第 十 二 章
主は今まで多くの休徴を為したまいました。また終わりに十一章において、明らかなる甦りの休徴をなしたまいました。けれどもユダヤ人のごとくなお信じませんならば、もはや仕方がありません。主は今から休徴を為したまいません。けれども今まで為したもうた休徴によりて、或る人の心に主ご自身を愛する愛もできました。一〜八はその一例です。また主を信ずる者もできました。主は来るべき王であることを信ずる者もできました(十二〜十六)。また外の国々より主を慕う者もできました(二十、二十一)。そうですから愛もできました。信もできました。慕もできました。このうえ続いて休徴を為したもう理はありません。今までなしたもうたる休徴のために、愛も信も慕もできましたから、その休徴は明白です。それを拒みまする者は、その心が頑固でありまして、他にどのような明らかな休徴がありましても、信ずることはできません。神が現今奇跡を行いたまいません理由は、ここにあるかも知れません。
もう一度マルタ、マリア、ラザロの三人をご覧なさい。ここに信仰の三つの階段を見ます。
『マルタは給仕をしていた』(二)。マルタは義務的の考えをもって、主のために働きました。ラザロは主と共に坐する者の中の一人でありました。彼は主と偕に交わりを得ました。これは一歩進みたる階段であります。けれどもマリアは主のために心の愛を流しました。これは一番高尚なる信仰の模様です。
『香膏』。これはラザロの屍に塗るために買いましたものかも知れません。『家は香油の香りでいっぱいになった』。これについて雅歌一・十二をご覧なさい。『王其席につきたまふ時 わがナルダ其香味をいだせり』。この引証によってマリアの行いの霊の意味を悟ることができます。主はわが王なりと思いまして、愛をもって主に仕えまするならば、その愛の行いは香油のごとく、主を喜ばせ主を崇め、また人間をも喜ばせるものであります。本節と十一・五十七を対照なさい。尊貴き人間は主を殺さんと謀りました時に、主は窃かに愛の印を享けたまいました。そのために主は幾分か安慰と喜楽を得たまいました。敵が如何に主を殺さんと謀りましても、そういう愛の行いがありまするならば、主は必ず喜びたまいます。おお私共はどうぞ己を費しまして、己を流しまして、価高きものをも流しまして、主を喜ばせとうございます。
主は三度膏を灌がれたまいました。使徒十・三十八のごとく神の働きのために膏をそそがれたまいました。御在世中の務めのために膏をそそがれたまいました。この十二・七において死ぬることのために膏をそそがれたまいました。また終にヘブル一・九をご覧なさい。そうですから永遠のために喜楽の膏をそそがれたまいました。
マリアの美しい行いに反対する者があります。この人はその美しい行いを悟りません。愛の価値を悟りません。愛の価値は銀何百と計算することはできません。愛の価値は銀三百を費やしましても、それよりも優れたるものであります。私共の中にもそういうことを言う者があるかも知れません。あなたは何故それほどの銀を費やしますか。何故それほどの長所を費やしますか。ほかの仕事をするならば必ず名誉を得ます。必ず大いなる働きができます。ただ伝道のためにその長所を費やしまするは、実に無益ですと申す者もありましょう。使徒の一人でもそういうことを言いましたように、今でも教会の中で尊ばれている者の中でも、そういうことを言うかも知れません。けれどもそのような人には、愛の価値は解りません。またこの人は神のそういう行いを喜びたもうことを知りません。ただ商売的の考えをもって愛の行いを計りますから、真実にその価値を判断することはできません。
人間は私共に反対しましても、主が私共の心を知りたもうならば福祉です。主はマリアの心が解りました。マリアの愛が解りました。私共も赤心をもって愛の行いをしまするならば、主はそれを知りたまいますから、それで満足を致しとうございます。ピリピ二・十七をご覧なさい。『血を流して灌とも』。これはマリアの行いと同じことであります。
ラザロをご覧なさい。彼の履歴はちょうど私共の履歴と同じことではありませんか。
第一に主に愛せられました(十一・五)。
第二に復生を得ました。これはちょうどエペソ二・一のようです。また主によって自由を得ました(十一・四十四、八・三十六)。
第三に他の罪人を主に導きます(十一)。私共も同じように復生に属ける生涯を送りますならば、罪人を導く力もあります。
第四に主と交わりて主の筵席に与ります(二)。
第五に主のために迫害を受けます(十)。
それに由りて主の威勢を見ます。主は六・十五のごとく人々が王とせんことを謀りました時に、その処を去りたまいました。たびたびそういうことを拒みたまいました。主は人の名誉を求いたまいません。けれども最後にエルサレムを救わんがためにそれを許したまいました。主はたびたびエルサレムの中で休徴を為してご自分の神たることを表したまいました。たびたびエルサレムの中で生命の言を語りたまいました。けれどもそのことによりてエルサレムは信じません。最後に人間の栄をもって、エルサレムに来りたまいました。それはエルサレムの救いの終りの機会です。エルサレムがなお信じませんならば、もう亡ぶよりほかに仕方がありません。主は最後にこのように、幾分か栄光をもってエルサレムに行き、このエルサレムを救いたまいとうございます。主がこれをなしたもうたのは、エルサレムに救いを得べきすべての機会を与えて、遺したもうところがないためでした。
主は公にユダヤ人の王となることを示したまいます。キリストは公に彼らの王として、自ら進んで出でたまいます。『世はあげてあの男について行った』(十九)。それに由りて主がご自分の生命を捐てたまわねば、人間はこれを奪うことができんことを見ます。その時に主が王となりとうございまするならば、王となる方法がありましたでしょう。ユダヤ全国の人民は主を王といたしましたでしょう。そうですから主が十字架に上りたまいましたことは、人間の力によりてではありません。自ら生命を捐てたもうたのであります。主は必ず人間の力より逃れることができました。けれども世を救わんがために喜んで、ご自分を捐てたまいました。
その時に主はご自分を王として出で行きたまいました。またゆきて彼を迎える者が多くありました(十二、十三)。その時に主は王となりたまいません。けれどもこのことは未来のことの小さい雛形ですと思います。主は復び栄光をもって、王となって出でゆきたまいます。その時に新郎を迎えに出る者が多くあります(マタイ二十五・一)。ちょうどここで王を迎えに出ました者のようです。その時には真正に王となりたまいます。どうぞ私共はその日のために備えができまして、歓んで主を迎えに出たいものです。
主は死罪に宣告されたまいます。けれどもただいま話しましたように、主を愛する者もあります。また主を信ずる者もあります。今日でも主を殺そうと謀る者がたくさんあります。どうぞ私共は窃かに静かに、主のために己を流し愛を流し、或いは勇気をもって主を崇め奉り、そして生涯を送りとうございます。或いはマリアのごとく窃かに、或いはこの人々のごとく公に、主を崇めたいものであります。
主は漸次死に近付きたまいます。十一・五十に祭司の長はそれを預言致しました。また十二・三〜七に愛する弟子等は心の中にそれを感じました。ただいまこの二十節より主はもう一度、明らかにそれを預言したまいます。また幾分か死の苦しみを覚えたまいます。
このギリシャ人は異邦人でありました。けれどもその時にエルサレムの宮殿は、世界中に神の証でありましたから、外国の人々が心の中に汚れたる偶像教を捨てとうございまするならば、必ずエルサレムの宮殿を求めなければなりません。神はそのためにエルサレムに宮殿を設けて、世界中の燈明台とならしめたまいました。
四十五節をお比べなさい。異邦人でも知らず識らず救い主を求めました。異邦人は心の中に神に手を伸ばして救いを願いました。
主の耳にこの叫びは使徒十六・九の叫びと同じことでありました。『その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った』。今この異邦人の叫びはちょうど同じような叫びであります。また啻にこの二人のみではありません。ほかの異邦人皆々の叫びであると思います。この二人はただ彼等の代表人でありました。主はそれを聞きたまいました時に、必ず旧約の預言が成就せられることを感じたまいましたでしょう。たとえばイザヤ四十九・六をご覧なさい。これは主イエスに対して言われたる預言です。そうですから主はこの時にこの預言が成就せられたることを、悟りたまいましたでしょう。けれども主の答えは何でありますか。二十三節をご覧なさい。
栄えを受くる前に十字架を負わねばなりません。十九、二十両節をご覧なさい。十九節において『世はあげてあの男について行った』。また二十節において異邦人の中にも、主を求める者もありました。そうですから主が名誉心がありまするならば、王となることができましたとも思います。主は実に王となることができました。当時主の前に二つの途が置かれてあります。一つはこの人等の懇求を聴き納れて、王となることです。また一つは十字架を負うことです。いずれを撰びましょうか。主は安易なる道を捨てて、十字架を負う道を撰びたまいました。そうですから二十四節において、主はいま王の位に留まるべき時にあらずして、十字架を負うべき時なることを仰せたまいました。
実に深い真理です。この真理はいま聖書に記されてあります。けれども最初から天然の書籍に記されてあります。神は私共に二つの書籍を与えたまいました。一つは黙示の書籍すなわち聖書です。一つは天然の書籍すなわち眼に見ゆる自然界です。私共は自然物によって神のことを悟ることができます。この二十四節は深遠なる真理です。奥妙なる哲学です。いま黙示の書物に記されてあります。けれども素より自然界の中に書いてあります。この異邦人の思念では主は王となることによりて、多くの実を結ぶと思いました。けれども主の思想はちょうど反対です。死ぬることによって多くの実を結びます。小さき種をご覧なさい。この小さき種の裡には大いなる樹の勢いと功能とが悉く入ってあります。大いなる樹は小さき種の中に全く含まれてあります。ちょうど主は神の種です。『父すべての德を以て彼に滿しめ』(コロサイ一・十九)。『智慧と知識の蓄積は一切キリストに藏れある也』(同二・三)。『それ神の充足れる德は悉く形體をなしてキリストに住り』(同二・九)。キリストは神の種でした。キリストの裡に神のすべての性質が含まれてあります。そうですからこの二十四節をご覧なさい。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』。今この一粒の麦について考えとうございます。
『地に落ちて』。主は肉を取りたまいました時に地に落ちたまいました。神の国の光、神の国のことを捨てて地に落ちたまいました。一粒の種が地に落ちまするならば失われたるものの如く見えます。人間から捨てられたるもののごとく見えます。外面より主の生涯を見まするならば、人間に捨てられ神に捨てられたもうようです。主は地に落ちたる一粒の種のように、地に限られ地に収められ地に妨げられまして、生涯を暮らしたまいました。主は地に落ちて罪人の怒り、罪人の迫害、罪人の反対に遭いたまいました。
一粒の種は地に留まりますることによって漸次死にます。主の生涯は死の生涯でした。この種は地に落ちましたから、始めから終わりまで死の生涯でありました。ルカ十二・五十をご覧なさい。『しかし、わたしに受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう』。
ただ眼で見ますならば、漸次その種は無益となります。地に留まりますから、漸次無益となるように思われます。けれどもその種は復生ります。兄弟よ、この地に落つることは私共を指すことであります。私共も同様に、死の生涯を暮らしませんならば、多くの実を結ぶことはできません。地に落つることのために、やはり死の処に留まりまして、毎日毎日己に死にまして、静かに人間の迫害、憎悪、怒りを堪え忍ぶことはすなわち地に落つることであります。或る兄弟は現世の利益を捨てました。主と主の福音のために、生涯を捨てました。これは地に落つることです。多くの朋友に反対せられまして、これは愚かなることと言われます。けれども主の模型に従いて、地に落ちます。そうしませんならば『一粒のままである』。主でもその地に落つることによりて、多くの実を結びたまいました。ただ天国に留まりたまいまするならば、一つにて留まりたまいましたでしょう。天の使いが多くありましても、一つにて留まりたまいましたでしょう。ただ死によりてのみ多くの実を結びたまいました。どうぞ人間または悪魔が自分の勝手に従いて、あなたがたを取り扱いあなたがたを迫害し、あなたがたを痛めまする時に、このことを記憶なさい。ヘブル十二・三は地に落ちることを指します。主は地に落ちたまいました。どうぞそれを覚えて倦み疲れて心を喪わないように致しとうございます。
けれども地に落つることのみではありません。また死ぬることです。『死ずば』。これは十字架を指す言です。主は十字架と復生によって、多くの実を結びたもうことができます。一粒の種が死にまするならば、漸次生え出まして多くの実を結ぶことができます。一粒の種が死にまするならば、新しき栄光ある形をもらいます。以前の形よりも実に輝ける美しい形を受けます。主でも死と甦りによって、新しき輝ける貌と、新しき栄光を受けたまいました。ピリピ二・七をご覧なさい。『かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた』。これは地に落つることです。同八をご覧なさい。『その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』。これは死ぬることです。また同九に『それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった』とあります。これは新しき形を得て、多くの実を結ぶことを指します。主は甦りと昇天によって、如何なる形を得たまいましたか。すなわち教会であります。教会はその形です。死にたもうまでは一粒の種のように、ただ一つにて留まりたまいました。けれども死にたまいたることによって、新しき体を受けたまいました。またその体はご自分の形です。麦は以前の麦の種と同じ形を生みます。ちょうど教会は主の形を得る者を生みます。教会はまた漸次実を結びまして、ついに世界中を充たす器械であります。またどういう器械で世界を充たしますか。麦は以前の麦の一粒と同じ種であります。いま教会はどういう種をもって世界を充たしますか。すなわちキリストと同じ形、同じ性質を有つ者です。また麦はそのためにできました。麦の種は何のためにできましたか。また以前の麦の種のように地に落ちて死ぬることによって、多くの実を結ぶ器械となります。キリスト信者は死にますならば、必ず甦りまして、新しき栄光の実を結びます。己に死ぬることによって新しき栄光の実を結びます。
花は太陽の小さき雛形です、その色は太陽の光の色です。そうですから種が死にまするならば小さき太陽の形ができます。信者は己に死にまするならば、輝ける神の聖貌を有つことができます。種が地に落ちまするならば、その地の暗いところにも太陽の勢いを覚えます。そこにていったん死にますが、太陽の熱と光のために復生りまして、太陽の小さき形となります。おお信者よ、あなたは地に落ちて己に死にまするならば、神の光とその愛の熱のために復生りまして、神の栄光の貌を受けます。『地に落ちて』。どうぞ私共は全く神の中に落ちとうございます。他の事を捨てて全く神の中に葬られとうございます。洗礼式はこのことの小さき雛形です。神の中に葬られることです。そうですからキリスト信者はそれから後には、ただ神より栄養を取るものです。この種は地に落ちまするならば、地より栄養を取ります。どうぞあなたがたの心の栄養を全く神より受け入れなさい。洗礼を受けたる信者悉皆地に落ちたる者である筈です。己に死にたる者である筈です。悉皆地に落ちたる麦の一粒である筈です。真実にそうなりませんならば、その信者は偽善者です。何故なれば洗礼式において、全く葬られたる者と言い顕したるからであります。
三十二節をご覧なさい。これは多くの実を結ぶことの例であります。主は死によって万民を引きてご自分に来らせたまいます。或いはイザヤ書五十三・十、十一をご覧なさい。これは多くの実を結ぶことです。また創世記二十二・十七、十八を引証なさい。これは如何なる時でしたかならば、アブラハムがイサクを祭壇の上に載せたる時です。アブラハムは己に死にました。そうですから多くの実を結ぶことができました。彼は独り子をすら捨てましたから、かくの如く多くの実を結ぶことができました。私共も多くの実を結びとうございまするならば、語を換えて云わば多くの罪人を導きとうございまするならば、安易なる途を取ることはできません。その途はただ一つよりほかにありません。もし死にませんならば多くの実を結ぶことはできません。兄弟よ、これは私共を刺す言です。いま何故神の爾国が妨げられますか。何故伝道が妨げられますか。私共は二三人の悔い改むる者を見まするならば福祉ですと思います。けれども神は衆多の人を救いたまいとうございます。それに何故神の権能が妨げられますか。何故ですか。おお私共は地に落ちて死ぬることを惜しみます。そうですから麦は必ず実を結ぶことはできません。この死ぬることの代わりに、私共は集会を設けます。説教を務めます。各様の礼拝に参ります。種々伝道の工夫を致します。けれども死にませんならば、そういうことは殆ど無益です。神は私共にそういうことを願いたまいません。神は何を願いたまいますか。ただ死ぬることを願いたまいます。
『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え』。或る人は主に事えます。けれどもカルバリ山まで主に従いません。
『そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』。これは幸福です。八・二十一において主は『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と仰せたまいました。主に事えません者は主の在したもう処におることはできません。けれども主に従う者は『我をる所に在ん』。主は御在世中に何処にいたまいましたか。地の上にいたまいました時にも何処にいたまいましたか。三・十三をご覧なさい。『天より降り天にをる人の子』。そうですから主は地上に降りたまいました。けれども続いて天にいたまいました。『我に事る者は我をる所に在ん』。そうですから私共はこの地におりましても、心の中には天国におります。天国の経験があります。表面は地に落ちて死ぬごとく思われます。けれども心の中にてはほんとうに天国におります。天国の幸福と天国の経験とは、私共の心の中にあります。
主の眼の前に十字架の影が見えますから『今、わたしは心騒ぐ』。これはゲツセマネの園の苦しみの初めであります。十一・三十三にも同じ憂いと悼みを見ます。彼処では何のために憂いたまいましたかならば、罪の結果なる死を見たもうたるからであります。また十三・二十一にも同じく心に憂いたもうことを見ます。そこにてはご自分の使徒の一人が、ご自分を売すことを見て心を憂いたまいました。
『何と言おうか。「父よ、わたしをこの時から救って下さい」と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ』。主は定められたる目標に向かいて生涯を送りたまいました。奈如なる苦難に会いましても、定められたる目標に向かいて旅行をなしたまいました。私共も同じように心を定めてその目標に向かいて進まなければなりません。途中で如何なる苦難に会いましても、その目的を成就しなければなりません。ヘブル十二・二をご覧なさい。そうですからその前に置くところの喜楽を見たまいました。またそのために苦しみを堪え忍びたまいました。けれどもこの二十七節を見まするならば、罪に勝利を得る戦争の烈しきことが解ります。
『父よ、御名の栄光を現してください』。ちょうど主の祈りの第一の求です(マタイ六・九)。その祈りに循うて苦しみを堪え忍ぶことができました。
『すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した」』。今まで主イエスの降生によって神の栄えが顕れました。『再び栄光を現そう』。これは主の復生を指す言葉ですと思います。『既に栄光を現した』。これはラザロの復生です。『再び栄光を現そう』。これは主の復生を顕す言葉です。
神は明らかに語りたまいました。けれども人間は鈍くありましてそれを悟りません。或る人はただ肉に属ける思念をもって、これは雷なりと申しました。或る人は少しく霊に属ける者でしたから、天の使者なりと申しました。けれどもこれは本当に神の聖声であります。神は語りたまいまするならば、人間はいつでもそれを誤ります。ただ雷のように自然のことですと言い、或いは天使の声であると申します。どうぞ私共は耳を開きまして、神が語りたまいまする時に、本当にその聖声を聴き分けとうございます。
その時は実に大切の時です。世の存亡の定まる時です。そうですから神は天より聖声を聞かしめたまいました。
『今こそ、この世が裁かれる時』。主の十字架は世の審判の初めでした。世は主を審くと思いました。けれども却って主イエスの審判はこの世の審判でありました。何故なれば主を審くことに由りて、自分の汚れたる心を示しましたからです。人間は聖なる神の独り子を審きまするならば、それに由りて自分の心の悪を示します。主を憎み主を殺しますから、それに由りて自分の心の悪の度を示します。
主はご自分の身において、この世の罪を負いたまいます。またこの世の受くべき報いを受けたまいます。
『この世の支配者が追放される』。今サタンはこの世の位より追い出されます。
主はこの世の位に上りたまいます。一方から見まするならば十字架は主の位でした。王の位でした。そのために権力を張りたまいました。またそのために漸次世界の王となりたまいます。本節によりて主がその十字架の恥と痛み、その栄えとその事業の成効をも、よく知りたまいましたことが分かります。
神は私共各自に光を与えたまいます。けれどもその光に従うことができませんならば、神はその光を変えて暗となしたまいます。エレミヤ十三・十六をご覧なさい。これは実に恐懼るべきことです。私共は神の光を受け入れませんならば、漸次暗となります。そうですから三十五節において、ユダヤ人のために恵みの日がいまだ僅少く残っております。けれども早く逝去りますから、極めて危うい時でした。急いで救いを得ませんならば致し方はありません。
今までたびたび救いの言を与えたまいました。けれどもそれに聴き従いませんから、いま彼等を避けてご自分を隠したまいました。現今でも神は同じように罪人を取り扱いたまいます。萬殊なる方法をもって、救いを言い顕したまいます。救いの途を示したまいます。けれども罪人がそれに聞き従いませんならば、神はご自分を隠したまいます。ホセア五・十五をご覧なさい。そうですから神は永い間、罪人を尋ねたまいます。けれども罪人がそれを断りまするならば、仕方がありません。神は退いてご自分を隠したまいます。
今までに信じません人々は、もう仕方がありません。今までに信ずる機会がたくさんありました。けれども主を信じませんから、もう仕方がありません。黙示録二十二・十一をご覧なさい。その時にも同じ模様を見ます。今までに汚れたる者は、潔められる機会がありました。けれどもそれを拒みましたから、今から永遠汚れたるままに留まります。今までは潔めを得られました。けれども却って汚れを択びましたから、これから後は潔めを得る機会がありません。
多くの休徴がありました。けれども人々は頑固なる心をもって、それを信じませなんだ。
『彼の榮』。すなわち主の栄えです。そうですからヨハネは、イザヤ六章の話を引きました。その時にイザヤは殿の中に主の栄光を見ました。他の人々は主を見ませなんだ。けれどもそのとき主の栄光は明らかに輝きました。ただ心の眼の開かれたイザヤのみが、これを見ることができました。他のイスラエル人はこの栄光を見ることをあまり望みません。いま三年間にユダヤ人の中に、神の栄光が輝きました。けれどもただ心の眼の開かれたる者のみそれを見ました。他のユダヤ人はみなそれを見ることを望みませずして、それを信じませなんだ。けれども明らかにその眼の前に、その稜威が輝きました。これまで研究ましたごとく、多くの休徴と多くの不思議なる行いがありましたから、すべてのユダヤ人は信ずる筈でした。けれどもかえってその心を鈍くして、その目を闇くして、神と神の恩寵を拒みました。神の栄光は明らかにユダヤ人に顕れましたのに、ユダヤ人は却って彼を侮りました。現今でも至るところに同じことを見ます。
そうですからその不信仰に由りて自分を審判きました。主に従いませんから、それによりて彼等の心が現れました。神の栄えより人の栄えを好んだることが分かりました。その時にも主は人間を審きたまいました。外面の審判ではありません。心の審判です。人間は主を受け入れることと受け入れませんことに由りて、自分の心を示しました。
これは主の公の説教の大意であると思います。これは何処にて仰せたまいましたかは記されてありませんが、ヨハネはこの処に主の公の説教の大意を記しました。
『叫んで、こう言われた』。七・二十八及び十一・四十三を引証なさい。罪人を罪の墓より覚ましたまいとうございますから、声を上げて呼びたまいます。
『わたしを遣わされた方を信じるのである』。やはり子は父と一なりと仰せたまいます。
四十四節の信ずると四十五節の見るとの区別をご覧なさい。信ずるとは自分の方から主に身を委すことです。見ることは主の真正の栄光が解ることです。この両節において主イエスを信ずる者は父なる神をも知ることが解ります。主が父をも現したもうことをも解ります。
『世を救うために来たからである』。そのためにすなわち救いのために、この世に降りたまいました。再びこの世に降りたまいます時には、世を審判かんためです。けれども今来りたまいましたことは、世を救わんがためです。
主はまたご自分を受くることと、ご自分を棄つることの大いなる結果を言いたまいました。いま主を棄てましても急に審判を受けません。けれども漸次未来の審判が来ります。
またこの言は主が公然ご自分を顕したまいましたことの終わりです。この時からただご自分の弟子等に語りたまいました。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 結論 | 目次 |