとうございまするならば、この世の主という言について、深く感ぜねばなりません。
『わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである』。主がそれを務めたまいましたならば、私共はそれを務める筈です。どうぞ、神を愛し、神の僕であることを世に示しとうございます。どうぞ神の誡めに服従する者であることを、世の中に示しとうございます。これはたびたび十字架です。たびたび神の誡めを心に守りましても、公然にそれを示しません。却ってそのことを示す代わりに、他のことを現します。けれども、主のごとく、父の命ぜしことに従って、行うことを世に知らせなければなりません。自分は父の奴隷であることを示さなければなりません。
『われ平安を爾曹に遺す』。キリストが私共に与えたまいまする恵みの富について、七つの要点を挙げとうございます。
第一は『わたしの平和』(ヨハネ十四・二十七)。
第二は『わたしの愛』(同十五・十)。
第三は『わたしの喜び』(同十五・十一)。
第四は『わたしの恵み』(コリント後書十二・九)。
第五は『わたしの力』(同上)。
第六は『わたしの安息』(ヘブル四・五)。
第七は『わたしの栄光』(ヨハネ十七・二十四)。
私共はキリストの嗣子です。ここでキリストの身代、キリストの富を見ます。嗣子なる私共はどういう富を受けましょうか。これはキリストの遺言書です。
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