第 十 章
この説話は九章の主の説話の続きです。また格別に瞽者を会堂より追い出したるパリサイ人について言いたまいます。
それに由りて善き牧者はご自分を卑くして羊のごとくなりたもうことを見ます。偽の牧者は羊より優れることを示すために、門よりせずして外より越えます。けれども羊に同情を表する真正の牧者は、羊の歩むべき道と同じ道を歩みます。主はご自分を卑くして羊の如くなりたまいました。この二節はピリピ書二・八と同じ霊の意味があります。主は門を越えずして外より羊の中に飛んで参ることができましたでしょう。天使や神の姿をもって羊の中に飛んで参ることができましたでしょう。けれどもそうせずに却って人間の形をもって、ご自分を卑くして羊のごとくなりたまいました。パリサイ人はちょうど反対です。自己を高くしました。自己の知識を陳べ自己の潔きを示しまして、羊の牧者たることを示しました。けれどもかくのごときことによって、却って自分は盗賊であることを示しました。主が門より入りたもうことについて、ヘブル書九・十二をご覧なさい。主は己の血をもってひとたび聖処に入りたまいましたが、羊は如何なる門に由りて天国に入りますかならば、主の血の門を通らなければなりません。主は同じ門より罪人を天国に導きたまいます。この門はすなわち主イエスの血です。
この二節は格別に主を指します。けれども、ただ主のみではありません。ほかの善き牧者をも指します。現今でも一節のパリサイ人と同様なる盗賊なる牧者もあります。また二節のように自己を卑くする牧者もあります。罪人を導くに当たって、高き位置より導きまするならば、それは盗賊なる牧者です。けれども己を卑くして、自分も嘗て罪人なりしも主イエスによりて救を得たることを示しまして、やはり自分と同じ門より導きますならば、その罪人を導くことができます。
門守は何方ですかならば聖霊です。聖霊は人間の心を開きたまいます。コリント前書十六・九をご覧なさい。その時に牧者なるパウロの前に聖霊が大いなる門を開きたまいました。そうですから門守はこれは善き牧者なりと認めます。また羊にもそれが解ります。『羊はその声を聞き分ける』。これは八・四十七と同じことです。『神に属する者は神の言葉を聞く』。またヨハネ一書四・六も同じ意味です。私共は善き牧者ですならば、羊は私共の声を聴きます。すなわち私共に由りて大牧者なる主の声を聞きます。
『羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す』。そうですから善き牧者は各個の羊を知りたまいます。私共各自主に従いました時の経験は如何ですか。私共は主が私共各自を知りたまいましたことに由りて主に従いました。主は悉く私共を知りたもうことを悟りました時に、また主は喜んで私共を導き、私共を養いたもうことを悟りました時に、喜んで主に従いました。己の羊の名を呼んでこれを引き出したもうがゆえに、私共は主に従いました。出エジプト三十三・十二、十七をご覧なさい。『汝かつて言たまひけらく 我名をもて汝を知る』『我名をもて汝を知なり』。すなわち一人一人を知り抜きたもうことであります。偽の牧者は羊を虐げます。善き牧者は羊を呼びたまいます。招きたまいます。いま本章と九章の関係はよく分かると思います。パリサイ人は瞽者を追い出しました。瞽者は追い出されました。けれども主はこのことについてご自分の善き光を与えたまいます。この瞽は追い出されましたのでなく、善き牧者が彼を導き出したまいました。却って幸福のことです。主はこの瞽者を慰めるためにこれを言いたまいます。この時瞽者は会堂より追い出されることを、神の国より追い出されたごとく思うておりましたから、善き牧者なる主ご自身が彼を導きたまいます。
九・三十五をご覧なさい。主はその時にその羊の先に行きたまいました。また羊は牢より出ました時に、牧者と共に行くことを得ました。この牢は何でありますかならば旧約時代の宗教でした。この牢は羊にとりてはよほど福祉でありました。それに由りて神は羊を守りたまいました。けれども今は却って監獄署の如きものとなりました。そもそもユダヤ国においては牧者は毎晩大いなる牢に羊の群を入れます。多くの牧者は各自の羊を同じ牢に入れます。また通宵門守は眼を覚まして、その羊を守ります。朝になれば牧者は自分の羊の名を呼んで引き出します。また他の牧者が参りまして同じく自分の羊の名を呼んで引き出します。今この譬話は同じことであると思います。夜中羊を守るために、神は羊を悉くユダヤ教という牢に入れたまいました。これは羊のために幸福でした。けれどもただいまはもはや光が来りました。羊の持ち主なる善き牧者が来りたまいました。またその牧者は牢に入りたもうてご自分の羊を呼び出したまいます。
『先頭に立って行く』。これは牧者の有様です。それによりて主はご自分の羊を導きたもうことを見ます。また羊は必ず善き牧者に従います。本節の彼なる語も格別に主を指します。けれども今の牧者をも指します。私共は羊を導かなければなりません。羊の先に行きまして、その眼前に手本を示さなければなりません。
羊は至って肉に属ける動物であります。極めて頑固なる、迷い易き動物であります。しかるに神の聖子は牧者となりたまいました。それに由りてご自分を卑くしたもうことをご覧なさい。主は喜んで私共のごとき頑固なる、迷い易き者の導者となりたまいました。また旧約聖書においてたびたびヱホバが羊の牧者なることを見ます。たとえば詩篇二十三、エゼキエル書三十四・十一〜十六のようです。このところにおいて神は私共の牧者なることを見ます。今ここで主はご自分は牧者であると言いたまいます。それに由りてご自分の神なることを示したまいます。人間が主の聖声を聴き、また主がご自身人間の牧者なることを明言したもうことによって、ご自分のヱホバなること、かつその羊たる信者は必ず詩篇二十三の幸福を得ることを示したまいます。
主は九・四十の偕におりしパリサイ人に向かいて、この譬話を語りたまいましたが、彼等は全くそれを悟りませなんだ。けれども瞽には必ずそれが分かりました。主は自分の牧者なることが既に分かっておりましたから、必ずこの譬話をよく悟りました。
本節より主は譬を少しく変えて、ご自分は生命に到る唯一の門なることを示したまいます。また自由に至るべき唯一の門なることを示したまいます。またそれのみではありません。主ご自分のみが門なることおよび十一節の善き牧者なることを示したまいます。この二つのことに由りてただご自分のみが、羊を出し入れする権能を有することを示したまいます。九章においてパリサイ人は表面上宗教の権力をもって羊を追い出しました。(瞽を追い出したることを言う。)けれども主はかくのごとき人等は、神の牢より人間を追い出す権能がないと言いたまいます。ご自分のみがそういう権能が有ることを示したまいます。
またもう一度『わたしは門である』『わたしは善い羊飼いである』という聖語をお考えなさい。私共は心霊上の経験に依りて、始めに門なる主を知りその門より出まして永生を得ます。その門より天国に入りて永生を得ます。それから後に自分を導く者を求めまして、ついに牧者なる主を認めます。そうして喜んでその聖声を聴きこれに従います。
この『前に来た者』という句中に前にという字は、英語では『わが前に(before me)』とありますから、わが来らざるうちに我に先立ちてという意味もあります。けれども我を背にし、我を隠して自己を顕す者、すなわち門の前に参りまして、これを隠す者という意味があります。そうですからこの人々は門を隠して、誰をも這入らせません。自己を出して門なる主を示さない者であります。『あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ』(ルカ十一・五十二)。この教法師は主の前に来りし者であります。私共は時によりてこの強盗の罪に陥りませんか。人間を導くことによりても、神の栄光を竊みませんか。羊の眼前に己を出して、羊の眼をば己に着けしめ、門なる主を示しません。自分の熱心、自分の経験、自分の悟りを示しまして、門に入らんとする者を拒みます。これは実に大いなる罪であります。
この処においてこの三つの恩恵を受けることを見ます。第一には救いを得ます。第二には出入りをなして自由を得ます。第三には草を得て満足を得ます。これは羊なる私共の特権です。ちょうど八・三十六の自由を指す言葉です。たびたびこの羊は守られんがために這入ります。養われんがために出ます。自由に出入りをして満足を得ます。この這入ることについて詩篇七十一・三をご覧なさい。『われ恒にそのところに往ことを得ん』。羊は守られんがためにそのところに行きます。また詩篇百二十一・八をご覧なさい。『ヱホバは今よりとこしへにいたるまで 汝のいづると入るとをまもりたまはん』。そうですから本節の牢と一節の牢とは少しく違います。曩に申しましたように主は少しく譬を変えたまいました。一節の牢は旧約時代の牢です。本節の牢は福音時代の牢であります。いずれもその時に従うて神の牢です。けれども旧約時代の牢は漸次監獄署のようになりましたから、主は羊のためにいま新しき本節の牢を造りたまいました。
ただ新しき生命のみではなく、ペンテコステのような豊かなる生命を与えたまいます。
またこの悪しき牧者について、エレミヤ記二十三・二およびエゼキエル書三十四・二〜四をご覧なさい。これによって悪しき牧者は、盗賊なることが分かります。実に利き剣のような言であると思います。牧者なる私共の心を刺す言であると思います。この悪しき盗賊なる牧者は、自分のために羊を牧います。またそれによって自分は利益を得ます。羊の脂と毛を受けます。ただ自分の利益のみを考えて羊を牧います。そうですから自分に利益がありまするならば、忠実に羊を牧うかも知れません。けれどもその目的は羊を愛するの愛でなく、ただ自分の利益のためです。『我は善牧者なり。善牧者は羊の爲に生命を捐』。ちょうど反対です。この善き牧者は格別に主を指します。けれどもただ主のみではありません。ピリピ書二・十七をご覧なさい。パウロは喜んで羊のために生命を捐てました。またテサロニケ前書二・七、八を引証なさい。ああ私共は果たしてこのような善き牧者でありましょうか。
そうですから狼なる悪魔は二つの方法をもって羊を害します。一つは奪うことによってです。一つは散らすことによってです。奪うことは何でありますかならばその人を堕落せしめることです。散らすことは羊の中に悪しき感情を起さしめることです。悪魔はこの二つの方法を使います。そうですから羊が害せられまするならば、悪魔の働きなることを知ることができます。
雇工は自分が得ることを目的とします。けれども善き牧者は自分が与えることを目的とします。この光に由りて明らかに自分の心を判断することができます。私共の目的はいずれにあるでしょうか。与えることでありましょうか。或いはまた得ることでありましょうか。
『自分の羊を知っており』。主の羊は極めて頑固なる汚れたる迷い易きものです。けれども主は『自分の羊を知っており』ます。よく知るほど心の痛みが多くあると思います。けれども善き牧者なる主は喜んで、羊各自のことを調べたまいます。善き牧者は必ず自分の羊の性質習慣等をよく調べます。その羊を導くために、その羊を養うために、牧者は羊各自の模様を知らなければなりません。主もそれを調べたまいます。そうですから完き羊でありますならば、それを知るほど楽しく嬉しく思いたまいます。けれども悪しき羊でありますならば、それを知るほど心を痛めたまいます。
この『自分の羊を知っており』は直ちに十五節の『父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っている』に続きます。牧者と羊との交わりはなお父と子との交わりと同じことであります。同じように親密なる交わりがあります。子が父を識るように羊は牧者を識ります。父が子を識るように牧者は羊を識ります。
『自分の羊を知っており』、『わたしは羊のために命を捨てる』。主が私共を識りたもうならば、必ず私共のためにご自分を捐てたまわねばなりません。愛はいつも己を捐てる実を結びます。私共に善き牧者の心がありまするならば、あるほど愛のために己を捐てなければなりません。
今までの神の牢はユダヤ人のためのみでした。けれどもこれからのち全世界の人々は神の羊でありまして、牢の中に導かれます。
『ほかの羊もいる』。今その羊は汚れたる罪人であります。世に迷える罪人でありますけれどもその時にもやはり主の有です。また『その羊をも導かなければならない』。この罪人を神に導くものは、何方ですかならば主イエスです。神の聖子です。罪人が神に参り神を識ることができまするならば、それは主イエスの勢いによってであります。また『一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる』。羊は主の力によって一つとなります。前に申しましたように羊は悪魔の力によって散らされます。けれども主の力によって一つとなります。羊が散らされまするならばそれは悪魔の働きです。一つとせられますならばそれは主の働きです。
十五節の終わりに命を捐てたもうことを見ます。十六節に一つの群を作りたもうことを見ます。主は死にたもうことによって、一つの群を作りたまいます。十一・五十二をご覧なさい。これは同じことです。またエペソ書二・十四をご覧なさい。そうですからご自身の肉を捐てたもうことによって、一つの群を造りたまいます。
私共は何卒心中によくこのことを味わいたいと思います。これによって主の栄光を見ます。『わたしは良い羊飼いである』。そうですから主は私共を導く責任があります。私共を養う責任があります。また私共を守る責任があります。主はまた喜んでこの責任を負いたまいます。何卒牧者なる主を信じとうございます。またそれのみならず、ここで主の栄光を見まするならば、私共も同じようになりとうございます。同じ牧者の心をもって羊を導き養いとうございます。同じように己の生命を捐てるまでも、羊を護りとうございます。
父は永遠限りない時から聖子を愛したまいました。けれどもこのために、すなわち命を捨てたもうことのために、なおなお聖子を愛したまいます。
父なる神は最初から、私共を愛したまいました。けれども私共に生命を捐てる心がありまするならば、父はなおなお深い御仁愛を顕したまいます。命を捐てる働人は、新しい神の御仁愛を経験することができます。神の御仁愛を新たに味わいとうございまするならば、命を捐てて羊を牧わねばなりません。これについてガラテア書一・四およびイザヤ五十三・十二をご覧なさい。命を捐てることは話し易いことです。けれどもその意味は分かりかねると思います。それが分かれば分かるほど主の愛の深いことを悟ります。
『だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる』。人間はそれを言うことはできません。自ら己の命を捐てることはできません。ただ神のみがその権能を有っていたまいます。
『わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる』。これはなおなお奇しき権能であります。またそれによって主が必ず神なることを悟ります。主は死後自分の生命を得るの権能があります。
『これは、わたしが父から受けた掟である』。そうですから本節を二つに別ちます。第一は『だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる』です。第二は『これは、わたしが父から受けた掟である』です。一は絶対の権能(absolute power)です。他は全き服従(absolute submission)です。詩篇六十八・二十をご覧なさい。『死よりのがれうるは主ヱホバに由る』。一方から見まするならば、主は喜んでご自分の生命を捐てたまいました。けれども一方から見ますならばこれは父なる神の命令でありました。主に仕える者は同様に、自由に自分の生命を献げます。けれどもこれはやはり神の命令であります。
一節より十八節までの大意は、真に神に仕えることです。ここで真正の牧者の徴証と真正の牧者の目的を見ます。その真正の働きの価値と、真正の働きの結果を見ることができます。人間はこの四つの要点に従って救われます。どうぞ十七、十八両節を深く味わいとうございます。
『いつまで、わたしたちに気をもませるのか』。実に愚かなる話です。現今でもそういうことを言う者はたくさんあります。主は今まで明らかにご自分のことを示したまいました。正しい証拠はたくさんあります。けれどもいつまで疑わせるやと言います。主はこの人々に何を答えたまいましたか。二十五節においてご自分の言と行いとは、ご自分を証することを言いたまいます。言と行いは主の証拠です。けれども不信なるユダヤ人には、格別に行いの証拠を言いたまいます。二十五、三十二、三十七、三十八にもご自分の行いを言いたまいます。証拠として言いたまいます。或る人は主の奇跡を証拠立てとうございます。けれどもこの奇跡は却って主の明らかなる証拠であります。主が神の子であることを確かめます。それについて五・三十六をもご覧なさい。
この人々は羊の心がありませんから、主の声を聴くことができません(二十六)。私共は二十七節において主の羊の印を見ます。二十八節にその羊が受ける恵みと福祉を見ます。
『奪うる者なし』。原語では十二節の『羊を奪て』と同じ言葉です。私共父の聖手にありますならば狼を恐れるに及びません。またイザヤ書四十三・十三をご覧なさい。それ故に信者の生命はキリストです。二十八節の『わたしより奪うことはできない』。信者を奪うものはありません。
二十八節に牧者の手より羊を奪う者なしと見えます。二十九節に羊の持ち主の手より羊を奪う者なしと見えます。また三十節に牧者と羊の持ち主は一つなりと見えます。この三十節は実に主の神たることの明らかなる証拠です。『わたしと父とは一つである』。そうですからユダヤ人はこれを聴いて石にて打たんと致します。主は何故われを打たんとするかと尋ねたまいし時に、三十三節の言を申します。
『あなたの証のためである』。世に属ける者は善事のために打ちません。けれども証のために打つかも知れません。何卒主に従って勇気をもって、石にて打たれましても証を致しとうございます。或る人は迫害のために証をやめます。自分の善事のために主の栄光を顕さんと言います。けれどもそれは大いなる誤謬です。人間は善事のために心を動かしません。けれども証は心を刺します。証によって人間の魂を受けましょう。しからざれば石を受けましょう。これは人間の心は証によりて刺されるからです。そうですから却って石にてその人を打ちます。或いは悔い改めます。
主は旧約を引照て言いたまいます。旧約において神の言と神の権威を受けし者は神と称うるから、いま神の使者は自分は神であると言いましても、石にて打つべき筈はありません。
ユダヤ人は四度石をもって主を打たんと致しました(五・十八;八・五十九;十・三十一、三十九;十一・五十三)。牧者はいつでも命を懸けて羊を追い求めたまいます。
その処はご自分にも弟子等にも、極めて聖なる処でした。その処にてご自分は霊のバプテスマを受けたまいました。その処にてご自分は父なる神の聖声を聴きたまいましたから、喜んでその処に逃れたまいます。弟子等もまたその処にて、ヨハネの口によって悔い改め、水のバプテスマを受けました。ヨハネの口によりて、ナザレのイエスは神の子であることを聞きました。またそれのみならず霊のバプテスマを施す者であることを始めて聞きました。そうですから弟子等もこの地は、聖なる処であると覚えておりましたでしょう。私共も神の聖声を聴き、或いは霊のバプテスマを受けました処は、いつでも聖なる処であると覚えます。またその処に再び参ることを望みます。
そうですからその近辺の人々は、ヨハネの証を忘れませなんだ。主イエスは神の聖子なることの証を忘れませなんだ。主が復び来りたまいました時に、喜んでヨハネの証のために彼を受け入れました。ユダヤ人は主の証をききました時に、石にて主を殺さんと謀りました。このヨルダン河辺の人々は、ヨハネの証をききました故に、四十二節のごとく喜んで主を信じました。ちょうど反対でした。
四十一節に由りてヨハネの証の大切なることが分かります。この人々はその証によりて信じました。そうしてこの証はユダヤ人も皆々聞きました。そうですから信じないことについて申し訳はありません。私共も証する時に何卒『ヨハネがこの方について話したことは、みな本当だった』というように、真の証を立てとうございます。また四十二節のように許多の人を信ぜしめとうございます。次の三箇所をよく比べとうございます。
ルカ十五章において善き牧者は喪いたる羊を追い求めたまいます。
ヨハネ十章において善き牧者は羊を導き養いたまいます。
マタイ二十五・三十一において善き牧者は羊を審きたまいます。
三十九節において主の謙遜を見ます。『イエスは彼らの手を逃れて』。その時に主イエスはもしご自分の稜威の光線ただ一つでも止めずして、輝き出しめたまいましたならば、すべての敵はみな散ったでありましょう。主がこのことを為して敵を散らしたもうのは理に叶うことであります。けれどもそれは主の歩みたもうべき狭き道ではありません。その時には謙遜の道を歩みたまわねばなりません。羊を牧わんがために主は謙遜の道を歩みたまわねばなりません。そうですから敵を散らさずにその手を逃れて去りたまいました。
十八・六において主がただ敵に向かいたまいしことによって、武具を装いて来ました兵卒は地に倒れました。ただ眼を着けたまえるために、その目の力によって、兵卒は地に倒れました。また二・十五においてご自分の権威をもってエルサレムの宮殿より多勢の人々を追い出したまいました。けれどもただいまは父の命令に順いて逃げ去りたまいます。これは一番謙遜の道です。
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