出四十章と利八章とは續く話です。出四十・二に『汝集會の天幕の幕屋を建べし』とあります。而して其順序は其一〜八節迄に記されてあります。また九節より膏をそゝぐ事があります。十二節よりアロンと祭司等を聖別する事があります。さうですから其順序は
第一 天幕を建つる事
第二 膏を灌ぐ事
第三 アロンと祭司等を聖別する事
です。けれども出四十章を見まするならば、モーセは只此第一の事を致します。十八節よりモーセは天幕を建て種々の道具を入れて、三十三節の終の如にその工事を竣りました。けれども三十四節の如く、雲集會の天幕を蓋ひて、ヱホバの榮光幕屋に充ちました。さうですからモーセは此時未だ第二と第三の命令を成就する事が出來ません。即ち神の榮光が顯はれて參りましたから、天幕に膏を灌ぐ事と、祭司等を聖別する事が出來ません。けれども今利八章に於て、モーセは此二の命令を成就する事を見ます。此利八章と出四十章とは續いて參ります。
それに由て大に學ぶべき事があります。神は榮光を以て天幕の中を充し給ひました。イスラエル人の目の前に、御自分の榮を顯はし給ひました。また神はイスラエル人の目の前に今から其眞中に在す事を示し給ひました。その時に祭司等は聖別を受けました。その時に此人々は神の聖なる聖なる聖なる榮光を見ました。さうして此聖なる神に奉仕すべき事を決心しました。私共は神の榮光を見まするならば、その榮光に曳かれて、此聖なる神に奉仕し度心の願が起ります。
又出埃及記に於て、神が榮光を以て天幕を充し給ふて、あすこに宿り給ふ事を見ました。今此八章に於て神は祭司各自に同じ恩惠を與へ給ひます。ペンテコステの恩惠を與へ給ひます。祭司を立てゝ祭司自身の心の中に降り、祭司自身の心の中に宿り、祭司自身を充し給ひます。祭司は第一に表面の事を見ました。第二に心の中にそれを經驗しました。此八章九章は續く談です。又これはペンテコステの恩を受くることの雛形であります。私共はペンテコステの恩を受けまするならば、神の祭司となります。こゝでどうして祭司となりますか。言を換へていへばペンテコステの恩を受けたる時に、如何なる者となるかといふ事が錄されてあります。祭司の務は何ですか。私共は祭司の務が分りまするならば、何故にこんなに大切に聖別せらるゝかゞ分ります。實に嚴かなる事です。申十・八を御覽なさい。これは祭司の執るべき三の務です。
第一 『契約の匱を舁しめ』。この契約の櫃は神の在し給ふ事の表面の徵です。
第二 『ヱホバの前に立てこれに事へしめ』。即ちヱホバに近く事です。これは祈と中保の務です。
第三 『ヱホバの名をもて祝することを爲せたまへり』。人間に對して祝福して神の恩の管となる事です。
馬二・七を御覽なさい。私共は如斯に務を成遂げねばなりません。私共はそんな働をなすべき者です。私共はどうしてヱホバの使者となる事が出來ますか。この利八章に於て分ります。どうして本當に祭司となる事が出來ますか。何卒一節より四節までを御覽なさい。さうですからこれは公の集會です。只靜かに自身一人のみならずして、假令耻かしきことがありましても、それを省みずして人間の眼の前に行うべき事です。聖別のうちに、例へば裸なる體を洗ふやうな事がありましたが、矢張人々の前に行ひました。私共は本當に、神に身も魂をも献げまするならば、只靜かに自分の部屋でそれを致しまするのみならず、假令耻しき事がありましても、人々の眼の前にそれを致さなければなりません。假例人々の前に進んで跪きて恩を求むべきことがあります。
『ヱホバのモーセに命じたまひし如し』。この言は八章 九章に於て、祭司の聖別のうちに、十四度錄されてあります。モーセは大切に神の命じ給ひし事を覺えて、大切にこれを行ひます。これに由て出四十章と利八章の關係が分ります。出四十章を見まするならば、十八度同じ言があります。モーセは出四十章に於て神に與へられし命令に從うて、大切に祭司を聖別します。オー私共もそれをも學び度御座ります。本當に献身致し度御座りまするならば、第一に大切なる事は、神の言に從ふ事です。神の言に探られて神の言によりて、洗ひ潔めらるゝ事です。第二に神の命令を受入れてその命令を行ふ事です。けれども献身する事の根本は何ですか。即ち神の言に從ふ事、神の命令を受け入れる事です。
約十五章を御覽なさい。今は恩の時代です。さうですから私共は緩漫に神の命令を受けませうか。神の命令を省みずして、それを犯しませうか。否さうではありません。恩の時代ですから、尚々大切に神の律法を受入れねばなりません。約十五章はキリストの最後の言です。また格別に神の命令の事を見ます。これは格別に恩を顯はす談話です。けれども格別に神の命令を見ます。
第一 我いひし言(七)
第二 我誡、父の誡(十)
第三 我この事を爾曹に語るは(十一)
第四 命ずる所の事(十四)
第五 我これを命ず(十七)
如斯に度々主は恩を顯はす話の中に、我誡、わが命令と言ひ給ひます。オー私共はこれに由て敎へられ度御座ります。献身致し度御座りまするならば、或は恩を得度御座りまするならば、神の恩と約束を受入れねばなりません。
本章に於て
第一 水の洗(六)
第二 衣を受くる事(七)
第三 膏を灌ぐ事(十)
第四 アロンの子供が衣を受くる事(十三)
があります。さうしてそれから犧牲があります。
第一 罪祭(十四以下)
第二 燔祭(十八以下)
第三 外の任職の牡羊(二十二以下)
があります。これは聖別の順序です。
天幕のうちに、黃銅の盤が燔祭を献げたる者を潔むる爲にあります。約十三・十を御覽なさい。主は此時利未記の引照を引きて言ひ給ひました。今聖別の時に同じ洗を受けます。手と足とを洗うて、全き潔き者となります。この洗潔めらるゝ事は、本當の悔改です。多三・五を御覽なさい。『重生の洗』、これは本章六節の水の洗です。弗五・廿六を御覽なさい。『水の洗を以て道に因て』。これは同じ事です。私共はヱホバの祭司となり度御座りまするならば、第一に潔き者でなければなりません。心の聖潔なる者でなければなりません。
祭司の衣は主の種々なる功績を指します。
祭司の一番下の衣は真白くあります。本當の細布です(默十九・八)。これは本當の義、本當の白き心です。私共の心の底は、私共の性質の底は、神の聖前に白くあらねばなりません。
其次の上にある衣は靑色です。出二十八・三十一を見まするならば、靑く作るべしとあります。靑は天の色です。これは聖なる事を指します。即ち白は義を指し、靑は聖きを指します。私共は義(righteousness)と聖(holiness)に於て、主に仕ふべきものです。
また此靑き衣の下に石榴と鈴があります(出二十八・三十四)。石榴は實を結ぶ事を指します。鈴は證を指します。私共は此靑き衣の着まするならば、斷えず實を結ばなければなりません。斷えず證をせなければなりません。主の生涯を見まするならば、不斷その通りでありました。
『エポデを着しめ、エポデの帶を之に帶しめ』(七)。このエポデは美しき衣です。これは祭司の長の衣です。出廿八・六を御覽なさい。如斯にエポデは一番美しき衣です。之は主の各種の恩、主の愛と主の忍耐、主の樣々の功績を指します。
『また胸牌をこれに着させ』(八)。この胸牌には十二の玉があります。各一の玉の上にイスラエル族の名が錄されてあります。この玉は神の前に輝ける價値ある物です。祭司の長がこの玉の上にイスラエル族の名を錄しましたやうに、今主は天國に於て父の前に私共を覺え給ひます。
『ウリムとトンミム』とは何でありますか。誰も知る者はありません。けれども神はそれに由て祭司に御自分の聖旨を悟らしめ給ひました。或人が申しますには、此ウリムとトンミムは、ダイヤモンドの玉にして、其光に從うて祭司に神の聖旨を悟らしめ給ひましたと申します。又或人はこれは律法の書物だと申します。これに由て其聖旨を悟らすものであると申します。神は之を說明し給ひませなんだ。けれども兎も角、これに由て御自分の聖旨を悟らしめ給ひました。母前二十八・六を御覽なさい。今神は聖靈に由て、私共に聖旨を知らしめ給ふやうに、其時代に於てそのウリムとトンミムに由て、その聖旨を知らしめ給ひました。
ウリムの言の意味は光(Lights 即ち光の複數)です。
トンミムの言の意味は完全(Perfection)です。
猶之に就て民廿七・廿一、申卅三・八、喇二・六十三、母前廿八・六を御覽なさい。
また九節の前板の上に、書き記されたる言があります(出二十八・三十六)。即ちヱホバに聖しといふ言です。此前板は餘り善い飜譯ではありません。希伯來語の意味は花、金の花といふ意味です。祭司は毎でも其額に金の花を有って、其上にヱホバに聖しと錄します。ペンテコステの恩を得たる者は、同じ樣にそんな冠をつけて生涯を暮さなければなりません。利二十一・十二を御覽なさい。英語に『そは神の任職の灌膏の冠、その首にあればなり』とあります。これはペンテコステの熖です。これは私共の金の花です。これに由てヱホバに聖しといふ生涯を暮します。
民六・四、五、七を御覽なさい。英語に譯せられたる此三の言、即ち Separation(世に離れる事)と Consecration(神に献身する事)と Nazariteship(ナザレ人となる事)とは希伯來語では同じ言です。
神の爲に此世を離れることは私共の冠です。私共の榮です。私共の幸です。祭司の長は如斯き冠をつけて務をいたします。私共は度々世を離れる事を恐れます。けれども神の前にそれは本當に私共の榮です。私共の冠です。けれども茲でたゞ祭司のみではありません。また王となります。私共は祭司となります。又王となります。これは私共の冠です。神の前に世を離れる事、献身する事、ナザレ人となる事は、實に私共の冠です。さうですから神は御自分の祭司に權威と榮光を與へ給ひます。亞六・十一、十三を御覽なさい。王と祭司である事を見ます。『尊榮を帶び』。祭司の額にある冠はそんな意味を指します。
さうですからイスラエル人の會衆は、初めて自分の祭司を見ました。初めて此輝ける衣、初めて其王、其祭司を見ました。私共も何卒自分の大なる祭司を仰ぎ見度御座ります(來三・二)。此イスラエル人は初めて其時に輝ける衣をつける祭司を見ました。私共も主イエスを見度御座ります。格別に主と共に聖別せられ度御座りまするならば、主と共にペンテコステの恩を頂戴し度御座りまするならば、私共は來三・二の如く、我等の祭司の長なるイエスを深く思はねばなりません。
アロンは直に此衣を頂戴します。さうして膏灌を得ます。けれども血を灌がれません。他の祭司は犧牲を献げます。これは主イエスは御自分の功績に由て、少しも灌がれたる血を要せざる雛形です。私共は最初に灌がれたる血を受入れなければなりません。けれども主は少しもそんな必要がありません。
さうですから一切の器に膏を灌ぎました。神を敬う爲の器、また罪を取除くために贖を献げる器を聖別ちます。祭司は聖靈に由て働かねばなりません。また聖靈の旨に適う器を用ひて、働かねばなりません。哥後十・四を御覽なさい。肉に屬ける器を神の爲に用ひることは實に不可ません。さうですから、第一に此器に膏を灌ぎます。また其意味は神がそれを受け給ふ事です。神が御自分の屬となし給ふことです。又以後此器を用ひて、人間を祝福し、また人間を御自分に近かしめ給ふことを示します。
十二節よりアロンが膏灌を受けます。またその膏はアロンの頭に灌がれます。この時にアロンの子供は膏灌を受けません。アロンの子供は血を流したる後に、膏灌を受けます。けれどもアロンは血を流しませんうちに、この膏灌を受けます。
アロンは主イエスを指します。その子供は私共を指します。皆一緖に神の聖前に祭司となる事が出來ます。けれども私共のアロンなる主は、御自分の爲に贖を爲し給はずして、唯御自分の功績の爲に、この膏灌を受けました。私共は第一に聖血の潔を得なければなりません。聖血の潔がありませんならば、到底膏灌を頂戴する事は出來ません。
本節に於てこの膏はアロンの頭の上に灌がれたることを見ます。利十・七、二十一・十二をも御覽なさい。これは神の任職の膏です。如斯主は己を卑くして、その任職の膏を受け給ひました(ヘブル五・五、六)。この膏は喜の膏でした。詩四十五・七に、主の王たる事、祭司たる事を見ます。又其膏灌は喜の膏灌である事を見ます。
神は主に喜の膏を灌ぎ給ひました。必ず主が續いて罪の重荷を負ひ給ひました。けれども今主の有樣は、格別に喜の有樣です。此詩篇を讀みまするならば、主は神の前に歌を謠うて、感謝しつゝ居給ふ事を見ます。それを考へまするならば、信仰を以て私共も喜を得る筈です。私共は苦を負ひ給ふたる救主に從ふ者ですから十字架を負はねばなりません。けれども最早勝利を得給うたる主、喜の膏を灌がれ給うたる主に從ふ者ですから、私共も勝利の喜を得て、不斷喜んで居るべき筈です。詩百三十三・二を御覽なさい。主の頭に灌がれたる膏は、その衣の裙に至るまで滴りました。さうですからその身の一番賤しき肢體さへも、同じ喜の膏灌に與る事が出來ます。主と共に祭司となり主と共に喜を頂戴します。
この十二節に於てアロンが任職の膏を得ました。けれども直に祭司の務を勤むる事は出來ません。それまでに一定の時期がありました。主はヨルダン河に於て任職の膏を灌がれ給ひました。又その時から預言者となりて働き給ひました。けれども祭司となり給うたる事は、三年後の事でした。即ち甦り給うたる時に、初めて神と人間との間に立ちて、祭司となり給うたのであります。
本節からアロンの子が恩を受けます。第一に本節に於て祭司の衣を受けます。膏灌を受くる前に、此衣を着なければなりません。私共は聖靈を受くる前に、先づ義の衣即ち主イエス御自身を着なければなりません。出廿八・四十に、此衣は何であるかを錄してあります。此衣は皆白くありました。聖と義を示す衣でした。又それに由て顯榮と榮光を得ました。私共は斯樣に第一に神の前に義人となりて潔められねばなりません。またその次に十四節以下に於て彼等の爲に種々なる犧牲を献げます。
第一 罪祭の牡牛(十四)
第二 燔祭の牡羊(十八)
第三 任職の牡羊(廿二)
此三の犧牲を献げてアロンの子の爲に全き贖罪を致しました。
第一に彼等の爲に罪祭を献げました。アロンの子は其獸の死る有樣を見ました。これは死にたる者を見るよりは遙かに恐ろしき事でした。私共は私共の罪の爲に死給うたる主を感じまするならば、只喜樂と感謝に充ちて參ります。けれども死給ふ時の主の苦が解りまするならば、自分の罪の恐ろしい事を感じます。このアロンの子は如斯にその時に獸の死る有樣を見ましたから、深く自分の罪の恐ろしき事を感じました。又此罪祭を献げた事に由て、全く自分の罪を捨てる事を示しました。罪の恐ろしき事が解りて、全く罪を離れる事を示しました。十五節を見ますればモーセが罪祭の血を献げました。十六節に其脂を献げました。十七節にその肉を犧牲としました。さうですからその血と脂と肉とを大切に献げて、全き罪祭が出來ました。
第二に十八節の燔祭を献げました。此燔祭を献げる時に身も靈も全く神に献げる事を示しました。格別に二十節と二十一節に於て、モーセが此羊を切截きて其脂と臓腑を献げて、神の前に馨しき香の献物を致しました。是に由て私共も全く心を献げて、又心の一番美しき感情を神に献げて、燔祭とせなければならない事が分ります。即ち燔祭は表面にて嚴重なる生涯を送る事のみではありません。内心から神の爲に生涯を送る事を指します。
第三に二十二節の任職の牡羊を献ぐる事が錄されてあります。これを献げて、初めて神と人間の爲に働く決心と特権を受くる事を示します。
此三の犧牲の順序を見まするならば、是は私共の從ふべき順序です。即ち第一に罪祭に由て潔められます。第二に燔祭に由て全く献身します。第三に身を献げて神と人の前に働く決心をする事です。
人間は度々自分の考に從うて、この順序を破ります。例之未だ聖潔を受けませんうちに、神の爲めに働き度御座ります。或は未だ本當に身も魂も献げませんうちに、即ち神の旨を自分の旨としませぬうちに、神の爲に働かうと致します。けれどもこれは大なる間違です。私共は神の順序に從うて、初に罪祭、次に燔祭、終に任職の牡羊を献ぐる事が出來ます。此任職の牡羊の血に由て、表面で神の屬となる事が出來ます。
その血を耳につけました。今迄種々なる汚れたる事を心中に受入れました。今その血に由て耳が潔められて、神の屬となる事が出來ます。また手の拇指に血をつけました。今迄其手を以て、種々なる罪を得ました。今その血に由て其罪が潔められて、神の屬として働く事が出來ます。また足の大指に血をつけました。今迄汚れたる所を步みたる事を懺悔して、其罪の赦しを得ます。而して其足が潔められて、只神の前に步む事を指します。さうですから聖められたる耳を以て、神の聲を聽きます。聖められたる手を以て、人間の爲に働く事が出來ます。聖められたる足を以て、聖き步みを步む事が出來ます。
是に就て本書十四・十四を御覽なさい。これは同じ事です。即ち癩病人が潔められたる時に、如斯聖なる血を得ました。それを比べまするならば、祭司は今潔められたる癩病人の如に、神の前に立つ事を得ます。その祭司はそれに由て、自分の恐ろしき汚れたる有樣を深く感じました。又神の大なる恩をも感じました。癩病人の如き者を取りて、御自分の貴き祭司とならしめ給ふ事は、實に神の大なる恩であると思ひました。
十四節に罪祭の上に手を按きました。十八節に燔祭の上に手を按きました。二十二節に任職の羊の頭の上に手を按きました。一の物の上に手を按かうとしますれば其手に何をも有って居る事は出來ません。空の手でなければなりません。さうですから三度空の手を犧牲の上に按きました。是に
さうですからアロンと其その子は其その手を飜かへして、掌たなごゝろを上に向けて物を受けます。今迄いまゝで其その手より全く物を落おとして投捨なげすてました。今神は其その手に充みたし給ふ事が出來ます。私共は掌たなごゝろを下に向けて、凡すべての物を投捨なげすてました。それから掌たなごゝろを上に向けて、凡すべての物を受けます。これは私共が神の凡すべての恩めぐみを受くる善き雛形となります。
第一に二十五節に脂あぶらを與へ給ひました。これは犧牲いけにへの脂あぶらでしたから、主の心の至いと美うるはしき愛情と力を指します。さうですから私共は主の心を心とする事が出來ます。主の慈愛に由より、心が燃ゆる事が出來ます。主の柔和と主の義と主の凡すべての美うるはしき恩めぐみを受けます。又第二に此この節の終をはりに腿もゝを授け給ひました。腿もゝは何時いつでも力を指します。主の力を授け給ひました。私共は弱き者ですから、空むなしき手を以もって神に近ちかづきます。けれども神はそのやうな手に、豐かに主の聖なる力を授け給ひます。第三に二十六節を見ますれば、營養やしなひを與へ給ひました。私共の手に私共を足らしむる所の營養やしなひを豐かに與へ給ひました。さうですからキリストの肉と血を食くらふ事が出來ます。本當に空むなしき手を以もって神に參りまするならば、其その手に豐かに物を充みたされる事が出來ます。約壹ヨハネいち一・一を御覽なさい。『わが手捫さはりし所のもの』。神は如斯このやうに主を私共の手に與へ給ひました。弗エペソ三・十九をご覧なさい。『神に滿みてるもの』とは、此この脂あぶらと臓腑とを指します。神の心を私共に與へ給ひます。西コロサイ二・九、十を御覽なさい。私共は主の德を以もって、全備ぜんびする事が出來ます。私共は只たゞ空むなしき手を以もって參りまするならば、如斯このやうに一番美うるはしき恩めぐみを頂戴します。哥前コリントぜん二・十六をご覧なさい。『キリストの心』、これは此この祭司が此この犧牲いけにへの臓腑を頂戴しました事の意味です。腓ピリピ一・八を御覽なさい。『キリスト・イエスの心』、原語で此この臓腑と同じ意味です。『キリスト・イエスの臓腑』。パウロの心中こゝろのうちにキリストの愛情がありましたから、彼は其その愛を以もってこの信者を愛しました。自分の肉に屬つける愛ではありません。心中こゝろのうちに神の愛を得ましたから、それを以もって此この信者を愛しました。
第一 空手からてを以もって神の前に出ました。
第二 神より滿みたされれました。
第三 再びそれを神に返します、即すなはち神の爲ために働きます。
今此この祭司は神から受けたる物を以もって、神に馨かうばしき香にほひの犧牲いけにへを献げる事を得ました。私共は馨かうばしき香にほひの献物さゝげものを神に献げ度たう御座りまするならば、神より受けたる恩めぐみを以もって神の爲ために働き、又生涯を暮くらさねばなりません。これは本當に神の前に神の聖旨みむねを喜ばす犧牲いけにへとなります。來ヘブル十三・十六を御覽なさい。如斯このやうに得たる恩めぐみを献げまするならば、これは神を喜ばす献物さゝげものとなります。腓ピリピ四・十八を御覽なさい。此この信者は神より受けたる恩めぐみをまた献物さゝげものとしました。然さうですから神の前に馨かうばしき香にほひとなりました。哥後コリントご二・十五を御覽なさい。私共はキリストの心を心とする生涯を送りまするならば、如斯このやうに何所どこにも神の前に馨かうばしき香にほひを出します。その生涯は犧牲いけにへの生涯となります。
此この祭司は犧牲いけにへを献げる事を終をはりました。三十節に於おいて膏灌あぶらそゝぎを受けました。私共は主の贖あがなひに由よりて潔きよめられまするならば、又神と和やはらぐ事を得まするならば、又罪に死ぬる事を得まするならば、それは實じつに幸さいはひです。これは受けねばならぬ恩めぐみです。けれどもそれで滿足しまするならば、神の圓滿なる恩めぐみを頂戴しません。只たゞ罪に死ぬる事を以もって、聖潔きよめを以もって、滿足しまするならば、神の圓滿なる恩めぐみとは申されません。それを得まするならば、神に膏灌あぶらそゝぎを求めなければなりません。即すなはち聖靈を受くる事です。
此この祭司は自分のみではありません。衣ころもにも膏灌あぶらそゝぎを受けました。即すなはち其その心のみではありません。其その表面うはべの生涯も聖靈に導かれたる生涯でした。或ある人は本當に心中こゝろのうちに聖靈を得ました。けれども表面うはべの小さき事に於おいて、或あるひは家庭のうちに、聖靈に導かれて步む事を致しません。けれどもこれは正しき事ではありません。私共は衣ころもの上にも、聖靈の膏あぶらを得なければなりません。即すなはち人間の前に表あらはれたる行爲おこなひと習慣を悉ことごとく神に屬つけるものとしなければなりません。
茲こゝには膏あぶらのみではありません。それと共に血もありました。アロンは只たゞ膏あぶらのみでありました(十二節)。主キリストは如斯このやうに只たゞ御自分の德の爲ために聖靈を受け給ふ事が出來ました。けれども罪人つみびとたる私共は聖靈のみではありません。主の贖あがなひの功績いさをしをも共に受けねばなりません。即すなはち膏あぶらをも血をも受けねばなりません。
さうですから此この祭司は任職を得ました。これを以もって全く神の祭司となりました。以後このゝち神の前に他ほかの罪人つみびとの爲ために犧牲いけにへを献げる事が出來ます。以後このゝち神の前に光を燃もやすことが出來ます。以後このゝち聖きよき所に入いりて、神の前に乳香にうかうを献げる事が出來ます。本當の祭司となりました。實じつにそれを感じて喜ぶ筈はずです。此この任職は喜よろこびの任職でした。イスラエル人びとを祝福する任職でした。イスラエル人びとに種々いろいろなる安慰なぐさめを與ふる任職でした。これは實じつに喜ばしい働はたらきでした。私共も如斯このやうな順序に從うて、祭司となる事が出來ます。即すなはち聖靈の膏灌あぶらそゝぎを得て、神と罪人つみびとの仲保なかだちとなる事が出來ます。神の前に出て仲保なかだちの祈いのりを捧げる事が出來ます。罪人つみびとの前に立ちて灌そゝがれたる血を示して、神に近付ちかづく道を宣傳のべつたふる事が出來ます。又罪人つみびとを導く事が出來ます。私共は如斯このやうにペンテコステの膏灌あぶらそゝぎを得て、神の爲ために働く者となります。三十一節以下を見ますれば、神に養はれて神と共に饗應ふるまひに與あづかる事が出來ます。此この三十一節に於おいて、私共は如何いかにして續いて祭司たる生涯を暮くらす事が出來るかゞ分わかります。一度いちどペンテコステを得まするならば、其その恩めぐみを保つ爲ために、神の前に毎つねに新しき恩めぐみを受けなければなりません。此この三十一節の饗應ふるまひはそれを指します。
彼等は奉仕の間あひだは神の前に止とゞまりました。
此この人々は、確實なる恩めぐみを得ました。神から此この貴たふとき任職を得ました。さうですから直たゞちに働はたらきに就つかずして、靜しづかに神の前に止とゞまりました。人間を離れて天幕の中うちに閉籠とぢこもって、神の聖なる食事に養はれて、神の前に止とゞまりました。これは深く考ふべき事です。私共は恩めぐみを得まするならば、直たゞちに飛立とびたちて、働はたらきに參ります。けれども却かえって暫しばらく神の前に止とゞまる方が宜よろしいです。人間を離れて、靜しづかに神の前に止とゞまる事は大切です。パウロは悔改くいあらためて聖靈を得たるときに、直たゞちにアラビアの野のに退しりぞきました。人間を離れて靜しづかに神の前に三年を過すごしました。ダビデが聖靈に滿みたされた時に、直たゞちに戰たゝかひに出ませずして、羊を牧かふ所へ歸りて、靜しづかに神の前に自分の得たる特權を考へました。主イエスも聖靈に滿みたされたる時に、直たゞちに人間を離れて、四十日間荒野あれのに於おいて、自己おのれを愼みて神に祈り給ひました。如斯このやうな時は格別に危あやふい時ですから、格別に愼つゝしみを以もって祈らねばなりません。
又七日なぬかの間あひだ隱れて居をる事は、現今いまの時代を指します。度々たびたび七日間なぬかかんは全き期限を指します。九章を見ますればアロンと其その子は輝ける衣ころもを着て、他ほかのイスラエル人びとに顯あらはれる事を見ます。それは主の再臨の時を指します。其その時には主も其その聖徒も、輝ける衣ころもを着て顯あらはれます。けれども其その時まで主も其その聖徒も隱れてをります。西コロサイ三・三、四を御覽なさい。『神の中うちに藏かくれ在をるなり』。是これは八章の終をはりを指します。『之これと偕ともに榮さかえの中なかに顯あらはるゝ也なり』。是これは九章を指します。今私共は隱れて居をる生涯を暮くらして居をります。私共は悉ことごとく神の子たる榮さかえを以もって居をります。けれども其その榮さかえは隱れてあります。私共は主の再臨の時に、顯あらはれる事が出來ます。その日には主の榮光のみではありません、私共の榮さかえも顯あらはれます。さうですから、私共は其その日を深く俟望まちのぞみます。羅ローマ八・十九を御覽なさい。これは主の顯あらはれることではありません、私共の顯あらはれることです。私共の榮さかえの顯あらはれる事を深く待望まちのぞみます。其その時まで私共は隱れたる有樣にて止とゞまります。オー心中こころのうちに此この大おほいなる望のぞみがありますから、此この世を離れて肉に屬つける者を離れて、神の前にお止とゞまりなさい。世に屬つける樂たのしみを求めずして、神の前に養はれなさい。
| 序 | 緒 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19,20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 目次 |