第十五章  流出の譬



 十三章十四章おいて、癩病によりて罪の事を敎へられました。自分の身の上に罪の結果とその恐るべき事を敎へられました。この十五章おいて神はほかたとへよりて、罪の恐るべきことを敎へ給ひます。これは流出のたとへであります。

 私共わたくしどもは性質のけがれたる者ですから、斯樣このやうな事について語る事は出來ません。しかし聖靈のみちびきを得て、しづかにこれを考ふる事は大切です。

 癩病にり格別に自分の身をけがし、又他人をけがす事を學びました。自分をけがすことよりも、他人をけがすことは恐るべき事です。本章を見ますれば、格別に近傍に住む者、同居する者、あるひは交際する者をけがします。これを考へまするならば、罪はじつに恐るべき者です。罪はたゞに自分をけがすのみではありません。その四周まはりにある愛する人々をけがします。

 この流出は何をたとへますかならば、心のうちに靜かに隱れたる所のけがれの流出を指します。人間の目に隱れたる者であります。けれども隱れたるところおいて人をけがします。私共は心のひそかなるところに隱してあると思ひましても、これあきらかほかの人をけがします。心のうちに隱れたる罪がありますれば、けがれの流出をとゞめる事は出來ません。マタイ十五・十九、二十の上半じゃうはんを御覽なさい。これはレビ十五章たとへの意味です。すなは是等これらの事によりて、自分の心をけがし、又四周まはりにある人々をもけがします。

 心のきよき者はかえっ恩惠めぐみの源となります。ヨハネ七・三十八を御覽なさい。心のけがれたる者はその心よりけがれの流れが出ます。ほかの人をけがす川が流れ出ます。心のきよき者はほかの人を惠むめぐみの川が流れ出ます。このふたつの事をく考へたう御座ります。自分はいづれにいてりますか。パリサイびとの如く隱してりましても無益です。しゅ聖血ちしほよりすべての罪を洗はれ、きよき者となりてめぐみの川の源となる事をねがひます。

 私共は不斷たえず自分の心を守らねばなりません。私共の四周まはりけがれたる者が多くありますから、罪の傳染を受け易くあります。さうですから不斷たえず自己おのれを守らねばなりません。しへん百十九・一もくし三・四を御覽なさい。けがれのうちけがれたる人のうちに步みました。けれども自分おのれを守り、きよき者として神の前に生涯をくらしました。私共はけがれの傳染と世にける者のけがれを受け易う御座りますから、愼んで自己おのれを守り生涯を送らねばなりません。この章を読むさへも聞苦きゝぐるしくあります。けれどもこれはただ罪のたとへであります。私共は此樣このやうな事を讀むさへもいやです。これによりて罪の如何いか忌々いまいましきかを知ります。

 六節の事は、私共が罪の話をして、心のうちこれを考へまするならば、罪人つみびとの座にすわるやうなものです。七節を見ますれば、その病人を助けるためきたる醫者でもけがれるかも知れません。私共は他人を救ふために、ほかの者をきよきに導くために、罪人つみびとところへ參る時に氣を付けねばなりません。かゝるときに格別に惡に導かれ易い者ですから、決して肉の愛をさずして、聖靈によりて事をなさねばなりません。八節を見ますれば、一寸ちょっとした事によりて罪を受くる事が出來ます。すなは不圖ふとした事を聞き、不圖ふとしたことを見ても罪の傳染を受けます。ゆゑ不斷ふだん自己おのれを守りて、生涯を送らねばなりません。十一節の意味は罪人つみびと假令たとへ親切をしても人をけがします。オーじつに罪は恐るべき者であります。これを考へまするならば、私共は自分じぶんの心のうちに、すこしでも罪が殘ってまするならば、たゞちに神の前に出て、全き聖潔きよめを受けなければなりません。神は全くきよめ給ひます。すできよめられたる者は不斷たえずみたまあらひを受けて、聖潔きよめを保たねばなりません。ヨハネ十三・十を御覽なさい。きよめられたる者でも、の世のなかを旅するうちに、足が少しくけがれてるかも知れません。さうですから度々たびたび主より足の洗ひを頂戴せねばなりません。私共は世のけがれにる者ですから、不斷たえず守られねばなりません(哥後コリントご六・十七)。

 『水に身をそゝぐべし』といふことば度々たびたびあります(十一十三十八二十一二十二二十七)。これはじつさいはひです。けがれたる世のなかにも、不斷たえず聖潔きよめの水が流れて、私共の心をきよきよ生命いのちを與へ給ひます。



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