第 十 四 章 



 十四章より十七章までは、聖書の至聖所であると思います。どうぞ聖霊に導かれましてここで神の栄光を見、神の聖声みこえを聞きとうございます。だいたいにこれらの章を見まするならば、十四章には、父なる神を見ます。十五章には、子なる神を見ます。十六章には、聖霊なる神を見ます。必ずその毎章に三位一体なる神を見ます。けれども、だいたいはいま申し上げましたとおりです。

 十四章を見まするならば、父なる神は人間にあらわれたまいます。一節より十三節までは父なる神は聖子みこによりて、人間に顕れたまいます。また十六節より二十六節までは、父なる神が聖霊によりて、人間に顕れたまいます。

一  節

 『心を騒がせるな』。しゅはただそればかりを勧めたまいません。二十七節に平安を与えたまいます。本節には平安を勧めたまいます。二十七節には平安を与えたまいます。主はいつでも命令を与えたまいまする時に、それにかな恩寵めぐみを与えたまいます。

 その時に心配すべき者は、主イエスご自身です。けれども、心中しんちゅうに少しも心配がありません。かえりてその周囲にある人々を慰めたまいます。またなにのために、心に憂えることなきことができますかならば、第一には、信仰のためです(一節)。第二には、望みのためです(二節)。第三には、のためです(三節)。この信仰と、望みと、のために、必ず心中に永遠いつまでも安心を抱くことができます。

 『神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい』。今まで見えざる神を信じました。けれども、今から見えざるキリストを信じなければなりません。今まで見えざる神に導かれ、その聖声みこえを聞き、その恵みを受けましたごとく、今から見えざるキリストに導かれ、慰められ、いましめられなければなりません。けれども、今まで眼でキリストを見ましたから、今から眼でキリストを見ませんでも、どういうものであるかをよく分かりますから、見えざるキリストを信ずることは、難しきことではありません。ペテロ前書一・八をご覧なさい。『あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています』。これはこの一節の命令を成就する結果であります。見えざるキリストを信ずることです。

 またなおなおこの一節をご覧なさい。『神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい』。神を信じたるごとく、われを信ずべし。またわれを信じたるごとくに、神を信ずべしという意味も含みておると思います。『神を信じなさい』。すなわち神は私のごときものであります。神は親しき、柔和なる、愛に充たされているものです。神はちょうどキリストのようなものと信ぜよ。『そしてわたしをも信じなさい』。汝等なんじらは今まで父なる神を信じました。神の能力ちから、神の栄光さかえ、神の権威と、権力とを信じました。キリストは同じ能力ちから栄光さかえ、権力をつ者であると信ぜよ。父なる神はキリストのようなものであると信じ、またキリストは神のようなものであると信ずることは、全き信仰であります。私共わたくしどもはこの信仰の一方ばかりを信じましても、いけません。両方共に信じなければなりません。

二  節

 『わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか』。この住居すまい(monai)ということは、聖書中にただこの二節と、二十三節にのみ記されてあります。二十三節の終わりに『その人のところに行き、一緒に住む』。原語にしてただこの二箇所ばかり記されてあります。この住居は、未来の天国の住居ではありません。この住居は、いま父なる神のうちに、住まうことを示します。今まで主は父なる神のうちに住みたまいました。弟子たちにはそれが分かりました。十節と、二十節とを見ますならば、弟子等はそれを悟っておりました。『われ父にをり』(十節)、『われわが父にをり」(二十節)。今まで父なる神の家に、キリストの住居がありました。しかしてこの二節の意味は、ただわがためのみではなく、汝等なんじらのために、父なる神の家に住居がある。私が今まで父におりましたごとく、今からあなたがたも、父なる神の家に住まうことができますというのです。この二ヶ所の大意は、父なる神に住まうことです。『なんぢら我にれ』。また『われ汝等なんぢらる』。これはこの二ヶ所の大意です。

 『わが父の家』。二章十六節を見ますならば、『わが父のいへ』ということばがあります。この言は眼で見ゆる宮殿みやを指しました。けれども、本節にわが父の家は、眼で見ゆる宮殿みやではありません。眼には見えない霊なる宮殿みやを指します。詩篇二十七・四をご覧なさい。『ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを』。ダビデは眼で見ゆる宮殿みやにつきてそれを言いました。けれども、私共は霊の宮殿みやとして味わうことができます。また詩篇六十五・四をご覧なさい。『いかに幸いなことでしょう、あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように』。また詩篇九十一・一をご覧なさい。『いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ』。そうですから詩篇のうちにも同じ霊の意味を見ます。『わが父の家には第宅すまひおほし』。エルサレムの殿みやの庭に住居すまいがありました。彼処かしこには祭司等が住みていました(列王紀上六・五、十;エゼキエル書四十・四十四〜四十六)。そうですから、ユダヤびとには、このたとえがよくわかりましたと思います。『わたしの父の家には住む所がたくさんある』。旧約時代にも、神に近づく者は、殿みやうちに住まうことができました。サムエルも殿みやの裡に住んでおりました。主の意味は、今の時代において誰人だれでも霊なる殿みやの裡に住むことができるというのです。誰人だれでも神にり、また神はその人のうちに在ることができます。これはこの二節の意味であります。この住居は天国を指すと思いましても、少しも差し支えはありません。けれども、第一の意味はいま申したとおりです。

 『もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか』。ただ私のほか誰も父に住まうことができないなれば、かねてそれを知らせましたろう。けれども、これから万人すべてのひとのために、住居すまいを備えんと致します。『あなたがたのために場所を用意しに行く』。その備えのために、十字架を堪え忍ばなければなりません。その備えのために、復生よみがえりたまわねばなりません。その備えのために、昇天したまわねばなりません。私共は今ただ主の十字架の血のために、主の昇天のために、至聖所いときよきところることができます。ヘブル十・十九〜二十一をご覧なさい。『イエスの血によって』。これは十字架です。『偉大な祭司がおられるのですから』。これは昇天のキリストです。キリストの十字架と、昇天のために、私共は神の家の至聖所いときよきところ這入はいることができます。

三  節

 『行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』。必ず幾分かこれは主が再びこの世にきたりたもうことを指します。けれども、十八節をご覧なさい。『わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る』。やはり聖霊を授けたもう時を指します。私共は聖霊を受けます時に、父の家に這入はいりまして、そこに住まうことができます。『戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』。これはいま私共を神のうちに導きたもうことを指します。また二十三節の終わりに、『わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』とあります。これは未来における主の再臨ではありません。ただいま私共の心の中にきたりたもうことを指すのです。

 『こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる』。ちょうど十二章二十六節と同じことです。『我につかふる者はがをる所にをらん』。十七章二十四節をご覧なさい。『わがをる所にわれともをりて』。主のいましたもうところは何処どこですか。主が御在世中に在したまいましたところは、天国です。三章十三節をご覧なさい。『天よりくだ天にをる人の子』。そうですから、主はこの世におりたまいました。けれども天国に住まいたまいました。『わがをる所に爾曹なんぢらをもをらしめんとてなり』。現世このよにおるうちに天国におることを指します。いまヘブル書のことばを借りまするならば、いま父の家の至聖所に入りて、そこに住まうことを指します。エペソ二・六に同じことを見ます。『又イエス・キリストにあるわれらを彼とともよみがへらせ共に天のところせしめ給へり』。私共はいま共に天の処に座することができます。そうですから、主が何故なにゆえこれを言いたまいましたかが分かります。十三章三十六節において、主はペテロに向かいて『わがゆくところへはなんぢいま從ふことあたはず。のちわれに從はん』と答えたまいました。今わたしは父へ行きます。なんじはただいま従うことができません。けれども、私は何のために往きますかならば、あなたのためにそこに住居すまいを備えんためです。またペンテコステの日に、私はきたりてあなたを慰めます。わがおる処へあなたを受けますと言いたまいました。そうですから、ペテロを慰めんがために、この三節の言葉を言いたまいました。兄弟よ、どうぞこの三節を深く味わいとうございます。これは実に幸いなる黙示です。主はいま私共を天国にはいらせたまいます。主イエスご自身は死にたもうたのちに、昇天したまいました。私共は死せずして天国に入られます。主がそのみちを備えたまいましたならば、私共はそれを歩まなければなりません。主が私共のために、天の門を開きたまいましたならば、私共はいま入らなければなりません。決して死ぬる時まで、待たなければならぬわけはありません。ただいま天国に入ることができます。ただいまこの地、この世を捨てまして、天に昇ることができます。またただいま地の上に、天国の富と、天国の栄えを示すことができます。

四  節

 『わがゆく所』について次の引照をご覧なさい。『われわが父へゆけばなり』(十二)。『父にゆく』(二十八)。『われつかはしし者にゆかんとす』(十六・五)。『われ父へゆくなり』(十六・十六)。『父にゆかん』(十六・二十八)。『我はなんぢいたる』(十七・十一)。『我いまなんぢいたる』(十七・十三)。主はこのようにたびたび父にくことを言いたまいました。弟子はそれを知るはずです。けれども、それを知りませなんだ。

五  節

 十四章において、弟子たち三度さんど主に尋ねます(二十二)。この三つの問いは、深く考うべきことです。第一の問いは、父へく道は何処いずこぞや。第二の問いは、父を我に示せよ。第三の問いは、誰が父を悟ることができますか。この三つの問いは、深く考えまするならば、至って難しきことです。主はただいまこの三つの問いに答えたまいます。

六  節

 みちがありませんならば、旅行たびすることができません。まことがありませんならば、いずれの途が正しきかを知ることができません。生命いのちがありませんならば、旅行たびすることができません。この三つは父に行く者のために大切です。

 もし汽車がみちはずれて、機関車を損ねました時に、第一になすべきことは、軌道レールから外れましたる汽車を元の軌道レールの上に戻すことです。第二になすべきことは、損じた機械を修繕なおすことです。第三には火を燃やすことです。これは汽車のうちのちょうどみちと、まことと、生命いのちです。

 いま道をはずれました罪人つみびとは、みちと、まことと、生命いのちとがなければなりません。主は私共の祭司プリーストですから、私共に至聖所いときよきところく途を示すことができます。また主は私共の預言者プロフェットですから、真を示すことができます。また主は私共のキングですから、生命を与えることができます。このように主は祭司預言者でありますから、ちょうどこの三つのことにかないます。

七  節

 これはまことに大いなる黙示であります。主を識りまするならば、父を識ります。主を見まするならば、父を見ます。十二章四十五節と同じことです。『われをみる者は我をつかはしゝ者をみるなり』。神はたびたび旧約時代にご自分をあらわしたまいました。例えば燃ゆるしばうちに、或いはシナイ山の頂上にご自分を顕したまいました。或いは出エジプト記三十四章のごとく、静かにモーセにご自分を示したまいました。或いはエリヤにもご自分を顕したまいました。或いはイザヤ書六章に、イザヤにご自分を示したまいました。或いはエゼキエルにも、ご自分を顕したまいました。けれども、主イエスをもってご自分を顕したまいましたことは最も明白なる、最も完全なる黙示であります。ピリポにそれがわかりません。

八  節

 『主よ、わたしたちに御父おんちちをお示しください』と願いました。どうぞ旧約時代の聖徒に神がご自分を示したまいましたように、我らに父を示したまえと願いました。これは出エジプト記三十三章十八節と同じ願いと思います。ピリポの願いは、善い願いでした。けれども、神はもはやピリポにも、その黙示を与えたまいました。しかるにピリポはほかの弟子と共に、鈍き頑固かたくななる心をっておりましたから、神の顕現を見ません。

 『そうすれば満足できます』。これは実に信仰の願いです。ピリポの前に、ただ人間たる主のみがありました。けれども、『我儕われらに父をあらはし給へ さらたれり』と願いました。ピリポは主に頼るならば、父のもとに行くことができると信じて、これを願いました。またらば足れりと申しました。おお兄弟よ、それは私共の心を足らせましょうか。私共の願いは、そのほかにはありませんか。父を見るならば、さらば足れりと言われましょうか。ピリピ三・十三をご覧なさい。『たゞこの一事いちじを務む』。パウロはさらば足れりと言うことができました。他のことを務めません。他のことを追い求めません。ただ父を知ることを追い求めることが、パウロの心を足らしめました。おお兄弟よ、それは私共の心を足らしめましょうか。私共もこのことを務めますか。神を見ますならば、ほかの願いがありませんか。

九  節

 『イエスは言われた、「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」』。今まで主はただ父をあらわしたまいました。ことばにおいても、行いにおいても、ただ父を顕したまいました。これは主の教訓おしえの主眼でした。主の生涯の第一の目的でした。けれども、ピリポはそれを外しました。ピリポはたぶん他のことにおいて教えられました。けれども、主の教訓おしえの主眼を外しました。区々ちいさき道徳上のことや、そのほかのことは分かりました。けれども、この最も大切なる問題を分かりませなんだ。

 私共もピリポより大いなる特権があります。父を示すことは、四福音書の主眼です。私共は四福音書によりて、それを受け入れましたか。必ず四福音書によりて、種々いろいろのことを学びました。けれども、主眼を見ましたか。或いはそれを外しましたか。ただに四福音書のみではありません。聖書全体の主なる目的は、父を示すことです。おお兄弟よ、久しく聖書を読みしにいまだ我を知らざるかと主は問いたまいますと思います。

 いまルカ二十四章十六節のごとく、ピリポは目まどわされて知ることを得ませなんだ。

十、十一節

 これは主の話の最も大いなる黙示であります。明らかなる黙示であると思います。コロサイ書二・九と同じことです。『それ神の充足みちたれる德はことごと形體かたちをなしてキリストにすめり』。またこの九節十節を見まするならば、父におることはどういう意味であるかがわかります。主は今まで父におり、父は今まで主におりたまいました。そうですから、主のことばも、行いも、父なる神の言と、行いであります。けれども、『わが父の家には第宅すまひおほし』。今までただ主のみ住みたまいました。けれども、今から弟子たちは、すべて父におり、父は彼らにおることができます。『がをる所に爾曹なんぢらをもらしめん』。そうですから、今まで主ばかりこの世に父をあらわしたまいました。今から信者たる者は、誰人だれでもこの世に父を顕すことができます。世の中におりながらも、天国に住まいして人間の眼の前に、父を顕すことができます。これは私共の大いなる特権です。兄弟よ、どうぞ、心の中に静かにこの黙示を受け入れなさることを勧めます。静かにこの大いなる恵みを受け入れなさることを勧めます。そうして、聖霊を受けまして、今から不断たえず父の家の至聖処いときよきところに住まいとうございます。

十 二 節

 このことばは、私共の心を刺すはずです。私共はだこれを信じませなんだ。この言を読みまする時に悔い改めまして、おのれひくくして、今までの不信仰の赦しを願うことは、第一に必要であります。この十二節で、わざす力の秘密を見ます。十三節祈りをなす力を見ます。主はたびたびこのように、信仰の力を言いあらわしたまいました。マタイ十七・二十をご覧なさい。『もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたはできないことは何もない』。また同二十一・二十一、二十二をご覧なさい。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる』。この二つの約束は主の、御在世中の約束でした。当時弟子は、信仰がありましたならば、あたわざるところのものはありません。ましてただいま主は父のもとへ参りたまいましたから、私共にあたわざるところのものがありません。六章二十八、二十九節をご覧なさい。『そこで彼らが、「神のわざを行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」』。またヘブル十一・三十三をご覧なさい。『信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ』。これは信仰の勝利です。信仰によりて、旧約時代にそういうことをましたならば、ましてただいま私共は信仰によりて、大いなることをはずです。

 信ずることはどういう意味ですかならば、主と一つとなることです。信ずることによりて、主と一つとなります。また主は私共と一つとなりたまいます。そうですから、信ずる者によりて、この地の上に主の恵みと、力があらわれます。主は地にいましたまいし時に、人間は各様いろいろの恵みを受けました。或いは恵みの約束を頂戴いたしました。或いは恵みのわざを頂戴しました。主は天に昇りたまいましたから、そういう恵みがとどまりましたか。いいえ、とどまりません。かえってそれを大きく溢れしめたまいとうございます。いま私共によりて、地の上にそれを溢れしめたまいます。その時までは、地の上にただ肉体をってたもうたるキリスト一人のほかに、恵みを与える者はありませなんだ。けれどもいま信ずる者によりて、同じことをなし、同じ恵みを溢れしめたまいとうございます。そうですから、キリストというもの幾人もあります。それによりて、この地上の諸々方々しょしょほうぼうに、神の恵みと、神の力を示したまいとうございます。そうですから、私共はただ信ずる者でありまするならば、罪悪に沈んでいるこの世に、神と、天国とを近づかしめることができます。

 『また、もっと大きなわざを行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである』。今までキリストの力は、肉体のために限られました。神たる栄光を捨てたもうたるために、その力と、恵みが限られました。けれども、今からキリストは、天に昇りたまいましたから、力を受けたまいました。そうですから、キリストを信ずる者は、キリストと一つになりました者は、前より大いなることをなすことができます。キリストが行いたまいましたことよりは、大いなることをなすはずです。そうですから、今キリストより大いなることをなすことができませんのは、このことばによりて私共の不信仰を示すと思います。今まで自分の霊の力のありませんのは、キリストと一つになりませんことを示すと思います。

 『わたしが父のもとに行くからである』。信ずる者は、キリストと一つでありますから、キリストとともに天に昇ることができます。「そはキリストとともに力のもとなる父なる神にけばなり」と言うことができます。

十 三 節

 そうですから、十二節わざは、私共のわざではありません。私共によりてキリストが行いたもうわざであります。ただいまはキリストが肉体をもってこの世にいたもうた時よりも、大いなるわざをなしたもうことができます。私共はキリストよりも、大いなるわざをするの力をもつのではなく、今キリストはご自分が肉体をもっていましたもうた時よりも、大いなるわざをなしたもうのであります。そうして私共によりてそれをなしたまいます。そうですから、私共にとりてはこの十三節のごとく、祈りは必要であります。『願うところは、何でもかなえてあげよう』。そうですから、キリストの力はすべて信ずる者によりてあらわれ、信ずる者はキリストの力あるわざを皆することができます。何故なにゆえですかならば、キリストはその信ずる者によりて、働きたもうからです。『わたしの名によって』。そうですから、その名の価値ねうちまで、私共は大いなるものを願うことができます。キリストの名の価値ねうちを知りません者は、ただ小さきことを願いましょう。けれどもキリストの名の価値ねうちを知りまするならば、知りまするほど、大いなることを願います。私共は信仰をもって大いなる願いを捧げることができますならば、神の聖前みまえにそれほどキリストの名を重んずることを示します。

 また祈りの応答こたえなにでありますかならば、神の祈りに答えたもうことによりて、キリストの名の価値ねうちを示したまいます。キリストの栄光さかえのためにその祈りを答えたまいます。例えば私が銀行為換かわせを誰かに渡しまするならば、銀行はその為換かわせに従うて、私の名の価値ねうちほどは金銭を払います。けれども、もしも私の名よりも、たくさんなる金銭を請いまするならば、銀行はそれほどに出しません。けれども、銀行は私の名で預かりました金額ほど、その為換かわせに従うて出します。今キリストは私共にご自分の名を委ねたまいます。その名の価値ねうちほどに、私共の願いを受け入れたもうことができます。私共は今までたびたびその名の価値ねうちを限りましたことはありませんか。キリストはこのことばによりて、私共にその名の価値ねうちことごとく委ねたまいます。エステル書八・八をご覧なさい。『王の名をもて書き王の指環をもていんしたるふみたれもとりけすことあたはざればなり』。そういうところは、誰も取り消すことはできません。王の名によりて願うところは、あたわざることはありません。爾曹なんじらの好むごとく、王の名を使うことができます。我これをなさんと仰せたまいます。主はいま天において、祈りに答うる力をっていたまいます。マタイ九・六にこれを見ます。『それ人の子地にて罪を赦すのちからあることを爾曹なんぢらしらせんとて』。主は地にてそれほどの力がありました。いま天にて神の宝位みくらいに坐したもう神の聖子みこは、祈りに応えたもう力をっていたまいます。

十四、十五節

 十四節より、主はこのことばを説きたまいます。今まで主はこのわざをなしたもうことを約束したまいました。また祈りにこたえたもう約束をなしたまいました。十四節より、どうして、これをなしたまいますか。すなわち聖霊をもって、続いて地の上に働きたもうゆえであることを示したまいます。十四、十五両節に聖霊を受くる二つの有様を言いたまいます。第一には、信仰の祈りです。第二には、服従です。この二つのことによりて、聖霊を与えたまいます。十四節に『もしなんぢら何事にてもわが名によりねがはゞわれこれをなさん』、十五節にもしわれ何事にても命ずるならば、なんじはこれをなしましょうと言いたまいます。主は私共の願いを成就したまいますならば、私共は主のいましめを成就するはずです。

十 六 節

 そうですから、私共は聖霊を求めますならば、私共とともに今一人の祈者いのりてがあります。主イエスは、そういう祈禱会にいましたもうて、私共のためにご自分がそのことを求めたまいます。そうですから、父は必ず別に慰むる者を与えたまいます。父は聖子みこの祈りを拒みたもうことはできません。『別になぐさむる者』。そうですから、聖霊はキリストのようなものです。キリストは弟子のために、どういうものでありましたか。聖霊は私共に同じようなものであります。すなわち聖霊は私共の朋友ともだち、私共のきよき教師、私共の先導者みちびきて、私共のしゅ、私共の慰めぬし、私共の守護主まもりぬし、私共のための祈り主であります。聖霊の私共におけることは、ちょうどキリストの弟子たちにおけるごときものです。

 私共は聖霊について、誤りたる思想かんがえがあるかも分かりません。私共はキリストのごとくに、この慰め主を思うはずです。この『なぐさむる者』は原語では、パラクレトスと申しますが、その言葉は訳することができませんほどに、深遠なる意味であります。いま申したる七つのことはことごとくこの名前に含みてあります。或いは朋友ともだち、或いは教師、前に申しましたことは、皆含みております。慰め主ということばは、実に深き言であります。聖霊は私共のすべてのすべてであります。

十 七 節

 これは旧約時代と、新約時代の区別であります。旧約時代においては、聖霊は聖徒と共におりたまいました。新約時代においては、聖霊は聖徒の中におりたまいました。けれども、方今いま十九世紀にも、旧約時代の信者を見ます。すなわち聖霊はそういう信者と共におりたまいます。まだその中にいたまいません。私共はどうですか。まだこの時代の大いなる栄光さかえを見ませなんだか。まだこの時代の大いなる特権を受くることはありませなんだか。ただ旧約時代の聖徒でありましたか。私共は幾分か聖霊を知りませんならば、それを受け入れることはできません。これは十七節です。そうですから、生まれ替わりませんならば、聖霊を受け入れることはできません。ペンテコステの聖霊は、誰人だれでもつものではありません。ただ生まれ替わりました者のみが、それを求めますことによりて、得られます。私共は悔い改める時に、こういう聖霊を得ません。世はこれを受けることができません。けれども、すでに生まれ替わりました者は、これを求むることによって得られます。この十七節に聖霊をことと、聖霊を見ることとを見ます。七節に父なる神を識ることと、父なる神を見ることを見ます。九節、或いは十九節に、子なる神を識ることと、子なる神を見ることとを見ます。そのように私共は、明らかに三位一体なる神を知ることを得るはずです。神学によりて、それを分かることのみではありません。明らかに見るがごとく、父と子と聖霊を分かる筈です。それによりて、各自めいめいの心を判断することができます。おお兄弟よ、これは私共の特権ですから、まだ神を識りませなんだならば、今それを求めて得ることができます。

十 八 節

 この節よりペンテコステの聖霊を受けることの大いなる結果を見ます。その結果はなにでありますか。十八節より二十一節において、キリストを識ることです。二十二節より二十六節において、父なる神を識ることです。また二十六節より十五章二十六節において、聖霊の感化を受けることです。どうぞ深くこれを味わいとうございます。ペンテコステは、私共にただ聖霊を与えません。ペンテコステは、私共に三位一体なる神を与える恵みです。ペンテコステによりて、三位一体なる神を別々に識ることを得ます。

 十八節より二十一節までは、キリストを受けることです。『わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る』(十八)。ちょうど三節のごとく、『戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』。ペンテコステの時に、弟子たちは霊にけるキリストを受けました。コリント後書五章十六節をご覧なさい。『それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません』。そうですから、肉によりてキリストを識ることと、霊によりてキリストを識ることとは、大いなる相違です。弟子等はペンテコステまでは、肉によりてキリストを識りました。これも幸いです。今でもキリスト信者は、大抵たいてい肉によってキリストを受け入れます。或いはほかの人より教えられ、或いは自ら聖書を読みまして、肉によりてキリストを受け入れます。これは幸いです。けれども、これよりも幸いなることは、ペンテコステの聖霊を得まして、霊によりて、キリストを識ることです。霊によりて心の中にキリストが現れることです。肉によりてキリストを識る者は、たびたび孤児みなしごです。たびたび心の中に淋しくあります。たびたび慰めがありません。たびたびキリストを見ることができません。けれども、霊によりてキリストを識る者は、孤子みなしごではありません。心の中に不断たえずキリストをっております。

十九、二十節

 そうですから、聖霊によりてキリストを受け入れまするならば、この三つの結果があります。『あなたがたはわたしを見る』(十九)。『あなたがたも生きることになる』(十九)。『かの日には……あなたがたに分かる』(二十)。見ることと、生きることと、知ることを得ます。『見る』、それはみちたるキリストを指します。『生きる』、それは生命いのちたるキリストを指します。『知る』、それはまことたるキリストを指します。『我はみちなり 真なり 生命なり』(六節)。この三つのことを指します。

 『あなたがたはわたしを見る』。おお聖霊を受けまするならば、私共はそのごとく、自然にいつでもキリストを見ることができます。キリストの栄光さかえを見ることができます。世はキリストを見ることができません。また肉にける信者は、時としてキリストを見ます。けれども、時としてキリストを見ることができません。ただ聖霊を得ました信者は、いつでもキリストを見ることができます。『され爾曹なんぢらは我をみる』。主はかく言いたまいます。私共はそれによりて、自分の経験を判断しなければならんと思います。

 『わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる』。主の生命いのちあずかります。それは必ず復生よみがえりの生命を指すことです。キリストは、この時に生きていたまいました。けれども、その時に、すなわち復生よみがえりの生命を得る時に、『われいくれば』。これはちざる生命(incorruptible life)を指します。これは十章十節のごとく、豊かなる生命を指すことばです。或いはロマ書六・九、十のごとき生命です。私共はかくのごとき生命を得ることができます。すなわちもはや死にましたから、今からのちに『またしなず』。また罪に陥りませずして、ただ神のために生涯を暮らすことができます。ちょうどロマ書六・四のごとく、『我儕われらあたらしき生命あゆむべきためなり』。すなわち『かれの復生よみがへりにもひとしかるべき』生命です(同五)。これは私共の特権です。いま彼と共に新しき生命、力ある生命、朽ちざる生命、豊かなる生命に与ります。六章五十七節をご覧なさい。『いける父われをつかはす 父によりわがいける如くわれくらふ者も我によりいくべし』。そうですからこれは不断たえず必要のことです。すなわちキリストを食らい、キリストを受け入れることによりて、キリストが生けるごとく、私共も生命を頂戴します。

 『わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる』。そうですから、信者は主の復生よみがえりの証拠であります。私共は世人せじんの眼の前に、キリストが生きていたもう証拠であります。私共の生涯は、復生よみがえりの生命によることは、明らかであります。すなわち朽ちざる、罪に勝つ、絶えざる生命であることは明らかであります。

 『あなたがたに分かる』(二十)。十節を見ますならば、『信じないのか』。その時代には、ただそれを信仰するのみでした。けれども、聖霊の時代には、それを知ることができます。信ずることのみならず、明らかに知ることとなります。『われ吾が父にをり』。キリストは在世中にも父におりたまいました。まして天に昇りたまいました時からは、まことに天にいたまわぬことがありましょうか。私共はそれを知ることができます。教えられることではありません。キリストはいま神におりたもうことができます。キリストはただいま天のうち、地の上のすべての権威をっていたもうことができます。聖霊の感化によってそれを知ることができます。またそれのみならず『なんぢら我にをり』。そうですから私共も天の処に昇りました者であります。私共も復生よみがえり生命いのちあずかりまして、この世を捨てました者であります。また『われ爾曹にをること』。そうですから、ただいまほかの人々は、私共の中にキリストを見ることができます。また未来においてそれは明白となります。私共は天国に至る時に、キリスト我におることは、誰でも知ることができます。『なんぢら我にをりわれ爾曹なんぢらをる』。今まで主は弟子たちともにおりたまいました。そういう繋ぎをもって弟子等に繋がれたまいました。いま世を去りたまいまするならば、その関係が断たれましょうか。そうではありません、かえってなおなお親しくなります。なおなお強くなります。私共はまだこの二十節を悟りませんならば、聖霊を求め、これによりてこの確信を得なければなりません。

 いま申しました十九、二十両節はキリストを知ることの三つの結果です。二十一節によってどうしてキリストを知ることを得ますかについて示されてあります。

二十一節

 『わがいましめたもちて』。すなわちそれを知る者、また頭脳あたまにそれを覚える者です。またそれのみならず、『これを守る者』。すなわちそれに従うて生涯を暮らす者です。この『たもつ』ということについて、私共は聖書を調べなければなりません。また主の尊旨みむね、主のいましめを深く研究致さねばなりません。愛は誡めを知ります。主を愛する愛がありまするならば、それほど主の誡めを知ることを得ます。また喜んで主の誡めを守ることを得ます。コロサイ三・十六をご覧なさい。『キリストのことばをして爾曹なんぢらの心にとめ充足みちたらしめ』。キリストは私共に誡めを与えたまいます。これは喜ぶべきことであります。私共はただ平生に神の恵み、キリストの恵みを感じます。けれども、キリストはそれと同時に、私共に誡めを与えたまいます。私共はいま律法の下におる者ではありません。けれども、誡めを守らなければなりません。旧約時代のように、厳かに神の誡めを守らなければなりません。またそのために、恵みが与えられます。神の誡めを守るために、恵みを頂戴いたします。それによりて愛をあらわします。またそれによりて、この二十一節の終わりをご覧なさい。『わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す』。このように主のことばたもちまするならば、父なる神の愛も、子なる神の愛をも感じます。父なる神と、子なる神が格別に愛したもう者となります。また子なる神は、私共にご自分を顕したまいます。これは霊によりてキリストを知ることを指します。頭脳あたまによりてではなく、霊によりてキリストを知ることを指します。キリストの栄光さかえ、キリストの恵み、キリストの救いの力を知ることを指します。

二十二節

 『主よ如何いかにして』。不信仰はいつでもいかにしてと尋ねます。信仰は神の約束を聞きまする時に、自分をひくくして、いかにしてかを分かりませんでも、信じます。神のことばを信じませんならば、神の約束を受けることはできません。主はいかにしてかの問いに答えたまいません。ただ私共の信仰をもとめたまいます。私共は信じまするならば、主は私共に智識を与えたまいます。けれども、信じませんうちに智識を与えたまいません。そうですから、以前の約束を繰り返したまいます。繰り返したまいし時に、ただ少しく約束を大いになしたまいました。けれども、ユダの懇求もとめに従うて、いかにしてかを答えたまいません。

二十三節

 これは二十一節の約束よりは、進みたる約束であります。ただキリストは私共にご自分をあらわしたもうのみではありません。父をも、子をも顕したもうことです。兄弟よ、この大いなる約束を受け入れましたか。私共は今この約束を註解いたしとうございません。ただこの大いなる恵みに驚きまして、神の聖前みまえ俯伏ひれふして、これを受け入れとうございます。

 『父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』。聖霊によりて父なる神、子なる神はあなたとともに住みたまいます。私共はこの約束の成就せられるために、今まで十分間ほどでも費やしたことはありましたか。私共はこの約束の成就せられることを求めるために、いつまでも力を尽くして祈るはずですと思います。主は私共が在世中に、ただいま天国を与えたもうように約束したまいます。いま父なる神は、私共と偕に住みたまいます。私共はこの約束を怠りまして、この恵みを受けませずして、未来の天国を待ち望みます。或いは未来の天国につきて、讃美を歌います。キリストはいま天より降りたもうて、私共と偕に住みたまいとうございます。私共はいやと答えます。「主よどうぞあなたは天においてちたまえ、私共はこの世を去りましたのちに、天国においてあなたと父と偕に住むことを得ますから、ただいまは構いたまいますな」。私共はこういう答えをいたしませんか。『わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』。主はいま天国を与えたまいとうございます。この二十三節においてどうか次の階段をご覧なさい。

 第一に、キリストを愛することです。
 第二に、ことばを守ることです。
 第三に、父なる神の愛を感ずることです。
 第四に、父なる神、子なる神のいましたもうことを感ずることです。
 第五に、父なる神、子なる神とともに住むことを感ずることです。

 私共はこの五つの階段によりて、自分の信仰の立脚地たちばを判断することができます。私共はこの五つの階段を何程なにほど経験いたしましたか。この二十三節は経験の話です。私共は何程経験いたしましたでしょうか。

 この『住む』ことについてイザヤ書五十七・十五、ヨハネ一書四・十五、十六を引照なさい。『至高いとたか至上いとうへなる永遠とこしへにすめるもの 聖者せいしゃとなづくるもの 如此かくいひ給ふ 我はたかき所 きよき所にすみ またこゝろ碎けてへりくだる者とともにすみ へりくだるものの靈をいかし 碎けたるものの心をいかす』『おほよそイエスを神の子なりといひあらはす者は神かれにをりかれ神にをる我儕われらために神のもてる愛を我儕われらすでにしりて信ず。神はすなはち愛なり。おほよそ愛にをる者は神にをり神また彼にをる』。

二十四節

 『わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない』。これによりて偽善の信者が分かります。『あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである』。そうですから、キリストのことばを守ることは、愛のしるしであります。またそれによりて、キリストを宿すことができます。またこれは父なる神の言でありますから、神を尊ぶことであります。キリストの言を守る者は、すなわち父なる神を敬うことであります。そうですから神の言の大切なることが分かります。神の言によりて、神を知ることができます。また神を宿すことができます。また十五章において同じことを見ます。神の言は、恵みを受ける方法であります。弟子はこの言を聞きました時に、深くこれを感じました。そうですから、なおなおキリストの言を聞きとうございます。また今まで聞きましたことを忘れましたならば、たいそう残念であると思いました。主は今この二つの心の願いにこたえたまいます。キリストは、今から永い間話したまいません。けれども、聖霊は続いて言を与えたまいます。今まで弟子等は、キリストの言を忘れましても、今から聖霊はそれをおもいださしめたまいます。そうですから、聖霊は必要であります。或いは新しきことを聞くために、或いは今まで聞きましたことをおもいだすために、聖霊を求めなければなりません。

二十五節

 これから、聖霊は天国において、続いて語りたまいます。

二十六節

 コリント前書二・十をご覧なさい。『〝霊〟は一切のことを、神の深みさえもきわめます』。ヨハネ一書二・二十七をご覧なさい。『いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい』。

二十七節

 今までわたしは平安がありました。例えば種々いろいろの困難や、貧窮に遭いました。各様さまざまの迫害や悪口あっこうに遭いました。けれども、不断たえず心に平安がありました。また爾曹なんじらはそれを見ました。その平安をいま与えます。

 『わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない』。世もたびたび平安を与えます。財宝たからによりて、成功によりて、その他万殊いろいろのことによりて、平安を与えます。けれども、その平安はたびたび消失します。たびたび砕かれます。わたしの与える平安は、そのようなものではありません。わたしの与える平安は、限りなき平安です。汝等なんじらの心を守る平安です。

 風がありませんならば、湖水は至って静穏しずかであります。けれども、少しく風が吹きまするならば、また波が起こります。或いは何人だれか石を投げまするならば、穏やかなる水面は、これがために乱され、波が直ちに起こって参ります。世の与える平安は、そのようなものであります。

 けれども、冬になります時に、その湖水に氷が張ります。静かに氷が張って参りまするならば、風が如何いかほど吹きましても、誰が石を投げましても、氷は破壊いたしません。わたしの与える平安は、そのような平安であります。

 キリストは私共にそういう平安を与えたまいます。ピリピ四・七をご覧なさい。『あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心を考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう』。この『守る』ということばは、兵士らしき言です。兵士が国を守るごとく、キリストの平安は、あなたの心を守ります。これは強き平安です。逆遇ぎゃくぐうにありて、なくなる平安ではありません。世の与える敗れ易き平安でなく、心を守るほどの強き平安です。

 『心を騒がせるな。おびえるな』。私共は心を静めますならば、静めまするほど、平安が深く強くなります。水が流れまするならば、そこに氷が張りません。けれども、静かにとどまりまするならば、そこに氷が張ります。また寒さが強ければ、強きほど、氷が厚く、かつ堅固に張ります。私共の心が静かにありまするならば、その上にキリストの平安が参ります。平安の氷が張ります。またキリストの愛の熱がありますから、その熱ほどに、平安が強くなります。

 『わたしの平和を与える』。キリストの平安の基礎どだいは、何処どこにありましたか。第一に、キリストの喜ばしき望みを見ます(二十八)。第二に、キリストは悪魔にところを与えたまいませんことを見ます(三十)。第三に、キリストは父を愛し、父に服従したまいましたことを見ます(三十一)。キリストの平安の基礎どだいは、この三つであります。私共はキリストの平安を得とうございまするならば、この三つのことを心にめねばなりません。

二十八節

 主は私共に深き同情をひょうしたまいます。そうして、私共も主に同情をひょうすることを待ち望みたまいます。主は私共の同情を願いたまいます。その時に、主は喜びを待ち望みたまいました。弟子に喜びの同情を願いたまいました。おお兄弟よ、私共は主に同情をひょうしますか。いま主は天国において喜びを得たまいます。私共は主に喜びの同情をひょうしますか。罪人つみびとが救われまするならば、喜びを覚えたまいます。私共は主に同情をひょうしますか。主は罪人のために歎き悲しみたまいます。私共はそれに同情をひょうしますか。

二十九、三十節

 『この世のぬし』。十二・三十一にも『斯世このよぬし』を見ます。十六・十一にも『斯世このよぬし』を見ます。それによりて、世の恐ろしき模様を見ます。世のぬしは、神ではありません、悪魔です。ヨハネ一書五・十九をご覧なさい。『この世全体が悪い者の支配下にあるのです』。私共はいま罪人つみびとの模様を知りとうございまするならば、いま罪人の重荷を負いとうございまするならば、この世のぬしということばについて、深く感ぜねばなりません。

三十一節

 『わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである』。しゅがそれを務めたまいましたならば、私共はそれを務めるはずです。どうぞ、神を愛し、神のしもべであることを世に示しとうございます。どうぞ神のいましめに服従する者であることを、世の中に示しとうございます。これはたびたび十字架です。たびたび神の誡めを心に守りましても、公然おおやけにそれを示しません。かえってそのことを示す代わりに、ほかのことを現します。けれども、主のごとく、父の命ぜしことに従って、行うことを世に知らせなければなりません。自分は父の奴隷であることを示さなければなりません。

 『われ平安やすき爾曹なんぢらのこす』。キリストが私共に与えたまいまする恵みの富について、七つの要点を挙げとうございます。

 第一は『わたしの平和』(ヨハネ十四・二十七)。
 第二は『わたしの愛』(同十五・十)。
 第三は『わたしの喜び』(同十五・十一)。
 第四は『わたしの恵み』(コリント後書十二・九)。
 第五は『わたしの力』(同上)。
 第六は『わたしの安息』(ヘブル四・五)。
 第七は『わたしの栄光』(ヨハネ十七・二十四)。

 私共はキリストの嗣子よつぎです。ここでキリストの身代しんだい、キリストの富を見ます。嗣子よつぎなる私共はどういう富を受けましょうか。これはキリストの遺言書です。



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