第 十 九 章 



一〜七節

 愛に充たされたる神は、世を救わんがためにくだりたまいました。けれども、世の人々は、かえりてこれを亡ぼさんと思います。神は愛と恵みをもって、世にくだりたまいました。けれども、人間は神を堪え忍ぶことができません。神はご自分の権威を捨てて、世にくだりたまいました時に、世の人々は、却りてこれを亡ぼさんと致します。これは人間の生来うまれつきです。私共わたくしども生来うまれつきも、このようなものでした。私共もたびたび十字架にけよと喊叫さけびました。神はめぐみをもって、私共を罪より救わんとしたもう時に、私共はこれを謝絶ことわりまして、十字架にけよと喊叫さけびました。『十字架につけろ』。人々がこんな救い主を謝絶ことわりましたから、救い主はこの世を退きて天国に帰りたまいましたか。罪人つみびとがこんな亡びを願いましたから、神はその欲するに任せたまいましたか。決してそうではありません。神はこの謀叛人に対して、なおなお深き恩寵めぐみを示したまいます。なおなお罪人をご自分にやわららがせたまいとうございます。人間は喜びて、神を謝絶ことわりとうございました。けれども、神は罪人を捨てることができません。死に到るまで罪人を堪え忍びたまいました。生命いのちを捨てて、この罪人のために、贖罪あがないみちを設けたまいとうございます。そうですから、私共はここにおいて、罪人が神に対する生来うまれつき嫉忌ねたみと、憎悪にくみと、謀叛を見とうございます。またこの罪人に対する神の忍耐しのびと、めぐみと、愛とを見とうございます。神は死に到るまで、罪人を堪え忍び、罪人のために、生命を捨てたまいました。ここで神の深き愛が現れます。また罪人の深き憎悪にくみが現れます。ここで人間のいと深き憎悪にくみ(deepest hatred)と、神のいと深き愛(deepest love)とが出会います。これによりて、罪の恐るべきことが分りませんか。神は愛をもってあらわれたまいました。けれども、罪人はこれを亡ぼしとうございます。人間は却りて神がないことを好みます。今でも人間の生来うまれつきは、こんなものであります。過去を顧みますならば、私共の生来うまれつきも、ちょうど同じことです。しゅを十字架にけました者は、ただにローマの兵卒と、ユダヤの祭司のみではありません。実に私共各自めいめいでありました。私共の生来うまれつきは、神がいましたまいませんことを好みました。またほかの方面からこれをご覧なさい。神は悪魔のわざを全く亡ぼすことのできる者を、この世に遣わしたまいました。悪魔の国を亡ぼして、悪魔の奴隷を解き放つことのできる者を、この世に与えたまいました。けれども、人間は神に救われることよりも、自分の罪におることを願います。人間は罪より救われとうございません。神の国よりも、却りて悪魔の国を好みます。悪魔の国より、罪人を救う者が現れたまいました時に、罪人はその救い主を亡ぼさんと思います。これによりて、悪魔のわざと、悪魔の力を見ませんか。

 悪魔にかれたる者は、いつでも同じことを願います。マルコ一・二十三、二十四をご覧なさい。ここにも悪魔に憑かれたる者の神に対する嫉忌ねたみと、憎悪にくみとを見ます。この悪魔に憑かれたる者は、出来得べくんば、イエスを亡ぼしとうございました。主のめぐみを全く謝絶ことわりまして、主を追い出しとうございました。このように今ユダヤびとは、すべて悪魔に憑かれております。悪魔の感化を受けて、主に対します。悪魔に憑かれたる人間は、如何いかなることを願いますかならば、救い主を十字架にけよということでした。

 けれども、この十九章を見まするならば、主は威厳と聖潔をもって、人間の憎悪にくみと、悪魔の攻撃にむかいたまいます。この章において、人間は神を亡ぼさんと思いました。けれども、神はかえりて栄光を得たもうたることを見ます。表面うわべより見まするならば、十字架は神の失敗のようであります。けれども、真理によりて見まするならば、神は十字架によりて、栄光を得たまいました。

 十八・四十において、主は軽蔑せられたまいました。
 十九・一において、鞭打たれたまいました。
 十九・二において、ののしられたまいました。
 十九・三において、てのひらにて打たれたまいました。

 どうぞピラトが申しましたごとく、『見よ、この男だ(Behold the man)』(十九・五)。ヨハネが申しましたごとく、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(Behold the lamb of God, which taketh away the sin of the world)』(一・二十九)。またピラトが申しましたごとく、『見よ、あなたたちの王だ(Behold your King)』(十九・十四)。私共は三つの方面より、主イエスを見なければなりません。

 ロマの兵卒は、このように主を打ちました時に、格別に主ご自身を辱めたくはありませなんだ。けれども、公然ユダヤびとの代表者として、主をむちうちましたのであります。ユダヤ人を辱めとうございましたゆえに、一節において、イエスをむちうちます。それは恐ろしい刑罰でした。ロマの鞭は、短き杖の端に革の紐を数本着け、その紐の処々しょしょに金属が着けてあります。その鞭に打たれる時は、肉け、たびたび死ぬることがあります。またこの刑罰は、極めて恐ろしきものでしたから、ロマびとにはこの刑罰を加えることを許しませんでした。ただ奴隷のような者にのみ、加えることを許されてありました。

 主はかれたる肉をもって、流されたる血のままにて、祭司のおさの前に立ちたまいました。『見よ、この男だ』。私共も自分の罪のために打たれたもうたる、この人を見とうございます。主はこの世の王となるためにくだりたまいました。義と平安とを与えるために、この世にくだりたまいました。そしてこの世は、如何いかなる冠をもって、これに戴かせたてまつりましたか。すなわちいばらの冠でありました。私共は主に自分の罪の印なる、いばらの冠を与えました。けれども、主は私共に栄光の冠を与えたまいます。

 『十字架につけろ』。これについて、使徒十三・二十八をご覧なさい。『死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました』。またエレミヤ十二・八をご覧なさい。『わが產業は林の獅子のごとし 我にむかひてその聲を揚ぐ ゆゑにわれこれにくめり』。ちょうどその通りでした。この八節は、いま主イエスに成就せられました。

 ピラトは三度みたび主イエスに、罪のなきことを申しました(十八・三十八十九・四十九・六)。ユダヤびとの訴えは何でありましたかならば、イエスは己を高くしましたということでした。ナザレのイエスは、己を高くしましたということが、ユダヤ人の訴えでした。けれども、事実は全く反対でした(ピリピ書二・六ヘブル書五・五)。

八、九節

 ピラトは、今までに明らかなる証拠を得ました。けれども、それを受け入れませんから、いま主は答えたまいません。神は私共に明らかなる証拠を与えたまいまするのに、なおそれを拒みまするならば、神は私共が闇黒やみに行くに任せたまいます。

十、十一節

 神は今その権威を与えたまいました。今までその時がきたりませなんだから、誰も主に触れることができませなんだ(七・三十)。けれども、神は今そのことを許したまいます。

 『わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い』。祭司のおさは、神をよく知りました。そうですから、その罪は最も大いなるものでありました。主はピラトのために、弁解いいわけしたまいとうございます。主はいつまでも、ピラトを救いたまいとうございます。

十二、十三節

 『そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた』。そうですから、ピラトは、自分の心のうちに、決心しました。もはや幾分か主を信じました。

 『しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」。ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた』。実にピラトは囚人めしうどであります。ピラトは、主の前に審判さばかれました。この時に、主の前に彼の心は明らかになりました。彼は明らかなる証拠を得ました。けれども、主を十字架にけよと命じます。ピラトは、光を得ました。またほとんど主を赦すことを決心しました。けれども、ユダヤびとを恐れまして、主を十字架にけました。何人だれでも福音を聞きまするならば、ピラトのごとく、主を審判さばかなければなりません。主がピラトの前に曳かれたまいましたごとく、私共は福音を聞きまするならば、主は私共の前に曳かれたまいます。また私共は主を審判さばかなければなりません。或る人は主を受け入れて主の味方となります。或る人はただおろそかに主を赦します。或る人は主のすくい謝絶ことわりて主を十字架にけます。人間は何のゆえに主を十字架にけますかならば、

(一)或る人は、ユダのごとく、利益のためです。
(二)或る人は、祭司のおさのごとく、神の光と、聖なることを憎むからです。
(三)或る人は、ピラトのごとく、人間を恐れて、自分の名誉を惜しみますからです。
(四)また或る人は、ローマの兵卒のごとく、自ら主につきて何の定見もなく、いたずらに雷同して、主を十字架にけます。

 どうぞこの四種ししゅの方面によりて、自分の心を省みとうございます。この四つの種類の者が、あい助けて主を十字架にけます。私共は今までこの四つの種類のうちの一人ではありませなんだか。いま十三節に、ピラトは自分の良心に逆らうて、主を死罪に宣告いたします。この審判さばきの座に坐るは、罪人つみびとを死罪に宣告するためでした。これは最も厳粛なるところでした。

十四、十五節

 『それは過越すぎこし祭の準備の日の、正午ごろであった』。いま踰越すぎこしのために、神のこひつじが備えられました。

 『彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」』。罪の奴隷しもべの叫びでした。これはサタンに誘われました者の叫びです。

 『ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた』。これは祭司のおさ等の叫びでした。ユダヤびとの代表者の叫びでした。それによりて、ユダヤ人は、全くメシヤの望みを棄て、また自分の信仰をも、全くげ棄てました。『皇帝のほかに王はありません』とは、全く神と救い主とを離れたる叫びでした。

 これは公然職務上より、キリストをしりぞけたのです。今まで一個人として、たびたび主をしりぞけました。パリサイびとも、祭司も、主を拒みました。けれども、祭司長は、ユダヤびとを代表して、主を謝絶ことわります。これは公然の拒絶でした(使徒二・二十三三・十三、十四七・五十二)。

 一節むちうつことについて、次の引照をご覧なさい。イザヤ五十三・五をご覧なさい。そのきずによりて、私共は癒されました。また黙示録十九・十三をご覧なさい。ピラトが、人民の前に、主をき出しました時に、主は同じように血に染みたる衣を着てあらわれたまいました。未来において、主は同じように贖いの衣を着て、人間の眼の前に顕れたまいます。ヘブル書二・十五・八をご覧なさい。

十六、十七節

 創世記二十二・六、民数記十五・三十六をご覧なさい。罪人つみびとを営の外にきて、死罪に行いました。いま主は私共のために、罪人となりて、営の外に曳かれて、死罪に命ぜられたまいます。コリント前書四・十三をご覧なさい。いま主は私共のために、世の塵埃ちりとなりたまいます。栄光の王は、罪人のために、世のあかのごとくなりたまいます。

十八、十九節

 そうですから、祭司長は、それに反対しましても、不審がありましても、十字架の上に、主の王たる栄光が報告せられました。

二 十 節

 そうですから、全世界の人々に向うての報告でありました。いま世界の真中まなかに、十字架を立てたまいます。また世界中に、主の王なることを布令ふれたまいます。いま世界の王は、血に染みたる衣と、いばらの冠とを着て、その位なる十字架にのぼりたまいました。未来において、黙示録十九・十六のごとく、王の王、主の主たる名が、世界中に顕れます。けれども、いま十字架において、その王たることが世界中に布令ふれられました。

二十一、二十二節

 そうですから、神はこの不信者の心を導きて、ご自分の聖意みむねを成就なしたまいました。

二十三、二十四節

 神はむかし預言者を導きて、このことばしるさしめたまいました(詩二十二・十八)。また今この兵卒どもが知らずして、その預言を成就するように導きたまいます。預言者は識らずして、預言しました。兵卒は識らずして、その預言を成就しました。どうぞそれによりて、神の深遠なる摂理をご覧なさい。

二十五〜二十七節

 主は三年の間、母を離れたもうて天の父の聖意みむねを成就なしたまいました。けれども、ただいま母を愛する愛が、ゆたかにありましたことをよく示したまいます。私共も神の聖意みむねを成就するために、或いは父母を離れ、或いは父母のことばに背かねばならんかも、分かりません。けれども、主のごとく、いつまでも、彼等を愛し、彼等のために、企図はからねばなりません。

二十八〜三十節

 神はかく死の恐ろしきことを知りたまいました。けれども、人間となりて、死にたまわねばなりません。

 『事をはりぬ』。このことばについて、創世記二・一をご覧なさい。『かく天地およびその衆群ことごとなりぬ』。その時には、主は物を造ることを悉く終わりたまいました。いま主は罪をあがなうことを悉く終わりたまいました。黙示録二十一・六をご覧なさい。『既になれり』。これは『事をはりぬ』と同じ意味です。その時には、新天新地を造ることを悉く終わりたまいます。サムエル後書二十四・十六にこの贖いの雛形があります。『たれり』。その贖いは足れり。『今なんぢの手をとゞめよ』。神のひとり子が『事をはりぬ』と叫びたまいました時に、父なる神は、足れりと言いたまいました。その贖いは足れり。全世界の罪は、贖われたりと言いたまいます。ローマ五・六〜八をご覧なさい。ああ私共の罪のために、堪え忍びたまいました主の苦しみは果たして如何いかばかりでありましたでしょうか。たびたび私共は、身体に幾分か苦痛を覚えることがあります。けれども、心の中には、平安があります。ただいま主は、身体からだにも、精神こころにも、霊魂たましいにも、同時に苦痛を負いたまいました。身体からだはロマの鞭にて打たれ、十字架の釘にかれたまいました。精神こころにおいては、罵られ、辱められたまいました。霊魂たましいの上には、罪の重荷があります。身体からだの苦痛は、実に烈しいです。精神こころの苦痛は、なお烈しくございます。けれども、同時に罪の重荷を負う霊の苦痛は、最も烈しくございます。いま主は私共のためにそれを負いたまいます。

 神はそれによりて、その愛をあらわしたまいました。『事をはりぬ』。私共はいま勝利の声を揚げて、事おわりぬと叫ぶことができます。主は私共の身代わりとなりて、死にたまいましたから、私共のために、全き贖いがあります。いま私共は神と全き復和やわらぎを得まして、罪と地獄より、救われましたから、神の聖前みまえに感謝と讃美を捧げなければなりません。

 『靈をわたせり』。これは原語では、心より自ら進みて霊をわたしたる意味であります。人間の死についてはそういうことばを使うことができません。

三十一節

 このユダヤ人は、熱心に儀式を行いました。けれども、義を行うことを知りません。彼らは熱心に神が立てたまいました儀式を行いました。けれども、神ご自身を拒みました。私共もたびたびこのユダヤ人のごとくありませんか。熱心に神の儀式を行います。けれども、神ご自身を拒みて、神の聖意みむねを痛めたことはありませんか。

三十二〜三十五節

 これはよほど大切なることであります。三十五節を見まするならば、ヨハネはこれに自分の印を捺しました。これはよほど意味の深いことです。この血と、水について、ヨハネ一書五・六、八をご覧なさい。主はご自分の血をもって、私共を贖いたまいます。ご自分の水をもって、私共をきよめたまいます。聖霊の水も、贖いの血も、ふたつながら、主イエスの心より、流れ出ます。主イエスの死にたもうたことによりて、贖いも潔めも、私共に成就せられます。この兵卒は、主に無礼を致しました。けれども、そのために、血と水とが流れ出ました。これは罪の小さき雛形であります。私共は兵卒のごとく、神に対して無礼を致しました。神の心を刺しました。神は如何いかなることをもって、私共に報いたまいましたかならば、恩寵めぐみの血と、水とを流したまいました。

 神は人の侮辱に答うるに、恩寵めぐみをもってしたまいます。またこのことによりて、旧約の預言が成就せられました。

三十六、三十七節

 実にそれによりて、わたしたちの信仰が助けられますと思います。これは実に神が預言せしめたまいました救い主であり、また神が立てたまいましたあがないであることを分かります。

三十八節

 ほかの弟子は、皆恐れて逃げました時に、ヨセフは大胆に、自分は主の弟子なることを表しました。今まで彼は、たぶん他の弟子より軽蔑せられておりました。けれども、いま他の弟子が逃げた時に、大胆に自分は主の愛する弟子なることを表しました。ヨセフは、他の弟子よりも、大胆なる信者でした。私共は兄弟の心を判断することはできません。

三十九節

 弟子が逃げまするならば、神は思いのほかに、助者たすけてを起こしたまいます。私共は神の命じたもう働きを怠りまするならば、神はほかから働き人を起こしたまいます。神は種々いろいろの方法を企てたまいます。三・十四を見まするならば、主はニコデモに、十字架のことを預言したまいました。十字架の秘密を彼に示したまいました。たぶん彼はこれによりて、幾分か十字架が分かりましたでしょう。果たして、いま彼の眼の前に主が十字架に挙げられたまいました。そうですから、彼の心中に、必ず光が照りて参りました。彼は十字架を分かりまして、これによりて、永生かぎりなきいのちを得たと確信することができました。彼は今まで、恐れました。けれども、ただいま恐れがありません。ただいま大胆に主のしかばねを貴びます。

 この没薬もつやくは、キリストの身が腐らないために、神がニコデモに用いしめたまいました。この尊貴とうとしかばねには腐敗がありません(使徒十三・三十七)。また百きんばかりでありましたから、余るほどにたいそう多くありました。けれども、ニコデモは、愛のために、それほど多く持って参りました。神は少しも腐敗せしめざらんために、多くの分量を命じたまいました。普通の屍を葬るには、それほど多く用いません。そうですから、主は王のごとく葬られたまいました。十九節を見まするならば、主は王のごとく十字架にかかりたまいました。三十九節を見まするならば、王のごとく葬られたまいました。王として尊ばれる者は、かように葬られます。歴代誌下十六・十四をご覧なさい。主はこのとおりに葬られたまいました。また創世記五十・二をご覧なさい。

四十〜四十二節

 ここにも、神の摂理を見ます。主はもはや贖罪あがないをなしおわりたまいましたから、神はそのしかばねを尊びたまいます。この墓はまだ人を葬りしことなきところでありましたから、少しのけがれもなく、全くきよき処でした。レビ記において、屍或いは人の骨は、けがれたるものなるを知ります。けれども、この墓は新しい墓でしたから、主の屍は、この聖き処に葬られました。またそのもあります。創世記二・八、九をご覧なさい。神は聖き人間のために、園を設けたまいました。また同三章において、園の中において、人は初めて罪を犯しました。ヨハネ十八・一に『園』と言われます。その園の中において罪の重荷を負いたまいました(ルカ二十二・三十九〜四十六参照)。またただいま贖いをなしおわりたまいました。主の屍が園の中に休みております。そうですから、主ははじと弱きをもってかれたまいました。けれども、二十一章において、権威と栄光をもって、挙げられたまいましたことを見ます。



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