第 十 五 章
十四章において、主は私共に聖霊時代の栄光を示したまいました。また聖霊を受けまするならば、いかなる恩寵、いかなる光を受けますかについて教えたまいました。ただいま十五章において、その恩寵の生涯は続く生涯であること、その秘密はキリストにおることであること、またその生涯は果を結ぶ生涯であることを教えたまいます。十四章のごとく、神の異象を見ますならば、それはただ自分一人のためのみではありません。これによりて、神と人間のために果を結ぶことができることを教えたまいます。そうですから、十四章において、キリスト信者は父と子と聖霊とに交わることを見ます。十五章において、地上における信者の生涯を見ます。すなわち
第一 信者と主との関係が記されてあります(一〜十一)。
第二 信者相互の関係が記されてあります(十二〜十七)。
第三 信者と世に属ける者との関係が記されてあります(十八〜二十七)。
どうぞこれを読むことのみでなく、頭脳で悟ることのみではなく、今朝これについて新しき経験を神より受けとうございます。
神は旧約時代において、葡萄の樹を有っていたまいました。詩篇八十・八をご覧なさい。『なんぢ葡萄の樹をエジプトより携へいだし もろもろの國人をおひしりぞけて之をうゑたまへり』。昔のイスラエル人は、神の葡萄の樹でありました。また彼らは神のために、聖霊の果を結ぶ筈でした。けれども、『その樹は火にて燒れまた斫たふさる かれらは聖顏のいかりにて亡ぶ』(詩篇八十・十六)。彼らは失敗いたしました。いま神はその昔の葡萄の樹の一つの枝を取りたまいまして、真の葡萄の樹に植え付けたまいます。イザヤ十一・一をご覧なさい。『エッサイの株より一つの芽いで その根より一つの枝はえて實をむすばん』。イスラエルという葡萄の樹は、全く伐り倒されたと見えました。けれども、その株より一つの芽が出ました。いま真の葡萄の樹が出来て参りました。昔の葡萄の樹は、自分のために実を結びました。ホセア十・一の英語訳には、『イスラエルは空しき葡萄の樹なり 彼は己のために実を結べり』とあります。けれども今ただ神のために実を結ぶ葡萄の樹が出来て参りました。
『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である』。そうですから子なる神と、父なる神を見ます。霊なる神も含みてあります。霊なる神は、この葡萄の樹の液でありますから、三位一体なる神が共に働きたもうて、私共の益をなしたまいます。
『わたしの父は農夫である』。第一、農夫は葡萄の樹を眷顧たまいます。主は私共のごとく、父なる神に依り頼まなければなりません。ご自分を空しくして父なる神を依り頼みたまいます。父は農夫であります。また父は私共の農夫であります。私共は葡萄の樹より内部の恵み、内部の生命を受けます。農夫より外部の恵みを受けます。或いは肥料を受け、或いは剪り除られることによりて、種々の外部の恵みを受けます。そうですから、私共は実を結ぶために、内外より恵みを受けます。真の葡萄の樹の枝が実を結びませんならば、枝の過失です。主は葡萄の樹でありますから、内部の生命を与えたまいます。父は農夫でありますから、外部の恵みを与えたまいます。私共の農夫は、或いは枝を剪りたもうこともあります。表面の摂理を与えたもうことは、農夫の働きです。そうですから、私共は実を結ぶために、最も好き状態におるのであります。
エゼキエル十五・一〜四をご覧なさい。また同六節をご覧なさい。葡萄の樹が実を結びませんならば、他の働きのために、何も利益がありません。少しも他の働きができません。その時に神はイスラエル人の模様によりて、実を結ばないものと見たまいましたから、イスラエル人は、実に役に立たぬ民でありました。今でも私共は神のために、実を結びませんならば、他のことのために、役に立たぬものであります。その樹の目的が成就せられませんから、剪り除られなければなりません。
『わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる』。そうですから、私共は父の刑罰、或いは懲治に遇わねばなりません。これは苦痛であるかも知れません。けれども、神が剪り除りたもう懲治は、私共をして『ますます繁く實を結ばしめん爲』であります。
この二節を見まするならば、父なる神は、不断私共の心霊上の生涯を眷顧たまいます。私共に実を結ばしめんがために、不断働きたまいます。そうですから、神は私共に懲治を与えたもうても、どうぞ神の慈愛を信じて、それを受け入れとうございます。
『いよいよ豊かに実を結ぶように』。これは私共の行くべき道であります。神はそのために、力を尽くしたまいます。そうですから、信者がますます繁く実を結びませんならば、神の目的に逆らいます。テサロニケ前書三・十二をご覧なさい。『あなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように』。これはますます繁く結ぶ実です。またテサロニケ後書一・三をご覧なさい。『あなたがたの信仰が大いに成長し』。これは今読みました祈りの応答です。その時に葡萄の枝は、ますます繁く実を結びました。これは真に幸いです。神はいま私共に対して、同じ目的を有っていたまいます。またそのために私共を教え導きたまいます。
この実はどういう実でありますか。これは一番最初に伝道の成功ではありません。私共はこのことについて、たびたび過失をいたします。第一に伝道の成功を願います。けれども、神はまず私共の心に、実を結ぶことを願いたまいます。ガラテヤ書五・二十二、二十三をご覧なさい。これは霊の結ぶ実です。神は第一にこの霊の実を結ぶことを願いたまいます。私共の心の中に、こんな実がありませんならば、伝道の成功を求めることは、神の順序に背きます。けれども、心の中にこんな実ができまするならば、必ずそのために、他の人々は悔い改めまして、己も葡萄の枝となりとう思います。私共は実を結ぶことによりて、葡萄の樹の価値を示します。葡萄の樹の価値はどこで分かりますかならば、ただその実によりてであります。他の樹の価値は、或いは花であります。或いは材木であります。けれども葡萄の樹の価値は、ただ一つ善き果を結ぶことによりて分かります。いま私共の周囲にある人々は、私共によりて、主の価値が分かります。私共は善き果を結びまするならば、大いなる果を結びまするならば、ますます繁く果を結びまするならば、それにりて主の価値を知ります。これは第一に主を証しする方法であります。自分の心の愛と、平和と、喜悦を現すことは、第一の証です。また枝によりて、葡萄の樹はだんだん大きくなります。私共によりてキリスト教の感化は、拡がります。キリスト教会は弘められます。
葡萄の樹は、その最も善き滋養分を与えて、枝に実を結ばせます。実はその樹の元素です。主は私共に実を結ばしめんがために、ご自分の最も善き液汁と、元素を与えたまいます。ご自分の血、ご自分の生命を与えて、私共に実を結ばしめたまいます。また枝なる私共は、実を結びとうございまするならば、自分の最も善き元素を与えなければなりません。身も、魂も、自分の生命をも捧げまして、主のために実を結ばねばなりません。
『之を潔む』。農夫は如何して葡萄の樹を潔めますか。或いは枝を剪ります。或いは葉を剪ります。よく剪り除ることによりて、繁く実を結ばせます。私共の農夫も同じように、私共に繁く実を結ばしめんために、私共の小さき枝や葉などを剪り除ります。農夫はそれを剪り除りませんならば、樹はその小さき、役に立たぬ枝に液汁を出します。そうですから、無益なる枝に液汁を費やしませずして、実を結ぶ枝のために、その液汁を費やさねばなりません。農夫はそのために役に立たぬ枝を悉く剪り除ります。おお兄弟よ、私共の務めは何でありますか。ただ実を結ぶことであります。それを妨げる種々なる目的がありまするならば、各様なる働きがありまするならば、神は厳重にその目的、その愛する肉の働きを剪り除りたまいましょう。そうですから、私共は力を尽くして、生涯を尽くして、この一事を務めることができます。すなわちそれは、神の栄光のために生涯を暮らすことです。神は私共の心より、また私共の生涯より、外のことを剪り除りたまいまするならば、それは神の慈愛の印です。神は智慧ある農夫でありまするから、どうぞ神の聖手に自分を委ねて、懲治を与えたまいましても、喜びてそれは神の慈愛の印であると思いとうございます。
そうですから、神は格別にその一言において、私共を潔め、私共に実を結ばしめたまいとうございます。『わたしが話した言葉によって』。主は私共に神の言の大切なることを示したまいます。また私共は実を結びとうございまするならば、心の中に神の言葉を受け入れることは、第一に必要であります。葡萄の樹の枝は、必ず農夫の刃物の疵を受けましょう。私共は神の言を受け入れることは、必要です。
葡萄の樹の枝は、或いは潔めを受け、或いはこれを拒む自由なる働きがありません。けれども、私共には選択の自由があります。この潔めを拒むことができます。また喜びて受け入れることができます。
私共は神の言を拒みましょうか。或いは受け入れましょうか。神は『話した言葉によって』私共に十字架を負わせたまいまするならば、それを受け入れましょうか。おおどうぞいつでも、神の言をそのままに受け入れとうございます。その言に従いまするならば、たびたび種々の苦しみがあると思います。けれども、神はその苦しみを与えたまいとうございます。その苦しみによって、私共を潔める目的を有っていたまいます。またその潔めを与えるために、言を与えたまいます。どうぞ不断神の『曰し言』、すなわち聖書に記されてある言を受け入れとうございます。
枝の樹に連なると、連ならざるとは、自分で選択することができません。けれども、私共はそれを選択することができます。或いはおることができます。或いは拒むことができます。『わたしにつながっていなさい』。それによりて義とせられます。『わたしもあなたがたにつながっている』。それによりて力と生命とを得ます。
十四章において、主は私共の中に、ご自分を顕したもうことを教えたまいます。今この四節において、続いて父と、子と、聖霊が、我儕の衷に在すことを教えたまいます。すなわち十四章二十三節は、一時の黙示ではありません。一時の恩寵ではありません。永久の恩寵であります。
『わたしにつらなっていなさい』。これについて詩篇三十七・三〜七をご覧なさい。第一、『ヱホバによりたのみて善をおこなへ』(三)。第二、『ヱホバによりて歡喜をなせ』(四)。第三、『なんぢの途をヱホバにゆだねよ』(五)。第四、『なんぢヱホバのまへに口をつぐみ忍びてこれを俟望め』(七)。この四つの誡めはやはり『わたしにつらなっていなさい』ということを説明することです。
『ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない』。私共はそれを信じますか。主イエスに連なりませんならば、何もできぬことが分かりますか。もしそれが分かりまするならば、潔き真正の生涯をいつでも暮らすことができます。主はそれを知りたまいました。ヨハネ五・十九、三十をご覧なさい。『子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない』。『わたしは自分では何もできない』。そうですから、人間たる主は、不断父にいたまいました。
十四章十節をご覧なさい。『わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである』。そうですから、主のごとく生涯を送ることを私共に命じたまいます。主は私共の心霊上の模型であります。主が父に依り頼んで生涯を暮らしたまいましたように、私共も主を依り頼んで生涯を暮らさなければなりません。そうでありませんならば、何事でも行うことができません。兄弟よ、それについて自分の心を判断いたしとうございます。私共は主の葡萄の樹に連なる枝でありますか。或いは他の種々のものより液汁を取りますか。ただイエス・キリストより、智慧と、力を吸いますか。或いはイエス・キリストより、幾分かそれを吸い、また他のことによりて、幾分かそれを吸いませんか。肉に属ける信者は、いつでも半分は、主の枝であります。半分は世に属ける葡萄の樹の枝であります。私共は全く真の葡萄の樹の枝でありますか。『わたしにつながっていなさい』という言は、いかなる意味でありますかならば、キリストで満足することです。キリストさえあれば、他に何も要らぬ意味です。
もし私共がキリストにおりますならば、キリストご自身は、私共におりたもうて、私共の満足となりたまいます。『わたしもあなたがたとつながっている』。これは充たされることです。
私共は献身がありませんならば、充たされることはできません。けれども、両方共に続かなければなりません。献身は一時のことではありません。充たされることは一時のことではありません。両方共に続かなければなりません。
そうですから、キリストと共に教会がありませんならば、全きものではありません。枝がありませんならば、葡萄の樹は全き樹ではありません。主は私共にその大いなる位と特権を与えたまいます。私共がありませんならば、ご自分は全きものではありません。コリント前書十二・十二をご覧なさい。『体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である』。そうですから、キリストはご自分一人で止まりたまいますならば、全きものではありません。キリストと教会と一緒になりまするならば、全きキリストです。体と肢と一緒になりまするならば、全き体です。これは幸いなる言です。またこれによりて、私共の大いなる特権が分かると思います。
『人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ』。そうですから、多くの実を結ぶ秘密は、何でありますかならば、多くの実を結ぶ秘密は他のものではありません。或いは知識、或いは預言、或いは異言など、すべてそういうものではありません。多くの実を結ぶ秘密は、ただキリストにおることばかりです。どうぞそれを深く学びとうございます。私共はたびたび自分の有様が変わるならば、実を結ぶことができると思います。或いは霊の賜を得ますならば、なおなお多くの実を結ぶことができると思います。けれども、それは大いなる過失です。私共はただキリストにおることのために、多くの実を結ぶことができます。静かに信仰をもって、自分の考えを静めて、心の中に安息を得まして、キリストにおることによりて、多くの実を結ぶことができます。
『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである』。肉に属ける信者は、いつでも心の中に、自分には幾分か力があります、幾分か知識があります、そうですからこの上になくてならぬ力や、知識がありまするならば、主からそれを受け入れようと思います。けれども、それは大いなる過失です。素よりただキリストばかりを依り頼みませんならば、多くの実を結ぶことはできません。私共の不十分と思うものを充たすかたとして、キリストを見上げてはなりません。
またこの五節を見まするならば、神は私共に多くの実を結ぶことを願いたまいます。私共は少しの実を結びまするならば、満足するかも分かりません。幾分か喜楽、平和がありまするならば、幾分か柔和、慈悲、忠実がありまするならば、満足を得るかも分かりません。けれども、主はそれにて満足したまいません。主は私共が多くの実を結ぶことを願いたまいます。どうか私共は身も魂も神に捧げまして、この世の中に多くの実を結びとうございます。私共は身も、魂も全く神に捧げまするならば、多くの実を結んで、キリストの価値を世の中に示すことができます。神は私共を管とならしめたもうて、世の中にご自分の恩寵、ご自分の愛を示したもうことができます。あなたがたによりて、キリストの愛をもう一度この世の中に現したまいます。そうですから、どうぞ葡萄の樹の枝となりて、身も魂も一切を神に委ね、一切をただキリストより取りまして、生涯を暮らしとうございます。
もう一度『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである』をご覧なさい。そうですから、三節で潔められました者でも、何事もできません。私共は潔めを得ましたならば、幾分かできるかも分からんと思います。けれども、潔められました者でも、キリストを離れる時は、何事をもできません。
『離たる枝の如く』。やはり元の形が残ってあります。この枝は活ける樹の活ける枝でありました時に、成長しました。またいま離れましても、同じ形を保っております。私共はキリストを離れましても、表面は以前と同様なる生涯を暮らしましょう。或いは聖書を読み、或いは表面の祈禱を務め、或いは表面の伝道をいたしましょう。けれども、生命がありません。また枝は樹を離れましても、急に枯れません。暫くの間はちょうど活けるものと見えます。花もありましょう、実もありましょう。葉もありましょう。ちょうど活けるままでありましょう。けれども、漸次生命がなくなりまして、漸次葉も枯れ、花も落ちまして、ついに全く役に立たぬようになります。この離れたる枝の枯れることは、急なることではありませんから、なおなお恐ろしいことであると思います。私共はこれを恐れまして、主を離れてはなりません。どうぞ続いて主におるように、聖書を心の中に受け入れることによりて、祈禱をもって、断食をもって、主を求めなさい。おお力を尽くして、そういうことを怠ってはなりません。
この六節で三つの階段があります。
第一は、キリストにおらぬことです。
第二は、外に棄てられることです。これはキリストの国より捨てられることです。現世において、天国より捨てられることです。
第三は、『火に投げ入れられて燒かれてしまう』。これは未来において,
火に焚かれることです。これはバプテスマのヨハネが宣べ伝えましたることと、同じことです。『良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』(マタイ三・十)。神の恩寵を宣べ伝えたもうたるイエス・キリストは、神の審判を宣べ伝えたるバプテスマのヨハネと同じことを宣べ伝えたまいました。
また火に投げ入れられることについて、マルコ九・四十三、黙示録二十・十五、同二十一・八をご覧なさい。主はただいま同じことを言いたまいます。私共は主におることについて、心を欺くことができます。心を欺くことは、容易きことです。主はこの恐ろしき言をもって、私共を醒ましたまいとうございます。
主におりませんならば、どういう結果がありますか。第一に実を結びません(四)。第二に何事もできません(五)。第三に神に棄てられます(六)。第四に火に投げ入れられます(同)。どうぞ自分の心を判断いたしとうございます。第一の結果によりて、心を判断することができます。主におりませんならば、新しき実を結ぶことはできません。活ける樹を離れました枝は、今まで結びました実を続いて保っていることができます。けれども、新しき実を結ぶ力と、生命はありません。どうぞそれについて自分の心を判断いたしとうございます。
七節より十節までにおいて、主は私共が主におることの結果を示したまいます。すなわちその結果は三つあります。
第一は、祈禱の力です(七)。
第二は、神を栄めることです(八)。
第三は、主の愛を感じることです(九)。
第一 祈禱の力
言葉を換えて言いまするならば、私共は神の言を受け入れまするならば、神は私共の言を受け入れたまいます。私共は神の言に従いまするならば、神は私共の言に従いたまいます。それは祈禱の秘密です。これに反してゼカリヤ七・十三をご覧なさい。『彼かく呼はりたれども彼等聽ざりき 其ごとく彼ら呼はるとも我聽じ 萬軍のヱホバこれを言ふ』。これは祈禱の応えられぬ秘密です。神は私共に呼ばわりたもう時に、私共はそれを聴きませんならば、私共が呼ばわる時に、神は聴きたまいませんかも分かりません。詩篇三十七・四をご覧なさい。『ヱホバはなんぢが心のねがひを汝にあたへたまはん』。すなわち本節の約束のごとく、求めに従うて与えられます。私共はそれほどの祈禱の力を有っている筈です。そうですから、私共の求めが成就せられませんならば、自分の心を省みなければなりません。神は私共にそれほどの祈禱の力を与えたまいとうございます。『わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば』。キリストを私共におらしめることと、キリストの言を私共におらしめることとは、同じことであります。
私共は何処でキリストを求めましょうか。やはり大いなる感情をもって、パウロと共に第三の天に上りましょうか。いいえ、そうではありません。キリストはご自分の言の中に隠れていたまいます。キリストを受け入れとうございまするならば、キリストを知りとうございまするならば、この活ける言の裡にキリストを知ることができます。ヨハネ十四・二十三をご覧なさい。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』。主はわが言を守る者は、我儕来りて彼と偕に住むべしと言いたまいます。キリストの言を受け入れまするならば、活けるキリストご自身を受け入れます。またヨハネ一書二・五をご覧なさい。『しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります』。また同二十四をご覧なさい。『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう』。このように、キリストの言葉を宿しまするならば、欲うところ求めに従いて与えられます。マタイ十五・二十一〜二十八をご覧なさい。この婦はキリストの言を受け入れました。二十六節に、主は汝は犬なりと言いたまいました。婦は二十七節にその言を受け入れまして、然りと言いました。そうですから、二十八節のように、自分の求めに従うて与えられました。主は『願の如く爾に成べし』と言いたまいました。出エジプト三十三・十七をご覧なさい。『主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いをもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」』。これは祈禱の力です。神はモーセの言えるごとくなしたまいます。私共は祈禱の力を知りますか。まだ祈禱はどういうものであるかを知らぬかも分かりません。神は私共にこの大いなる力を委ねたまいます。けれども、まだその状態を成就しませんならば、その祈禱を分かることはできません。どうか祈りて神に求めとうございます。
第二 神を栄めること
『わたしの父は栄光をお受けになる』。栄えを神に帰することです。マタイ五・十六をご覧なさい。『人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである』。私共の行いを見る者は、たびたび私共を栄めます。けれども、私共は主におりまするならば、この八節あるいはマタイ五・十六のように、人々は父なる神を栄めます。私共を見付けませずして、私共によりて父なる神を栄めます。ガラテヤ書一・二十四をご覧なさい。『我事に因て神を崇むることを爲り』。パウロは自分の行いによりて、自分を出しませずして、却りて自分を隠しましたから、人々は神を崇めました。イザヤ六十一・三をご覧なさい。『灰にかへ冠をたまひてシオンの中のかなしむ者にあたへ 悲哀にかへて歡喜のあぶらを予へ うれひの心にかへて讃美の衣をあたへしめたまふなり かれらは義の樹 ヱホバの植たまふ者 その榮光をあらはす者ととなへられん』。大いなる変化によりて、神が崇められたまいます。恵みを得ましたから、神は崇めを受けたまいます。
第三 主の愛を感ずること
『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた』。実に高尚なる真理です。私共はこの言を信じましたか。父なる神と子なる神との間の愛が、幾分か分かりますかも知れません。いま主は同じように私共を愛したもうと言いたまいます。どうぞ不信仰を捨てて、信仰をもってこの言を受け入れまして、主の恵みを得とうございます。
『わたしの愛にとどまりなさい』。すなわちわが愛を感ずべし。ユダ書二十一をご覧なさい。『自己を守りて神の愛の中に居』。その秘密を十節に見ます。
主はいつでも私共に教えるために、ご自分の経験を示したまいます。ご自分の心霊上の秘密を示して、私共に聖い生涯の秘密を教えたまいます。神の愛を感ずる秘密は、何でありますかならば、神の誡めを守ることです。続いて主におることの秘密は、神の誡めを守ることです。この誡めは主に聖書に記されている誡めです。けれども、それと同時に霊の導きをも含んでおります。
『この事』。これは今の約束です。今の特権です。いま誡めたまいましたことです。『わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである』。続いて私共を喜びたもうことです。また続いて私共も主を喜ぶことができます。相互いに喜び合うことです。主は私共に盈てる喜びを与えたまいとうございます。私共に喜びを盈たしめたまいとうございます。私共に盈たされたる喜びがありませんならば、それは主の言を受け入れません故です。
主はただいま何故に私共に語りたまいましたかを言いたまいます。第一は、私共に喜びを与えるためです(本節)。また十六・一において、第二の理由を見ます。『これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである』。私共に迫害を耐え忍ぶ力を与えるためです。また第三には、十六・三十三において『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである』。私共に平安を与えるためです。そうですから、何故主の言が与えられますかならば、第一、喜び、第二、迫害に堪える力、第三、平安を与えるためです。聖書の冒頭にこの三つの引証を記しますならば、宜しいと思います。この三つのことを与えんがために、神は私共に聖書を与えたまいます。
初めに申しましたように、十二〜十七はキリスト信者相互の関係です。始めの十二節に、また終わりの十七節に、同じ誡めを見ます。またその残りの十三〜十六節には、その愛の模型を見ます。
主は私共にたびたび兄弟を愛することを誡めたまいます。兄弟の愛を命じたまいます。けれども、教会の中にこの愛はまだ不足であります。兄弟を愛することは、第一の誡めでありますから、どうぞ大切にそれを守りとうございます。サタンは、種々の手本をもって、あるいは誘惑をもって、私共にこの誡めを犯すことを導きとうございます。如何なる誘惑がありましても、どうぞいつでも、兄弟を愛しとうございます。主は私共がなお敵たりし時に、私共を愛したまいましたから、兄弟が私共に罪を犯しましても、主が私共を愛したもうごとく、兄弟を愛さねばなりません。兄弟は肉に属ける信者でありましても、兄弟を愛さねばなりません。主は私共が肉に属ける者でありました時に、私共を愛したまいました。主は私共がなお弱かりし時に、私共を愛したまいました。私共はこのように、兄弟を愛さねばなりません。
また私共はどれほどに兄弟を愛しましょうか。十三節によりて、どれほどに兄弟を愛さねばならぬかが分かります。
それは愛の摸型であります。それほどに友を愛せねばなりません。九節をご覧なさい。父の子を愛したもうごとく、子は私共を愛したまいます。十二節をご覧なさい。子の私共を愛したもうがごとく、私共も兄弟を愛さねばなりません。そうですから、父の愛はだんだん主によりて私共をもって、いと小さき枝にまで伝えられます。
『もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない』(十五)。そうですから、いま新しき経験を与えたまいます。今より後、すなわちペンテコステの日よりですと思います。その日より新しき愛の経験を受けます。今まで弟子は、主の僕でありました。けれども、ペンテコステの日より、友となります。いま信者の中に僕たる者もあります。友たる者もあります。私共の救われました当時、未だキリストの自由を得ません時には、ただキリストの僕でありましょう。忠心をもって主に従いまする義務的の僕であります。放蕩息子は、家に帰りました時に、僕となりとうございます。けれども、父はだんだん私共を導きたもうて、子とならしめたまいます。これはキリスト信者第二の経験です。私共は神の子、主の友となりました。愛の関係がありますから、親しき交わりができます。そうですから、キリストの所有は悉くわが所有となります。朋友は必ず自分の力のあらん限りは、その朋友を助けます。キリストは私共の友でありますから、ご自分の力のあらん限り、ご自分の富のあらん限りは、私共を助けたまいます。箴言十八・二十四の英語翻訳には、『多くの友をもつ人は友らしく示さざるべからず(A man that hath friends must shew himself friendly =欽定訳)』とあります。そうですから、友をもつ人は、その友のように、示さねばなりません。友に対しては、自ら朋友らしくする責任があります。その真理はよほど大切です。私共はキリストの友となりとうございますならば、私共も責任があります。すなわちキリストの朋友のように、キリストの愛のために、キリストの権威を成就する者でなければなりません。キリストの尊旨に合う行いをなさねばなりません。またキリストは、私共を友と言いたまいまするならば、私共がキリストを友と言うよりも、深き意味があります。キリストが私共の友でありまするならば、私共はいつでもキリストの助け、キリストの恵みを頼むことができます。またキリストは私共を友と言いたまいまするならば、キリストはいつでも私共の力、私共の言を頼みたもうことができます。キリストは私共を頼みたもうことができませんならば、真正に私共を友と言いたもうことができません。
この二つのことは大切です。
(一)あなたは神に依り頼むことができますか。
(二)神はあなたに依り頼みたもうことができますか。
第一は、神の恵みです。第二は、私共の服従です。私共は神の恵みに感じましても、神に服従することを忘れまするならば、それは罪を犯すことです。どうぞ二つながら、全う致しとうございます。高尚なる信仰の手本なるアブラハムをご覧なさい。ヤコブ書二・二十三をご覧なさい。彼は神の友と言われます。けれども、その行いを見まするならば、友として神の交わりを受けることのみではありません。友として常に神の誡めを守っておりました。そうですから、神はアブラハムを依り頼みたもうことができました。アブラハムは誠に神の友でありました。そうですから、創世記十八・十七をご覧なさい。『ヱホバ言ひ給けるは我爲んとする事をアブラハムに隱すべけんや』。ちょうどこの十五節のように、神はその友に、ご自分の秘密を示したまいます。私共は神の友でありまするならば、それほどの特権があります。また出エジプト記三十三・十一をご覧なさい。『人がその友に言談ごとくにヱホバ、モーセと面をあはせてものいひたまふ』。神はモーセを依り頼みたもうことができましたから、モーセにその秘密を示したまいました。神は私共にこの美わしき交わりを与えたまいとうございます。主はここで何のために、これを言いたまいますかならば、私共に愛の手本を示さんがためです。私共はそのように兄弟を愛せねばなりません。ただ言の愛ばかりではありません。心を合わして愛する愛です。また私共はどうしてそのように愛することができますかならば、十六節において、主はそれを示したまいます。
私共がこの実を結ぶことは、主の目的であります。主は素から私共を択びたまいました。また私共にその実を結ばしめんがために力を与えたまいました。そうですから、できぬことはありません。己のごとく兄弟を愛することができます。どうぞこれを確信致しとうございます。けれども、私共はどうしてその力を受け入れましょうか、どうしてその力を求めましょうか、祈りをもってその力を求めねばなりません。
『また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように』。そうですから私共は愛の実を結ぶことを願いたくございますならば、祈りをもって父にこれを求めねばなりません。これが主が私共に対する目的です。
信者相愛することは捨ててならぬ規則です。私共は祈りによりてその力を求めねばなりません。いま愛の不足はどこから生じますかならば、祈りをもってこれを求めませんからです。そうですから、かえって悪魔に祈られて兄弟を悪む心が起こります。どうぞその誘惑に打ち勝ちまして、祈りをもってこの愛を求めとうございます。
本節より十六章四節までは、信者と世に属ける者との関係です。私共は神の慈愛を味わいまするならば、また心の中に兄弟を愛する愛がありまするならば、必ずこの世に属ける者から悪まれます。全き愛は世より悪まれます。神ご自身が肉体をとりて、この世に現れたまいました時に、この世の人に憎まれたまいました。私共は全き愛を受けまするほど、この世に憎まれましょう。ヨハネ七・七をご覧なさい。『世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いとを証ししているからだ』。世は私共を悪むことができませんならば、私共は世に属しておる者です。実にそれは禍です。却りてどうぞ主におりまして、この十八節のように、世に悪まれることを願います。この部分は世に悪まれることについて示されてあります。けれども、それと一緒に聖霊が世の中に、どういう働きをなしたもうかを見ます。今まで聖霊は、聖徒の中にどういう働きをなしたもうかを見ました。この節から十六章十一節には、聖霊は世の中にどういう働きをなしたもうかを見ます。十五・二十六に、聖霊は世の中に主を証したまいます。十六・八より世をして罪ありと悟らしめたまいます。
『わたしがあなたがたを世から選び出した』。十六節を見まするならば、主は実を結ばしめんがために、私共を選びたまいました。この節を見まするならば、全く世を去らしめんがために、私共を選びたまいました。第一は主のために恵みを受けることのために、第二は主のために全く汚れを去ることのために、私共を選びたまいました。
私共は主イエスよりも大いなる者となりとうございますか。世に属ける者の眼の前に主より大いなる者となりとうございますか。そういう思想がありまするならば、まだ主の心を得ません者です。主の心を得ました者の経験を見とうございまするならば、コリント前書四・九〜十三をご覧なさい。私共はそれより高き位を求めまするならば、まだキリスト信者の身分を解らぬ者です。『「僕はその主人にまさりはしない」と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう』。私共はまだこの言を心に止めませんと思います。迫害がありまするならば、たびたび怪しむかも分かりません。人から罵られまするならば、たびたび怒るかも分かりません。けれども、心の中にこの主の言を止めておりましたならば、迫害に遭いましても、人より烈しき言を受けましても、それを怪しみますまい。却りてそういうことを待ち望みます。私共はそういうことを待ち望みまするならば、不断謙遜をもって歩みましょう。そうですから、サタンの火箭は私共を刺しません。どうぞ心の中に主の言を止めて置きまして、不断主のごとく迫害を待ち望みとうございます。
神は私共をそういうことより救いたまいません。神は能わざるところなき御方です。また大いなる愛をもって私共を愛したもう御方です。そうですから、子なる私共を必ず迫害より救いたもうと思いましょうか。そうではありません。神は独り子すら人間の手より救いたまいませなんだ。まして私共を人間の手より救いたもうことはありません。私共はたびたび旧約の精神をもって、神は奇跡をもって私共を迫害の中より救い出したもうならば、ご自分の栄光となると思いましょう。けれども、却りて迫害を堪え忍ぶことが神の栄光を顕すことです。主は十字架を負うことによりて、神の栄光を顕したまいました。またこのことによりて、私共を全うなしたまいます。私共をご自分の形に象らしめたまいます。そうですから、或いは迫害より、或いは心の痛みより救われようと祈ってはなりません。
主はいま教会を去りたまいます。また教会がどういう迫害に遭うかをよく知りたまいました。キリスト信者は生命を捐てるまで、ご自分に従うことをよく知りたまいました。主は教会を去りてこの世に教会を残したまいました。今に至るまでの迫害、今に至るまでのキリスト信者の苦しみをよく知りたまいました。けれども、信者を急に天国に移したまいませずして、却りて暫く苦しみの中に残したまいます。そうですから、信者は世の中に証を立てます。苦しみの中に、喜びを懐くことによりて、主の力を示します。またそれによりて、主がこの世を憫れみたもうことを示します。さきに神は世を憐れみたもうて、独り子をこの世に与えたまいました。いま神は世を憐れみたまいますから、暫くキリスト信者をこの世に置きたまいます。キリスト信者によりて、この世を救いたまいとうございます。
人が反対するのは、その人が識らない証拠です。また、その人の心の闇きことを証拠立てます。神を識りませんから、福音に反対しましょう。今一方から見まするならば、福音は何故その成功がそんなに僅少でありますか。それは神を識りませずして、福音に反対するからです。人間は主ご自身にも反対しましたから、必ずいま神の福音に反対しましょう。この世の最も宗教心のある者は、主イエスに反対して十字架に釘殺ましたから、必ず他の者は、主の福音に反対して、主を十字架上に殺しましょう。私共は或いは福音を妨げられ、或いは福音に反対せられることは、素より覚悟すべきことであります。
主は愛の言をもって、愛の行いをもって、恵みの言と、力ある行いをもって神を顕したまいました。けれども、神の民と称われました者は、主を十字架に釘殺ました。それによりて、人心の闇黒と、神を悪むこととを確かに悟ることができます。その時に神は明らかに人間に、ご自分の愛と、恵みを解り易いままに示したまいました。また誰に現したまいましたかならば、毫も神のことを知らない者でなく、充分神の光を受けました者に、それほどの愛を示したまいました。けれども、そういう人間は、それほどの恵みを拒みました。それによりて人間の生来の闇黒、心の悪しき模様を分かります。
『然ど我と吾が父とを已に見かつ之を惡めり』(二十四)。ユダヤ人は、初めてそのように父なる神と、子なる神を悪むことを示しました。いま福音を聞きまして、それを拒みまする者は、また父と子を悪むことを示します。これは人間の生来であります。私共もこのような恐ろしき心を有っておりました。けれども、神は大いなる恩寵をもって、私共の心を溶かして、私共の闇の中に光を照らしたまいました。今でも私共の四周にある人々は、同じ神を悪む心を有っております。彼らは神を信じません、心の中に神を悪みます。私共の働きは何でありますかならば、その闇き心の中に、神の慈愛の光を照らすことです。
私共はどうしてその光を照らしましょうか。どうして迫害に堪え忍ぶことができますか。主は二十六節にそれに答えたまいます。
聖霊は何のために来りたまいますか。第一に迫害に堪え忍ぶことです。第二にその迫害の中に主を証しする力を与えるためです。第三にこの世の闇黒の中に主の光を照らすためです。『父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである』(二十六)。聖霊は風が己がままに吹くごとく罪人の心の中に証をなしたまいます。『あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである』(二十七)。私共は表面より同じ罪人に対して証をなします。そうですから、証者はいつでも、二人であります。私共は聖霊と共に働きまするならば、いつでもただ一人のみではありません、二人の証があります。罪人の心の中に聖霊の証があります。また私共から表面の証があります。どうぞそれを心に止めとうございます。私共は罪人に対して、談しまする時に、神は同じ時に、その人の心の中に働きたまいます。またそうですから、罪人が急に改めることを待ち望まなければなりません。ただ私共の表面の証だけでありまするならば、幾分か教える時間がなければならぬかも分かりません。けれども、私共の証と同時に、罪人の心の中に光が照りて参りますから、急に改めることを待ち望む筈です。
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