二節から心付かない罪の爲めに献げる罪祭を見ます。私共は此世を步む間に、度々知らずして聖なる神の前に罪を犯します。又私共は生來罪の爲めに分別心が鈍れて居りまするから、明に善悪を辨へる事が出來ません。夫ですから私共は神の前に、自ら己を卑くして、神の光を求めなければなりません。斷えず聖書の光に照らされて、生涯を送らねばなりません。私共は其爲めに聖書の中で歷史の部分を、祈禱を以て讀む事が最も大切であると思ひます。多くの人が不注意に、之を讀み流しにいたしまする事は、大なる損であると思ひます。又他の人を扱ふ時にも、罪の爲めに悟りが鈍くせられて居る事を心に留めて、最も柔和にしなければなりません。私共のいふ事が義しくありましても、强く責めまするならば、悟りに鈍い爲めに却て神を離れて堕落することが度々です。注意しなければなりません。又私共が罪と感じない愆が澤山あります。度々神の前に潔く步み度いと熱心に求むる人が罪を犯す事があります。此樣な罪の爲めにも、贖を信ぜねばなりません。それが爲めに主の血潮に依賴み、其功績に祈り訴へねばなりません。イスラエル人が知らずして罪を犯しまするならば、其爲めに犧牲を献げねばなりませんでした樣に、私共も知らざる罪、感じない罪であるといひて、等閑にして置いてはなりません。斷えず主の寳血の功績に依賴みて、神の前に步まねばなりません。
其罪が解りまするならば、必ず之を認さねばなりません。さうしまするならば神に栄を歸します。詩五十一・四、書七・十九を御覽なさい。又其罪の爲めに血を流して犧牲を献げねばなりません。
貧乏人の献げる罪祭があります。貧乏人ならば羊の代りに、鴿二羽を持って來る事が出來ます。其一は神の爲めでした。今一は祭司の爲めでした。祭司が其一を受け納れる事によりて、神が其罪祭を受け納れ給ひました事を示します。さうですから其人は安心して歸る事が出來ました。
鴿をも献げる事の出來ません人の爲めに、神が罪祭の道を備へ給ひました。若し其人が鴿を持ち來る事が出來ませんならば、麥粉を以て神に罪祭を献げる事が出來ます。これは眞に貧乏人に福音を傳ふる事です。神は貧しき者に同情を表して之を慰め受け納れ給ひ度御座ります。さうですから此樣な僅かな者を以てゞも贖を受けられます。其量は一エパの十分の一でした。出十六・三十六を見まするに、是れは丁度一日一人前の常食でした。此人は多分日々の食事の外に、献ぐべき物がありませんから、神は之をも受け納れ給ひます。又此人は自分の罪を贖ふ爲めに、一日斷食して其食を神に献げます。それによりて此人は深く罪の恐ろしきことを感じました。此麥粉の罪祭の上に膏を注ぎません。乳香をもつけません。何故なれば此罪祭は罪の爲めです。只神に馨香の献物をする時には之をつけます。然れども罪祭は怒を轉ずる爲めですから、飾を附けずして其儘に献げます。
其粉の一握は全く壇の上に、ヱホバに燒かれました。神の怒の火の中に全く燒かれてしまいました。之によりて罪人の受くべき報が分ります。又十三節の終りに祭司が其殘餘を食べます。それによりて神が其罪祭を受け納れ給ひましたことを示します。
今一度『然せば彼は赦されん』と言ふ言があります。神は罪人を御自分に引く爲めに、献物をすれば早速罪の赦を與ふる約束をなし給ひます。罪人は神の聖旨に從ひて犧牲を献げるならば、恐を棄てゝ大膽に自分は神に受け納れられたといふ事が出來ます。
愆 祭
五章十四節より愆祭の事であります。愆祭は格別なる罪(原語では犯す罪一々を指す語です)の爲めです。賽五十三・五を見まするに、愆と不義の爲めに贖があると記してあります。不義の爲めの贖はキリストの罪祭です。愆の爲めの贖はキリストの愆祭です。
『ヱホバ言たまはく』。默示錄の二章と三章に於て、同じ神が今一度語り給ふて、其時の信者の心を探り、其眞の有樣を示し給ひます(默二・二、九、十三、十九。三・一、八、十五)。此處に知ると七度記してあります。是は實に嚴肅なる語です。悉く私共の心の有樣を知り、言と行を全く知り給ふ神の聖聲として、其誡を受ける事は嚴肅なる事です。神は其時代の信者の心を探り給ひました如に、今私共の心をも探り給ふ事を願ひます。神が私共を探り給ひまするのは、私共を叱る爲めではありません。私共の心を癒す爲めであります。私共を今一度御自分に近づかせ給ふ爲めです。十四節にヱホバ、モーセに告げて言い給ひましたのは其の爲めです。卽ちイスラエルを導く爲めです。過失を責むる爲めではありません。罪を贖ふ道、和平の道を示す爲めでした。私共は度々神の探り給ふ事を知りません。又眞實に注意いたしません。何故ですか、これは罪を捨てる事を惜むからです。然れども神が探り給ふならば、常に私共に尚々美はしき恩惠を與へ給ふ爲であります。さうですから常に神の圓滿なる光を受けねばなりません。
此十五〜十九を見ますれば、神に対して行われる事が記してあります。六・一〜七を見ますれば人間に對して行はれたる罪の事です。十五節を御覽なさい。眞實に身も靈も神に献げませんならば、神に騙をいふ事になります。自分の爲めに働いて、榮を神に歸しませんならば、神を騙る事に當ります。十五節は實に私共の心を刺します。知らずして此樣な罪を犯しましても、其罪は神の聖前に罪です。贖がないならば、其罪の刑罰を受けねばなりません。
けれども此節によりまして、又神の恩惠をも知る事が出來ます。神が『人若し過失をなし知らずして罪を獲る事あらば』といひ給ひまするならば、夫に應ふ刑罰を與へ給はねばなりませんと思ひませう。然れどもさうではありません。若し過失があるならば、神は過失を贖ふ道を示して、兎にも角にも今一度御自分の足下に導き給ひ度御座ります。
さうですから、常に神の聖旨を探り求めて、眞心を以て之を行はねばなりません。罪の爲めに私共の心が暗くなりました。さうですから良心に敎へられましても、十分に神の聖旨を知る事が出來ませずして罪を犯します。此樣な罪を逃るゝ爲めに、不斷聖書を讀み、其意味を味はねばなりません。詩十九・十二を御覽なさい。私共は聖書の光の中に、眞に己を探りて善惡を辨へる事が出來ます。詩九十・八を御覽なさい。『隱れたる罪』、さうですから私共は其罪を知りませんでも、神は之を知り給うて其爲めに心を痛め給ひます。度々神は他の兄弟を以て、私共に此樣な罪を諭し給ひます(來三・十三)。常に柔和を以て斯る勸めを受けなさい。心の中に高慢がありまするならば、勸めを受け納れません。或は種々なる申譯をします。さうですから神の光を得ませずして、續いて知らず識らず罪を犯します。眞の謙遜がありますならば、喜んで斯る忠告を受けます。格別に傳道師が他の傳道師の忠告を喜んで受けます。又其忠告に從ひて其行を改めます。此樣な謙遜によりて、眞に罪を恐れる心、又神の聖旨を行ひ度心が顯はれます。愆祭の時に常に牡羊を屠ります。アブラハムは創二十二・十三に、此樣に犧牲を献げました。此疵なき牡羊はキリストを指します。私共の凡ての愆を贖ふ價あるキリストを御覽なさい。其贖の爲めに賤しき私共も、神の前に價ある者となります。其疵なき有樣の爲めに、疵ある私共は全き者とせられます(賽五十三・五)。此牡羊の通りに、キリストは私共の爲めに傷けられ給ひました。私共の爲めに死に給ひました。それを献げるイスラエル人は其苦と傷を見る時に、自分の罪の恐ろしき事を知りました。私共はそのやうに、キリストの苦と傷を見て、私共の罪の深き事を感ずる筈です。此牡羊は實に價貴き者でありました。『聖所のシケルに從ひて』(十五)。之によりても之を献げる人が罪を悟る事が出來ました。罪を犯す度毎に、價貴き牡羊を献げねばなりませんから、罪の損失の大なる事が解ります。今は此樣に献物をして、神の恩寵を求むる事を致しません。然れども罪を犯す毎に、五圓或は拾圓を出さねばならぬならば、眞面目なる人は之に依りて罪の損失を感じます。况して其罪の爲めに、神の子の寳血が流されましたならば、罪の爲めに來る損害の、大にして恐るべき事を感ずる筈です。けれどもキリストの寳血を見ましても、罪の恐るべき事を感じません人が多くあります。これは誠に悲しむべき事です。
主イエスは度々此比喩を用ひ給ひました。太十八・二十四に千萬金の負債したる者の話があります。此大なる負債は罪人の罪を指す事です。私共は其通りに神の前に多くの罪を犯しました。太五・廿六を御覽なさい。さうですから神は公平を以て其罪の贖、或は其罪の刑罰を要求し給ひます。路七・四十一を御覽なさい。今神は其通りに罪人を憐み、罪の大なる借金を赦し給ひます。然れども罪は必ず損を招きます。或は罪人の損失です。そうでないならば神の損失です。神が罪人の負債を拂ひ給ひますならば、贖をなし給ひますならば、必ず御自分に損失を受け給はねばなりません。それを考へまして、深く神の恩寵を感謝せねばなりません。神は何もなくして徒に罪を赦し給ふ事が出來ません。必ず自ら損失をして之を償ひ給ひます。詩四十九・七をご覧なさい。『誰一人己が兄弟を贖ふ事能はず』。必ず自分の力で、或は他の人々の力で、神に對して罪の負債を拂ふ事は出來ません。伯三十三・二十四を御覽なさい。其通りに神は御自分より、罪の損失に對して贖代を出し給ひます。提前二・六、彼前一・十八。其通りにイスラエル人は牡の羊を屠りまして、其血を流して罪の償をする事が出來ました。キリストは全く罪の惡き結果を癒し給ひます。キリストの贖によりて、神に榮光が歸せられ、罪人に義が歸せられました。何卒あなたの牡羊たる神の聖子を御覽なさい。又其牡羊の故に私共に與へられたる全き救を御覽なさい。其爲めに罪人も今一度憚らずして、神の前に立つ事が出來ます。其爲めに罪の耻、又罪の亡が全く取り除かれました。オーそれに在る者と共に私共の罪祭たるキリスト又其血を賞讃へよ。
十四〜十六節に『五分の一を加へて』とあります。六・五にも同じ事があります。必ず犯したる罪の爲めに、私共は益を得ません。惡魔は私共を欺きて、罪を犯すならば其爲めに利益を得る樣に思はせます。大槪人は之を信じます。然れども罪の爲めに益する所は少しもありません。神に騙を申しました。利益を得る事は出來ません。五分の一を加へる事は、罪の損失を示します。神をかたりまするならば、全く亡ぼさるべき者であります。然れども神は此通りに私共の罪の赦の途を備へ給ひました。
此五分の一を加へる事によりて、何を敎へられますか。之によりて、凡ての物が神の有たる事を表します。創四十七・二十四、二十五を御覽なさい。此エジプト人は五分の一を王に献げる事を惜みません。何故なれば王は其生命を救ひ給ひました。飢饉の爲めに苦んで居りました。饑死せんとして居りました。然れども王は其生命を助けましたから、エジプト人は喜んで、其所有の五分の一を王に献げました。そは總て王の有たるべき筈でした。けれども只其五分の一を求めました。其通りに五分の一を加へて神に献げます。罪を犯しますならば、凡てを神に献げねばなりません。然れども其表號として神は只五分の一を求めて、其罪を救ひ給ひます。罪人は罪の損失を償はねばなりません。又之に五分の一を加へねばなりません。神は罪の爲めに損を受け給ひますか。罪の爲めに神の大なる御工は毀たれ榮光は汚されました。然れども神の御働は損ぜられません。罪の爲めには凡ての望がなくなりましたと思はれます。けれども神は却て十字架に由て大なる勝利を得給ひました。人の罪を犯しません前よりも大なる榮光を受け給ひます。これに由て神の全能を知る事が出來ます。
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