第 十 章  眞の火と異火の區別



一、二節

 ヱホバの火がくだりまするならば、人間はその肉のかんがへに從うて、それを眞似たう御座ります。神がめぐみくだし給ひまするならば、惡魔は何時いつでもいつはりのめぐみを造ります。めぐみくだる時はあやふき時です。神の榮光があらはれまする時に、度々たびたび失敗があります。これじつに殘念なることです。けれども度々たびたびうです。さうせい三章において、如斯このやうな失敗がありました。ヨシュア七章にも、神の力があらはれたる時に、人間は失敗しました。しとぎゃう五章おいて神が敎會のうちに榮光をあらはし給うたる時に、人間はそれをけがしました。又神の榮光をけがす者は、ほかの者ではありません。肉のものであります。私共わたくしどもは神の火を見まするならば、サタンにいざなはれて異火ことびを捧げることは容易たやすき事です。肉につける熱心、肉につける愛、肉につける學問。如斯このやうな火を神に献げることは容易たやすき事です。又如斯このやうな火はく神の火に似てります。表面うはべあまり違ひません。けれどもひとつは天の火です。ひとつは地の火です。ひとつは靈につける火です。ひとつは肉につける火です。ひとつは力ある火です。ひとつむなしき火です。イザヤ五十・十一を御覽なさい。如斯このやうに自分のめに火をおこすことは容易たやすき事です。火把ひのたばぶることは容易たやすき事です。けれどもそのために少しもなぐさめを得ません。たゞ神のいかりを得ます。オー何卒どうぞ神のきよき火を俟望まちのぞみなさい。それを眞似る事をお愼みなさい。本當の火をもって聖靈に感じてお祈りなさい(ユダ二十)。聖靈によりあかしなさい(しとぎゃう一・八)。聖靈によりおのれをお献げなさい(ヘブル九・十四)。自分の火をもって、祈りあかしおのれを献ぐる事は、神の前に罪であります。

 この異火ことびついピリピ一・十五を御覽なさい。この人々は極めて熱心でした。けれどもほかの信者と爭ふ心がありました。彼前ペテロぜん五・二を御覽なさい。『利をむさぼるために』、これ異火ことびです。如斯このやう異火ことびがありますれば、神のいかりおこします。しとぎゃう八・十八、十九を御覽なさい。シモンは聖靈の力を求めました。けれどもこれは異火ことびでした。しとぎゃう十九・十三を御覽なさい。この人はパウロの說敎の力を得ました。又しゅの名により悔改くいあらためる者、いやさるゝ者がおこりし事を見ました。夫故それゆゑに自分も同じ名を呼びました。如斯このやう異火ことびを献ぐる傳道者が澤山たくさんあります。例令たとへば或るみたま滿みたされたる人の說敎によりて、おほいなるはたらきおこりました。夫故それゆゑに自分も同樣に說敎せんと思ひます。けれどもこれは異火ことびです。自分が心中こゝろのうちに主の名の力、主のすくひの力を感ぜずして、表面うはべだけ同じやうに說敎しやうと致します。これしとぎゃう十九・十三異火ことびです。オー神にまことの火を献げなさい。エレミヤ廿三・三十〜卅二を御覽なさい。何卒どうぞまことの火と異火ことびの區別をお悟りなさい。

 この異火ことびを献げたるナダブとアビウは如何いかなる者ですかならば、エジプト二十四・一、九、十の如く、ヱホバのもとのぼりて神を見たる者でした。この二人は本當に惠まれたる者でした。彼等は神の事を知らざる者ではありません。本當に神と親しくまじはりの出來たるものでした。如斯このやうな者がこの恐ろしき罪を犯します。私共はこれを恐れねばなりません。これは格別に今迄いまゝで惠まれたる者の罪です。

 九章のをはりおいて、火は神よりくだりて、イスラエルびとを祝しました。十章のはじめおいて、火は神よりくだりて人間をほろぼしました。神の火は如斯このやうに恐ろしき力があります。主の再臨の時にも、このふたつの結果があります。その時に神の榮光があらはれて、ある者を喜ばせます。けれどもある者をほろぼします。神の前につとめを執る事は、恐ろしき事です。私共は傳道にれて輕々しく傳道します。あるひは今晩は自分の說敎する順番であるからというやうな思想かんがへもって、輕々しく人々の前に立ちます。けれどもこれは恐ろしき事です。ヘブル十二・二十八、二十九を御覽なさい。敬虔つゝしみと神を畏るゝのおそれもって(英譯參照)、神に仕へたう御座ります。じつに『われらの神は燬盡やきつくす火』です。

三〜七節

 『アロンは默然もくねんたりき』。これはさいはひであると思ひます。アロンは父ですからつぶやき易いです。かなしみ易いです。けれどもこれは神の正しき審判さばきであるとわかりました。夫故それゆゑに『默然もくねんたりき』。何卒どうぞ神の前に默念なさい。神が審判さばきを與へ給ふても默念なさい。ある人は聖書の審判さばきことばを讀みまする時につぶやきます。あるひは信じません。オーたゞしき神の前に默念なさい。これは私共のすべき事です。私共は神の方面からかゝる事を見なければなりません。六節しるせる如く、私共は神を義とせねばなりません。かくも神の御業みわざは義であると承知して默念せねばなりません。

八〜十一節

 これは以前まへと同じやうをしへです。或る祭司は大膽だいたんに神の前につとめを執るため濃酒こきさけを飮みたう御座ります。けれども神はそれを禁じ給ひます。私共は度々たびたび聖靈の力をおこために、世につける方法を使ひます。度々たびたび聖靈の力をおこために、この世の事をもって刺激します。けれどもそれは神の前におほいなる罪です。私共は世につける方法を捨てゝ、たゞいのりもって聖靈を求めねばなりません。かく致しまするならば、あきらかに罪と聖潔きよきとの區別がわかります。

 私共はほかの人々ををしふる者ですから、その區別がわかる事はじつに大切です。何卒どうぞ心を靜かにして、心中こゝろのうちすこしも肉につける刺激、世につける刺激をれずして、たゞ神の平安やすきと光を得て神にお仕えなさい(エゼキエル二十二・二十六參照)。

十二〜十五節

 これはアロンとその子等の特權とくけんです。至聖物いときよきものくらふ事はその人々の特權とくけんです。その時におほいなるかなしみのうちにりました。神のいかりを經驗したる時でした。けれども神はそれを與へて御自分のめぐみを示し給ひます。その子のほろぼされたるためかなしみてる所のアロンに、慰める者とめぐみを與へ給ひます。アロンとその殘れる子等は、今でも神の祭司でした。かなしみうちりましても、神の祭司でした。夫故それゆゑに祭司の特權とくけんを受けなければなりません。オー何卒どうぞ私共もそれを覺えたう御座ります。私共も神の子です。神の祭司です。さうですから不斷たえずそれにかな特權とくけんを受けなければなりません。格別に失敗の時に、自分の特權とくけん大膽だいたんに受けたう御座ります。神は如斯このやう大膽だいたんと信仰を喜び給ひます。その時にアロンとその子等は必ず氣をおとしました。神の前にづるに恐れがある事を感じました。神とやわらぐ事を忘れて、神を恐れました。さうですから神はこの至聖物いときよきものを與へて、氣をおとせる者をはげまし給ひます。神は何時いつでも如斯このやうめぐみを與へ給ひます。格別に氣をおとせる者をはげまし給ひたう御座ります。私共は失敗の時に、何卒どうぞ神のめぐみあぢはとう御座ります。聖書により至聖物いときよきものくらたう御座ります。

 『これを壇のそばくらへ』(十二)。『これを聖所きよきところにてくらふべし』(十三)。聖所きよきところにて、すなはち神に近付いて、いのりもって聖書により至聖物いときよきものくらはねばなりません。

十六〜二十節

 これは以前の失敗の如きものです。

 十二〜十五節は、自分のためきよき事をくらふ事です。十六〜二十節ほかの人々のためあがなひす事です。その失敗の時に自分を勵ますために、きよき事をくらひました。けれどもかゝる時に他人のためあがなひをするために、きよき事をくらはぬ方がよろしいと思ひました。『モーセはこれをきゝよしとせり』。假令たとへこれは一番高尚なるみちでありませんでも、これしとしました。アロンのこたへ如何いかなる意味ですかならば、必ずかゝる時に神の律法おきての儀文に從うて、それをくらふ事が出來ます。けれども本當に心中こゝろのうちに、犧牲いけにへうちに重荷を負うて、それをくらふ事が出來ません。夫故それゆゑその儀文を守る事は出來ます。そのれいの意味を守る事が出來ません。さうですからそれをくらふ事をめました。それよりてアロンの心中こころのうちに、律法おきての儀文よりも律法おきてれいの意味は大切である事がわかりました。律法おきての時代にもその儀文を守るよりも、そのれいの意味を堅く守る方が神を喜ばす事でした。いはんや今聖靈の時代においては尚更なほさらの事です。



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