第 七 章  愆祭、酬恩祭の例



一〜六節

 これは愆祭けんさいのりです。私共わたくしども愆祭けんさいよりて神のめぐみさとります。愆祭けんさいなにめに設けられてありますか。それは神のたみが罪を犯しまするならば、その罪をあがなためであります。けれども最早罪を悔改くひあらためて、神のめぐみを得たる者は、た罪を犯さずしてその時からきよき生涯を送るはずではありません。けれども神はこゝ尚々なほなほめぐみあらはして、罪を犯しましたならば、その罪をあがなふ道を示し給ひます。

 罪を犯してその罪のあがなひを求めまするならば、何卒どうぞほふられたるキリストを御覽なさい。それを見まするならば、必ず碎けたる心をもって、罪をにくみます。キリストは神の前にしに給ひました。一方より見ますれば、キリストはサタンの前、また人間の前にしに給ひました。それはサタンのはたらきまたあしき者のはたらきでした。けれども本當にそれは神の前でした。それは神の聖旨みむねを成就する事でした。それは神が許し給うたる事でした。キリストはそれをさとり給うて、父の手よりそのさかづきを飮み給ひました。ピラトの手よりではありません。祭司長さいしのをさの手よりではありません。羅馬ローマ兵士へいたいの手よりでもありません。本當に神の聖手みてよりそのさかづきを飮み給ひました。キリストはじつに神の前にしに給うたのであります。

 こゝに二節)とあぶら三節)と六節)の用法もちひかたついしるされてあります。

 血は死の證據です。また何人たれでも見る事が出來る所にその血を注ぎました。それゆゑ何人たれにもその死がわかりました。キリストは如斯このやうしに給ひました。キリストの贖罪あがなひ方隅かたすみに行はれたる事ではありません(しとぎゃう二十六・二十六)。その時にすべての人々は國々より、エルサレムにあつまりました。さうして彼等の目前めのまへに、おほやけに行はれました。キリストの血は本當に人間の目前めのまへに流されました。今私共は人間にそれをあらはす責任をもってをります(ガラテヤ三・一參照)。私共は何人たれ目前めのまへにても、キリストをあらはすべきはずです。すなはち壇に流されたる血を、何人たれにも示さねばなりません。

 あぶらは心のいとうるはしきじゃうと志とねがひを指します。あぶらは全く神のものとなりました。キリストのじゃう、志、ねがひなどは、皆神のものでした。全きものとして、だ神に献げられたることを見ます。

 肉は祭司長さいしのをさが食しました。これによりてそれを献げたる者は、神に受入うけいれられたることがわかりました。それは神が受入うけいれ給うたる表面うはべしるしでした。さうですからそれを献げたる者は、滿足して歸ることを得ました。罪のためのろひを負ひました。けれども今贖罪あがなひために、そののろひが全く取除とりのぞかれましたから、安心して歸ることを得ました。

七〜十節

 さうですから、神は祭司に毎日の生活くらしを與へ給ひました。哥前コリントぜん九・十三、十四を御覽なさい。福音時代においても同じ規則がありました。本當に福音を宣傳のべつたふる者は、それにより生活くらしを立てるはずです。これは神の規則です。

 けれどもこゝに尚々なほなほ深い意味を見ます。祭司はどういう食事を得ましたかならば、神のきよき物でした。祭司はじつに神に献げられたる物のみを食べました。私共は心中こゝろのうちにどういう食事を得ますか。或る信者は肉につけ種々いろいろなるものを讀みます。世につける新聞や雜誌を好みます。けれどもそれはこののりに背きます。祭司は神のきよき物ばかりを食するはずです。又神は如斯このやうな祭司に必需物なくてならぬものを與へ給ひました。神はじつに御自分の働人はたらきびとに、そのはたらきために無くてならぬきよき食事を與へ給ひます。必ず神はあなたに日々のれいかてを與へ給ひます。毎日きよき食事、しゅイエスをくらはしめ給ひます。さうですから何卒どうぞ毎日至聖所いときよきところりて、それを求めて神の前で御食おあがりなさい。

十一〜十三節

 十二節に『感謝のために』とあります。また十六節に『 願還ぐゎんはたしかまたは自意こゝろより禮物そなへもの』とあります。酬恩祭しうおんさいこのみつ犧牲いけにへがあります。私共はさういふ時に、格別に神とまじはることをはずです。酬恩祭しうおんさいは神とまじはることを指します。さうですからさういふ時に格別に神とまじはることを得ます。

 私共は感謝の時に、格別に神の聖貌みかほを見るはずです。しへん百十六・十七を御覽なさい。これは酬恩祭しうおんさいです。私共は如斯このやう酬恩祭しうおんさいを献ぐるはずです。神のめぐみと神の慈愛をさとりて、主イエスのあがなひを見て神に酬恩祭しうおんさいを献ぐるはずです。

 けれどもこゝに感謝の献物さゝげものを献ぐる時にも、血を流しました。私共は罪のゆるしを求むる時に、流された寳血ちしほ依賴よりたのまねばならぬことがわかります。けれどもたゞにそれのみではありません。私共は感謝を献ぐる時にも、流されたる血に依賴よりたのまねばなりません。何故なぜですかならば私共は神に感謝するに足らぬ者です。神に感謝を献ぐる價値ねうちのある者ではありません。さうですから寳血ちしほ依賴よりたのんで近づかねばなりません。私共はたゞ救はれたる罪人つみびととして感謝を献ぐる事が出來ます。何卒どうぞ歌をうたひまする時に、感謝を献げまする時に、それを覺えたう御座ります。私共は血を流しませずして、酬恩祭しうおんさいを献ぐることを許されません。

 また十二節、十三節を見まするならば、酬恩祭しうおんさいと共に素祭そさいを献げました。素祭そさいきよき生涯を指します。神にきよき生涯を献ぐる事です。私共は神に感謝を献げたう御座りまするならば、きよき生涯を送らねばなりません。神の前にラッパを吹きたる祭司、あるひは歌をうたひたるレビびとは、きよき布のころもを着てりました。私共は如斯このやうな感謝を致したう御座りまするならば、きよき生涯をくらさねばなりません。神はけがれたる唇よりの感謝を求め給ひません。かゝる事はかえって神の聖前みまへに無禮なる事であります。

十四、十五節

 これはそれを献げたる者が食したる事です。私共は感謝を献げまするならば、そのためれいかてを得ます。そのために本當に天のパンをくらふことが出來ます。本當にれいまこともって神に感謝しまするならば、そのためれいかてを得ます。私共は歌をうたひまするときに、その歌のことばさとって感謝しまするならば、新しきめぐみを得ることが出來ます。

 けれどもこの肉は新しき時に食べねばなりません。それを翌朝あくるあさまで殘すことを許されません。その時にすぐに食べねばなりません。私共は過去に献げたる感謝のために、れいかてを得ません。現今いまの感謝のために新しきれいかてを頂戴することが出來ます。心中こゝろのうちに感謝のれいがありまするならば、其爲そのため生命いのちのパンを得ます。私共は感謝のれいがありませんならば、酬恩祭しうおんさいを献ぐる心がありませんならば、如何いかに歌をうたひましても、れいかてを得ません。けれども私共に酬恩祭しうおんさいを献げたき心がありまするならば、神は必ずれいかてを與へ給ひます。何卒どうぞ感謝は神に献げられたる犧牲いけにへであることを悟りたう御座ります。

 またこれは自分のよろこびためではありません。あるひほかの人を喜ばすためでもありません。たゞ神の前にかうばしきにほひ献物さゝげものを献ぐるために感謝をいたすのであります。神はそれを受入うけいれて喜び給ひます。ユダヤびとは祭司がその酬恩祭しうおんさいくらふのを見まして、自分の酬恩祭しうおんさいが神に受入うけいれられたることがわかりました。私共は感謝の献物さゝげものを献ぐる時に、神がそれを受入うけいれ給ふたる事を確信して、神と共に喜ぶ事が出來ます。

十 六 節

 『願還ぐゎんはたしかまたは自意こゝろより禮物そなへもの』。私共は神に約束をしまするならば、そのために神とまじはる事を得るはずです。あるひは格別に物を献げまするならば、それによりて神とまじはる事を得ます。しんめい十二・十七、十八を御覽なさい。自意こゝろより禮物そなへものたる酬恩祭しうおんさいでした。收穫かりいれの感謝のためにそれを献げました。また神の前にそれをくらはねばなりません。これは神を喜ばすためでした。神に献げられたるものですから、神の前にそれをくらふて喜ぶはずです。

十六節下半、十七節

 それゆゑにこの酬恩祭しうおんさいを二日のあひだくらふことを許されました。そのやう自意こゝろより禮物そなへものために、なほ暫く神とまじはりて、神のれいかてを頂戴することが出來ました。けれどもこれでも新しいうちにくらはねばなりません。少しでも腐りまするならば、くらふ事を許されません。神はいつでも私共に新しきれいかてを與へ給ひたう御座ります。私共は昨年めぐみを得ましたから、今それを覺えてめぐみると思ふ事は間違まちがひです。神は新しき聖言みことばを與へて、いつでも新しきめぐみを授け給ひます。

十 九 節

 これはきよき食事です。またきよき者のためです。私共は罪によりけがれを得まするならば、神のきよれいかてることは出來ません。たゞきよき者のみがこれをくらふことを得ます。私共はいつでも寳血ちしほ依賴よりたのみ、寳血ちしほきよめられて、それをくらはずです。

二十、二十一節

 感謝を献げる事は夫程それほどたふとい事です。私共はいのりたふとい事はわかります。けれども度々たびたび感謝のたふとい事を忘れます。敎會において、歌をうたふ時には、いのりをなす時の如く、嚴肅なるおもひもって歌はねばならぬ事を感ずる者はすくなう御座ります。けれどもこれはいのりのやうにたふといものです。この二十、二十一節の如く、けがれたるまゝにて、酬恩祭しうおんさいを献げまするならば、神は御自分のいます所より私共を投出なげいだし給ひます。さうですからおそれもって神に感謝を献げねばなりません。

二十二〜二十七節

 さうですからあぶらと血もたゞ神のものでした。あぶらは心の一番たふとじゃうを指します。一番高きねがひしたひを指します。これは皆神のものでした。神にそれを献げねばなりません。神のためにそれを用ひねばなりません。自分のためにそれを用ひますならば、おほいなる罪です。またそのけものの血も神のものです。血は生命いのちです。生命いのちたふといものです。神のものです。いける者を見まするならば、その生命いのちは神よりでたる者にして、神のものである事を感じたう御座ります。

二十八〜三十三節

 さうですから祭司はそのふたつの部分を得て、それをくらふことが出來ました。すなはち胸ともゝです。胸はキリストの愛情を指します。もゝはキリストの力を指します。如斯このやうにキリストはその愛と力を私共に授け、私共のために用ひ給ひます。何卒どうぞ感謝してそれを受入うけいれなさい。私共は度々たびたび不信仰に陷りて、主の愛を感じません。あるひは主の力は私共のめでありませんと思ひます。何卒どうぞかゝる不信仰を棄てゝ、祭司がいつでも胸ともゝを得てそれをくらひましたやうに、心中こゝろのうちにキリストの愛と力を信じて、それに依賴よりたのみなさい。

三十五節

 神は私共を祭司とならしめ給ひます。寳血ちしほあがなはれて聖靈のあぶらを注がれたる者は、神の祭司です。神は祭司に如斯このやうに聖なるかてを與へ給ひます。この次の章を見まするならば、神はイスラエルびとの祭司を任職させ給ひました。又任職をるうちに、神は彼等を養ふために、方法を備へ給ひました。神はいつでも如斯このやうに働き給ひます。私共につとめを命じ給ふならばそのつとめはたために、無くてならぬめぐみを與へ給ひます。神は私共のものを使うて、御自分のはたらきをなさしめ給ひません。いつでも無くてならぬめぐみと力と愛を豐かに與へて、そのはたらきをなさしめ給ひます。



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