ヱホバの火が降りまするならば、人間は其肉の考に從うて、それを眞似たう御座ります。神が恩を降し給ひまするならば、惡魔は何時でも僞りの恩を造ります。恩の降る時は危き時です。神の榮光が顯はれまする時に、度々失敗があります。是は實に殘念なることです。けれども度々然うです。創三章に於て、如斯な失敗がありました。書七章にも、神の力が顯はれたる時に、人間は失敗しました。徒五章に於て神が敎會の中に榮光を顯はし給うたる時に、人間はそれを汚しました。又神の榮光を汚す者は、他の者ではありません。肉の屬であります。私共は神の火を見まするならば、サタンに誘はれて異火を捧げることは容易き事です。肉に屬る熱心、肉に屬る愛、肉に屬る學問。如斯な火を神に献げることは容易き事です。又如斯な火は能く神の火に似て居ります。表面は餘り違ひません。けれども一は天の火です。一は地の火です。一は靈に屬る火です。一は肉に屬る火です。一は力ある火です。一は空しき火です。賽五十・十一を御覽なさい。如斯に自分の爲めに火を起すことは容易き事です。火把を帶ぶることは容易き事です。けれどもその爲に少しも慰を得ません。只神の怒を得ます。オー何卒神の聖き火を俟望みなさい。それを眞似る事をお愼みなさい。本當の火を
此この異火ことびに就ついて腓ピリピ一・十五を御覽なさい。此この人々は極めて熱心でした。けれども他ほかの信者と爭ふ心がありました。彼前ペテロぜん五・二を御覽なさい。『利を貪むさぼるために』、此これは異火ことびです。如斯このやうな異火ことびがありますれば、神の怒いかりを起おこします。徒しとぎゃう八・十八、十九を御覽なさい。シモンは聖靈の力を求めました。けれどもこれは異火ことびでした。徒しとぎゃう十九・十三を御覽なさい。此この人はパウロの說敎の力を得ました。又主しゅの名に由よりて悔改くいあらためる者、癒いやさるゝ者が起おこりし事を見ました。夫故それゆゑに自分も同じ名を呼びました。如斯このやうな異火ことびを献ぐる傳道者が澤山たくさんあります。例令たとへば或る靈みたまに滿みたされたる人の說敎に由よりて、大おほいなる働はたらきが起おこりました。夫故それゆゑに自分も同樣に說敎せんと思ひます。けれどもこれは異火ことびです。自分が心中こゝろのうちに主の名の力、主の救すくひの力を感ぜずして、表面うはべだけ同じ樣やうに說敎しやうと致します。是これは徒しとぎゃう十九・十三の異火ことびです。オー神に眞まことの火を献げなさい。耶エレミヤ廿三・三十〜卅二を御覽なさい。何卒どうぞ眞まことの火と異火ことびの區別をお悟りなさい。
此この異火ことびを献げたるナダブとアビウは如何いかなる者ですかならば、出エジプト二十四・一、九、十の如く、ヱホバの許もとに上のぼりて神を見たる者でした。此この二人は本當に惠まれたる者でした。彼等は神の事を知らざる者ではありません。本當に神と親しく交まじはりの出來たるものでした。如斯このやうな者が此この恐ろしき罪を犯します。私共はこれを恐れねばなりません。これは格別に今迄いまゝで惠まれたる者の罪です。
九章の終をはりに於おいて、火は神より降くだりて、イスラエル人びとを祝しました。十章の初はじめに於おいて、火は神より降くだりて人間を亡ほろぼしました。神の火は如斯このやうに恐ろしき力があります。主の再臨の時にも、此この二ふたつの結果があります。其その時に神の榮光が顯あらはれて、或ある者を喜ばせます。けれども或ある者を亡ほろぼします。神の前に務つとめを執る事は、恐ろしき事です。私共は傳道に狎なれて輕々しく傳道します。或あるひは今晩は自分の說敎する順番であるからというやうな思想かんがへを以もって、輕々しく人々の前に立ちます。けれどもこれは恐ろしき事です。來ヘブル十二・二十八、二十九を御覽なさい。敬虔つゝしみと神を畏るゝの畏おそれを以もって(英譯參照)、神に仕へ度たう御座ります。實じつに『われらの神は燬盡やきつくす火』です。
『アロンは默然もくねんたりき』。これは幸さいはひであると思ひます。アロンは父ですから呟つぶやき易いです。悲かなしみ易いです。けれども是これは神の正しき審判さばきであると分わかりました。夫故それゆゑに『默然もくねんたりき』。何卒どうぞ神の前に默念なさい。神が審判さばきを與へ給ふても默念なさい。或ある人は聖書の審判さばきの言ことばを讀みまする時に呟つぶやきます。或あるひは信じません。オー義たゞしき神の前に默念なさい。これは私共の爲なすべき事です。私共は神の方面からかゝる事を見なければなりません。六節に錄しるせる如く、私共は神を義とせねばなりません。兎とも角かくも神の御業みわざは義であると承知して默念せねばなりません。
これは以前まへと同じ樣やうな敎をしへです。或る祭司は大膽だいたんに神の前に務つとめを執る爲ために濃酒こきさけを飮み度たう御座ります。けれども神はそれを禁じ給ひます。私共は度々たびたび聖靈の力を起おこす爲ために、世に屬つける方法を使ひます。度々たびたび聖靈の力を起おこす爲ために、此この世の事を以もって刺激します。けれどもそれは神の前に大おほいなる罪です。私共は世に屬つける方法を捨てゝ、只たゞ祈いのりを以もって聖靈を求めねばなりません。かく致しまするならば、明あきらかに罪と聖潔きよきとの區別が分わかります。
私共は他ほかの人々を敎をしふる者ですから、その區別が分わかる事は實じつに大切です。何卒どうぞ心を靜かにして、心中こゝろのうちに毫すこしも肉に屬つける刺激、世に屬つける刺激を容いれずして、只たゞ神の平安やすきと光を得て神にお仕えなさい(結エゼキエル二十二・二十六參照)。
これはアロンと其その子等の特權とくけんです。至聖物いときよきものを食くらふ事は其その人々の特權とくけんです。其その時に大おほいなる悲かなしみのうちに居をりました。神の怒いかりを經驗したる時でした。けれども神はそれを與へて御自分の恩めぐみを示し給ひます。其その子の亡ほろぼされたる爲ために悲かなしみて居をる所のアロンに、慰める者と恩めぐみを與へ給ひます。アロンと其その殘れる子等は、今でも神の祭司でした。悲かなしみの中うちに居をりましても、神の祭司でした。夫故それゆゑに祭司の特權とくけんを受けなければなりません。オー何卒どうぞ私共もそれを覺え度たう御座ります。私共も神の子です。神の祭司です。さうですから不斷たえずそれに適かなふ特權とくけんを受けなければなりません。格別に失敗の時に、自分の特權とくけんを大膽だいたんに受け度たう御座ります。神は如斯このやうな大膽だいたんと信仰を喜び給ひます。其その時にアロンと其その子等は必ず氣を喪おとしました。神の前に出いづるに恐れがある事を感じました。神と和やわらぐ事を忘れて、神を恐れました。さうですから神は此この至聖物いときよきものを與へて、氣を喪おとせる者を勵はげまし給ひます。神は何時いつでも如斯このやうに恩めぐみを與へ給ひます。格別に氣を喪おとせる者を勵はげまし給ひ度たう御座ります。私共は失敗の時に、何卒どうぞ神の恩めぐみを味あぢはい度とう御座ります。聖書に由よりて至聖物いときよきものを食くらひ度たう御座ります。
『之これを壇の側そばに食くらへ』(十二)。『これを聖所きよきところにて食くらふべし』(十三)。聖所きよきところにて、即すなはち神に近付いて、祈いのりを以もって聖書に由よりて至聖物いときよきものを食くらはねばなりません。
これは以前の失敗の如きものです。
十二〜十五節は、自分の爲ために聖きよき事を食くらふ事です。十六〜二十節は他ほかの人々の爲ために贖あがなひを爲なす事です。其その失敗の時に自分を勵ます爲ために、聖きよき事を食くらひました。けれども斯かゝる時に他人の爲ために贖あがなひをする爲ために、聖きよき事を食くらはぬ方が宜よろしいと思ひました。『モーセはこれを聽きゝて善よしとせり』。假令たとへ之これは一番高尚なる途みちでありませんでも、之これを善よしとしました。アロンの答こたへは如何いかなる意味ですかならば、必ず斯かゝる時に神の律法おきての儀文に從うて、それを食くらふ事が出來ます。けれども本當に心中こゝろのうちに、犧牲いけにへの中うちに重荷を負うて、それを食くらふ事が出來ません。夫故それゆゑに其その儀文を守る事は出來ます。其その靈れいの意味を守る事が出來ません。さうですからそれを食くらふ事を止やめました。夫それに由よりてアロンの心中こころのうちに、律法おきての儀文よりも律法おきての靈れいの意味は大切である事が分わかりました。律法おきての時代にも其その儀文を守るよりも、其その靈れいの意味を堅く守る方が神を喜ばす事でした。況いはんや今聖靈の時代に於おいては尚更なほさらの事です。
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