十三章において癩病を如何して認むる事が出來るかを見ます。けれども癩病を癒す方法を見ません。神の救を見ません。十四章に於て、如何して癩病が潔めらるゝかを見ます。こゝで神の恩を見ます。又其救の力を見ます。昔癩病人が此式に
聖きよき祭司は營えいの外に往ゆきて、癩病人の居をる所に至るまで、自己おのれを卑ひくくして下くだりました。是これは實じつに幸さいはひです。主しゅイエスは神の營えいの外に往ゆきて、癩病人の居をる所に至るまで自己おのれを卑ひくくして下くだり給ひました。又今でも主は自己おのれを卑ひくくして、癩病人の居をる所に至るまで下くだり給ひます。癩病人は潔きよめられ度たう御座りまするならば、必ず榮光ある主に近付ちかづかねばなりません。私共わたくしどもの祭司は其その人の足下あしもとに至るまで下くだり給ひます。然さうですからこの癩病人は、自己おのれの方から祭司の許もとに參らねばなりません。其その營えいの外に於おいて、祭司に出會ふことが出來ます。又その出會ふことに由よりて、癩病人は潔きよめらるゝ事が出來ます。
癩病人が献ぐべき犧牲いけにへは、此この鳥二羽であります。原語では雀二羽であります。太マタイ十・廿九を御覽なさい。それ故ゆゑに此この二羽の雀は實じつに價値ねうちがあります。神は如斯このやうに癩病人に同情を表あらはし給ひます。癩病人は必ず金錢がありませんから、神は其その人の貧窮に應じて、犧牲いけにへを献ぐべき事を命じ給ひます。夫それに由よりて神の恩めぐみが解わかります。神は私共に出來ぬことを命じ給ひません。其その人の力に應じて、或あるひは信仰或あるひは献物さゝげものを命じ給ひます。
『檜木ひのきと紅くれなゐの線いとと牛膝草ヒソプとを取とりきたらしめ』。雀と一緖ともにヒソプと檜木ひのきと紅くれなゐの線いとを取りました。かういふ者を以もって箒はふきを造りました。其その柄えを檜木ひのきにて造りました。其その尾をヒソプにて造りました。又紅くれなゐの線いとを以もってヒソプを檜木ひのきに括くゝり付けました。此この箒はふきを以もって血を灑そゝぎました。ヒソプは何處どこでも生はへる草ですから、何いづれにても取ることが出來ます。それは信仰を指します。何故なにゆゑですかならば私共は不斷ふだん信仰を延のばすことが出來ます。同じ信仰を遣つかうて、今主の贖あがなひを受入うけいれなければなりません。又其その檜木ひのきの柄えは變かはらざることを指します。檜木ひのきは朽くちざる樹きですから、何時いつでも同じ樣やうな信仰を有もつことが出來ます。又紅くれなゐの線いとは血の色ですから新しき命を指します。血は其その人の生いのちですから格別に新しき生いのちを指します。
夫故それゆゑに此この二羽の中うち、一羽は殺すべき者であります。一羽は自由に放つべき者であります。此この二羽は何を指しますかならば、汚けがれたる者なる罪人つみびとと、潔きよき者なるイエスを指します。
さうですから罪人つみびとたる私共は、殺さるべき者であります。けれども主イエスは私共の受くべき死を受けて死しに給ひました。夫故それゆゑに私共は自由を得ることが出來ます。羅ロマ五・六を御覽なさい。如斯このやうに潔きよき者が罪人つみびとの爲ために死しに給ひました。この二羽の中うちの聖きよき者が死しにましたから、惡あしき者が救はれました。その活いきて居をる雀は、その殺されたる雀の血に浸ひたされました。その鳥はその友の血を灌そゝがれます。救はれたる罪人つみびとは其その友たるキリストの血を灌そゝがれねばなりません。來ヘブル十二・廿四に、『灌そゝぐ所の血』とあります。私共はそれを受けねばなりません。其その血は私共の友なるイエスの血であります。けれどもそればかりではありません。この活いける鳥は血と水とに灑そゝがれました。何故なにゆゑなれば殺されたる鳥は、器うつはの内に、活いける水の上に殺されました。それ故ゆゑに水と血が雜まじってあります。水及び血に由よりて灑そゝがれました。約ヨハネ十九・三十四を御覽なさい。主の贖あがなひに由よりて贖あがなひの血も聖潔きよめの水も出て參りました。殺されたる鳥から血と水も出ます。私共はこの二ふたつのものに灑そゝがれて潔きよき者となります。結エゼキエル三十六・二十五を御覽なさい。
その樣やうに灑そゝがれたる鳥は自由に野のに放たれました。其その翼つばさの上に血も水もある儘まゝで自由に放たれました。私共は其樣そのやうに主に由よりて自由を得ます。格別に主の復生よみがへりに由よりて復生よみがへりたる者となりて、罪より全く自由を得ます。この鳥は今迄いまゝで或あるひは殺さるゝかも知れぬといふ心配がありました。けれども今他ほかの鳥の死の爲ために自由を得ました。私共はその樣やうに自由を得たる者であります。
或ある人はこの殺されたる鳥は主の死を指し、又放たれたる鳥は主の復生よみがへりを指すと申します。さういふ意味が含んであると思います。私共は主の復生よみがへりの爲ために自由を得ます。
救はれたる者はこの血に灑そゝがれて潔きよめられ、自由に放たれたる鳥の如やうなものです。天を仰ぎ翼を張って登る事が出來る鳥の如やうなものです。新しき歌を謠うたうて神に感謝してをる鳥の如やうなものです。この犧牲いけにへは實じつに美うるはしき假話たとへばなしであります。こゝに明あきらかに救すくひの道と、救すくひの喜よろこびを見ます。小兒こどもにも大人にも罪の赦ゆるしの道を說き度たう御座りまするならば、何卒どうぞ此この美うるはしき假話たとへばなしを藉かり度たう御座ります。
七節の中頃に『潔きよき者となし』とあります。血に灑そゝがれたる者は神の前に潔きよき者となりました。今此この犧牲いけにへを献げたる癩病人は、神の前に聖きよき者となりました。さうですから自己おのれを潔きよめなければなりません。これは何時いつでも神の順序です。神は私共を潔きよき者となし給ひますから、私共は自分を潔きよめなければなりません。神は私共を自分の子とならしめ給ひますから、神の子供に適かなふ生涯を暮くらさなければなりません。人間の思想かんがへは丁度ちゃうど反對です。自己おのれを潔きよめて漸次だんだん神の前に潔きよき者となりたく思ひます。善よき人間となるならば神の子となることが出來るかも知れぬと思ひます。けれどもこれは大おほいなる間違まちがひです。この七節の如やうに血の灑そゝぎに由よりて神の前に潔きよき者となりました。それ故ゆゑに八節の如やうに自己おのれを潔きよめなければなりません。血の潔きよめの爲ために神に受け入れられたる者となりました。水の潔きよめの爲ために自己おのれを潔きよむる事に由よりて神と交まじはる事が出來ます。血の潔きよめの爲ために神の刑罰を免れました。水の潔きよめの爲ために神と美うるはしき交際まじはりをなすことが出來ます。哥後コリントご七・一を御覽なさい。『自己みづからを潔きよく……すべし』。此これは丁度ちゃうどこの八節を指します。けれどもそればかりではありません。剃刀かみそりを以もって自己おのれを潔きよめねばなりません。處ところに由よりて剃刀かみそりの利刃ときはを以もって、物を切落きりおとして、自己おのれを潔きよめます。その毛を悉ことごとく剃落そりおとします。其その毛は舊ふるき生涯より起おこることを指します。舊ふるき人より出いづる者であります。夫故それゆゑに如斯このやうな者は剃刀かみそりを以もって切落きりおとさねばなりません。西コロサイ三・五を御覽なさい。『殺すべし』。此これは利とき剃刀かみそりを以もって全くそれを切落きりおとす事です。何卒どうぞ愛する兄弟姉妹よ、彼處あすこで全き働はたらきをなさい。私共はさういふことを惜をしみて、舊ふるき毛を少しく殘して置きます。此この汚けがれたる處ところを幾分か殘して置きまするならば、癩病人は必ず全き者となることが出來ません。何卒どうぞその剃刀かみそりを能よく使うて、其その身の全體に其その剃刀かみそりを用ひ度たう御座ります。さうして舊ふるき人から出いづる行おこなひを剃落そりおとし度たう御座ります。『然しかる後のちに營えいに入いりきたるべし』。オー實じつに幸さいはひです。この憐れむべき者は今迄營えいの外に居をって、汚けがれたる者と交まじはらねばなりませなんだ。今營えいに入はいる事が出來ます。愛する妻子つまこや親族と交まじはる事が出來ます。潔きよめられたる者は、其樣そのやうに聖きよき交まじはりをする事が出來ます。哥後コリントご二・七、八を御覽なさい。これは癩病人でありました。けれども潔きよめられましたから、復もう一度いちど潔きよき者の營えいに受けよと書送かきおくりました。
此この癩病人は未いまだ自己おのれの天幕に入はいる事は出來ません。未いまだ全き交まじはりがありません。けれども以前の有樣と比べまするならば、實じつに美うるはしう御座ります。後のちに第二の聖潔きよめに由よりて、自分の天幕に入はいる事が出來ます。又神の聖きよき所に入はいる事が出來ます。第二の聖潔きよめに依よりて本當に人間と交まじはり神と交まじはる事が出來ます。今迄いまゝで只ただ赦ゆるしを得ました。それに由よりて營えいの外を離れて、内に入はいる事が出來ました。けれどもこれから後のちに自分の天幕に入はいり、神の天幕に入はいって親しく交まじはりをなす事が出來ます。母後サムエルご十四・二十四を御覽なさい。今迄いまゝでアブサロムは自分の罪の爲ために其その所より追出おひいだされて居をりました。今罪の赦ゆるしを得てエルサレムに歸ることが出來ました。けれども未いまだ王の顏を見ることは出來ません。本當の交まじはりがありません。癩病人も同じ事です。第一に罪の赦ゆるしを得ました。けれども未いまだ本當の交まじはりを得ません。七日目なぬかめの後のちの聖潔きよめに由よりて、本當の交まじはりをなすことを得ます。
これは第二の恩めぐみです。又此この聖潔きよめと献物さゝげものに由よりて、この人は油灌あぶらそゝぎの恩めぐみを得ます。一週間以前に鳥の犧牲いけにへと水の洗あらひに由よりて此この人は復また營えいに入はいる事が出來ました。いま水と血と油の洗ひに由よりて、完全まったきイスラエル人びととなることが出來ます。第一の聖潔きよめは私共の悔改くいあらためを指します。第二の聖潔きよめは私共の聖靈を受くる事を指します。或ある信者は第一の聖潔きよめを得たる丈だけにて滿足します。第一の聖潔きよめを得たる事は幸さいはひです。癩病人は神の赦ゆるしと潔きよめを得て、營えいに入はいる事が出來ます。又イスラエル人びとの一人となりました。これは實じつに貴たふとき恩めぐみです。けれども未いまだ完全まったき救すくひではありません。夫程それほどの恩めぐみを味あぢはいまするならば、益々ますます進みて全き恩めぐみを慕ふべき筈はずです。第一の潔きよめを得たる癩病人が第二の聖潔きよめを斷りまするならば、實じつに愚かなる事であります。今さういふ信者を澤山たくさんに見ます。第一の生更うまれかはりの恩めぐみを得ましたから、第二のペンテコステの恩めぐみを斷ります。
八日目に癩病人がどういふ恩めぐみを得ますかならば、油灌あぶらそゝぎを得ます。其その日には水の洗あらひもあります。血の洗あらひもあります。全き聖潔きよめを得ます。けれどもその聖潔きよめは何の爲ためですかならば、油灌あぶらそゝぎの準備したくであります。私共は何故なにゆゑ聖潔きよめを求めますかならば、聖靈を受くる爲ためです。救はれたる癩病人は如斯このやうに第二の水と血の洗あらひに由よりて油灌あぶらそゝぎを得ました。この油灌あぶらそゝぎは實じつに貴たふときことであります。唯ただ王たる者、祭司長さいしのをさたる者、預言者のみがこの油灌あぶらそゝぎを得ました。けれどもこの賤いやしき癩病人は、さういふ者と同樣に、此この貴たふとき恩めぐみに與あづかることが出來ます。これは實じつに幸さいはひです。神はその樣やうに賤いやしき罪人つみびとに實じつに貴たふとき恩めぐみを與へ給ひます。今ペンテコステの恩めぐみを受くべき者は同樣です。必ず神の聖なる者、神の貴たふとき者、神の天使が皆聖靈に充みたされて居をります。さうですから私共の樣な者は、ペンテコステの恩めぐみに與あづかる望のぞみが殆ほとんどありませんでせう乎か。さういふ貴たふとき者がそれを得まするならば、賤いやしき者はそれを得る事が出來ませんでせう乎か。否いゝえ、さうではありません。賤いやしき潔きよめられたる癩病人は、王等たちと共に此この聖なる油灌あぶらそゝぎの式に與あづかることが出來ます。私共も聖きよき者と一緖にペンテコステの恩めぐみに與あづかることが出來ます。之これに由よりてイスラエル人びとに對する神の溢れる程の恩めぐみが分わかります。私共は其その恩めぐみを斷りまするならば、自分の大おほいなる損であります。けれどもそれのみではありません。神の恩めぐみを知らぬことです。この癩病人が第一の聖潔きよめのみにて滿足しまするならば、神の愛と恩めぐみを知らぬことを示します。オー私共は、神が賤いやしき罪人つみびとの爲ために備へ給うたる凡すべての恩めぐみを求めなければなりません。若もしそれを求めませんならば、神に對して大おほいなる罪であります。私共はどうして神の恩めぐみを求めませうか。九節を御覽なさい。七日目なぬかめになすべき事があります。七日目なぬかめは何時いつでも一週間ひとまはりの終をはりを指します。八日目は何時いつでも新しき期限の始はじめを指します。それ故ゆゑに此この恩めぐみを受くる事は古き生涯を捨てゝ新しき生涯を始むる事を指します。それ故ゆゑに七日目なぬかめに、即すなはちその週間の終をはりに全き汚けがれを捨てゝ聖潔きよきを得なければなりません。それは七日目なぬかめになすべき事です。必ず一週間しゅうかん前に八節に錄しるされたる如やうに、聖潔きよめを得ました。けれども今油灌あぶらそゝぎを求むる者は、心を探りて復一度もういちど聖潔きよめを求めて、自己おのれを潔きよくせなければなりません。
けれどもこの第二の恩めぐみは、只ただ全き聖潔きよめのみではありません。或ある人は唯ただ潔きよき心を求めます。それは間違まちがひです。それは唯ただ七日目なぬかめになすべきことであります。八日目に尚々なほなほ進んで油灌あぶらそゝぎを頂戴する事が出來ます。私共は何故なにゆゑに聖潔きよめを得ますかならば、靈みたまを受くる爲ための準備じゅんびであります。夫故それゆゑにこの油灌あぶらそゝぎを求めねばなりません。
その八日目に羔羊こひつじ三匹を取ります。この癩病人が營えいより追出おひいだされました時に、即すなはち朋友ともだちがありません時に、獻ぐべき犧牲いけにへは只ただ二羽の雀であります。けれども最早營えいの内に入はいりましたから、最早朋友ともと交際まじはりが出來ました時に、爲なすべき献物さゝげものは羔羊こひつじ三匹であります。又彼處あすこに尚々なほなほ深き意味があります。第一の聖潔きよめを求むる時に、餘あまり主の贖罪あがなひの價値ねうちが分わかりませなんだ。只ただ二羽の雀のやうに輕々しく思ひました。けれども第二の聖潔きよめを求むる時に、尚々なほなほ其その贖罪あがなひの價値ねうちが分わかって參りましたから、今羔こひつじのやうに主を見る事が出來ます。幸さいはひに今癩病人は神に犧牲いけにへを献ぐる事を許されます。今迄いまゝで癩病人として聖なる神に犧牲いけにへを献ぐる事が出來ませなんだ。私共は罪人つみびとたる時に神の喜び給ふ献物さゝげものを献ぐる事は出來ません。けれども最早救すくひを得たる者は靈みたまを求めますから、神の喜び給ふ献物さゝげものを献ぐることが出來ます。又それに由よりて神の聖旨みむねを喜ばせ、神に受け入れられる事が出來ます。
十節に『全き羔羊こひつじ』とあります。約壹ヨハネいち三・五をご覧なさい。『彼また自みづから罪なし』とあります。主は自ら罪なき全き羔こひつじでありましたから、私共の爲ために全き犧牲いけにへとなり給ふ事が出來ました。
十一節に『潔禮きよめごとをなす所の祭司』とあります。これは格別に主を指します。私共を潔きよめ給ふ祭司は、主イエスを指します。けれども罪人つみびとを神に導く働人はたらきびとでも、神の潔禮きよめごとをなす所の祭司といはれると思ひます。徒しとぎゃう九・十七に於おいてアナニヤは潔禮きよめごとをなす所の祭司でした。徒しとぎゃう八・三十五に於おいてピリポはこの寺人ぢじんの潔禮きよめごとをなす所の祭司でした。私共は此この聖きよき務つとめをなすべき者でありますから、歡喜よろこびを以もって汚けがれたる罪人つみびとを聖きよき油灌あぶらそゝぎに導き度たう御座ります。
今私共は聖潔きよめに就ついて共に硏究しました。何卒どうぞ最早生更うまれかはりの惠めぐみを得たる者でも、全き惠めぐみをお求めなさい、全き聖潔きよめと油灌あぶらそゝぎをお求めなさい。最早神に近き者といはれませう。けれども尚々なほなお潔きよき事を經驗せなければなりません。此この章の七節を御覽なさい。『これを潔きよき者となし』。さうですから其その時に神の聖前みまへに潔きよき者でありました。けれども尚々なほなほ深き聖潔きよめの經驗を求めます。九節の終をはりに『潔きよくなるべし』。此これは第二の聖潔きよめであります。又二十節を御覽なさい。『その人は潔きよくならん』。其その時に完まったき神の膏あぶらを得ましたから、神の聖前みまへに聖靈を受けた者となりましたから、尚々なほなほ深き意味にて潔きよき者となりました。此この癩病人は三度みたび潔きよき者といはれます。その潔きよき中うちに三つの階段があります。さうですから最早生うまれ更かはりました者でも、何卒どうぞ全き聖潔きよめをお求めなさい。本當に自分も滿足し神も滿足なし給ふ迄まで、聖潔きよめを求め度たう御座ります。
『ヱホバの前に置き』。これは實じつに幸さいはひです。今まで癩病人は營えいより追出おひいだされました。十三・四十六の如く、營えいに近付く事が出來ませなんだ。けれども今迄いまゝでの血と水の聖潔きよめの爲ために、大膽に神の前に立つことを得ます。又油灌あぶらそゝぎを受くる所は神に近付いて神の聖前みまへに立つ所であります。必ず他ほかの處ところに於おいて神の聖なる油灌あぶらそゝぎを頂戴する事は出來ません。ペンテコステの時に、百二十人が聖靈を待望まちのぞみたる時に、祈禱いのりを以もって神に近付き神の聖前みまへに立つ事を得ました。彼處あすこで其その恩めぐみを待望まちのぞみました。コルネリオが神の恩めぐみを待望まちのぞみました時に、同じ樣やうに神の聖前みまへに立つことを得ました(徒しとぎゃう十・三十三)。恰あだかも此この癩病人が、油灌あぶらそゝぎを待望まちのぞんで、神の聖前みまへに立ちました如やうでした。私共は時として兄弟の話に由よりて、或あるひは集會あつまりの感化に由よりて、恩めぐみを得やうと思ひます。けれどもこれは度々たびたび大おほいなる間違まちがひです。私共は自分獨ひとり神に近付いて、神の聖前みまへに立たなければなりません。
罪祭ざいさいに由よりて今迄いまゝで犯したる所の罪が全く赦されたる事を見ます。私共は油灌あぶらそゝぎを求めまするならば、明あきらかに罪祭ざいさいたる主イエスを見なければなりません。明あきらかに主の血の力を見なければなりません。其その血に由よりて神と和やはらぐことを得たる事を確信せなければなりません。又其その時に必ず自分の罪を感じます。今迄いまゝで種々いろいろの罪を犯しましたから、其その罪の赦ゆるしの爲ために血を注がなければなりません。
其その意味は何ですかならば、此この人は耳に於おいても手に於おいても、足に於おいても、神に對して罪を犯しました。五體に於おいて罪を犯しました。さうですから其その血を普あまねく注がねばなりません。私共は耳に由よりて、汚けがれたる事を聞きましたから、其處そこに血を注がねばなりません。私共は聞く事に就ついて責任があります。路ルカ八・十八を御覽なさい。『聽きくことを愼つゝしめ』、英語にて "Take heed therefore how ye hear" 卽すなはち私共は、如何なる心の狀態ありさまにて人の話を聞きますか。私共は聽き樣やうに注意しなければなりません。例令たとへば或る信者は說敎を聽く時に、輕々しい心を以もって聞きます。又或る信者は之これを聽く時に、深く省みて自分の心を探ります。私共は聽き樣やうを愼まねばなりません。可マコ四・廿四を御覽なさい。『聽きくところを愼つゝしめよ』(Take heed what ye hear)。路加傳ルカでんの方は私共の働はたらきが主しゅになります。私共は如何どういふ聽き樣やうをしますか。けれども馬可傳マコでんの方は、其その事柄が主しゅになります。私共の聽く事は如何いかなる事柄ですか。私共は聽く事に氣を付けなければなりません。今迄いまゝで喜んで汚けがれたる事、或あるひは兄弟の名譽に關かゝはる事、或あるひは罪の話を聞きましたならば、それを悔改くいあらためなければなりません。さういふ事に由よりて自己おのれを汚けがします。又神の前に罪を犯します。私共は聞く所を愼まなければなりません。聖なる油を求めまするならば、第一に耳に聖潔きよめの血を注がねばなりません。
第二は手であります。働くことに由よりて罪を犯しました。右の手を以もって度々たびたび惡あしき事を行ひました。度々たびたび自己おのれの爲ために働きました。さうですから其その所に血を注がねばなりません。詩しへん二十四・三、四を御覽なさい。今迄いまゝで自分おのれの行おこなひを考へて見ますれば如何どうですか。或あるひは聖きよき山に上のぼる事が出來る者ですか。或あるひは出來ぬ者ですか。若もし出來ぬ者でありましても、今悔改くいあらためて主の血に由よりて手聖きよき者となる事が出來ます。
第三は足であります。それは步む事を指します。時々刻々の步あゆみを指します。今迄いまゝで日々の步あゆみに由よりて罪を犯しました。神の聖旨みむねに背そむきて自分おのれの途みちを步みました。さうして度々たびたび罪を犯しました。それ故ゆゑにそれを悔改くいあらためて、其所そのところにも血の聖潔きよめを得ねばなりません。靈みたまを求めまするならば、其樣そのやうに心を探り、一々悔改くいあらためて、一々血の聖潔きよめを得なければなりません。けれども幸さいはひに從來いまゝでの罪を赦さるるのみならず、今から潔きよき生涯を暮くらす力を頂戴することが出來ます。
丁度ちゃうど血を注ぎたる同じ所に、聖なる油を注ぎます。これは實じつに幸さいはひです。私共は今迄いまゝでの罪を悔改くいあらためましても、自分で潔きよき生涯を暮くらす力がありません。けれども潔きよめられたる者は、丁度ちゃうど悔改くいあらためたる處ところに潔きよき力と神の恩めぐみを頂戴する事が出來ます。聞く所に就ついて、これから耳を潔きよめて守る爲ために潔きよき力を受くる事が出來ます。今まで手を以もって惡あしき事を行ひましたから、これから神の爲ために働くことが出來るやうに聖靈の油を受けます。今迄いまゝで度々たびたび惡あしき道を步みましたから、血の潔きよめを得ました。今潔きよき途みちを步む爲ために、聖靈の油を受くる事が出來ます。
此この油は十六節の終をはりにある如く、七回なゝたびヱホバの前に灑そゝがれたる油であります。それは神の前に働き給ふ聖靈と、癩病人に與へられたる聖靈と同じ事である事を示します。今天に働き給ふ聖靈も、私共に與へられたる聖靈も、同じ聖靈であります。夫故それゆゑに天に於おける如く地に於おいても神の聖旨みむねを行ふ事が出來ます。さうですからこの十七節を御覽なさい。これは其その人の衷うちに聖靈を受くる事を指します。十八節を御覽なさい。これは其その人の上に聖靈を受くる事を指します。約ヨハネ十四・十七を御覽なさい。『そは彼なんぢらと偕ともに在ありかつ爾曹なんぢらの衷うちに在をればなり』。徒しとぎゃう一・八を御覽なさい。『聖靈なんぢらに臨むに因よりて』。英語にては "The Holy Ghost is come upon you" 即すなはち聖靈なんぢらの上に臨きたり給ふ事を指します。これは三つの階段を指します。聖靈は共に在いまし給ひます。聖靈は衷うちに居ゐ給ひます。聖靈は上に降くだり給ひます。度々たびたび利未レビ記の中うちに此この區別を見ます。七、八節は聖靈が偕ともに居ゐ給ふて、神と和やはらがしめ給ふことを指します。十七節は聖靈が衷うちに宿り給うて、潔きよき心を與へ給ふことを指します。十八節は聖靈は其その人の上に臨んで傳道の力を與へ給ふ事を指します。私共の祭司は主イエスです。神が私共に與へ給ふ祭司は其その聖子みこであります。其その手に聖靈が在いまし給ひます。徒しとぎゃう二・三十三を御覽なさい。丁度ちゃうど十八節のやうに、私共の祭司長さいしのをさたるイエスは神から聖靈を受け給ひました。それを潔きよめられたる癩病人の上に注ぎ給ひます。これは實じつに幸さいはひです。私共は今まで神の前より追出おひいだされたる、汚けがれたる癩病人でありましても、今水と血と油との洗あらひによりて、神の潔きよき者となりましたから、豐ゆたかに聖靈を頂戴することが出來ます。其その時に祭司の左の手に、只ただ僅わづかばかりの油が殘ってあったかも分わかりません。けれども私共の祭司長さいしのをさの手に豐ゆたかなる恩めぐみがあります。私共の祭司長さいしのをさは、聖靈を豐ゆたかに與へ給ひます。賽イザヤ四十・十二を御覽なさい。私共の掌たなごゝろの中うちには、只ただ少量わづかの水より入れる事は出來ません。けれども神は其その掌たなごゝろを以もって大洋を量り給ひます。大洋は只ただ神の掌たなごゝろの裡うちにあります。夫程それほどの恩めぐみがありますから、豐ゆたかに癩病人に注ぎ給ふ事が出來ます。實じつに幸さいはひなる事であります。
『その人は潔きよくならん』。これは神の證あかしです。賽イザヤ六・七のやうに、汝なんぢの惡は取除とりのぞかれたりといふ神の證あかしです。今迄いまゝで汚けがれたる者として、人々から呼ばれたる癩病人が神の前に潔きよき者となりました。全く神の屬ものとなりました。
此この癩病人の聖潔きよめに付ついて三つの階段があります。
第一 最早癒いやされました。けれども營えいに入はいることは出來ません。
第二 雀の血の爲ために、潔きよき者となりて營えいに入はいることが出來ました。けれども未まだ自分の天幕に入はいる事が出來ません。神の殿みやに入はいる事が出來ません。全き交まじはりが出來ません。
第三 神の前に立たって聖きよき膏あぶらを注がれて潔きよき者となります。其その時に自分で自分の天幕に入はいります。神の殿みやに入はいる事が出來ます。人間の交まじはりも出來ます。神と交まじはる事も出來ます。其爲そのために漸やうやく全き安息を得ます。今まで營えいより追出おひいだされて、諸所しょしょを迷うて居をりました。今神の前に受け入れられて安息を得ます。
オー兄弟姉妹よ、私共も潔きよめられたる癩病人であります。私共は生來うまれつきの癩病人であります。けれども今復一度もういちど神の前に立つことを得ます。主はその右の手に靈みたまを有もって居ゐ給ひます。何卒どうぞ潔きよめられたる癩病人たる兄姉あなたは、頭あたまを下げて主御自身より其その聖なる膏あぶらをお受けなさい。今主に近ちかづいて主を仰いで聖靈をお受けなさい。
此處こゝに神の憐憫あはれみを見ます。神の同情、神の父なる事を明あきらかに見ます。それに由よりて神の恩めぐみを感じ度たう御座ります。神は罪人つみびとに是非大おほいなる事を願ひ給ひません。罪人つみびとの力に應じて犧牲いけにへと献物さゝげものを要もとめ給ひます。神は何時いつでも其樣そのやうに罪人つみびとを待遇あしらひ給ひます。罪人つみびとの聖潔きよめを願うて、其その力量ちからに及ばぬ事を願ひ給ひません。悔改くいあらためよと命じ給ひまするならば、必ず其その罪人つみびとにそれ程の力があります。信ぜよといひ給ひまするならば、必ず其その罪人つみびとの力量ちからよりは六ヶむつかしい事ではありません。時に由よりて悔改くいあらたむる事は出來ぬといひます。信ずることは出來ぬといひます。神は罪人つみびとに救すくひを得うる爲ために、出來ぬことをいひ給ひません。貧しくありまするならば、神は同情を表へうし給ひます。其その貧しきに從うて聖潔きよめの方法を命じ給ひます。これは福音の榮光さかえであります。他ほかの人間に造られたる宗敎の有樣ありさまを見まするならば、罪人つみびとは自己おのれを潔きよめんが爲ために、六ヶむつかしい事をせねばなりません。神はそんな事を命じ給ひません。太マタイ十一・五を御覽なさい。これは福音の榮光さかえであります。貧しき者に到る迄まで、福音が宣傳のべつたへられました。詩しへん七十二・十二〜十四を御覽なさい。其樣そのやうに主は貧しき者を省み給ひます。何卒どうぞ夫それに由よりて、神の聖旨みむねを悟り度たう御座ります。又それを考へて、自分は弱き者でありましても、信仰の貧しき者でありましても、遠慮なくして主の足許あしもとに參ることが出來ます。格別にこゝに貧しき癩病人が聖潔きよめを頂戴することを見ます。信仰の貧しき者でも、聖潔きよめを頂戴することを見ます。信仰の貧しき者でも、灑そゝぎの油を頂戴する事が出來ます。芥種からしだね程の信仰がありましても、神はその爲ために貴たふとき惠めぐみを灑そゝぎ給ひます。
『その手のとゞくところ』とあります。三十節にも、三十一節にも同じ言ことばがあります。實じつにこれは愛の深い言ことばです。實じつにそれに由よりて神の愛と惠めぐみが能よく解わかると思ひます。其その手の及ぶ所、神は只ただそれを願ひ給ひます。時に由よりて私共は彼樣あのやうな人は性質が立派ですから、神の惠めぐみを受くることが出來ます。けれども自分の性質は、遙はるかに劣って居をる故ゆゑに、その樣やうな恩めぐみを受くる事が出來ぬと思ひます。けれどもこれは神の恩めぐみを信ぜぬ不信仰であります。神は私共に其その手の及ぶ程の信仰を願ひ給ひます。又それ丈だけの信仰を出しまするならば、必ず全き聖潔きよめと全き油灑あぶらそゝぎを頂戴する事が出來ます。
これは家の癩病です。人間は自分の罪の爲ために、自分を汚けがします。けれどもそれのみならずして、住家すみかをも汚けがします。アダムが罪を犯しました時に、只ただ自分を汚けがしましたのみならず、エデンの園をも汚けがしました。又此この世を汚けがしました。私共はそれが分わからぬかも知れません。けれどもそれは事實であります。私共の罪は造られたる物に傳染しました。今全世界の造られたるものゝ有樣ありさまを見まするならば、人間の罪の爲ために呪はれたる者であります。人間の罪の傳染を受けて最早汚けがれたる者となりました。羅ロマ八・十九〜廿二を御覽なさい。
その樣やうに人間の罪の爲ために總すべての造られたる者は呪はれました。癩病を得ました。この住居すみかが癩病を得ますならば、必ずそれに住すまふ者の罪の爲ためであります。この住居すみかは敎會を指します。其他そのた或あるひは人間の集あつまれる會社を指します。敎會の中うちにも、度々たびたび癩病の患處くゎんじょが出ます。弗エペソ五・三〜十一を御覽なさい。
敎會の中うちに、會社の中うちに、こんな汚けがれが起おこりまするならば、どう致しませうか。三十六節の如く、先まづ『その家を空あけしむ』る事です。然さうですから能よく檢査する事が出來ます。總すべての道具を悉ことごとく家より出します。少すこしも隱れたる處ところがありません。家を檢査する妨さまたげとなる者を悉ことごとく出します。さうして其その敎會或あるひは會社を神の前に探ります。哥後コリントご十二・二十を御覽なさい。パウロは其その敎會を探る爲ために參りました。パウロの恐おそれは何でありましたかならば、其その敎會の中うちに最早癩病人が出た事であります。又今かういふ事に由よりて、癩病の患處くゎんじょが最早現れたることを恐れます。
けれども早く癩病人を審さばくことは可よくありません。靜しづかに調べてそれを審さばかなければなりません。七日なぬかの間あひだ閉とぢおくことは悔改くいあらための時日ときを與ふる事です。其その七日なぬかの間あひだに悔改くいあらためますか。或あるひは尚々なほなほ惡あしくなりますか。孰いづれかです。今此この世の有樣ありさまを見まするならば、神は此この三十八節の如くに取扱とりあつかひ給ひます。今は此この三十八節の時代です。この世に癩病の患處くゎんじょが出ました。けれども神は速すみやかにそれを審さばき給ひません。暫く此この世をそのまゝに置き給ひます。さうですから終をはりに本當に癩病であることを示し給ひます。本當に癒いやす事の出來ぬ恐ろしき癩病である事が、何人なんぴとの眼の前にも明白あきらかに見えます。
私共は今罪の恐おそろしき事が分わかりませんから、神が罪人つみびとに限かぎりなき刑罰を與へ給ふ事は餘あまり嚴しき事と思ふかも知れません。けれどもそれは未まだ罪の眞相を悟らぬからです。終をはりに此この家の本當の有樣ありさまを明あきらかに見まして、誰たれも其その家は全く毀こぼたねばならぬことが分わかりまするやうに、終をはりに罪の本當の有樣ありさまが分わかりまする時に、神の審判さばきは正當であることが分わかります。
『祭司第七日なぬかめにまた來きたりて視みるべし』。主が再また來きたり給ふ時がこゝに見えます。『その患處くゎんしょもし家の壁に蔓延ひろがりをらば』、癩病の患處くゎんじょは今でも働きます。癩病の毒は今でも働きます。けれども終をはりに全く顯あらはれて參ります。
神は何時いつでも恩めぐみを以もって、罪人つみびとを取扱とりあつかひ給ひます。又出來る丈だけ罪人つみびとを救ひ給ひ度たう御座ります。神は何時いつでも恩めぐみの途みちを示して、此この世を取扱とりあつかひ給ひます。時に由よりてノアの洪水の時に全く汚けがれたる者を取除とりのぞいて、この家即すなはち此この世を潔きよめ給ひました。敎會の事を考へて見まするならば、神は同じ樣やうに敎會をも待遇とりあつかひ給ひます。第一はじめに只ただその汚けがれたる石、即すなはち一個人を取除とりのぞき給ひます。提前テモテぜん一・二十を御覽なさい。その樣やうに汚けがれたる住家すみかの石を取除とりのぞきます。
『之これを邑まちの外の汚穢所けがれどころに傾あけ』。默もくし二十二・十五を御覽なさい。この四十一節と同じ言ことです。哥前コリントぜん五・二、十一〜十三を御覽なさい。パウロはその樣やうにコリントの敎會を取扱とりあつかひました。彼は住家すみかの汚けがれたる石を全く追出おひいだしました。今でも敎會の中うちに、癩病が出まするならば、傳染の恐れがありますから、敎會全體の爲ために、この石を追出おひいださねばなりません。喇エズラ九・一〜三を御覽なさい。彼所あすこで癩病の患處くゎんじょが出ました。けれども其その時に全く其その汚けがれを捨てました。同おなじく十・十七を御覽なさい。その樣やうに汚けがれたる事を全く追出おひいだしました。けれどもそれのみではありません。四十一節を見まするならば、『その家の内の四周まはりを刮けづらしむべし』とあります。その癩病を得ません石でも、或あるひは汚けがれを得てをります。或あるひは其その恐れがあるかも知れません。若もし汚けがれを得ておりまするならば、漸々だんだん癩病が出來るといふ恐れがあります。その凡すべての石を全く刮けづらねばなりません。それは何を指しますかならば、只ただ汚けがれたる罪人つみびとのみならず、其その敎會或あるひは會社に屬するものを、悉ことごとく探らねばなりません。復一度もういちど神の前に裸になって參らねばなりません。哥後コリントご七・十一を御覽なさい。その樣やうに只ただ汚けがれたる石を追出おひいだすことのみではありません。その殘りの石を皆刮けづりました。さうして皆々新しくなりました。徒しとぎゃう五・十一を御覽なさい。其その汚けがれたる石を追出おひいだしました。けれども夫それのみではありません。凡すべての信者が大おほいに恐れを抱きました。さうですから敎會が潔きよめられました。
皆全く潔きよめられました。けれども『後のちにその患處くゎんしょもし再びおこりて家に發しなば』とあります。一個人としてこれが度々たびたび起おこります。又敎會としてそれが起おこるかも知れません。來ヘブル六・四〜六、彼後ペテロご二・廿を御覽なさい。これは啻たゞに一個人として起おこるのみではありません。度々たびたび敎會或あるひは會社でさういふ事が顯あらはれます。然さうですから全く夫それを解かねばなりません。斷然それを解く方が宜よろしう御座ります。士師記を見まするならば度々たびたびさういふ事を見ます(二・十七、十九、三・十二、四・一)。如斯このやうに神は度々たびたび救すくひを與へ給ひます。又イスラエル人びとは度々たびたび悔改くいあらためました。けれども復また惡を犯しました。さうですから最早仕方がありません。神は其その家を毀こぼち給はねばなりません。代下れきだいげ三十六・十六を御覽なさい。『遂つひに救ふべからざるに至れり』。神は其その愛するユダヤ人びとを棄て給はねばなりません。全く毀こぼち給はねばなりません。バビロンの捕虜とりこに導き給ひました。さうしてイスラエルといふ國が失なくなりました。さうですから敎會の中うちに癩病人を見まするならば、實じつにそれは恐るべき事です。再また起おこりまするならば尚々なほなほ恐るべきことです。或あるひは神は全くそれを毀こぼち給ふかも知れません。
實じつに幸さいはひです。患處くゎんじょの癒いえたる者であれば、潔きよき者となります。哥前コリントぜん六・十一を御覽なさい。その樣やうに家が癒いやされました。さうですから祭司がそれを潔きよき者となします。
如斯このやうに潔きよめられました。けれども惡の贖あがなひがなければなりません。恰度ちゃうど癩病人が潔きよめられました時のやうに、今住家すみかの爲ために血の贖あがなひを献げねばなりません。主の聖血ちしほはたゞ人間の爲ためのみではありません。全世界の罪の爲ために流されました。此この地上の萬すべての物のために流されました。動物の爲ためにも流されました。又天國の爲ためにも流されました。天使てんのつかひの爲ためにも流されました。西コロサイ一・二十を御覽なさい。地上ちのうへに在ある者、天に在ある者、皆血の贖あがなひがなければなりません。又此この聖血ちしほの贖あがなひの爲ために汚けがれたる者が、復一度もういちど神の前に潔きよき者となります。それに由よりて主の血の功能いさをしと力が分わかります。それに由よりて主は萬すべての物を神に和やはらがしめ給ふことを見ます。
さうですから今私共の四周まはりに癩病の汚けがれを見ましても、惡の勝利を見ましても、又その爲ために神の住家すみかの殘趾あとばかりを見ましても、終つひに主は必ず勝利を得給ひます。善は必ず勝利を得ます。必ずさうです。私共も必ず其その日に於おいて聖きよき敎會を見ます。聖きよき地を見ます。聖きよき天を見ます。オー神は全く癩病をとゞめ、癩病に罹かゝって居をる者を、全く潔きよめ給ふに相違ありません。
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