この章はヱホバの節期であります。喜ばしき節です。今迄利未記を硏究して、罪人の罪を深く感じました。又罪の結果、即ち神を離れる事、病、亡、苦等を見ました。又それと同時にキリストの全き贖を見ました。罪人は如何して聖なる神に近く事が出來るかと硏究しました。けれども人間は生來よりそんな强い罪人ですから、生涯の終まで神の前に悲んで居るべき筈でせうか。否、さうではありません。此二十三章を見まするならば、神は人間を喜ばしめ給ひます。神は私共が不斷罪の爲に悲んで居る事を願ひ給ひません。却て父の愛と救主の全き救を感じて喜ぶことを願ひ給ひます。申廿八・四十七、四十八上半を御覽なさい。神はイスラエル人に恩を與へ給ひます。圓滿なる贖を與へ給ひます。格別に私共の喜を願ひ給ひます。夫に因て神の慈愛が分ります。父が其子の喜ぶことを願ひまするならば、それは本當に其子を愛する故です。格別に今まで放蕩したる子に向って、其喜と幸福を願ひまするならば、其父は本當の父であります。私共の神は其樣な神であります。私共の神は其樣に全く私共を受入れたる事を示し給ひます。今迄私共の罪を全く赦し給ひました。今迄私共を全く和がしめ給ひました。こゝで私共に命じ給ふ處の節の話を見ます。この節の意味は私共の喜です。イスラエル人は只だ時に由て神の前に節を祝ひました。私共は不斷神の前に喜ばねばなりません。又その節の時に格別に安息を見ます。此章に於て働を休むことが度々書してあります(三、七、二十一、二十五、二十八、三十、三十一、三十六)。
さうですから神の喜ばしき節の時に休むことは必要です。神は安息を與へ給ひます。基督信者は心の中にそんな圓滿なる安息を頂戴する事が出來ます。これは神の喜の特質です。心の安心立命がありませんならば、神の前に本當に喜ぶことが出來ません。これは神の確實なる恩です。人間は自分の罪の爲に苦勞を耐忍ばねばなりません。働くこと(work)ばかりではありません。勞して(toil)働かねばなりません。これは創三章の詛であります。人間は罪の爲に勞して働かねばなりませなんだ。けれども神は恩を以てイスラエル人に安息を與へ給ひます。私共は心の中にそんな圓滿なる安息を經驗せねばなりません。苦勞することは罪の結果です。心の平安は救の結果です。さうですからこの喜ばしき節に於て喜ばねばなりません。又安息は特質です。さうですから此節は未來の羔の婚姻の雛形であります。イスラエル人はそれを望んでこの喜ばしき節を祝ひました。私共は何故心のうちに望と喜を抱くことが出來ますかならば、未來の喜を俟て居るのです。その爲に心の平安があります。又その爲に神の前に苦の中に喜ぶことが出來ます。
また此節の他の特質は火祭です。八、十三、十八、二十五、二十七、三十六、三十七を御覽なさい。さうですから毎でも節の時に火にて物を献げます。これはどういふ意味ですか。即ち神の喜を經驗し度御座りまするならば、十字架を負はねばならぬことを指します。喜は十字架の下に隱れてあります。私共は十字架を負ひませんならば、本當に喜を經驗することは出來ません。度々私共は自分の心に従うて、十字架を負ふことを免れ度御座ります。けれどもそれは喜を避くる事です。オー私共は神の前に喜ばしき節を祝い度御座りまするならば、毎でも心のうちに火にて祭物を献げなければなりません。毎でも神の前に凡の物を献げて、聖靈の火のうちに、それを燒盡さねばなりません。
第一 安息日(三節)
第二 踰越節(五節)
第三 初穗節(九節以下)
第四 ペンテコステの節(十五節以下)
第五 喇叭の節(二十四節以下)
第六 贖罪の節(二十六節以下)
第七 結茅節(三十三節以下)
第一の安息日は他の節よりも大切であるかも知れません。さうですから神は毎週一度宛それを祝ふことを命じ給ひました。神は格別に信者に安息を與へ給ひ度御座ります。救の特質は安息ですから、七日目毎にそれを紀念致します。此安息は何ですかならば、物を造り給へる神の安息の紀念です。パラダイスの安息の紀念です。人間は罪の爲に一度それを失ひました。けれども神は恩を以て毎週一度づゝ、その失はれたる安息を復び與へ給ひます。又それは來るべき安息の前表であります。私共はさういふ心を以て、安息日を祝はねばなりません。神の恩を思うてそれを祝はねばなりません。或人は嚴しき命令であると思ひます。律法の軛であると思ひます。けれどもさうではありません。これは神の恩です。勞して働く人々に與へられたる神の恩の賜物です。
第二の節は踰越節であります。これは何を紀念しますかならば、イスラエル人がエジプトより救はれたる事を記念する爲です。イスラエル人は最早救はれたる確信がありましたから、この節を祝ふことが出來ました。救を得ましたから喜ぶ事が出來ました。私共はその樣に救はれたる確信がありまするならば、不斷神の前に喜ぶ筈です。さういふ確信がありませんならば、心の中に疑或は恐がありますから、喜ぶ事が出來ません。けれども心の中にさういふ確信がありまするならば、不斷神の前に堅く立て喜ぶ事が出來ます。さういふ喜がありまするならば、格別に惡を去ります。
六節に酵いれぬパンの節があります。此は何を指しますかならば、全く罪と惡を離れることです。哥前五・七、八を御覽なさい。然ですから麪酵は惡毒と暴很を指します。酵いれぬパンは眞實と至誠を指します。私共は心のうちに救の喜がありまするならば、必ず其樣に眞實と至誠を以て神の前に喜びます。必ず惡毒と暴很を去りて神の前に聖なる喜を有ちます。
第三の節は初穗節であります。これは何を指しますかならば、凡の收穫を神に献げることです。初穗を献げましたから、凡のものを神に献げました。羅十一・十六を御覽なさい。初穗に潔ければ凡の物が潔くなります。さうですからイスラエル人は初穗を神に献げる事に由て、凡の產物を神に献げることを示しました。私共は救はれたる者でありまするならば、必ず凡の物を神に献げます。凡の物を以て神に仕へます。凡を献げて神に感謝します。格別に收入の十分の一を献ぐる事に由て、凡の金が神の屬であることを示します。これは神の前に喜ばしき節であります。神に物を献げる事は困難でありません。神に一切を献げる事は喜ばしき節であります。けれども、こゝで尚々深い意味があります。主は人間の收穫の初穗であります。哥前十五・廿を御覽なさい。原語で復生の初穗となれりといふ意味です。羅八・三十四を御覽なさい。キリストは私共の初穗となり給ひましたから、私共凡の代理人となり給ひました。私共の初穗は神の前に顯はれ給ひましたから、凡の收穫が漸次神の屬となりて神の前に顯はれる事を指します。
さうですから此節の話にて、本當の順序を見ます。踰越節に於てキリストの死を祝ひます。カルバリ山の贖を祝ひます。初穗節の時にキリストの復生と昇天を紀念します。
第四はペンテコステの節であります。これは聖靈の降臨を紀念します。御承知の如くペンテコステの言の意味は第五十を意味します。これは五十日目の節ですから、格別に其隱れたる意味は聖靈の降臨です。其日には異なる初穗の献物を見ます。十七節を御覽なさい。この初穗の献物は、以前の初穗の献物のやうではありません。其儘に穗を献げることではありません。これは最早パンに造られたる麥の献物であります。前の初穗の献物はキリスト御自身の昇天を指します。今の献物は敎會を指します。即ちキリストの働が最早成就せられたる事を指します。ペンテコステの日に於て、敎會が神に献げられました事を指します。キリストは一粉の麥として墓に葬られ給ひました。又其復生と昇天に由て、多くの實が結ばれました。又その爲に今此パンが出來ました。其譬話を說明しまするならば、キリストの贖に由て救はれたる者又潔められたる者を神に献げる事が出來ます。キリストの贖の働は最早成就せられました。さうですから救はれたる者は神の初穗といひます。雅一・十八を御覽なさい。即ち初に結べる實です。默十四・四を御覽なさい。即ち初の果です。さうですから私共は神の收穫の初穗であります。敎會も神の大なる收穫の初穗となります。
又十八節の如く、それを神に献ぐると同時に血を流してその贖をします。私共は自己を神に献げるならば、羔の血に依賴んで其身を献げねばなりません。自分の功績に依賴んで、或は自分の義に依賴んで、潔き献物を献げる事は出來ません。只だ流されたる聖血の爲に、神に潔き初穗の献物を献げる事が出來ます。私共は其樣に神に献げられたる者ですならば、格別に生涯の上に親切を顯はさねばなりません。
二十二節を御覽なさい。神は其樣に毎でも親切を盡す事を敎へ給ひます。貧しき者を憐み、又旅する異邦人を憐むことを不斷命じ給ひます。又格別に神の初穗として献げられたる者であれば、私共は其樣に親切を
二十三節以下を見まするならば、七月の節いはひの話が書しるしてあります。七月に三みつの節いはひが書しるしてあります。これは大おほいなる節いはひの月であります。最早ユダヤ人びとは收穫かりいれを終をはりました。さうですから、格別に休むべき時であります。又格別に神の前に集あつまって其その收穫かりいれを感謝して聖きよき節いはひを祝ひます。
第五 七月の第一の節いはひはラッパを吹く節いはひであります。此これは何を紀念しますかならば、出エジプト十九・十六、十九を紀念します。此この節いはひは格別に其樣そのやうな事を紀念します。又此このラッパは神の聲を指します。人間に其その聖聲みこゑを聞かせる事を指します。イスラエル人びとは其その節いはひのラッパを聞きました時に、神は最早人間に其その聖聲みこゑを聞かしめ給うたることを紀念します。而さうして嚴肅に其その命令に從はねばならぬと思ひました。それは私共に何を敎へますかならば、他ほかの人々に神の聲を聞かせる事です。賽イザヤ五十八・一、何ホセア八・一、耳ヨエル二・一を御覽なさい。さうですからラッパを吹く事は、人間に神の聖聲みこゑを聞かせる事を指します。即すなはち福音の宣傳を指します。神の聖旨みむねを傳へることです。私共は不斷たえず神の前にそんな節いはひを祝はねばなりません。これは神の民たみの喜よろこびであります。喜よろこびの節いはひです。他ほかの人々に福音のラッパを吹くことです。
第六 又七月の第二の節いはひは贖あがなひの節いはひです。私共は前に十六章に於おいて贖あがなひの日を硏究しました。格別に其その日にユダヤ人びとの罪が皆取除とりのぞかれました。復一度もういちど神と和やはらぐ事を得ます。此これはその年中としのうちの一番幸さいはひなる節いはひでありますかも知れません。格別に罪を紀念する日ですから、身を惱まし自分の罪を思ひ、悲かなしんで神の前に出いでなければなりません。
第七 又七月の第三の節いはひは結茅節かりほずまひのいはひであります(卅四〜四十一)。其樣そのやうにユダヤ人びとは七月に枝を以もって小さき小屋を作りました。又夫それに由よりて毎年まいねん荒野あれのに於おいて旅せし時に、天幕の中うちに生涯を暮くらせし事を紀念しました。毎年まいねんの何日いつかでしたかならば、丁度ちゃうど收穫かりいれの濟みたる時でした。丁度ちゃうど神の手よりもう一度優ゆたかなる恩めぐみを得たる時でした。豐かに富を得たる時に如斯このやうに祝ひます。荒野あれのに於おいて何をも有もちませなんだ。富を蓄ふる折がありませなんだ。毎日神の手より恩めぐみを得て生涯を暮くらしました。毎日只ただ信仰を以もって暮くらしました。夕ゆふべになれば翌朝あくるあさの爲ために何の貯たくはへもありませなんだ。けれども今カナンの地に於おいて、然さうではありません。毎年まいねんの收穫かりいれを貯たくはえて生涯を暮くらします。さうですから丁度ちゃうど其その富を得たる時に、即すなはち毎年まいねん收穫かりいれの時に、以前の信仰の生涯を紀念します。神はそれを以もってユダヤ人びとに何を示し給ひましたかならば、富が與へられましても、何をも有もって居をりませなんだ時と同樣おなじやうに、只ただ信仰を以もって生涯を暮くらさなければならぬ事を敎へ給ひました。收穫かりいれのなき時に旅行たびをしました時に、神を信じて毎日神より恩めぐみを與へられました。今神は豐かなる富を與へ給ひました。けれども、之これも神の聖手みてより與へられたる恩めぐみである事を紀念しなければなりません。さうですから神が與へ給うたる富を貯たくはへました時に、神は我わが神である、神は恩めぐみの源であることを毎年紀念しました。
又この節いはひは格別に來きたるべき榮光の雛形であります。未來に於おける主の聖國みくにの雛形であります。イスラエル人びとは毎いつでも如斯このやうな思想かんがへを以もってこの節いはひを祝ひました(亞ゼカリヤ十四・十六〜二十一)。さうですから此この節いはひは格別に來きたるべき平安の時、來きたるべき喜よろこびの時を指します。ペテロは變貌山すがたがはりのやまに於おいて、主の榮光を見たる時に、結茅節かりほずまひのいはひが最早成就せられたと思ひました。其その眞まことが最早來ましたと思ひました。主の聖國みくにが來きたりて今から結茅節かりほずまひのいはひの眞まことを經驗すると思ひました(太マタイ十七・四)。又エルサレムに居をる人々は、主を迎へたる時に、最早本當の節いはひが來ましたと思ひました。然さうですから結茅節かりほずまひのいはひの時に樹の枝を用ゐましたやうに、樹の枝を以もって主を迎へました(太マタイ二十一・八)。又其その意味は最早主の聖國みくにが來まゐりました。主の榮光が顯あらはれました。さうですから今から平安と望のぞみを以もって神を祝はうと思ひました。默もくし七・九、十を御覽なさい。此これは本當の結茅節かりほずまひのいはひでありました。人間はこの通とほりに樹の枝を以もって神の聖前みまへに出でました。勝利の印、平安の印、喜よろこびの印を以もって神の前に出でました。又この人々は神の收穫かりいれでありました。イスラエル人びとは收穫かりいれが最早濟みました時にそれを祝ひました。この人々は神の收穫かりいれでありますから、神の前に出でて神を祝ひました。
毎年まいねんイスラエル人びとはこの節いはひを祝ひました時に其樣そのやうな事を俟望まちのぞみました。
本章の節いはひを考へて見ますれば、格別に大おほいなる節いはひが三つあります。第一踰越節すぎこしのいはひ、第二ペンテコステの節いはひ、第三結茅節かりほずまひのいはひでありました。踰越節すぎこしのいはひに於おいて過去の事を紀念しました。羔こひつじの血に由よりて救はれたる事を紀念して神の前に喜びました。ペンテコステの節いはひに於おいて現在の事を思うて喜びます。收穫かりいれの初穗でありますから、神の恩めぐみを受けて喜びました。これは今聖靈を受けて喜ぶ事です。又結茅節かりほずまひのいはひに於おいて未來の事を俟望まちのぞみました。これは未來の榮さかえと未來の安息を俟望まちのぞむ節いはひであります。私共は不斷たえずこの三みつの喜樂よろこびを以もって神の前に喜ぶ筈はずです。過去に於おいて救はれたる事を喜び、今聖靈を受くる事を喜び、未來の榮さかえを望みて喜ぶ筈はずです。オー兄弟姉妹よ、此これは私共に取りて滿足ではありませんか。私共はさういう事を考へて喜ぶ事が出來ませんならば、實じつに頑固なる者であります。然さういふ事を考へまするならば、身に屬つける苦くるしみ、世に屬つける苦くるしみが如何に烈しくありましても、神の前に喜ぶ筈はずです。又これは三位一體の神を喜ぶ事です。過去に於おいて聖子みこの血に救はれました。今聖靈の恩めぐみを得ます。未來に於おいて天父の榮光さかえを見ます。如斯かく三一さんいちの神を祝うてお喜びなさい。又過去の救すくひを紀念して格別に信仰を延のばす事を得ます。又現在の恩めぐみを考へて格別に愛を抱く事を得ます。未來の榮さかえを望んで格別に望のぞみを抱く事が出來ます。何卒どうぞ信仰と愛と望のぞみを以もって神の前に喜び度たう御座ります。これは二十三章の意味と敎をしへの要點です。
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