此處にて神は丁度父の樣に、其家族を警戒め給ひます。家の中に眞實と正義と愛の行はれる事を命じ給ひます。
『ヱホバ言たまはく』。馬太傳五章に於て主は此通りに弟子を敎へ、其一家を導き給ひました。彼處で人が互に爲すべき事、又神の聖旨をも敎へ給ひました。神は只外部の行のみならず、心を鞫き給ふ事をも敎へ給ひます。何卒其事を心に藏めて此數節を御讀みなさい。
『人の物をあづかり云々』とあります。私共も此樣な事に就て、聖靈の聖旨に從はねばなりません。例へば度々本を借りるならば、出來る丈け早く之を返しますか。或る兄弟は永い間之を止めて置きます。又傘を借りて度々之を返さぬ人もあります。是は神の聖前に兄弟に對して罪を犯す事です。聖靈に導かれたる者は、此樣な事を全く正しく行ひます。然れども此二節に他の事で、私共の心を刺す事があります。『人を虐ぐる事』。細い事に於て人を虐ぐる事が出來ます。例へば買物をする時に、成るべく安くさせる事を致します。これは人を虐ぐる事です。神に屬く者は此樣な事に就ても、他の事に於ても、萬事に於て凡ての人を兄弟と思ひ、兄弟として取扱ふべき筈です。自分は人から此樣にせらるべき筈であると思うてはなりません。然れども他人には之を行ひなさい。誰にも此樣になさい。最も賤しい者にも此樣に行ひなさい。人を虐げまするならば、神は必ず之を私共にたゞし給ひます(徒五・一〜四)。多くの人が此誤の下に居ります。さうですから追々詛はれて苦んで居ります。神の人は此罪を犯さぬ樣に注意せねばなりません。信者が之を認めますなら、二倍にして之を償はねばなりません(出二十二・七)。
一節より七節迄の順序を見ますれば、第一に人に償はねばなりません。第二に神に献物をせねばなりません。一節から五節迄は人に對して、六節七節は神に對して其愆の爲めに愆祭を献げねばなりません。路十九・八、九に、ザアカイは其不義の償をする樣に約束しました。さうですから救を得る事が出來ました。先づ人になすべき事をしませんならば、神は私共を受け納れて、救を與ふる事をなし給ひません。人を導く時に何卒格別に此事に注意なさい。罪人は人の物を償ひませんならば、必ず神より赦を受けません(太五・二十三、二十四)。兄弟に對して面白くない事がありまするならば、神は汝の献物を悅び給ひません。己を卑うし血潮を賴みて、神と和がねばなりません。若し神が汝を受け納れ給ひませんならば、必ず神の恩惠を受ける事は出來ません。若し見ゆる所の兄弟と和ぐ事が出來ませんならば、必ず神と和ぐ事は出來ません。自分に損を受けて兄弟と和ぐ事をいたしますれば、神は必ず私共を受け納れて、親しき交を與へ給ひます。眞の救は神と和ぐのみならず、又人と和ぐ事をも含みます。或る時に人は兄弟に對する小さい罪の爲めに、恩惠と和平を得る事が出來ません。箴十四・九をご覧なさい。愚かなる者は罪を輕んじます。これは小さい事であるといひて罪を輕んじます。然れども如何なる罪でも小さい事はありません。
今繰返して靈の意味を考へ度御座ります。神は何の理由で罪人の爲めに身代を受け納れ給ふ事が出來ますか。神は何故に身代りの上に私共の罪を置き給ふ事が出來ますか。キリストが罪人と一になり給ひし爲めです。私共は種々なる關係を以て、キリストと共になります。兄弟として、又新郎と新婦、體と其肢、木の幹と其枝、此樣な比喩を以て私共とキリストと一になれることを悟らせ給ひます。然れども此比喩の意味よりも、尚親しい關係があります。キリストは全く私共と一になり給ひました。私共はキリストと一になりました。是れは基礎です。是れは奥義です。キリストは私共と一となりて罪人となり給ひました。罪人として罪の形を受け給ひました。私共はキリストと一になりましたから、神と一になりて榮光の世嗣となりました。さうですから私共は常に神の前に、キリストによりて、キリストと同じ樣な者になります。神はキリストの樣に私共を取り扱ひ給ひます。キリストに與ふる榮光を私共に與へ給ひます。其爲めにキリストが神に全き献物を献げ給ひまするならば、即ちキリストが燔祭、素祭、罪祭を献げ給ひまするならば、私共はキリストに由て私共が献物を献げると同じ事です。自分の精神の力、心の力で神に全き献身をする事は出來ません。然れども十字架の爲めに、全く己に死に新しき生を得て、神の屬となる事が出來ます。さうですから身も靈も献げたいと思ひまするならば、自らもがき苦んで、己を神の屬とする事は出來ません。只キリストを信じ、十字架の上に死んだ者と思うて、新しき生命を得て、神の前に步む事が出來ます。神の前に人は贖をしました。即ちキリストは人間として、贖をなし給ひました。さうですから人間(私共)が罪を犯しました。又人間(キリスト人間となりて)が贖をいたしました。これは私共の和の源です。神は其正義を以て、罪を赦し給ふ事が出來ます。神の前に人間(キリスト人となりて)が、凡ての罪を負うて其刑罰を受けました。神の前に人間(キリスト人となりて)は凡て罪の償をいたしました。さうですから神は義を以て其罪を消し給ふ事が出來ます。それを深く思ひまするならば、主の十字架の價を感ずる事が出來ます。
けれども、只そればかりではありません。犧牲の中に馨しき香の犧牲があります。これは神を全く喜ばする犧牲です。主イエスも如斯な犧牲をなし給ひました。即ち人間(キリスト人となりて)が此世に居りて、神を喜ばせ神の聖旨を實行いたしました。これは神の前に馨しき香の献物です。キリストが私共の衷に住み給ひまするならば、私共の生涯も神の前に馨しき香の献物です。深く福音の奥義を考へますれば、私共はキリストと共になり、キリストは私共と一になり給ひます。さうですからキリストに於て甦ります。キリストが天の處に坐り給ひますから、私共も天に行く事が出來ます。主が昇天し給ひましたから、必ず汝も私も昇天します。近き卑い譬を以て申しますれば、水中に沈んでから、又顯はれて上りまするならば生を全ういたします。其樣に主は一度死に勝ちて昇天し給ひましたから、其體となりました私共も、必ず死より救はれて天國に行く事が出來ます。キリストと私共は一です。これは奥義です。是れは實に感謝すべき事です。
『ヱホバまた言たまはく』。是れは新に語り給ふ事を示します。即ち新なる默示を與へ給ふのです。
九節は燔祭の例、十四節は素祭の例、二十五節は罪祭の例、七・一は愆祭の例、七・十一は酬恩祭の例。是等の文字に標を御附けなさるならば、一層明らかになります。此例は祭司の爲に記されました。祭司は此例に從ひて、正しく此犧牲を献げる事が出來ます。此例に從ひて、自分のために血を献げる事が出來ます。又他の人を助ける事が出來ます。祭司の務は他人を助けて、正しく犧牲を献げさせる事です。即ち他人を助けて神に近づかせる事です。此新約時代の祭司は私共であります。私共も救はれましたから、神に近づく事が出來ます。又他人に神の救の道を示す事が出來る者です。救はれましたならば、神と人との間に立つべき祭司であります。罪人を導く事、即ち罪人を助けて神に犧牲を献げさせる事は、私共の義務です。私共は此例に從ひて、其働を實行する事が出來ます。罪人を導く事は只其人を敎ふる事のみではありません。其人は神にキリストと云ふ犧牲を献げねばなりません。罪人はそれに由りて救はれます。祭司の務は其人を助けて、其犧牲を献げさせる事です。
『旦まで終夜あらしむべし』。故にイスラエル人が眠って居る時にでも、神の壇の上に燃えて居りました。其爲めに斷えず犧牲が燒かれました。眠って居る者の爲めにも、斷えず神前に馨しき香の犧牲が献げられました。斷えず神の前にキリストの犧牲の馨しき香が昇りて居りました。其爲めに神は私共を惠み、私共と偕に居り給ひます。眠れる人のためにも、終夜此壇の上に燔祭が燒かれて神の前に昇りました。此樣に神を忘れて居る者、神に對して眠って居る者の爲めにも、斷えず主の犧牲の馨しき香が昇って居ります。其爲めに神は斷えずイスラエル人と共に行き給ふ事が出來ました。此燔祭の壇から、斷えず其煙が上りました爲めに、贖罪處の上に神の雲の柱が止まる事が出來ました。此贖がありませんならば、神は汚れたるイスラエル人の中に續いて住み給ふ事は出來ません。けれども流されたる羊の血の爲めに、斷えず滿足して住み給ふ事が出來ました。只今神は何の爲めに、敎會の中に宿り給ひますか。何の爲めに私共の心の中に宿り給ひますか。私共の熱心の爲めですか。潔き爲めですか。信仰のある爲めですか。否さうではありません。只流されたる血の功績の爲めにのみ、私共の中に宿り給ひます。又私共と共に步み給ひます。
十、十一節の祭司の衣に就て御覽なさい。祭司は其通りに祭司に適ふ衣を着ねばなりません。即ち他の人を助けて神に近づく者は、格別に聖なる職に適ふ衣を着ねばなりません。他の罪人を神に導き度御座りまするならば、格別に其の爲めに聖衣を着、神を敬ふ衣服を着、此世と其慾を離れて生涯を送らねばなりません。
『その灰を營の外に携へいだし』。灰は燔祭が全く燒き盡されたる事の證據です。燔祭を献げたるイスラエル人の爲めに何が遺りてありまするかならば、只灰のみです。誇るべき所は毫もありません。未だ燔祭を献げない中は、誇るべき點がありましたかも知れません。全き牛であり羊でありました。然れども燔祭を献げてから後に人間の眼の前に毫も誇るべき點が御座りません。私共は神に燔祭を献げまするならば、凡ての物を損と思ふ事が出來ます。只灰のみ遺って居ります。此光によりて自分の有樣を判斷する事が出來ます。誇るべき事が尚遺って居りまするならば、未だ燔祭となりませぬ證據です。之を全く献げまするならば、保羅の樣に腓三・七の如く、凡を損と思ふ事が出來ます。結三十六・三十一『自ら恨む』。是れは同じ意味です。眞に燔祭を献げるならば必ず自ら恨む心が起ります。自分の行爲、所有、世に屬ける名譽等は灰となります。即ち其人の思を以て見ると、是れは灰に等しき者となります。伯四十二・五、六を御覽なさい。其通りにヨブは自分を灰なりと思ひました。既に燔祭が出來ましたから、灰となってしまひました。創十八・二十七を御覽なさい。心の中に本當に之を思ふ者は、只燔祭を献げた者のみです。既に萬の物が灰となってしまひました。
『灰を營の外へ携へいだし』。即ち過去の燔祭の表號をお棄てなさい。度々繰り返して古い經驗を引き出す事は聖き事ではありません。既に燔祭が出來ましたならば、其灰をお棄てなさい。腓三・十三、『後に在ものを忘れ』。是れは灰を棄てると同じ事です。又神の前に罪を捨てましたならば、其表號と又之に關係ある事を皆お棄てなさい。皆灰と思うて棄てねばなりません。
私共の心の中に、其通りに斷えず献身の火が昇る筈です。燔祭から昇り行く火が、斷えず燃えて居りまするならば、神の火(これは神が臨在し給ふ證です)が斷えず其處に止まることが出來ます。イスラエル人の陣營の四方から毎夜二の火を見る事が出來ます。一は燔祭の壇より昇り行く火です。一は神の火の柱です。其通りに私共の心の中に、此二の火が斷えずある筈です。即ち献身の火、熱心の火又聖靈の火であります。
他に熄えざる火があります。可九・四十三、四十五、四十六、四十八にその火のことが記してあります。
人間の心には必ず熄えざる火があります。或る人の心の中には献身の火、聖靈の火が昇って居ります。如斯な人は天國に入りてセラピムのやうなものになります。セラピムとは燃ゆるものとの意味であります。或る人の心の中には慾の火、罪の火が燃えて居ります。未來に於ては、全く自分の慾の火の爲めに燒かれて、熄えざる火に投げ入れられます。又神は聖靈の水を以て、慾の火を熄し給ふ事が出來ます。然ですから全くそれを熄されて、聖なる火を受けて、斷えず心中に燃ゆる生涯を送りなさい。假令其罪の火の爲めに、燃柴となりて居る者でありましても、神は活ける枝とならしめ給ひます(亞三・二、八)。又利六・十三をご覧なさい。『つねに……たえず』。一年間にイスラエル人の爲めに罪祭は只一度のみ献げられました。十六にも其話があります。此大なる罪祭の爲めに一年中の罪が除かれました。然れども燔祭は一年中斷えず壇の上に置かれました。私共は一度罪を赦されねばなりません。然れども後には斷えず斷えず、神の前に燔祭的生涯を送らねばなりません。十字架を負ひ、己を棄てゝ、主に從はねばなりません。
『火はたえず燃しむべし』。初めに此火は天より降りました。それから後は斷えず壇の上に注意して、熄えぬ樣に守られました(利九・二十四)。是れは燔祭の壇の上に初めに降りました時でした。それから後にイスラエル人は誰でも燔祭を献げ度御座りまするならば、其天より降りました火の中に、燔祭を燒き盡す事が出來ました。聖靈は一度ペンテコステの日に天より降り給ひました。「今降り給へ」と祈りまする事は、嚴密に申すならば正しき祈り方ではありません。聖靈は既に降りて今敎會の中に住み給ひます。私共は其の火の中に、己を投げ込みて、燔祭となる事が出來ます。又燔祭的生涯を送る事が出來ます。私共は斷えず神の前に燃ゆる者となり度御座りまするならば、斷えず此壇の上に
『祭司は朝ごとに薪柴たきゞをその上に燃もやし』。其その爲ために其その火が斷えず燃えました。斷えず火を保ち度たう御座りまするならば、朝毎あさごとに神の言ことばを薪たきゞとして、火の上に置かねばなりません。毎朝聖書によって主の恩めぐみを得て、そんな薪たきゞを以もって此この火を燃えしめねばなりません。之これを怠りまするならば必ず火は熄きえます。神が何程なにほど聖靈の火を降くだし給ひましても、毎朝の薪たきゞを怠りまするならば、必ず聖霊を熄けす者となります。
『たえず燃もえしむべし、熄きえしむべからず』。撤前テサロニケぜん五・十九、『靈みたまを熄けすこと勿なかれ』。已すでに心の中うちに聖靈の火がありますならば之これを熄けす勿なかれ。怠おこたりに由よりて之これを熄けす勿なかれ。罪に由よりて熄けす勿なかれ。不信仰に由よりて熄けす勿なかれ。不斷たえず心の中うちに火を燃えしむる爲ために、此この事を能よく心に御留とめなさい。今より祈禱いのりを以もって此この節を深く御味わいなさい。聖きよき生涯を送る爲ために、心の中うちに深く此この面白い雛形を御味わいなさい。
利レビ六・八より七・三十八迄までは犧牲いけにへの例のりです。又格別に其その犧牲いけにへを食くらふ事に就ついて記してあります。犧牲いけにへを用ふる方法に二ふたつあります。一ひとつは之これを献げることです。一ひとつは之これを食くらふことです。主イエスを信じて自分の贖あがなひとする事にも、二ふたつの方法があります。第一は主イエスの贖あがなひを信じて、神に全き犧牲いけにへを献げる事です。故ゆゑに神と和やはらぐ事を得ます。神と親密なる關係を結びます。第二は其その犧牲いけにへを食しょくする事に由よりて、其その關係を保ちます。即すなはち主イエスを私共の心に受納うけいれ、其その肉を食くらひ其その血を飮む事に由よりて、其その信仰及び神との交際まじはりを强くする事です。イスラエル人びとは犧牲いけにへの肉を食くらふ時に、其その犧牲いけにへを記憶すると共に、之これによりて體からだの養やしなひ、即すなはち滿足を得ました。其その通りに主イエスを受納うけいれる事に由よりて、主の贖あがなひと自分の罪人つみびとたる有樣ありさまを紀念します。今一度いまいちど救すくひを得たる事を感謝します。又之これに由よりて心の養やしなひを得、主イエスによって滿足を得ます。
さうですから十五節に、神は之これを食くらひ給ひます。また十六節に祭司も之これを食くらふ事が出來ます。十八節に於おいて是これは祭司の子供に與へられました。これは神の善き賜たまものでした。故ゆゑに感謝して受くべきものです。或る熱心なる祭司は、却かへって之これを火祭かさいとして、全く神に献げる方が善いと思うたかも知れません。然けれども是これは却かへって神の律法おきてに叛そむき神の恩めぐみを辭ことはる事です。神は恩めぐみを以もって私共に種々いろいろなる賜たまものを與へ給ひました。家庭の中うちの種々いろいろなる慰なぐさめ、又他ほかの樂たのしみをも與へ給ひました。私共は感謝して之これを受けねばなりません。提前テモテぜん四・四、五を御覽なさい。御承知の通り昔熱心なる者は全く之これを誤解して居をります。神に事つかへんとする者は世を離れ山に入り、或あるひは人の愛を離れて、又全く美味の食物を棄つる決心をせねばならぬと思ひました。然けれども此樣このやうな物は神の恩めぐみの賜たまものとして受けねばなりませぬ。全く之これを火祭かさいとし、之これを離れねばならぬ譯わけは御座りません。却かえって之これを受納うけいれて、感謝の種たねとして益々ますます燃ゆる愛を以もって神に從はねばなりません。
此この十五節において『馨かうばしき香にほひとなし』。故ゆゑに之これを献げる者も其その香にほひをかぐ事が出來ました。此この馨かうばしき香にほひは神が犧牲いけにへを嘉納うけいれ給ふたる外部うはべの表號しるしです。献げたる者は之これをかぐ時に既に嘉納うけいれられたと感じて慰なぐさめを得うる筈はずでした。私共も其その通りに主イエスを信ずるならば、神に嘉納うけいれられたる者であると感じて慰なぐさめを得うべき筈はずです。神は私共を慰める事を好み給ひます。私共が恐怖おそれと心配に充みたされて居をる事を好み給ひません。主イエスの犧牲いけにへは御自身の前に馨かうばしき香にほひの献物さゝげものである事を示して、私共の嘉納うけいれられたる者である事を悟らしめ給ひ度たう御座ります。
私共も之これを食くらふ事が出來ます。即すなはち全くキリスト御自身を心の中うちに受納うけいれる事です。キリストを私共の心の養やしなひとする事であります。是これは啻たゞにキリストの行おこなひとキリストの心とを紀念おぼえるだけではありません。本當に之これを受納うけいれて、自分の屬ものとする事です。私共は度々たびたびキリストの事を考へます。主の美うるはしき性質を思ふ事があります。けれども只たゞ考へるだけでは、自分の屬ものとはなりません。本當の信仰は、それを自分の一部分とする事です。それを食くらふ事を意味します。例へばキリストの柔和を受納うけいれて自分の柔和とする事、キリストの己おのれを棄て給ひし事を受納うけいれて自分の献身とする事、キリストの謙遜を受納うけいれて自分の謙遜とする事、キリストの愛と熱心を受納うけいれて自分も愛と熱心の充ちたる者となる事、是これは食くらふ事です。
『我これを彼等にあたへて』。其その人々を養ふ爲ために之これを恩惠めぐみの賜たまものとして與へ給ひました。其その通りに神はキリスト御自身を私共に與へ給ひました。啻たゞに贖あがなひの爲ためのみではありません。又養やしなひの爲ために肉と血を與へ給ひます。踰越節すぎこしのいはひの時にも同樣なる惠めぐみを與へ給ひました。血を柱に塗り其後そのゝちに肉を食くらひました。長い旅行たびを始めますから、羔こひつじの肉によりて養やしなひを得ました。是これは同じ事を譬たとへた者です。其その通り毎日キリストを食くらひつゝ、此この世の旅路を御渡りなさい。
『至聖いときよし』。其その通りに私共は聖きよき者となりて、聖きよき生涯を送る事が出來ます。素祭そさいは至聖いときよき者です。キリストを受納うけいれまするならば、至聖者いときよきものとなります。然けれども誰たれが之これを食くらふ事が出來ますか。祭司の子供こども格別に祭司等たちが之これを食くらひました。任職の膏あぶらを注がれたる者、即すなはち聖きよき膏あぶらを注がれて祭司となりました者が、格別にキリストを食くらふ事が出來ます。何處どこで食くらひましたか。十六節『之これを聖所きよきところに食くらふべし』。即すなはち神の前に食くらひました。私共は只たゞ神の前にキリストに居をりまするならば、キリストを食くらふ事が出來ます。是これは聖きよき食物しょくもつですから、神の聖手みてより之これを頂きます。
『酵たねいれて燒やくべからず』。さうですから餘あまり美味ではありません。酵たね入れて燒きまするならばパンの味あぢはひは餘程よほど美よくなります。肉の考かんがへを以もってすれば、キリスト御自身を食くらふ事は餘あまり無味むみなる事です。幾分か己おのれに屬つける麪酵ぱんだね、幾分か此この世に屬つける麪酵ぱんだねを加へて食くはねば無味むみであると思ひます。然けれども靈に屬つける人は、キリストを神のパンと思うて蜜よりも甘しと感じます。
皆これを食くらひました。此樣このやうな食物しょくもつによりて其その體からだを養うて、祭司の職の爲ために力を得ました。又之これによりて聖きよくなりました。私共はキリストを食くらふことに由よりて、祭司の職を斷えず勤むることが出來ます。又神の前に斷えず聖きよき者です。私共は時に由よりて、仲保とりなしの祈禱いのりをする事が出來ません。或あるひは神に近づきて、神の言ことばを頂き度たき心がありません。即すなはち祭司の職を爲なす事が出來ません。是これは何の爲ためでありますか。祭司の受ける養やしなひを受けませんからです。祭司はキリストの素祭そさいを食くらふならば、其その爲ために力を得て、斷えず祭司として其その職をなす事が出來ます。
是これは只たゞ祭司長さいしのをさが職に就く時に、任職の膏あぶらを注がれたる時にのみ、献げる素祭そさいでありました。又此この素祭そさいは全く神の前に献げて、神の前に燒かれました。是これは神のみの者でした。人々之これを食くらふ事を許されません。是これは皆私共の祭司の長をさたるキリストを指します。キリストは神の前に祭司となりて神の全き喜よろこびとなり給ひました。私共は此樣このやうな者を食くらふ事が出來ません。即すなはち之これを自分のものとする事が出來ません。神は祭司長さいしのをさの素祭そさいを受納うけいれて之これを御自身のものとして喜び給ひました如やうに、主イエスの祭司長さいしのをさたる事を喜びてそれを滿足し給ひます。是これは實じつに私共の慰なぐさめ、又私共の安心の基どだいです。神が私共の仲保者とりなしてを受納うけいれ之これを喜び給ひますならば、必ず私共をも受納うけいれて喜び給ひます。さうですから私共はキリストの贖あがなひの爲ために受納うけいれられたる者となります。私共の祈禱いのりもキリストの祈禱いのりと共に受納うけいれられます(默もくし八・三)。然さうですから聖徒の祈禱いのりは全き香にほひと共に受納うけいれられます。神はキリストの素祭そさいを受納うけいれて喜び給ふゆゑに、私共を喜び私共の祈禱いのりを受納うけいれ給ひます。是これは只たゞ敎理のみではありません。又心の養やしなひ、心の經驗となすべき者です。今早速之これを悟る事が出來ぬかも知れません。けれども祈いのりを以もって神に求むる事により悟さとりを得うる事が出來ます。何卒どうぞ只たゞ聖書の意味を知る事を以もって滿足せず、神の前に靜かに其その意味を味あぢはいて、キリスト御自身を御食おあがりなさい。
二十五節と二十九節の終わりに『是これは至聖物いときよきものなり』『是これは至聖いときよし』とあります。神の前に主イエスの贖あがなひは至聖いときよき者です。主イエスは天の位に坐ざし榮光を有もち給ひし時にも至聖いときよき者でした。然けれども神の前に十字架にかゝりて血を流し給ひし時にも、主イエスは至聖いときよき者です。神は其その聖顏みかほを蔽おほひ給はねばなりません。然けれども心の中うちには、其その時にも御子みこは至聖いときよき者と思ひ給ひました。さうですから私共も其その血を貴たふとき者と思はねばなりません。彼前ペテロぜん一・十八、十九、『寳血たふときち』。何卒どうぞ深く其その貴たふとさを御考へなさい。神の前に貴たふとき血ですから、之これを踏み付ける事は如何いかに恐るべき罪ですか(來ヘブル十・二十九)。其その罪の甚はなはだしきを感じて惡を御離れなさい。
此樣このやうに貴たふとき者でした。この貴たふとき者の爲ために、土瓦つちかはらの器皿うつはを用ひますならば、其その器皿うつはは他ほかの者の爲ために用ひてはなりません。若もし貴たふとき血を盛りたる器皿うつはが貴たふとくして、他ほかの者の爲ために用ひてなりませんならば、况まして其その血を注がれる者の貴たふとさは如何程いかほどでありませうか。彼前ペテロぜん一・二。主イエスの血に注がれたる者は必ず貴たふとき者です。神の前に必ず聖きよき者です。私共も其樣そのやうに神の前に貴たふとき器うつはです。さうですから此この體からだ或あるひは此この靈れいを神の爲ためにせず、他ほかの世の事の爲ために用ひまするならば、神の前に大おほいなる罪です。血に注がれたる者は其その爲ために、只たゞ神のみの者である筈はずです。神のみに献げられねばなりません。其その血を受けましたならば、其その時から碎かれたる心を以もって、神の御用に立てねばなりません。哥後コリントご四・七。さうですから此この器うつはを他ほかの事の爲ために用ひてはなりません。
祭司は之これを食くらひます。私共は神に撰ばれたる祭司でありますから、主イエスの贖あがなひを食くらふべき者です。自分の爲ために又他人の爲ために、之これを食くらひます。自分の爲ために食くらひまするならば、自らの罪を感じます。又主の大おほいなる贖あがなひによりて安心と平和やはらぎとを得ます。恐怖おそれと疑惑うたがひとを全く棄てゝ、主イエスの贖あがなひを以もって滿足を得て、神と和やはらぐ事が出來ます。然けれども祭司は大槪たいがい自分の爲ためにせずして、他人の爲ために之これを食くらひました。羅ロマ九・二は他人の爲ためにキリストの罪祭ざいさいを食くらふ事を指します。パウロは罪祭ざいさいを食くらひました。イスラエル人びとの爲ために罪の重荷を負ひました。哥後コリントご二・四、是これも同じ事です。又加ガラテヤ四・十九、六・一、二。私共も其その通りに兄弟の爲ために罪祭ざいさいを食くらはねばなりません。兄弟の罪を負ひて謙遜を以もって、兄弟をキリストに導かねばなりません。但ダニエル九・三を御覽なさい。その時にダニエルは國民の罪を感じました。同時に神の恩惠めぐみと其その約束を感じました。又其その通りに祈りました。是これは實じつに罪祭ざいさいを食くらふ事です。然けれども其その罪を負ふと同時に、深く神の恩惠めぐみを感じました。
是これは只たゞ神のみに献げました。さうですから皆燒きました。キリストの贖あがなひの一部には、私共は少しも關係することが出來ません。之これを受け之これを悟ることが出來ません。西コロサイ一・二十。私共は主が地の上の者を和やはらがしめ給ふことは分わかります。然けれども天に在ある者を御自分に和やはらがしめ給ふ事は分わかりません。何故なにゆゑ天にある者の爲ために贖あがなひが要いりますか。或あるひは惡魔と其その使者つかひの爲ためでありましたかも知れません。兎とに角かく贖あがなひの必要がありました。來ヘブル九・二十三は此この三十節を指します。私共は此樣このやうな罪祭ざいさいを食くらふ事が出來ません。之これを悟ることが出來ません。是これは只たゞ神の前に神の爲ために全く燒かれました。
| 序 | 緒 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
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