第 十 一 章
本章において神は独り子のために大いなる休徴を示したまいます。十章においてユダヤ人は主を捐てました。また主は謙遜の道を歩みたまいました。本章において神はご自分の捐てられたる聖子のために、ユダヤ人の眼前に明らかなる休徴を示したまいます。その休徴は何でありますかならば、死にたる者を甦らすことであります。
主は四度ベタニアに行きたまいました。またそのたびごとに私共の学ぶべき貴きことがあります。
第一 マリアは主の足下に坐りて主の言を聞きました(ルカ十・三十九)。
第二 主がラザロを甦らしめたまいました(本章)。
第三 主は一人の心を引きたまいて、ご自分は全き愛を受けるべき者であることを示したまいました。マリアは主にその心の愛を献げました。香膏を流して全き愛心を献げました(十二・一〜七)。
第四 はルカ二十四・五十、五十一であります。その時は昇天の時でした。弟子に向かいて天の中地の上の凡ての権はその聖手に賜りしことを告げ、また昇天によってそれを証したまいました。そうですからこの処において主はご自分が、王の王、主の主なることを示したまいました。
ベタニアは主の愛したもう処でした。ラザロの家は主の愛したもう家でした。今この世の中にも主の愛したもう処があります。喜んで主を迎える心は、すなわち今日の主のベタニアです。また主は今日のベタニアにもご自分の教師なること、生命の与え主なること、愛を受くべき者なること、および万物の上に権を有っていたもうことを示したまいます。
また次のことをご覧なさい。ルカ十・三十九において主はマリアに神の言を宣べ伝えました。主はマリアの預言者(prophet)でした。本章において主はマリアのために神よりその兄弟の生命を受けたまいました。主はマリアの祭司(priest)でした。祭司の務めはいつでも死と生命のことです。また十二・一〜七においてマリアは喜んで主に一切を献げました。主はマリアの王(king)でした。主は現今でもご自分を愛する者に預言者、祭司、王であることを示したまいます。
本章において主が神の聖子であることを示されます。格別に四節をご覧なさい。十二・十二、十三において主はダビデの裔であることを示されます。すなわちイスラエルの真の王なることを示されます。ただ一人のユダヤ人のみならず、人の子は全世界の一人であることを示されます。格別に二十三節の『人の子が栄光を受ける時が来た』をご覧なさい。
そうですから主はいま私共にご自分の三つの性質(character)を示したまいます。主は神の子ですから私共に神を示したまいます。ダビデの裔ですから私共が拝すべき王であることを示したまいます。人の子ですから私共に同情を表したもう者なることを示したまいます。このヨハネ伝研究の最初において、神が私共に聖子の栄光を示したもうように祈りました。私共は今明らかに聖子の栄光を見ることができます。おおどうぞ眼を挙げて主の栄光をご覧なさい。どうぞユダヤ人のごとくならずして、真正の弟子たる心をもって今その栄光をご覧なさい。おおどうぞ真正の羊たる心をもって、主の聖声を聴き主に従いとうございます。
また神は一番終わりに、主の神たることを明らかに示したまいます。主は如何なる休徴をもっていたもうかならば則ち復生であります。それに由りて神たることを示したまいます(ロマ書一・四、使徒十七・三十一)。
『神の子がそれによって栄光を受けるのである』。そうですから父なる神も子なる神も、これによって栄を受けたまいます。死は悪魔の働きです。けれども神はそれによって、ご自分の栄光を顕したまいますから、実に大いなる勝利です。人間の眼から見まするならば、ラザロの死は却って死の勝利であると思いましょう。けれどもほんとうにそれに由りて父なる神も子なる神も、栄と勝利を得たまいます。私共はここで失敗を見、かしこで闇黒を見まする際に、軽率なる判断を下しまするならば、却って悪魔の勝利であると思うかも知れません。けれども終わりまで俟ち望みまするならば、神は必ずそれに由りてなおなお大いなる勝利を得たまいます。いま神は暫時悪魔の力を堪え忍びたまいます。何のためにラザロの死を許したまいましたか。それはなおなお大いなる勝利を得んがためであります。そのためにそれを許したまいました。今サタンは働きます。けれども主はサタンの働きをも統御める権を有っていたまいます。
キリスト・イエスを言い顕すものは、教会より追い出されました(九・二十二)。そうですからこの三人はそのような迫害を受けましたかも知れません。それゆえに主はなおなおこの三人を愛したまいました。
『是故に』すなわち愛のために、その処に二日留まりたまいました。私共人間の思想をもって料りまするならば、このゆえに早くベタニアに往きたまいましたと思いましょう。けれどもこのゆえに二日留まりたまいました。主はたびたび今でも愛のために、急に私共の祈りに応えたまいません。暫く待っていたまいます。それから後になおなお願うところのものよりも、大いなる恩恵を施したまいます。主は二日留まりたまいますから、その信仰の試錬の時にも、どうぞ信仰を保って主の働きを俟ち望みとうございます。けれども竟に主はベタニアに往きたまいます。
そうですから生命を懸けて、ラザロの許に参りたまいました。人間の方から見ますならば極めて危険なることでした。主は人間に生命を与えるためにいつでもご自分の生命を懸けて往きたまいます。
何人の生涯にも十二時間あります。その十二時の間は必ず日が没れません。神の定めたまえる時間があります。人間は神の許可を得ませずして、生命を奪うことはできません。そうですから大切なることは何でありますかならば、生命を救うことでなく、神の聖旨を行うことです。光に従うことです。これは大切です。主の答えはユダヤへ往くことは父の聖旨ですから、安全ですという意です。
神の聖旨に従わず、自分の心に従うて歩むことは、夜間歩むことです。そうしますなら躓きましょう。『その人の内に光がないからである』。自分の心中に光はありません。人間はただ神より光を受けなければなりません。自分の生命を救うために、自分の心に従いまするならば、夜間歩むごとく躓きましょう。
そうですからその時にも、ラザロを甦らすことを預言したまいました。けれども弟子は心が鈍いためにそれが解りません。
後からトマスは不信仰に陥りました。けれども十六節を見ますならばここでは心の忠実なる者でした。
『あなたがたが信じるようになるためである』(十五)。そうですから信仰を養うために、主は祈りに答えたまいません。死ぬることを許したもうことによって、暫く悪魔の勝利を許したもうことによって、弟子の信仰を養いたまいます。苦痛によって悲哀によって、弟子の信仰を育てたまいます。そうですから私共は或いは悲哀、或いは暗黒、或いは暫時サタンの勝利に会わなければなりませんならば、それを驚きませずして、そのために主は私共の信仰を養いたもうて、竟になおなお大いなる勝利を得たもうことを信じて喜びとうございます。暫時サタンが勝利を得ましたことは却って喜ぶべきことです。『わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった』。何故なればそれに依りて、なおなお明らかに神の栄光が輝くからです。
たぶんこの家は財産家でありましたでしょう。
後の三十九節を見ますならば『死てより已に四日經たり』。そうですから主は三節の音信を聞きたまいました時には、ラザロはもはや死にましたと見えます。マルタはここで主に譏く筈はありませんと思います。これは悲しむべきことです。主がここに在したもうたならば、わが兄弟は死にませなんだと思いました。マルタもマリアもたびたびそれを言いました。
『今でも』。もはや望みがありませんでした。されど今にても主は恩恵を与えたもうことができます。私共は今にてもと言うことができますか。時によってそれを言うことは実に信仰の勝利です。サタンの勝利を見る時に、今にてもと言うことは信仰の祈りです。
神はただいま恩を与えたまいとうございます。マルタはただ未来.においてその恩を頂戴することを望みます。ここにマルタの不信仰をご覧なさい。
第一に二十一節において『主よもしあなたがここにいて下さったならば』と申しまして場所について不信仰を抱きました。主がここに在したまいませんために信仰が出来ません。
第二に二十四節において時について不信仰がありました。主はただいま恩を与えたまいとうございます。しかるにマルタは未来において主の恩を願います。
第三に三十九節において『四日もたっていますから』と申しました。ここでは主の権能の大いさを限りました。権能の及ぶべき処に制限を定めました。キリストは死人を甦らすことはできるかも知れません。けれども四日も経たる者は、出来んと思いましてその権能の大いさを限りました。
現今でも不信仰は場所により、或いは時により、或いはキリストの権能を限り、またその権能の大いさを限りまして、種々なる過失に陥ります。例えばいま主が罪人に生命を与えたもうように祈る時にも、同じように三つの要点の不信仰がたびたび起こります。第一には罪人は大いなるリバイバルのある処ですならば悔改ができると思いましょう。けれども主は何処においても恩を与えたまいます。第二に主は何時かは恩を与えたもうかも知れんと言います。けれども主はただいま恩を与えたまいます。第三には主は罪人を救うことができるかも知れません。けれどもさほど大いなる罪人、もはや臭くなりました罪人を救うことは出来んと言います。けれどもこれは不信仰です。主はこういうような罪人でも、もはや人間の眼前には臭くなりましたほど大いなる罪人にも、生命を与えることができます。これは信仰の話です。
二十一節の『主よ、もしここにいてくださいましたなら』。このならばは不信仰のならばです。けれども四十節の『もし信じるなら(If thou wouldst believe)』。すなわち信ずるならば何事でもできると言いたまいます。これは信仰のならばです。
また二十二節の『あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています』。マルタは主の能力を解りました。けれども主ご自身の栄光を解りませんと思います。主ご自身の神と等しくあることを知りませんから、主は二十五節にその誤謬を直したまいます。マルタにその点を教えたまいます。ご自分の独立の栄光を教えたまいます。
『我は復生なり』。そうですから主は復生の力を持っていたまいます。主を受け入れる者は必ず復生を受け入れます。我は愛なりと同じようなる意味です。主は必ず復生を施したまわねばなりません。何故ならばこれは主の性質です。そうですから何人にでも生命を与えたまいます。どうぞ不信仰をもってそのことを限らないように、気を付けとうございます。主は必ず生命を与えたまいます。豊かなる生命を与えたまいます。ただ主を受け入れさえしまするならば、この復生を受けます。
『生命なり』。死にたる者の復生にして、既に生命を得たる者の生命です。私共は罪人たるときに主によって生命を得ました。今生ける者として主によって生命を保ちます。
『わたしを信じる者は、死んでも生きる』(二十五)。罪人でありましても生くべし。『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない』(二十六)。既に生命を得たる信者は死ぬることはありません。
けれどもこれは正しい答ではありません。マルタは主の言の意味を悟りませんと思います。主よしかりと申しましても、主の言が分りませんと思います。けれども神の子なることを信ずることは善き信仰です。
マルタは自分には主の言が分かりませんから、主の足下に坐りて主の聖言を聞きましたる妹を喚びました。たぶん妹はそれを悟り得るならんと思いまして、主を去って妹を喚びます。
『心を慟しめ身ふるいて』(三十三)。主は何故その時に心をいたましめ身ふるいたまいましたか。また何故涕を流したまいましたか。ヘブル四・十五を引照なさい。私共の祭司の長は、私共の弱いことを知りてかく嘆きたまいます。けれどもここではそれのみではないと思います。主はもはやラザロを甦らせることを心に確かめたまいました。また弟子等にも既にそれを預言したまいましたから、却ってこの時に喜びたもう筈ではありませんか。『彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いている』のを見たまえる時に、今その歎きを取り除きたまいますから喜びたもう筈ではありませんか。ルカ七・十一〜十五の死人を甦らしめたまいました時には、主は涕を流したまいません。寡婦に涙を流すことを止めたまいました。これは当然のことです。ご自分がただいま甦らしめたまいますから、さもあるべき筈です。けれどもここではそういう慰めと喜びとを見ません。『心を慟しめ身ふるいて』。これは原語では極めて強い意味です。幾分か怒りの意味が含まれております。すなわち主はサタンの業を見て怒りたまいます。また人間の不信仰を見て歎き悲しみたまいます。主はユダヤ人の不信仰を見て堪え忍ぶことができました。けれどもご自分の愛する者の不信仰を堪え忍ぶことはできません。ご自分の奥義を悟りました者の不信仰を堪え忍ぶことはできません。ラザロの死よりもマリアの不信仰の涙は歎くべきことであります。この涙はルカ十九・四十一の涙と同じ涙ですと思います。エルサレムの不信仰のために泣きたまいました時と同じ涙です。
私共は信仰がありますならば主と共に心をいたましめ身ふるいましょう。ロマ書八・二十二、二十三、二十六をご覧なさい。私共は主と偕にサタンの業を見ますならば、死ぬることを見ますならば、また不信仰を見ますならば、かくの如く嘆くべき筈です。
その時に信仰の友を願いたまいました。自分の権能を信ずる者を求めたまいましたが一人もありません。
マルタは死の力を信じました。主の復生の力を信じませなんだ。
これは四節の言を指します。マリアとマルタとそのことを信じましたならば、その信仰に由りて主を喜ばせたでしょう。また自分の心の悲痛が取り除かれたでしょう。その信仰がありましたならば、主の栄光を見物する信仰がありましたならば、それは信仰の勝利でした。けれども主の言を信じませなんだ。主が十字架にかかりたまいました時に、弟子等は主の言を信じましたならば、毫も悲しみませずして主の甦りを待ち望みましたでしょう。何卒主の言をそのままに信じたいものです。そういたしまするならば主の尊旨を喜ばせます。また自分の心の痛みが失くなります。また人間の眼前に主の栄光を発揚すことができます。
主はもはや得たりと信じて祈りたまいます。
主はご自分の権能をもってラザロを甦らしめたまいました。けれどもラザロを祐ける仕事を人間に委ねたまいました。罪人を生かしめることのできるのはただ主ばかりです。けれども私共をも使用たまいます。
第一にはキリストを罪人に近づかせることです(三十四)。すなわち談話に由りてまた祈禱をもって、キリストを死にし者の側に携れて参ることです。
第二には石を取り除くことです(四十一)。主とその人の心の間に隔障がありまするならば、偏頗の隔障、不信仰の隔障がありまするならば、それを取り除くことです。これは私共の務めです。それゆえに死にし者とキリストの間に隔障なしに顔を合わせて相会うことができます。どうぞその時に己を出さざるように注意致しとうございます。人間は死にし者を甦らすことはできません。罪人を主に近づけなければなりません。
第三に罪人が生命を得ましたのちに、彼を釈くこともできます(四十四)。罪人がほんとうに悔い改めましても、幾分か墓の布などが残ってあるかも知れません。心の中に偶像の棚や、間違いたる思念、または悪しき習慣などが残ってあるかも知れません。そうですから私共の務めは復生ました者を祐けて、そういう布などを除くことを務めなければなりません。彼を釈きて自由に行かしめることは、私共の喜ばしき特権です。
人間たる主は一週間のうちに、自分が墓に入りたまわねばなりません。それは人間たる主の試誘でしたと思います。そうですからその時のすぐ前に、神は主の信仰を助けるために、ラザロの復生を見物なさしめたまいました。神はラザロを四日目に甦らしめたもうたならば、ご自分をも甦らしめたもうことを、信ずる信仰を助けるためでした。これは極めて深遠なることです。もし信仰がありませんならば、そういうことを調べぬ方がかえってよろしいかも知れません。けれども私の心の中にそれを考えましたから、ただ参考のために申します。時に由りて主の人間たる信仰を見まするならば、自分の信仰の道を歩むことのために益であると思います。
そうですから神が明らかにこの世の中に、ご自分の奇しい事跡を示したまいますならば、二つの結果があります。第一は四十五節のごとく神を信ずる者が起こります。第二は四十六節のごとく頑固なる心をもって、神を追い出さんと考える者も起こります。ルカ十六・三十一をご覧なさい。今それを見ます。死より甦りし者がありました。けれども却ってこのために、人々はなおなお頑固となりました。人々の心を刺す方法は第一聖書です。
そうですから信ずる外になすべきことはありません。
主の勢力をご覧なさい。これはパリサイ人の恐れるところです。『皆が彼を信じるようになる』。そうですから神の国が来ります。信ずることによって病が癒されました。瞽者はその目を開かれました。死にし者は甦りました。そうですから『皆が彼を信じるようになる』ことは当然の結果です。けれどもパリサイ人はこれを妨げとうございます。人間の心は頑固にして、神を追い出さんと致します。
『そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』。今日でもかくのごとき思想を抱く者がたくさんあります。キリスト教は国体に反すると言います。そのために国が弱くなると言います。悪魔は始めからそういう思想を起さしめます。この政事家はキリスト教が拡まるならば、ロマの人きたりて我儕の地も民をも奪うべしと言いました。そういう恐れはありません。却って主に従うならばユダヤ国は栄光と権力とを受けます。却ってそのために勝利を得ます。けれどもこれが事実でありましても、ユダヤ人はいずれを択びましょうか。或いは現世に属けるものの恩を択びましょうか。或いは神に遣わされたる主を択びましょうか。創世記十四・十八をご覧なさい。メルキゼデクは神の祝福をもってアブラハムを迎えに出ました。その時にソドム王も世に属ける財宝をもってアブラハムを迎えに出ました(同二十一)。アブラハムはいずれを択びましょうか。天に属ける恩を有てるメルキゼデクを受け入れましょうか。或いは多くの財宝を有てるソドム王を受け入れましょうか。いまユダヤ人は同じ場合に臨みました。天に属ける恩をもって来たまえる、神の祭司なる主イエスを択びましょうか。或いはロマの国の恩を択びましょうか。そういう問題です。ユダヤ人は最初から神の属ですから、神に属ける恩を択ぶべき筈です。けれどもこの時に不忠にして、却ってこの世に属ける恩を択びました。私共もたびたび同じ場合に会います。いずれを択びましょうか。人間に軽んぜられたる主を択びましょうか。或いは眼で見ゆる大いなるロマ人の恩を択びましょうか。
この人は自分の心に従うてその言を発しました。けれども神はその口の言を導きたまいました。これは真実の預言でした。悪人でも自分の口の主人ではありません。またこの人は怒りをもって主を死罪に定めました。けれども悪人の怒りは却って神の栄光のためになりました。
ここに主の死の二つの結果を見ます。五十一節に主が人間の身代わりとなって、死にたまいますことを見ます。これは何人でものためです。五十二節に神の子供を一つに集めんがために、死にたまいますことを見ます。この第二の結果は十・十六にそれを見ました。同十五に生命を捐てたもうことを見ます。その結果は『わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる』。エペソ二・十四〜十七をご覧なさい。そうですから主が死にたもうことによって、神の子供を一つに集めたまいます。それを妨げることがありますならば、幾分か主の死の結果を妨げます。たとえば教派の隔障などは主の尊旨に反するものです。主は何のために死にたまいますかならば、神の子供を一つに集めんがためです。そうですからその隔障を悉く壊ちとうございます。詩篇五十・五をご覧なさい。これは同じことであります。
黙示録十九・十九をご覧なさい。その時にも反対する者があります。主は栄光をもって天より降りたもう時にも、悪魔に起されたる反対者があります。いま謙遜をもって、栄光を捨てて降りたまいました時にも、主と戦わんとする反対者があります。
五十四節をご覧なさい。これはユダヤ国滅亡の初期でした。この世に属けるものを撰びましたから、大いなる恩をもって来りたまいました主は、この国を去りたまいました。また主は顕に行きたまわず、そこを去りて弟子と共にエフライムに留まりたまいました。今この世の中にもう一度同じことを見ます。いま主はご自分が受け入れられませんから、顕に行きたまいません。人間は主を捨てとうございますから、表面に働きたまいません。けれども弟子と偕に留まりたまいます。窃かに集められたる者と共に行きたまいます。
またこの節において真実の逾越の羔が献げられました。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 結論 | 目次 |