第 五 章
五章より十章までは、主はユダヤ人の儀式の真理すなわち実体を示したまいます。四・二十四に主は真理によりて神を拝することを示したまいました。ここにやはり雛形でなく、儀式でなく、実体を守ることを示したまいます。五章において安息日の実体は主イエスなることを見ます。六章において真の踰越の節は主イエスなることを見ます。七章より十章まで主は真の搆廬の節なることを見ます。
はじめに説明のために十六、十七節をご覧なさい。その意味は何でありますか。世界は三節のごとく罪に化せられております。世間には病者、瞽者、跛者、また衰えたる者が充ちております。そうですから神は必ず安息をなしたもうことができません。神はいつ安息たまいましょうか。
神は六日間の働きの完全き結果を見たもうたる時に、はじめて安息むことができます。けれども世界はかく乱れておりますから、安息を得たまいません。続いて働きたまわねばなりません。そうですから安息日と申しましても、ただ表面ばかりの安息日です。これは神の安息ではありません。神は何処に安息みたまいますかならば、罪に亡びたる者を癒したもう処に安息を得たまいます。これは五章の奥義です、大意です。いま主は病人の真ん中に立ちて安息を与えたまいます。癒しを与えたまいます。そうですから真正の安息ができます。
神は凡ての業を成し遂げて人間のために安息を設けたまいました(ヘブル四・三)。けれども人間は罪のために安息に入ることができません(ヘブル四・五)。人間はエデンの園にて神の安息に入ることが許されぬようになりましたから、神はその後イスラエル人を撰みてその安息を与えたまいます。カナンが新しきエデンの園となることを願いたまいます。けれどもイスラエル人はヘブル書三・十九のごとく不信のために入ることができません。イスラエル人はカナンの地に入ることができました。けれども不信のために神の安息に入ることはできません。ただ表面ばかりの恩で、不信仰のために神の安息に入ることはできません。
いま人間はそれを全く失いましたかならば、そうではありません。ヘブル四・七の神の言を見まするならば、その後にご自分の安息に人間を招きたまいます。ただいまもしその聖声を聴きまするならば、ただいま神の安息に入ることができます。エデンを断られ、カナンにおいて得られなかった安息を、いま信仰に由りて得ることができます。
主は私共に真の安息を与えたまいました。我は真の安息なりと言いたまいました。私共はその安息に与ることができます。
この順序を見まするならば、主イエスは四・二十六においてサマリアの婦にご自分の栄光を示したまいました。また四・四十三においてガリラヤ人にご自分の栄光を示したまいました。ただいま五・一においてはエルサレムにご自分の栄光を示したまいます。
この三カ所はまた現代の有様を指すと思います。サマリアは汚れたる処でした。ガリラヤは人間の地に属ける処でした。この処の人は異能を見なければ信じませなんだ。エルサレムは儀式的の処でした。けれども主は何処にでもご自分の救い主なることを示したまいます。
『その後、ユダヤ人の祭りがあったので』。枯れたる枝は元の形を保ちます。はじめに神はユダヤ人を恵まんがためにこの節筵を与えたまいました。枝が幹に連なりて、その生命を有ちている間は、数多の実を結びます。けれどもその枝が枯れまするならば、もはや実を結ぶことはできません。ちょうどそのように当時のユダヤ人はすでに神を離れました。そうですからこの節筵はすでに枯れたる枝のように、ただ表面の形ばかりでした。そうですからユダヤ人の節筵と申します。最早これは神の節筵ではありません。旧約時代には神の節筵と申しました(レビ記二十三・二)。けれどもただいまはユダヤ人の節筵です。神はこの形ばかりの節筵を憎みたまいます。『わが心はなんぢらの新月と節會とをきらふ 是わが重荷なり われ負にうみたり』と仰せたまいます(イザヤ一・十四)。神はこの外形のみの儀式を憎みたまいます。けれども当時のユダヤ人は始終これを行いました。ヱホバは既にこの節筵に臨みませんでも、なおこれを行ないました。堕落したものはいつでもかくいたします。彼らは神を失いました。けれども始終表面の儀式を行いとうございます。枯れたる枝は元の形を有ちます。少しも生命はありませんが枯れたるままにて元の形を有っております。かく枯れまして生命がありませんならば、それを断る方がよろしきかも知れません。
『イエスはエルサレムに上られた』。ヨハネ伝を見まするならば、主はたいてい単独にて行きたもうことを見ます。他の福音書を見ますならば、或いは弟子と共に、或いは他の大勢と共に行きたもうことを見ます。けれどもヨハネはただ主イエス御一人の栄光を見まして、他の人々を忘れます。主イエスご自身の栄光ばかりが眼に付きて、その栄光のみを見ることができます。これはこの福音書の特質です。
ここに幾分か癒しの力があります。この池は能くユダヤ人の儀式を指すと思います。神の大いなる恩恵によりまして、その儀式でも幾分かの力がありました。人々は自分の心の中に信仰と愛がありまするならば、その儀式に由りて神に近づくことができました。そうですからちょうどその時代にもシメオンのごとく神と偕に歩む者、或いはアンナのごとく信仰と望みをもって救い主の来ることを俟ち望む者を見ます(ルカ二章)。また他に隠れたる者もありました。ちょうどこの池のごとくその四周に病者が多く伏しておりました。その中で一人或いは二人は癒しを受けました。これに由りて神の大いなる忍耐を見ます。神はこの儀式によって何人でも恵みとうございます。けれども不信仰によって生命の源を離れましたから悉皆癒しを受けません。ただ一人或いは二人少しく体力がありまして水中に降ることのできる人は癒されました。そうですからその儀式によって癒される者は幾分か自分の身体に勢力がなければなりません。しかるにこの三十八年病みたる人は、七節のごとく他に扶助者がありません。また自分の力がありませんから、必ず癒される望みがないと思いました。けれども主は扶助者がありませんでも癒したまいます。ご自分の溢れる恩寵によって、その自ら力のなき者を癒したまいます。儀式に由りて恩を求める者は、自分の心に幾分か信仰の力、或いは他の力がなければなりません。けれども主に拠りて恩を受ける者は、そのままで他の力なしに恩を頂戴することができます。
この廊に病者が多く伏しておりました。けれども主がそこを通りたもう時に、誰も主ご自身に眼を注けません。ただ儀式を求めまして、活ける主を求める者は極めて少のうございました。今でも同じことを見ます。説教会、聖別会を開きまするならば何人も参りとうございます。けれども活ける主ご自身を求める者は極めて少のうございます。この病者はユダヤ人の節筵に与ることはできません。自分の病のために神の殿に入ることを許されません。そうですから自分の病のために霊なる喜楽に与ることはできませなんだ。
牧者は羊を求めたまいます。失われたる羊はその牧者を求めません。善き牧者は失われたる羊を求めたまいます。十四節にも同じことを見ます。この原語を見まするならば主はその時その人を求めたまいました。そうですから主は両度その人を求めたまいました(六、十四)。今でも同じ事実を見ることができます。主は私共を求めたまいます。たびたび私共の心の中に主を求める精神がありません時にも、主は私共に近づきたまいます。私共は主を求めません、主が私共を求めたまいます。
主はかくのごとき者を救けたまいます。『ヱホバつひにその民を鞫きまたその僕に憐憫をくはへたまはん 其は彼らの力のすでに去うせて繫がれたる者も繫がれざる者もあらずなれるを見たまへばなり』(申命記三十二・三十六)。神は全く力のなき者を見たもう時に救いを与えたまいます。詩七十二・十二をご覧なさい。『王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように』。これはキリストの預言です。今この預言が成就せられました。詩百四十二・四は病める者の叫び声であると思います。『命を助けようとしてくれる人もありません』。これは実に病める者の叫び声であると思います。ローマ五・六をご覧なさい。『実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった』。ちょうどこの病める者のように、自分の力で自分を助けることが到底できませぬ時に、主が近づきて私共を助けたまいます。さきに第二章を研究る際に申しましたごとく、主の異能はこの点に顕れます。主はいつでも扶助者の無き者を救けたまいます。そうですから望みのなき者は却って大いなる望みがあります。私共は或いは自分の力で救われることを望み、或いは他の扶助者の救助を俟ち望みますならば、主の救いに与ることができません。けれどもこの人のように他に少しも望みがありません時に、主の救いに与ることができます。
出エジプト記十五・二十三〜二十六をご覧なさい。神は、癒したもうことによってご自分を示したまいます。『我はヱホバにして汝を醫す者なればなり』。それまでユダヤ人はそれを知りません。神はその時はじめて奇しき水の側に、ご自分の癒しの力を示したまいました。またご自分が癒し主なることを示したまいました。これは本章と同じことです。今この池の側にて、ヱホバご自身を示したまいます。またそれのみならず、ご自分の癒しの力を示したまいます。
我はヱホバ癒し主なり。ただいま主はご自分のヱホバ、ラファなる事を示したまいます。
九節の『立刻』と五節の『三十八年』とをお較べなさい。この人は三十八年の儀式に与りましても、毫も癒しを受けませんでした。けれども主に会うてたちどころに癒されました。
主の命令をご覧なさい、『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい』と命じたまいました。今までこの病人は心の中に幾分か曖昧なる望みを有っておりました。いつかは癒されるであろうという望みを抱いておりました。けれども主はただいま起きよ、ただいま信仰を使えよと命じたまいます。曖昧なる望みを捨ててただいま信仰を働かせよと命じたまいます。主はいつでもかくのごとき信仰を願いたまいます。私共はこの病人のように、いつかは癒されるだろうというような、曖昧なる望みを抱きまして儀式に与りますならば、三十八年間毫も癒しを受けぬかも知れません。けれどもただいま恩恵の日なりと覚えまして、ただいま信仰を働かしてただいま起て歩みますならば、その瞬時に癒しを受けることができます。
私共は福音を宣べ伝えまする時に、このいま信仰を働かせよと命ずることは大切です。今は恩恵の時なり、いま信仰を働かせよと命じなければなりません。罪人にそれを命じませぬならば、永遠集会に列席りましても癒されませぬかも知れません。時としては多数の中に一人や二人は格別の信仰を有ちませずして癒されるかも知れません。けれどもこれは通常の働きではありません。私共は力の無き者に、今行めと命じなければなりません。
『わたしをいやしてくださった方が、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです』。これは理に叶うことです。私共は自分を癒したもうたる主の命令に従わなければなりません。この人はかく主の命令に順うことは美いことです。
『病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった』。この人は癒しを受けました。けれども主を知りません。今でもかくのごとき人を見ます。私共各自もまたこの経験がありましょうと思います。私共は主を知ることよりも、恩恵を受くることを重んじます。主ご自身よりも主の賜物を頂戴いたしとうございます。主は大いなる恩恵をもって求める者にその恩恵を与えたまいます。けれども癒しを受けて主を知りませぬならば、全き恩恵ではありません。何卒自分の経験を判断いたしとうございます。私共は心の癒しを受けることは実に幸福です。けれどもそれよりさらに幸いなることは、キリストご自身を得ることです。そうですから主を知りませねば、十二節のごとく主を知らざる人から尋ねられました時に証することができません。キリストを知るならば証することができます。けれどもこの人は真実の証ができません。
『イエスは、群集がそこにいる間に、立ち去られたからである』。主はご自分の恩恵を分け与えたまいましたから、それで満足ができました。主は多くの人の眼前に己を顕す思想はありません。私共はかしこに多くの人がいる故に、かしこに出ようと思うかも知れません。けれども主は避けたまいました。
再た主はその羊を追い求めたまいます。私共も経験によってたびたびこの恩恵を見ます。はじめに主は癒しを与えたまいました。次にその羊を追い求めてご自分を顕したまいます。
この節を見まするならば罪の力を見ます。この人はたぶん自分の罪のために三十八年の間煩いました。十四節を見れば確実ですと思います。そうですから今は罪を恐怖まして、必ず罪を避けると思いましょう。けれどもそうではありません。三十八年間の禍でも、罪を恐れる恐怖を与えません。おおそれによって罪の恐るべくかつ憎むべきことをお味わいなさい。もう一度罪を犯す虞があります。善き牧者はその羊がますます迷うことを恐れたまいます。また以前にまされる禍を受けることを恐れたまいます。そうですからまた罪を犯すことなかれと命じなければなりません。私共は既にそれを教えられたと思いましょう。けれどもそういうことを思う者は、未だ罪の力、罪の毒を知りません。いったん癒されたる者は、もう一度罪を犯すことなかれとの命令を受けなければなりません。いま主は私共に同じことを命じたまいます。これは悔い改めたる者、癒されたる者に対する第一の命令です。或る人はあまり罪を恐れません。或る牧師、或る信者は、人は必ずいつまでも罪を犯します、全く罪を犯さないようになることはできぬと教えます。けれども主の教えはちょうど反対です。いま癒されたる者に対して、罪を犯すなかれと命じたまいます。
『イエスを迫害し始めた』。このことは理に叶わないことです。ユダヤ人は自分の中にヱホバが現れたまいました時に、窘迫て殺さんと謀りました。ユダヤ人は自分の節筵を祝います。この小さき池の辺にも人々を聚めて癒しを求めました。けれども節筵の生命なるヱホバが現れたまいました時に、窘迫て殺さんと謀ります。それについてローマ八・七をご覧なさい。肉に属ける者はいつでも神に反対します。いま神は恩恵をもって癒しをもって人間の真ん中に現れたまいました。人間はこれを窘迫殺さんと致します。それに由りて人間の罪を解ります。私共の生来は神に悖る者です。
この安息日は神の安息ではありません。表面の儀式です。神は、いま安息みたまいません。神は世を罪より復するために今でも働きたもう筈です。
『わたしの父は』。そうですから主は明らかにご自分は神の子たることを言いたまいました。罪人はそれを疑います。けれどもこの節を見まするならば明白です。原語の意味はよほど強うございます。『神は己の父なり』。
自分の父であって、この父子たる関係は他にない、ただ自分のみ有っているという強い意味を含んでおります。すなわち自分は他の人と違う者であることを言い顕したまいます。一方より見まするならば、何人でも神はわが父なりと言うことができます。けれどもここで主はかくのごとく格別に強く言いたまいました。またご自分を神と均しく言いたまいました。これは強い証左でした。ユダヤ人はそれを解りません。主は神と等しき者なりと言いたもうことを解りません。それが解りませんでも、その時代の或るユダヤ人はそれを認めました。或る人はこれは狂人であると申しました。或る人はこれは真であると申しました。現今、或る人は主イエスは神と等しくない、けれども善人である、真理を教える聖人であると申します。けれどもこれは理に適わないことです。主は或いは偽善者でありますか、或いは神と等しき方でありました。或いは狂人でありますか、或いは肉躰を取りたまいたる神でした。もしかくのごとき事を言う者にして真理を教える聖人、また宗教の開祖でありまするならば、実に大いなる偽善者です。神に逆らい神の尊旨を汚す者です。けれども私共は他の証拠に由りて、主はご自分の言いたもうたるごとく真の神と等しき方であることを信ずることができます。それを信ずる筈です。それは理に適うことです。偏見なしにこの証拠を判断しまするならば、主は神であることを信ぜなければなりません。真実に神と等しき方なることを信ぜなければなりません。また主は神であるならば、主によっていかなる恩寵を求めても得られます。主が神であるならばそれに由りて神の大いなる慈愛を見ます。神は人間のために救いを成就なしたもうことを見ます。おお感謝します。
主の言のためにユダヤ人は主イエスが自分を神と等しくしたまいましたと思いました。これは誤解でしたならば、主はそれを説明したもう筈です。主は単独の真の神を熱心に敬いたまいました。この十八節の終わりのことがもし誤解でありましたならば、必ず恐れて自分の真実の意味を説明したもう筈です。けれども十九節を見まするならば、却ってなおなお明白にご自分の神と等しきことを示したまいます。なおなお明白にご自分は神と等しき栄えと等しき権能を有つ者なることを示したまいます。本節に由りて主は十七節を説明し、また九節の異能はご自分の能ではなくして父なる神の能なることを言いたまいます。自分は自分の力で何事も行なうことはできません。またそのために父の能わざるところなき力をもって働きたもうことができました。この『子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない』とは実に怪しむべき言です。主イエスはそれほどにご自分の権能と栄光を捨てたまいました。ただいま人間のように少しも力のなき者のように、父なる神の力を依り頼みたまいました。けれどもこれは主の行と力の秘訣です。何事をも行なうこと能わず、これが主の行と力の秘訣です。肉に属ける者の思想とちょうど反対です。私共は自分についてそういう思想がありますか。自分は何事も行なう能わずという思想がありますか。たびたび自分の学問のために、或いは自分の元気のために、或いは自分の経験に由りて、或いは自分の熱心に由りて、行なうことができると思いませんか。けれどもそういう思想がありまするならば、それは肉に属ける思想です。私共は主と同じく何事をも行なうこと能わずと言うことができませぬならば、父なる神の行を行なうことはできません。これは力の秘訣です。これは神の働きをなすことの秘訣です。
そうですから九節の働きの内情が解ります。主は心の中に神はその人を癒したもうことを認めて、ただ表面の言葉を発したまいました。癒しの言葉を発したまいました。主はいつでも神の導きを俟ち望みたまいました。自分は何事をも行なうこと能わずと思いたもうて、恒に父なる神の示しを俟ち望みたまいました。二・四においてわが時は未だ至らずと言いたまいます。これは何故なればその瞬時には未だ父なる神の示しを受けたまいませぬからです。そうですから何事も行いたもうことができません。けれどもそれから直ちに父なる神の示しを受けたまいましたから、父なる神の行を行いたもうことができました。また父はなおなお大いなる異なる行を示したまいました。一・五十のように主は大いなる望みを抱きたまいます。或いは十四・十二のごとくに恒にこの望みを抱きたまいました。そうしてそれはまた私共の働きの秘訣です。私共も父なる神の行いたもうことを示されまして、そのことを行う力も与えられます。またこの大いなることは如何なることですか、すなわち
第一は甦りです(二十一)
第二は審判です(二十二)
この二つのことは神の特権です。神の外に何人も死者を甦らす者はありません。神の外に何人も審判く者はありません。これは特別に神の特権です。甦らせることと審判くことは神の特権です。語を替えて申しますれば生命を与えることと死を与えることは神の特権です。
主はご自分単独では何事をも出来ません。けれども父なる神にこの大いなる特権と力を与えられたまいました。そうですから主は甦りの主です。審判の主です。ナザレのイエスは生命を与える者です。また死を与える者です。そうですから十八節の己を神と齊くすると言う高尚なる言葉は真理です。ユダヤ人は主がこの人を安息日に癒したもうことを怒りました。けれどもそれよりも大いなることを行ないたまいます。権能をもって生命をも死をも与えたまいます。またご自分を神と等しくなしたまいます。そうして説明のために二十三節を言いたまいます。この二十三節は実に高尚なる言葉です。強い言葉です。
現代主イエスについて種々の説があります。けれどもかくのごとく父を敬うごとく子を敬わなければなりません。またかくのごとく子を敬いませぬならば、父なる神をも敬わないのであります。この生命と死を与えることはただ神のみの特権です。けれども私共にも幾分かその特権を与えたまいます。私共は福音を宣べ伝えまする時に、この権力を有ちます(コリント後書二・十五、十六)。
私共は福音を宣べ伝えまする時には、或る人には生命を与えます。けれども私共の福音を信じませぬならば、その人は却って死を受けます。そうですから私共は神と共に働きまするならば、かくのごとく生命或いは死を与えます。実に厳粛なることです。私共はエゼキエルと共に起って枯れたる骨に福音を宣べ伝えまする時に、人々に生命を与えることができます。或いは私共は七・三十八のごとく主を信じまするならば、腹より活ける水が川のごとく流れ出ます。その生命の水は他の人々に生命を与えることです。生命を与える権力です。これは厳かなることです。また審判の権威もあります(コリント前書六・二、三、ダニエル書七・二十二、マタイ十九・二十八、黙示二十・四)。
そうですから神は私共にご自分の大切なる特権を与えたまいます。審判の特権をも与えたまいます。今そのために私共を育てたまいます。何卒神の頴悟、神の智慧を得まして、その大いなる権力を正しく用いるために、神の恩寵を悉く受け入れなければなりません。
けれども何人がこの権力を用いることができますか。ただ主が十九節において言いたまいしごとく、何事をも行うこと能わずと言う者ばかりがこの権力を有ちます。いま二十四節に主はどうしてこの権力を使いたもうかを見ます。
主はご自分の言によって、この生命を与えたまいます。死より生命に遷したまいます。ちょうど九節にある人が疾病より健康に遷りましたように、主の言を受け入れる者は死より生命に遷ることができます。
二十五節の『死んだ者』は身体の死にし者ではありません。霊の死にし者であります。『今やその時である』。そうですから今何人でも主の御声を聞くことができます。またその御声を聞くことができますれば生命を得ます。ヘブル三・七に『今日、あなたたちが神の声を聞くなら』の言葉があります。そのように今聖子の御声を聞くことができます。またその御声を聴くことによって生命を得ます。
主は生命の主でありますから、私共は生命を得とうありまするならば、今その御声を聞かなければなりません。また人々はただ私共の声を聞きましても何の利益もありません。主は生命の主でありますから主の御声を聞かしめなければなりません。
本節から甦りのことを見ます。これは黙示録二十・十二、十三を指します。
どうぞそれに由りて主の聖声の力をご覧なさい。主はただ声を出したまいまするならば、凡て墓におる者は甦る筈です。仕方がありません、甦らなければなりません。主はただ一言ばかり出したもうならば、世の始めより今に到るまで、凡ての死にし者は墓より出でて参ります。今の声でも同じ力があります。いま主の声は福音の声です。恩寵の声です。愛の声です。けれどもその声は同じ力があります。
その恩の声を聴き入れまするならば、心の中に生命を受けます。けれども断りますならば未来において審判の言を聞かなければなりません。主はただ言をもって九節において人を癒したまいました。ユダヤ人はそれを怪しみました。故にその怪しみによりて主の権能と権威を解りませんか。主は一言を出したもうならば、すべて墓におる者は甦りまするから、一人の身体を癒したもうことは怪しむべきことではありません。
私共は二十五節の声を聴くことができます。或いは拒むことができます。けれども二十八節の声は是非とも聴かなければなりません。そうですから主はご自分の大いなる権力を示したまいます。けれども三十節において独立に何事もなしたまいませぬことを見ます。この『何もできない』と言いたまいまするは、絶対的に何事をもできないという意味ではありません。神から離れて何事をもできないという意味であります。たとえば詐ることができます。けれども徳義上できません。他に例を挙げますれば、悪魔は神を離れて凡ての大いなることをすることができます。主イエスも神を離れて凡ての大いなることをすることができます。けれども徳義上少しもそれができません。主は何事をも自ら行うこと能わずと言いたまいました。それに依りて主の罪の無いことを見ます。罪は何でありますかならば自ら行うことです。主イエスはその聖なる己を捨てて、何事をも自ら行いたまいません。これによってその罪の無いこと、その純白なる性質を見ます。
『ただ、父から聞くままに裁く』。これは、ちょうど十九節の父の行うところを見て行うと同じことです。いつでも父なる神に依り頼みたまいます。少しも己の旨、己の力、己の思想を出したまいません。いつでもただ聞くところ見るところに従うて父の聖旨を行いたまいます。真実に子供の心をもって行いたまいます。やはり完き身と心をもって働きたまいます。これは人間の思想とちょうど反対です。人間の思想は己を高くすること、独立して働くこと、己の勢力、己の能力によって働くこと、これ人間の甘んずるところのものです。けれども罪の無き者は悉く己を捨てて、高潔なる心をもって神に順います。私共は真実に神の子供となりとうございまするならば、同じように生涯を送らなければなりません。これは真の信仰の生涯です。またかくのごとく生涯を送りまするならば、神はいつでもご自分の行いたもうところのことを示したまいます。また同じ行を行う能力を与えたまいます。生命と死を与える権力を与えたまいます。主は実にこの高尚なる言を言いたまいました時に、これを聴く人々の心は畏れ戦きませなんだか。必ず深く感じましたと思います。主は柔和をもって活ける霊の力をもって、この高尚なる証左をなしたまいました。柔和なる者はこの言を受け入れまして、大いなる感覚を抱きましたろう。また当時信ずる者は、幾分か主の神たる栄光を見ましたと思います。心の中にこの証左は真なりと認めましたと思います。
主は三十一節よりその事実を確かめるために証拠を立てたまいます。主は人々よりたびたび証拠を求められたまいました。けれども自分の甦りばかりを証拠として言いたまいます。けれどもこの処において四つの証拠を与えたまいます。キリスト教の証拠を求めまするならば、何卒次の四箇条を研究とうございます。
第一の証拠 はヨハネです(三十三〜三十五)。このユダヤ人もヨハネの燈火を好んで暫くそれを喜びました。けれどもヨハネの証の要点、ヨハネの光の要点はナザレのイエスは神の子なりということにあります。ユダヤ人でもヨハネは大いなる預言者なることを承知しました。けれども預言の要点を信じませなんだ。これは理に適わないことであります。
第二の証拠 は主の異能です(三十六)。主の異能は大切なる証拠です。ある人は不信仰のためにその異能の真を求めます。けれども却ってその真を見ますならば、その異能は主の証拠論の中に一番正しき証拠であることが解ります。
第三の証拠 は父なる神の証です(三十七)。父なる神は大いなるバプテスマの時に、天より声を出したまいました。父なる神は主を指したまいました。これはただ天より聞こえた表面の声のみではありません。六・四十五をご覧なさい。『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る』と言いたまいます。何故でしょうか。すなわちかくのごとき人の心の中に、主についての父の証があるからです。六・二十七の終わりに『蓋父の神かれに印して證すれば也』とあります。何人でも信じません者はその印を見ません。けれども父なる神は子なる神に印したまいました。これは父なる神の秘密なる証です。信じません者はそれを認めません。七・十七を引証なさい。凡そ真心をもって神に従いたき者は、自然にその教えが神より出たることを解ります。その教えは父なる神の証があります。これは父なる神の静かなる証です。八・十六〜十九の意味は何でありますかならば、父なる神はいつでもわたしと一供に証したまいます、そうですから信ずる者はただ私一人の証でなく、父なる神の証を聞きますという意味です。ただナザレのイエスの声のみではなく、信ずる者はこれは真なりと言う父なる神の証を聴きます。けれどもこのユダヤ人は信じませんから、汝の父は何処ぞやと尋ねました。父の証を受け入れませなんだ。ヨハネ壱書五・九をご覧なさい。人々はその証を聞きませんならば信じません。そうですから私共は証拠論をもって人々を悔い改めさせることはできません。心の中に父なる神の証を受けませんならば仕方がありません。けれども真心をもって神を求めまするならば、父なる神はいつでも主について証を与えたまいます。
父は主イエスについてそのほか種々の証を与えたまいます。信じない者の眼前に、眼に見ゆる証を与えたまいました。マタイ二章に異邦人に輝ける星を見せたまいました。それは主についての父の証でした。またバプテスマの時に天が開かれました。見ゆる形をもって聖霊が降りたまいました。これも父の証です。それに由りて許多の人々の前に、主はご自分の愛子なりと指し示したまいました。かの変貌山においても見ゆる輝きを与えたまいました。十二・二十八には天よりの声が聞こえました。また死にたまえる時に墓が開けて死人が甦りました。かつ聖殿の幕が上から下まで破れました。これも父の証でした。それによっていま死にたる者はご自分の愛子なりと示したまいました。終わりに甦りも父の証です。
甦りについて使徒二・二十四をご覧なさい。使徒行伝を見まするならば、使徒らはみな甦りの証を立てます。やはり父は甦りによりて証したもうたることを言いました。これは神の証拠です。その証拠は甦りでした(使徒三・十五、四・十)。
この神の表面の証拠はよほど強い証拠です。主は神に遣わされたもうたる者ならば、必ずその証拠のある筈です。
第四の証拠 は神の言なる聖書です(三十八以下)。私共は旧約全書を信じませぬならば、必ず新約全書を信ずることができません。現代或る人は、私は旧約を信じませんが主を信じますと申します。けれどもそれはできません。旧約を信じませぬならば、四十七節のごとく主を信ずることはできません。またそれに種々の理由があります。まず第一は主の教えの源は旧約全書でした。また主はいつでも旧約全書は神の言なりと教えたまいました。それは主の教えの大意でした。その教えの大意を信じませねば、必ずこれを信ずることはできません。
そうですから信ぜしめんがために、主はこの四つの証拠を与えたまいます。証拠は明白です。けれども人間はその証拠を受け入れません。そのために亡びます。またここで他の不信仰の理由を見ます。証拠がありますならば、人間は信ずる筈ではありませんか。この四十四節を見ますならばそうではありません。四十四節のごとく互いに人の栄を受けますならば、信ずることはできません。何故なれば信ずることは理屈上のことではありません。また証拠上のことでもありません。信ずることは経験的のことです。私共は脳髄に由りて信じません、心に由りて信じます。そうですから、心の中に相互に人の栄を求めますならば、信ずることはできません。そうですから四十四節と四十七節において不信仰の二つの理由を見ます。一つは人の栄を求むることです。一つは旧約全書を信じませぬことです。この二つのことを深く考えまするならば、自分の信仰の薄弱い源が解りますまいか。この四十四節に十二・四十三を対照なさい。そうですから信ずることも救われることもできません。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 結論 | 目次 |