第二十六章  祝福と呪詛



三〜十二節

 これはさうせい二章有樣ありさまです。パラダイスの有樣ありさまであります。神は今からそのたみにパラダイスの幸福さいはひを與へ給ひたう御座ります。もう一度人間にそれを經驗せしめ給ひたう御座ります。人間は罪のためにそれを失ひました。さうですから神は愛するアブラハムをえらびて、その民にパラダイスの幸福さいはひを與へ給ひたう御座ります。けれどもこの人々は復一度もういちどそれを失ひました。これは神の第二のおほいなる失望でありました。神は其後そのゝちしゅイエスをつかはし給うて、今人間の心のうちにパラダイスを造り給ひたう御座ります。けれども大槪たいがいそれを斷ります。敎會さへもそれをことわって、それを經驗する事が出來ません。さうですから神はをはりに榮光をもって主をあらはし給ふ時に、復一度もういちど人間のためこの地の上に全きパラダイスの有樣ありさまを造り給ひたう御座ります。

 二十五章おいてヨベルの年の話を讀みました。二十六章おいてパラダイスの話を讀む事は順序です。ヨベルの年はパラダイスの有樣ありさまであります。今二十六章おいて神はイスラエルびとその有樣ありさまを續くるやうに約束し給ひました。だイスラエルびとそののりに步み、そのいましめを守りまするならば、このさいはひを得ます。例令たとへばイスラエルのうちに奴隷たる者は、ヨベルのラッパのを聞いて、それを信ずることによりその幸福さいはひを續くる事が出來ました。今同じやうに、私共わたくしどもは信仰によりてパラダイスのさいはひを頂戴しました。又ヨハネ十五章おい度々たびたび讀みまするやうに、主のいましめを守る事によりて、私共は主にり、主は又私共にり給ひます。それによりて主のいましめを守る事の大切なる事がわかります。主はあとからイスラエルびと有樣ありさまを見て歎き給ひました。しへん八十一・十〜十三を御覽なさい。これは神の歎聲です。イスラエルびと如斯このやうに神よりのさいはひことわって、自分のよこしまなる心に從うて步みました。さうですから神のさいはひを失うて、自分の罪のあぢははねばなりません。今でも同じ事を見ます。神は人間にパラダイスのさいはひを與へ給ひたう御座ります。けれども基督キリスト信者も自分の心に從うて步みますから、神のさいはひを失ひます。オー何卒どうぞおそれつゝしみもって神のいましめを守り、神に從うて步みなさい。

 この二十六章はじめに格別に神のめぐみを見ます。神が自分に從ふ者に與へ給ふ所のめぐみを見ます。そのめぐみなんですかならば、四節以下にしるされてあります。

 第一 うるほひを結ぶ事(
 第二 滿足と安全(
 第三 平安(
 第四 勝利(
 第五 神のいまし給ふ事(十一

 何卒どうぞ各自めいめい深くこのおほいなるめぐみあぢはひなさる事を願ひます。神はヨベルのラッパを聽いて、御自分のむねに從うて步む者に如斯かくうるはしきめぐみ如斯かく新しきパラダイスを約束し給ひます。

十三節

 十三節以下を御覽なさい。私共が神を取扱とりあつかひまするやうに、神は私共を取扱とりあつかひ給ひます。私共が柔和なる心をもって神に從ひまするならば、神は私共のいのりこたへて溢れる程のめぐみを與へ給ひます。けれども頑固なる心をもって神にむかひまするならば、神も私共にそれだけ報酬むくいを與へ給ひます。

 三節十二節とを對照くらべなさい。『汝等なんぢらもしわが法令のりにあゆみ誡命いましめを守りてこれを行はゞ』。『われなんぢらのうちに步みまた汝らの神とならん』とあります。私共は神ののりに步みまするならば、神は私共と交わりて私共のうちに步み給ひます。

 十五節三十節とを對照くらべなさい。『わが律法おきていみきらひて』。『わが心に汝らをいみきらはん』。これはじつに恐るべき事です。

 二十一節二十四節とを對照くらべなさい。『我に敵して』、『我も汝らに敵して』。二十八節にも同じことばがあります。

 さうですからある人は自己おのれだまして、神のめぐみに馴れて罪を犯しまするから、そのためめぐみを失ひます。

 このはじめに神に服從する者のさいはひを見ます。けれども十四節以下神に反對する者のわざはひを見ます。こゝに神の五重いつとほり威嚇おどし(five-fold threatenings)が記されてあります。はじめに神に背きまするならば、神はこらし給ひます。この懲戒こらしめに從ひませんならば、一層重い懲戒こらしめを與へ給ひます。だそれに從ひませんならば、なほ一層重い懲戒こらしめを與へ給ひます。如斯このやう懲戒こらしめが層一層重くなる事を指します。

 十四節に『汝等なんぢらもし我にきゝしたがふ事をなさず』とあります。十八節に『なほ我にきゝしたがはずば』。廿一節『汝らもし我に敵して事をなし我にきゝしたがふことをせずば』。廿三節『汝ら改めずなほ我に敵して事をなさば』。廿七節なほ我にきゝしたがふことをせず』とあります。神は人間を悔改くいあらために導き給ひたう御座ります。人間は罪を重ねて神に聽き從ひません。こゝで神のおほいなる忍耐を見ます。罪人つみびと悔改くいあらためませんならば、尚々なほなほ熱心にこらしめ給ひます。如何いかにもして人間を悔改くいあらために導き給ひたう御座ります。十四節の聽き從はざるために病氣がおこります。十八節の聽き從はざるために缺乏(want)が生じます。造られし者がのろはれます。二十一節の罪のためたけけものおこります。二十三節の罪のために饑饉がおこります。二十七節の罪のために滅亡(destruction)と荒廢(desolation)がおこります。

 憐憫あはれみに富み給ふ神が此樣このやう威嚇おどしをいひ給ひます。私共は心を靜かにしてこのことばを讀むはずです。心のうちおそれを抱いて神を畏るゝ事を學ばねばなりません。これは誡命いましめではありません。預言よげんであります。神は何故なにゆゑ愛するたみにこのやうな事を戒め給ひましたかならば、未來の事がわかり給うたからです。神はイスラエルびと如斯このやうに頑固に神に從はずして、自分のよこしまなる道を步む事を識り給ひました。さうですからイスラエルびといましめんがために、又一個人を救はんがために、此樣このやうひどい事をしるし給ひました。

 新約にも同じやう威嚇おどしを見ます。それは私共を戒めるためです。又私共を救ふためしるされてあります。さうですからおそれもってこれに聽き從はねばなりません。

 本章はイスラエルの歷史の預言よげんです。今でも神は丁度ちゃうどこの章に從うて、イスラエルびとさばき給うたる事を見ることが出來ます。又歷史の上に讀む事が出來ます。イスラエルびとの歷史とこの二十六章とを比べまするならば、これは必ず神のことばである事がわかります。

 この五重いつとほり威嚇おどしついイザヤ五・廿五のをはりに、『しかはあれどヱホバのいかりやまずしてなほその手をのばしたまふ』とあります。同じく九・十二、十七、二十一、十・四のをはりを御覽なさい。同じことばがあります。さうですから此處こゝで神のいかりいつゝの階段を見ます。イスラエルびと五重いつとほり威嚇おどしを聽きませなんだから、神はこのいつゝいかりを發し給はねばなりません。阿麽士アモス書にも同じく神のいつゝなげきを見ます。四・六を御覽なさい。『しかるになんぢらは我に歸らずとヱホバいひ給ふ』。七、八節を御覽なさい。ほか審判さばきがあります。けれども八節のをはりに同じことばがあります。九節に神の第三の審判さばきを見ます。けれども神の同じなげきことばがあります。十節に第四だいし審判さばきを見ます。けれども同じ神のことばがあります。十一節に第五の最も恐ろしき審判さばきがあります。けれども同じ父の愛のなげきがあります。

 この三箇處さんかしょは同じ事です。レビ二十六章イザヤ九、十兩章、アモス四章は皆同一おなじです。神のいつゝ威嚇おどしいつゝ審判さばきいつゝなげきを見ます。

 このレビ二十六・四十以下にじつめぐみことばがあります。神は彼等を受入うけいれ彼等を救ひ給ひます。私共はかゝる事を讀む時に、神の深きめぐみさとらねばなりません。神はそのやうに長い間イスラエルびと耐忍たへしのび給ひました。イスラエルびと漸次だんだん重い罪に陷りましても、悔改くいあらためまするならば神は早速彼等を受入うけいれ給ひます。如何に神に敵したる事がありましても、喜んで彼等を受入うけいれ給ひます。本章は放蕩息子の譬話たとへの說明であります。これは舊約全書にける放蕩息子の譬話たとへであります。神は父です。如何に重く罪を犯したる罪人ざいにんでありましても、悔改くいあらためまするならば早速それを受入うけいれ給ひます。これは人間の思念かんがへたがひます。けれども神の思念かんがへは人間の思念かんがへよりも高くありますから、神は其樣そのやういつでも罪人ざいにん受入うけいれ給ひます。

 第一 懺悔すること(四十節)。
 第二 その經驗したるわざはひは、皆神の聖手みてよりいでたる者にして、皆罪の刑罰なる事、すなはそのわざはひは偶然でなくして、ことごとく神の刑罰なるを悟る事(四十一節)。
 第三 心をへりくだらす事。全く自分のむねを捨てゝ、自分の義を棄てゝ、柔和をもって神に近付ちかづく事(四十一節)。
 第四 受くべき所の刑罰を甘んじて受くる事。これは當然のことである、神はたゞしき審判主さばきぬしであると悟りて、その刑罰を甘んじて受くる事。

 本當の悔改くいあらためいつでもこのよっゝの要點があります。聖書のうち此處こゝしるしてある程明白あきらか悔改くいあらための事を解剖ときわかちてしるしてあるところほかにはありません。

 このことばを悟りそれを受入うけいれまするならば、必ず碎けたる心をもって神に感謝し神に歸ります。

 さういふ悔改くいあらためがありまするならば、四十五節の如く神はその契約を覺え給ひます。さうですから必ず復一度もういちど彼等を受入うけいその契約に從うてめぐみを與へ給ひます。四十五節をはりに『我はヱホバなり』とあります。これはおほいなる意味があります。エジプト卅四・五〜七のやうに、その名の意味がこゝに含んであります。その時に神は復一度もういちどその名を宣傳のべつたへ給ひました。その名によりて御自分の心をべ給ひました。こゝに復一度もういちど『我はヱホバなり』と宣傳のべつたへ給ひます。この七節のことばの意味がわかりまするならば、この二十六・四十五ことばわかります。じつ此處こゝに神はあはれみ深き神にして、罪人つみびとの罪を赦し給ふ神である事がわかります。こゝにエジプト三十四章のやうにあきらかなる神のめぐみの默示があります。

 二十六・四十六利未レビ記全體を指すことばです。神はシナイざんおいてモーセに如斯このやう誡命いましめ法律おきてを與へ給ひました。



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