第 七 章
以前に申しましたように、主イエスは五章においてご自分が真正の安息日を与える者であることを示したまいました。六章において真正の踰越節を与える者であることを示したまいました。本章より十章まではご自分が真正の構廬節であることを示したまいます。
本章より十章二十一節まではみな連続たる話です。また主は構廬節において行ないたもうたることを示します。ユダヤ人はこの節においてエジプトよりカナンに至る旅行を紀念致しました。また格別に次の三要点を紀念致しました。
第一 その旅行の時に天幕を作り、その中に住まうたることを紀念致しました。そうですからこの節の時に構廬を作ってその中に住みました。イスラエル人は天幕におりました時に、羊の群のように牧者なる神に従いました(イザヤ六十三・十一〜十四)。いま主はこの節の時にご自分が真正の牧者なることを言い顕したまいます(十章)。そうですからイスラエル人は往古の導かれたることを紀念して感謝しまするならば、今の牧者なる主に従わねばなりません。
第二 その節の時に砕けたる岩より水が流れたることを紀念致しました。主イエスは七・三十八においてご自分より活ける水が流れ出ずることを言い顕したまいます。
第三 雲の柱と焔の柱を紀念致しました。主イエスは八・十二および九章において、ご自分は世の光であり、人間の導者なることを示したまいました。ユダヤ人はこの節において、来らんとする美事の影を紀念致しました(ヘブル十・一)。しかるに真正の形はただいまその真中に顕れたまいましたのに、徒に往古の影のみを追い求めまして、毫もその真正の形を注意いたしません。その節はただ儀式のみでありました。それによって心の満足を得ません。また神に近づくことを得ません。この節は主イエスを指しましたのに、ユダヤ人は主イエス御自身を捨てました。私共も聖餐式の時に或いは祈禱会の時に、主イエス御自身を見つけますか。私共も度々このユダヤ人のような罪を犯しまして、ただその儀式のみを大切に行い、その真中に立ちたもう活ける主に注意いたしません。そのために私共の節も、ただ冷淡なる儀式となってしまいます。
主の肉体の兄弟は、人間の眼前に怪しむべき働きを示すように主に勧めます。現今でも肉に属ける信者は同様の働きを求めます。これによって主はもう一度悪魔の試誘を受けたまいましたでしょう。マタイ四・七において主がその試誘に勝利を得たまいました。今ここに悪魔は人間を通して、同じことを試みました。主が人間の眼前に自己を出したまいましたならば、弟子を多く作ることができましたでしょう。けれどもかくの如くにして得たる弟子は、真正の弟子ではありません。主はただ心より喜んでご自分に従う弟子を求いたまいました。けれども成功のない時、或いは失望の時に悪魔は時々同じ試誘を致しました。私共も一度悪魔の試誘に勝利を得ましても、同じ試誘が新しき形をもって参りますから、不断主の武具を装りまして要心しなければなりません。
主は何故節に上りたまいませんかならば、ユダヤ人が主を憎んだからであります。ユダヤ人は節において来るべき主の栄光を紀念致しました。けれども主御自身は節に上りたもうことはできません。
主はたびたび十六節のごとく言いたまいました(八・二十六、二十八、三十八;十二・四十九;十四・十、二十四;十七・八)。そうですから主の言を読みまする時に、これは父なる神の言なりと承知せねばなりません。またこれは実に怪しむべきことではありませんか。これによって神の聖子は、真実に神の僕であることが解ります。ご自分は知恵と聡明に充たされていたまいましたが、全く自分のことを捨ててただ父なる神の管となりたまいました。私共はそれによって大いに教えられると思います。どうぞその手本に従うてただ神の恩の言の管となりたいものであります。申命記十八・十五、十八をご覧なさい。『汝の神ヱホバ汝の中汝の兄弟の中より我のごとき一箇の預言者を汝のために興したまはん 汝ら之に聽ことをすべし……我かれら兄弟の中より汝のごとき一箇の預言者を彼らのために興し我言をその口に授けん 我が彼に命ずる言を彼ことごとく彼らに告べし』。主イエスはその預言を成就したもうたることを見ます。また主は十六章においてこの預言者が来らんとすることについての預言を、御自分が成就なしたもうたることを言いたまいます。主は真正の預言者でありました。預言者は如何なる者でありますからなば、神の言の管です。自分の言を言わずして神の言のみを言う管であります。いま真正の預言者の真像なる主イエスをご覧なさい。また何人にでもその言は神の言であることが解ります。
私共は如何して神の教えを解りましょうか。如何して神の聖声を聞き分けることができましょうか。勉強によってでしょうか。神学によってでしょうか。そのような物ではなく、ただ服従によってであります。第一の神学者は服従の人であります。主イエスの生涯を考えて見ますれば、ただ服従の生涯でありました。私共は服従によって聡明を得ます。今まで教えられたることに従いませんならば、必ず新しき教えを受け入れることはできません。或いは頭脳に入りましょう。けれども真実に心を受け入れることはできません。そうですから主の言葉を聞きました時に、第一にそれに従うことが大切です。
『己に由て』。二十八節にも同じ言葉があります。八・四十二にもまた同じ言葉を見ます。この三つの引照を深く味わいとうございます。主イエスは己によりて来りたまいません。不断己を忘れたまいました。主イエスが生けるにあらず、父なる神が主イエスの中に生きていたまいました。そうですから主は父なる神を彰したもうことができました。私共は如何にすれば父なる神の栄光を見ることができましょうか。モーセのごとくシナイ山の頂に登りましょうか。そうではありません。彼処ではただいま見ることはできません。けれども四福音書の中に、神の栄光の輝けることを見ます。神の栄光、父なる神は如何なる方で在すか、は四福音書の中において学ぶことができます。
主は御自分の衷に不義なしという確信がありました。自分の聖潔ことをよく知りていたまいました。これは決して高慢ではありません。汚れとは如何なるものですか。不義とはどういうものですか。これらはすべて自分の栄を求めることであります。自分の栄を毫も求めませんならばその人の衷に不義はありません。その人は聖潔ものであります。この己の栄を求めることについて、八・五十、五・四十四を引照なさい。『わたしは、自分の栄光を求めていない』。『互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか』。何卒それについて心を判断致しとうございます。私共は主の如くなりますればなりまするほど、自分の栄を求めません。曩にも申しましたように、主は自分の聖潔ことを確信したまいました。八・二十九、四十六をご覧なさい。『わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである』。『わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか』。これは神の疵なき点汚なき羔です。その言と行いを見まするならば神の聖き羔です。
ユダヤ人は神の律法を得ました。けれどもそれに従いませなんだから、十七節の教誨のごとく主に由りて新しき教誨を受け入れることができません。
『なぜ、わたしを殺そうとするのか』。これについて五・十六、十八、八・三十七を引照なさい。ユダヤ人はかく主イエスを殺さんと謀りました。
この『一事』とは五・十五のわざであります。モーセの律法に安息日に人の身に傷を付けることが許されるならば、況や人の身を癒すことは勿論許されます。また割礼は神の契約の徴証です。割礼に由りて人は神の契約に入ります。またそれに依りて神はその人を自分の属とならしめたまいます。そうですから同様に主は安息日に人を癒すことによって、その人を神の属とならしめたまいました。その人がもし癒されませんならば、神の殿に入ることはできません。けれどもいま身を癒されましたから、神の殿に入りて犠牲を献げることができます。もう一度神の契約に入ることができます。そうですから契約に入るために割礼を許されましたならば、人の身を癒すことも許されます。
私共は罪のために正しき審判をなすことは難しくございます。八・十五をご覧なさい。『あなたたちは肉に従って裁く』。私共は肉に依りて人を審きませんか。この言は私共の心を刺しませんか。またイザヤ十一・三、四を対照なさい。主イエスは実に『かれは神を畏るゝをもて速やかに悟る』(英欽定訳)。幸いなる賜物を有っていたまいました。また人間の方をも悟りたまいました。私共も聖霊に由りてその賜物を受けたいものです。その賜物を受けますならば、肉に由りて人を審きません。真正に是非が解ります。
二十節の人々は、たぶんエルサレムの外にある人で、ガリラヤ人であったかも知れません。二十五節の人々はエルサレムの市中に住んでおった者であります。
『どこから来られるのか、だれも知らないはずだ』と申しましたが、四十二節のように聖書には明らかにキリストの来りたもう場所が示されてあります。私共ももし主を信じませんならば、ちょうどそのような愚かなる誤謬に陥ります。
『わたしをお遣わしになった方は真実である』。これについて十八節をご覧なさい。『自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり』。すなわち二十八節には父なる神は真なり、また十八節には子なる神は真なりと録されてあります。この真なりとは実に意味の深い言です。すなわち必ず人間を欺くことはできません。必ず自分の約束に従うて、恩恵を与えたまいます。その事跡は必ず真であるという意味です。
『あなたたちはその方を知らない』。これは実に大いなる訴えでした。このユダヤ人は自分の神の黙示を得たる撰民であると思っておりました。必ず人より尊ばるべき者であると思っておりました。けれども真の光が来りし時に、爾は神を知らずと言いたまいます。これは実に厳かなる言であります。私共はどうぞこの言葉に由りて心を判断致しとうございます。このユダヤ人が自ら欺きましたように、現今でも教会の中に自ら欺く信者、伝道士があると思います。神を知ると思う者が未だ必ずしも神を知っておるのではありません。たといユダヤ人のように聖書を読み、犠牲を献げ、或いは神の儀式を行いましても、真実に神を知っておるのではありません。主は十九節にも爾曹の中にこれを守る者なしと言いたまいます。これは実に大いなる訴えでした。主イエスは遠慮なく聴衆の心を探るために、焔のような言を発したまいます。またこのヨハネ伝を見まするならば、主はたびたびこの鋭き言を発したまいます(五・四十二、四十七;七・十九、二十八;八・十九、二十一、二十三、四十四、四十七、五十五)。
そうですから黙示録一・十六のごとく、主の口より利き剣が出ます。神の言は利き剣のようなものです。何卒この鋭き言を厳かに聞きまして、自分の心を判断致しとうございます。
十四・七にありまするように、弟子も神を知りました。ユダヤ人は宗教心の深い者でしたが、未だ神を知りませなんだ。けれどもただいまは何人でも、神を知ることができます。この二十九節の言はただ主のみを指すことではありません。主に招かれたる各自をも指すと思います。私共はこの二十九節の確信がありませんならば、この言を言うことができませんならば、神のために話すことはできません。私共は神を知りませんならば、神より出ざれば、また神より遣わされし者でなければ、神のために毫も言うことはできません。
四十四節および八・二十をご覧なさい。父なる神は主を護りたまいます。これはただ主のみではありません。父なる神は私共をも同じように護りたまいます。たとい人々が私共に害を加えんと謀りましても、神の許しがなければできません。私共を捕えんと致しましても、時来らざれば何をもなすことはできません。そうですから人々が私共に害を加えましたならば、父なる神の許したまいしことと知る筈です。そうですから神はこれによりて私共を教えたもう聖旨のあることを信じなければなりません。
正しき審判をもって主を審く時に、必ずこれは神の子であることを認めます。何人でもそれを認めます。
『今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる』。あなたがたは下吏を幾人遣わしましても私を捕らえる権威はありません。時が来りませんならば私を捕らえることはできません。
『それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る』。後に私を捕えて殺しましょう。けれどもその死ぬることはただ私を遣わしし者に往くことです。あなたがたはいま私を殺すことはできません。また後に私を殺しましても、ただ父なる神に往かしめるばかりです。
主について争いがありました。けれどもそれに反対したまいません。少しも論じたまいません。ただ神の言を出して、静かに光を照らしたまいます。またこれは実に危険い場合です。主を殺さんとする者が多くありましたから、実に命を懸けてエルサレムに往きたまいました。命を懸けて殿の中にこの鋭い言を発したまいます。どうぞ危険い時の主イエスをご覧なさい。かくのごとき場合にも心中にはただ平安のみを有っていたまえる主をご覧なさい。主はこの時に心配はありません。もし心配がありましたならば、それは神の尊旨を行うこと、神の尊旨を語ることのみでありました。他の心配は悉くそのために失くなりました。どうぞ私共はその型に従いとうございます。
また主はそのように心に平安がありましたから、必ず疲れたる者に平安を与えたもうことができました。その時に悪魔は種々の術をもって主を試みました。けれども不断点汚なき疵なき不義なき神の羔を見ます。私共は平安なる時に聖い生涯を送ることができるかも知れません。けれどもかく危険なる場合に、すなわち人間が私共に反対して神を受け入れず、却って私共を殺さんと謀る時において、思いと言と行いを潔くすることは真正の勝利です。
またこの『わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』とは実に烈しき言であります。主は他の人々に、求めよさらば与えられん、門を叩けよさらば開かれんと言いたまいます。けれどもユダヤ人は悔い改めませんから、『わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と言いたまいます。ちょうど反対です。十二・二十六を見ますと『わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』と言いたまいます。ちょうど反対です。ユダヤ人のような頑固なる者は、主のおりたもうところへ参ることはできません。恒にその間に隔障があります。けれども今の『わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』とは、実に幸いなる約束です。主のおりたもうところは何処でありますかならば、ただ未来ばかりではなくその時現在在したもう処です。すなわち三・十三の天より降り天におる人の子を指します。いま主に事える者は主のおるところに参られます。ユダヤ人のような頑固なる心の人は、宗教に従うことはできましょう。また儀式を行うことができましょう。けれども主のおる処へ参ることはできません。
ユダヤ人はただ肉のことばかりを考えます。けれども主は心のおる処について言いたまいます。私共は心のことを最も注意いたしますが、肉に属ける人はただ肉のことばかりを考えております。けれども大切なることは心の模様です。自分の心が果たして天に在りますか、或いは地上に止まっておりますか。これは大切に考うべきことであります。私共は幸いにも主のおりたもうところに生涯を送ることができます。
節の時にユダヤ人は霊なる恩の模型をいろいろ見ました。例えば備えられたる犠牲、または流されたる水を見ました。種々なる祈禱会や感謝会に与りました。各様の宗教上の儀式に与りました。けれども主はこの人々の心をご覧なさいまして、これらの宗教上の儀式によっては満足を得たまいません。またユダヤ人もこれらのことによって心の糧を得ませなんだ。未だ心の満足を得ませなんだ。私共も同じような儀式のみを務め、真実に心の満足を得ません時に、どうぞ目を挙げてその真中に立ちたもう活ける水の源なる主イエスを見とうございます。『わたしのところに来て飲みなさい』。これはマタイ十一・二十八の『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい』と同じ霊の意味であります。イザヤ五十五・一をご覧なさい、『噫なんぢら渴ける者ことごとく水にきたれ』。これはヱホバの声です。主イエスはただいま同じ招きをなしたまいます。同じ言を発したまいます。そうですから主はそれに由りて御自分のヱホバなることを示したまいます。エレミヤ二・十三をご覧なさい、『活る水の源なる我』。いま主は御自分が活ける水の源であると言いたまいます。主がヱホバでありませんならば、このことは大いなる罪です。神の聖名を汚すことです。けれども主はこれによって御自分は旧約のヱホバであることを示したまいました。また黙示録二十一・六を引照なさい、『わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう』。未来において神の宝位に坐したもう神の独り子と同じ招きをなしたまいます。何卒この三つの引照を深く味わいとうございます。神の独り子は旧約時代において我に来りて飲めと言いたまいました。福音時代にも同じ招きを言いたまいます。また未来において天の宝位に坐したもう時も、同じ招きを言いたまいます。罪人を御自分に招きたまいます。これは幸福ではありませんか。福音時代に神の聖子は人の子となりたまいました。人の性質をもって来りたまいました。そうして私共にこの招きをなしたまいます。未来において人の子は天の宝位に坐りたまいます。すべての権威がその手に預けられます。けれどもわたしたちに同じ招きを言いたまいます。
ヨハネ伝三章・四章とこの七章とを比較して見とうございます。私共はこの三カ所において活ける水の話を見ます。三・五において活ける水によって生まれ替わります。四・十四において活ける水に由りて不断満足を得ます。これは心霊上の生涯の水です。自分の心霊上のための水であります。七・三十八においては他の人々に分け与えるための水です。主は私共にこの三つの恩恵を与えたまいます。三つの活ける水を与えます。けれども三章の生まれ替わる恩恵を得ませんうちは、四章の心の満足の恩恵を頂戴することはできません。四章の心の満足を得る恩恵を受けませんうちは、七章の他人に分け与える恩恵を頂戴することはできません。
『聖書に書いてあるとおり』。旧約においてかくのごとき約束を見ません。けれどもエゼキエル四十七・一〜五において譬話をもってこのことを示されます。その時にエゼキエルは新しき殿の預言をしました。殿より活ける水が流れ出ることを見ました。ここに主はその譬話の霊なる意味を引きたもうて三十八節を言いたまいます。ヨブ三十二・十八〜二十をご覧なさい。ちょうどこの三十八節の恩恵を受けたる人の経験であると思います。またエレミヤ二十・九をご覧なさい。この二つの引照に由りて、その恩恵が実地にありましたことを見ます。その約束の成就せられましたことを見ます。どうぞ私共各自のことを判断いたしとうございます。もし井が涸きましたならば、水を汲むことができません。私共の心が涸きましたならば、他の人々に活ける水を分け与えることはできません。雅歌四・十五をご覧なさい。『なんぢは園の泉水 活ける水の井 レバノンよりいづる流水なり』。主は私共にこの言を仰せたまいます。私共はそれほど価値のある筈です。園の泉水である筈です。レバノンより流れる水である筈です。荒地を沾すために、信者を沾すために活ける水である筈です。
主は天より降りたまいませんならば私共のために贖いをなしたもうことができません。ちょうどそのように主は地より昇りたまいませんならば、私共に聖霊を与えたもうことができません。或いは降り或いは昇る、どちらでも私共のためです。いま主はこのところにおいて多くの人々の真中に立って、活ける水を与えたまいますが、これについて二十・十九〜二十二をお比べなさい。霊の意味は同じことであると思います。『聖霊を受けなさい』。その時にはただ僅少の弟子の中に立ちたまいましたが、彼らは聖霊を受けたに相違ありません。このところにおいては多勢の中に立ちたまいましたが、もし主の聖声を聞きましたならば、聖霊を受けることができましたでしょう。使徒行伝二章をご覧なさい、同じことであります。天に昇りたまいし主はその教会の真中に立ちて聖霊を送りたもうことを見ます。また何人にでも同じく聖霊を与えたもうことを見ます(使徒二・三十八)。ヨハネ七・三十七と使徒二章は同じことです。主は使徒二章においてもう一度エルサレムの真中に立ちて我に来りて飲めと招きたまいました。その時三千人が主に参りまして飲みました。そうですから信者は何人でも活ける水の源である筈です。私共は不断活ける水を飲みとうございます。たびたび私共は他の信者と出会う時に、世に属ける談話に時間を費やしますが、これは大いなる過失です。何卒これは活ける水の源であると感じまして、その人より活ける水を頂戴いたしとうございます。また私共の特権は活ける水の泉であることです。そうですから不断活ける水を出すように身を慎みとうございます。
主の言はその人々の心を刺しました。また争いが起こりました時に、主は何故その人の心の疑いを解きたまいませんか。それを解きたもうことは実にたやすいことです。しかも主がそのようになしたまいませんことは、すなわち人々の信仰を起こしたまいたいからであります。いまユダヤ人に御自分の神たる徴を明らかに見せたまいました。けれどもユダヤ人はそれを信じませんから、その上に他の徴を与えたまいません。或いは疑いを解きたまいません。これは実に戦慄しきことであります。主は私共に明らかなる証拠を与えたまいます。或いは明らかなる約束を与えたまいます。けれどもそれをそのままに信じませんならば、たぶん他の徴は与えたまいません。
『あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る』(詩篇四十五・二)。四十六節においてそれが真実なることを見ます。『今まで、あの人のように話した人はいません』。これに由りて主の言の美しいことが解りませんか。主の言の力を解りませんか。この下吏は毫も偏見はありませんから、主の言をそのままに重んじました。そうですから主の言を拒みました者は、実に禍であると思います。
けれども私共はユダヤ人を責めとうございません。自分の心を判断いたしとうございます。私共はたびたびこのユダヤ人のごとく主の美しい言を疑い拒みたることがあると思います。神は大いなる恩をもって、パリサイ人に御自分の声を聞かしめたまいました。パリサイ人はこれを聞きましたが、一向それを信じませんから、神はご自分の僕ども(下吏)をパリサイ人の許へ遣わしたまいました。この僕どもに由りてその心を動かしたまいとうございました。偏見なしの僕をもって主の美しいことを宣べ伝えさせたまいます。
またどうぞこのところと八章の初めとを対照なさい。このところにおいてパリサイ人は力をもって主を妨げとうございます。彼処においては籠絡をもって主に勝利を得ようと思います。サタンはかく二つの方法をもって神の働きを妨げとうございます。或いは力或いは籠絡を用います。けれども主は両度共に勝利を得たまいました。また主は何をもって勝利を得たまいましたかならば、ただその活ける言であります。この下吏は何故主を捕らえることができませなんだかならば、主の言に由りてであります。八章の始めにパリサイ人は何故婦をそのままに置きましたかならば、主の発したもうたる言に由りてであります。どうぞ主の言の力をお味わいなさい。七・四十六、八・九において私共は主の言の力を味わいとうございます。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 結論 | 目次 |