第 一 章
この書の始めの一・一〜十八は緒言であります。そうしてこれを細別しますれば、
一〜四は主イエスの栄光
五〜十一は主イエスの拒まれたまえること
十二〜十八は主イエスの受け入れられたまえること
であります。そうしてヨハネは第一、主の栄光を記すにこれを道と申しました(一・一)。次にこれを造物主とし(一・三)、次にまた生命の源であると致しました(一・四)。どうぞこの発端を深く味わいとうございます。ここに産みたまえる父母を見ません。永遠の昔より存在したまえる御方を見ます。ヨハネはかく主イエスの神たる栄光を発揚しました。神たる権能を顕しました。ヨハネが第一着にこれを記しましたことは、大いなる理由があります。私共はこの一、三、四節の味わいを心にしたためて、この書全体を味わいとうございます。ここに主は神と偕に在したまいます。そうして以後、人と偕に在し、人と偕に歩みたもうて、人に恨まれ、悪まれ、審判せられ、殺されたまいました。そうしてこれは、神と偕に在したもうた主であります。ここには造物主であります。けれどもこの主は造られたる人の中に降りたもうて、宿る処なく人に拒まれて、殺されたもうたのであります。主の一生涯を見ます際に、このことを心に蔵めておかなければ、多くの意味がありません。福音書を通読まする際に常に、そこに示されたる主はこの主であることを、あらかじめ承知しなければなりません。
『初めに言があった』。創世記の始めにも、太初なる語があります。その太初は、眼に見ゆる天地のはじめ、すなわち限りあるもののはじめです。けれどもここの太初は天地の造られざる前、限りなきはじめであります。そうして道が永遠のはじめより存在したもうことを示します。これと同時にまた、間接には、新天新地の創造を意味します。第一の古き開闢は罪に汚れました。主はここに新しき天地を、罪に汚れたる旧天地の中より創造りたまいました。そうしてこの新天地の根元は、旧天地の造物主なる主イエスであります。箴言八・二十二、二十三に、智慧は『永遠より元始より……立られ』たりとあります。そうしてこの智慧は主イエスを示します。ここと同じ意味であります。智慧なる主イエスは造物主でありますから、同三十二、三十三において、我に聞け、我を見よ、我に倣わざるべからずと、権威をもって命じたまいました。
第一 神の道たること
『道』、私共は心を知りません。けれども言語ありてこれによって心をも知られます。獣の心は人が知ることはできません。これと同じように神の情は人に知られません。けれども神は人に対して、これを知らしむるために道を用います。神は人に語り、人は神に聞きうるために、主イエスは神の全き心の発表となりたまいました。この天地も歴史も神の情を語るに足りません。ただ神はキリストによりて語り出されたまいます。そうして私共は、この道たるキリストを心に受け入れることの特権を得ました。神の情を聞きうるものとなりました。
第二 神と別にして同位なること
『神と共に』、この神と共になる語は、『道』は活ける一つのペルソナ、三位一体の一位であることを示します。私共の言語は私共の一部分でありますが、この道は神の一部にあらずして、全く別な方です。道は即ち神なり。啻に神と偕に在すのみならず、神と並んで在す同じ智慧と同じ権能を有ちたもう方なることを示します。
第三 別なれども最も親密なること
二節の『神と共に』なる語は、一節の『神と共に』とは異なるところがあります。このところは、すなわちその同位なる道は、神と偕に在して最も親密なる交際あることを示すものであります。
以上三つの事は、主イエスについて最も大切なことであります。
主イエスの奇蹟は怪しむべきことではありません。造物主が世に降りて奇蹟をなしたもうことは、的然たる理合であります。万人の望むところであります。エペソ三・九、コロサイ一・十六、ヘブル一・二にも主が造物主なることを示します。けれども万物の造り主が世に来りて人と共に宿り、人と共に寝食したもうことは、怪しむべきことではありませんか。彼は人に拒まれたもうたる時にも、柔和をもってご自分を人に委ねたまいました。全き従順をもって十字架の上に死にたまいました。そうして彼は人を造りたまいし主、万物の主であります。私共は大いなる感じをもつべき筈であります。
『言の内に命があった』。生の泉源はことごとく主イエスより来ります。あるいは人の生、あるいは天使の生、あるいは禽獣草木の生、これみな主イエスより来ります。石ですらまた生があると思います。草の生えるのを見ましても、主イエスの生を見ることができます。主は、唯一度、生を与えて、これをその運行に委せたもうたるのみならず、絶えず絶えずこれを保ちたまいます。詩百四・二十九、三十に、主面を覆いたまえば万物皆死せんとあります。天地を造りてこれにそれぞれの生を与えたもうたる主は、今もなおこれを保ちたまいます。ナザレのイエスは生の源であります。私共の霊に生を与えるために、源の封印を切りて死にたもうたる方であります。生なきものは生を知ることはできません。人間はこの生を究めることはできません。いかなる学者でも、いかなる医者でも、知るあたわざるものです。生は神のごときものであります。
生あればまたこれに伴うて光がある筈です。生は人の光であり、人の喜楽であり、人の幸福であります。天国において、羔羊なる主は城の燈ですから、日月の照らすことを需めずとあります(黙示録二十一・二十三)。主はかく永遠の後にも、今にても、また汚れるこの世界にてもまた聖なる天国においても、生の源であります。主の在すところには生あり、光あり。ヨハネ伝を通して生と光なる語を研究まするのも、はなはだ有益なる研究であります。
主イエスの栄光はかくのごときものであります。しかるに五〜十一を見ますならば、この輝けるものが人の中に来りたまいましたのに、人はこれを退けました。神は人に近づきたまいましたのに、人はこれを棄てました。光は暗に照り、暗はこれを悟りません。実に世は神を悪む世であります。神を悪む世は恐ろしき世ではありませんか。世の始めからこの有様であります。愛なる神を見ても、人はこれを悪みます。暗は人を覆い、人は愛の光を弁え得ません。神はこの世の造り主でありまするのに、この国に対しては異邦人であります。神は、この美しきご自分の世界において賓旅の姿であります。
『光は暗闇の中で輝いている』とは旧約時代の有様であります。暗黒なる旧約時代にも、主は光を放ちたまいました。
九〜十一もまたこれ旧約時代であります。すなわち旧約時代にも主イエスは世に在したまいました。いかなる時にも、いかなる処にも、神は来りたまいました。異邦人サレムのメルキゼデクも、東の国のヨブも、神の光の中にありました。ダニエル書によりますれば、ネブカデネザル王も神を認めました。みな神と偕にありました。東の方より来りし博士たちは、求めて主を知ることを得ました。主イエスは旧約時代においても、造りたまいしご自分の国に来りたまいました。何人でも求めますれば主を知ることができます。けれども暗はこれを悟らず、世はこれを知りません。されど主が肉体となって顕れ、全き救いを示したもうまで、『多の區別をなし多の方をもて(ヘブル書一・一=元訳;by divers portions and in divers manners =英改訳)』真の光を示したまいました。
『まことの光』(九)は人を照らす光、三・十九、九・五、十二・四十六にこれを説明してあります。
主を受けました者は神の光に充たされます。或る人はこれを拒みました。けれども或る人はこれを受け入れました。ただいま新約の私共は、何人でもその恩寵に与ることができます。これは実にハレルヤではありませんか。赤児は生まれますとすぐに父の子です。子たる名分があります。されど父の権威を受け持つことは、いよいよ成長したる後であります。私共は神の子を受けて神の子となります。けれども始めは赤児でありまして、神の子の力がありません。けれども彼を受け、その名を信じますことによりて、いよいよ進んで成育し、神の子たる実権を有つものとなります。これは、絶えず神の子をわが衷に宿すによりて得べきものであります。
十四節に至りて新約時代となります。
九〜十一は旧約時代でありますが、また現時不信者社会をも指すものであります。とにかく詩八十一・十一、イザヤ六十五・二はこの九〜十一を示したるものであります。
一節には永遠の太初より、三節には開闢において、五節には罪の中において、十、十一節には旧約時代において、それぞれ神は大いなる働きを示したまいました。けれどもなお聖きは汚されて、罪の洪水は打ち消すべくもありません。これらの神の働きは一切無益のようでありました。そうですから新天新地の元始として、十四節があります。マルコ十二・六はこれであります。これまでは神はその僕を遣わしたまいました。彼らによりてご自分を示したまいました。けれどもここに至りてついにその愛子を送りたまいました。彼はなお旧約時代と同じく僕の貌をとり、人のごとく顕れたまいました(ピリピ二・七、ヘブル一・一)。或る人は、主を見て少しも美しき容なしと申しました(イザヤ五十三・二)。けれども肉体の中に宿りたまいしものは神の聖意に適う愛子、その喜びたもう御方ではありませんか。コロサイ一・十五〜十八、黙示録一・五には『すべてのものよりも先におられ』『死者の中から最初に復活した方』、またヘブル一・六には『長子』として記されてあります。これらは造られたる者、甦りたる者、私共の兄弟、神の生みたまえる長子としての主イエスの栄光を示したるものであります。けれども一・十四においては、永遠の初めより在したもう造物主、父の生みたまえる独り子の栄光を示します。
主は、父の生みたまえる長子としては、われわれ人間がついに受くべき嗣業と栄光の模型で在したまいます。けれども父の生みたまえる独り子としては、神たる父と同じ位、同じ栄光の子たる神で在したまいます。この光によりてヨハネ三・十六の意味は実に深遠であることを知ります。黙示録十九・十四において、天開けて白馬に乗りて来る神の言の権威と栄光を示されました。私共は今これを知り尽くすことはできません。明らかに知り得られません。けれども来世においてはよくこれを見ることができます(ヨハネ十七・二十四)。肉体をもって来りたまいました主は、二・十一において栄光を顕したまいました。また同じく九・三、十一・四、十三・三十一においていよいよ多く栄光を顕したまいました。そうしてこれらはみな主が御在世中の栄光であります。今日においては多くの人はこれを見ません。けれども来るべき時には何人もこれを見ると思います。イザヤ四十・五は成就されるべきことであります。
十五節は括弧の中にありまして、十六節は十四節より直ちに続きます。
主は十四節にありますように恩寵と真理に充ちていたまいますから、私共はこの充てる中より与えられて生と光を受けます。すなわちコロサイ二・九のごとくです。神の充ち足れる徳はことごとく形体をなしてキリストに住み、私共はキリストにありて全備することを得ますから、エペソ三・十六〜十九の祈りをすることができます。
律法によりて私たちの理想、達すべき目標を教えられました。今、恩寵と真理によりてこれに達することができます。これまでは律法という影を与えられました。例せば律法によりて安息を命ぜられました。けれども真正の安息はただ主イエスによりて得られます。律法によりて年々、燔祭、罪祭、酬恩祭などを命ぜられました。けれどもこれはただ影であります。祭の真正の意味と力はいま主によりて成就せられました。主イエスは影でありません。模型でありません。本体であります。真理であります。主は旧約にある儀式を成全し、律法を成就なしたまいます。その中に充ちたる恩寵と真理により、私共は生命と光を得て全き人となることができます。
『ふところにいる』とは最も親密なる愛を示します。十三・二十三の『懷に倚て』とあると同じ語であります。ヨハネは常に主イエスの懐にありましたから、主イエスを示すことができました。神は私共にご自分の情を語らんがために、その懐より最愛の子を離したまいました。神は人を愛するために、彼を捨てて彼に由りてその愛を顕したまいました。神は全き愛を示しとうございますから、かく親しき交ある懐の子によりて、ご自分を顕したまいました。主イエスは父の懐にありて天の中心であります。けれどもこれを離れてはまたこの汚れたる世においてその中心となりたまいました。主は実にこの世の中心であります。十字架にありては二人の盗賊の間に中心でありました。そうして二、三人の信者の集会の中心であります(マタイ十八・二十)。後にはまた来るべき栄光の王国において中心となりたまいましょう。羔羊は栄光の国の中心であります。讃美、尊敬、栄光、権力の帰すべき処であります(黙示録五・十三)。この父の懐にありて天国の中心なる主は、今、人の心の中心となり源となりたまいました。そうですから父を私共に示したもうことができました。主ならではそれができません。子の外に父を示す者なし(ルカ十・二十二)。また子の外にこれを人に示す者はありません。この荘厳なる天や地は真に神の工を示してあります(詩十九・一)。けれども神ご自身は決してこれによりて知られません。これを知るにはどうしても神の子を待たねばなりません。『いまだかつて、神を見た者はいない』の語は、このほかに第一ヨハネ四・十二にもあります。ここには神は主イエスによりて顕されました。けれどもかしこには主を顕す者は私共であります。主イエスの懐にありましたヨハネは主を顕しました。父の懐にある者でなくば父を顕すことはできません。父を顕すべきこの大いなる責任ある私共は、これを成全するためにぜひ父の懐にあらねばなりません。この大いなる責任、この尊き栄光を思うて、どうぞこれを成全いたしとうございます。
一〜十八はこれを概括いたしますれば何でありますか。すなわち神は愛をもって人間の足下にまで降りたまいました。神は恩寵と真理をもって神の懐を出で、天国を出で、栄光を出でて、罪人の足下にまで降りたまいました。おお神はその栄光の中を離れて人間の中に臨りたまいました。私共はいかにしてもこれを受け入れ奉るべき筈ではありませんか。
ヨハネ伝は実にこの始めの十八節の中にその大意を示されてあります。そうしてこの緒言においてバプテスマのヨハネの証は実に必要なるところに用いられております。これは私共が大いに注目すべきところであると思います。五・三十二より以下、主について五つの大いなる証があります。人間は人間の証を望みますから、主は人間の証を引用いたまいました。主は人間の証を意としたまいません。けれども人の救われんがために人の証を用いたまいました。ヨハネは主の道を備えてこの証をなさんがために主より遣わされました。ヨハネの証は大切であります。マタイ十一・十一に、主イエスは古よりこのヨハネよりも大いなる者は起こらずと言いたまいました。私共でも、主によりて神の子たる特権を得て、ヨハネよりは大いなる者とせられました。けれどもヨハネ自身はパウロよりも、またその他新約の大いなる人よりも大いなる者であります。ヨハネは主の甦りを知りません。ペンテコステの恩寵を与えられません。けれども主を指して神の子、神の羔羊と証しました。これより大いなる者はないと思います。そうですから敵すらも彼を俟ち慕みたるメシアであると忖度りました。実際、エリヤでもイザヤでもヨハネよりは大いなる者ではありません。彼は実に偉人であります。ただ彼は太陽なる主にあまりに近くありましたから、彼の輝きはさほど人に見われませんでした。けれども彼は明らかに最大の預言者、預言者よりも大いなる預言者であります。ヨハネの死にましたあとで、人々がいよいよ主のなしたもう行を見て、『ヨハネがこの方について話したことは、すべて本当だった』(十・四十一)と叫びました。弟子等はいまだ主を信じません。万人は主を拒絶んでこれを信ずることができません時にすら、ヨハネはひとり主を神の子と証しました。わたくしは大山(伯耆)を見るたびに感じます。大山の近傍より見ますれば、小さき山も大山と等しきように思われます。けれどもその小さき山に上りますれば、大山の高いことが解ります。ヨハネは小山の上にありました。そうですから大山なる主イエスの高いことを知りました。人々は小山の麓にありましたから、ヨハネをもって大山と同じものと思いました。ヨハネは実に主イエスを知りたることと、主イエスと同じ者のごとく思われましたことによりて、凡人よりは大いなる者と信ぜられます。
またヨハネ三・三十一〜三十六において聖霊の証とヨハネの証と並べて示されてあります。ヨハネの証は実に大切ではありませんか。弟子ヨハネは、このバプテスマのヨハネの証をもって、主の神たることを示す大いなる証として記しました。そうしてこのヨハネは旧約によりて証しました。旧約の証もまた大切であります。ヨハネは旧約によりて神を知りました。主を見て神の羔羊であると知りたることも旧約の光によります。私共はこの大いなるヨハネよりもなお大いなる者とせられましたとは、実に大いなる特権ではありませんか。したがってヨハネよりも大いなる証をなすべき筈であります。聖霊の証は私共の中にあるからであります。
エリヤとはマラキ四・五(底本によっては三・二十三)に預言せられたる者であります。かの預言者とは申命記十八・十五にある預言者であります。ヨハネの言を研究まするに、常に旧約より引用てあります。マタイ三章にも彼はイザヤ書よりもエレミヤ記よりも引証ております。イザヤ書より引証したる言は二十もあります。彼は大いに旧約を味わうております。ここにヨハネは『声』とあります。聖霊の働きたまえることをこれにても認めとうございます。初めにキリストを『言』と申しました。いまやヨハネは『声なり』と申します。この二個の比喩は実に美しくありませんか。主イエスは父を示す言であります。ヨハネは言を表す声であります。声は自らを示しません。ただ心を示し、言を表します。声は直ちに失われます。けれども言は永久にあります。声は忘れられます。言は忘れられません。私共はかくのごとき使者となりて、己を顕さず、主を顕す声であらねばなりません。己は失われるべき者であります。けれども主は永久に在したまいます。
ヨハネのバプテスマは表面の結果を与えるのみであります。外面の道徳に関するのみであります。ヨハネはこれを知りました。潔き心を与える者、心の道徳を与える者は、未だ臨りたまいません。ヨハネはこれを俟ち望みておりました。ヨハネは自分の分限を知っております。彼は新しき生命を与える真の救い主の臨るのを俟ち望みました。そうして彼は来るべきその者の靴の紐を解くにも足らざる者と知りました。靴の紐を解くことは最も卑しき奴隷の務めであります。ユダヤの風俗として、学生は教師の奴隷であります。いかなることでも教師を敬ってその命令とあらば背きません、従順に致します。けれども靴の紐を解くことだけは致しません。ヨハネは主を待って、彼はわが教師たるのみならず、自分は彼の靴の紐を解くにすら足らざる者、奴隷たることすら畏れ多いことと思いました。ヨハネのキリストを見ることは実にかくのごとき有様であります。
一〜五には主イエスご自身の栄光はいかなるものかを示してあります。二十九節以下は、主イエスご自身は世にありていかなるものとして顕れたまいましたか、また世にいかなることをなしたまいましたかを示します。すなわち主イエスの世にありての自身と職分であります。ヨハネは主の身分を示して、
第一 神の羔羊、世の罪を任う者(二十九)
第二 我より優りたる者、すなわち権威ある者(三十)
第三 我より前に在りし者、永遠の存在者(三十)
第四 霊降る者、イエスはキリスト、膏灌がれたる者(三十二)
第五 神の子(三十四)
その職分ついては、
第一 世の罪を取除る者
第二 聖霊をもってバプテスマを施す者
と申しました。けれどもヨハネは何処より聞いてこれを知りましたか。弟子等すらペンテコステ以前にはこれほどの栄光を解することはできませなんだ。しかるに主が説教したまわず、奇蹟をなしたまわず、十字架なく復活なき時において、ヨハネはこの証をなしました。実に彼は悟りを啓かれまして、神の黙示を解しました。そうして主に就ける大切なる三つのことも、その証の中に含まれてあります。すなわち身分に就いての第一、第四、第五を考えてみとうございます。主は実に神の羔羊でありまするから世の罪を負いたまいます。受膏者なるがゆえに膏を与えたまいます。神の子でありますから神の交わりを得せしめたまいます。三・二十九においてヨハネは主イエスを新郎と呼びました。これは大いなる生命であります。一・三十四の神の子なるがゆえに新郎、新郎なるがゆえに神と交わらしめる者であります。信者はことごとく羔羊を信じました。己の罪を負いたもう主を見ました。けれども聖霊のバプテスマを施す受膏者なる主を解することができましたか。神と交わらしめる神の子、新郎としての主を知ることを得ましたでしょうか。私共はヨハネよりも明らかにこれを見る筈ではありませんか。私共はヨハネよりも大いなるべき者であります。三十三節によりますれば、我は知らざれども我を遣わしし者我に曰けるは云々とありますから、ヨハネは明らかに三位一体の神を見ましたと思います。父なる神はかく言いました、聖霊は降りました、彼は神の子でありますと、かく三位一体の神を認めました。彼は旧約の預言者の知らざりしところを知りました。彼は旧約よりも遙かに明らかなる光を受けました。彼の光は殆ど新約の光であります。彼は新約の光をことごとく明らかにせしにはあらずやと驚くばかりであります。三十二節に、聖霊その上に留まるを見るとの言葉があります。イザヤ十一・一、二にこれが預言せられてあります。旧約においてギデオンの上に、サウルの上に、ダビデの上に聖霊が降りました。けれども未だ一度も留まりませんでした。イザヤはここに明らかに救い主を描いてヱホバの霊を留まることを記しました。そうしてヨハネはイエスにおいてこの事実を認めました。イザヤは主の生まれざる前にあって主を俟ち、ヨハネは主の時にあって主を知りました。ヨハネはこの時の前にもイエスを見ておりましたが、この時にはじめてイエスは救い主であることを知りました。これまでは救い主の顕れることを待ちました。けれどもいま救い主はすでにその処に臨りたまいたることを見ました。
一〜十八には大いなる事実を述べました。十九〜三十四は最も大いなる預言者の証を記しました。いま三十五〜五十一は平凡なる人すらもこれを証することを得たることを示します。これはまた却って力あるものであります。多くの人は小さき信者の信仰によりて悔い改める心を起します。預言者ではなくガリラヤの漁夫ですら主の神たることを認めました。すなわち三十五〜四十二にはペテロ、ヨハネ、アンデレの三人の救いを見ます。以上、二十九節に明日、三十五節に明日、四十三節にも明日、二・一に第三日と申してありますから、これらは一週間の働きであります。そうしてその初めに創世の記事があります。創世記一章の記事も一週間のわざでありますが、これは何らかの意味があるかも知れません。
さて二十九〜三十四にヨハネは自ら示されたることを公然証言しました。けれども三十六節に彼はイエスの歩きたもうを貪看まして、自ら満足し喜悦溢れて思わず口からその言葉が出ました。かく心に溢れて申しましたから、側の弟子はこれを聞き止めて深く感に打たれました。そうして今そのところに歩きたもうイエスに従い行きました。黙十四・四のごとくに彼らは羔羊の行くところ何処にもこれに従う心を起しました。これは私共の学ぶべき伝道の仕方であると思いました。伝道は羔羊なる主を指し示すことであります。己に来るを転じて主に行かしめることを勉めなければなりません。さてこの時にイエスに従いたる者は、ヨハネ、アンデレの二人でありました。この二人は、多くの言によらず、ヨハネの心より溢れたる『神の羔を觀よ』という三語によりて救われました。この言によって救われたる者はこのほか実に多くあると思います。ヨハネは大いなる感動を受けました。彼は老人となってパトモスの孤島に流されました時も、死の時にも、常に羔羊という語に動かされました。黙示録を通して中心となっている語はこの羔羊であります。彼は初めに見たる真理を敷衍せず、いよいよ深くこれを味わうたるばかりであります。第一の真理は終わりまで恒に真理であります。わが心を感動せしめて悔い改めしめたるは、力あり生命ある真理であるからであります。かく初めに心に受けた真理は大切なる真理でありますから、私共は何卒これを覚えておきとうございます。
マルコ十・四十九、五十一にも同様な話があります。主イエスはヨハネの弟子の来るを見て、なんじら何を求むるやと問いたまいました。これは、主に来る時に、主の常に問いたもう言であります。マルコ伝の盲人は直ちに、主よ見えなんことを願うと答えました。けれども今ここに弟子等はともかく主の宿処を聞き置いて、時を俟ちて明日にも明後日にもそのところを訪ねんと思いました。けれども主は許したまわずして、今来りて観よと言いたまいました。主は明日にも出立したまいました。主は実に何時出立したまいますかも知れません。私共は何時主を見ることができないようになるかも知れません。主は明日を許したまわず、後刻を肯んじたまわず、今来ることを望みたまいました。そうですから彼らは直ちに従って、この日主と偕に宿りました。ああ彼らは神の羔羊、受膏者、神の子、天地の主イエスと偕に宿りました。彼らはなかなかこれだけの主の栄光を解することができませなんだでしたでしょう。けれども恭しくこれに聴きました。心は一種の力に感動せられました。ヨハネは以来四十年、白髪の老人となりて、この書を録しました時までも、詳細にこれを記憶して、時は昼の四時頃なりと申しました。実にこれは美しくありませんか。彼らはこの喜悦を得て心に持ち堪えることができません。出ずるやいなや直ちにこれをその友に証しました。アンデレはペテロを導きました。ヨハネはヤコブを導いたでありましょう。彼らは一夜の同宿のために主のメシヤなることを感じまして、その証を致しました。実に、主と偕に宿りませねば何の力もありません。主と偕に宿りますれば兄弟を導かんとする情が禁ずることのできんようになります。私共は今、この主の栄光を示されまして主の働きを見ました。この働きに与らんことを願います。罪を負い去られ膏を灌がれねばなりません。自ら救われて失われたる羊を尋ねねばなりません。
『わたしたちはメシヤに出会った』。メシヤの深き意味を知ることは甚だ容易ではありません。主はアダム、エバに約束したまいましてより、四千年の間これを示したまいました。そうして漸く少しく明らかにせられたのであります。主イエスの時に至りましては、人々はこの約束のメシヤを慕うておりました。メシヤを望みて楽しんでしておりました。メシヤが来るならば、当時の苦しき状態を全く変ずるならんと信じました。そうですから『メシヤに出会った』という語はペテロの耳に実に大いなる福音でありました。ペテロはこれを聞いて実に心が躍ったでありましょう。雅歌三・四にもこれと同じ喜悦があります。ペテロはこれを聞くや否や直ちに従ってイエスの許に来りました。
イエスはこれを見て『あなたはヨハネ(ヨナ)の子シモンである』と言いたまいました。主はペテロに関する一切のことをよく知っていたまいました。ヨナの子シモンという名によりて顕されたる万事を知っていたまいました。彼の過去も現在も未来もよく知っていたまいました。彼の心の底までも見透したまいました。一・四十八に主はナタナエルの一切を知りたまいました。四・二十九にサマリアの女の一切を知っていたまいました。かく主は今来る人を知りたまいましたから、これを概括している名を呼んで、爾はヨナの子シモンなりと言いたまいました。そうして彼の未来をも知りたもう主はここに新しき名を与えたまいます。新しき名は新しき生命、新しき品格を示します。ペテロは往時軽率でありましたでしょう。一時の熱心の者でありましたでしょう。けれども主は変化せしめたもうことができますから、この変化を知りたまいまして、彼に岩という新しき名を与えたまいました。そうして主はここに啻に新しき名のみにあらず、新しき確固たる生命を与えたもうたと信ぜられます。主の与えたもう名は主の与えたもう新生命の名であります。アダムは禽獣に名を命じました。彼は万物を支配する権を有っておりましたから、それに名を命じました。彼はその性を知りましたから、その性に適う名をこれに与えました。いま主はそのごとくシモンに新たなるペテロの名を命じたまいました。ペテロ前二・四、五においてペテロは彼に与えられた名を説明しております。この名は主イエスの名であります。主は活ける石であります。信ずる者はみな活ける石とせられます。そうですからまた凡ての信者の名であります。今シモンは主に来りて活けるペテロとなりました。旧約の時にもエゼキエルは岩とせられました。すなわちエゼキエル三・九は、主は我汝の額を金剛石のごとくし磐よりも堅くすと言いたまいました。私共も主に来りてこの名を受けたくはありませんか。この名は私共も受くべきものであると思います。黙示二十一・十四をご覧なさい。この岩は天のエルサレムの城の石垣の一つとなりました。そうしていかなる貴き石となりましたかは同十九に記されてあります。今よりペテロは永久の家の基址となりました。これはペテロのみの特権ではありません。また私共各自の受くべき特権であります。
さてその日、ペテロ、ヨハネ、アンデレ、ヤコブの四人は救われました。そうしてこれは、来りて観よという語に従って得たのであります。マタイ四・十九に、我に従えと言いたまいました。次にルカ五・十に、なんじ今より人を獲べしと言いたまいました。この三つの命令は万人に与えたもう言であります。初めに来りて見よと言いたまいます。そうして少しく信仰を得ました時に、我に従えと献身せしめたまいます。従って力を得たる時に、また人を獲べしと仰せたまいます。心霊上の真理は常にこの三つの言に関係があります。常にかくのごとくであります。
これまでは伝道によらずして弟子は救われました。主は未だ進んで人を求めたまいませんでした。弟子は主を求めて救われました。けれどもこれよりは主は弟子を求めたもうところであります。或る人は主に求めます。けれども或る人は主に求められます。今も同じことであります。救いの方法は第一に説教であります(三十七)。第二に兄弟の証であります(四十一)。第三は主イエスが密かに召きたもうことであります(四十三)。
『ナザレから何か良いものが出るだろうか』。この思想は常に私共の心に来る思想であると思います。不信者がナザレより何の善き者出んやと主を疑いまするのみでなく、私共は伝道をして自らかくのごとき思想を持つことはありませんか。このところに何の善き者出んや、この荒野にいかでか玉あらんやと申します。けれども神はかくのごとき所にも玉を求めたまいませんか。神はナザレの僻村にすら最も尊貴き主イエスなる玉を蔵し置きたもうたではありませんか。神はどこに玉を蔵したもうてあるか解りません。ナタナエルは善人であります。彼の疑いは普通の善人より来る疑いであります。ピリポはこの疑いに対して議論をしませなんだ。ただ来りて観よと申しました。太陽を見るには太陽の前に来らねばなりません。太陽は太陽の光によらねば見ることはできません。太陽をいかに疑いまする人でも、太陽の処に参りますれば疑いのある理由はありません。弁論は何も要りません。主イエスの所に来ましては、ナタナエルはその光に打たれました。何の論ずべきことなく疑うべき所はありません。私共は常に主を論ずるときには、ピリポのごとく主の前に来りて証すべきことであります。
ナタナエルはカナの人でありますから(二十一・二)、主に従うてカナの婚筵に行きましたでしょう。そうして主の栄光をいよいよ深く見ましたでしょう。かく、従うことによって多くの教えを受けます。一は信じて来り、一は疑って来ました。けれども主イエスは喜んで二つながらこれを受けて共に救いに導きたまいました。イザヤ五十三・十二はこのところに応じてあります。私共も同じことであります。
『まことのイスラエル人だ』。創世記三十二・二十八にヤコブは初めてイスラエルの名を受けました。当時彼は祈りて夜を徹し神に求めましたから、神に勝ちました。角力は祈りであります。ナタナエルはこの少し前に無花果の木の下に神に祈っておりました。彼は真実をもって罪を言い表し、赦しを求めておりました。そうしてそこにて先祖ヤコブのごとく信仰によりて勝ち、真のイスラエルとせられました。詩三十二・一〜五をご覧なさい。心偽りなき者とは罪を言い表したる者であります。ナタナエルが懺悔のそのときに真の赦しを受けましたろうか。たぶんこれを得ましたと思います。赦されたと思います。ペテロ前書二・二十二に主イエスについて同じ『偽りがない』の語があります。黙十四・五にもまた天国の救われたる民を示すに同じ語を用いてあります。主がいまナタナエルにこの語を与えたまいましたことは、すなわち救われたりと言いたもうたのでありましょう。
四十八節を聞きましては四十九節の告白は自然であります。主は万事を知りたまいます。主はナタナエルの祈りを聴きたまいました。主は確かに詩百三十九・一、二の神、我を知りわが念をわきまえたもう神であります。
主はご自分を求める者を如何に待遇いたまいますか。以上の例によりこれを研究べとうございます。
第一 自ら交わりたもうことにより(三十九)
第二 全くその人の心を変えて望みを与えたもうことにより、すなわち約束を与えたもうことにより(四十二)
第三 命令を与えたもうことにより、すなわち約束と異にして為すべきことを命じて導きを与えたもうことにより(四十三)
第四 自らことごとくその人を知りたもうことにより(四十八)
主は私共を導きたまいます。主は、ナタナエルが無花果の下に祈るを見て、彼を看顧たまいました。ナタナエルは確かにそのところにおいて恩寵を与えられました。私共もまた無花果の下の祈りがなくてはなりません。祈りますればその去る時に主は必ずこれに恩寵を施したもうに相違はありません。主はかくて親しく遇いたまい、いよいよ恩寵を加え、ますます新しき約束を与えたまいます。ナタナエルは主の前に信仰の眼を開かれ、疑いを全く晴らし、イスラエルの王と叫びました。イスラエルの王とは、イザヤ書においてメシヤを顕したる常語であります。
『もっと偉大なことをあなたは見ることになる』。主が新しき弟子に与えたもう約束は常にこれであります。主の栄光と恩寵は限りありません。一つの栄光を見ますれば、なおこれより大いなることを必ず見るに相違はありません。ここに大いなることとは何でありますか。五十一節の天開くることを指します。使徒行伝二章のペンテコステを指します。かの時には、天が開かれました。主は『天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』と言いたまいましたが、そのとき主は真のイスラエル、ヤコブを憶い返したもうたと見えます。ヤコブは神を求めました。ベテルの野に石を枕として眠りました時にも、神を求めて祈りました。主は彼に現れて、天に達したる梯子の上に天の使いの昇り降りするのを見ました(創世記二十八・十二)。ナタナエルは同じく無花果の樹の下に祈り、熱心に主を求めました。主を信じて祈りました。そうですから主はヤコブに為したもうたる真の経験を、彼に約束なしたまいました。主は天地の間に立てられたる梯子であります。ナタナエルは主によりて天に登ることを得ます。主はこの栄光をナタナエルに示さんがために約束なしたまいました。主はまことの梯子であります。ヤコブは夢を見ました。けれどもナタナエルは実際においてこれを見ます。主は人を天に登らしめんがために、天より降りて最も低くなりたまいました。天の中心、父の聖なる懐より地に降りて罪人の足下に来りたまいました。サマリアの女の足下にさえ来りたまいました。いかなる卑しき者をも最も聖き天の人となし得るために、主は『天より降り天にをり』(ヨハネ三・十三; he that came down from heaven ... which is in heaven =欽定訳)、神と人との間の限りなき隔てを繋ぎたまいました。神にして人なるイエスのほかに、この梯子となり得る方はありません。
誰がこの約束をなしたまいましたか、いかにこれを言うことを得たまいましたか。主は近頃この経験を得たまいました。三十三節において新たに得たもうた経験であります。主は天開けて聖霊鳩のごとく降りたもうことを見たまいました。そうしてこの経験はただ主のみの経験ではありませずして、人も信ずるによりてこれを受くべきことをここに表言なしたまいました。ナタナエルはこれを見ることを得ました。これを味わうことができました。これはヤコブのごとき一時の感じとすぐになくなる夢ではありません。永遠に真理でありたもう主イエスによりて我等の受くべき永久の事実であります。アダムは罪のためにエデンの園を失いました。第二のアダム主イエスは死によりてこのエデン、天の国を開きたまいました。彼によりて私共はこれに入るの特権を有っております。パウロのエペソ二・六に申しましたことはこれと同じ教えであります。主にある私共は主と共に甦りを味わい、主と共に天の処に座せしめられます。これは事実であります。天開けてこれを見ることを得ます。かくて神との新しき交わりを得ます。祈りも新たになります。おお兄弟よ、これはいま、私共の立脚であるべき筈ではありませんか。これは新たに生まれました私共の住むべき位置ではありませんか。実に天の処は私共の恒に在るべき家庭であります。ここに留まりて主を見ます。主は人の梯子であります。主はいかに尊く在したまいますかはいよいよ明らかになります。私共は五十一節を見んことを願いますならば、四十八節のごとく主に見られねばなりません。心を開放して隅々隈々までも主に見られねばなりません。初めに主に見られて、次に主の栄光を見ることができます。真のイスラエルは天ひらけて神の使たちが人の子の上に陟り降りするを見ることを与えられます。これが私共に対する主の約束でありますとは、実にハレルヤであります。
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