第 八 章
ヨハネ伝第一章より第七章までの大意を求めまするならば、生命と申すことです。三章に生命の初めなる生まれ替わることと、またその生まれ替わることに由りて永生を得ることを見ます(三・十六)。四章において心の中に生命の泉が湧き出ずることを見ます(四・十四)。また五章を見まするならば生命の源は主御自身です(五・二十六)。また六章を見まするならば生命を養う糧は主イエス御自身です。主が実に生命のパンであります。七章において他の人々に生命を分け与えることを見ます(七・三十八)。けれども八章と九章を見まするならば、その顕れたものは生命ではなく光です。『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』(一・四)。初めの『命があった』とは一章より七章までの題意です。『命は人間を照らす光であった』とは八章と九章の題意であります。八章において主が言によりて御自身の光を放ちたまいます。九章においては働きをもって光を与えたまいます。九章において働きをもって光を与えたまいます。九章においては主は人間の眼前に御自分の光を与えたもうことを実見せしめたまいます。すなわち瞽の目を開きたまいます。
八章の始めにおいて主が与えたもう光の中に、パリサイ人は自分の真正の有様を見ました。またこの憐れむべき婦人も深く自分の罪を感じました。主は光をもって罪人に自分の模様を知らしめたまいます。またそれのみならずこの罪ある婦人に御自分をも示したまいます。光に依りてその婦人は自分を悟りまた主ご自身をも悟ることができました。これは光の二種の結果です。
八・二において主は御自分を顕したまいます。八・十三においてパリサイ人は『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない』と申します。全体この八章において主は御自分を証したまいます。他の福音書或いはヨハネ伝のうち他の章を見ましても、これほど確実に御自分を証ししたもうことはありません。このように確実に御自分の有様を証ししたもうことは、他に見出すことはできません。
十二〜十八に主イエスは御自分を証したまいます。いま父なる神は主イエスを証ししたもうことを言いたまいます。主は大胆に信仰をもって、父なる神は不断共に証したもうことを言いたまいます。これは第一の要点です。
『その方から聞いたことを、世に向かって話している』(二十六)。『ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう』(二十八)。そうですから主は御自分のことを言いたまわず、ただ父より見聞せしことのみを言いたもうことを見ます。その教えは自分の教えではなく、父の教えなることを明らかに教えたまいます。これは第二の要点です。
『わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである』(二十九)。主は不断父なる神の尊旨に叶うて、生涯を送りたもうことを証したまいます。これは大いなる証です。その意味は何でありますかならば、わたしは不断父の聖旨に叶うものであるという意です。これは第三の要点です。
『わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ』(四十二)。主は神より出でたもうた者です。このユダヤ人は下より出で、主は上より出でたまいました(二十三)。実に天地の差がありました。これは第四の要点です。
『わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について「我々の神だ」と言っている』(五十四)。父なる神は主を崇めたまいました。主は人間に賤しめられたまいました。けれども父なる神に崇められたまいました。これは第五の要点です。
この証をよく味わいとうございます。主はここに明らかに御自分を言い顕したまいます。またこの証は実に信ずべき証であります。御自分はどういう者ですか、また何処から来った者ですかを、明らかに言い顕したまいます。またこの証は実に信ずべき証でありました。『多くの人々がイエスを信じた』(三十)。これは当然のことです。証拠をもってこれは光であるということを確かめとうございまするとも、できませんかも知れません。けれども光自身はその証です。別に証拠を要しません。光を見る者は何人でも、光であることが解ります。主の証は同じことです。真心をもってそれを聞く者は、必ずそれを信じました。忠実なる心をもって、この八章の証を読みますならば、主は必ず世の光なることが解ります。その時この証を聞きしユダヤ人は多く主を信じました。これはその証が事実に適うたからであります。主の性質、主の行いに適うたる証であるからです。光は御自分の証でした。もしここに通常の人が、我は世の光なり、汝は下より出で私は上より出でました、私は恒に神の尊旨に叶うことを行います、いつでも神に崇められますと言いまするならば、私共はその人は狂人であると言いましょう。必ず愚かなる者であると言いましょう。闇もし自分は光であると言いまするならば、ただ愚かなることです。八章の証もし真実でないならば、ナザレのイエス或いは狂人かも知れません。けれども怪しむべきかな、この証はその性質と行いに善く適いました。そうですからそれを信じなければなりません。『多くの人かれを信ぜり』。それを聞きし者は多く信じました。神より全権公使がこの世に降りたまいました。八章において主は御自分は神の公使なることを証したまいます。おおよそ各国の公使たる者は、最初に自分が真誠の公使たる証拠書を出します。ここで主は証拠を出したまいます。偽りの公使が偽りの証拠書を出すならば大いなる刑罰を受けます。けれども真誠の公使が真誠の証拠書を出すならば、これを信じなければなりません。もしそれを信じないならば、その公使を遣わせし王に対して大いなる罪です。主はここで御自分の証を言い顕したまいます。それが真誠ならば私共は信じなければなりません。それを信ぜないならば父なる神に対しても大いなる罪であります。ここに明らかにナザレのイエスは神の公使であることを見ます。どうぞその思念をもってよくこの章を研究とうございます。ここにあるユダヤ人はこの正しい証を信じなかったのです。現今でも信じない者が多くございます。けれども信じる者は主と偕に永生を得ます。
ルカ十五・一、二をご覧なさい。『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』(二)。主イエスは罪人の友であることが知れました。そうですからパリサイ人はただいま主を陥れとうございます。もし主がその罪人を赦すならばモーセの律法に逆らい、その罪人を罰するならば確かに罪人の友でないことを示します。そうですからいずれに致しましても主は負けようと思いました。
その人々に自ら顧みる機会を与えたまいます。私共は他の人々を審きとうございまするならば、まず始めに自分の心を吟味いたしとうございます。主の前にまず自分の心を査べとうございます。
主が地に描きたもう間、沈黙の中にパリサイ人は、良心がその心中に働き出しました。
良心が働きますから、ついに本節の結果となりました。悉皆出で行きました。
神の愛の働きを見ます。どうぞこの順序をご覧なさい。始めに黙念の働き、次に良心の働き、終わりに愛の働きを見ます。主が一個人を導きたもう時にも、たぶんこの順序に従いたまいます。主はさまざまの方法をもって、私共に黙念させたまいます。或いは病気のため、或いは他の事柄に憑りて、黙念を与えたまいます。それから御自分の言に由りて良心を働かせたまいます。けれども終わりにはいつでも愛を働かせたまいます。
七節の主の意味はこうであります。神の律法は明白です。けれどもただこの婦人ばかり、その律法に従うて左様に残酷に取り扱わねばならぬ訳はありません。ただこの婦人ばかりではなく、あなたがた皆々同じように、律法の光に由りて自分を判断しなければなりません。また神の律法の前に、罪人は他の罪人を審判くことはできません。国の法律を犯したる懲役人は、他の罪人を罰することはできません。
神の律法は明白です。けれども神の律法を行う者は、正義の者でなければなりません。私共各自他の人々を審くよりもまず自分の心を審きとうございます。
神は如何してイスラエル人をエジプトより救い出したまいましたか。当時エジプト人はこれを追跡して、滅ぼしてしまおうと致しました。けれども神は雲の柱をもってイスラエル人を護りたまいました。その雲の柱はエジプト人にとっては黒闇となりましたが、イスラエル人にとっては光明となりました。今ここで同じことを見ます。パリサイ人はこの婦人を追跡して、亡ぼさんと致しました。けれども主は雲の柱となりて、パリサイ人と婦人の間を隔てたまいました。その隔てがパリサイ人には黒闇となり、自分の心に闇いことを覚えました。けれどもこの婦人には光明となりました。
主はこの婦人と共に残りました。罪人はそのままで主の前に留まりまするならば実に福祉です。四章において他の汚れたる婦人が主の前に留まりましたことを見ます。そこにて罪の赦宥と活ける水を得ました。私共は汚れたる罪人でした。また何処にて罪の赦宥を得ましたかならば、主の前に立ち止まりたる時でした。
けれどもこれはむしろ怪しむべきことではありませんか。この義なるパリサイ人、或いは聖書に通暁せる学者輩は、主の前に立つことはできません。主は神の律法の恐ろしき義をこの人々に示したまいました。そういう人々は恐ろしき義の前に立つことはできません。けれども罪人はその前を逃去ません。罪人は避けることはできます。けれども避けません。罪人はこの恐ろしき義を示す主の前に立つことを得ます。何故なれば自らその罪を知ります。そうですから主の恩寵をも了解ります。黙示録六・十六、十七をご覧なさい。これは恐れ多い祈禱会です。これと黙示録七・九を対照なさい。黙示録六章の罪人は神の義を解りまして、山と巌とに叫びます。神の前を逃れとうございます。けれども黙示録七章の救われました罪人は、神の宝位の前に来て立つことを得ます。これは福祉ではありませんか。ただいまそれと同じことを見ます。パリサイ人は神の義を見まして逃れます。パリサイ人のうち一人でも、それほどの義の前に立つことのできる者はありません。けれどもこの汚れたる婦人は主の前に立つことを得ます。私共はそのパリサイ人と一緒に逃れましょうか。或いは自分の罪を白状して、この汚れたる婦人と一緒に羔の前に立ちましょうか。私共は主の前に立ちとうございまするならば、この汚れたる婦人のように自分の罪人であること、汚れたる者であることを承知せねばなりません。出エジプト記二十四・十七、十八をご覧なさい。遠ざかったるイスラエル人の目には神の栄光が燃ゆる火と見えました。けれども近づきを得たるモーセには神の恩寵が明白りました。今ここでパリサイ人には主は燃ゆる火と見えました。けれども近づきを得たる婦人には、主は愛なりと判然りました。私共も同じことであります。神に遠ざかりまするならば、神を懼れます。けれども近づきまするならば、神の愛を感じます。
『わたしもあなたを罪に定めない』。世の審判主はこの言を言いたまいます。私共にもこの恩寵の言を言いたまいます。けれども主は罪人にこんなことを言うために、ご自分の生命を捐てたまわねばなりません。羔は血を流したまいませんならば、この言を言うことはできません。私共のためにもまたこの汚れたる婦人のためにも、ご自分の血を流したまいましたから『わたしもあなたを罪に定めない』と言いたもうことができます。また主は恩寵を与えたまいまするならば、いつでも命令を与えたまいます。『行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。これは主が私共を始め罪を赦されたる者に与えたもう命令です。
今日研究ました七章の終わり八章の始めにおける二つの説話は実に恩寵に充ちております。主は私共の真中に立ちて、『わたしに来て飲みなさい』と言いたまいます。私共はこの婦人のように主の聖前に立ちまするならば、主の赦しを得まして神と和らぐことができます。
旧約において主は光であることをたびたび預言せられました(イザヤ九・二;四十二・六、七)。ユダヤ人はよくこれを覚えておりました。また救い主が来る時には必ず世の光となります。そうですから主は本節のごとく『わたしは世の光である』と言いたもう時に、その意味がよく解る筈です。主はすなわち神より遣わされたる救い主、旧約の預言を成就するメシアなることを知らなければならぬ筈です。けれどもこの世はそれを受けませなんだ。『光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった』(一・五)。原語では受けませんの意味です。
第一に光は智慧を与えます。私共は光に由りて物を弁ります。途を知ります。遠方まで見ることができます。闇におりまするならば何も解りません。光が世に降りたまいました。私共はこの光を受け入れまするならば、受け入れまするほどに頴悟を得ます。物を弁別することができます。或いは来世に行く途、或いは天国、或いは神の性質を知ることができます。
第二に光は喜楽を与えます。闇におりまする時は恐懼があるかも知れません。艱苦があるかも知れません。けれども光が来りまするならば、もう一度喜楽を得ます。ちょうどそのように主がこの世の光なりと言いたもう意味は、私はこの世に喜楽を与える者なりとの意であります。
『わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』。主に従う者は不断心中に生の光があります。周囲に艱苦がありましても、心中に光があります。心中に光がありますから、周囲に暗きがありましても、不断喜ぶことができます。主のこの言は利き剣ではありませんか。私共の心中に生の光がなく、暗きのみがありますならば、信仰が薄くなり喜楽が少なくなります。何卒もう一度主のこの堅い約束を信じて、光を受け入れとうございます。
パリサイ人は『その証しは真実ではない』と申します。けれども主は『その証しは真実である』と仰せたまいます。それは『自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ』。このために主の証は真誠であります。公使は何処より来り何処へ往くかを知っております。自分は王より遣わされし者、また王の命令、王の心をよく知っておりますから、確信をもって異国に参ります。そうですからその証は信ずべきものです。
『あなたたちは知らない』。知りませんから私を審判くことはできません。
『わたしの父をも知らない』。これは実に大いなる訴えでした。ユダヤ人は常に自分は神を識る者であると言いました。神の黙示を得たる選民なることを始終申しました。けれども主は『あなたたちはわたしの父をも知らない』と言いたまいます。旧約に顕された神を知りまするならば、必ず主は神と等しくあることが判然りましょう。主は神と同一の精神、同一の権能、同一の愛を有っていたもうことが判然りましょう。そうですから旧約の神を信ずるならば、必ず主イエスをも信ずる筈です。けれども『あなたの父はどこにいるのか』と尋ねます。主は父なる神を説教したまいました。けれどもユダヤ人は、そんな神は私共の信ずる神と異なれりと言いました。『あなたの父はどこにいるのか』。それによりて爾曹は旧約に現されたる神を知らずと仰せたまいました。
十二〜二十の大意は主は御自身を証したまいます。御自身の光なることを証したまいます。また二十一〜二十六を見まするならば、主はユダヤ人にその人々の模様を示したまいます。光は罪人の心を照らします。旧約の光を見まするならば、イスラエル人を導く焔の柱を見ます。主はここでもう一度その話を引きて、我は汝らを照らす焔の柱なりと言いたまいます。始めに光の中に御自分を顕し、次にその出されたる光線に由りて、罪人の心を照らしたまいます。
『自分の罪のうちに死ぬことになる』。これは実に烈しき訴えでした。
『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している』。光は罪人の心を照らします。
いま光はなおなお罪人の心を照らします。わが審判は真です。ただ神より聞きたることを言いますから、わが証は真であるという意味です。
二十八節はその時に救われる機会がありませんという意味です。『あなたたちはわたしを捜すだろう』(二十一)、『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない』(七・三十四)と同じ意味です。
実に強烈い預言です。いま恩の機会に主を拒んで、その恩を受けませんならば、未来において主の恩を求めるとも得られません。箴言一・二十四、二十八をご覧なさい。これは父なる神の言です。いま主は同じことを引きたまいます。それに由りて何を示したまいますかならば、自分は父なる神と等しくあることを示したまいます。『人の子を上げたときに』。あなたがたは人の子を拒んで十字架に釘けし後に、すなわち全く救い主を辞りました後で、これは救い主であることを知ります。けれどもその時はもはや救いを得るには遅うございます。主はかく仰せたまいました。現今の罪人は同じことです。現今は主を拒み、主を辞ります。けれども未来において主は唯一の救い主であることを悟ります。その時には如何に悲しみ嘆きましょうか。
光の中に光を見ました。光に由りてこれは光であることが解りました。詩篇三十六・九をご覧なさい。『あなたの光に、わたしたちは光を見る』。ダビデの言いし時は父なる神を指します。けれどもいま同じ言はイエスを指す意であることを見ます。そうですからそれに由りて父なる神、子なる神の一つなることが解ります。主イエスの神なることを見ます。『あなたの光に、わたしたちは光を見る』。いま三十節を見まするならば、ユダヤ人は主の光に由りて光を見ました。
二十四、二十八節にある『彼なる』という語は原語の我有るという意味でありまして、出エジプト記三・十四の『有て在る者』と同じ名前です。主はそういう神の名前を用いたまいます。ユダヤ人は極めて厳粛にその名前を言います。その名前を言うことを畏れて大抵の場合には申しません。これは神の極めて厳粛なる名前であります。けれども主はただいまご自分は神、すなわち有りて在る者なりと言いたまいます。また爾曹はそれを信じませんならば救われないと言いたまいます。主はそれよりも勝りてご自分の神たることを言い顕すことはできません。ユダヤ人の中ではこの言は一番強い言です。ユダヤ人はそれを聞くならば必ず心に感じます。その言について何卒イザヤ書四十三・十〜十二をご覧なさい。『わが主なるをさとりうべし』。我ある者なるを悟りうべし。『神なり』。在る者なり。『我のみ我はヱホバなり』。われのみわれは彼なり、有りて在る者なり。
ただいま研究ましたことに由りて、主は世の光なることを見ます。十二節より二十節までにおいてその光の中に主イエスを見ることができます。主は如何なる方に在すかが解ります。二十一節より三十節までにおいてその光の中に人間の模様が解ります。自分は如何なる罪人なるかを知ることができます。私共はこの二つのことを悟りますならば、他の悟りは要りません。神を悟り人間を悟りますならば、他の知識、他の悟りは要りません。何卒主の光に由りて、主の光の中に、明らかにこの二つのことを悟りとうございます。
もう一度二十三節をご覧なさい。神の光は明らかに罪人の模様を示します。十七・十四をご覧なさい。『わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです』。そうですから今この二十三節はただ主イエスのみを指しません。上より出る者は何人ですかならばただ主イエスのみにあらずして、信者皆々同じように上より出たものです。三・三において新たに生まれることを見ましたが、原語では上より生まれるの意味であります。私共はそのように上より出たるものです。私共は罪人たるときには地より出たる者、世に属ける者でした。けれども生まれ替わることに由りて、上より来る者となりました。『わたしたちの本国は天にあります』(ピリピ三・二十)。既に世に属ける者でなく、天に属ける者であります。ヨハネ壱書四・四〜八をご覧なさい。ここにも同じ区別を見ます。神より出たる者は勝ちを得ます(四)。また神より出たる言葉を言います(六)。世より出し者はその言うところも世より出しものです(五)。神より出たる者は必ず愛に充たされます(七、八)。世より出たる者は愛なき者です。以上を三つに区別することができます。神より出し者は第一に勝ちを得ます。第二に天に属ける言を言います。第三に愛を有ちます。けれども世より出たる者はちょうど反対です。
神の子供と世に属ける者とはその根本が違います。一は上より出で、一は下より出ず。そうですから素生が違います。また現在の模様も違います。一は世に属ける者、一は天に属ける者です。またその未来往く処も違います。『あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる』(二十四)。けれども私共は天に往きます。そうですから神の子供たる私共は世に属ける者とは全然違う筈です。もし違いませんならば、未だ天に属ける者とはなりません。すなわち素生も現今の有様も未来往く処も違います。
このユダヤ人は真実に主を信じたる者でした。けれどもその信仰がよほど薄弱うございました。そうですから主はその信仰を祐けるために、この導きを与えたまいます。主はここで五つの要点を言いたまいます。
第一 信ずること
第二 道におること
第三 弟子なること
第四 真理を識ること
第五 自由を得ること
これは主を信じて救いを得る五つの大切なる階段であります。何卒これを深く味わいとうございます。
第一は主イエスを信ずることです。
第二の『わたしの言葉にとどまるならば』。これは十五・七、十と同じことです。またコロサイ三・十六の『爾曹の心に存て充足しめ』と同じことです。例えば私共は初めて生まれ替わりました時は、主はわが罪のために死にたまえりと解りました。私共はそのことに留まらなければなりません。このことに留まりませんならば、疑惑或いは恐懼が起こって参ります。信仰が動揺きます。道に留まるとはどういうことでありますかならば、常住不断主はわがために死にたまえりと心に留めることです。その道を保つことです。例えば私共は主に聖き心を求めてこれを受けましたならば、キリストの血すべての罪より我を潔めりという道に留まらなければなりません。疑惑と恐懼を少しも許さず、また徒らに感情に非ずして、その道を心中に有たなければなりません。そうですから私共は始めに信ずることを教えられねばなりません。次は道におることであります。信者の生涯は何の力に由りて強くなりますかならば、その道を保つことに由りてであります。その道を保つことは実に活ける生命であります。
第三『本当にわたしの弟子である』。救われし者悉く主の弟子でありませんと思います。使徒行伝を見まするならば信者の名が四種あります。第一は信者です。たとえば二・四十四、四・三十二にあるごとくです。第二に兄弟と申します。たとえば十五・一、三、二十二、二十三、三十三において見ます。第三は弟子です。九・一、十一・二十六、十九・一、二十・一において解ります。第四は聖徒であります。九・十三、三十二、四十一をご覧なさい。このように何人でも信者は四種の名前を有たなければなりません。けれどもみな悉くそんな者でないと思います。信者とは信ずる者の名を指します。けれども教会の中で信じない信者がありませんか。私共でもたびたび神の約束を信じないことはありませんか。兄弟とは愛を指す名前です。信者はみな一家族のものであります。弟子とは何人の弟子ですかならば、主イエスの弟子を指します。決して使徒の弟子にあらず、他の者の弟子にあらず、ルカ十・三十九にあるマリアのように主の足下に座りて、直接に主の教誨を聴く者であります。これが弟子の心です。性質です。また聖徒とは潔められたる者である筈です。身も魂も主に由りて潔められたる者であります。どうぞこの四種の名前を心中に受け入れとうございます。またこれも信徒の心霊上の四つの階段であると思います。
これに由りて誠にわが弟子なりと主の仰せたまいし意味が解ると思います。初めて主を信じたる時から弟子と称れます。けれども真実にその名に従う弟子とは、主の足下に座り、虚心をもって主に学ぶ者であります。マタイ十一・二十九の『わたしに学びなさい』とは真実の弟子の心です。イザヤ五十・四『主ヱホバは敎をうけしものの』、これが真実の弟子です。
第四『真理を知る』。真理を信ずることと真理を識ることは違います。初めにそれを信じなければなりません。けれども漸次進んで、ついにそれを識るようにならなければなりません。真理を識ることとは明らかにその事実を見ることです。心中にそれを見ることです。ヨハネ十四・十、二十をご覧なさい。『信ぜざる乎』。『知べし』。十節は信ずることです。二十節は知ることです。ホセア書六・三を引照なさい。『われらヱホバをしるべし 切にヱホバを知ることを求むべし』。真理を知り明らかにその真理を見ることです。コロサイ一・九の『神の旨を知り』。これは信ずることにあらずして知ることです。コロサイ二・二をご覧なさい。『全き頴悟の富を得かつ父なる神とキリストの奥義を知て』。これまた真理を識ることであります。
第五『自由を得』ます。今まで罪の奴隷でしたならばその罪より自由を得ます。今まで恐れと疑いの奴隷でしたならばその恐れと疑いより自由を得ます。今まで人間の説に支配せられてその奴隷でしたならばいま自由を得ます。今まで肉慾の奴隷でしたならばいま自由を得ます。真理に由りて自由を得ます。さきに光のことを申しましたが、本章は光についての教えです。真理も光も同じことです。主はこの世の光なり、また真理なり。この二つの意味はいずれにいたしましても違いませんと思います。同じ霊なる意味であります。真理が自由を与えることと、光が自由を与えること同じことであると思います。たとえば闇の中では歩行することも活動することもできません。もししかいたしまするならば恐れと疑いがあります。けれども光が来りますならばそのために恐れと疑いは全く失せて、自由に歩行し活動することができます。この自由についてローマ書八・二をご覧なさい。真理は自由を与えます。真理は力ある者です。生命ある者です。これは知識のごときものではありません。生命の種です。或いはガラテア五・一を引証なさい。
以上五つの階段を考えてまするならば、第一第二は信仰のことです。第三第四は悟りです。第五は自由です。この信仰と悟りと自由は信者心霊的生涯の順序であります。
この人々はそれを解りません。また主に答えます。これは信者ですが静かに主の言を受け入れずに却って主に答えます。私共も同じようにたびたび主に答えることがあると思います。もしこのように主を拒みまするならば、必ず恩を受けることはできません。その誤謬は何処より来ましたかならば、特権と経験の区別が判然らないからであります。このユダヤ人は大いなるアブラハムの裔でしたから、特権を有っております。けれども経験はどうですかならば、誠に乏しうございます。もしその特権に伴うたる経験がありますならば、必ず自由を得たのであります。現今でも多くの信者はたびたび同じ過失に陥ります。私共は聖書を読みますから、大いなる特権を見ます。喜悦の特権、力の特権、平安の特権、その他種々の特権を見ます。けれども自分の心を省みませずして、自分はそれを得たと思いますることは、実に恐ろしきことであります。兄弟よ、あなたの経験はどうですか。真実にその特権を得ましたか。これは極めて大切なる問題であると思います。またここに他のことを見ます。この人は自分の罪人なることを承知します。けれども罪の奴隷なることを承知しません。人間はたいてい自分の罪人なることを諾します。けれども罪がその主人であること、またそのために自由なる生涯を送ることのできないと言うことを拒みます。却ってこのように『今までだれかの奴隷になったことはありません』と申します。けれども救いを得とうございまするならば、自分は罪人なることを知らなければなりません。またそれのみならずなおなお謙遜をもって、自分は罪の奴隷なること、すなわち罪はわが主なることを諾せなければなりません。
主は標準を与えたまいます。実に利き剣です。私共の心の特権と経験の区別を曉らしめたまいます。これに依りてどうぞ自分を判断いたしとうございます。『罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である』。そうですから凡そ人間は如何なる特権がありましても、熱心なる教役者でも、聖書を知悉しましても、悪を行う者は悪の奴隷です。またそれはすべての悪事を行う者のみではありません。ただ一点において悪を行いまするならば、その人はやはり悪の奴隷です。
悪魔の家もあります。神の家もあります。凡そ悪魔の家におる者はみな悪魔の奴隷です。神の家におる者はみな自由なる神の子供です。いま悪魔の奴隷は安らかに悪魔の働きを行います。けれども恒に家におりません。恒にこの世におることはできません。この家より追い出されて後にその行いの報いを受けなければなりません。けれども神の子供は不断父なる神の家に留まります。悪魔の奴隷は現今は家におります。悪魔はその主人ですから自分の奴隷に快楽と平安を与えます。いま罪人の模様をご覧なさい。悪魔はただいま主人です。けれども未来において悪魔は地獄に追い出されまして、そこでは自由でありません。また自分の奴隷に快楽と平安を与えることもできません。現今奴隷は悪魔の家に留まりて、悪魔の手より快楽を得ます。けれども奴隷は恒に家におらず、子供は恒に家におります。そうして神の喜楽と平安を頂戴することができます。そうして今から永遠おることができます。私共は父の家を出なければならぬ理由はありません。永遠父の家におることができます。
三十五節の子は何人をも指します。本節の子はただ主イエス、神の独り子を指します。『誠に自由を得べし』。また前には『誠に我弟子なり』(三十一)。この誠に自由を得べしとは、想像の自由ではありません。経験の自由です、実地の自由であります。
私共は以上に述べました五つの階段を経験したる者でしょうか。主はこのように幼稚の信者をば高い経験に導きたまいます。どうぞ自分を省みとうございます。私共はこの悟りと自由を得たる者なるや否やを知りとうございます。主は私共にこの言を与えたまいます。これは順次信仰に進む導きです。もし未だ真に自由を得ませんならば、どうぞ得るまで求めなければなりません。
三十七〜四十四に父なるアブラハムと、父なる悪魔と、父なる神のことを顕します。ユダヤ人はアブラハムの子供は必ず神の子供であると思いました。けれどもいま主が示したもうごとく、アブラハムの子でありましてもその中に悪魔の子もあります。また神の子もあります。いずれもあります。
このユダヤ人は肉においてはアブラハムの裔です。また主を十字架に釘けることの源は何でありまするかならば、主の道が彼等の中に留まりませんからです。私共は主の道を拒みまするならば、主を十字架に釘ける罪の萌芽です。その罪が実を結びまするならば、主を十字架に釘けます。
私共の行いには必ずこれを行わせる父があります。或いは父なる神、或いは父なる悪魔です。神が私共の父ですならば、『わたしは父のもとで見たことを話して』います。もし悪魔が私共の父ですならば、『あなたたちは父から聞いたことを行っている』。私共の思いと行いとには父があります。このユダヤ人はアブラハムは自分の肉体の父ですから、自分は神の子供であると思いました。けれども『アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ』。アブラハムの行いは何でありますかならば神の聖声を聴くことです。神の聖声に従うことです。身も魂も神に献げることであります。いま神は世の中にもう一度聖声を聞かしめたまいます。けれどもユダヤ人はそれを聞きません。それによりて自分は真実にアブラハムの子にあらざることを示します。三十九節の主の言は、語を換えて申しますれば、爾曹もし神の子ならば神の子の行を行うべしとの意です。人間は行に由りてその素生が知られます。それによって自分の心を判断することができます。
アブラハムは喜んで神の真理を聴きました。
それに由りてマラキ書二・十、十一をご覧なさい。今も同じようにユダヤ人は口ではわが神は一つなりと申します。けれども心中に神に対して姦淫の罪を犯しております。
私共は真実の神の子供ですならば、神を愛する筈です。主は神の使者です。『神がわたしをお遣わしになったのである』。すなわち神の尊旨により来るものであります。
この人々は主の言いたもうことを知ることができません。何故ならば心の中に主の声を聞くことができませんからです。いま私共が聖書を理会とうございますならば、心中に神の聖声を聞かなければなりません。ユダヤ人は主の表面の言を聞くことができました。けれどもその真の声を聞くことができませなんだ。
悪魔は殺す者です。また誑る者です。いまユダヤ人は主を殺さんと謀ります。また神の真を受け入れません。そうですからこの二つのことのために己は悪魔の子であることを示します。もし私共の心中に、幾分かこの二つの罪がありまするならば、それほど悪魔の種子を受けたる者であります。本節において悪魔の性質が解ります。『真理がないからだ』。そうですから最初に悪魔は真理におりました。けれども久しくそこに留まりませなんだ。『自分が偽り者であり、その父だからである』。ただ自分が罪を犯すのみならず、罪の父です。他の人に同じ罪を負わせました。どうぞここで悪魔と主を比較とうございます。主は真理です。悪魔は誑る者です。主は人間に真理を与えたまいます。真理の種を与えたまいます。悪魔は誑りの種を与えます。悪魔は死を与える者です。主は生命を与えたもう方です。死を与えることの源は憎悪です。生命を与えることの源は愛です。悪魔は憎悪です。主は愛です。その時のユダヤ人の前に、またいま私共の前に、この二つの者があります。悪魔と主イエス、ああ私共はいずれを撰びましょうか。
この人々は悪魔の誑りを信じました。けれども神の真理を信じません。悪魔の子は悪魔の言うことを心中に受け入れます。神の子は心中に神の言いたもうことを受け入れます。コリント後書四・四をご覧なさい。ユダヤ人はかくの如く悪魔に依りて心を昧まされたる者であります。そうですから誑りは真理にして、真理は誑りであると信じました。これは実に恐るべき心の模様です。真理と誑りを弁別することができませんならば、実に心の昧まされたる者です。いま教会の中にこのようなユダヤ人がたくさんあると思います。表面で神に仕えます。表面で神の真理を受け入れます。或いは聖書を読みます。けれども真実に心の中に神の真理を受け入れません。それに由りて悪魔の子なることが解ります。
主には毫も罪と汚れの分子がありませんから、この人々は主を信ずる筈でした。何人でも主は罪のなき者であることを見ることができますから、主の言いたもう真理を信ずる筈でした。
神より出し者、すなわち生まれ替わりし神の子供は、神の言を聞きます。それは正しき証拠です。私共は真実に生まれ替わりましたか否やを定めとうございまするならば、本節によってそれを定むることができます。神の子供は神の言を聞きます。その人は喜んで神の真理を受け入れます。喜んで聖書を受け入れます。また心中にこれは神の聖声なることを知ります。
『裁きをなさる方が、ほかにおられる』。すなわち神はわたしの栄を求めたまいます。わたしを軽んずるものは必ず神より審判を受けるという意です。
五十節に『裁きをなさる方』とありますが、その罪の価は死です。けれども『わたしの言葉を守る』者は窮なく死を見ません。神はそういう人を救いたまいます。無罪と定めたまいますとの意です。
私共は七、八両章において、実に洪大なる恵みを受けることができます。さきに申しましたように、これはみな同じ節の時に言いたまいましたことです。七・三十七に主に由りて生命の水を受けます、満足を得ることができます。八・十二に生命の光を受け入れることができます。八・三十六に自由を受けます。いま五十一節に永生を得ます。心の満足、光、自由、永生を受けることができます。これは実に大いなる約束です。けれどもユダヤ人はそれを受け入れません、却って主を軽んじ拒みます。
そうですから主イエスはアブラハムの望むところの者でした。また慕うところの者でした。ユダヤ人はアブラハムの心に同情を表しません。主はこの時に漸次ご自分の栄光を言い顕したまいます。十二節にご自分は世の光なりと言いたまいます。二十三節に上より出たる者なることを言いたまいます。五十一節に永生を与える者なることを言いたまいます。そうして五十六節においてアブラハムの慕うところの者であることを言いたまいます。順次この五十八節の黙示に導きて近づけたまいます。
『アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」』。この『ある』者とはヱホバと同じ意です。我はヱホバなりと言うことと同様です。ユダヤ人にはその意味が能く理会りました。そうですから主は確かに神の聖名みなを汚けがす者であると思いまして、石をもって打たんと致しました。
主イエスは本章において、漸次だんだんご自分の栄光を示あらわしたまいます。けれども示あらわしたまいますれば示あらわしたもうほど、ユダヤ人びとはそれを拒みついに殺そうとするまでに到りました。今でも同じことを見ることができます。主はいま教会の中うちに、漸次だんだん明らかにご自分の栄光を示あらわしたまいます。我はヱホバなりというこの大いなる言ことばに、漸次だんだん近く私共を導きたまいます。その完全まったき栄光を示しめすように、近づけたまいます。或る人はそのように導かれますならば、却かえってますます主を拒みます。或る人はその黙示に従うて、漸次だんだん主を信じてついにわが主よわが神よと跪ひざまずきて叫ぶことができます。わが身も魂も一切の栄光さかえも、爾なんじのものなりと叫ぶようになります。私共は如何にして主の栄光を見ることができますか。このユダヤ人は最初に主を拒みましたから、主が明らかにその栄光を彰あらわしたまいました時にも、信じて受け入れる力がありません。いま聖書に由よりて神は明らかに栄光を示あらわしたまいます。私共はそれを受け入れますか。もしそれを受け入れまするならば、神は漸次だんだん完まったき黙示を与えたまいます。主の言に由りて黙示を受けます。四十三、四十七両節をご覧なさい。これが第一の階段です。神の言を聴くことです。心の耳に由りて聴くことです。五十五節をご覧なさい。これが第二の階段です。その言葉を守ることであります。最初はじめに聴き次に守ることです。或いは三十一節の『わたしの言葉にとどまるならば』。これは同じ意味です、言を守ることです。そのように心中しんちゅうに言を守りまするならば、五十一節のごとく永生かぎりなきいのちを得ます。また漸次だんだん主の栄光を見ます。けれどもこの人々は本章において、主の言を拒みました。九章において主は働きを為なしたまいました。ユダヤ人はその働きをも拒みました。十・三十一、三十九両節を見ますならば、もう一度石にて主を打たんと致しました。そうですから本章において言を拒み、九章において働きを拒みました。十・二十五をご覧なさい。言葉と働きの証拠を見ます。
言ことばを信じませんから働きを示しめしたまいました。十・三十八をご覧なさい。『その業を信じなさい』。主はともかくも信ぜしめたまいとうございます。初めに言を与えたまいます。けれども言葉を信じませんならば、働きを与えたまいます。ともかくも信ぜしめたまいとうございます。私共は主の言を信じまするならば、主の喜びたもう完まったき信仰です。もしそれができませんならば、主の働きを信じましても信仰です。けれどもどうぞ最初はじめから、主の言を信じとうございます。十四・十をご覧なさい。これは主の言と行いと一緒に主を確かめます。また十五・二十二〜二十四をご覧なさい。二十二節において言を拒み二十四節においては行いをも拒みます。主は最初はじめユダヤ人びとに言を与えたまいました。けれどもそれを信じませんから、なおなお明らかなる証拠すなわち行いを示したまいました。けれども二つながら拒みました。私共はたびたび主の言を信じません。主の行いを待っております。主の約束を信じません。その約束を経験しまするならば、そのために信じます。主が感情を起こしたまいますならば、或いは表面うわべの眼まなこに見ゆるように為なしたまいまするならば、始めて信じます。これは完まったき信仰ではありません。主は始めに言を与えたまいます。どうぞそれを信じとうございます。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
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