第十一章  聖と汚れの區別



 十章十一章は、利未レビ記の別るゝ所です。一章より十章までは、聖潔きよきと神の事柄についしるされてあります。十一章より十五章までは、罪と人間の事柄についしるされてあります。

 槪略あらまし十一章より十五章までを見ますれば、

 十一章おいきよき事とけがれたる事との區別を見ます。
 十二章おいて人間はたれでも罪のなかうまれたる事を見ます()。
 十三章おい癩病らいびゃうの說明を見ます。すなは性質うまれつきの罪を見ます。
 十四章おいはじめ癩病人らいびゃうにんきよめられたる事を見ます(二〜三十二)。次にイスラエルの家の癩病らいびゃうを見ます。すなは私共わたくしどもの生涯のけがれです。
 十五章おいて自分の罪のために、ほかの人をけがす事を見ます()。

 このいつゝの章において、格別に罪のことが論ぜられてあります。聖書のうちに罪について一番詳細こまかしるされたる所です。何卒どうぞ私共はこれによりて、罪の如何いかなるものなるかがわかりて、それより離るゝ決心を致したう御座ります。

一、二節

 今迄いまゝで神は殿みやうちに、善悪を辨別することを敎へ給ひました。けれども通常のところおいて、きよき事とけがれたる事との區別を敎へ給ひます。又もろもろけものうちに、きよき者とけがれたる者がありますから、イスラエルびと何時いつでも愼んで、きよき事を守りて生涯をくらすべきことを敎へられました。神は私共にも同じ事を敎へ給ひたう御座ります。今迄いまゝでイスラエルびときよいましめを守りて、神の前にきよき者でありました。さうですから自分のきよき心に從うて、生涯をくらしまするならば、あやふいことはないと思ふかも知れません。けれどもこのきよき者はけがれたる世の中にりて、けがれたる者にむかひますから、不斷たえず愼んで自己おのれを守らねばなりません。エペソ五・十五を御覽なさい。さとりを開かれたる者のやうに、本當に神の知識を得たる者のやうに、けがれたることを悟る者のやうに生涯をおくらしなさい。私共は四周まはりにある者によりて、自己おのれけがす事が出來ます。何卒どうぞそれを堅く覺えたう御座ります。私共の四周まはりにある者のために、きよきを失ふ事が出來ます。きよき心をけがすことが出來ます。さうですからおそれつゝしみとを以もって、不斷たえず自己おのれを守らねばなりません。この十一章いましめよりて、イスラエルびとはカナンがエデンの園のやうでない事を覺えました。これは神の約束の地であります。けれどもエデンの園のやうではありません。私共は利未レビ記一章より十章までの如く、神の前にきよき者でありましても、不斷たえずけがれたる者に出遇であひます。

 イスラエルびとは自分のはたけでたる時に、鳥、けものあるひ昆蟲はふものを見て、それによりて罪のある事がわかりました。それによりて自分はけがれたる世の中にる事がわかりました。けがれたる鳥、けがれたるけものけがれたる昆蟲はふものをも見ました。それにより何時いつでも罪の結果、サタンのわざを覺えました。さうですからさういう事を見ることによりて敎へられました。けれどもそれのみではありません。本章八節を御覽なさい。その意味は何でありますかならば、それを心のうちに受け入れぬことです。私共はこのけがれたる世の中に生涯をくらしますから、必ずけがれたることを見ます。けれどもそれを見ましても、心をきよくして守ることが出來ます。それを見ましてそれをくらふ者、あるひはそれにるゝ者は、そのためけがれを得ます。それにより何卒どうぞ試錬こゝろみと罪の區別を悟りたう御座ります。必ず私共はこゝろみられます。けれどもこゝろみられましても、きよき心をもって罪の點汚しみを得ずして、その試錬こゝろみ耐忍たへしのぶ事が出來ます。

 私共はくらふ者によりて、自分の狀態ありさまわかります。放蕩はうたう息子の狀態ありさまを見まするならば、堕落せる時には豆莢まめがらを食べてりました。けれども悔改くいあらためてふたゝび息子として受け入れられたる時に、立派なる食物しょくもつくらふ事が出來ました。その食物しょくもつよりて、その人の有樣を判斷する事が出來ます。私共はけがれたる心がありまするならば、喜んでけがれを受け入れます。けれどもけがれたる心がありませんならば、けがれたる者をにくみます。心のうちゑたる狀態ありさまがありまするならば、喜んでぶた食物しょくもつくらひます。けれども父の家に歸りまするならば、必ずさういう食物しょくもつにくみます。それを恐れてただきよ食物しょくもつのみをくらひます。私共は喜んで心のうちに受け入るゝものによりて、心の模樣を判斷することが出來ます。さうですからその物の善悪をわかつことは大切です。その時にイスラエルびとは、どうしてけがれたる食物しょくもつと、きよ食物しょくもつとをわかつことが出來ましたかならば、神のいましめよりてゞありました。私共は如何どうして本當に、けがれきよきとを悟ることが出來ますかならば、神のことばよりてゞあります。私共は神のことばよりて、さとりを開かれて、罪を悟る事が出來ます。ヘブル五・十四を御覽なさい。私共はそんなものでありますか。本當に神の前に神のさとりを得て、『善悪よしあしわきまへうる』者でありますか。

 ピリピ四・八を御覽なさい。『おもふべし』。すなはそれくらふ事です。さういうきよきものをくらふ事です。ある信者は度々たびたびあしき事を思ひます。度々たびたびけがれたる事を思ひます。又さういうおもひよりて、さういう者をくらふことによりて、自己おのれけがします。それよりて新聞を讀む事の危險なる事がわかります。それを恐れて氣を付けたう御座ります。新聞にはけがれたる世の有樣が示されます。けがれたる人間の有樣、人間の種々いろいろの肉慾、又さういう慾をおこすことが書いてあります。およそ新聞はけがれたる食事です。何卒どうぞ氣を付けたう御座ります。し甘んじてそれを讀みまするならば、全くそれをめることを勸めたう御座います。提前テモテぜん四・十五を御覽なさい。英語では意味が强う御座ります。『此等これらの事をおもひ、此等これらの事に全く自分おのれを捧げよ』といふ意味です。すなはきよき事をくらふべしといふ意味です。マコ四・廿四を御覽なさい。『きくところをつゝしめよ』。きよき心をたう御座りまするならば、それは大切です。きよき者でもそれを愼まぬためけがれを得ます。

 この十一章八節に『くらふべからず、またさはるべからず』とあります。さうせい三・三、六を御覽なさい。エバは漸々だんだんさはりました。『をんなみれくらふく目に美麗うるはしくかつ智慧かしこからんがために慕はしきなるによりて』、彼女はさはりました。心のうちにそれにさはりました。又つひにそれを取りてくらひました。オー心のうちさはることを恐れなさい。さうせい三十九・十を御覽なさい。『ともにをらざりき』。ヨセフはその通りにさはることを恐れました。罪にちかづくことを恐れました。何卒どうぞ心のうちさはることをも恐れなさい。全く心のうちに罪をくらひませんでも、心のうち度々たびたび心の手を出して、それにさはることを恐れなさい。

 又の章において、ほかの事を學びます。聖潔きよきは何であるか、けがれは何であるかを學びます。今それについて硏究したう御座ります。二節に『地のもろもろ獸畜けものうち』とあります。九節に『水にあるもろもろものうち』とあります。十三節に『鳥のうち』とあります。地の上と水のなか空中そらに飛ぶ者のうちの區別があります。例令たとへば基督キリスト信者は地の上にる者です。ほかの方から見まするならば水のなかにあります。又ほかの方から見ますれば鳥のやうなものです。さうですからこのみっゝの區別によりて敎へらるゝことが出來ます。

三  節

 『地のもろもろ獸畜けもの』、すなはこの世のなかに步んでる者のうちきよき者はどういふ者ですか。こゝにふたつの條件があります。ひづめわかれたるものと反蒭者にれかむものです。ひとつは步む事にきます。ひとつくらふ事にきます。ひづめわかれたる者はあやふところを步む事が出來ます。其爲そのためすべらずしてあやふき岩をも步むことが出來ます。私共はそのやうな者であるはずです。けがれたる世のなかきよき心をもっきよき生涯をくらす事はじつあやふう御座ります。けれどもきよき者は其樣そのやうに足を堅くすることが出來ます。しへん十八・三十二を御覽なさい。又しへん百十六・八にはみっゝすくひが記してあります。前に讀みましたやうに、鹿の足のやうですからあやふところを步くことが出來ます。これに反してしんげん七・八を御覽なさい。やうな人は鹿の足がありませんから、踏みとゞまることが出來ずして、此樣このやうあやふい場合には必ずほろぼされます。又ひづめわかれたる事は速さをも示します。鹿のやうに速く步みて參ることが出來ます。きよき者は必ずその通りに步む者です。又反蒭にれかみます。しへん百十九・九十七を御覽なさい。これは反蒭にれかむことです。牛は長いあひだ草を嚙みます。又それから休息して、それを反蒭にれかみます。きよき者は神のことばを深く思ひます。しへん六十三・五、六を御覽なさい。それは反蒭にれかむことです。オー兄弟よ。度々たびたび何もすることが出來ずして休まねばならぬ時に、あなたのおもひ如何いかゞですか。あるひは人を待たねばならぬ時があります。あるひは汽車を待たねばならぬ時があります。あるひは何もせずして時をつひやさねばならぬ事があります。あるひよる眠られぬ時に其儘そのまゝに寢てらねばならぬ事があります。かゝる時にあなたの思想おもひ如何いかゞですか。それよりて心の有樣を判斷することが出來ます。

 けれどもきよき者はそれのみではありません。きよき者は神の前に時をつひやして神のことば反蒭にれかみます。ルカ八・十五を御覽なさい。それは反蒭にれかむことです。だ聞くのみではありません。これを守ることです。心のうちにこれを思ふことです。如斯このやうきよき者は必ずひづめわかれたる者です。又必ず反蒭にれかみます。

四  節

 駱駝らくだのやうな信者はけがれたる者です。その人は反蒭にれかみます。神のことば受入うけいれます。けれども善惡をわきまへません。そのひづめわかれませんからけがれたる者です。ヤコブ一・廿二を御覽なさい。これ駱駝らくだ信者です。駱駝らくだ信者は聽くのみにして自己みづからを欺きます。けれどもきよき者はことばを行ふ者です。駱駝らくだは必ず馳場はせばを走らぬ者です。徐々そろそろと步きます。重荷を負ひます。けれどもつぶやきながら重荷を負ひます。牛馬うしうまはさういふことを致しません。駱駝らくだつぶやきながら旅をします。駱駝らくだけものうちで一番短氣な者です。駱駝らくだけがれたる者であります。彼は又何處どこにりますかならば荒野あれのります。決して牧場まきばる者ではありません。駱駝らくだ信者は牧場まきばを知りません。善き草をくらふ者ではありません。駱駝らくだ信者はよろこびがありません。滿足がありません。つぶやきながら旅をします。オーさういう信者が澤山たくさんあります。幾分か働きます。けれども駱駝らくだ信者でありますから、神の前にけがれたる者です。『汝等なんぢらにはけがれたる者なり』。何卒どうぞ駱駝らくだ信者とならぬために、ひづめわかれて善惡をわきまたう御座ります。

七  節

 又ぶた信者もあります。さういう信者はひづめわかれたる者であります。けれども反蒭にれかみません。ルカ十八・九のパリサイびとぶた信者の繪畫であります。の人はひづめわかれたる者です。善惡をわきまへます。けれども本當に神のことば反蒭にれかみません。これはぶた信者であります。ひづめわかれてありましても一番けがれたる者です。心のうち種々いろいろの罪が働きます。高慢があります。自己おのれを高くすることがあります。けれども心のうちぶたのやうなけがれたる者であります。彼後ペテロご二・二十二を御覽なさい。一度いちどきよめられました。けれどもひぢなかします。一度いちど鬼が追ひいだされてまたそれを受入うけいれまするならば、のちの有樣は尚々なほなほけがれたる有樣となります。自分はきよき者と思うて、神のことば反蒭にれかみませんならば、パリサイびととなります。ぶた信者となりて神の前に一番けがれたる者となります。

 何卒どうぞこの動物によりて敎へられたう御座ります。神は動物によりそのたみを敎へ給ひたう御座ります。神は聖書に廿四種の動物を雛形として人間を比べ給ひます。私共は何卒どうぞ動物によりて敎へられ、けがれを去りて神の子供として步みたう御座ります。聖なる者としてけがれたる世のなかにもけがれず、かへっほかの人々をきよきに導き、神のたふときものとなりて生涯をくらたう御座ります。

九  節

 格別に私共はくらふべきか、あるひくらふべからざるかについて硏究せずともよろしいかも知れません。けれどもこれによりきよき者の有樣を見ます。又きよからぬ者の有樣を見ます。そのためにこれを硏究したう御座ります。

 水はかういう現象です。一方から見まするならば、信者はこの世の中にあひだは、かういう現象にる者です。九節おいひれうろこのある者はきよき者です。このふたつの者のなき者はけがれたる者です。ひれうろこの意味は何ですかならば、ひれ進むためです。うろこ守られるためです。この世の中にかういう現象にあひだに、進みませんならばけがれたる者です。まもられませんならば必ずけがれます。さうですからひれうろこも必要です。このけがれたる世の中に、戰ひませんならば必ずきよき者ではありません。きよき者は必ず戰うて守られます。パウロはひれうろこもありました。ピリピ三章おいてパウロはめぐみよりめぐみに進むことを見ます。自己おのれを妨ぐる者と戰うて上の方に進みます。これはひれのことを指します。又ピリピ四・七おいて神の平安へいあん不斷たえずパウロの心をまもることを見ます。それはうろこを指します。

 何卒どうぞ神の前に、自分はひれうろこがあるや否やをたしかたう御座ります。さういう精神こゝろがありませんならば、如何に悔改くいあらためて、一度いちどきよめられたることがありましても、必ずきよき者といはれません。

十 三 節

 鳥のうちに如何なる者がきよき者なるか、又如何なる者がけがれたる者なるかをしるされてありません。格別に主義が書いてありません。けれども十三、四節は肉をくらふ鳥です。けがれたる者は肉にける者を慕ひます。是等これらは肉にけるたのしみ、又は欲がありませんならば、滿足しない者です。それついて自分の心を省みたう御座ります。私共は如斯このやうけがれたる肉を食べたく思ふ者ではありませんか。又十五〜十九節を御覽なさい。かういふ者は何でも食べます。差別をせずして物を食べます。きよき者は必ず其樣そのやうな事を致しません。きよき者は差別を立てゝ心のうちに物を受入うけいれます。ある信者は何物でも食べます。すなはち何でも讀みます。何でも聽きます。如何どういふ談話はなしでも區別せずして聽きます。如何どういふ新聞や雜誌でも區別せずして讀みます。かういふ人はいまはしい鳥のやうな者です。私共は神のきよき者となりたう御座りまするならば、さういふ事を避けて、神の心にかなきよき事ばかりを心のうち受入うけいれねばなりません。

 このけがれたる者は鳥のうちります。度々たびたび翼を張りて上に昇る者のうちに、さういふいまはしき者があります。さういふ信者は時によりて信仰を延ばして神に近付く事を得ます。けれどもこの鳥のやうになにでも心のうち受入うけいれますから、きよき者ではありません。

二 十 節

 昆蟲はふものついしるされてあります。ピリピ三・十八、十九を御覽なさい。この十九節昆蟲はふもののやうな信者です。世につけ思想おもひもって、自分の飮食を思煩おもひわづらふ、心のけがれたる者です。パウロはこゝで信者につい書送かきおくりました。これはきよき信者ではありません。信者のうち如斯このやう昆蟲はふもののやうなものがあります。私共はかへっ此處こゝる如く羽翼つばさを張って上に昇るはずです。昆蟲はふものは必ずけがれたる者です。

二十五節

 死骸にさはることのために、けがれを得たる者は直ちにころもを洗はねばなりません。さうですから幾分か聖潔きよきを得ます。けれども幾分かけがれが殘っております。出來るだけそのけがれを洗ひます。けれども矢張やはりそのけがれの汚點しみくれまで殘ってります。くれまでへりくだりて身を愼みてるべきはずの者です。私共はこの世にある者のためけがれを得たる者であるならば、たゞちにそのやうに洗はねばなりません。聖潔きよめを受けねばなりません。けれども聖潔きよめを受けましても、しばらおのれひくくして身を愼みてるべきはずの者です。私は今この章を讀みまするときに、さはることなかれといふことばつい大層たいそう感じました。この章の初めからをはりまでさはることなかれということばを見ます(廿四廿六廿七三十一卅九)。何卒どうぞけがれに御さはりなさるな。私共の四周まはりにはけがれが澤山たくさんにあります。必ず信者はさういう事を致しません。さういう者をくらひません。けれどもさはることをも禁ぜられます。それに近付くことをも禁ぜられます。私共はそれをくらひませんでも、さはりまするならば、けがれを得ます。それによりて戒められたう御座ります。

三十二〜三十五節

 それゆゑに格別に家庭の事を守らねばなりません。家庭の事がけがれまするならば、それは大變です。けれどもけがれ易う御座ります。けがれたる者が落ちまするならば、其爲そのためけがれを得ます。私共はけがれを防がねばなりません。格別に家庭のうちに神のきよき事を守らねばなりません。私共は自然に神の殿みやきよところとして守ります。けれども神はそれには滿足なし給ひません。臺所だいどころをもきよき物とせねばなりません。私共の四周まはりにある物はことごときよくあらねばなりません。ゼカリヤ十四・二十一を御覽なさい。如斯このやうすべての器は神のためきよくあらねばなりません。すべて神のために用ひねばなりません。イスラエルびとけがれを得たる者をほろぼさねばなりませなんだ。神は其樣そのやうけがれたる事をにくむ心をおこし給ひたう御座ります。如何に大切なる物でありましても、けがれたる物ですならば、それをこぼたねばなりません。ユダ二十三を御覽なさい。

三十六節

 さうですからおほくの水のあるところ、又は流れる水のあるところはそのためけがれを得ません。これはじつさいはひです。私共は其樣そのやうける水のとゞまるところ、又は泉であるはずです。私共より不斷たえず生命いのちの水が流れてりまするならば、私共は其爲そのためけがれを得ません。不斷たえずきよき者となる事が出來ます。

三十七節

 これは大槪たいがい同じ意味です。けるたね矢張やはり泉のやうにいのちを與ふる者ですから、そのためけがれを得ません。ピリピ一・十五〜十八を御覽なさい。その時にく所のたねのうちに、かういふけがれが落ちました。けれどもけるたねよろしければ、福音はすこしけがれを得ません。これは丁度ちゃうど本節こゝのようです。必ずその人はけがれを得ます。けれども福音はそのためけがれません。たね生命いのちありて發育する者ですから、假令たとへ死骸しかばねが落ちましてもけがされません。私共もほかの者に生命いのちを與ふるために生涯を送りまするならば、けがされずしてきよく守られます。

三十八節

 たねの上に水がかゝれる時にけがれを得ます。くらふ事は出來ません。このたねく所のたねではなく食事に使ふたねです。生命いのちを與ふるたねではありません。それがゆゑけがれを得ます。私共はほか生命いのちを與ふるためではありませずして、たゞ自分のために生涯をくらしまするならば、けがされやすう御座ります。

四十三節

 私共はこゝに書いてある匍行物はふもののやうな、小さき罪を愼まねばなりません。夫故それゆゑに格別にそれを愼まねばなりません。でんだう十・一を御覽なさい。如斯このやうに私共は本當に聖靈を受けてりましても、しにたるはいのやうな小さい罪がありまするならば、神の前に忌々いまいましう御座ります。私共は小さき匍行物はふものの罪に氣を付けなければなりません。ふ者の罪につい西コロサイ三・五エペソ四・廿五五・六を御覽なさい。ふ者の罪が澤山たくさんにあります。最早きよめられたる者は、さういふ罪について格別に氣を付けなければなりません。

四十四節

 『汝等なんぢらその身を聖潔きよくせよ……我きよければなり』。これは利未レビ記の眼目です。度々たびたびさういふことばを見ます(十九・二廿・七二十六廿一・八十五二十三廿二・九十六)。さうですから神は度々たびたび私共に同じことばをいひ給ひます。御自分のきよき事と、又其爲そのために私共のきよくあらねばならぬ事を言ひ給ひます。けれどもけがれたる世の中に、きよき生涯をくらたう御座りまするならば、けがれたる者ときよき者の區別をわきまへねばなりません。

四十六、四十七節

 イスラエルびとが、きよき者ときよからざる者の隔てを立てましたやうに、私共は心のうちに、さういふ隔てを立てねばなりません。又嚴重にそれを守らねばなりません。私共についきよき者とけがれたる者とは、如何なる者なるかを神の前に定めねばなりません。曖昧にして置きませずして、神の心をもってそれを定めねばなりません。エゼキエル廿二・廿六を御覽なさい。神の前にこのやうに罪を犯してはなりません。おなじく四十四・廿三を御覽なさい。私共はほかの人々にそれを敎へねばなりません。私共は如何どうしてその區別がわかりますかならば、だ神の書物ふみを硏究する事によりてゞあります。イスラエルびと如何どうしてけがれたる者ときよき者の區別がわかりましたかならば、神のことばを硏究する事によりてゞありました。私共は力をつくし時をつひやして、神のことばを硏究し、神の聖旨みむねあきらかに知らねばなりません。西コロサイ一・九、十をご覧なさい。如斯このやうに神の聖旨みむねを知りて、神を喜ばすことが出來ます。神の聖旨みむねを知り、惡とけがれを去り、きよき事のみを行うて、いつまでもきよき者として生涯を送る事が出來ます。私共は聖書によりて、神の聖旨みむねを知りませんならば、不知不識しらずしらずけがれにさはやすう御座ります。聖書によりて神の聖旨みむねを知る事は極めて大切です。さういふ知識を得ません兄弟は、一度いちど聖潔きよめを得ましても、不知不識しらずしらずその身をけがしますから、神の前にけがれたる者となります。



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