これは創二章の有樣です。パラダイスの有樣であります。神は今から其民にパラダイスの幸福を與へ給ひ度御座ります。もう一度人間にそれを經驗せしめ給ひ度御座ります。人間は罪の爲にそれを失ひました。さうですから神は愛するアブラハムを擇びて、其民にパラダイスの幸福を與へ給ひ度御座ります。けれども此人々は復一度それを失ひました。此は神の第二の大なる失望でありました。神は其後主イエスを遣し給うて、今人間の心の中にパラダイスを造り給ひ度御座ります。けれども大槪それを斷ります。敎會さへもそれを斷って、それを經驗する事が出來ません。さうですから神は終に榮光を以て主を顯はし給ふ時に、復一度人間の爲に此地の上に全きパラダイスの有樣を造り給ひ度御座ります。
二十五章に於てヨベルの年の話を讀みました。二十六章に於てパラダイスの話を讀む事は順序です。ヨベルの年はパラダイスの有樣であります。今二十六章に於て神はイスラエル人が其有樣を續くる樣に約束し給ひました。只だイスラエル人は其法に步み、其誡を守りまするならば、この幸を得ます。例令イスラエルの中に奴隷たる者は、ヨベルのラッパの音を聞いて、それを信ずることに由て其幸福を續くる事が出來ました。今同じ樣に、私共は信仰に由てパラダイスの幸を頂戴しました。又約十五章に於て度々讀みまする樣に、主の誡を守る事に由て、私共は主に居り、主は又私共に居り給ひます。それに由て主の誡を守る事の大切なる事が解ります。主は後からイスラエル人の有樣を見て歎き給ひました。詩八十一・十〜十三を御覽なさい。此は神の歎聲です。イスラエル人は如斯に神よりの幸を斷って、自分の邪なる心に從うて步みました。さうですから神の幸を失うて、自分の罪の果を味はねばなりません。今でも同じ事を見ます。神は人間にパラダイスの幸を與へ給ひ度御座ります。けれども基督信者も自分の心に從うて步みますから、神の幸を失ひます。オー何卒恐と愼を以て神の誡を守り、神に從うて步みなさい。
此二十六章の始に格別に神の恩を見ます。神が自分に從ふ者に與へ給ふ所の恩を見ます。其恩は何ですかならば、四節以下に錄されてあります。
第一 沾と實を結ぶ事(四)
第二 滿足と安全(五)
第三 平安(六)
第四 勝利(七)
第五 神の在し給ふ事(十一)
何卒各自深くこの大なる恩を味ひなさる事を願ひます。神はヨベルのラッパを聽いて、御自分の旨に從うて步む者に如斯美しき恩、如斯新しきパラダイスを約束し給ひます。
十三節以下を御覽なさい。私共が神を取扱ひまするやうに、神は私共を取扱ひ給ひます。私共が柔和なる心を以て神に從ひまするならば、神は私共の祈に應へて溢れる程の恩を與へ給ひます。けれども頑固なる心を以て神に對ひまするならば、神も私共にそれ丈の報酬を與へ給ひます。
三節と十二節とを對照なさい。『汝等もしわが法令にあゆみ吾が誡命を守りてこれを行はゞ』。『我なんぢらの中に步みまた汝らの神とならん』とあります。私共は神の法に步みまするならば、神は私共と交わりて私共の中に步み給ひます。
十五節と三十節とを對照なさい。『わが律法を忌きらひて』。『吾心に汝らを忌きらはん』。これは實に恐るべき事です。
二十一節と二十四節とを對照なさい。『我に敵して』、『我も汝らに敵して』。二十八節にも同じ言があります。
さうですから或人は自己を欺して、神の恩に馴れて罪を犯しまするから、その爲に恩を失ひます。
此章の始に神に服從する者の幸を見ます。けれども十四節以下神に反對する者の禍を見ます。こゝに神の五重の威嚇(five-fold threatenings)が記されてあります。初に神に背きまするならば、神は懲し給ひます。この懲戒に從ひませんならば、一層重い懲戒を與へ給ひます。未だそれに從ひませんならば、尚一層重い懲戒を與へ給ひます。如斯に懲戒が層一層重くなる事を指します。
十四節に『汝等もし我に聽したがふ事をなさず』とあります。十八節に『猶我に聽したがはずば』。廿一節『汝らもし我に敵して事をなし我に聽したがふことをせずば』。廿三節『汝ら改めずなほ我に敵して事をなさば』。廿七節『猶我に聽したがふことをせず』とあります。神は人間を悔改に導き給ひ度御座ります。人間は罪を重ねて神に聽き從ひません。こゝで神の大なる忍耐を見ます。罪人が悔改めませんならば、尚々熱心に懲しめ給ひます。如何にもして人間を悔改に導き給ひ度御座ります。十四節の聽き從はざる爲に病氣が起ります。十八節の聽き從はざる爲に缺乏(want)が生じます。造られし者が詛はれます。二十一節の罪の爲に猛き獸が起ります。二十三節の罪の爲に饑饉が起ります。二十七節の罪の爲に滅亡(destruction)と荒廢(desolation)が起ります。
憐憫に富み給ふ神が此樣な威嚇をいひ給ひます。私共は心を靜かにして此言を讀む筈です。心の中に恐を抱いて神を畏るゝ事を學ばねばなりません。これは只だ誡命ではありません。預言であります。神は何故愛する民にこの樣な事を戒め給ひましたかならば、未來の事が分り給うたからです。神はイスラエル人が如斯に頑固に神に從はずして、自分の邪なる道を步む事を識り給ひました。然ですからイスラエル人を警めんが爲に、又一個人を救はんが爲に、此樣な强い事を錄し給ひました。
新約にも同じ樣な威嚇を見ます。それは私共を戒める爲です。又私共を救ふ爲に錄されてあります。さうですから恐を以てこれに聽き從はねばなりません。
本章はイスラエルの歷史の預言です。今でも神は丁度此章に從うて、イスラエル人を審き給うたる事を見ることが出來ます。又歷史の上に讀む事が出來ます。イスラエル人の歷史と此二十六章とを比べまするならば、これは必ず神の言である事が解ります。
此五重の威嚇に就て賽五・廿五の終に、『然はあれどヱホバの怒やまずして尚その手を伸したまふ』とあります。同じく九・十二、十七、二十一、十・四の終を御覽なさい。同じ言があります。さうですから此處で神の怒の五の階段を見ます。イスラエル人は五重の威嚇を聽きませなんだから、神は此五の怒を發し給はねばなりません。阿麽士書にも同じく神の五の歎を見ます。四・六を御覽なさい。『然るに汝らは我に歸らずとヱホバ言給ふ』。七、八節を御覽なさい。他の審判があります。けれども八節の終に同じ言があります。九節に神の第三の審判を見ます。けれども神の同じ歎の言があります。十節に第四の審判を見ます。けれども同じ神の言があります。十一節に第五の最も恐ろしき審判があります。けれども同じ父の愛の歎があります。
この三箇處は同じ事です。利二十六章、賽九、十兩章、麽四章は皆同一です。神の五の威嚇と五の審判と五の歎を見ます。
此利二十六・四十以下に實に恩の言があります。神は彼等を受入れ彼等を救ひ給ひます。私共は斯る事を讀む時に、神の深き恩を解らねばなりません。神はその樣に長い間イスラエル人を耐忍び給ひました。イスラエル人は漸次重い罪に陷りましても、悔改めまするならば神は早速彼等を受入れ給ひます。如何に神に敵したる事がありましても、喜んで彼等を受入れ給ひます。本章は放蕩息子の譬話の說明であります。これは舊約全書に於ける放蕩息子の譬話であります。神は父です。如何に重く罪を犯したる罪人でありましても、悔改めまするならば早速それを受入れ給ひます。これは人間の思念と違ひます。けれども神の思念は人間の思念よりも高くありますから、神は其樣に毎でも罪人を受入れ給ひます。
第一 懺悔すること(四十節)。
第二 其經驗したる禍は、皆神の聖手より出たる者にして、皆罪の刑罰なる事、即ち其禍は偶然でなくして、悉く神の刑罰なるを悟る事(四十一節)。
第三 心を遜らす事。全く自分の旨を捨てゝ、自分の義を棄てゝ、柔和を以て神に近付く事(四十一節)。
第四 受くべき所の刑罰を甘んじて受くる事。これは當然のことである、神は義しき審判主であると悟りて、その刑罰を甘んじて受くる事。
本當の悔改は每でも此四の要點があります。聖書の中で此處に錄してある程明白に悔改の事を解剖ちて錄してある處は他にはありません。
此言を悟りそれを受入れまするならば、必ず碎けたる心を以て神に感謝し神に歸ります。
さういふ悔改がありまするならば、四十五節の如く神は其契約を覺え給ひます。さうですから必ず復一度彼等を受入れ其契約に從うて恩を與へ給ひます。四十五節の終に『我はヱホバなり』とあります。これは大なる意味があります。出卅四・五〜七のやうに、其名の意味がこゝに含んであります。其時に神は復一度其名を宣傳へ給ひました。其名に由て御自分の心を宣べ給ひました。こゝに復一度『我はヱホバなり』と宣傳へ給ひます。この七節の言の意味が分りまするならば、此二十六・四十五の言が分ります。實に此處に神は憐み深き神にして、罪人の罪を赦し給ふ神である事が分ります。こゝに出三十四章のやうに明なる神の恩の默示があります。
二十六・四十六は利未記全體を指す言です。神はシナイ山に於てモーセに如斯な誡命と法律を與へ給ひました。
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