此禮物は常に燔祭と共に献げましたから、燔祭の一部分と申されます。他の禮物と異ひまする點は、他の禮物には常に血を流します。然れども此禮物のみは血を流す事がありません。只乳香と油のみです。燔祭は格別に神に身も靈も献げる事を指します。素祭は格別に人の爲めに生涯を送る事を指します。又人の眼の前に聖き生涯を送る事を指します。眞に献身いたしますれば、必ず此二つの事があります。度々私共は献身に就て誤りたる思想を以て居ります。只神に身も靈も献げる事であると思ひます。然れども聖書全體を査べまするならば、献身は只それのみではありません。人の爲にも身も靈も献げる事が必要です。燔祭と素祭とを一緖に献げました如に、神にも人にも身も靈も献げねばなりません。これは全き献身です。只心を盡し精神を盡して神に愛するのみではありません。又己の如く隣人を愛せねばなりません。又隣人を愛しませねば、眞に神を愛する事は出來ません。聖餐式にもこの二つの事を見ます。即ち血を流す事を表はす物と、血を流す徵證なき物との二つです。さうですから聖餐の酒は燔祭の意味があります。パンは素祭の意味があります。神の爲めに血を流してそれを献げ、人間の爲めに力を盡して働きます。
創四章のカインとアベルの話にも同じ事を見ます。アベルは血を流して神に献物を献げました。カインは只產物を以て其献物と致しました。然れども神は血を流さずして、献物を受け納れ給ふ事が出來ません。其儘に最初から素祭を献げる事は出來ません。常に燔祭と共に献げます。即ち血を流して又自己の亡ぶべき罪人である事を認めて素祭を献げねばなりません。さうですから主イエスの献物に依頼みませずして、人間の爲めに善き事業をいたしましても、神に受け納れらるべき献物ではありません。然れども身も靈も神に献げて、人間の爲めに働きまするならば、これは神の前に馨香の献物です(腓四・十八、哥後八・五)。
主イエスの手本を見まするならば、何時も己を燔祭として、神に身も靈も献げ給うたるのみではありません。人間の爲めにも力を盡して働き、人間の僕となり給ひました。腓二・五〜八を讀みますれば、主イエスの献げ給うたる素祭を見ます。私共は其手本に從ひまして、謙遜を以て己を卑くして、人の爲めに働かねばなりません。これは私共の献ぐべき素祭です。又それを献ぐる爲めに、全く心中にキリストの生命を受け納れねばなりません。さうですからキリストは心中に働き給うて、御自分の樣な生涯を送る力を與へ給ひます。加二・廿、西三・三、哥後四・十一を見ますると、私共の献ぐべき素祭の有様が分ります。
然ですから、素祭を委しく硏究ますれば、主イエスが此世に於て送り給うたる生涯の有樣を見る事が出來ます。又今主イエスが聖徒の中に住り給うて、其聖徒を以て献げ給ふ素祭の有樣を見る事が出來ます。
素祭に用ふる品物が三つあります。麥粉と油と乳香です。其中最も大切なる者は麥粉でした。麥粉は格別に柔かなる者です。又これを入れたる器の形を取る者であります。さうですから格別に己を棄てたる謙遜なる心を指します。これは全き人の性質である筈です。主イエスは常に其通りでした。又平常此麥粉は何の爲めに用ひますかならば、人間を養う爲めです。全き人は常に他の人の德を建つる爲めに、生涯を送ります。他の人に眞の養、眞の滿足を與ふる爲めに、生涯を送ります。麥粉は少しも塊がありません、常に柔かにして又滑かなる者であります。其通りに此樣な人は苦みの時にも幸の時にも、得意の時にも失望の時にも、常に同じ樣に愛を以て己を卑くします。主イエスの御生涯に格別に如此事を見ます。成効の時に凡ての榮光を神に歸し給ひました。人間と惡魔に苦められたる時にも、愛を以て己を卑くして居給ひました。これは神の前に馨香の素祭でした。私共もキリストを住しまするならば、又キリストの生命に與りまするならば、同じ樣に神に素祭を献ぐる事が出來ます。
今一つは油でした。是は聖靈を指します。主イエスでも御自分の力に依らずして聖靈によりて生涯を送り給ひました。太一・二十を見ますと、聖靈の感化によりて生れ給ひました。路三・二十二を見ますれば、聖靈が降りて其心に住り給ひました。路四・一を見ますれば、聖靈に導かれて野に往き、聖靈の劍を以て惡魔と戰ひ給ひました。路四・十四を見ますれば、主は聖靈の力によりて傳道し給ひました。徒一・二を見ますれば、甦り給ひし後にも聖靈によりて弟子を敎へ給ひました。私共も其通りに聖靈の恩寵と聖靈の生命を得て、聖き素祭を献げねばなりません。
四節を見ますれば、油を混ぜたる菓子があります。又油を塗りたる煎餅もありました。油を混ぜたる菓子は心の底まで聖靈に充たされたる人を指します。又その爲めに品性も心も思想も、皆聖靈の感化と味とがあります。それです。其樣な人は加五・廿二の樣な果を結びます。
油を塗りたる煎餅は、上から聖靈を注がれたる信者を指します。これは格別に品性の爲めではありません。又品行の爲めでもありません。これは格別に證の爲めです。私共は如斯に聖靈に充たされ、又聖靈を注がれたる信者でなければなりません。
第三は乳香でした。是れは神の味と香とを表します。乳香を得たる菓子は、常に斯樣な馨香を出しました。斯樣な信者は大きい事にも小さい事にも、常に神の香を出します。又其傳道の中にも、常に神と主イエスの香があります。約八・二十九、これは乳香の生涯です。常に神の味があります。又常に神の爲めに行を行います。さうですから必ず祈の生涯です。必ず献身の生涯です。必ず信仰の生涯です。哥後二・十五をご覧なさい。『我儕はキリストの馨香なり』、是は意味の深き語です。之と耶廿三・三十二を御較べなさい。英譯には『彼等の輕々しき事により』とあります。これは丁度此反對です。或る信者は極めて輕卒に、輕々しき心を以て日を送ります。祈の生涯を送りません。然れども毎日の細い事ばかりを考へて居ります。これは乳香に反對する事です。或人は眞に献身しました。然れども或る事の爲めに、死にし蠅が乳香の中に落ちて、馨香を放たぬ樣になります(傳十・一)。一度惠まれて眞に聖靈の油を受けました。然れども死にし蠅の如に細き事の爲めに、馨香を出さぬ樣になりました。愛の不足の爲め、心中に罪の種を抱く爲め、其乳香を汚して惡臭を放ちます。キリストの生涯を見ますれば、そのやうな事は少しも御座りません。何時でも何処でも馨香の生涯でありました。私共は格別に此世の交際に於て又家族の中にありて、如此な馨香を汚さぬ樣に注意せねばなりません。
如何して素祭を献げましたかならば、幾分を壇の上に於て燒き盡しました(二節の終)。また幾分を食べました。燒き盡したる部分は、神に全く献げる意味を示します。食べました部分は、人間の爲めにする事を指します。聖き生涯を送るならば、其幾分を全く神に献げます。又其殘りを人間のために費します。献身の生涯は、只神に献げる生涯のみではありません。又人間の爲めに盡す生涯であります。
主イエスの生涯を見ますれば、これは明かです。主イエスは眞に只神の有でありました。然れども人間の爲めに生命のパンとなり給ひました。私共も自分の力に應じて人間のパンになるべき筈です。主イエスは素祭のやうな生涯を送り給ひましたから、其生涯は私共の靈の糧となる筈です。彼前二・三を御覽なさい。『嘗ひて』、これは信仰の比喩です。主を味いて四福音を読む筈です。主によりて活けるパンを受け納れまして、主の行も話も読む筈です。
是は又至聖き糧です。此利二・三、十を見ますれば、『至聖物たるなり』とあります。然ですから、主イエスの一代記を至聖き糧と思うて讀み度御座ります。又自分も神の前に献身の生涯を送りて、素祭の樣な献物を献げますならば、夫れは神の前に至聖き事です。神は天より望み給うて、其樣な人を見て、汚れたる世の中に神を悅ばせ奉る小き場所であるといひ給ひます。
素祭は大槪火に當てられました(四、五、七節)。火の感化を受けました。私共は神に聖き生涯の献物を献げ度御座りまするならば、必ず試みの火、苦みの火に會はねばなりません。神は如此に苦みを以て、私共を御自分の献物として献げしめ給ひます。心中で身も靈も献げましても、如此に火の感化を受けませんならば、未だ眞に堅うせられたとは申されません。彼前五・十をご覧なさい、『暫く苦を受け』。可九・四十九をご覧なさい。『火を以せられ』、其苦みの時に、私共は最早苦みを受け給うたる主イエスの助を得ます。來二・十八を御覽なさい。主御自身が試みられて苦み給ひましたから、苦みの時にも神を悅ばする事が出來ます。度々如此苦みの時に、信者は悅樂がありませんから、恩寵を失うたと思ひます。さうですから神を悅ばしませなんだと思ひます。けれども苦を忍びて、信仰を以て神の恩を俟望んで居りまする者は、神に馨香の献物を献げます。如此時に忍びまする事は、悅んで居る時よりも却て神に悅ばれるかも知れません(詩六十六・十〜十二)。
又素祭は只火に當てられたるのみではありません。全く碎かれました(六節)。聖餐の時に同じ摸型を見ます。哥前十一・二十四、『擘るゝ我體なり』。主の體が碎かれました
神は時によりて、只たゞ初穗はつほを其儘そのまゝに素祭そさいとして受け納いれ給ひました。麥が禾場うちばに打ち落おとされ、粉こにせられ、菓子に製つくられて全まったい物となり、純粹なる献げ物となります。然けれども神は私共の幼稚なる信仰をも受け納いれ給ひます。信仰又献身は假令たとへ十分に熟しませんでも、正直でありまするならば、神は一層熟したる者と共に受け納いれ給ひます。
終をはりに素祭そさいを献げるに、三つの規則があります。
第一は麪酵ぱんだねを用もちふる事を許しません(十一節)。麪酵ぱんだねの意味は哥前コリントぜん五・八に記してあります。即すなはち惡毒あしきと暴很よこしまとです。又麪酵ぱんだねなき事は眞実しんじつと至誠まこととを指します。暴很よこしまは麪酵ぱんだねの樣やうに心を腫ふくらせます。麪酵ぱんだねの樣やうに酸すくします。神は必ず高慢なる心、酸すくなりたる心を受け納いれる事は出來ません。他ほかの事に於おいて献身がありましても、十字架を負ひましても、腫ふくれたり又酸すくなりたる心は汚けがれたる心です。
第二は蜜を用ひません(十一節)。蜜は甘い物です。然けれども火の感化を得たる時は酸すくなります。是これは常に蜜の樣やうに甘くありまして、眞まことに麗うるはしき性質こゝろを有もって居をる信者と思はれます。然けれども苦くるしみの時には呟つぶやきます。神は斯かゝる信者を願ひ給ひません。これは只たゞ肉に屬つける麗うるはしさです。神は此樣このやうな味あぢはひを願ひ給ひません。神の要もとめ給ふ處ところは乳香にうかうの樣やうな者です。即すなはち火に燒けて益ますます馨香かうばしきにほひを出だします。或ある信者は蜜の樣やうに甘う御座ります。又或ある信者は乳香にうかうのやうに馨香かうばしきにほひを出だします。神は第二の信者を悅よろこび給ひます。
第三は鹽しほを用もちふる事です(十三節)。西コロサイ四・六に其その說明を見ます。此樣このやうな人は不斷たえず其その言葉に眞実しんじつの味あぢはひがあります。永遠の味あぢはひもあります。
何卒どうぞ祈禱いのりを以もって此この素祭そさいを能よく御考へなさい。此處こゝで聖きよき生涯は、如何どういふものであるかを學ぶ事が出來ます。種々いろいろなる點から聖きよき生涯を見ねばなりません。種々いろいろなる事に於おいて神の前に聖きよき生涯を送らねばなりません。然けれども主イエスの生涯を見ますれば、主イエスを靈れいの糧かてとして心の養やしなひとして生涯を神に献げまするならば、此この通りに正しき献物さゝげものを神に献げる事が出來ます。之これを害する者、妨ぐる者を皆棄てゝ、神の默示に從ひて、聖きよき生涯を送りなさる樣やうに願ひます。
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