第 六 章 



 ここにしゅ真正まこと踰越すぎこしいわいなりと示したまいます。五章において主はわずらうている者に安息やすみを与えたもうことを見ます。本章において主はえる者を飽足あかしめたもうことを見ます。

 五章はエルサレムで行なわれましたことです。これはガリラヤのことです。

一、二節

 主の四周まわりに多くのえる者がありました。これからのち身体からだの饑える者を見ます。けれどもこの二節を見ますならば、この人々は心のうちに饑えかわきましたことを見ます。私共わたくしどもの四周に同じ有様を見ます。私共の四周には饑え渇くごとく神のめぐみを慕う魂が沢山たくさんあります。

三、四節

 ユダヤびと踰越すぎこしいわいとあります。旧約全書を見ますと、いつでもヱホバの踰越の節といわれます。けれども今このいわいによって神につかえることをせず、いたずらに儀式ばかりを重んずるようになりましたから、ユダヤ人の踰越の節と言います。

五、六節

 ここに『目を上げ』とあります。四・三十五にも『目を上げて見るがよい』ということばがあります。主は同じ心をもって目を挙げたまいました。『フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた』。ピリポはこの地のものでしたから彼に尋ねることは理にかないました(ルカ九・十ヨハネ一・四十四)。

 この六節を深く味わいとうございます。主はいつでも私共に明らかなる導きを与えたまいません。たびたび私共の心のうち五節のごとき問いを起こしたまいます。何故なぜですかならばピリポの信仰を起こしてその懇求ねがいかなえるためでありました。主はピリポをして人間の能力ちからでは必ず出来ぬと考えさせたまいとうございます。主はたびたびかく私共を思わしめ、私共を感ぜしめ、それにりて神の権能ちからり頼むように私共を導きたまいます。けれどもピリポはそういう考えはありません。ピリポはただ目で見ゆることばかりを答えます。

七  節

 実に肉にける思想かんがえです。これは私共の心をも指しませんか。私共は主の働きについて同じ肉に属ける思想かんがえがありませんか。私共はしばしばここに目で見ゆる方法がありませんから、そんな働きは出来ませんという思想かんがえを持ちませんか。フィリポはたぶん心中に、今ユダの懐中ふところ何程なにほどかねがあろうか、たぶん二百のかねはあるだろう、これをことごとく使うならば、人々に少しずつくらいはどうかこうか与えられるだろうと思いました。人間の全力をいだしますならば、人ごとに少しずつ与えることは出来ます。これに十二節を対照なさい。『人々が満腹したとき』とあります。フィリポはかねの力をもって人々に少しずつを授けとうございました。けれども主の道はそれよりも実に幸福さいわいではありませんか。主の道にり主の権能ちからに頼みますならば、みな飽きたり。私共は全力をいだし方法を尽くしますならば、人ごとに少しずつ与えることができるかも知れません。けれども主の権能ちからに依り頼むならばみな飽きたりという結果を見ます。

 モーセも一度この不信仰に陥りました。民数記十一・二十二をご覧なさい。神はこの二十節の約束を為したまいました。けれどもモーセはただ目で見ゆることを計算はかりまして、神はご自分の約束を成し遂げたもうことはできぬと思いました。この世のにおいては人間のえ渇く者を飽かしめる方法がありません。人間は各様いろいろ豆莢まめがらを食べまして、自分の腹を飽かしめとうございます。けれどもこの世においては真実ほんとうの満足を与えるものはありません。しかるに主イエスは野にある者と共におりたまいます。主はこの世におりたまいます。その時に形を持ちていたまいました。いま霊によって同じようにこの世にいたまいます。或る人はこの世の野の真相をわかりましたから、それを捨てて主のめぐみを待ち望みます。かくのごとき人は飽くほどに恵を受けます。けれども他の人々は主を捨てて、この世の荒地あれちに、世の砂漠の中に、満足を与えるものを求めます。或いは財宝たから、或いは名誉ほまれ、或いは快楽たのしみ、そういう世に這入はいることによりて満足を求めます。けれどもそれで飽かしめることはできません。かかる時に懸念すべきものは何でありますか。私共は銀二百のパンがあるかなきかは懸念すべきことではありません。けれどもパンを与えたもう者と共におりますかおりませんか、これは懸念すべきことです。私共は私共に与えられるものについては、考えるに及びません。けれども私共に第一大切なることは、それを与えたもう者と共におるや否やについて考えることです。

八、九節

 アンデレの心中に芥子からしだねほどの信仰がありましたと思います。主の問いにりてアンデレの心中に信仰の分子が起こりました。けれども終わりに少しく遠慮して、『けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう』と言いました。また不信仰に陥りました。けれどもアンデレの心中に小さき真正ほんとうの信仰がありましたと思います。またその信仰の分子に導かれて、主はこの奇跡を行いたまいました。主はこのアンデレの言い出しましたことにりてこの奇跡をしたまいました。私共の心のうち芥子からしだねほどの信仰がありますならば、主はそれにりて働きたもうことができます。けれども信仰の分子がないならば、主は働きたもうことができません。

 この童子わらべのことをご覧なさい。この人は自分のために弁当をって参りました。許多おおくの人々のうちにただこの童子ばかり、弁当を携って参りましたと思います。けれども喜んで自分の弁当を渡しました。主は何をなすか少しも知りません。けれども喜んで自分のもっているすべての物を捧げました。ちょうど寡婦が自分の有っているすべての物なるレプタ二つを捧げましたように、この童子は自分のなくてならぬ一切を捧げました。実にかぐわしき犠牲いけにえであると思います。たぶんこの童子は、弟子が主の食物とせんがためにこれを求めるのであると思いましたでしょう。けれども喜んで主のために、自分のなくてならぬ弁当を捧げました。その時に主は如何どうしたまいましたかならば、この小さき香しき犠牲いけにえをもって許多おおくの人を飽かしめたまいました。主はいつでもかくしたまいます。主は二百の銀のパンがありませんでも童子の五つの小さきパンがあるならば、それによりて許多おおくの人を飽かしめることができます。また私共は眼に見ゆる大いなる方法を探し求めるに及びません。有り合わせの物ばかりでよろしいです。私共は真実ほんとうに有り合わせる物を主に献げるならば、主はそれをもって大いなる働きをなしたまいます。何卒どうぞ私共はこの童子となりたいものです。けれどもかく自分の有るだけの物をもって、許多おおくの人を飽かしめとうございまするならば、主のそばに近くおらなければなりません。この童子が主の直傍じきそばにおりましたから、主はその童子の所有ものを使って人々を飽かしめたまいました。

十  節

 そうですから主はたくさんの列をこしらえてことごとく順序をけたまいました。主は乱雑を好みたまいません。信仰の役者つかえびとはたびたび乱雑でも構わぬと言う過失あやまちに陥ります。けれども主はその乱雑を好みたまいません。天国の政治まつりごとを見ますならば悉く順序が整うております。

 またこの十節を見まするならば、人々を飽かしめんがために最初はじめに人々を安息やすませたまいます。静かにすわらせたまいます。今まで人々は或いは相互たがい語合はなしあい、或いはほか種々いろいろの混雑がありました。けれどもいま静かに座らせたまいます。人々は主の生命いのちのパンを食しとうございますならば、自分の心を安んじなければなりません。

 この十節はちょうど詩篇二十三・二のことです。また同五節をご覧なさい。いまヱホバは人々をみどりの野に伏させ、またそこにてむしろを設けたまいます。

 またミカ書五・四をご覧なさい。『彼はヱホバの力にりその神ヱホバの名の威光によりてたちてそのむれやしなこれをして安然やすらかをらしめん 今彼はおほいなる者となりて地のはてにまでおよばん』。これは主の預言です。いまヱホバの大能ちからにより、ヱホバの名の威光により、ちてその群れを養いたまいます。

十 一 節

 この許多おおくの人々はただ弟子の働きを見ましたでしょう。現今いまでも人々は或いは伝道師或いは牧師の働きを見付けます。けれども真実ほんとうに弟子の能力ちからではなく、弟子の真中まんなかに立ちたもうたる主の働きです。人々は弟子の手よりパンと魚を受けました。けれども真実ほんとうは主が働きたまいました。どうぞ牧師、伝道師を見付けませずして、真実ほんとうの養い主なる主イエスを見とうございます。或る人は伝道師、牧師を見付けて、かくのごとき人よりパンを受けないという思想かんがえがあります。これは実に不信仰の思想かんがえです。主はただ弟子たちりて人々を養いたまいます。主が真実しんじつの牧師なり、主が真実しんじつの養い主なり。もし私共は弟子等を見付けまするならば、種々いろいろ過失あやまちがありましょう。

 また私共はどうして人々に生命いのちのパンを施しましょうか。第一に主の手よりそれを受けなければなりません。またこの弟子は主の手よりただ少許すこしのパンを受けましたと思います。ただ少許のパンをもって人々のもとに参りました。けれども信仰をもって参りましたから、それを出しました時になおなお多くなりました。主は弟子たちに多くのパンを与えたまいませんと思います。弟子がそれを施しました時に多くなりました。今も同じことです。主は多くの霊のパンを与えたまいませんと思います。私共は主より充分霊のパンを受けましたら、人々を飽かしむるに適当なる伝道師であると考えることはできません。主は少許すこしのパンを弟子に与えたまいます。けれどもそれを施すたびに、それが多くなります。私共各自めいめいの経験にりてたびたびかくのごときことがあったと思います。生命のパンを施しまするならばなおなお大きくなります。ただ受けたるパンを心のうちたくわえまするならばたびたび小さくなります。私共は小さきパンを受けましたから、それを食べようと思いまするならばただそれだけにとどまります。けれどもこの小さきパンを受けましたから、この童子わらべの心をもって許多おおくの人々に与えようと思いまして、それを施しますならば大きくなります。一人で四百人くらいずつを飽かしむることができます。

十二、十三節

 弟子たち一筐ひとかごずつ貰いました。私共はたびたび同じ経験を受けませんか。私共は今まで受けたる小さきパンをもって、他の人々に施しますならば、その人々を飽かしめます。またただにそれのみではありません、自分の心に大いなるくずかごを受けます。そうですから以前まえよりなおなお霊のかてたくわえます。私共は人々に霊の食事を与えるたびに、そういう経験があるはずです。私共は人々を飽かしめることはできます。また自分の心のうちに飽かしめられるのみでなく、未来のために一つの筐を頂戴することができます。ほかの人々よりも優れて多くの生命いのちのパンを受ける筈です。もしそうでありませんならば、何か過失あやまちがあると思います。主はご自分の役者つかえびとのためにそれほどの恵みを与えたまいます。他の人々にはただなくてならぬものを与えたまいます。私共にはその以上うえに溢れるほどの恵みを与えたまいます。

 そうですから十二節の屑を拾い集めとうございます。集会あつまりを終わりました後で、静かに屑を拾い集めとうございます。その集会あつまりの霊なる屑を拾いまするならば、たびたび多くの食物を頂戴します。ただほかの人々と共に自分が飽きたるのみにて満足しますならば大いなる恵みを失います。どうぞ集会あつまりの後に、いつでも屑を拾い集めとうございます。ともかくもかごをもって屑を拾い集めとうございます。そうしてその得たる霊の恵みを聖書や手帳にしるし置きとうございます。

十四、十五節

 十四節には預言者十五節には、また山を登りたまいまして祭司でした。ここに主の三つのことを見ます。預言者祭司たることを見ます。十五節は主の受けたもうた第二の試誘こころみでしたと思います。マタイ四・八において悪魔は主をこの世の王とならしめとうございました。悪魔はそれを願いました。けれども主は大胆にその試誘を退けたまいました。今ここに悪魔は再び同じ試誘を出します。ユダヤびとりてそういう試誘を出します。けれども主は再びその試誘を破りたまいます。けれどもかくのごとき場合には主は試誘のために苦しみたまいましたに相違ないと思います。主はユダヤ人の王となりたまいとうございました。それに由りてこの乱れたる国を祝福することができました。必ずこの十五節の試誘に由りて苦しみたまいましたと思います。けれども主は王となることはできません。王となる前に主は十字架を負いたまわねばなりません。十字架を負いませぬならば、主は真正ほんとうの王となることはできません。十字架を負いませんならば、真正ほんとうの平安を与えることはできません。そうですから主はこの試誘を退けたまいました。

 或いはこの話の順序を考えるに、深い奥義があると思います。十五節の終わりに『山に退かれた』。主は王となる前に天に昇るはずです。またその時に主が王となるならば、弟子も栄えを受けましょう。けれども弟子はかえって十七、八両節のごとくまず苦難くるしみに会わねばなりません。狂風おおかぜ怒濤おおなみに会わねばなりません。しかる後に主の国が来ます。けれども最初はじめに主が天に昇りたまわねばなりません。また弟子たちも浪風に会わねばなりません。

 ヱホバは荒野あれのにおいて、イスラエル人を飽かしめたまいましたように、いま主は荒野においてえる者を飽かしめたもうことにりて、ご自分のヱホバなることを示したまいます。また主はただ一度ひとたびそれをなしたもうのみならず、主は今に到るまでこの世の荒野の真中まんなかに立ちて、人々を飽かしめたまいます。私共は主を待ち望みまするならば、毎日天のパンを頂戴することができます。毎日飽かしめられることができます。毎日天のパンを受けませぬならば自分の過失あやまちです。主は今に到るまでご自分の民を飽かしめたまいます。

十六〜二十一節

 ちょうど私共の模様です。主は十五節のごとくに昇天なしたまいました。また私共はこの狂風おおかぜの中に船を漕がなければなりません。けれども私共の望みは何でありますかならば主の再臨です。主はこの世の浪風の上に歩きたまいまして、再び私共に近づきたまいます。それにりて私共はもう一度福祉さいわいを得られます。また直ちにその行かんとするところの地に着くことができます。

 この二十節に『わたしだ』。これは原語を見まするならばヱホバの名と同じ意味です。主はご自分のヱホバなることを言いたまいました。そうですから必ず浪風の主でありました。ヱホバが近づきたまいますならば必ず恐れるに及びません。

二十二〜二十六節

 主はこの人々の心を探りたまいました。表面うわべでこの人々を見ますれば極めて熱心でした。また主に従うことは極めて美事よいことでした。けれども主はその人々の心を探りたまいました。ほのおのような眼をもって、主は私共の意思をも探りたまいます。

二十七節

 そうですから主の言いたまいますに、今まで私はくつかてを与えました。けれどもそれよりも優れたる賜物があります。私は永生かぎりなきいのちに至る糧を与えることができます。あなたは喜んで私のくつる糧を受けました。けれどもこの永生かぎりなきいのちに至る糧は如何どうですか。主はかく言いたまいます。『そは父の神かれにいんしてあかしすればなり』。その意味は何でありますかならば、エルサレムの殿みやにおいてきずなき羊を屠らなければなりません。すこし点汚しみなき瑕なき羊でなければなりません。そうですから初めて参詣する人はそれを祭司に見せまして、祭司がそれをよいと思いまするならば、いんを押しました。その羊は印を貰いまするならば犠牲いけにえとなるべきものです。ここにて主は、父なる神は主に印したまいましたと言いたまいます。そうですから私は屠られるべき羊であるという意味です。それゆえに私は永生かぎりなきいのちに至る糧を与えることができます。

 四節を見ますればこれは踰越すぎこしいわいの時でした。主はここで踰越の節のことを指して言いたまいます。こひつじは自分の生命いのちてて、人々に永生かぎりなきいのちに至るかてを与えることができます。

二十八節

 私共は如何いかなる事をなさば今言いたまいました働きをなしましょうか。この永生かぎりなきいのちに至る働きを如何どうしてできましょうか。

二十九節

 この永生かぎりなきいのちに至るかてを受ける方法はただ神の遣わしし者を信ずることです。

三 十 節

 『どんなしるしを行ってくださいますか』。四章を読みました時にガリラヤびとはいつでも休徵しるしを求めました。サマリヤ人は休徵がありませんでも喜びで主を信じました。ことばのために主を信じました。けれどもガリラヤ人は休徵を見ませぬならば信じませぬことを読みました。ここでも主はただ信ぜよと言いたまいます時に何卒どうぞ休徵を見せよと言います。

三十一節

 モーセは毎日イスラエルびとに天よりのパンを与えました。あなたはただ一度ばかり野にてかく僅かに五千人を飽かしめましたことは、モーセの奇跡よりも遙かに劣りたることですから、どうぞなおなお明らかなる大いなる奇跡を見せよと申しました。

三十二節

 すなわちその時にモーセは天よりのパンを与えません。そのとき父なる神は天のパンを与えたまいました。またただいま父なる神は再び天よりのパンを与えたまいます。その時にパンを与えました者と今パンを与えます者とは同じ者です。父なる神です。けれどもあなたがたは今与えられますパンを拒みます。主はかく言いたまいます。

三十三節

 その時に神はユダヤびと生命いのちを養うパンを与えたまいました。ユダヤ人に一番必要なる恵みでありました。いま神は同じようにユダヤ人に一番必要なる恵みを与えたまいます。すなわちほかの天よりのパンを与えたまいます。そのパンはどなたですかならば主イエスです。

三十四、三十五節

 『そのパンをいつもわたしたちにください』。ちょうど四・十五の『その水をください』と同じことです。何人どなたでも神のめぐみを受けとうございます。我にそのパンを与えよと祈ることができます。けれどもそれと同時に信じなければなりません。神のものなることを信じなければなりません。また人々はパンを得ることをねがいまするなれども信ずることを好みません。

 『わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』。これは主の堅い約束です。私共は絶えずこの約束を信じまして、えることなく渇くことなくして生涯を消光くらはずです。絶えずこの人々のように主より満足を得ます。この三十五節を見ますならば、主を食べる、すなわちこの生命いのちのパンを食べることは、主にきたると同じことです。或いは主を信ずることと同じことです。そうですから私共は地上ちのうえにも天国にける生涯を始めます。黙示録七・十六をご覧なさい。これは天国におる者の特権です。福祉さいわいなることです。地に属ける者は必ず饑えます、渇きます。天に属ける者は重ねて饑えず、重ねて渇かず。私共は地におる間にも、同じように天国に属ける特権を頂戴します。『わたしを信じる者は決して渇くことがない』。その時にこの人々の眼の前に、人間なる主イエスがありました。実に怪しむべきことです。エレミヤ十七・五、六をご覧なさい。『ヱホバかくいひたまふ おほよそ人をたのみ肉をそのちからとし心にヱホバを離るゝ人はのろはるべし 彼は荒野あれのすてられたる者のごとくならん 彼は善事よきことのきたるをみず荒野のかわきたるところ しほあるところ 人のすまざる地に居らん』。そうですから人を頼む者は絶えず饑え、絶えず渇きます。けれどもここにナザレのイエスは自分を頼むことを勧めませんか。この二つの引照を比べまするならば、彼は必ず人間ではありません。

三十六〜四十節

 この三十六節の『わたしを見ているのに』の見ると、四十節の『子を見て』の見るとは、その意味において相違があります。見るということばの意味にも二種があります。三十六節見るはただ私共の眼界にあるものの目に映ることであって自分の方から進んでようと思わないでも見ゆる意味であります。四十節見るは、自分の方から心を働かし望みを働かし注意して視る意味であります。また四十節の見る意味について十二・四十五をご覧なさい。それは如何なる時代ですかならば、現今いまの時代です。霊にりていま私共はそれを見ます。そのように見ることです。

 そうですから三十二節から四十節まで、主は真実まことマナなりと言いあらわしたまいます。また神は何のためにいま新しきマナを与えたまいますかならば、永生かぎりなきいのちを与えるためであります。主が天よりくだりたまいましたことは自分のむねを行なうためではなく父の旨を行なわんがためでした。またその父の旨は何であるかならば人間に永生を与えることです。神は往昔むかし身体からだ生命いのちを与えるためにマナらせたまいました。ただいま永生を与えるために新しきマナを与えたまいます。

 『終わりの日に復活させることである』(三十九四十四十四五十四)。

四十一、四十二節

 現今いまでもかくのごときユダヤびとが多くありませんか。このように目で見ゆることにりて主を判断します。或いは人間の智慧にける論理に由りて主を判断します。けれどもこの四十二節のごとくユダヤ人は自分の些少ちいさき智慧に由りて主を知悉しりつくすことはできません。いま人間の子供らしき論理をもって主を知悉しりつくすことはできません。海水うみことごとく茶碗に入れることのできませぬように、人間の知恵をもって主イエスを知悉しりつくすことはできません。

四十三、四十四節

 主の答えはなにでありますかならば、あなたは神に引かれませぬならば必ず子を知悉しりつくすことはできません。父なる神の感化を受けませねば、子なる神を知悉しりつくすことはできませんという意味です。

四十五節

 『彼らは皆、神によって教えられる』。そうですから父なる神は何人どなたでも引きたまいとうございました。『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る』。何人どなたでも父の教えを受けますならば、必ず我にきたる。そうですからナザレのイエスにきたりません者は、必ず未だ父に教えられぬ者です。或る人は私は父を知りました、けれどもナザレのイエスを信じませんと申します。けれどもそれは必ずできません。父に教えられるならば必ず子の下にきたりて子なる神を信じます。

四十六〜五十一節

 さきに申しましたように三十二節から四十節までは主は現代いまのマナなりと言いたまいます。四十八節から五十一節まではそのマナをくらうことの結果は永生かぎりなきいのちなりと説明ときあかしたまいます。

 『このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる』。創世記三・二十二、二十三をご覧なさい、同じことばです。当時そのとき人間は永生かぎりなきいのちを得ましたならば、かえって大いなるのろいでした。神を離れたるままで永生を得ましたならば、大いなる詛いと苦しみでした。そうですからこれをふせぐために神はエデンの園より人間を退出おいいださなければなりません。けれどもいま主イエスにりて神に近づき永生を得まするならば大いなる福祉さいわいです。前のように神と離れたるままにて永生を得ることは大いなる詛いです。いま主によりて漸次だんだん父に近づくことを得つつ、永生を得ることは大いなる福祉さいわいです。そうですからただいま神は永生を与えることができます。

五十二節

 またユダヤ人はつぶやきます。そうですから本節より五十九節までは、主はこのかて如何いかなるものであるか、すなわち糧の性質を説明ときあかしたまいます。

五十三〜五十九節

 そうですからこれは路傍説教ではありません。主はこのときに会堂にて大切に教えたまいました。この主の肉と血をくらうことは大いなる奥義です。それによりて肉にける思想かんがえを持ちまするならば必ずその意味を損じます。嬰児あかごは絶えず母の肉と血を食べます。そのことを深く考えまするならば、この奥義の明らかなる説明となると思います。嬰児あかごの飲むべき乳は母の肉と血の原料です。或いは十五章例話たとえばなしをご覧なさい。枝はの肉と血を得ます。樹の性質を食べます。

 または自分の生命いのちと性質を出して枝を養います。私共の食物は何でありますかならば主イエスご自身です。主イエスご自身の肉と血を信仰によりて受け入れます。また神の聖子みこは御自分を与えて、私共のかてとなりたまいます。ちょうど乳が嬰児あかごを養うに適当なる食物であるように、主は私共の必要を充たすものとなりたまいます。主にあって私共のたましいが養われ、健やかになり、順次聖なるものに成ります。また私共のくらうところの食物は、漸次だんだん私共の肉と血になります。私共は主の肉と血をくらいますならば、主の肉と血は漸次だんだん私共の肉と血に成ります。自分の生命いのち、自分の性質、自分の能力ちから、自分のすべてのものとなります。私共の食べるところの食物は身体からだを養います。私共はもがきませんでも、或いは肉となります、或いは毛となります、或いは神経となります。自然に体の運動、体の天性にしたがいまして、一つの食物は身体の全部を養います。ちょうどそのように主の肉と血を食べまするならば、私共の心もたましいも全体に養われます。例えば心の愛と喜びが養われます。例えば能力ちからが養われます。例えば心の目が養われて視ることがあきらかになります。或いは耳が養われて心のうちに神の聖声みこえを聞くことができます。そのほか凡ての働きのために、凡ての礼拝のために養われます。ただ主を受け入れまするならばそのように全霊を養われます。

 また食べました食物はただそのままに腹にとどまりまするならばかえって害となります。消化せられませねば却って身体からだの害となります。主のこの真理もただ頭脳あたまに留まりますならば、却ってたましいの害となります。頭脳あたまたましいの腹ですと思います。(腹は身体しんたいを養う食物を消化するように、頭脳あたまたましいを養う食物を消化する腹のようなものです。)何卒なにとぞ真理をただ頭脳あたまに受け入れるばかりではなく、それを消化して真実にたましいが養われとうございます。

 主の肉と血を食べまするならば二つの大いなる結果があります。第一は死ぬることです。第二は生くることです。私共は主の肉と血を食べまするならば、心のうちも働きます、も働きます。創世記三章はちょうど反対です。その時にエバは悪魔のいつわりを受け入れました。その結果として人間は神に対して死にました。神の生命いのちを失いました。またいのちの結果もありました。人間は悪魔の生命を得ました。いま私共は主の血と肉を食べまするならば、その結果はちょうど反対です。それにりて悪魔の生命を失います。これは死です。また神の生命を得ます。これは生です。

 五十四節の『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得』は生まれ替わることです。初めて永生かぎりなきいのちを得ることです。原語で見まするならば分明ぶんめいです。五十六節はその養いを受け入れまして、その結果は『いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる』。そうですから主を食べますならば永生を得ます。子供は生まれます時に生命いのちを得るように生まれます。けれどもその生命を養わねばなりません。また養われることは主におることです。また主が我等におることです。自然に主に養われまして、自然に生長おおきくなります。

 そうですから生命いのちと生命を養うことは大いなる奥義です。身体は如何どうして生きますか、また如何どうして養われますか、これは何人なんぴとわかりません。ましてたましいの生命とその養いを解る者はありません。けれども私共はその養いの結果を受けることができます。私共は絶えず主に繋がれまして、嬰児あかごのように主の血と肉を受け入れまするならば、順次だんだん主の形にかたどって参ります。けれどもその養いは天よりくだるパンでなければなりません。この地上の身体しんたいを養うべき食物は、地上より生ずる食物であるはずです。天にける生命を養うべき食物は、天にけるものでなければなりません。それよりもひくい物をもってたましいを養いまするならば、たましい漸次だんだん衰弱よわくなります。私共は神学をもって、或いは真理をもってたましいを養うことはできません。ただ天よりくだりたもうたる主イエス御自身にりて養われます。神の聖子みこ主イエスを受け入れなければなりません。主イエスはそのために天より降りたまいました。またそのために十字架のくるしみをなしたまいました。

六 十 節

 主はかく最上のめぐみことばを与えたまいました。父なる神の憐憫あわれみと慈愛、子なる神の生命いのちてることについて言いたまいました。また人間は如何どうしてれいなる養いを受けることができますかについてめぐみの言を与えたまいました。

 それを聞く人々は謙遜して心中しんちゅうにそのめぐみの言を受け入れるはずでした。けれども本節を見まするならば、そう致しませずしてかえって『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』と申しました。民数記二十一・五にも同じことを見ます。神はイスラエルびとを顧みたもうて、毎日天よりかてらしめたまいました。けれどもイスラエル人は神の愛を軽んじまして、『我等はこのあし食物くひものを心にいとふなり』と申しましてそのけるパンを軽んじました。神はイスラエル人に最上の賜物を与えたまいました。けれどもそのようにそれを軽んじました。兄弟よ、私共はどうですか。昔のイスラエル人のように、或いは本節のユダヤびとのように、主の最上の恩賜たまものを軽んじませんか。何卒なにとぞそのようなことを致しませずして、神に感謝してひざまずいてそれを受け入れとうございます。

六十一〜六十三節

 主は如何どうしてつぶやく者にあかししたまいましたかならば、ご自分の天に昇ることを言いたもうことにりてでした。主が必ず昇天すべきものであるならば、その時に言いたもうたること(すなわち天に昇ること)、また以前さきに言いたもうたること(即ち天よりくだること)を信ずべきはずです。この天よりくだることについて、三十三三十八四十一五十五十一五十八三・十三を引照しなさい。主はまたつぶやく者に六十三節のごとくそのことばの霊と生命いのちなることを示したまいました。ただその儀文ばかりを受けますならば、利益はありません。けれどもその霊の意味を受けますならば、生命を与えられます。ここで主の言は霊と生命を与えると見ます。それにりて霊はいつでも神の言を使いまして働きたもうことを見ます。けれどもペテロ前書一・二十三を見まするならば、福音によりて生まれ替わります。この聖霊に由りて生まれ替わることと、福音に由りて生まれ替わることとは一つであります。四・二十三において私共は霊とまことをもって父を拝すべきことを見ます。真正しんせいの礼拝には私共の言が聖霊の言とならなければなりません。かく聖霊は神の言を通して働きたまいます。私共はその言を受け入れませんならば神の感化を得ません。どうぞこの六十三節のごとくいつでも神の言の霊を求めとうございます。私共はただその儀文を求めまするならばこのユダヤびとのごとく疑いましょう、或いはつぶやきましょう。今でも主が私共のために生命をてたまえることについて話しますならば、つぶやく者或いはつまづく者は多くございます。何故なぜなれば主の言の儀文ばかりを取りまして、その霊を見ませんからです(コリント後書三・六五・十六)。

六十四節

 信じませぬ者がありましたから、そのことばの霊を受け入れることができません。私共は信ずることにりて、神の言の霊を受け入れます。

 主ははじめよりその人々の心をりたまいました(ロマ書八・二十九)。

六十五節

 真実に信ずる者は、みな父の感化を受けました。三十七節のごとく、何人なんぴとでも主に参ることができます。けれども参りますならば、六十五節によりて父なる神に引かれて参りましたことを見ます。このことばは弟子の心を探りました。また或る者は主を捨てて世に返りました。イスラエルびとは民数記十四・四においてエジプトに帰ると申しました。今でもける言のためにつまづいて、主とともに行きません者がたくさんあります。たとい表面では引き続いて熱心なる信者でありましても、心中に主と偕に行きません。何卒なにとぞ私共は謙遜をもって、主の言をそのままに受け入れまして、生命いのちを得て主に従いとうございます。

六十六〜六十九節

 六十六節のごとく或る人は主のことばりて心がますます暗くなりました。或る人は十五・三のごとく主の言に由りてきよめられました。その人の心の模様に由りて、或いはのろいを受け或いは福祉さいわいを得ます。

 エレミヤ記十三・十五、十六にありまするように、神に耳を傾けず、心の高慢に由りて神の語りたもうことを受けませんならば、神の言に由りてかえって心がくらくなります。そうですからこれは心を探る時でした。それに由りて心の真実の模様が分明わかりました。十二人の弟子は何故なにゆえその時につまづきませなんだか。彼らもほかのユダヤびとのごとく主の言がわかりませなんだでしょう。けれども主が永生かぎりなきいのちの言をちたもう方であることを解りました。ペテロは実に詩篇七十三・二十五の精神を有っておりました。またそれと同時に主がける神の子であることが解りました。

七十、七十一節

 主がありませんならば、世は荒地あれちであるから、自分が主をえらびましたと思う者があります。けれども実は主がその者を択びたもうたのであります。またその択ばれました者のうちでも一人は悪魔でありました。そうですから択ばれたる者でも恐懼おそれまして忠実に主に従わねばなりません。ユダは悪魔でした。ほかの人間よりも実に大いなる特権を授けられました。けれどもそれを受け入れませんからそのために一番恐ろしい七つの悪鬼を受けました。私共は神の国の特権をちますならば、そのために或いは聖徒となります。或いは悪魔となります。私共の択ばれますることは神の聖旨せいしに従うことです。けれどもその択ばれましたために聖徒となるといなとは、自分で択ぶべきものであります。



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