第 十 二 章 



一、二節

 しゅは今まで多くの休徴しるししたまいました。また終わりに十一章において、明らかなるよみがえりの休徴をなしたまいました。けれどもユダヤびとのごとくなお信じませんならば、もはや仕方がありません。主は今から休徴を為したまいません。けれども今まで為したもうた休徴によりて、或る人の心に主ご自身を愛するもできました。一〜八はその一例です。また主を信ずる者もできました。主はきたるべき王であることを信ずる者もできました(十二〜十六)。またほかの国々より主を慕う者もできました(二十、二十一)。そうですから愛もできました。信もできました。したいもできました。このうえ続いて休徴を為したもうわけはありません。今までなしたもうたる休徴のために、愛も信も慕もできましたから、その休徴は明白です。それを拒みまする者は、その心が頑固でありまして、他にどのような明らかな休徴がありましても、信ずることはできません。神が現今いま奇跡を行いたまいません理由わけは、ここにあるかも知れません。

 もう一度マルタ、マリア、ラザロの三人をご覧なさい。ここに信仰の三つの階段を見ます。

 『マルタは給仕をしていた』()。マルタは義務的の考えをもって、主のために働きました。ラザロは主と共に坐する者のうち一人いちにんでありました。彼は主とともに交わりを得ました。これは一歩進みたる階段であります。けれどもマリアは主のために心の愛を流しました。これは一番高尚なる信仰の模様です。

三  節

 『香膏にほひあぶら』。これはラザロのしかばねに塗るために買いましたものかも知れません。『家は香油の香りでいっぱいになった』。これについて雅歌一・十二をご覧なさい。『王その席につきたまふ時 わがナルダその香味かをりをいだせり』。この引証によってマリアのおこないの霊の意味を悟ることができます。主はわが王なりと思いまして、愛をもって主に仕えまするならば、その愛の行いは香油においあぶらのごとく、主を喜ばせ主を崇め、また人間をも喜ばせるものであります。本節と十一・五十七を対照なさい。尊貴とうとき人間は主を殺さんと謀りました時に、主はひそかに愛のしるしけたまいました。そのために主は幾分か安慰なぐさめ喜楽よろこびを得たまいました。敵が如何いかに主を殺さんと謀りましても、そういう愛の行いがありまするならば、主は必ず喜びたまいます。おお私共わたくしどもはどうぞおのれついやしまして、己を流しまして、価高きものをも流しまして、主を喜ばせとうございます。

 主は三度みたびあぶらそそがれたまいました。使徒十・三十八のごとく神の働きのためにあぶらをそそがれたまいました。御在世中の務めのためにあぶらをそそがれたまいました。この十二・七において死ぬることのためにあぶらをそそがれたまいました。またおわりヘブル一・九をご覧なさい。そうですから永遠のために喜楽よろこびあぶらをそそがれたまいました。

四〜六節

 マリアのうるわしい行いに反対する者があります。この人はそのうるわしい行いを悟りません。愛の価値ねうちを悟りません。愛の価値ねうちは銀何百と計算することはできません。愛の価値ねうちは銀三百を費やしましても、それよりも優れたるものであります。私共のうちにもそういうことを言う者があるかも知れません。あなたは何故なぜそれほどの銀を費やしますか。何故それほどの長所を費やしますか。ほかの仕事をするならば必ず名誉を得ます。必ず大いなる働きができます。ただ伝道のためにその長所を費やしまするは、実に無益ですと申す者もありましょう。使徒の一人でもそういうことを言いましたように、今でも教会のうちで尊ばれている者のうちでも、そういうことを言うかも知れません。けれどもそのような人には、愛の価値ねうちわかりません。またこの人は神のそういう行いを喜びたもうことを知りません。ただ商売的の考えをもって愛の行いを計りますから、真実ほんとうにその価値ねうちを判断することはできません。

七、八節

 人間は私共に反対しましても、主が私共の心を知りたもうならば福祉さいわいです。主はマリアの心がわかりました。マリアの愛が解りました。私共も赤心まごころをもって愛の行いをしまするならば、主はそれを知りたまいますから、それで満足を致しとうございます。ピリピ二・十七をご覧なさい。『血を流してそゝぐとも』。これはマリアの行いと同じことであります。

九〜十一節

 ラザロをご覧なさい。彼の履歴はちょうど私共の履歴と同じことではありませんか。

 第一に主にせられました(十一・五)。
 第二に復生よみがえりを得ました。これはちょうどエペソ二・一のようです。また主によって自由を得ました(十一・四十四八・三十六)。
 第三に他の罪人つみびとを主に導きます(十一)。私共も同じように復生よみがえりける生涯を送りますならば、罪人を導く力もあります。
 第四に主とわりて主の筵席むしろあずかります()。
 第五に主のために迫害を受けます()。

十二〜十九節

 それにりて主の威勢を見ます。主は六・十五のごとく人々が王とせんことを謀りました時に、そのところを去りたまいました。たびたびそういうことを拒みたまいました。主は人の名誉をねがいたまいません。けれども最後おわりにエルサレムを救わんがためにそれを許したまいました。主はたびたびエルサレムのなか休徴しるししてご自分の神たることを表したまいました。たびたびエルサレムの中で生命いのちことばを語りたまいました。けれどもそのことによりてエルサレムは信じません。最後おわりに人間のさかえをもって、エルサレムにきたりたまいました。それはエルサレムの救いの終りの機会です。エルサレムがなお信じませんならば、もう亡ぶよりほかに仕方がありません。主は最後おわりにこのように、幾分か栄光をもってエルサレムに行き、このエルサレムを救いたまいとうございます。主がこれをなしたもうたのは、エルサレムに救いを得べきすべての機会おりを与えて、遺したもうところがないためでした。

 主は公にユダヤびとの王となることを示したまいます。キリストは公に彼らの王として、自ら進んででたまいます。『世はあげてあの男について行った』(十九)。それにりて主がご自分の生命いのちてたまわねば、人間はこれを奪うことができんことを見ます。その時に主が王となりとうございまするならば、王となる方法がありましたでしょう。ユダヤ全国の人民ひとびとは主を王といたしましたでしょう。そうですから主が十字架にのぼりたまいましたことは、人間の力によりてではありません。自ら生命をてたもうたのであります。主は必ず人間の力より逃れることができました。けれども世を救わんがために喜んで、ご自分をてたまいました。

 その時に主はご自分を王としてで行きたまいました。またゆきて彼を迎える者が多くありました(十二、十三)。その時に主は王となりたまいません。けれどもこのことは未来のことの小さい雛形ですと思います。主はふたたび栄光をもって、王となって出でゆきたまいます。その時に新郎はなむこを迎えにいずる者が多くあります(マタイ二十五・一)。ちょうどここで王を迎えに出ました者のようです。その時には真正ほんとうに王となりたまいます。どうぞ私共はその日のために備えができまして、よろこんで主を迎えに出たいものです。

 主は死罪に宣告されたまいます。けれどもただいま話しましたように、主を愛する者もあります。また主を信ずる者もあります。今日いまでも主を殺そうと謀る者がたくさんあります。どうぞ私共はひそかに静かに、主のためにおのれを流し愛を流し、或いは勇気をもって主を崇め奉り、そして生涯を送りとうございます。或いはマリアのごとく窃かに、或いはこの人々のごとく公に、主を崇めたいものであります。

二 十 節

 主は漸次だんだん死に近付きたまいます。十一・五十に祭司のおさはそれを預言致しました。また十二・三〜七に愛する弟子たちは心のうちにそれを感じました。ただいまこの二十節より主はもう一度、明らかにそれを預言したまいます。また幾分か死の苦しみを覚えたまいます。

 このギリシャびとは異邦人でありました。けれどもその時にエルサレムの宮殿みやは、世界中に神のあかしでありましたから、外国の人々が心のうちけがれたる偶像教を捨てとうございまするならば、必ずエルサレムの宮殿みやを求めなければなりません。神はそのためにエルサレムに宮殿みやを設けて、世界中の燈明台とならしめたまいました。

二十一節

 四十五節をお比べなさい。異邦人でも知らず識らず救い主を求めました。異邦人は心のうちに神に手を伸ばして救いを願いました。

二十二節

 主の耳にこの叫びは使徒十六・九の叫びと同じことでありました。『その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニアびとが立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った』。今この異邦人の叫びはちょうど同じような叫びであります。またただにこの二人ににんのみではありません。ほかの異邦人皆々の叫びであると思います。この二人はただ彼等の代表人でありました。主はそれを聞きたまいました時に、必ず旧約の預言が成就せられることを感じたまいましたでしょう。たとえばイザヤ四十九・六をご覧なさい。これは主イエスに対して言われたる預言です。そうですから主はこの時にこの預言が成就せられたることを、悟りたまいましたでしょう。けれども主の答えは何でありますか。二十三節をご覧なさい。

二十三節

 栄えを受くる前に十字架を負わねばなりません。十九、二十両節をご覧なさい。十九節において『世はあげてあの男について行った』。また二十節において異邦人のうちにも、主を求める者もありました。そうですから主が名誉心がありまするならば、王となることができましたとも思います。主は実に王となることができました。当時そのとき主の前に二つのみちが置かれてあります。一つはこの人たち懇求ねがいを聴きれて、王となることです。また一つは十字架を負うことです。いずれを撰びましょうか。主は安易やすらかなる道を捨てて、十字架を負う道を撰びたまいました。そうですから二十四節において、主はいま王の位にとどまるべき時にあらずして、十字架を負うべき時なることを仰せたまいました。

二十四、二十五節

 実に深い真理です。この真理はいま聖書に記されてあります。けれども最初はじめから天然の書籍しょもつに記されてあります。神は私共に二つの書籍しょもつを与えたまいました。一つは黙示の書籍しょもつすなわち聖書です。一つは天然の書籍しょもつすなわち眼に見ゆる自然界です。私共は自然物によって神のことを悟ることができます。この二十四節は深遠なる真理です。奥妙おうみょうなる哲学です。いま黙示の書物に記されてあります。けれどもはじめより自然界のうちに書いてあります。この異邦人の思念かんがえでは主は王となることによりて、多くの実を結ぶと思いました。けれども主の思想はちょうど反対です。死ぬることによって多くの実を結びます。小さきたねをご覧なさい。この小さき種のうちには大いなる樹の勢いと功能とがことごとく入ってあります。大いなる樹は小さき種の中に全く含まれてあります。ちょうど主は神のたねです。『父すべての德を以て彼に滿しめ』(コロサイ一・十九)。『智慧と知識の蓄積たくはへは一切キリストにかくれあるなり』(同二・三)。『それ神の充足みちたれる德は悉く形體かたちをなしてキリストにすめり』(同二・九)。キリストは神の種でした。キリストの裡に神のすべての性質が含まれてあります。そうですからこの二十四節をご覧なさい。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』。今この一粒の麦について考えとうございます。

 『地に落ちて』。主は肉を取りたまいました時に地に落ちたまいました。神の国の光、神の国のことを捨てて地に落ちたまいました。一粒のたねが地に落ちまするならば失われたるものの如く見えます。人間から捨てられたるもののごとく見えます。外面うわべより主の生涯を見まするならば、人間に捨てられ神に捨てられたもうようです。主は地に落ちたる一粒の種のように、地に限られ地に収められ地に妨げられまして、生涯を暮らしたまいました。主は地に落ちて罪人つみびとの怒り、罪人の迫害、罪人の反対に遭いたまいました。

 一粒のたねは地にとどまりますることによって漸次だんだん死にます。主の生涯は死の生涯でした。この種は地に落ちましたから、始めから終わりまで死の生涯でありました。ルカ十二・五十をご覧なさい。『しかし、わたしに受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう』。

 ただ眼で見ますならば、漸次だんだんそのたねは無益となります。地にとどまりますから、漸次だんだん無益となるように思われます。けれどもその種は復生よみがえります。兄弟よ、この地に落つることは私共を指すことであります。私共も同様に、死の生涯を暮らしませんならば、多くの実を結ぶことはできません。地に落つることのために、やはり死のところに留まりまして、毎日毎日おのれに死にまして、静かに人間の迫害、憎悪にくみ、怒りを堪え忍ぶことはすなわち地に落つることであります。或る兄弟は現世このよの利益を捨てました。主と主の福音のために、生涯を捨てました。これは地に落つることです。多くの朋友ともだちに反対せられまして、これは愚かなることと言われます。けれども主の模型てほんに従いて、地に落ちます。そうしませんならば『一粒のままである』。主でもその地に落つることによりて、多くの実を結びたまいました。ただ天国に留まりたまいまするならば、一つにて留まりたまいましたでしょう。天の使いが多くありましても、一つにて留まりたまいましたでしょう。ただ死によりてのみ多くの実を結びたまいました。どうぞ人間または悪魔が自分の勝手に従いて、あなたがたを取り扱いあなたがたを迫害し、あなたがたを痛めまする時に、このことを記憶おぼえなさい。ヘブル十二・三は地に落ちることを指します。主は地に落ちたまいました。どうぞそれを覚えてみ疲れて心をうしなわないように致しとうございます。

 けれども地に落つることのみではありません。また死ぬることです。『しなずば』。これは十字架を指すことばです。主は十字架復生よみがえりによって、多くの実を結びたもうことができます。一粒のたねが死にまするならば、漸次だんだんいでまして多くの実を結ぶことができます。一粒の種が死にまするならば、新しき栄光さかえある形をもらいます。以前の形よりも実に輝けるうるわしい形を受けます。主でも死とよみがえりによって、新しき輝けるかたちと、新しき栄光さかえを受けたまいました。ピリピ二・七をご覧なさい。『かえって、おのれをむなしうしてしもべのかたちをとり、人間の姿になられた』。これは地に落つることです。同八をご覧なさい。『その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』。これは死ぬることです。また同九に『それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった』とあります。これは新しき形を得て、多くの実を結ぶことを指します。主は甦りと昇天によって、如何いかなる形を得たまいましたか。すなわち教会であります。教会はその形です。死にたもうまでは一粒の種のように、ただ一つにてとどまりたまいました。けれども死にたまいたることによって、新しきかたちを受けたまいました。またそのかたちはご自分の形です。麦は以前の麦の種と同じ形を生みます。ちょうど教会は主の形をる者を生みます。教会はまた漸次だんだん実を結びまして、ついに世界中を充たす器械であります。またどういう器械で世界を充たしますか。麦は以前の麦の一粒と同じ種であります。いま教会はどういう種をもって世界を充たしますか。すなわちキリストと同じ形、同じ性質をつ者です。また麦はそのためにできました。麦の種は何のためにできましたか。また以前の麦の種のように地に落ちて死ぬることによって、多くの実を結ぶ器械となります。キリスト信者は死にますならば、必ず甦りまして、新しき栄光えいこうの実を結びます。おのれに死ぬることによって新しき栄光の実を結びます。

 花は太陽の小さき雛形です、その色は太陽の光の色です。そうですからたねが死にまするならば小さき太陽の形ができます。信者はおのれに死にまするならば、輝ける神の聖貌みかたちつことができます。種が地に落ちまするならば、その地の暗いところにも太陽の勢いを覚えます。そこにていったん死にますが、太陽の熱と光のために復生よみがえりまして、太陽の小さき形となります。おお信者よ、あなたは地に落ちて己に死にまするならば、神の光とその愛の熱のために復生よみがえりまして、神の栄光のかたちを受けます。『地に落ちて』。どうぞ私共は全く神のうちに落ちとうございます。他の事を捨てて全く神のうちに葬られとうございます。洗礼式はこのことの小さき雛形です。神のうちに葬られることです。そうですからキリスト信者はそれからのちには、ただ神より栄養やしないを取るものです。この種は地に落ちまするならば、地より栄養やしないを取ります。どうぞあなたがたの心の栄養やしないを全く神より受け入れなさい。洗礼を受けたる信者悉皆みなみな地に落ちたる者であるはずです。己に死にたる者である筈です。悉皆みなみな地に落ちたる麦の一粒である筈です。真実ほんとうにそうなりませんならば、その信者は偽善者です。何故なぜなれば洗礼式において、全く葬られたる者と言い顕したるからであります。

 三十二節をご覧なさい。これは多くの実を結ぶことの例であります。主は死によって万民を引きてご自分にきたらせたまいます。或いはイザヤ書五十三・十、十一をご覧なさい。これは多くの実を結ぶことです。また創世記二十二・十七、十八を引証なさい。これは如何いかなる時でしたかならば、アブラハムがイサクを祭壇の上に載せたる時です。アブラハムはおのれに死にました。そうですから多くの実を結ぶことができました。彼はひとり子をすら捨てましたから、かくの如く多くの実を結ぶことができました。私共も多くの実を結びとうございまするならば、語を換えて云わば多くの罪人つみびとを導きとうございまするならば、安易やすらかなるみちを取ることはできません。そのみちはただ一つよりほかにありません。もし死にませんならば多くの実を結ぶことはできません。兄弟よ、これは私共を刺すことばです。いま何故なにゆえ神の爾国くにが妨げられますか。何故なにゆえ伝道が妨げられますか。私共は二三人の悔い改むる者を見まするならば福祉さいわいですと思います。けれども神は衆多おおくの人を救いたまいとうございます。それに何故なぜ神の権能ちからが妨げられますか。何故なぜですか。おお私共は地に落ちて死ぬることを惜しみます。そうですから麦は必ず実を結ぶことはできません。この死ぬることの代わりに、私共は集会を設けます。説教を務めます。各様いろいろの礼拝に参ります。種々伝道の工夫を致します。けれども死にませんならば、そういうことはほとんど無益です。神は私共にそういうことを願いたまいません。神は何を願いたまいますか。ただ死ぬることを願いたまいます。

二十六節

 『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え』。或る人は主につかえます。けれどもカルバリ山まで主に従いません。

 『そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』。これは幸福さいわいです。八・二十一において主は『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と仰せたまいました。主につかえません者は主のいましたもうところにおることはできません。けれども主に従う者は『わがをる所にをらん』。主は御在世中に何処どこにいたまいましたか。地の上にいたまいました時にも何処にいたまいましたか。三・十三をご覧なさい。『天よりくだ天にをる人の子』。そうですから主は地上にくだりたまいました。けれども続いて天にいたまいました。『われつかふる者はわがをる所にをらん』。そうですから私共はこの地におりましても、心のうちには天国におります。天国の経験があります。表面うわべは地に落ちて死ぬごとく思われます。けれども心のうちにてはほんとうに天国におります。天国の幸福さいわいと天国の経験とは、私共の心のうちにあります。

二十七節

 主の眼の前に十字架の影が見えますから『今、わたしは心騒ぐ』。これはゲツセマネのそのの苦しみの初めであります。十一・三十三にも同じ憂いといたみを見ます。彼処かしこではなにのために憂いたまいましたかならば、罪の結果なる死を見たもうたるからであります。また十三・二十一にも同じく心に憂いたもうことを見ます。そこにてはご自分の使徒の一人が、ご自分をわたすことを見て心を憂いたまいました。

 『何と言おうか。「父よ、わたしをこの時から救って下さい」と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ』。主は定められたる目標めあてに向かいて生涯を送りたまいました。奈如いかなる苦難くるしみに会いましても、定められたる目標めあてに向かいて旅行たびをなしたまいました。私共も同じように心を定めてその目標めあてに向かいて進まなければなりません。途中で如何いかなる苦難くるしみに会いましても、その目的を成就しなければなりません。ヘブル十二・二をご覧なさい。そうですからその前に置くところの喜楽よろこびを見たまいました。またそのために苦しみを堪え忍びたまいました。けれどもこの二十七節を見まするならば、罪に勝利を得る戦争の烈しきことがわかります。

二十八節

 『父よ、御名みなの栄光を現してください』。ちょうど主の祈りの第一のねがいです(マタイ六・九)。その祈りにしたがうて苦しみを堪え忍ぶことができました。

 『すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した」』。今まで主イエスの降生こうせいによって神の栄えがあらわれました。『再び栄光を現そう』。これは主の復生よみがえりを指す言葉ですと思います。『既に栄光を現した』。これはラザロの復生よみがえりです。『再び栄光を現そう』。これは主の復生よみがえりを顕す言葉です。

二十九節

 神は明らかに語りたまいました。けれども人間は鈍くありましてそれを悟りません。或る人はただ肉にける思念かんがえをもって、これは雷なりと申しました。或る人は少しく霊にける者でしたから、天の使者つかいなりと申しました。けれどもこれは本当に神の聖声みこえであります。神は語りたまいまするならば、人間はいつでもそれを誤ります。ただ雷のように自然のことですと言い、或いは天使てんのつかいの声であると申します。どうぞ私共は耳を開きまして、神が語りたまいまする時に、本当にその聖声みこえを聴き分けとうございます。

三十、三十一節

 その時は実に大切の時です。世の存亡の定まる時です。そうですから神は天より聖声みこえを聞かしめたまいました。

 『今こそ、この世が裁かれる時』。主の十字架は世の審判さばきの初めでした。世は主をさばくと思いました。けれどもかえって主イエスの審判さばきはこの世の審判さばきでありました。何故なぜなれば主を審くことにりて、自分のけがれたる心を示しましたからです。人間は聖なる神のひとり子を審きまするならば、それに由りて自分の心の悪を示します。主を憎み主を殺しますから、それに由りて自分の心の悪の度を示します。

 主はご自分の身において、この世の罪を負いたまいます。またこの世の受くべき報いを受けたまいます。

 『この世の支配者が追放される』。今サタンはこの世の位より追い出されます。

三十二節

 主はこの世の位にのぼりたまいます。一方から見まするならば十字架は主の位でした。王の位でした。そのために権力を張りたまいました。またそのために漸次だんだん世界の王となりたまいます。本節によりて主がその十字架の恥と痛み、その栄えとその事業わざの成効をも、よく知りたまいましたことが分かります。

三十三〜三十五節

 神は私共各自めいめいに光を与えたまいます。けれどもその光に従うことができませんならば、神はその光を変えてやみとなしたまいます。エレミヤ十三・十六をご覧なさい。これは実に恐懼おそるべきことです。私共は神の光を受け入れませんならば、漸次だんだんやみとなります。そうですから三十五節において、ユダヤびとのために恵みの日がいまだ僅少すこしく残っております。けれども早く逝去すぎさりますから、極めて危うい時でした。急いで救いを得ませんならば致し方はありません。

三十六節

 今までたびたび救いのことばを与えたまいました。けれどもそれに聴き従いませんから、いま彼等を避けてご自分を隠したまいました。現今いまでも神は同じように罪人つみびとを取り扱いたまいます。萬殊さまざまなる方法をもって、救いを言いあらわしたまいます。救いのみちを示したまいます。けれども罪人がそれに聞き従いませんならば、神はご自分を隠したまいます。ホセア五・十五をご覧なさい。そうですから神は永い間、罪人を尋ねたまいます。けれども罪人がそれを断りまするならば、仕方がありません。神は退いてご自分を隠したまいます。

 今までに信じません人々は、もう仕方がありません。今までに信ずる機会おりがたくさんありました。けれども主を信じませんから、もう仕方がありません。黙示録二十二・十一をご覧なさい。その時にも同じ模様を見ます。今までにけがれたる者は、きよめられる機会おりがありました。けれどもそれを拒みましたから、今から永遠いつまでも汚れたるままに留まります。今までは潔めを得られました。けれどもかえって汚れを択びましたから、これからのちは潔めを得る機会おりがありません。

三十七節

 多くの休徴しるしがありました。けれども人々は頑固なる心をもって、それを信じませなんだ。

三十八〜四十一節

 『彼のさかえ』。すなわち主の栄えです。そうですからヨハネは、イザヤ六章の話を引きました。その時にイザヤは殿みやうちに主の栄光を見ました。他の人々は主を見ませなんだ。けれどもそのとき主の栄光は明らかに輝きました。ただ心の眼の開かれたイザヤのみが、これを見ることができました。ほかのイスラエルびとはこの栄光を見ることをあまり望みません。いま三年間にユダヤびとうちに、神の栄光が輝きました。けれどもただ心の眼の開かれたる者のみそれを見ました。他のユダヤ人はみなそれを見ることを望みませずして、それを信じませなんだ。けれども明らかにその眼の前に、その稜威みいつが輝きました。これまで研究しらべましたごとく、多くの休徴しるしと多くの不思議なる行いがありましたから、すべてのユダヤ人は信ずるはずでした。けれどもかえってその心を鈍くして、その目をくらくして、神と神の恩寵めぐみを拒みました。神の栄光は明らかにユダヤ人に顕れましたのに、ユダヤ人はかえって彼を侮りました。現今いまでも至るところに同じことを見ます。

四十二、四十三節

 そうですからその不信仰にりて自分を審判さばきました。主に従いませんから、それによりて彼等の心が現れました。神の栄えより人の栄えを好んだることが分かりました。その時にも主は人間を審きたまいました。外面うわべ審判さばきではありません。心の審判さばきです。人間は主を受け入れることと受け入れませんことに由りて、自分の心を示しました。

四十四〜五十節

 これは主の公の説教の大意であると思います。これは何処いずこにて仰せたまいましたかは記されてありませんが、ヨハネはこの処に主の公の説教の大意を記しました。

 『叫んで、こう言われた』。七・二十八及び十一・四十三を引証なさい。罪人つみびとを罪の墓より覚ましたまいとうございますから、声を上げて呼びたまいます。

 『わたしを遣わされた方を信じるのである』。やはり子は父とひとつなりと仰せたまいます。

 四十四節信ずる四十五節見るとの区別をご覧なさい。信ずるとは自分の方から主に身をまかすことです。見ることは主の真正の栄光がわかることです。この両節において主イエスを信ずる者は父なる神をも知ることが解ります。主が父をも現したもうことをも解ります。

 『世を救うために来たからである』。そのためにすなわち救いのために、この世にくだりたまいました。再びこの世にくだりたまいます時には、世を審判さばかんためです。けれども今きたりたまいましたことは、世を救わんがためです。

 主はまたご自分を受くることと、ご自分を棄つることの大いなる結果を言いたまいました。いま主を棄てましても急に審判さばきを受けません。けれども漸次だんだん未来の審判さばききたります。

 またこのことばは主が公然ご自分をあらわしたまいましたことの終わりです。この時からただご自分の弟子たちに語りたまいました。



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