第 八 章  アロンと其子等の聖別



 エジプト四十章とレビ八章とは續く話です。エジプト四十・二に『なんぢ集會の天幕の幕屋をたつべし』とあります。そうしてその順序はその一〜八節までに記されてあります。また九節よりあぶらをそゝぐ事があります。十二節よりアロンと祭司を聖別する事があります。さうですからその順序は

 第一 天幕を建つる事
 第二 あぶらそゝぐ事
 第三 アロンと祭司を聖別する事

です。けれどもエジプト四十章を見まするならば、モーセはたゞこの第一の事を致します。十八節よりモーセは天幕を建て種々いろいろの道具を入れて、三十三節のをはりやうにその工事ををはりました。けれども三十四節の如く、雲集會の天幕をおほひて、ヱホバの榮光幕屋に充ちました。さうですからモーセはこのいまだ第二と第三の命令を成就する事が出來ません。すなはち神の榮光があらはれて參りましたから、天幕にあぶらそゝぐ事と、祭司を聖別する事が出來ません。けれども今レビ八章おいて、モーセはこのふたつの命令を成就する事を見ます。このレビ八章エジプト四十章とは續いて參ります。

 それによりおほいに學ぶべき事があります。神は榮光をもって天幕のうちみたし給ひました。イスラエルびとの目の前に、御自分のさかえあらはし給ひました。また神はイスラエルびとの目の前に今からその眞中まんなかいます事を示し給ひました。その時に祭司は聖別を受けました。その時にこの人々は神の聖なる聖なる聖なる榮光を見ました。さうしてこの聖なる神に奉仕すべき事を決心しました。私共わたくしどもは神の榮光を見まするならば、その榮光にかれて、この聖なる神に奉仕したい心のねがひおこります。

 又出埃及しゅつエジプト記において、神が榮光をもって天幕をみたし給ふて、あすこに宿り給ふ事を見ました。今この八章おいて神は祭司各自めいめいに同じ恩惠めぐみを與へ給ひます。ペンテコステの恩惠めぐみを與へ給ひます。祭司を立てゝ祭司自身の心のうちくだり、祭司自身の心のうちに宿り、祭司自身をみたし給ひます。祭司は第一に表面うはべの事を見ました。第二に心のうちにそれを經驗しました。この八章九章は續くはなしです。又これはペンテコステのめぐみを受くることの雛形であります。私共はペンテコステのめぐみを受けまするならば、神の祭司となります。こゝでどうして祭司となりますか。ことばを換へていへばペンテコステのめぐみを受けたる時に、如何いかなる者となるかといふ事がしるされてあります。祭司のつとめは何ですか。私共は祭司のつとめわかりまするならば、何故なにゆゑにこんなに大切に聖別せらるゝかゞわかります。じつおごそかなる事です。しんめい十・八を御覽なさい。これは祭司の執るべきみつつとめです。

 第一 『契約のはこかゝしめ』。この契約の櫃は神のいまし給ふ事の表面うはべしるしです。
 第二 『ヱホバの前にたちてこれにつかへしめ』。すなはちヱホバにちかづく事です。これはいのり中保なかだちつとめです。
 第三 『ヱホバの名をもて祝することをなさせたまへり』。人間に對して祝福して神のめぐみくだとなる事です。

 マラキ二・七を御覽なさい。私共は如斯このやうつとめ成遂なしとげねばなりません。私共はそんなはたらきをなすべき者です。私共はどうしてヱホバの使者つかひとなる事が出來ますか。このレビ八章おいわかります。どうして本當に祭司となる事が出來ますか。何卒どうぞ一節より四節までを御覽なさい。さうですからこれはおほやけの集會です。たゞ靜かに自身一人のみならずして、假令たとへはづかしきことがありましても、それを省みずして人間の眼の前に行うべき事です。聖別のうちに、例へば裸なるからだを洗ふやうな事がありましたが、矢張やはり人々の前に行ひました。私共は本當に、神に身もたまをも献げまするならば、たゞ靜かに自分の部屋でそれを致しまするのみならず、假令たとへはづかしき事がありましても、人々の眼の前にそれを致さなければなりません。假例たとへば人々の前に進んでひざまづきてめぐみを求むべきことがあります。

 『ヱホバのモーセに命じたまひし如し』。このことば八章 九章おいて、祭司の聖別のうちに、十四度じふよたびしるされてあります。モーセは大切に神の命じ給ひし事を覺えて、大切にこれを行ひます。これによりエジプト四十章とレビ八章の關係がわかります。エジプト四十章を見まするならば、十八同じことばがあります。モーセはエジプト四十章において神に與へられし命令に從うて、大切に祭司を聖別します。オー私共もそれをも學びたう御座ります。本當に献身致したう御座りまするならば、第一に大切なる事は、神のことばに從ふ事です。神のことばに探られて神のことばによりて、洗ひきよめらるゝ事です。第二に神の命令を受入うけいれてその命令を行ふ事です。けれども献身する事の根本どだいは何ですか。すなはち神のことばに從ふ事、神の命令を受け入れる事です。

 ヨハネ十五章を御覽なさい。今はめぐみの時代です。さうですから私共は緩漫に神の命令を受けませうか。神の命令を省みずして、それを犯しませうか。いゝえさうではありません。めぐみの時代ですから、尚々なほなほ大切に神の律法おきて受入うけいれねばなりません。ヨハネ十五章はキリストの最後をはりことばです。また格別に神の命令の事を見ます。これは格別にめぐみあらはす談話はなしです。けれども格別に神の命令を見ます。

 第一 わがいひしこと
 第二 わがいましめ、父のいましめ
 第三 われこの事を爾曹なんぢらに語るは(十一
 第四 命ずる所の事(十四
 第五 われこれを命ず(十七

 如斯このやう度々たびたびしゅめぐみあらはす話のうちに、わがいましめわが命令と言ひ給ひます。オー私共はこれによりて敎へられたう御座ります。献身致したう御座りまするならば、あるひめぐみを得たう御座りまするならば、神のめぐみと約束を受入うけいれねばなりません。

 本章におい

 第一 水のあらひ
 第二 ころもを受くる事(
 第三 あぶらそゝぐ事(
 第四 アロンの子供がころもを受くる事(十三

があります。さうしてそれから犧牲いけにへがあります。

 第一 罪祭ざいさい十四以下)
 第二 燔祭はんさい十八以下)
 第三 ほかの任職の牡羊をひつじ二十二以下)

があります。これは聖別の順序です。

 天幕のうちに、黃銅しんちうたらひ燔祭はんさいを献げたる者をきよむるためにあります。ヨハネ十三・十を御覽なさい。主はこの利未レビ記の引照を引きて言ひ給ひました。今聖別の時に同じあらひを受けます。手と足とを洗うて、全ききよき者となります。この洗潔あらひきよめらるゝ事は、本當の悔改くいあらためです。テトス三・五を御覽なさい。『重生うまれかはりあらひ』、これは本章六節の水のあらひです。エペソ五・廿六を御覽なさい。『水のあらひもっことばよりて』。これは同じ事です。私共はヱホバの祭司となりたう御座りまするならば、第一にきよき者でなければなりません。心の聖潔なる者でなければなりません。

一〜九節

 祭司のころもは主の種々いろいろなる功績いさをしを指します。

 祭司の一番下のころも真白ましろくあります。本當の細布ほそきぬのです(もくし十九・八)。これは本當の義、本當の白き心です。私共の心の底は、私共の性質の底は、神の聖前みまへに白くあらねばなりません。

 その次の上にあるころも靑色あをです。エジプト二十八・三十一を見まするならば、靑く作るべしとあります。靑は天の色です。これは聖なる事を指します。すなはち白は義を指し、靑はきよきを指します。私共は義(righteousness)と聖(holiness)において、主に仕ふべきものです。

 またこの靑きころもした石榴ざくろと鈴があります(エジプト二十八・三十四)。石榴ざくろは實を結ぶ事を指します。鈴はあかしを指します。私共はこの靑きころもの着まするならば、斷えず實を結ばなければなりません。斷えずあかしをせなければなりません。主の生涯を見まするならば、不斷たえずその通りでありました。

 『エポデをつけしめ、エポデのおびこれおびしめ』()。このエポデはうるはしきころもです。これは祭司のをさころもです。エジプト廿八・六を御覽なさい。如斯このやうにエポデは一番うるはしきころもです。これは主の各種いろいろめぐみ、主の愛と主の忍耐、主の樣々の功績いさをしを指します。

 『また胸牌むねあてをこれにつけさせ』()。この胸牌むねあてには十二のたまがあります。おのおのひとつたまの上にイスラエル族の名がしるされてあります。このたまは神の前に輝ける價値あたひある物です。祭司のをさがこのたまの上にイスラエル族の名をしるしましたやうに、今主は天國において父の前に私共を覺え給ひます。

 『ウリムとトンミム』とはなにでありますか。たれも知る者はありません。けれども神はそれによりて祭司に御自分の聖旨みむねを悟らしめ給ひました。ある人が申しますには、このウリムとトンミムは、ダイヤモンドのたまにして、その光に從うて祭司に神の聖旨みむねを悟らしめ給ひましたと申します。又ある人はこれは律法おきて書物ふみだと申します。これによりその聖旨みむねを悟らすものであると申します。神はこれ說明ときあかし給ひませなんだ。けれどもかく、これによりて御自分の聖旨みむねを悟らしめ給ひました。母前サムエルぜん二十八・六を御覽なさい。今神は聖靈によりて、私共に聖旨みむねを知らしめ給ふやうに、その時代においてそのウリムとトンミムによりて、その聖旨みむねを知らしめ給ひました。

 ウリムのことばの意味は(Lights すなはの複數)です。
 トンミムのことばの意味は完全(Perfection)です。

 なほこれついみんすう廿七・廿一、しんめい卅三・八、エズラ二・六十三、母前サムエルぜん廿八・六を御覽なさい。

 また九節の前板の上に、書き記されたることばがあります(エジプト二十八・三十六)。すなはヱホバにきよといふことばです。この前板は餘り善い飜譯ではありません。希伯來ヘブル語の意味は花、金の花といふ意味です。祭司はいつでもそのひたひに金の花をって、その上にヱホバにきよしとしるします。ペンテコステのめぐみを得たる者は、同じやうにそんな冠をつけて生涯をくらさなければなりません。レビ二十一・十二を御覽なさい。英語に『そは神の任職の灌膏そゝぎあぶらの冠、そのかうべにあればなり』とあります。これはペンテコステのほのほです。これは私共の金の花です。これによりてヱホバにきよしといふ生涯をくらします。

 みんすう六・四、五、七を御覽なさい。英語に譯せられたるこの みっゝことばすなはち Separation(世に離れる事)と Consecration(神に献身する事)と Nazariteship(ナザレ人となる事)とは希伯來ヘブル語では同じことばです。

 神のためこの世を離れることは私共の冠です。私共のさかえです。私共のさいはひです。祭司のをさ如斯かくのごとき冠をつけてつとめをいたします。私共は度々たびたび世を離れる事を恐れます。けれども神の前にそれは本當に私共のさかえです。私共の冠です。けれどもこゝでたゞ祭司のみではありません。また王となります。私共は祭司となります。又王となります。これは私共の冠です。神の前に世を離れる事、献身する事、ナザレ人となる事は、實に私共の冠です。さうですから神は御自分の祭司に權威と榮光を與へ給ひます。ゼカリヤ六・十一、十三を御覽なさい。王と祭司である事を見ます。『尊榮そんえいを帶び』。祭司のひたひにある冠はそんな意味を指します。

 さうですからイスラエルびとの會衆は、初めて自分の祭司を見ました。初めてこの輝ける衣、初めてその王、その祭司を見ました。私共も何卒どうぞ自分のおほいなる祭司を仰ぎ見たう御座ります(ヘブル三・二)。このイスラエルびとは初めてその時に輝けるころもをつける祭司を見ました。私共も主イエスを見たう御座ります。格別に主と共に聖別せられたう御座りまするならば、主と共にペンテコステのめぐみを頂戴したう御座りまするならば、私共はヘブル三・二の如く、我等の祭司のをさなるイエスを深く思はねばなりません。

 アロンはたゞちこのころもを頂戴します。さうして膏灌あぶらそゝぎを得ます。けれども血をそゝがれません。ほかの祭司は犧牲いけにへを献げます。これは主イエスは御自分の功績いさをしよりて、少しもそゝがれたる血を要せざる雛形です。私共は最初はじめそゝがれたる血を受入うけいれなければなりません。けれども主は少しもそんな必要がありません。

十、十一節

 さうですから一切のうつはあぶらそゝぎました。神を敬うためうつは、また罪を取除とりのぞくためにあがなひを献げるうつは聖別きよめわかちます。祭司は聖靈によりて働かねばなりません。また聖靈のむねに適ううつはを用ひて、働かねばなりません。哥後コリントご十・四を御覽なさい。肉にけるうつはを神のために用ひることは實に不可いけません。さうですから、第一はじめこのうつはあぶらそゝぎます。またその意味は神がそれを受け給ふ事です。神が御自分のものとなし給ふことです。又以後これからこのうつはを用ひて、人間を祝福し、また人間を御自分にちかづかしめ給ふことを示します。

十 二 節

 十二節よりアロンが膏灌あぶらそゝぎを受けます。またそのあぶらはアロンのかしらそゝがれます。この時にアロンの子供は膏灌あぶらそゝぎを受けません。アロンの子供は血を流したるのちに、膏灌あぶらそゝぎを受けます。けれどもアロンは血を流しませんうちに、この膏灌あぶらそゝぎを受けます。

 アロンは主イエスを指します。その子供は私共を指します。皆一緖に神の聖前みまへに祭司となる事が出來ます。けれども私共のアロンなる主は、御自分のためあがなひし給はずして、たゞ御自分の功績いさをしために、この膏灌あぶらそゝぎを受けました。私共は第一はじめ聖血ちしほきよめを得なければなりません。聖血ちしほきよめがありませんならば、到底膏灌あぶらそゝぎを頂戴する事は出來ません。

 本節おいてこのあぶらはアロンのかうべの上にそゝがれたることを見ます。レビ十・七二十一・十二をも御覽なさい。これは神の任職のあぶらです。如斯このやうに主はおのれひくくして、その任職のあぶらを受け給ひました(ヘブル五・五、六)。このあぶらよろこびあぶらでした。しへん四十五・七に、主の王たる事、祭司たる事を見ます。又その膏灌あぶらそゝぎよろこび膏灌あぶらそゝぎである事を見ます。

 神は主によろこびあぶらそゝぎ給ひました。必ず主が續いて罪の重荷を負ひ給ひました。けれども今主の有樣は、格別によろこびの有樣です。この詩篇を讀みまするならば、主は神の前に歌をうたうて、感謝しつゝ給ふ事を見ます。それを考へまするならば、信仰をもって私共もよろこびはずです。私共はくるしみを負ひ給ふたる救主すくひぬしに從ふ者ですから十字架を負はねばなりません。けれども最早もはや勝利を得給うたる主、よろこびあぶらそゝがれ給うたる主に從ふ者ですから、私共も勝利のよろこびを得て、不斷たえず喜んでるべきはずです。しへん百三十三・二を御覽なさい。主のかうべそゝがれたるあぶらは、そのころもすそに至るまでしたゝりました。さうですからその身の一番いやしき肢體からださへも、同じよろこび膏灌あぶらそゝぎあづかる事が出來ます。主と共に祭司となり主と共によろこびを頂戴します。

 この十二節おいてアロンが任職のあぶらを得ました。けれどもたゞちに祭司のつとめを勤むる事は出來ません。それまでに一定の時期がありました。主はヨルダンがはおいて任職のあぶらそゝがれ給ひました。又その時から預言者となりて働き給ひました。けれども祭司となり給うたる事は、三年のちの事でした。すなはよみがへり給うたる時に、初めて神と人間とのあひだに立ちて、祭司となり給うたのであります。

十 三 節

 本節からアロンの子がめぐみを受けます。第一に本節おいて祭司のころもを受けます。膏灌あぶらそゝぎを受くる前に、このころもを着なければなりません。私共は聖靈を受くる前に、づ義のころもすなはち主イエス御自身を着なければなりません。エジプト廿八・四十に、このころもは何であるかをしるしてあります。このころもは皆白くありました。きよきたゞしきを示すころもでした。又それにより顯榮ほまれ榮光さかえを得ました。私共は斯樣このやうに第一に神の前に義人となりてきよめられねばなりません。またその次に十四節以下において彼等のため種々いろいろなる犧牲いけにへを献げます。

 第一 罪祭ざいさい牡牛をうし十四
 第二 燔祭はんさい牡羊をひつじ十八
 第三 任職の牡羊をひつじ廿二

 このみっゝ犧牲いけにへを献げてアロンの子のために全き贖罪あがなひを致しました。

 第一に彼等のため罪祭ざいさいを献げました。アロンの子はそのけものしぬる有樣を見ました。これは死にたる者を見るよりははるかに恐ろしき事でした。私共は私共の罪のためしに給うたる主を感じまするならば、たゞ喜樂よろこびと感謝に充ちて參ります。けれどもしに給ふ時の主のくるしみわかりまするならば、自分の罪の恐ろしい事を感じます。このアロンの子は如斯このやうにその時にけものしぬる有樣を見ましたから、深く自分の罪の恐ろしき事を感じました。又この罪祭ざいさいを献げた事によりて、全く自分の罪を捨てる事を示しました。罪の恐ろしき事がわかりて、全く罪を離れる事を示しました。十五節を見ますればモーセが罪祭ざいさいの血を献げました。十六節そのあぶらを献げました。十七節にその肉を犧牲いけにへとしました。さうですからその血とあぶらと肉とを大切に献げて、全き罪祭ざいさいが出來ました。

 第二に十八節燔祭はんさいを献げました。この燔祭はんさいを献げる時に身もたまも全く神に献げる事を示しました。格別に二十節二十一節おいて、モーセがこの羊を切截きりさきてそのあぶらと臓腑を献げて、神の前にかうばしきにほひ献物さゝげものを致しました。これよりて私共も全く心を献げて、又心の一番うるはしき感情を神に献げて、燔祭はんさいとせなければならない事がわかります。すなは燔祭はんさい表面うはべにて嚴重なる生涯を送る事のみではありません。内心こゝろから神のために生涯を送る事を指します。

 第三に二十二節の任職の牡羊をひつじを献ぐる事がしるされてあります。これを献げて、初めて神と人間のために働く決心と特権を受くる事を示します。

 このみっゝ犧牲いけにへの順序を見まするならば、これは私共の從ふべき順序です。すなはち第一に罪祭ざいさいよりきよめられます。第二に燔祭はんさいよりて全く献身します。第三に身を献げて神と人の前に働く決心をする事です。

 人間は度々たびたび自分のかんがへに從うて、この順序を破ります。例之たとへばいま聖潔きよめを受けませんうちに、神のめに働きたう御座ります。あるひいまだ本當に身もたまも献げませんうちに、すなはち神のむねを自分のむねとしませぬうちに、神のために働かうと致します。けれどもこれはおほいなる間違まちがひです。私共は神の順序に從うて、はじめ罪祭ざいさい、次に燔祭はんさいをはりに任職の牡羊をひつじを献ぐる事が出來ます。この任職の牡羊をひつじの血によりて、表面うはべで神のものとなる事が出來ます。

二十三、二十四節

 その血を耳につけました。今迄いまゝで種々いろいろなるけがれたる事を心中こゝろのうち受入うけいれました。今その血によりて耳がきよめられて、神のものとなる事が出來ます。また手の拇指おやゆびに血をつけました。今迄いまゝでその手をもって、種々いろいろなる罪を得ました。今その血によりその罪がきよめられて、神のものとして働く事が出來ます。また足の大指おやゆびに血をつけました。今迄いまゝでけがれたる所を步みたる事を懺悔して、その罪のゆるしを得ます。さうしてその足がきよめられて、たゞ神の前に步む事を指します。さうですからきよめられたる耳をもって、神の聲を聽きます。きよめられたる手をもって、人間のために働く事が出來ます。きよめられたる足をもって、きよき步みを步む事が出來ます。

 これつい本書十四・十四を御覽なさい。これは同じ事です。すなは癩病人らいびゃうにんきよめられたる時に、如斯このやうに聖なる血を得ました。それを比べまするならば、祭司は今きよめられたる癩病人らいびゃうにんやうに、神の前に立つ事を得ます。その祭司はそれによりて、自分の恐ろしきけがれたる有樣を深く感じました。又神のおほいなるめぐみをも感じました。癩病人らいびゃうにんごとき者を取りて、御自分のたふとき祭司とならしめ給ふ事は、じつに神のおほいなるめぐみであると思ひました。

 十四節罪祭ざいさいの上に手をきました。十八節燔祭はんさいの上に手をきました。二十二節に任職の羊のかうべの上に手をきました。ひとつの物の上に手をかうとしますればその手に何をもってる事は出來ません。からの手でなければなりません。さうですから三度からの手を犧牲いけにへの上にきました。これよりて自分は何をももってをらぬ者として、神にこの献物さゝげものを献げます。又今迄いまゝで手に物がありましても、それを全く棄てゝ、この献物さゝげものを献げる事を示します。私共は今迄いまゝで種々いろいろなるものを大切にもっったかも知れません。あるひは世にける名譽、財產、快樂、あるひは自分の義などを大切にもってをりました。けれども本當に献物さゝげものを献げまするならば、さういうものを投出なげだして、神の前にからの手で參ります。さうですから神はあふれる程のめぐみを與へ給ふ事が出來ます。

二十五〜二十七節

 さうですからアロンとその子はその手をかへして、たなごゝろを上に向けて物を受けます。今迄いまゝでその手より全く物をおとして投捨なげすてました。今神はその手にみたし給ふ事が出來ます。私共はたなごゝろを下に向けて、すべての物を投捨なげすてました。それからたなごゝろを上に向けて、すべての物を受けます。これは私共が神のすべてめぐみを受くる善き雛形となります。

 第一に二十五節あぶらを與へ給ひました。これは犧牲いけにへあぶらでしたから、主の心のいとうるはしき愛情と力を指します。さうですから私共は主の心を心とする事が出來ます。主の慈愛にり、心が燃ゆる事が出來ます。主の柔和と主の義と主のすべてうるはしきめぐみを受けます。又第二にこの節のをはりもゝを授け給ひました。もゝ何時いつでも力を指します。主の力を授け給ひました。私共は弱き者ですから、むなしき手をもって神にちかづきます。けれども神はそのやうな手に、豐かに主の聖なる力を授け給ひます。第三に二十六節を見ますれば、營養やしなひを與へ給ひました。私共の手に私共を足らしむる所の營養やしなひを豐かに與へ給ひました。さうですからキリストの肉と血をくらふ事が出來ます。本當にむなしき手をもって神に參りまするならば、その手に豐かに物をみたされる事が出來ます。約壹ヨハネいち一・一を御覽なさい。『わが手さはりし所のもの』。神は如斯このやうに主を私共の手に與へ給ひました。エペソ三・十九をご覧なさい。『神に滿みてるもの』とは、このあぶらと臓腑とを指します。神の心を私共に與へ給ひます。西コロサイ二・九、十を御覽なさい。私共は主の德をもって、全備ぜんびする事が出來ます。私共はたゞむなしき手をもって參りまするならば、如斯このやうに一番うるはしきめぐみを頂戴します。哥前コリントぜん二・十六をご覧なさい。『キリストの心』、これはこの祭司がこの犧牲いけにへの臓腑を頂戴しました事の意味です。ピリピ一・八を御覽なさい。『キリスト・イエスの心』、原語でこの臓腑と同じ意味です。『キリスト・イエスの臓腑』。パウロの心中こゝろのうちにキリストの愛情がありましたから、彼はその愛をもってこの信者を愛しました。自分の肉につける愛ではありません。心中こゝろのうちに神の愛を得ましたから、それをもっこの信者を愛しました。

 第一 空手からてもって神の前に出ました。
 第二 神より滿みたされれました。
 第三 再びそれを神に返します、すなはち神のために働きます。

 今この祭司は神から受けたる物をもって、神にかうばしきにほひ犧牲いけにへを献げる事を得ました。私共はかうばしきにほひ献物さゝげものを神に献げたう御座りまするならば、神より受けたるめぐみもって神のために働き、又生涯をくらさねばなりません。これは本當に神の前に神の聖旨みむねを喜ばす犧牲いけにへとなります。ヘブル十三・十六を御覽なさい。如斯このやうに得たるめぐみを献げまするならば、これは神を喜ばす献物さゝげものとなります。ピリピ四・十八を御覽なさい。この信者は神より受けたるめぐみをまた献物さゝげものとしました。さうですから神の前にかうばしきにほひとなりました。哥後コリントご二・十五を御覽なさい。私共はキリストの心を心とする生涯を送りまするならば、如斯このやう何所どこにも神の前にかうばしきにほひを出します。その生涯は犧牲いけにへの生涯となります。

三 十 節

 この祭司は犧牲いけにへを献げる事ををはりました。三十節おい膏灌あぶらそゝぎを受けました。私共は主のあがなひよりきよめられまするならば、又神とやはらぐ事を得まするならば、又罪に死ぬる事を得まするならば、それはじつさいはひです。これは受けねばならぬめぐみです。けれどもそれで滿足しまするならば、神の圓滿なるめぐみを頂戴しません。たゞ罪に死ぬる事をもって、聖潔きよめもって、滿足しまするならば、神の圓滿なるめぐみとは申されません。それを得まするならば、神に膏灌あぶらそゝぎを求めなければなりません。すなはち聖靈を受くる事です。

 この祭司は自分のみではありません。ころもにも膏灌あぶらそゝぎを受けました。すなはその心のみではありません。その表面うはべの生涯も聖靈に導かれたる生涯でした。ある人は本當に心中こゝろのうちに聖靈を得ました。けれども表面うはべの小さき事において、あるひは家庭のうちに、聖靈に導かれて步む事を致しません。けれどもこれは正しき事ではありません。私共はころもの上にも、聖靈のあぶらを得なければなりません。すなはち人間の前にあらはれたる行爲おこなひと習慣をことごとく神につけるものとしなければなりません。

 こゝにはあぶらのみではありません。それと共に血もありました。アロンはたゞあぶらのみでありました(十二節)。主キリストは如斯このやうにたゞ御自分の德のために聖靈を受け給ふ事が出來ました。けれども罪人つみびとたる私共は聖靈のみではありません。主のあがなひ功績いさをしをも共に受けねばなりません。すなはあぶらをも血をも受けねばなりません。

 さうですからこの祭司は任職を得ました。これをもって全く神の祭司となりました。以後このゝち神の前にほか罪人つみびとため犧牲いけにへを献げる事が出來ます。以後このゝち神の前に光をもやすことが出來ます。以後このゝちきよき所にりて、神の前に乳香にうかうを献げる事が出來ます。本當の祭司となりました。じつにそれを感じて喜ぶはずです。この任職はよろこびの任職でした。イスラエルびとを祝福する任職でした。イスラエルびと種々いろいろなる安慰なぐさめを與ふる任職でした。これはじつに喜ばしいはたらきでした。私共も如斯このやうな順序に從うて、祭司となる事が出來ます。すなはち聖靈の膏灌あぶらそゝぎを得て、神と罪人つみびと仲保なかだちとなる事が出來ます。神の前に出て仲保なかだちいのりを捧げる事が出來ます。罪人つみびとの前に立ちてそゝがれたる血を示して、神に近付ちかづく道を宣傳のべつたふる事が出來ます。又罪人つみびとを導く事が出來ます。私共は如斯このやうにペンテコステの膏灌あぶらそゝぎを得て、神のために働く者となります。三十一節以下を見ますれば、神に養はれて神と共に饗應ふるまひあづかる事が出來ます。この三十一節おいて、私共は如何いかにして續いて祭司たる生涯をくらす事が出來るかゞわかります。一度いちどペンテコステを得まするならば、そのめぐみを保つために、神の前につねに新しきめぐみを受けなければなりません。この三十一節饗應ふるまひはそれを指します。

三十三〜三十五節

 彼等は奉仕のあひだは神の前にとゞまりました。

 この人々は、確實なるめぐみを得ました。神からこのたふとき任職を得ました。さうですからたゞちはたらきかずして、しづかに神の前にとゞまりました。人間を離れて天幕のうち閉籠とぢこもって、神の聖なる食事に養はれて、神の前にとゞまりました。これは深く考ふべき事です。私共はめぐみを得まするならば、たゞち飛立とびたちて、はたらきに參ります。けれどもかえっしばらく神の前にとゞまる方がよろしいです。人間を離れて、しづかに神の前にとゞまる事は大切です。パウロは悔改くいあらためて聖靈を得たるときに、たゞちにアラビアの退しりぞきました。人間を離れてしづかに神の前に三年をすごしました。ダビデが聖靈に滿みたされた時に、たゞちたゝかひに出ませずして、羊をふ所へ歸りて、しづかに神の前に自分の得たる特權を考へました。主イエスも聖靈に滿みたされたる時に、たゞちに人間を離れて、四十日間荒野あれのおいて、自己おのれを愼みて神に祈り給ひました。如斯このやうな時は格別にあやふい時ですから、格別につゝしみもって祈らねばなりません。

 又七日なぬかあひだ隱れてる事は、現今いまの時代を指します。度々たびたび七日間なぬかかんは全き期限を指します。九章を見ますればアロンとその子は輝けるころもを着て、ほかのイスラエルびとあらはれる事を見ます。それは主の再臨の時を指します。その時には主もその聖徒も、輝けるころもを着てあらはれます。けれどもその時まで主もその聖徒も隱れてをります。西コロサイ三・三、四を御覽なさい。『神のうちかくをるなり』。これ八章のをはりを指します。『これともさかえなかあらはるゝなり』。これ九章を指します。今私共は隱れてる生涯をくらしてります。私共はことごとく神の子たるさかえもっります。けれどもそのさかえは隱れてあります。私共は主の再臨の時に、あらはれる事が出來ます。その日には主の榮光のみではありません、私共のさかえあらはれます。さうですから、私共はその日を深く俟望まちのぞみます。ローマ八・十九を御覽なさい。これは主のあらはれることではありません、私共のあらはれることです。私共のさかえあらはれる事を深く待望まちのぞみます。その時まで私共は隱れたる有樣にてとゞまります。オー心中こころのうちこのおほいなるのぞみがありますから、この世を離れて肉につける者を離れて、神の前におとゞまりなさい。世につけたのしみを求めずして、神の前に養はれなさい。



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