第 六 章
ここに主は真正の踰越の節なりと示したまいます。五章において主は煩うている者に安息を与えたもうことを見ます。本章において主は饑える者を飽足しめたもうことを見ます。
五章はエルサレムで行なわれましたことです。これはガリラヤのことです。
主の四周に多くの饑える者がありました。これから後に身体の饑える者を見ます。けれどもこの二節を見ますならば、この人々は心の中に饑え渇きましたことを見ます。私共の四周に同じ有様を見ます。私共の四周には饑え渇くごとく神の恵を慕う魂が沢山あります。
ユダヤ人の踰越の節とあります。旧約全書を見ますと、いつでもヱホバの踰越の節と称れます。けれども今この節によって神に事えることをせず、徒に儀式ばかりを重んずるようになりましたから、ユダヤ人の踰越の節と言います。
ここに『目を上げ』とあります。四・三十五にも『目を上げて見るがよい』という言があります。主は同じ心をもって目を挙げたまいました。『フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた』。ピリポはこの地の産でしたから彼に尋ねることは理に叶いました(ルカ九・十、ヨハネ一・四十四)。
この六節を深く味わいとうございます。主はいつでも私共に明らかなる導きを与えたまいません。たびたび私共の心の中に五節のごとき問いを起こしたまいます。何故ですかならばピリポの信仰を起こしてその懇求を応えるためでありました。主はピリポをして人間の能力では必ず出来ぬと考えさせたまいとうございます。主はたびたびかく私共を思わしめ、私共を感ぜしめ、それに由りて神の権能に依り頼むように私共を導きたまいます。けれどもピリポはそういう考えはありません。ピリポはただ目で見ゆることばかりを答えます。
実に肉に属ける思想です。これは私共の心をも指しませんか。私共は主の働きについて同じ肉に属ける思想がありませんか。私共はしばしばここに目で見ゆる方法がありませんから、そんな働きは出来ませんという思想を持ちませんか。フィリポはたぶん心中に、今ユダの懐中に何程の金があろうか、たぶん二百の金はあるだろう、これを悉く使うならば、人々に少しずつくらいはどうかこうか与えられるだろうと思いました。人間の全力を出しますならば、人ごとに少しずつ与えることは出来ます。これに十二節を対照なさい。『人々が満腹したとき』とあります。フィリポは金の力をもって人々に少しずつを授けとうございました。けれども主の道はそれよりも実に幸福ではありませんか。主の道に倚り主の権能に頼みますならば、みな飽きたり。私共は全力を出し方法を尽くしますならば、人ごとに少しずつ与えることができるかも知れません。けれども主の権能に依り頼むならばみな飽きたりという結果を見ます。
モーセも一度この不信仰に陥りました。民数記十一・二十二をご覧なさい。神はこの二十節の約束を為したまいました。けれどもモーセはただ目で見ゆることを計算りまして、神はご自分の約束を成し遂げたもうことはできぬと思いました。この世の野においては人間の饑え渇く者を飽かしめる方法がありません。人間は各様の豆莢を食べまして、自分の腹を飽かしめとうございます。けれどもこの世においては真実の満足を与えるものはありません。しかるに主イエスは野にある者と共におりたまいます。主はこの世におりたまいます。その時に形を持ちていたまいました。いま霊によって同じようにこの世にいたまいます。或る人はこの世の野の真相を解りましたから、それを捨てて主の恵を待ち望みます。かくのごとき人は飽くほどに恵を受けます。けれども他の人々は主を捨てて、この世の荒地に、世の砂漠の中に、満足を与えるものを求めます。或いは財宝、或いは名誉、或いは快楽、そういう世に這入ることによりて満足を求めます。けれどもそれで飽かしめることはできません。かかる時に懸念すべきものは何でありますか。私共は銀二百のパンがあるかなきかは懸念すべきことではありません。けれどもパンを与えたもう者と共におりますかおりませんか、これは懸念すべきことです。私共は私共に与えられるものについては、考えるに及びません。けれども私共に第一大切なることは、それを与えたもう者と共におるや否やについて考えることです。
アンデレの心中に芥子ほどの信仰がありましたと思います。主の問いに由りてアンデレの心中に信仰の分子が起こりました。けれども終わりに少しく遠慮して、『けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう』と言いました。また不信仰に陥りました。けれどもアンデレの心中に小さき真正の信仰がありましたと思います。またその信仰の分子に導かれて、主はこの奇跡を行いたまいました。主はこのアンデレの言い出しましたことに依りてこの奇跡を行したまいました。私共の心の中に芥子ほどの信仰がありますならば、主はそれに因りて働きたもうことができます。けれども信仰の分子がないならば、主は働きたもうことができません。
この童子のことをご覧なさい。この人は自分のために弁当を携って参りました。許多の人々の中にただこの童子ばかり、弁当を携って参りましたと思います。けれども喜んで自分の弁当を渡しました。主は何をなすか少しも知りません。けれども喜んで自分のもっているすべての物を捧げました。ちょうど寡婦が自分の有っているすべての物なるレプタ二つを捧げましたように、この童子は自分のなくてならぬ一切を捧げました。実に香しき犠牲であると思います。たぶんこの童子は、弟子が主の食物とせんがためにこれを求めるのであると思いましたでしょう。けれども喜んで主のために、自分のなくてならぬ弁当を捧げました。その時に主は如何したまいましたかならば、この小さき香しき犠牲をもって許多の人を飽かしめたまいました。主はいつでもかく行したまいます。主は二百の銀のパンがありませんでも童子の五つの小さきパンがあるならば、それによりて許多の人を飽かしめることができます。また私共は眼に見ゆる大いなる方法を探し求めるに及びません。有り合わせの物ばかりでよろしいです。私共は真実に有り合わせる物を主に献げるならば、主はそれをもって大いなる働きをなしたまいます。何卒私共はこの童子となりたいものです。けれどもかく自分の有るだけの物をもって、許多の人を飽かしめとうございまするならば、主の傍に近くおらなければなりません。この童子が主の直傍におりましたから、主はその童子の所有を使って人々を飽かしめたまいました。
そうですから主はたくさんの列を造えて悉く順序を整けたまいました。主は乱雑を好みたまいません。信仰の役者はたびたび乱雑でも構わぬと言う過失に陥ります。けれども主はその乱雑を好みたまいません。天国の政治を見ますならば悉く順序が整うております。
またこの十節を見まするならば、人々を飽かしめんがために最初に人々を安息せたまいます。静かに座らせたまいます。今まで人々は或いは相互に語合い、或いは他に種々の混雑がありました。けれどもいま静かに座らせたまいます。人々は主の生命のパンを食しとうございますならば、自分の心を安んじなければなりません。
この十節はちょうど詩篇二十三・二のことです。また同五節をご覧なさい。いまヱホバは人々をみどりの野に伏させ、またそこにて筵を設けたまいます。
またミカ書五・四をご覧なさい。『彼はヱホバの力に由りその神ヱホバの名の威光によりて立てその群を牧ひ 之をして安然に居しめん 今彼は大なる者となりて地の極にまでおよばん』。これは主の預言です。いまヱホバの大能により、ヱホバの名の威光により、起ちてその群れを養いたまいます。
この許多の人々はただ弟子の働きを見ましたでしょう。現今でも人々は或いは伝道師或いは牧師の働きを見付けます。けれども真実に弟子の能力ではなく、弟子の真中に立ちたもうたる主の働きです。人々は弟子の手よりパンと魚を受けました。けれども真実は主が働きたまいました。どうぞ牧師、伝道師を見付けませずして、真実の養い主なる主イエスを見とうございます。或る人は伝道師、牧師を見付けて、かくのごとき人よりパンを受けないという思想があります。これは実に不信仰の思想です。主はただ弟子等に由りて人々を養いたまいます。主が真実の牧師なり、主が真実の養い主なり。もし私共は弟子等を見付けまするならば、種々の過失がありましょう。
また私共はどうして人々に生命のパンを施しましょうか。第一に主の手よりそれを受けなければなりません。またこの弟子は主の手よりただ少許のパンを受けましたと思います。ただ少許のパンをもって人々の許に参りました。けれども信仰をもって参りましたから、それを出しました時になおなお多くなりました。主は弟子等に多くのパンを与えたまいませんと思います。弟子がそれを施しました時に多くなりました。今も同じことです。主は多くの霊のパンを与えたまいませんと思います。私共は主より充分霊のパンを受けましたら、人々を飽かしむるに適当なる伝道師であると考えることはできません。主は少許のパンを弟子に与えたまいます。けれどもそれを施すたびに、それが多くなります。私共各自の経験に由りてたびたびかくのごときことがあったと思います。生命のパンを施しまするならばなおなお大きくなります。ただ受けたるパンを心の中に貯えまするならばたびたび小さくなります。私共は小さきパンを受けましたから、それを食べようと思いまするならばただそれだけにとどまります。けれどもこの小さきパンを受けましたから、この童子の心をもって許多の人々に与えようと思いまして、それを施しますならば大きくなります。一人で四百人くらいずつを飽かしむることができます。
弟子等も一筐ずつ貰いました。私共はたびたび同じ経験を受けませんか。私共は今まで受けたる小さきパンをもって、他の人々に施しますならば、その人々を飽かしめます。また啻にそれのみではありません、自分の心に大いなる屑の筐を受けます。そうですから以前よりなおなお霊の糧を貯えます。私共は人々に霊の食事を与えるたびに、そういう経験がある筈です。私共は人々を飽かしめることはできます。また自分の心の中に飽かしめられるのみでなく、未来のために一つの筐を頂戴することができます。他の人々よりも優れて多くの生命のパンを受ける筈です。もしそうでありませんならば、何か過失があると思います。主はご自分の役者のためにそれほどの恵みを与えたまいます。他の人々にはただなくてならぬものを与えたまいます。私共にはその以上に溢れるほどの恵みを与えたまいます。
そうですから十二節の屑を拾い集めとうございます。集会を終わりました後で、静かに屑を拾い集めとうございます。その集会の霊なる屑を拾いまするならば、たびたび多くの食物を頂戴します。ただ他の人々と共に自分が飽きたるのみにて満足しますならば大いなる恵みを失います。どうぞ集会の後に、いつでも屑を拾い集めとうございます。ともかくも筐をもって屑を拾い集めとうございます。そうしてその得たる霊の恵みを聖書や手帳に録し置きとうございます。
十四節には預言者、十五節には王、また山を登りたまいまして祭司でした。ここに主の三つのことを見ます。預言者、王、祭司たることを見ます。十五節は主の受けたもうた第二の試誘でしたと思います。マタイ四・八において悪魔は主をこの世の王とならしめとうございました。悪魔はそれを願いました。けれども主は大胆にその試誘を退けたまいました。今ここに悪魔は再び同じ試誘を出します。ユダヤ人に由りてそういう試誘を出します。けれども主は再びその試誘を破りたまいます。けれどもかくのごとき場合には主は試誘のために苦しみたまいましたに相違ないと思います。主はユダヤ人の王となりたまいとうございました。それに由りてこの乱れたる国を祝福することができました。必ずこの十五節の試誘に由りて苦しみたまいましたと思います。けれども主は王となることはできません。王となる前に主は十字架を負いたまわねばなりません。十字架を負いませぬならば、主は真正の王となることはできません。十字架を負いませんならば、真正の平安を与えることはできません。そうですから主はこの試誘を退けたまいました。
或いはこの話の順序を考えるに、深い奥義があると思います。十五節の終わりに『山に退かれた』。主は王となる前に天に昇る筈です。またその時に主が王となるならば、弟子も栄えを受けましょう。けれども弟子は却って十七、八両節のごとくまず苦難に会わねばなりません。狂風、怒濤に会わねばなりません。しかる後に主の国が来ます。けれども最初に主が天に昇りたまわねばなりません。また弟子等も浪風に会わねばなりません。
ヱホバは荒野において、イスラエル人を飽かしめたまいましたように、いま主は荒野において饑える者を飽かしめたもうことに由りて、ご自分のヱホバなることを示したまいます。また主はただ一度それをなしたもうのみならず、主は今に到るまでこの世の荒野の真中に立ちて、人々を飽かしめたまいます。私共は主を待ち望みまするならば、毎日天のパンを頂戴することができます。毎日飽かしめられることができます。毎日天のパンを受けませぬならば自分の過失です。主は今に到るまでご自分の民を飽かしめたまいます。
ちょうど私共の模様です。主は十五節のごとくに昇天なしたまいました。また私共はこの狂風の中に船を漕がなければなりません。けれども私共の望みは何でありますかならば主の再臨です。主はこの世の浪風の上に歩きたまいまして、再び私共に近づきたまいます。それに由りて私共はもう一度福祉を得られます。また直ちにその行かんとするところの地に着くことができます。
この二十節に『わたしだ』。これは原語を見まするならばヱホバの名と同じ意味です。主はご自分のヱホバなることを言いたまいました。そうですから必ず浪風の主でありました。ヱホバが近づきたまいますならば必ず恐れるに及びません。
主はこの人々の心を探りたまいました。表面でこの人々を見ますれば極めて熱心でした。また主に従うことは極めて美事でした。けれども主はその人々の心を探りたまいました。焔のような眼をもって、主は私共の意思をも探りたまいます。
そうですから主の言いたまいますに、今まで私は壊る糧を与えました。けれどもそれよりも優れたる賜物があります。私は永生に至る糧を与えることができます。あなたは喜んで私の壊る糧を受けました。けれどもこの永生に至る糧は如何ですか。主はかく言いたまいます。『蓋父の神かれに印して證すれば也』。その意味は何でありますかならば、エルサレムの殿において瑕なき羊を屠らなければなりません。毫も点汚なき瑕なき羊でなければなりません。そうですから初めて参詣する人はそれを祭司に見せまして、祭司がそれを善と思いまするならば、印を押しました。その羊は印を貰いまするならば犠牲となるべきものです。ここにて主は、父なる神は主に印したまいましたと言いたまいます。そうですから私は屠られるべき羊であるという意味です。それ故に私は永生に至る糧を与えることができます。
四節を見ますればこれは踰越の節の時でした。主はここで踰越の節のことを指して言いたまいます。羔は自分の生命を捐てて、人々に永生に至る糧を与えることができます。
私共は如何なる事をなさば今言いたまいました働きをなしましょうか。この永生に至る働きを如何してできましょうか。
この永生に至る糧を受ける方法はただ神の遣わしし者を信ずることです。
『どんなしるしを行ってくださいますか』。四章を読みました時にガリラヤ人はいつでも休徵を求めました。サマリヤ人は休徵がありませんでも喜びで主を信じました。言のために主を信じました。けれどもガリラヤ人は休徵を見ませぬならば信じませぬことを読みました。ここでも主はただ信ぜよと言いたまいます時に何卒休徵を見せよと言います。
モーセは毎日イスラエル人に天よりのパンを与えました。あなたはただ一度ばかり野にてかく僅かに五千人を飽かしめましたことは、モーセの奇跡よりも遙かに劣りたることですから、どうぞなおなお明らかなる大いなる奇跡を見せよと申しました。
すなわちその時にモーセは天よりのパンを与えません。そのとき父なる神は天のパンを与えたまいました。またただいま父なる神は再び天よりのパンを与えたまいます。その時にパンを与えました者と今パンを与えます者とは同じ者です。父なる神です。けれどもあなたがたは今与えられますパンを拒みます。主はかく言いたまいます。
その時に神はユダヤ人に生命を養うパンを与えたまいました。ユダヤ人に一番必要なる恵みでありました。いま神は同じようにユダヤ人に一番必要なる恵みを与えたまいます。すなわち他の天よりのパンを与えたまいます。そのパンはどなたですかならば主イエスです。
『そのパンをいつもわたしたちにください』。ちょうど四・十五の『その水をください』と同じことです。何人でも神の恵を受けとうございます。我にそのパンを与えよと祈ることができます。けれどもそれと同時に信じなければなりません。神のものなることを信じなければなりません。また人々はパンを得ることを求いまするなれども信ずることを好みません。
『わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』。これは主の堅い約束です。私共は絶えずこの約束を信じまして、饑えることなく渇くことなくして生涯を消光す筈です。絶えずこの人々のように主より満足を得ます。この三十五節を見ますならば、主を食べる、すなわちこの生命のパンを食べることは、主に就ると同じことです。或いは主を信ずることと同じことです。そうですから私共は地上にも天国に属ける生涯を始めます。黙示録七・十六をご覧なさい。これは天国におる者の特権です。福祉なることです。地に属ける者は必ず饑えます、渇きます。天に属ける者は重ねて饑えず、重ねて渇かず。私共は地におる間にも、同じように天国に属ける特権を頂戴します。『わたしを信じる者は決して渇くことがない』。その時にこの人々の眼の前に、人間なる主イエスがありました。実に怪しむべきことです。エレミヤ十七・五、六をご覧なさい。『ヱホバかくいひたまふ おほよそ人を恃み肉をその臂とし心にヱホバを離るゝ人は詛はるべし 彼は荒野に棄られたる者のごとくならん 彼は善事のきたるをみず荒野の燥きたる處 鹽あるところ 人の住ざる地に居らん』。そうですから人を頼む者は絶えず饑え、絶えず渇きます。けれどもここにナザレのイエスは自分を頼むことを勧めませんか。この二つの引照を比べまするならば、彼は必ず人間ではありません。
この三十六節の『わたしを見ているのに』の見ると、四十節の『子を見て』の見るとは、その意味において相違があります。見るという詞の意味にも二種があります。三十六節の見るはただ私共の眼界にあるものの目に映ることであって自分の方から進んで視ようと思わないでも見ゆる意味であります。四十節の見るは、自分の方から心を働かし望みを働かし注意して視る意味であります。また四十節の見る意味について十二・四十五をご覧なさい。それは如何なる時代ですかならば、現今の時代です。霊に由りていま私共はそれを見ます。そのように見ることです。
そうですから三十二節から四十節まで、主は真実のマナなりと言い顕したまいます。また神は何のためにいま新しきマナを与えたまいますかならば、永生を与えるためであります。主が天より降りたまいましたことは自分の旨を行なうためではなく父の旨を行なわんがためでした。またその父の旨は何であるかならば人間に永生を与えることです。神は往昔身体に生命を与えるためにマナを降らせたまいました。ただいま永生を与えるために新しきマナを与えたまいます。
『終わりの日に復活させることである』(三十九、四十、四十四、五十四)。
現今でもかくのごときユダヤ人が多くありませんか。このように目で見ゆることに由りて主を判断します。或いは人間の智慧に属ける論理に由りて主を判断します。けれどもこの四十二節のごとくユダヤ人は自分の些少き智慧に由りて主を知悉すことはできません。いま人間の子供らしき論理をもって主を知悉すことはできません。海水を悉く茶碗に入れることのできませぬように、人間の知恵をもって主イエスを知悉すことはできません。
主の答えは何でありますかならば、あなたは神に引かれませぬならば必ず子を知悉すことはできません。父なる神の感化を受けませねば、子なる神を知悉すことはできませんという意味です。
『彼らは皆、神によって教えられる』。そうですから父なる神は何人でも引きたまいとうございました。『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る』。何人でも父の教えを受けますならば、必ず我に来る。そうですからナザレのイエスに就りません者は、必ず未だ父に教えられぬ者です。或る人は私は父を知りました、けれどもナザレのイエスを信じませんと申します。けれどもそれは必ずできません。父に教えられるならば必ず子の下に就りて子なる神を信じます。
曩に申しましたように三十二節から四十節までは主は現代のマナなりと言いたまいます。四十八節から五十一節まではそのマナを食うことの結果は永生なりと説明したまいます。
『このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる』。創世記三・二十二、二十三をご覧なさい、同じ言です。当時人間は永生を得ましたならば、却って大いなる詛いでした。神を離れたるままで永生を得ましたならば、大いなる詛いと苦しみでした。そうですからこれを拒ぐために神はエデンの園より人間を退出さなければなりません。けれどもいま主イエスに由りて神に近づき永生を得まするならば大いなる福祉です。前のように神と離れたるままにて永生を得ることは大いなる詛いです。いま主によりて漸次父に近づくことを得つつ、永生を得ることは大いなる福祉です。そうですからただいま神は永生を与えることができます。
またユダヤ人は譏きます。そうですから本節より五十九節までは、主はこの糧は如何なるものであるか、すなわち糧の性質を説明したまいます。
そうですからこれは路傍説教ではありません。主はこのときに会堂にて大切に教えたまいました。この主の肉と血を食うことは大いなる奥義です。それによりて肉に属ける思想を持ちまするならば必ずその意味を損じます。嬰児は絶えず母の肉と血を食べます。そのことを深く考えまするならば、この奥義の明らかなる説明となると思います。嬰児の飲むべき乳は母の肉と血の原料です。或いは十五章の例話をご覧なさい。枝は樹の肉と血を得ます。樹の性質を食べます。
また樹は自分の生命と性質を出して枝を養います。私共の食物は何でありますかならば主イエスご自身です。主イエスご自身の肉と血を信仰によりて受け入れます。また神の聖子は御自分を与えて、私共の糧となりたまいます。ちょうど乳が嬰児を養うに適当なる食物であるように、主は私共の必要を充たすものとなりたまいます。主にあって私共の霊が養われ、健やかになり、順次聖なるものに成ります。また私共の食うところの食物は、漸次私共の肉と血になります。私共は主の肉と血を食いますならば、主の肉と血は漸次私共の肉と血に成ります。自分の生命、自分の性質、自分の能力、自分の凡てのものとなります。私共の食べるところの食物は身体を養います。私共は踠きませんでも、或いは肉となります、或いは毛となります、或いは神経となります。自然に体の運動、体の天性に順いまして、一つの食物は身体の全部を養います。ちょうどそのように主の肉と血を食べまするならば、私共の心も霊も全体に養われます。例えば心の愛と喜びが養われます。例えば能力が養われます。例えば心の目が養われて視ることが燎かになります。或いは耳が養われて心の中に神の聖声を聞くことができます。そのほか凡ての働きのために、凡ての礼拝のために養われます。ただ主を受け入れまするならばそのように全霊を養われます。
また食べました食物はただそのままに腹に留まりまするならば却って害となります。消化せられませねば却って身体の害となります。主のこの真理もただ頭脳に留まりますならば、却って霊の害となります。頭脳は霊の腹ですと思います。(腹は身体を養う食物を消化するように、頭脳は霊を養う食物を消化する腹のようなものです。)何卒真理をただ頭脳に受け入れるばかりではなく、それを消化して真実に霊が養われとうございます。
主の肉と血を食べまするならば二つの大いなる結果があります。第一は死ぬることです。第二は生くることです。私共は主の肉と血を食べまするならば、心の中に死も働きます、生も働きます。創世記三章はちょうど反対です。その時にエバは悪魔の佯を受け入れました。その結果として人間は神に対して死にました。神の生命を失いました。また生の結果もありました。人間は悪魔の生命を得ました。いま私共は主の血と肉を食べまするならば、その結果はちょうど反対です。それに由りて悪魔の生命を失います。これは死です。また神の生命を得ます。これは生です。
五十四節の『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得』は生まれ替わることです。初めて永生を得ることです。原語で見まするならば分明です。五十六節はその養いを受け入れまして、その結果は『いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる』。そうですから主を食べますならば永生を得ます。子供は生まれます時に生命を得るように生まれます。けれどもその生命を養わねばなりません。また養われることは主におることです。また主が我等におることです。自然に主に養われまして、自然に生長くなります。
そうですから生命と生命を養うことは大いなる奥義です。身体は如何して生きますか、また如何して養われますか、これは何人も解りません。まして霊の生命とその養いを解る者はありません。けれども私共はその養いの結果を受けることができます。私共は絶えず主に繋がれまして、嬰児のように主の血と肉を受け入れまするならば、順次主の形に象って参ります。けれどもその養いは天より降るパンでなければなりません。この地上の身体を養うべき食物は、地上より生ずる食物である筈です。天に属ける生命を養うべき食物は、天に属けるものでなければなりません。それよりも卑い物をもって霊を養いまするならば、霊は漸次衰弱くなります。私共は神学をもって、或いは真理をもって霊を養うことはできません。ただ天より降りたもうたる主イエス御自身に由りて養われます。神の聖子主イエスを受け入れなければなりません。主イエスはそのために天より降りたまいました。またそのために十字架の苦をなしたまいました。
主はかく最上の恩の言を与えたまいました。父なる神の憐憫と慈愛、子なる神の生命を捐てることについて言いたまいました。また人間は如何して霊なる養いを受けることができますかについて恩の言を与えたまいました。
それを聞く人々は謙遜して心中にその恩の言を受け入れる筈でした。けれども本節を見まするならば、そう致しませずして却って『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』と申しました。民数記二十一・五にも同じことを見ます。神はイスラエル人を顧みたもうて、毎日天より糧を降らしめたまいました。けれどもイスラエル人は神の愛を軽んじまして、『我等はこの粗き食物を心に厭ふなり』と申しましてその活けるパンを軽んじました。神はイスラエル人に最上の賜物を与えたまいました。けれどもそのようにそれを軽んじました。兄弟よ、私共はどうですか。昔のイスラエル人のように、或いは本節のユダヤ人のように、主の最上の恩賜を軽んじませんか。何卒そのようなことを致しませずして、神に感謝して跪いてそれを受け入れとうございます。
主は如何して譏く者に証したまいましたかならば、ご自分の天に昇ることを言いたもうことに由りてでした。主が必ず昇天すべきものであるならば、その時に言いたもうたること(即ち天に昇ること)、また以前に言いたもうたること(即ち天より降ること)を信ずべき筈です。この天より降ることについて、三十三、三十八、四十一、五十、五十一、五十八、三・十三を引照しなさい。主はまた譏く者に六十三節のごとくその言の霊と生命なることを示したまいました。ただその儀文ばかりを受けますならば、利益はありません。けれどもその霊の意味を受けますならば、生命を与えられます。ここで主の言は霊と生命を与えると見ます。それに由りて霊はいつでも神の言を使いまして働きたもうことを見ます。けれどもペテロ前書一・二十三を見まするならば、福音によりて生まれ替わります。この聖霊に由りて生まれ替わることと、福音に由りて生まれ替わることとは一つであります。四・二十三において私共は霊と真をもって父を拝すべきことを見ます。真正の礼拝には私共の言が聖霊の言とならなければなりません。かく聖霊は神の言を通して働きたまいます。私共はその言を受け入れませんならば神の感化を得ません。どうぞこの六十三節のごとくいつでも神の言の霊を求めとうございます。私共はただその儀文を求めまするならばこのユダヤ人のごとく疑いましょう、或いは譏きましょう。今でも主が私共のために生命を捐てたまえることについて話しますならば、譏く者或いは礙く者は多くございます。何故なれば主の言の儀文ばかりを取りまして、その霊を見ませんからです(コリント後書三・六、五・十六)。
信じませぬ者がありましたから、その言の霊を受け入れることができません。私共は信ずることに由りて、神の言の霊を受け入れます。
主は素よりその人々の心を解りたまいました(ロマ書八・二十九)。
真実に信ずる者は、みな父の感化を受けました。三十七節のごとく、何人でも主に参ることができます。けれども参りますならば、六十五節によりて父なる神に引かれて参りましたことを見ます。この言は弟子の心を探りました。また或る者は主を捨てて世に返りました。イスラエル人は民数記十四・四においてエジプトに帰ると申しました。今でも活ける言のために礙いて、主と偕に行きません者がたくさんあります。たとい表面では引き続いて熱心なる信者でありましても、心中に主と偕に行きません。何卒私共は謙遜をもって、主の言をそのままに受け入れまして、生命を得て主に従いとうございます。
六十六節のごとく或る人は主の言に由りて心がますます暗くなりました。或る人は十五・三のごとく主の言に由りて潔められました。その人の心の模様に由りて、或いは詛を受け或いは福祉を得ます。
エレミヤ記十三・十五、十六にありまするように、神に耳を傾けず、心の高慢に由りて神の語りたもうことを受けませんならば、神の言に由りて却って心が闇くなります。そうですからこれは心を探る時でした。それに由りて心の真実の模様が分明りました。十二人の弟子は何故その時に礙きませなんだか。彼らも他のユダヤ人のごとく主の言が解りませなんだでしょう。けれども主が永生の言を有ちたもう方であることを解りました。ペテロは実に詩篇七十三・二十五の精神を有っておりました。またそれと同時に主が活ける神の子であることが解りました。
主がありませんならば、世は荒地であるから、自分が主を択びましたと思う者があります。けれども実は主がその者を択びたもうたのであります。またその択ばれました者の中でも一人は悪魔でありました。そうですから択ばれたる者でも恐懼まして忠実に主に従わねばなりません。ユダは悪魔でした。他の人間よりも実に大いなる特権を授けられました。けれどもそれを受け入れませんからそのために一番恐ろしい七つの悪鬼を受けました。私共は神の国の特権を有ちますならば、そのために或いは聖徒となります。或いは悪魔となります。私共の択ばれますることは神の聖旨に従うことです。けれどもその択ばれましたために聖徒となると否とは、自分で択ぶべきものであります。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 結論 | 目次 |