第 十 九 章
愛に充たされたる神は、世を救わんがために降りたまいました。けれども、世の人々は、却りてこれを亡ぼさんと思います。神は愛と恵みをもって、世に降りたまいました。けれども、人間は神を堪え忍ぶことができません。神はご自分の権威を捨てて、世に降りたまいました時に、世の人々は、却りてこれを亡ぼさんと致します。これは人間の生来です。私共の生来も、このようなものでした。私共もたびたび十字架に釘けよと喊叫びました。神は恩をもって、私共を罪より救わんとしたもう時に、私共はこれを謝絶りまして、十字架に釘けよと喊叫びました。『十字架につけろ』。人々がこんな救い主を謝絶りましたから、救い主はこの世を退きて天国に帰りたまいましたか。罪人がこんな亡びを願いましたから、神はその欲するに任せたまいましたか。決してそうではありません。神はこの謀叛人に対して、なおなお深き恩寵を示したまいます。なおなお罪人をご自分に和らがせたまいとうございます。人間は喜びて、神を謝絶りとうございました。けれども、神は罪人を捨てることができません。死に到るまで罪人を堪え忍びたまいました。生命を捨てて、この罪人のために、贖罪の途を設けたまいとうございます。そうですから、私共はここにおいて、罪人が神に対する生来の嫉忌と、憎悪と、謀叛を見とうございます。またこの罪人に対する神の忍耐と、恩と、愛とを見とうございます。神は死に到るまで、罪人を堪え忍び、罪人のために、生命を捨てたまいました。ここで神の深き愛が現れます。また罪人の深き憎悪が現れます。ここで人間の最深き憎悪(deepest hatred)と、神の最深き愛(deepest love)とが出会います。これによりて、罪の恐るべきことが分りませんか。神は愛をもって顕れたまいました。けれども、罪人はこれを亡ぼしとうございます。人間は却りて神がないことを好みます。今でも人間の生来は、こんなものであります。過去を顧みますならば、私共の生来も、ちょうど同じことです。主を十字架に釘けました者は、啻にローマの兵卒と、ユダヤの祭司のみではありません。実に私共各自でありました。私共の生来は、神が在したまいませんことを好みました。また他の方面からこれをご覧なさい。神は悪魔の工を全く亡ぼすことのできる者を、この世に遣わしたまいました。悪魔の国を亡ぼして、悪魔の奴隷を解き放つことのできる者を、この世に与えたまいました。けれども、人間は神に救われることよりも、自分の罪におることを願います。人間は罪より救われとうございません。神の国よりも、却りて悪魔の国を好みます。悪魔の国より、罪人を救う者が現れたまいました時に、罪人はその救い主を亡ぼさんと思います。これによりて、悪魔の行と、悪魔の力を見ませんか。
悪魔に憑かれたる者は、いつでも同じことを願います。マルコ一・二十三、二十四をご覧なさい。ここにも悪魔に憑かれたる者の神に対する嫉忌と、憎悪とを見ます。この悪魔に憑かれたる者は、出来得べくんば、イエスを亡ぼしとうございました。主の恩を全く謝絶りまして、主を追い出しとうございました。このように今ユダヤ人は、すべて悪魔に憑かれております。悪魔の感化を受けて、主に対します。悪魔に憑かれたる人間は、如何なることを願いますかならば、救い主を十字架に釘けよということでした。
けれども、この十九章を見まするならば、主は威厳と聖潔をもって、人間の憎悪と、悪魔の攻撃に対いたまいます。この章において、人間は神を亡ぼさんと思いました。けれども、神は却りて栄光を得たもうたることを見ます。表面より見まするならば、十字架は神の失敗のようであります。けれども、真理によりて見まするならば、神は十字架によりて、栄光を得たまいました。
十八・四十において、主は軽蔑せられたまいました。
十九・一において、鞭打たれたまいました。
十九・二において、罵られたまいました。
十九・三において、掌にて打たれたまいました。
どうぞピラトが申しましたごとく、『見よ、この男だ(Behold the man)』(十九・五)。ヨハネが申しましたごとく、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(Behold the lamb of God, which taketh away the sin of the world)』(一・二十九)。またピラトが申しましたごとく、『見よ、あなたたちの王だ(Behold your King)』(十九・十四)。私共は三つの方面より、主イエスを見なければなりません。
ロマの兵卒は、このように主を打ちました時に、格別に主ご自身を辱めたくはありませなんだ。けれども、公然ユダヤ人の代表者として、主を鞭ちましたのであります。ユダヤ人を辱めとうございましたゆえに、一節において、イエスを鞭ちます。それは恐ろしい刑罰でした。ロマの鞭は、短き杖の端に革の紐を数本着け、その紐の処々に金属が着けてあります。その鞭に打たれる時は、肉割け、たびたび死ぬることがあります。またこの刑罰は、極めて恐ろしきものでしたから、ロマ人にはこの刑罰を加えることを許しませんでした。ただ奴隷のような者にのみ、加えることを許されてありました。
主は割かれたる肉をもって、流されたる血のままにて、祭司の長の前に立ちたまいました。『見よ、この男だ』。私共も自分の罪のために打たれたもうたる、この人を見とうございます。主はこの世の王となるために降りたまいました。義と平安とを与えるために、この世に降りたまいました。そしてこの世は、如何なる冠をもって、これに戴かせ奉りましたか。すなわち棘の冠でありました。私共は主に自分の罪の印なる、棘の冠を与えました。けれども、主は私共に栄光の冠を与えたまいます。
『十字架につけろ』。これについて、使徒十三・二十八をご覧なさい。『死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました』。またエレミヤ十二・八をご覧なさい。『わが產業は林の獅子のごとし 我にむかひて其聲を揚ぐ 故にわれ之を惡めり』。ちょうどその通りでした。この八節は、いま主イエスに成就せられました。
ピラトは三度主イエスに、罪のなきことを申しました(十八・三十八、十九・四、十九・六)。ユダヤ人の訴えは何でありましたかならば、イエスは己を高くしましたということでした。ナザレのイエスは、己を高くしましたということが、ユダヤ人の訴えでした。けれども、事実は全く反対でした(ピリピ書二・六、ヘブル書五・五)。
ピラトは、今までに明らかなる証拠を得ました。けれども、それを受け入れませんから、いま主は答えたまいません。神は私共に明らかなる証拠を与えたまいまするのに、なおそれを拒みまするならば、神は私共が闇黒に行くに任せたまいます。
神は今その権威を与えたまいました。今までその時が来りませなんだから、誰も主に触れることができませなんだ(七・三十)。けれども、神は今そのことを許したまいます。
『わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い』。祭司の長は、神をよく知りました。そうですから、その罪は最も大いなるものでありました。主はピラトのために、弁解したまいとうございます。主はいつまでも、ピラトを救いたまいとうございます。
『そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた』。そうですから、ピラトは、自分の心の中に、決心しました。もはや幾分か主を信じました。
『しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」。ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた』。実にピラトは囚人であります。ピラトは、主の前に審判かれました。この時に、主の前に彼の心は明らかになりました。彼は明らかなる証拠を得ました。けれども、主を十字架に釘けよと命じます。ピラトは、光を得ました。また殆ど主を赦すことを決心しました。けれども、ユダヤ人を恐れまして、主を十字架に釘けました。何人でも福音を聞きまするならば、ピラトのごとく、主を審判かなければなりません。主がピラトの前に曳かれたまいましたごとく、私共は福音を聞きまするならば、主は私共の前に曳かれたまいます。また私共は主を審判かなければなりません。或る人は主を受け入れて主の味方となります。或る人はただ疎かに主を赦します。或る人は主の赦を謝絶りて主を十字架に釘けます。人間は何の故に主を十字架に釘けますかならば、
(一)或る人は、ユダのごとく、利益のためです。
(二)或る人は、祭司の長のごとく、神の光と、聖なることを憎むからです。
(三)或る人は、ピラトのごとく、人間を恐れて、自分の名誉を惜しみますからです。
(四)また或る人は、ローマの兵卒のごとく、自ら主につきて何の定見もなく、徒に雷同して、主を十字架に釘けます。
どうぞこの四種の方面によりて、自分の心を省みとうございます。この四つの種類の者が、相助けて主を十字架に釘けます。私共は今までこの四つの種類の中の一人ではありませなんだか。いま十三節に、ピラトは自分の良心に逆らうて、主を死罪に宣告いたします。この審判の座に坐るは、罪人を死罪に宣告するためでした。これは最も厳粛なる処でした。
『それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった』。いま踰越のために、神の羔が備えられました。
『彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」』。罪の奴隷の叫びでした。これはサタンに誘われました者の叫びです。
『ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた』。これは祭司の長等の叫びでした。ユダヤ人の代表者の叫びでした。それによりて、ユダヤ人は、全くメシヤの望みを棄て、また自分の信仰をも、全く抛げ棄てました。『皇帝のほかに王はありません』とは、全く神と救い主とを離れたる叫びでした。
これは公然職務上より、キリストを郤けたのです。今まで一個人として、たびたび主を郤けました。パリサイ人も、祭司も、主を拒みました。けれども、祭司長は、ユダヤ人を代表して、主を謝絶ります。これは公然の拒絶でした(使徒二・二十三;三・十三、十四;七・五十二)。
一節の鞭つことについて、次の引照をご覧なさい。イザヤ五十三・五をご覧なさい。その痍によりて、私共は癒されました。また黙示録十九・十三をご覧なさい。ピラトが、人民の前に、主を曳き出しました時に、主は同じように血に染みたる衣を着て顕れたまいました。未来において、主は同じように贖いの衣を着て、人間の眼の前に顕れたまいます。ヘブル書二・十、五・八をご覧なさい。
創世記二十二・六、民数記十五・三十六をご覧なさい。罪人を営の外に曳きて、死罪に行いました。いま主は私共のために、罪人となりて、営の外に曳かれて、死罪に命ぜられたまいます。コリント前書四・十三をご覧なさい。いま主は私共のために、世の塵埃となりたまいます。栄光の王は、罪人のために、世の垢のごとくなりたまいます。
そうですから、祭司長は、それに反対しましても、不審がありましても、十字架の上に、主の王たる栄光が報告せられました。
そうですから、全世界の人々に向うての報告でありました。いま世界の真中に、十字架を立てたまいます。また世界中に、主の王なることを布令たまいます。いま世界の王は、血に染みたる衣と、棘の冠とを着て、その位なる十字架に上りたまいました。未来において、黙示録十九・十六のごとく、王の王、主の主たる名が、世界中に顕れます。けれども、いま十字架において、その王たることが世界中に布令られました。
そうですから、神はこの不信者の心を導きて、ご自分の聖意を成就なしたまいました。
神はむかし預言者を導きて、この言を録さしめたまいました(詩二十二・十八)。また今この兵卒どもが知らずして、その預言を成就するように導きたまいます。預言者は識らずして、預言しました。兵卒は識らずして、その預言を成就しました。どうぞそれによりて、神の深遠なる摂理をご覧なさい。
主は三年の間、母を離れたもうて天の父の聖意を成就なしたまいました。けれども、ただいま母を愛する愛が、裕かにありましたことをよく示したまいます。私共も神の聖意を成就するために、或いは父母を離れ、或いは父母の言に背かねばならんかも、分かりません。けれども、主のごとく、いつまでも、彼等を愛し、彼等のために、企図ねばなりません。
神はかく死の恐ろしきことを知りたまいました。けれども、人間となりて、死にたまわねばなりません。
『事竟ぬ』。この言について、創世記二・一をご覧なさい。『斯天地および其衆群悉く成ぬ』。その時には、主は物を造ることを悉く終わりたまいました。いま主は罪を贖うことを悉く終わりたまいました。黙示録二十一・六をご覧なさい。『既に成り』。これは『事竟ぬ』と同じ意味です。その時には、新天新地を造ることを悉く終わりたまいます。サムエル後書二十四・十六にこの贖いの雛形があります。『足り』。その贖いは足れり。『今汝の手を住めよ』。神の独り子が『事竟ぬ』と叫びたまいました時に、父なる神は、足れりと言いたまいました。その贖いは足れり。全世界の罪は、贖われたりと言いたまいます。ローマ五・六〜八をご覧なさい。ああ私共の罪のために、堪え忍びたまいました主の苦しみは果たして如何ばかりでありましたでしょうか。たびたび私共は、身体に幾分か苦痛を覚えることがあります。けれども、心の中には、平安があります。ただいま主は、身体にも、精神にも、霊魂にも、同時に苦痛を負いたまいました。身体はロマの鞭にて打たれ、十字架の釘に割かれたまいました。精神においては、罵られ、辱められたまいました。霊魂の上には、罪の重荷があります。身体の苦痛は、実に烈しいです。精神の苦痛は、なお烈しくございます。けれども、同時に罪の重荷を負う霊の苦痛は、最も烈しくございます。いま主は私共のためにそれを負いたまいます。
神はそれによりて、その愛を顕したまいました。『事竟ぬ』。私共はいま勝利の声を揚げて、事竟りぬと叫ぶことができます。主は私共の身代わりとなりて、死にたまいましたから、私共のために、全き贖いがあります。いま私共は神と全き復和を得まして、罪と地獄より、救われましたから、神の聖前に感謝と讃美を捧げなければなりません。
『靈を付せり』。これは原語では、心より自ら進みて霊を付したる意味であります。人間の死についてはそういう言を使うことができません。
このユダヤ人は、熱心に儀式を行いました。けれども、義を行うことを知りません。彼らは熱心に神が立てたまいました儀式を行いました。けれども、神ご自身を拒みました。私共もたびたびこのユダヤ人のごとくありませんか。熱心に神の儀式を行います。けれども、神ご自身を拒みて、神の聖意を痛めたことはありませんか。
これはよほど大切なることであります。三十五節を見まするならば、ヨハネはこれに自分の印を捺しました。これはよほど意味の深いことです。この血と、水について、ヨハネ一書五・六、八をご覧なさい。主はご自分の血をもって、私共を贖いたまいます。ご自分の水をもって、私共を潔めたまいます。聖霊の水も、贖いの血も、両つながら、主イエスの心より、流れ出ます。主イエスの死にたもうたことによりて、贖いも潔めも、私共に成就せられます。この兵卒は、主に無礼を致しました。けれども、そのために、血と水とが流れ出ました。これは罪の小さき雛形であります。私共は兵卒のごとく、神に対して無礼を致しました。神の心を刺しました。神は如何なることをもって、私共に報いたまいましたかならば、恩寵の血と、水とを流したまいました。
神は人の侮辱に答うるに、恩寵をもってしたまいます。またこのことによりて、旧約の預言が成就せられました。
実にそれによりて、わたしたちの信仰が助けられますと思います。これは実に神が預言せしめたまいました救い主であり、また神が立てたまいました贖いであることを分かります。
他の弟子は、皆恐れて逃げました時に、ヨセフは大胆に、自分は主の弟子なることを表しました。今まで彼は、たぶん他の弟子より軽蔑せられておりました。けれども、いま他の弟子が逃げた時に、大胆に自分は主の愛する弟子なることを表しました。ヨセフは、他の弟子よりも、大胆なる信者でした。私共は兄弟の心を判断することはできません。
弟子が逃げまするならば、神は思いの外に、助者を起こしたまいます。私共は神の命じたもう働きを怠りまするならば、神は外から働き人を起こしたまいます。神は種々の方法を企てたまいます。三・十四を見まするならば、主はニコデモに、十字架のことを預言したまいました。十字架の秘密を彼に示したまいました。たぶん彼はこれによりて、幾分か十字架が分かりましたでしょう。果たして、いま彼の眼の前に主が十字架に挙げられたまいました。そうですから、彼の心中に、必ず光が照りて参りました。彼は十字架を分かりまして、これによりて、永生を得たと確信することができました。彼は今まで、恐れました。けれども、ただいま恐れがありません。ただいま大胆に主の屍を貴びます。
この没薬は、キリストの身が腐らないために、神がニコデモに用いしめたまいました。この尊貴き屍には腐敗がありません(使徒十三・三十七)。また百斤ばかりでありましたから、余るほどにたいそう多くありました。けれども、ニコデモは、愛のために、それほど多く持って参りました。神は少しも腐敗せしめざらんために、多くの分量を命じたまいました。普通の屍を葬るには、それほど多く用いません。そうですから、主は王のごとく葬られたまいました。十九節を見まするならば、主は王のごとく十字架に釘りたまいました。三十九節を見まするならば、王のごとく葬られたまいました。王として尊ばれる者は、かように葬られます。歴代誌下十六・十四をご覧なさい。主はこのとおりに葬られたまいました。また創世記五十・二をご覧なさい。
ここにも、神の摂理を見ます。主はもはや贖罪をなし畢りたまいましたから、神はその屍を尊びたまいます。この墓はまだ人を葬りしことなき処でありましたから、少しの汚れもなく、全く聖き処でした。レビ記において、屍或いは人の骨は、汚れたるものなるを知ります。けれども、この墓は新しい墓でしたから、主の屍は、この聖き処に葬られました。また園もあります。創世記二・八、九をご覧なさい。神は聖き人間のために、園を設けたまいました。また同三章において、園の中において、人は初めて罪を犯しました。ヨハネ十八・一に『園』と言われます。その園の中において罪の重荷を負いたまいました(ルカ二十二・三十九〜四十六参照)。またただいま贖いをなし畢りたまいました。主の屍が園の中に休みております。そうですから、主は耻と弱きをもって蒔かれたまいました。けれども、二十一章において、権威と栄光をもって、挙げられたまいましたことを見ます。
| 序 | 緒1 | 緒2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
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