第 二 十 一 章
ヨハネ伝は二十章にて終わると思います。二十一章はただ附録であります。けれどもこの附録は甚だ大切であります。この二十一章において教会の働きが録されてあります。私共はこの章において主の昇天より再臨に至るまでの教会の働きを見ることができます。
第一の働きは 罪人を導くことです(一〜十一)。
第二の働きは 信者を養うことです(十二〜十七)。
第三の働きは 十字架を耐え忍ぶことです(十八〜二十一)。
第四の働きは 主の再臨を俟ち望むことです(二十二〜二十五)。
私共はただいまこの四つの働きを致さねばなりません。私共はそのために今この世に遣わされております。
主はガリラヤに往けよと命じたまいましたから(マタイ二十八・十)、弟子は皆ガリラヤに参りました。そうしてそこにて主を俟ち望む筈でした。
主はこの七人をもって十一節にあるがごとく数多き魚を漁りたまいました。けれどもこの七人の名前を見まするならば、主と共に働くに足らぬ者でした。主と共に働く価値のない者でした。シモンはもはや主を識らずと申しました。トマスは不信仰に陥りました。ナタナエルは最初に主を信じましたが他の弟子のごとく人を怖れました。ゼベダイの二人の子も主の飲みたもう杯を飲み、受けたもうバプテスマを受けることができずして、恐怖に充たされました。誰一人として終わりまで主に従う者はありませなんだ。けれども主はこのような足らない者と共に働きて、数多き魚を漁りたまいました。いま主と共に働く者はペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子のような実に足らない者でした。けれどもこの足らない者が主と共に働きまするならば、主はこの足らない者を用いて数多き魚を漁りたもうことができます。
ペテロは最初の献身を忘れましたか。マタイ四・二十の献身を忘れましたか。
主は俟ち望めよと命じたまいました。けれども俟ち望むことは恒に最も困難なることです。たぶん他のガリラヤの青年は毎日働きに出ましたから、働きをしない青年を嘲罵りましたでしょう。そうですからペテロはついに多くの世に属ける者と同じく、『わたしは漁に行く』と申しました。
或いはペテロはもはや大いなる罪を犯しましたから、主と共に働くことができんと思いまして、かく申したかも知れません。
この弟子等は終宵身を労して働きましたが、何の獲物もありませなんだ。漸次暗黒の中に沈んで、ペテロの心の中に三年以前のことが憶い起されませなんだか。時はペテロが初めて主に謁えたる日でした。ところも同じガリラヤの湖に、終宵働きて何の獲物もなかったことを、憶い起しませなんだでしょうか。もしも主の言に従いませんならば、何の獲るところもありませんことを感じませなんだでしょうか。漸次ペテロの気が沈んで、失望と落胆の暗路を辿りませなんだでしょうか。
けれどもその終宵も、復活の主はその弟子の働きを顧みたまいました。そうしてその失敗を統べ治めて、己の栄光を顕したまいました。
未来において永遠の夜が明けました時に、主が岸に立ちて私共の生涯の働きを始終顧みたまいますことが解りましょう。私共はこの弟子のごとく、主を忘れて働きましたことがありましても、或いは自分の力で働かんとして失敗のみがありましても、主は岸に立ちて終宵私共を顧みたもうことが解りましょう。
主はその心を探りとうございます。あなたは終宵熱心に働きました。あなたは自分の力で働きました。その結果はどうですかと尋ねたまいます。主は私共にも同じ問いを起して、私共の働きを探りたまいます。
『彼らは、「ありません」と答えた』。これは失敗の懺悔です。この七人は主を俟ち望むことを厭いました。そうですからその熱心なる働きは、たまたま失敗を重ねるのみでありました。私共は父の約束したまいました聖霊を俟ち望みませんならば、その熱心なる働きはただ失敗のみであります。
主は弟子の失敗を統べ治めたまいます。いま主は成功を与えたまいます。主はこの弟子をして、彼らを養うものは主イエスなることを感ぜしめたまいとうございます。ただ主を依り頼みますならば、所獲があります。主を俟ち望みませずして働きますならば、生活を立てることができません。主に従いますならば多くの所獲があります。主は私共の生涯の主人であることを教えたまいとうございます。けれども啻にそれのみではありません。私共は主の働き人ですならば、罪人の漁夫ですならば、主に依り頼みて主の命令に従うて働くことによりて、多くの所獲があることを教えたまいとうございます。
『主だ』。愛はいつでも目敏く物を見付けます。ヨハネは成功によりて主を見ました。成功によりて高慢に陥りませずして、主を見て却って謙遜を生じました。成功の時はいつでも危うき時です。リバイバルの時はいつでも危うき時です。私共は時々成功によりて己を高くいたします。けれどもヨハネの眼がありまするならば、是主なりと解りましてなおなお主の栄光を見て、己を卑くすることができます。
ペテロは主なりという言葉を聞くや否や直ちに海に飛び入りました。彼は罪のために主に交わることができぬようになりました。けれども主に対する愛は失いませなんだ。その罪を犯しましたのは主を愛する心より出たのでした。しかれども彼は主に対して罪を犯しました。けれども主の足下に近づきとうございます。ユダのことをお比べなさい。ユダは罪を犯しました。また深く罪を感じました。けれどもそのために主に遠ざかりて参りました。できるだけ己を隠したいと思いました。これは何故ですかならば愛も信仰もないからです。主の愛を信ずる信仰がないからです。これに反してペテロは大いなる罪を犯しました。けれども主に近づきとうございます。彼は終宵働きて何の所獲もありませなんだが、漸く今ここに多くの所獲がありました。けれども是主なりと聞きました時に、喜びて漸く得たるものを捨てて主を付覗いました。ただ主ばかりを認めとうございました。兄弟よ、私共はたびたび主を慕うことよりも、働きの成功を慕うことはありませんか。悔い改めたる罪人を見まするならば、それで満足を得ませんか。けれども真の愛がありまするならば、主に近づくために漸く獲たる百五十三尾の魚をも捨ててしまいます。
主は私共をも使いたまいます。また私共の助けを求めたまいます。けれどもこれはただ主の恩寵であります。主は人間の助けがありませんでも魚を漁りたもうことができます。かくのごとき方法を用いたまいませんでも、罪人を救いたもうことができます。けれども私共を恵まんがために私共を使いたまいます。
主は私共の働きの結果を数えたまいます。私共は自らこれを数えるかも知れません。けれども私共は正しくそれを数えることはできません。私共が人を導きました時に、その人は真実に悔い改めまするならば、その時に表面上悔い改めましたことが解ります。けれどもそれが真実であるや否やは判断することができません。主は私共の働きの結果を数えたまいます。また私共は百五十三尾を漁りましたと思いましても、主の計算に相違するかも知れません。時によりてはそれよりもたいそう少ないかも知れません。また時によりてはそれよりもたいそう多いかも知れません。
終宵働きましたから、いま饑え渇いておりましたでしょう。いま主はペテロに我を愛するやと尋ねたまいません。始めに主はペテロの身を顧みたまいます。かの列王紀上十九章においても、主はまずエリヤの身を顧みてしかる後に汝は何故ここにあるやと尋ねたまいました。主は私共の弱きことを知りたまいます。私共の塵なることを知りたまいます。『さあ、来て、朝の食事をしなさい』。私共は働きました後に、いつでも主に近づきて主のパンを食しとうございます。私共は伝道しました後に、主に近づきて新しき天のパンを食しとうございます。私共はたびたびそれを怠りましたことはありませんか。伝道のために身が疲れましたから、その夜主と共に食しませずして、臥床に入りたることはありませんか。どうぞ伝道しました後に、主に近づき『來て食せよ』との主の声を聞きとうございます。
主の僕が労れました時に、主は自らその僕の僕となりて食物を与えたまいます。
ただいまから主はペテロを当初の献身に導きたまいとうございます。彼は堕落しましたけれども真実に悔い改めてもはや罪の赦免を得ました。けれども彼は人間の眼の前に罪を犯しましたから、人間の眼の前に探られなければなりません。ペテロの悔い改めは真実でありました。けれどもその罪のためになおなお己を卑くする筈です。その罪によりて教えらるべきことがあります。兄弟よ、私共はたびたびそれを忘れませんか。罪を懺悔してその罪の赦免を得ます。けれども主はその罪によりて教えを与えたまいとうございます。またなおなお私共を卑くしたまいとうございます。
主はペテロを最初の献身に導きたまいとうございますから、当初の献身の身分の模様を再びここに造りたまいます。ルカ五章にも同じような話があります。またその時にペテロは身も魂も主に献じました。いま主は同じ献身に導きたまいとうございます。またその献身をなおなお深くしたまいとうございます。それゆえに当時の身分の模様を再びここに造りたまいます。また主はその罪についてペテロを探りたまいとうございますから、炭火を与えたまいます。原語では十八章と本章ばかり、炭火について録されてあります。主は祭司の長の炭火を再びここに紀念せしめたまいとうございます。
そうですから十三章の言葉を借りまするならば、主はペテロの足を洗いたまいます。この章は十三章の註解です。
『ヨナの子シモンよ』。主は初めてペテロに会いたまいました時も、同じ言を用いたまいました(一・四十二)。いま主はペテロに当時を憶い起さしめたまいとうございます。またその約束をも憶い起さしめたまいとうございます。
『わたしを愛しているか』。主はたいそうそれを掛念いたまいます。この賤しきペテロの愛を慕いたまいます。
『あなたがご存じです』。これは謙遜の言です。ペテロはいま自分のことは、自分よりも主の方が、よく知りたもうことを見出しました。以前には大胆に自分の愛を認めました。けれどもその時に主は彼の心を知りて彼を誡めたまいました。それによりてペテロは自分のことは、自分よりも主の方が、よく知りたもうことを悟りました。
『わたしの小羊を飼いなさい』。これは主の前に第一の尊貴きものです。この羔は主の前に一番価値あるものです。主はこの羔のためにご自分の血を流したまいました。その尊貴き価値をもって、この羔を贖いたまいました。いま直ちにペテロの手に、この尊貴き羔を委ねたもうことは、実にペテロを信用したもうことの証拠です。主は私共にわが羔を牧えと言いたまいまするならば、実に私共を信用したもうことの証拠です。エレミヤ三・十五をご覧なさい。そうですから或いはペテロを択び、或いはあなたを択びたまいますならば、主はペテロを信用しあなたを信用したもう証拠です。おお主が私共を信用したまいまするならば、私共は謙遜をもって主の智慧と力に依り頼まなければなりません。マタイ四・十九をご覧なさい。人を漁りとうございまするならば、主に従わねばなりません。羔を牧いとうございまするならば、主を愛せねばなりません。なおなお貴き高尚なる経験がなければなりません。服従によりて人間を導くことができます。愛によりて信者を養うことができます。
主は私共より主を愛していることを聞きたまいとうございます。私共はたびたび『主よ、あなたは何もかもご存じです、わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』と繰り返して申しまするならば、主を喜ばせます。我爾を愛すという言は主の前に香ばしき乳香の香です。父は自分の子より阿父よ私は汝を愛すという言を聞きまするならばその父を喜ばします。夫が妻より自分を愛すとの言を聞きまするならば喜ばしいです。主はかく私共よりもたびたびそれを聞きたまいとうございます。
『悲しくなった』。少しも怒りがありません、高慢がありません。ただそのために心が探られました。主はペテロの心を探りたまいとうございます。ペテロの心の中に真実の悔い改めを起こしたまいとうございます。『ペテロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった』。主はペテロの心に、それほどの悔い改めを起こしたまいとうございます。ペテロはもはや罪の赦免を得ました。けれどもただいま主はペテロの心を憂えしめたまいまして、ペテロを探りたまいます。主はたびたびかくのごとき順序に従うて、私共の心の中に真実の悔い改めを起こしたまいます。いま主の言はペテロの心を刺しました。今までペテロは自分の力を恃みて、自分の愛を恃みて生涯を送りました。そのために失敗いたしました。彼はその罪を悔い改めましたけれどもその罪の根はなお残りてありました。己を恃む心がなお残りてありました。主は全くその心を取り除きたまいとうございます。
『主よ、あなたは何もかもご存じです』。ペテロは主の前に全く自分の心を打ち明かしました。何の隠すところもなくして、自分の全心を打ち明けました。それは主の求めたもうところでした。ペテロは今まで自分の心を判断しました。自分の熱心を判断しました。けれども今すべてを見透す主の眼の前に、自分の心を判断することができませずして、主にそのことを委ねます。主しらざる所なしと申します。
主は他の弟子の眼の前に、かくペテロを探りたまいました。他の弟子もこれによりて大いに教えられました。彼らは今この有様をみまして、自分の罪をも覚えましたでしょう。自分の主を捨てて逃げたる臆病、愛の足らないことなどを深く感じまして、必ず七人とも残らず悔い改めまして、再び威権を頂戴しましたでしょう。
今まで己を恃みて己の心に任せて歩きました。自ら帯して歩きました。けれども今から霊に導かれまして、生来の心に叶わざる処に曳かれて参ります。十三・三十六〜三十八をご覧なさい。その時にペテロは自ら帯して己の心に任せて歩きました。主に従うことができませなんだ。けれどもいま霊を受けまするならば、主に従うことができます。ペテロの素の希望に従うて、生命を捐てることができます。いま霊を受けまして十三・三十七の希望が成就することができます。
ペテロは主のために自分の命を捐つる機がありました。けれどもペテロはその機を失いました。いま主は大いなる恩寵をもって、再びそのような機会を与えることを約束したまいます。私共は今まで戦いに失敗しましたならば、どうぞ再び同じ試みに遭うてそれに打ち勝つことを願いとうございます。主はペテロに再び生を捐つる機を与えることを約束したまいます。ペテロはそれによりて明らかに主の赦免を与えたまいましたことが解りました。これは真正の赦罪の徴でした。
マタイ四章に言いたまいましたごとく主は今また『わたしに従いなさい』と命じたまいます。
『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』。我これを命ずるならば、爾に何の与りあらんや。実にこれは王の言(royal utterance)です。それによりペテロの前途も、ヨハネの前途も、主の聖手にありました。主はこの二人の未来の主人でありました。それによりて主の栄光が解ると思います。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても』。主の主、王の王たる者の言です。おお兄弟よ、私共はそれが解りましたか。主イエスは私共の前途の主であることが解りましたか。ヨハネは主の再臨までこの世におりませなんだ。けれどもパトモス孤島において、明らかにそれを見ました。天に昇りて明らかに主の栄光と主の再臨を見ました。眼にてそれを見ました。耳にてそれを聞きました。
『あなたは、わたしに従いなさい』。私共は兄弟の前途について、思い煩うに及びません。主は『あなたは、わたしに従いなさい』と宣います。
これはその時の教会の印です。
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